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メンバー情報

ID8940
名前yasustyle
コメント100名城スタンプ、2017年9月〜2018年9月に達成。
続100名城は、2018年4月〜2019年8月で達成。
おかげで日本全国いろいろな場所に行けました。

城巡りするうちに、どんどんと城好きが加速し、
次はどこのお城に行こうか暇さえあれば考えています。
お城を巡る旅はこれからも続きます。

特にお気に入りのお城は、
100名城では松江城、名護屋城。
続100名城では赤木城、脇本城です。
好きな武将は、築城の名手、藤堂高虎です。
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
彦根城
2017年9月2日
100名城スタンプラリー開始
1城目
徳川譜代の重鎮井伊家の居城。多彩な破風を組み合わせ美しく調和が取れた天守。堀、石垣、櫓、狭間、どれも素晴らしい。天守閣での琵琶湖からの風が心地よい。
萩城
2017年9月9日
2城目
毛利輝元が最後に見せた気骨の城、萩城跡。天守を支えた高石垣、扇の勾配が見事。
二条城
2017年9月18日
3城目
徳川家の栄枯盛衰と日本の歴史の移り変わりを見守ってきた絢爛豪華な京の城、二条城。毎回新しい感動がある。
月山富田城
2017年9月23日
4城目

尼子氏代々の居城。毛利氏も攻めあぐねた巨大な山城に足がぷらぷら。
津山城
2017年9月24日
5城目
期待をはるかに超える素晴らしい石垣、櫓、本丸跡からの眺望。
安土城
2017年10月1日
6城目
近世城郭の先駆けとなった信長の幻の城。信長の歴史を感じられる数少ない遺跡。石段の両側には、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家など、家臣団の屋敷があったとされる。安土城に限って「天守閣」でなく、「天主閣」。城郭の復元絵図を見て歴史の栄枯盛衰に想いを馳せる。
観音寺城
2017年10月1日
7城目
スタンプしか押していなかったので、登城へ。
近江国の城、観音寺城。佐々木六角氏が標高433mの繖山全体に築いた戦国時代最大級規模の山城。織田信長上洛時に六角義賢、義治親子が逃亡し以後廃城。高石垣は安土城の総石垣の先駆的存在。
観音正寺から鬱蒼とした山道に潜入。夏山自然界の危険生物との遭遇にハラハラしながらも、石垣を発見するたびに興奮の雄叫びが上がる。
犬山城
2017年10月3日
8城目
眺望抜群、遥か向こうの山々に、岐阜城、小牧城を一望。軍師が指揮をとりやすい。
姫路城
2017年10月8日
9城目
期待をはるかに超える素晴らしい石垣、櫓、本丸跡からの眺望。秋空の下の姫路城。どの角度から見ても美しい。
和歌山城
2017年11月5日
10城目
紀州を平定した豊臣秀吉が弟秀長に命じて虎伏山に創建した和歌山城。普請奉行は藤堂高虎が勤め、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭。関ヶ原の戦い後、浅野幸長により増築された。
徳川御三家紀州藩はこの城を拠点に西日本を監視する役割を担い、8代吉宗、14代家茂を輩出。
多聞櫓が美しい。
竹田城
2017年11月12日
11城目
朝の7時頃に行ったけど、もう駐車場は一杯、すごい人気。朝もやにけむる山城は美しい。幽玄の世界。
篠山城
2017年11月12日
12城目
徳川家康が豊臣家を抑える拠点として築いた篠山城。縄張は藤堂高虎、総奉行は池田輝政が指揮り1年足らずで完成。滋賀近江の石工集団、穴太衆による石垣が原形をとどめている。
高知城
2017年11月25日
13城目
織田、豊臣、徳川、3代に仕えた唯一の武将、山内一豊が築城した珠玉の名城。一豊は掛川5万石から土佐24万石で入封し築城。御殿を含め本丸一角が完全に残るのは全国で高知城のみ。火災により1747年に再建された天守だが、山内一豊がこだわった漆塗りの高欄、廻縁、擬宝珠は再現され、一豊の意思が今に伝わる。
宇和島城
2017年11月25日
14城目
藤堂高虎が6年かけて築城。高虎創建時の天守は望楼型だったが、1666年に建てられた現存2代目天守は層塔型。唐破風、千鳥破風を用いた戦闘性が無い装飾的な天守。伊達家により明治まで存続。天守も立派だが、慶長期の面影残る石垣もまた見事。
大洲城
2017年11月25日
15城目
木造で建て直された優美な名城。高欄櫓と天守の木の質感比較が愉しい。
湯築城
2017年11月25日
16城目
建物は残っていないが、ほぼ完全に残る縄張。展望台から臨む松山市街が絶品。
松山城
2017年11月26日
17城目
勝山山上にリフトで登ると数々の重要建築物がお出迎え。門、櫓、小天守、大天守とスムーズなルートで天守閣まで行けるのも見事。
今治城
2017年11月26日
18城目
藤堂高虎の築城技術が詰め込まれた最高傑作。うんちくが楽しい。
丸亀城
2017年11月26日
19城目
石垣と紅葉のコラボレーション。天守閣からは瀬戸大橋が見える。
大阪城
2017年12月3日
20城目
内部は8階建て、観光客多いものの階段で支障なく登れる。当然ながら豊臣秀吉推しの展示。
赤穂城
2017年12月10日
21城目
江戸幕府の許可を得て、三角州の先端に築かれた海城。鈍角の折れと短い直線を多用した甲州流軍学の縄張り。広範囲に残る土塁石垣や堀が壮観。ライトアップの時間まで赤穂に滞在。
首里城
2017年12月29日
22城目
琉球王国の栄光を伝える首里城。正殿に初入城。本土の城郭とは異なる中国文化のグスク。
中城城
2017年12月30日
23城目
沖縄の冬空の下の中城城。琉球石灰岩で造られた曲線の石垣と門が美しい。
今帰仁城
2017年12月31日
24城目
北部地域管理の為に1400年代に設置された今帰仁城。薩摩軍の琉球侵攻で城は炎上する。蛇行する強固な石垣は今も歴史を伝え続ける。
小谷城
2018年1月6日
25城目
標高400m近い本丸を目指し、登山道を進むと雨が雪へと変わる。浅井長政とお市の方の悲運の城で歴史を感じる。
明石城
2018年1月14日
26城目
坤櫓と巽櫓、二基の三重櫓を土塀が結ぶ姿が美しい。坤櫓と巽櫓の向きが違うんだ。
伊賀上野城
2018年1月21日
27城目
伊予から入封した藤堂高虎が徳川家康の命を受け大改修した城。
現存天守は、地元の川崎代議士が、私財を投じて純木造の天守を再建したもの。天守閣からは、上野盆地の景色を一望。当時大阪城にいた豊臣秀頼に備えた高石垣は、総高30mで日本有数の高さ。築城名手、藤堂高虎の技術力を目の当たりに。
松本城
2018年3月3日
28城目
天守、櫓が組み合わされた漆黒の城が北アルプスの雪山と青空に映える。どの角度から見ても素晴らしい。かつて徳川家康の懐刀とまで言われた石川数正による改修。
高遠城
2018年3月3日
29城目
武田軍が織田信長軍に攻められ落城した城。春の訪れが少しずつ感じられる城郭は、1ヶ月後には桜が咲き誇る。
岩村城
2018年3月3日
30城目
標高717m 日本一高い地に築かれた城で、日本三大山城の一つ。霧が発生しやすい地形であり、別名は霧ヶ城。総延長1.7kmの石垣に約4万個の石が積み重なる。枝葉が被さる石段を30分程、本丸まで登って行くと、6段に積み上げられた石垣がお出迎え。
岐阜城
2018年3月10日
31城目
金華山にそびえ立つ織田信長天下布武の拠点。ロープウェイ山頂駅側のリス村はかつて弾薬庫があった場所。天守閣からは濃尾平野を一望。発掘調査が進む信長公居館跡には、チャートが褶曲した地層岩壁。梅の花に春の訪れを感じる。
高松城
2018年3月17日
32城目
秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が築城。瀬戸内の海水を三重の掘りに引き込んだ堅固な水城。海に向かって開く大手門(水手御門)は、全国唯一の現存例。天守が復元されると四国最大の規模となる。
徳島城
2018年3月17日
33城目
秀吉から阿波国を与えられた蜂須賀家政が吉野川河口のいの山に築城。石垣に使用されるのは阿波の青石。城主の居住地 御屋敷の表御殿庭園が当時のまま残る。標高62mの本丸跡は広大な曲輪。
郡山城
2018年4月14日
34城目
毛利元就の居城だった西日本最大の戦国山城。山頂の本丸を中心に270以上の曲輪跡が残る。三の丸には立石を交ぜて築かれた安芸地方独特の石垣。
鬼ノ城
2018年4月14日
35城目
誰がいつ何の為に築いたのか謎の古代山城。版築で突き固められた土塁に朝鮮式西門が天険の地に連なる姿は今まで見てきた日本式城とは全く異なり興味深い。
岡山城
2018年4月14日
36城目
宇喜多秀家、小早川秀秋、池田氏が城主となり、拡張整備を続け、現在の城郭に。それぞれの時代の石垣の変遷も見どころ。黒の外観に金の鯱がカッコいい。
備中高松城
2018年4月14日
続1城目
豊臣秀吉、黒田官兵衛の水攻めにあった備中高松城。周りは湿地帯が広がり、水攻めに用いられた築堤跡が一部残る。城主清水宗治が貫いた武士の美学。
岡崎城
2018年4月21日
37城目
神君誕生の城は徳川家の聖地。緩やかな曲線を描く空堀、清海堀がたまらない。天下人家康の遺訓が沁みる。以前訪れた時とは違った発見がある。
名古屋城
2018年4月21日
38城目
家康が大阪城をにらんで築いた巨城。復元された本丸御殿が見事に歴史を語り継ぐ。天守閣も2018年5月連休明けから木造復元工事開始へ。今の天守閣もこれで見納め。
大垣城
2018年4月25日
続2城目
春の嵐が吹き青空が広がる。天守閣より関ヶ原方面を臨む。
関ヶ原の戦い時、石田三成は大垣城より出陣。関ヶ原後には尼崎より戸田氏鉄が入城し、明治まで続く戸田十万石の平和な時代を築きあげた。
大分府内城
2018年4月28日
39城目。福原直高が築城開始、竹中重利が大改修。海と川に面した縄張。野面積みの天守台に登ると爽やかな風が吹き抜ける。
岡城
2018年4月28日
40城目。荒城の月でしか知らなかった岡城址。いざ登ってみると、壮大な総石垣の要塞だった。三の丸北側の高石垣のそそり具合がそそる。二の丸跡に瀧廉太郎像。新緑と青空と石垣、断崖絶壁に構築された山城、見所満載。大手門は元々東向きだったが、藤堂高虎の助言で西向きに変わった。
飫肥城
2018年4月29日
41城目
島津家と伊東家の争奪戦が繰り広げられた城。飫肥石を使った切込接の石垣と、飫肥杉を使って復元された櫓門。旧本丸は苔むし飫肥杉が茂る。
鹿児島城
2018年4月29日
42城目
築城は島津家久、人をもって城と成す、の薩摩思想から天守閣を持たない屋形造り。後方には強固な城山が控える。西南戦争の銃弾跡が生々しく残る。
人吉城
2018年4月30日
43城目
鎌倉から江戸時代まで相良氏が支配。三の丸、二の丸、本丸、武者返しの石垣、球磨川に面する水の手門、早朝雨の中、静かに佇む遺構たち。
熊本城
2018年4月30日
44城目
清正流のそそり立つ高石垣。熊本地震の傷跡が無残に残るも、復旧は進む。
島原城
2018年4月30日
45城目
島原の乱の引き金になった巨城。天守閣に登ると海側山側を一望。一揆、震災、噴火、数々の苦難を乗り越え今の姿がある。
平戸城
2018年5月1日
46城目
平戸瀬戸を見下ろす松浦水軍の城。山鹿流軍学による折れや屈曲が施された巧みな縄張。
名護屋城
2018年5月1日
47城目
秀吉が朝鮮出兵の足がかりに、半年で築き上げた巨大な陣城。全国から名だたる武将が集結。今回の城巡りで一番行きたかった城。素晴らしい遺構で、再訪必至。
佐賀城
2018年5月2日
48城目
鍋島直茂が拡張整備、10代目鍋島直正が本丸御殿を再建。先憂後楽の精神を学びに、雨の中、学生が多数来城。
吉野ヶ里
2018年5月2日
49城目
日本の城の起源とされる環濠集落。歴史を遡ること弥生時代、、、戦国時代の城とはテイストが違うが、これもまた新鮮。
大野城
2018年5月2日
50城目
太宰府防衛の為につくられた朝鮮式山城。雨の山道を大石垣まで頑張る。
福岡城
2018年5月2日
51城目
黒田官兵衛、長政親子が築いた大城郭。思いのほかの巨郭。バリアフリーとは真逆の城巡りは、雨でさらに苦戦。何とか九州100名城巡り達成。
津和野城
2018年5月3日
52城目
元の襲来を警戒した鎌倉幕府が石見の防衛の為に、吉見氏に築かせたのが三本松城。関ヶ原後、坂崎直盛が入城し大改修、津和野城を築く。坂崎氏改易後は亀井氏の居城。
九州からの帰り道に立ち寄り。ちょうどSLやまぐち号が小郡に向けて走って行くタイミングに本丸到着。本丸からは津和野の城下町が一望。壮大な山城。
宇陀松山城
2018年5月19日
続3城目
南北朝期の秋山城が前身。豊臣秀長が大和国支配後、豊臣恩顧の大名が支配。関ヶ原後に小堀遠州が城割破却。破却をのがれた石垣や遺構が草木の間に垣間見られる。
高取城
2018年5月19日
53城目
越智氏〜筒井氏の後は、豊臣秀長により大和郡山城の出城として、本多氏が入城。標高548mの高取山山頂に重厚な城を築きあげた。朝もやにけむる石垣が幻想的。
千早城
2018年5月19日
54城目
南北朝時代に楠木正成が築いた山城。正成は1000人に満たない軍で、十一万の幕府軍(北条氏)と渡り合う。標高673mの本丸跡には千早神社があり、正成が祀られている。
鳥取城
2018年5月27日
55城目。
天球丸の石垣崩落を防ぐ為に築かれた丸石垣。
岩国城
2018年5月28日
56城目
周防国の城、岩国城。関ヶ原後、月山戸田城から減封された毛利元就の孫、吉川広家が築城するも、一国一城令により完成7年後に破却。吉川家は江戸時代を通して岩国藩藩主を歴任。
現在の復興天守から50m離れたところに復興天守台が鎮座。空堀や石垣跡がしっかり遺っていた。天守閣より瀬戸内海を一望。錦帯橋のバランスが美しい。
丸岡城
2018年6月2日
57城目
柴田勝家の甥、勝豊が築城した現存最古の天守。石垣は野面積み、屋根瓦は笏谷石の石瓦、1階の塗籠と下見板張、3階の柱と長押を隠さず見せる真壁造り、急勾配の階段、突上窓、石落など古式ゆかしい天守が現存。
一乗谷城
2018年6月2日
58城目
戦国大名朝倉氏の城下町跡。信長に敗れ滅んだ城下町が昭和になり発掘、復元。一乗谷の広大な敷地、整然と配された館跡、洗練された庭園の石組などから当時の栄華が偲ばれる。
岸和田城
2018年6月10日
続4城目
天守からは大阪湾を望む。水堀沿いに一周しながら移り変わる城の姿を楽しめる。
赤木城
2018年6月16日
続5城目
枡形虎口、横矢掛け、野面積みの石垣など、高虎のセンスが凝縮された平山城。
新宮城
2018年6月16日
続6城目
緻密な切込み接ぎの総石垣。天守台からは熊野灘を一望。
松阪城
2018年6月30日
59城目
築城巧者の蒲生氏郷が縄張した城。折れを多用した堅固な構造。表門から本丸、天守台、裏門に抜けるまで、とにかく石垣が続き、目を離せない。石垣好きには堪らない。
津城
2018年6月30日
続7城目
津城。築城は織田信包だが、伊予から入封した藤堂高虎が大改修を行い、以後幕末まで藤堂家が続いた。シンプルな方形の曲輪を内堀、外堀が囲む輪郭式縄張。高石垣、犬走り、幅広な堀等、高虎後期の築城術が散りばめられた平城。本丸跡には高虎像、南西部には高虎を祀る高山(こうざん)神社⛩が佇む。
金沢城
2018年7月14日
60城目
加賀国の城、金沢城。加賀一向一揆の拠点跡地に佐久間盛政が築城。前田利家が入城して改修。豪壮な建築群、多種多様な石垣、広大で巧みな縄張り、加賀百万石に相応しい圧巻の城。真夏の暑さの中、無我夢中の2時間半。
七尾城
2018年7月14日
61城目
能登国の城、七尾城。畠山氏の居城だった七尾城は上杉謙信の調略で落城。謙信の死後、前田利家が入城し修築。野面積の低い石垣が数段にわたって築かれる技法。本丸天守台からは能登半島を一望。上杉謙信が感嘆した絶景。
高岡城
2018年7月15日
62城目
越中国の城、高岡城。加賀前田家2代目前田利長が、居城であった富山城が焼失した為、高岡城を築城。一国一城令で廃城となるが、築城以来の水堀が完全に保存されている。本丸をコの字形の曲輪が連続して取り囲む連続馬出。伏流水をたたえる広大な水堀を見ても灼熱の暑さは全く和らがない。
小牧山城
2018年7月31日
続8城目
天下統一を目指す織田信長が清須城の次に居城とした城。美濃稲葉山攻めの前線基地。秀吉と家康の小牧長久手の戦い時には、家康が改修を加えて陣城とした。
石垣や土塁の発掘調査が進む。山頂からは濃尾平野が一望。清須城、名古屋城、犬山城、岐阜城か彼方に見える。
広島城
2018年8月4日
63城目
夏の早朝でも暑かった。9時開門と同時に天守内部へ。
安芸国の広島城。毛利輝元が豊臣秀吉の聚楽第に感銘を受けて三角州に築城。関ヶ原後は福島正則が城主となり完成形へ。しかし福島正則は石垣修復問題で改易され浅野家が入封となり以後明治維新まで続く。日清戦争時の大本営が本丸跡に残る。原爆でなくなり復興。様々な歴史を経て今の姿がある。
福山城
2018年8月4日
64城目
備後国の福山城。徳川家康の親戚である水野勝成による築城。毛利家など西国大名に睨みを効かせる要所。伏見城から移築された伏見櫓と筋鉄御門は必見。鏡櫓、月見櫓、鐘櫓と櫓が充実。新幹線ホームのアナウンスが酷暑の本丸に響いてくる。
備中松山城
2018年8月4日
65城目
備中国の備中松山城。1200年代に築かれた山城を江戸時代に小堀遠州が整備、その後水谷氏が大改修。城主は頻繁に移り変わったが、天守は現代まで生き残り、山城に現存する唯一の天守。
人工の石垣と天然の岩盤が融合した高石垣。天守内部に残る長囲炉裏や装束の間。唐破風出窓の凝った外観の天守に天然巨石上に建つ二重櫓。永年の風雪に耐えて残った現存土塀。
真夏の日中の山城登り。1年ぶり再訪の感想は、奇跡の山城にリスペクト!
駿府城
2018年8月5日
66城目
徳川家康が将軍隠居後に居城とした城。全国の大名を動員し、三重の掘と六重7階の天守を持つ大御所に相応しい城に大改修。
家康は今川家人質時代12年、東海五ヶ国大名時代5年、大御所時代10年と生涯27年を駿府城で過ごした事になる。
発掘調査が進む天守台や、復元された二の丸東御門、巽櫓、坤櫓の内部が見学できる。多様な石垣の表情に歴史の変遷を感じる。
掛川城
2018年8月5日
67城目
今川氏滅亡、徳川家康関東移封後、山内一豊が入封し天守を築き上げた。一豊が高知に転封後は譜代大名の居城として栄えるも、安政の東海大地震で損壊。高知城と同じであったという記録を元に平成の時代に木造で再建された。現存する城郭御殿、二の丸御殿は書院造。木造の天守と御殿は有り難い。
長篠城
2018年8月5日
68城目
宇連川と寒狭川の合流地点の断崖に築城された天然の要害。長篠の戦いで武田勝頼軍の猛攻に耐え抜き、信長家康の連合軍が駆けつけた。主役はなんと言っても鳥居強右衛門。
城郭部には土塁や本丸跡が残る。対岸からは激戦に耐えた地形を実感。
春日山城
2018年8月11日
69城目
越後国の城、春日山城。長尾為景と子の長尾景虎(上杉謙信)が整備した巨大山城。石垣は用いず、土塁や空堀で全山が要塞化。戦国時代有数の難攻不落の城。土塁と曲輪の遺構がよく残っている。
早朝雨の山城から城巡り開始。春日山神社と毘沙門堂で旅の無事を祈願する。
新発田城
2018年8月11日
70城目
越後国の城、新発田城。上杉謙信の重心、新発田重家の館跡に溝口秀勝が築城。表門と二の丸隅櫓は江戸時代からの現存。復元された三階櫓の最上階は丁字型の入母屋屋根で、三匹の鯱を戴く櫓は全国唯一。
雨が上がり晴れてきた。
久保田城
2018年8月11日
71城目
羽後国の城、久保田城。清和源氏の名門、佐竹氏12代の居城。関ヶ原後、常陸国から転封させられた佐竹義宣が築城。土塁普請を得意とした佐竹氏が関東での築城経験を基に誇りをかけた城。天守閣は初めから造らず。
土、土、土、石垣はほとんど使わず土メインで築かれている。土造りの名手の本領発揮。夏は夜7時まで開いていて助かった!
弘前城
2018年8月12日
72城目
津軽を平定した津軽為信の子、信枚が築城。東北唯一の現存天守。築城当時の五重の天守は落雷で焼失。辰巳櫓を三重に改築して天守代用としたものが、現存天守。装飾的な外側とシンプルな内側で別天守を演出し、幕府の眼をかいくぐった。現在、石垣修理の為、天守は移動中。黒と白と薄緑の調和。天守以外に3つの櫓と5つの城門が現存、素晴らしい👏
根城
2018年8月12日
73城目
1300年代に甲斐から入った南部氏が築城し、1600年代に領地替えになるまで300年間八戸地方の中心だった城。発掘整備が進み、中世の建物が復元されている。建物全体の8割は青森ヒバ、総工費約6億円。よく出来ていて、なかなか楽しい。V字の堀切跡も遺る。
盛岡城
2018年8月12日
74城目
南部氏の家臣、福士氏の居館があった場所を新たに縄張り整備して出来上がった。明治維新まで南部氏代々の居城。盛岡産の大きな花崗岩で組まれた石垣が異彩を放つ。昨日から、土塁を見てきたせいか重厚な石垣が新鮮。
多賀城
2018年8月13日
75城目
大和朝廷の蝦夷制圧の軍事拠点。700年代に大野東人により創建。奈良平安時代の陸奥国の中心地。仙台湾や仙台平野を一望できる丘陵上に立地。四方は塀で囲われ、南東西に門が開かれていた。出土した遺構を元に、政庁跡や城碑、土塁等が復元されている。平城京跡、太宰府跡とともに日本三大史跡。
曇った夕暮れ、雑草が生い茂り、昆虫たちの楽園。廃墟感満点だ。
仙台城
2018年8月13日
76城目
独眼竜正宗の伊達62万石の居城。標高130mの断崖に築かれた天然の要害。江戸城に次ぐ2万坪の敷地を誇る。将軍家康の警戒を避け、あえて天守閣は設けず。270年間伊達氏代々の居城として栄える。現存の建造物は復元された脇櫓のみ。早朝より、本丸跡から仙台の街並み一望。本丸北面石垣の江戸切り算木積み、丁寧な仕事!
山形城
2018年8月13日
77城目
南朝時代の出羽斯波氏が起源、最上義光が基礎を築き、関ヶ原で東軍に味方し、出羽57万石まで勢力拡大。義光亡き後の最上氏転封後は鳥居忠政により改修。二ノ丸東大手門、本丸一文字門、枡形土塀等が再建復元されかつての威容が偲ばれる。「奥羽の驍将」と崇敬される最上義光は、強敵である伊達政宗や上杉景勝とも互角に渡り合った。
二本松城
2018年8月13日
78城目
畠山氏による築城。伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏と城主が入れ替わり、丹羽氏が明治維新まで城主を務めた。戊辰戦争では奥州列藩同盟として新政府軍に攻められ落城、焼失。二本松少年隊の悲劇の地。
雨の二本松城、トレッキングシューズと雨合羽で臨む。整備された路を進んでいくと山道へ。ヤバイ土塁が現れ、石垣の搦手門がそびえ立つ。堅固な本丸への虎口を息を切らして登りきると、雨にけむった幽玄の世界が広がる。
会津若松城
2018年8月13日
79城目
南北朝以降、蘆名氏の居城。豊臣秀吉の命を受け蒲生氏郷が七重の天守へ大改修を実施。慶長大地震で天守が傾き、加藤明成が五重の天守で再建。その後、保科家、会津松平家が引き継ぐ。奥州屈指の堅城は、戊辰戦争を戦い抜き解体。昭和に外観復元、平成で黒瓦から赤瓦に葺き替え。時代と共に移り変わる城の姿。
お盆休みの真っ只中、大人気の城。雨上がりに冷んやりとした夏の夕暮れ。
白河小峰城
2018年8月14日
80城目
奥州の押さえとして、江戸幕府に命じられ、築城名人の丹羽長重が改修した10万石の居城。その後、7家21代の大名が居城。戊辰戦争で落城。平成に三重櫓、前御門が木造建築で復元。三重櫓が平成の城復元ブームを巻き起こす。
車中泊明けの早朝散策、朝から7時ですでに暑い。
水戸城
2018年8月14日
81城目
常陸國中心に位置する要衝。鎌倉時代に馬場氏が築館。佐竹義宣が改修するも、秋田に転封となり、水戸徳川家の城となる。東北諸藩に睨みを効かせる徳川御三家の居城。石垣を一切用いない土塁によって築城された。
東北から北関東へ。真夏の暑さ。江戸初期から唯一現存する建物、薬医門は佐竹氏の頃のもの。弘道館は見事な御殿屋敷造り。幕末の息吹を感じる。堀は深さ20mにおよび今は道路や線路となっている。
足利氏館
2018年8月14日
82城目
12世紀末、源姓足利氏が築城。邸内に氏寺として鑁阿寺(ばんなじ)が造営された。鎌倉時代の武士の方形居宅としては最大級。居館を守る大規模な土塁と水堀が四周を巡る。
鑁阿寺と鐘楼の造営が1196年!国宝!水堀には鴨が泳ぐ。やっぱり土塁がそそる。まだまだ暑い😵,
金山城
2018年8月14日
83城目
新田氏一族、岩松家純により1400年代に築城。標高239mの金山山頂を中心に曲輪を造成し、堀切土塁で固く守られた難航不落の山城。武田、上杉、北条軍ら幾多の攻撃を撃退。戦国時代の関東の山城には珍しく石垣や石敷きを多用。北条氏滅亡後にに無血開城して廃城。
山頂駐車場から片道600mのトレッキング。汗だらだら。良くこの山頂に石垣で造ったよなぁ。
箕輪城
2018年8月14日
84城目
榛名川と沼の天然水掘り、河岸段丘の地形をいかして曲輪を配置。戦国初期に上杉氏の重臣長野氏が築城。「上州の黄斑」こと長野業正存命中は落とされる事なく、武田信玄に「業正がいる限り、上州を攻め取ることはできぬ」と言わしめた。業正亡き後、武田、織田、北条、徳川氏の城となる。家康の関東入りで、侵攻が繰り返された地に井伊直政が入城。現存する石垣や礎石群等の遺構の多くは直正城主時代のもの。直正が高崎城を築城後、箕輪城は廃城。郭馬出西虎口門が復元公開。
長野業正、真田幸隆、内藤昌豊、井伊直政等が入城し、上野経営の拠点と位置付けられた重要な城だったんだなぁ。夕暮れ18時台、誰もいない草むらの中でのスリリングな散策。
鉢形城
2018年8月15日
85城目
川に挟まれた断崖絶壁上の天然の要害。上州と信州を望む重要地点。戦国初期、長尾景春が築城。北条氏が整備拡充し、北関東支配の拠点として重要な役割を担う。豊臣秀吉による小田原攻めでは、重要な支城として北条氏邦が籠城。前田利家、上杉景勝軍に包囲され1ヶ月の攻防後に開城、城は廃城。
秀吉軍と渡り合った堅城を早朝から駆け回る。実戦的な城で広大な縄張り。
川越城
2018年8月15日
86城目
太田道真・道灌父子により築城。「知恵伊豆」こと松平信綱が大幅な拡張整備。江戸の大手は小田原城、搦め手は川越城、といわれるほど江戸にとって重要な城。明治以後、次第に解体され、堀も埋め立てられ、遺構は本丸御殿と富士見櫓くらい。現存する本丸御殿が貴重な建築遺構。
かつての城郭は球場や学校になっている。野球の応援が本丸御殿に響いてくる、夏の日。
八王子城
2018年8月15日
87城目
北条氏の支城である巨大山城。山上要害地区と山麓居館地区、砦や竪掘りの防御部分から成る。秀吉の小田原攻めに備え大改修するも、前田、上杉軍の猛攻で1日で陥落、その後廃城。八王子城落城が決め手となり、籠城続けていた小田原城が開城し、北条氏は滅亡。
今まで登った城の中で一番しんどい。東京の八王子という地名に少し油断した。山城は決してナメてはいけない。途中、都心を臨む景色に励まされ本丸まで登り切る。
武田氏館
2018年8月15日
88城目
武田氏三代(信虎、信玄、勝頼)の城。信虎が甲斐統一後、居宅を石和から移し、躑躅ヶ崎館を築いた。背後の山上に詰城として要害山城を築城。水掘と土塁で四方を固めている。今の主郭部には武田神社がある。
人は城、人は石垣、人は堀、の精神が体現された館跡。武田神社で旅の無事を祈願する。
甲府城
2018年8月15日
89城目
武田氏滅亡後、浅野長政・幸長親子らによって武田氏館に代わる城として築城。天守台は江戸城・名古屋城・会津若山城につぐ巨大なもの。豊臣政権下では徳川氏を押さえる城、江戸時代には江戸侵攻を阻止する城として重視され、幕末まで幕府の直轄領。戊辰戦争では無血開城。
武田氏館と見比べると堅固な事この上ない。野面積みの技術が圧巻。過ごしやすくなった夕方。城内の芝生で家族がボール蹴りしてる。
小諸城
2018年8月16日
90城目
平安時代の宇頭坂城が起源で、鍋蓋城、乙女坂城と変遷。武田信玄が山本勘助に命じて縄張。豊臣政権成立後、仙石久秀が改修。城下町より低い場所に城郭がある穴城。天守台は初期の算木積で信濃最古の石垣。
徳川軍が二度、本陣を敷いた二の丸跡。苔むした石垣、野面積みの天守台、勘助の鏡石、仙石氏時代の大手門、見どころ満載
上田城
2018年8月16日
91城目
河岸段丘上に真田昌幸が築城。1585年徳川軍を撃退。1,600年徳川秀忠軍を迎撃し関ヶ原の合戦に遅れさせる。関ヶ原以降、徹底的に破壊された。真田信之の松代移動後、仙石忠政が再建に着手。その後、松平家が入り幕末まで続く。廃藩置県後、櫓が売却されるも市民が買い戻し復元。
本丸跡に建つ真田神社に旅の安全を祈願する。
松代城
2018年8月16日
92城目
北信濃支配のため武田信玄が築いた海津城が前身。川中島の戦いの武田方拠点。信玄の死後、城主は変転。真田信之が上田城から移り、三代幸道のときに松代城と改められた。千曲川の自然堤防頂部に方形石造りの本丸、土造りの二の丸・三の丸。本丸の太鼓門と北不明門、二の丸土塁等が整備復元。
静かな佇まいで良い雰囲気。真田邸で一休み
上ノ国勝山館
2018年8月18日
続9城目
松前藩祖の武田信廣が1470年頃に天の川左岸の丘陵に築いた山城。アイヌ人と戦った蠣崎(武田)氏の本拠地。秀吉、家康の公認を得て安藤氏から独立を果たし1600年代初頭まで機能。
関空からピーチ航空で札幌着陸。レンタカーで270km、3.5時間。海と空の青さと、土塁の芝の緑が眩しい!
松前城
2018年8月18日
93城目
幕末に異国船に備えて許可を受け築城された最後の日本式近世城郭。海への防備として7基の砲台を備えていたが、背後が手薄であり、戊辰戦争では土方歳三ら旧幕府軍に攻められ落城。天守は国宝だったが戦後火災で焼失、鉄筋コンクリートで再建。
津軽半島が見える。気温21℃、吹き抜けていく風が気持ち良い。
五稜郭
2018年8月19日
94城目
幕末に造られた星型の西洋式土塁。旧幕府脱走軍と新政府軍との間で繰り広げられた箱館戦争の激戦地となった。
早朝散歩、外周1.8km。お堀には水鳥達。五稜郭タワーから歩いてきた道のりを一望できる。半月堡(三角の部分)は予算の関係で正面1箇所のみしか造られなかった。
志苔館
2018年8月19日
続10城目
14世紀末頃、津軽安東氏が蝦夷代官として進出した際に築いた道南十二館の一つ。アイヌとの抗争で二度にわたり陥落。蠣崎氏が蝦夷地を支配するようになり、役割を終えた。
函館空港のすぐ近く。土塁と堀で守られた主郭部に柵跡や井戸跡が遺る。土塁に登って見ると函館山から津軽半島まで見渡せる。土塁と堀切の写真は難しい、、、
佐倉城
2018年8月25日
95城目
鹿島台地の要害に千葉氏が築城するも滅亡。その後、徳川家康が土井利勝に命じて大修築。戦国期は北条氏に対抗する拠点、江戸時代は譜代大名の居城として江戸の背後を固めた。現在の佐倉城址公園には巨大な角馬出の空堀等が残り、要衝地の威容を伝える。
強風で樹々がざわつく中での早朝城巡り。石垣は無く、延々と残る土塁跡、馬出空堀のV字がたまらない。
江戸城
2018年8月25日
96城目
太田道灌が築城、徳川家康が築き直した巨大城郭。天守は三度建て替え。家康が建てた初代天守は真っ白な巨大天守。その後、秀忠、家光が建て直すが、明暦の大火焼失後は再建されず。天下普請による総構えをもつ日本最大の城。他の城の櫓や門と比べ桁違いの風格が天下人の威容を示す。
皇居一般参観コース参加から東御苑へ。真夏の江戸城。
小田原城
2018年8月26日
97城目
大森氏が起源、北条早雲以降、北条氏の本拠地。上杉謙信や武田信玄の侵攻を退けた難攻不落の城として関東制覇の拠点となった。豊臣秀吉の来襲に備え、土塁や堀で全周9kmの総構えを構築。しかし、秀吉の小田原攻めで20万の大軍に包囲され、3ヶ月の籠城戦後に開城。その後、徳川の譜代大名大久保氏により整備された。明治に入り廃城、解体。昭和以降、天守、常盤木門、銅門、馬出門が復元。
早朝より小田原攻め開始。門や天守の白壁が朝日にあたり眩しい輝きを放つ。
山中城
2018年8月26日
98城目
小田原城を守る要となった箱根口の関門。箱根尾根筋を利用し曲輪を配置、北条氏の土造技術を駆使した障子堀で防御を固めた。しかし、7万の豊臣軍の攻撃を受け、4千で守る山中城は半日で陥落。復元された障子堀が芸術的!しかし、畝の傾斜度は5〜60度、高さは堀底から2m、今は植栽されているが、400年間前は滑りやすいローム層がむき出しで、人が落ちれば脱出不可能!
石垣山城
2018年8月26日
続11城目
豊臣秀吉は小田原城攻略にあたり、長期戦に備えた本格的な石垣山城を築城。関東で最初に造られた総石垣の城。石垣は穴太衆による野面積みで粗削りした安山岩を用いている。秀吉は淀君や千利休、天皇の勅使等をこの城に迎えた。築城にあたっては山頂の林の中に骨組を作り、白紙を貼り城壁のように見せかけ、周囲の樹木を伐採。それを見た小田原城の兵が一夜にして城が出現したと思い士気を失ったとの伝承が伝わる。実際には4万人を動員し80日で築き上げられた。
下界に小田原城が見える。一夜にして城造るような相手と戦えないよな。秀吉の小田原攻めに欠かせない策略の城。石垣が良く残っており、良い感じ。
大和郡山城
2018年9月2日
続12城目
自宅から程よい距離の城巡り。3ヶ月振りの再訪、石垣の転用石を要チェック!やはり天守台からの風景が気持ち良い。
大和を統一した筒井順慶が築城、豊臣秀長が100万石の居城として城郭形成、増田長盛による外堀普請、関ヶ原後一時廃城。大阪冬の陣では藤堂高虎が着陣。大阪夏の陣後、水野勝成が城主となり整備を進めるが福山へ移動。その後、松平、本多、柳澤といった譜代大名が入城。江戸時代を通じて大和国の中心地。
小倉城
2018年9月13日
続13城目
毛利家の築城を細川忠興が40万石に相応しい居城に大改修。細川氏熊本転封後は、江戸時代通じて小笠原氏が城主。第二次長州征伐で敗れて焼失。細川忠興が築いた天守は破風がない層塔型だったそう。水堀の石垣塁線が複雑に屈曲している。
9月で涼しくなったとは言え、歩き回るとまだまだ暑い。
根室半島チャシ跡群
2018年9月14日
99城目
日本最東端、納沙布岬に程近いヲンネモトチャシを訪問。遠く奥深い場所に存在する日本100名城最難関(だと思う)の地。100名城スタンプラリー99城目。ここはスタンプラリーがなかったら来なかっただろうなあ、、、何もないと言えば何もないが、ほったらかしの荒涼感が逆に果ての地まで来た事を思い知らせてくれる。根室駅目の前の観光センターで100名城制覇のステッカーをいただく。
チャシとはアイヌ語で砦や囲いの意味で、見張場、祭事、集会等多目的に使われたそう。根室半島一帯にわたり、32ヶ所のチャシ跡が存在しているが、保存状態が良好で、他地域より分布密度が濃いとの事。オンネモトチャシは、岬や丘を堀で区画した面崖式。
浜田城
2018年9月22日
続14城目
外様大名 長州毛利氏と接する山陰の要衝地に、1620年に伊勢松坂より転封となった古田氏が築城。一国一城令以降に新城が築城された例は、明石城、福山城等含めて珍しい。その後、譜代大名が城主歴任。幕末の幕長戦争で長州軍の攻撃で落城し、三重櫓は焼失。山頂に本丸、中腹に二の丸、山麓に三の丸。
石垣を見ながら平山城を登り、見事な虎口を通り抜ける。バッタが飛び回る本丸より日本海、松原湾を臨む。
松江城
2018年9月22日
日本100名城スタンプラリー制覇、最後の1城は、生まれ故郷の松江城!幼少期より目にしてきた城で、自分の中でお城といえば松江城のイメージ。
2017年9月より始めたスタンプラリー、こんなに早く達成できるとは思わなかったけれど、おかげで日本全国いろいろな場所に行けました。これからもお城を巡る旅は続きます。

堀尾吉春・忠氏親子が標高28mの亀田山に築城した平山城。四重五階地下一階で1611年に完成。6基の二重櫓を多門櫓で結び、石落・狭間を数多く設置した実戦的天守。櫓には装飾の破風がない。2001年に太鼓櫓・中櫓・南櫓が復元。築城時期を特定する祈祷札が2012年に松江神社で発見され、天守地階の通し柱に打ち付けられていたことが明らかとなり、2015年に国宝指定された。
米子城
2018年9月23日
続15城目
応仁の乱の頃、山名氏が築城。毛利氏の山陰平定後、吉川広家が三重の小天守を築き、関ヶ原後には中村一忠が五重の大天守を建造。鳥取藩家老、荒尾氏が城主となり管理。山陰随一の名城は明治維新に取壊し。
天守台より大山、日本海、中海を一望。期待をはるかに上回る眺望。連なる石垣が圧巻。個人的には100名城にしてあげたいくらいだ。
スタンプは本丸頂上の東屋にありました。
出石城・有子山城
2018年10月6日
続16城目。

出石城
山名氏が築いた山城の有子山城と、関ヶ原後、小出氏が山麓居館を改修した出石城。小出氏、松平氏の後、仙石氏が信州より入城し、明治まで但馬藩5万8千石の本城として威容を誇った。
但馬の小京都と呼ばれた城下町で出石蕎麦をいただく。仙石氏が信州から連れてきた蕎麦職人により伝された出石蕎麦、歴史が今に息づく。

有子山城 2019年1月登城
出石城の横を通り抜け登場開始、急な山道を行くと、雪が現れ始め、中間地点までの500mがきつい。雪深くなる山道を進むと、出石市街を望む絶景に、藤堂高虎が携わった石垣が現れる。帰路はロープを掴みながらの下山。雪の山城に大満足。但馬守護の居城として、山名氏が堅固な獅子の山城を築城。羽柴秀吉の但馬平定で落城後、城主となった羽柴秀長が土の城から石垣の城へ改修。築城の名手、藤堂高虎が最初に手がけた石垣の城!高虎好きには堪らない山城。
福知山城
2018年10月6日
続17城目。
丹波を平定した明智光秀が築城。川を利用した堀で総構を構築。転用石を多用した石垣、深さ50mの井戸、現存建物の銅門番所等が見所。2020年大河ドラマ麒麟がくるに向けて盛り上がりが期待されます。
洲本城
2018年10月7日
続18城目。
淡路水軍を率いた安宅氏により築城。秀吉の淡路攻めで信長の勢力下となった後、仙石秀久、脇坂安治、藤堂高虎、池田輝政と城主が変遷。大阪の陣後、蜂須賀氏により淡路国の中心として整備された。
大石段、虎口、天守台と状態良く残る石垣群。日本最古の模擬天守より見渡す青空と洲本港、爽やかな夏の終わり。
苗木城
2018年10月13日
続19城目。
遠山氏が築城。武田信玄と織田信長の狭間で揺れ、森長可に攻められるも、関ヶ原の戦い直前で遠山友政が奪還し、その後幕末まで1万石の大名として治めた。
岩盤と石垣の見事なコラボレーション!各時代の石垣の変遷も楽しめる。大矢倉跡は魅惑のアトラクション。天守台の展望台からの木曽川、恵那山、中津川市街を見渡す景色。季節を変えて再訪したい。
美濃金山城
2018年10月13日
続20城目。
斎藤妙春により築城。信長家臣の森可成以降、長可・乱丸・忠政と森家が城主。1601年に破却。破城の様相がよく残り、石垣、礎石、虎口などの遺跡から物悲しさが漂う。
鎌刃城
2018年10月13日
続21城目。
標高384mの山頂主郭から尾根上に曲輪が連なる戦国山城。東山道の要衝に位置し、京極、六角、浅井が勢力争いした境目の城。城主の堀氏は、六角方、浅井方、織田方と渡り歩いたが信長の粛清に合い突如改易され、鎌刃城は廃城となった。
鬱蒼とした山の中を熊避け鈴を鳴らしながら進み、主郭の石造りの枡形虎口にたどり着く。登城道は崩れ易い土の林道で、動物の糞が所々にあった。攻め難さを実感する山城。
八幡山城
2018年10月20日
続22城目
羽柴秀吉より43万石を与えられた秀次が安土城より建物と城下町を移築。秀次が清洲城へ移封した後、京極高次が入城するが、秀次失脚後やがて廃城。八幡山城は、山城部分と居館部に分かれているが、石垣がしっかり遺っている。北の丸より安土城、観音寺城を臨み、西の丸より琵琶湖を一望。展望室にあった系譜図が分かりやすい。秀次が整備した近江八幡の城下町を散策。ランチは琵琶湖で採れた湖の幸ミックスフライ。
田丸城
2018年11月3日
続23城目。
南北朝時代に北畠親房が築城。戦国時代、織田信長が二男信雄に北畠氏の家督を乗っ取らせ伊勢国を支配。田丸、稲葉氏を経て、江戸時代は久野氏が城主となり明治維新まで存続。戦国から江戸を通じて使用された城郭である為、様々な積み方の石垣が残る。廃城払下げを免れ移築された富士見門は現存唯一の建築物。
部活中の中学生が曲輪をマラソン。天守台にはイルミネーション用の足組。虎口好きには堪らない。
多気北畠氏城館
2018年11月3日
続24城目。
南北朝から戦国時代にかけての北畠氏の本拠地。館と詰城の霧山城からなり、館跡には戦国時代の鑑賞庭園が現存し、中世城館では日本最古の石垣が発見されている。
冷え込む11月の夕方、武将が作った野性味溢れる庭園を散策。発掘された石垣や建物の場所がいまいち分かりにくい。
飯盛城
2018年11月10日
続25城目
安土城に先駆けて石垣を築いた天下人三好長慶の居城。摂津、河内、和泉を見渡せる眺望。山肌に遺る石垣に、感嘆の声が上がる秋のミニキャスリング。
芥川山城
2018年11月10日
続26城目
台風の影響が残り登城不可。高槻しろあと歴史館でスタンプ押して、近くの高槻城址公園を散歩。

2019年2月2日登城。
大阪平野を見渡す天然の要害、三好山を巧みに利用した山城。細川氏が築城し、阿波から進出した三好長慶が入城。長慶は松永久秀らを重用しつつ、足利将軍ではなく自らの名前で畿内に号令。長慶が織田信長に先駆けて天下人と言われる所以である。三好一族を追った信長はまず芥川山城を目指し、天下の形勢を見定めた後に上洛した。天下人たちの足場を固めた城。
冬晴れの土曜朝、登城開始。石垣、堀切、土橋が残り、愉しめる。昨夏の台風の影響で倒木が道をふさぐが、撤去作業により最低限のルートは確保されている。天候の悪い日は充分注意が必要。午前中だけの城巡り、充実感ある。
福井城
2018年11月23日
続27城目
徳川家康の次男、結城秀康が柴田勝家の北ノ庄城跡に天下普請で築城。輪郭式縄張りは徳川家康によるもの。5重の水堀に囲まれた本丸に4重5階の天守が建てられたが1669年に焼失。1948年福井地震で歪んだ石垣が残る。
笏谷石(しゃくだにいし)の石垣と天守台。広大な水堀と高石垣から在りし日の威容が伝わってくる。雨に降られながらの早朝散策。
越前大野城
2018年11月23日
続28城目
織田信長より一向一揆を平定した恩賞として3万石を与えられた金森長近が築城した山城。その後、譜代大名土井氏に定着するまで目まぐるしく城主が入れ替わる。大野藩の藩庁として明治を迎える。天守は江戸時代に焼失、再建されるが、明治維新で破却。今の天守は昭和の復興天守。
前回来たのは紫陽花の季節だったが、今回は紅葉。やはり野面積み石垣がお見事!
郡上八幡城
2018年11月24日
29城目。
郡上を統一した遠藤盛数の子慶隆が築城。秀吉に左遷された慶隆だが、関ヶ原の戦い後、見事旧領に復帰。日本最古の木造模擬天守。司馬遼太郎に日本で最も美しい山城と称えられた。
紅葉が終わりかけた郡上八幡城。天守内はギシギシと軋むが、史実と違う模擬建築でも木造には味がある。
中津城
2018年11月27日
続30城目。
黒田官兵衛が着工し、細川忠興が完成させたJV城。秀吉に豊前を与えられた官兵衛が築城に取りかかったが、度重なる戦に工事がはかどらず、関ヶ原後に筑前へ転封。代わりに入封した細川忠興が小倉城の支城、自身の隠居城として整備。現在の天守は旧城主の末裔、奥平氏が昭和に建てた模擬天守。川沿いの石垣は古代山城の石材を転用。本丸北側の石垣は右側が官兵衛、左側が忠興の構築ではっきり分かれており、興味深い。高松城、今治城と並ぶ三大水城。
大内氏館・高嶺城
2018年11月28日
続31城目。
大内氏館。
周防、長門を領国とした大内氏の拠点。京の将軍邸を模した方形居館。詰めの城として高嶺城がある。大内義隆は重臣の陶隆房の謀反により死去。新たな当主大内義長は毛利元就の侵攻で逃亡。大内氏館は役目を終える。毛利隆元が大内義隆を弔うため龍福寺を建立。
敷地内を一周。龍福寺の紅葉や土塁跡、石組かまどや井戸等で結構楽しめる。復元展示された庭園から当時の栄華が偲ばれる。

高嶺城。
大内氏館の詰めの城として、大内義長が築城開始するが、毛利元就の侵攻で逃亡。毛利氏が城を完成させる。関ヶ原後、毛利氏が萩へ異動となり、高嶺城は廃城。山頂の主郭から尾根沿いに曲輪が広がり石垣が巡らされている。主郭には礎石が残り、山口盆地を見渡せる。
見どころは主郭の石垣!南側と北側で造りが異なる。南側は二段の段築で鏡石を使用、隅角石は小さな石材を用い反りがなく直線的。豊臣大名化前の毛利氏のもの。北側は豊臣大名化後の毛利氏のもので、隅角石の石材は大きく、鏡石は無い。破却、城割で崩された石材がたくさん転げ落ちている。
玄蕃尾城
2018年12月1日
続32城目
賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田勝家の本陣が置かれた城。秀吉に対して討って出た勝家だが、敗れて北庄城へ敗走。鬼玄蕃佐久間盛政は奮戦虚しく捕らえられる。
堀の深さ、土塁の高さが際立つ、さすが山城の最高峰。高度な縄張りが保存状態良好で拝めるのが素晴らしい。晩秋の枯葉散る山城、土塁の写真は極めて難しい、、、
佐柿国吉城
2018年12月1日
続33城目
若狭守護武田氏の重臣、粟屋勝久が築城。度重なる朝倉氏氏の侵攻を10年に渡り撃退。難攻不落の称号を得る。勝久は越前に出撃してきた信長、家康を国吉城に迎え入れ、越前攻めの最前線の城として機能。その後、秀吉配下となり、木村定光が城主となる。江戸時代初期に廃城。
資料館で温かいお茶をいただき、陣羽織で記念撮影した後、登城開始。居館と詰城に分かれた中世山城。ところどころ石垣が残り、登山道の整備状態も良いが、つづら折りの山道が500m続き、難攻不落ぶりを実感。
一宮城
2018年12月22日
続34城目。
土曜早朝、小雨降る中の登城開始。竪堀、曲輪、湧水、堀切、空堀などの看板が分かりやすく、整備された石段を登る。ふと見上げると朝もやに煙る石垣が出現!苔むした阿波の青石に感動。
南北朝時代に一宮氏が築城。一宮氏は、細川、三好に仕えるが、長宗我部によって滅亡。秀吉の四国平定で蜂須賀氏が一宮城に入り、徳島城築城後は支城となる。阿波九城の一つとして徳島城の重要な支城と位置づけられたが、江戸時代に廃城。石材の一部は徳島城の修築に使われたという。北城、南城の曲輪からなり、本丸には蜂須賀氏が築いたと推定される石垣が残る。
勝瑞城
2018年12月22日
続35城目。
阿波国の勝瑞城(しょうずいじょう)。
室町から安土時代の約240年間にかけて細川氏9代、三好氏3代の拠点として繁栄。しかしながら長宗我部氏により落城後、廃城となる。室町時代の守護所を今に伝える貴重な遺構で、現在は館の整備が進み、水堀、庭園、礎石跡等が表示されている。
引田城
2018年12月22日
続36城目。
戦国時代に城主が何度も入れ替わる。秀吉の四国平定で讃岐を得た生駒親正が入城し、高松城の支城とする。生駒氏はそれまでの土造りの曲輪を、野積みの石垣に改修して使用。しかし、一国一城令で廃城。三方を海に囲まれた標高84mの山城。
引田港側登山口より、雨の中、登城開始。算木積みの本丸石垣が現れる。本丸からは引田港を一望。化粧池の石垣、北二の丸の高石垣等をぐるり。
城に登る前に、讃州井筒屋敷でブリ漬け丼で腹ごしらえ。
座喜味城
2018年12月29日
続37城目。
1420年頃、築城の名手、護佐丸が築城。2郭の縄張りを琉球石灰岩を積み上げた石垣が守る。石垣は長く連なる曲線状で、沖縄最古の石造アーチ門が二つ。高台より残波岬を望む。
雨が降ったり止んだりする中の登城。コンパクトでよく整備されており周りやすい。世界遺産だけあって外国人観光客が日本人より多い。残念ながら、続100名城スタンプはミュージアムが閉館の為ロスト。またいつか来よう。
勝連城
2018年12月31日
続38城目。
2018年大晦日、城納めの城。沖縄に来て3日目、肌寒い日が続いていたが、ようやく20℃越え。世界遺産、続100名城とあってきちんと整備されている。スタンプもしっかりゲット!一の曲輪からの眺望も良く、今年の城巡りをビシッと締めてくれました。事故や怪我なく一年通して城巡りができて良かったです。

15世紀前半、阿麻和利(あまわり)が城主の時代が最盛期。阿麻和利は中山王尚氏の重臣である護佐丸を中城城から追い出し、クーデターを起こすが、尚氏に敗れ、勝連城は廃城。一〜四の曲輪と東曲輪で構成。一の曲輪(本丸)中央に信仰の場所、御嶽(うたき)。
浜松城
2019年1月4日
続39城目。
2019年の城初めは、遠江国の浜松城。出世城の称号にあやかり、今年一年の城巡りの無事を祈願しました‼
浜名湖の珪岩を用いた野面積みの石垣。天守曲輪の石垣には屏風折が施されている。天守閣は模擬天守だが、天守門は木造復興。
徳川家康が武田信玄の侵攻に備え、岡崎城から移り浜松城として改修。三方ヶ原の戦いでは浜松城より出陣した家康は信玄に敗れ、浜松城へ逃げ帰るが、空城の計で武田軍を引き返させた。駿府へ本拠を移すまで、家康17年間の拠城。2代目城主、堀尾吉晴が野面積の石垣を築く。江戸時代には譜代大名が歴任。水野忠邦等、城主の多くが幕府の重役に出世したことから出世城の別名がある。
吉田城
2019年1月4日
続40城目。
戦国時代の三河重要拠点であり、今川義元の後、家康が奪取。家康の家臣として初めて城を与えられた酒井忠次が25年間城主を勤め、武田氏等から守り抜く。家康の関東移封後は池田輝政が城主となり大改築。天守代用だった鉄櫓は模擬再建だが、石垣は池田輝政時代のもので名古屋城築城時に余った石垣が転用されている。背後には豊川が流れ、背水の城である為、守りを固める為に腰曲輪がある。
鉄櫓の前には門松。空堀や輝政の石垣が残っているのが嬉しい。
古宮城
2019年1月4日
続41城目。
武田信玄が馬場信春に築城させた、対徳川攻略拠点。武田氏の勢力が弱まり廃城。
今日一番期待していたお城は、期待を遥かに上回る絶品城❗土で作られた芸術が、奇跡的にほぼ残っており、武田氏の築城技術を目の当たりに。コンパクトな縄張り内に、見所がぎっしり詰まっており、一時間以上、夢中で戯れる。車に戻ると靴の中に木の枝がたくさん!山城あるある。
黒井城
2019年1月5日
続42城目。
有子山城を登った後、黒井城にチャレンジ!雪がない分登りやすいが、やっぱりキツイ。途中、黒井城通算6000回以上登城のレジェンドに会う。御歳81歳!凄い!ようやく山頂部に到着。石垣に曲輪に絶景に、興奮して疲れが吹っ飛ぶ。
織田信長に離反した赤井長正が城主として、明智光秀の丹波平定時に抵抗、光秀を追い返す。直正の病死後に落城し、光秀の重臣、斎藤利三が統治。斎藤利三の娘お福(春日局)は山麓の興禅寺で産まれる。山崎合戦後、堀尾吉晴が一時城主となったがその後廃城。山頂から山麓、砦まで猪ノ口山全体が要塞化されており、明智光秀からの攻撃を防御する為に築かれた総構えが伺い知れる。
鳥越城
2019年1月12日
続43城目。
鳥越城への坂道は除雪されておらず、北陸道対策で持参していたチェーンが早速登場!しかしスタッドレスタイヤ+チェーンでも前に進まず、雪の山道を歩いて登る。標高312mの城山。登城のご褒美に、本丸枡形御門が姿を現す。雪化粧の鳥越城に感嘆。
織田信長の加賀一向一揆抵抗拠点として、一揆勢が築城。柴田勝家軍によって落城するも、抵抗は続き攻防戦を展開。最後は佐久間盛政によって鎮圧される。
増山城
2019年1月12日
続44城目。
最初の七曲がきついが、雪は残っておらず、少しぬかるんでいる程度。登城のお供はボヘミアンラプソディー🎶静寂の山城にロックンロールが響く。堀切、土塁、虎口、櫓台、土の山城を探索。竹で作られた柵が良い雰囲気を醸している。登城後は、砺波市埋蔵文化財センターでスタンプ。増山城のステッカーと登城証明をいただく。大阪府吹田市から来た事でひと盛り上がり。
戦国期に神保氏が勢力をのばしたが、上杉謙信の侵攻を受けて落城。謙信は3度に渡り増山城を攻撃した。謙信没後、織田信長勢が進出し、佐々成政の居城となる。信長の死後、豊臣秀吉の侵攻により成政は降伏、前田利家の重臣中川光重が入城し、慶長年間まで存続。
二ノ丸を中心に何重もの空堀が巡らされている。和田川が天然の外堀。
富山城
2019年1月12日
続45城目。
野積、切込、算木積等の石垣が残る。現存建物の千歳御門越しに模擬天守。模擬天守内の展示は充実。
上杉氏、一向一揆勢、織田信長の争奪戦の末、信長家臣の佐々成政が入城。信長の死後、佐々成政は豊臣秀吉と対立するが、7万の大軍に囲まれ降伏。越中国は前田家に与えられ、前田利長が隠居城として金沢城から移り住んだが、焼失したため、高岡城を築いて移動。江戸時代は富山前田氏の居城として存続、明治維新を迎える。神通川を守りとした後ろ堅固の梯郭式平城。
河後森城
2019年2月9日
続46城目。
尾根上に配置された曲輪、本郭、古城、新城をぐるりと周遊できる縄張り。本郭にわずかに残る石垣。最後に気付いたが入城口は尾根に囲まれたすり鉢エリアで、攻め手からすると、やられ放題。
四万十川の支流に囲まれた山城。伊予と土佐国境最前線で、長宗我部氏の侵攻〜豊臣秀吉の四国平定以降も目まぐるしく城主が移り変わる。藤堂高虎統治時代、当城の天守を板島城の月見櫓に移築。伊達家宇和島藩創立後、一国一城令により廃城。
岡豊城
2019年2月9日
続47城目。
かっこいい元親像に迎えられ登城開始。堀切と井戸跡、チャーミングな土塁に、奥ゆかしい石垣、詰めに臨時で作られた櫓は2月末で取り壊しとの事。コンパクトにまとまり、整備されて回りやすい城。
土佐七雄の一つであった長宗我部家は国親出現後、岡豊城を拠点とし、国親の子、元親は土佐平定後、四国をほぼ統一。しかし羽柴秀吉の四国平定で降伏し、領土を土佐一国に縮小された。元親が浦戸城に移るまで岡豊城は長宗我部氏の本拠であった。山頂の詰を中心に階段状に曲輪が配置される連郭式山城。
能島城
2019年2月16日
続48城目
土曜11時の潮流体験で、潮の流れを体感しながら能島城に接近。船上より、削られた岸壁、曲輪の形状、400年前の石垣、岩礁ピットを確認。上陸できないのが至極無念、再訪必至。カレイ山展望公園より能島城を一望。島全体が城って凄い。
村上海賊3家(因島、来島、能島)の一つ、能島村上家の活動拠点。大内、毛利氏と結びつき勢力拡大。毛利方の水軍として織田信長を苦しめた。秀吉の海賊停止令により、小早川隆景に従い筑前に移り、能島城は廃城。能島、鯛崎島には、土塁や堀切などの防御施設は無く、島を切り盛りすることで曲輪を段築。周囲を渦巻く潮流が天然の要害。
新高山城
2019年2月16日
続49城目
標高198mの新高山城は下から見上げるとかなり急峻で、家族で登りきれるか一抹の不安がありましたが、登山道が整備されており無事に登城、皆んなで登りきると充実感ありますね。詰の丸から見る対岸には高山城、鉄道トンネルが山を貫きます。6つの井戸がある釣井の段に算木積の石垣が残っていました。
毛利元就の三男、小早川隆景が高山城から、沼田川(ぬたがわ)の対岸へ新高山城を築き、小早川氏の本拠とした。隆景は次兄 吉川元春と共に毛利両川体制で幼い毛利家当主、輝元をバックアップ。隆景が三原城へ拠点を移した事で、新高山城は廃城。石垣の大半は三原城に運び去られた。山頂山麓に、本丸、中の丸、詰の丸、釣井の段、ライゲンガ丸、鐘の段など数多くの曲輪が連なる。
三原城
2019年2月16日
続50城目
JR三原駅は三原城の本丸にあり、線路が本丸を貫通。天守台へは三原駅構内から入れる。三原駅周辺をぐるり。天守台、櫓台の石垣はなかなかの圧巻ぶり。水堀に草をむさぼり食べるヌートリア。
小早川隆景が水軍基地、瀬戸内防衛拠点として築城。織田信長の中国攻めの際に、毛利輝元が本陣設置。隆景は筑前に移るが、家督を秀秋に譲り、自らの隠居城として三原城を完成。関ヶ原以降は広島城の支城となり、福島正則の領地となる。福島氏改易後は浅野氏が入り明治まで存続。小早川、福島、浅野、3氏の石垣技術が見られる貴重な城。城下町には船入櫓跡や水刎(みずはね)が残り、海城の情緒が感じられる。
小机城
2019年2月21日
続51城目
早朝のお城散策。竹林の中に空堀や土塁がきれいに遺っている。空堀内を歩けるのが嬉しい。
太田道灌が長尾景春の乱時に小机城を攻撃し落城。その後、小田原北条氏が関東進出の軍事拠点として整備。秀吉の小田原攻め時には戦う事なく開城。家康の関東入り後に廃城。西曲輪、東曲輪二つの曲輪が主郭となり、間につなぎ曲輪がある。
品川台場
2019年3月7日
続52城目
品川駅からレインボーバスでお台場海浜公園駅へ。小雨の中、散策開始。マリンハウスでスタンプを押し、第三台場へ向かう。外壁の石垣には武者返し。台場内部は凹地になっており、石垣や土塁に、弾薬庫、陣屋、かまど場跡が残る。台場上部には砲台の模型?や石碑があり、レインボーブリッジ側には第六台場が見える。海浜公園横から延びるレインボーブリッジの遊歩道を風雨の中歩き、途中の展望場から台場を上から望む。城と言うより近代遺跡。これはこれで面白い。
幕末の黒船来襲に備えて、江戸幕府が建造した砲台群。12基の建造予定の内、6基が完成。現在は第三台場と第六台場が残る。
滝山城
2019年3月8日
続53城目
八王子駅からバスでアクセス。登城開始するや、いきなりクランキーな坂道でテンション上がる。千畳敷の角馬出、二の丸の空堀や土橋、袋のネズミの曲輪、本丸の枡形虎口、深い堀切にかかる引橋…特に二の丸には3つの馬出が設けられていて、敵を絶対に侵入させない堅固な構え。トリッキーな防御技術が満載!土の芸術作品に感嘆しました。スタンプは中の丸で押印。状態はそんなに悪くないと思う。
武蔵守護代の大石氏が築城。北条氏康が河越夜戦で扇谷上杉氏を滅ぼし、三男の北条氏照を大石氏の婿養子として、家督と城を相続させた。氏照は滝山城を大改修。武田信玄2万の軍勢に攻め込まれたが、2千の兵で何とか凌いだ。防御不充分と痛感した氏照が八王子城に本拠を移し、滝山城は廃城。
諏訪原城
2019年3月16日
続54城目
大阪から車で3時間。土曜の早朝1城目!丸馬出まるだしで否が応でもテンションが上がる!二の曲輪の仕切土塁の向こうに何があるんだろうと登って見ると、カモシカがご挨拶!いろんな丸馬出に、空堀、土塁、石垣も少しあり、感動と興奮。
武田勝頼が遠江侵攻拠点として築城。長篠の戦いで勝頼は大敗し、徳川家康により諏訪原城は落城。徳川方により牧野城と改められ、丸馬出が増築された。武田氏滅亡後に廃城。大井川を背に本曲輪、二の曲輪、大手曲輪が配置され、6つの丸馬出で虎口を防御。
高天神城
2019年3月16日
続55城目
諏訪原城から車で30分。武田対徳川の争奪戦が繰り広げられた城へ、いざ搦手口から登城。急峻な斜面から見ても通路以外から登ることは不可能。井戸曲輪を境に東峰と西峰に分かれ、高低差がある城域。西峰は武田の土ワールドが広がる!袖曲輪と堂の尾曲輪間の大堀切が見応えあり!馬場平からは勝頼に落城を報告する為に使われた脱出経路が山中に延びていた…
今川氏滅亡後、徳川家康の持ち城となる。武田信玄が攻めるも落とせず、その3年後に勝頼が二万の大軍で開城させる。逆襲の家康は、横須賀城を付城とし、6つの砦を築いて5年間、高天神城を包囲。勝頼からの援軍無く疲れ果てた武田軍は城代岡部元信以下が最後に討って出て玉砕。落城後に廃城…
若桜鬼ケ城
2019年3月30日
続56城目
鳥取城からの帰路、雨が降る前にすべりこみ登城。鹿避けの電気柵に囲まれた山頂部。自然にさらされて朽ちた石垣、山中にたたずむ六角石垣、三ノ丸虎口の破壊跡、天守台からの眺望、どれも見事。
尼子氏の家臣、山中鹿介が入城し毛利氏と激戦を繰り広げるが、鹿介は敗走、毛利氏の城となる。その後、城主は秀吉の家臣木下氏、関ヶ原後は山崎氏と移り変わるが、一国一城令に従い廃城。破城の歴史を物語る遺構。
臼杵城
2019年4月27日
続57城目
大阪からフェリーで九州到着!別府港からハスラーで走り出す。まずは臼杵城!現存石橋の古橋を渡り、白い土塀沿いに鐙(あぶみ)坂を登る。現存の畳櫓から大門をくぐる。本丸には天守台石垣に空堀、下ると現存の門脇櫓。島津を撃退した国崩しと呼ばれる大砲(複製)。コンパクトにまとまった縄張りに詰め込まれた見所満載!
キリシタン大名、大友宗麟が築城。臼杵川河口の海に浮かぶ丹生島を利用した天然の要害で、島津の軍勢をも退けた堅城。秀吉の九州平定後、大友氏は改易、郡上八幡から入封した稲葉氏が15代続き明治維新を迎える。西南戦争では一度落城する。
佐伯城
2019年4月27日
続58城目
臼杵城から車で30分。駐車場から20分の山城登り。総石垣造りの縄張りが姿を現わす。堀切で遮断された本丸、二の丸間も石垣造りで廊下橋で結ばれている。山頂から城下町や佐伯湾を望む。天気が良く、青空に石垣と景色が映える。山上の石垣パラダイス!
関ヶ原の戦い後に毛利高政が築城。三重天守は早くに焼失。江戸時代を通じて毛利氏が城主であり、天守以外の修復、復興が行われた。
延岡城
2019年4月27日
続59城目
佐伯城から睡魔と戦いながらの南下約1時間。一度見てみたかった千人殺しの石垣。19mの圧巻の高さ。最下部の隅石を外すと石垣が総崩れとなり、敵を殲滅する仕掛け(伝)。隅石外す人も巻き込まれ必至。千人殺し以外にもいろいろな石垣があって楽しめます。

関ヶ原の戦い後に高橋元種が縣城として築城。有馬氏入城後に三階櫓が建てられ延岡城に改名。譜代大名が城主を歴任し、内藤氏が8代続き明治維新へ。
佐土原城
2019年4月27日
続60城目
延岡城よりさらに南下約1時間。昨夏の災害被害により、本丸に続く大手道は閉鎖中。日本最南端の天守台は拝めず、残念。山中に続く切通しの堀底道が、先に進めない事もあり、ミステリアス!二の丸跡に復元された鶴松館を見学して退散。最近は猪が出没するそう。
📖日向伊東氏の一族が築城。伊東氏が再建し、伊東48城の中心に。その後、伊東氏は島津義久に敗れ、秀吉の九州平定、関ヶ原の戦い以後も島津氏が領有し、明治維新を迎えた。
志布志城
2019年4月28日
続61城目
志布志小学校の入り口から内城にエントリー。心細いので熊よけ鈴装備。シラス台地を削った土の城。目に入ってくる景色の一つ一つのインパクトが強い。案内板がたくさんあるので助かる。
救仁院(くにいん)氏、楡井(にれい)氏、畠山氏、新納(にいろ)氏、肝付(きもつき)氏と次々と城主が変わった。最終的に島津氏の直轄地となり、秀吉の九州平定、一国一城令を経て廃城。志布志市街地を囲む4つの山、内城、高城、松尾城、新城で構築される山城の総称が志布志城。
知覧城
2019年4月28日
続62城目
志布志城から130km の移動。2度目の知覧。知覧平和公園から1km弱離れたところにひっそり佇む知覧城。今城、弓場城、蔵之城、本丸の順に4つの曲輪を駆け巡る。コンパクトにまとまり整備されていて周りやすい 。4つの曲輪共に枡形虎口がしっかり残る。シラス台地の浸食谷を天然の空堀として利用、土が確かに白砂。
平安末期に知覧氏が築城。後に島津一族の佐多氏が領主となる。伊集院一族に城を押収されたり、島津義久から左遷されたりするが、佐多氏は島津姓を名乗り、幕末まで知覧領主として存続。
八代城
2019年4月28日
続63城目
知覧城から一気に北上170km。一国一城令後に、四層天守が築かれたスペシャルなお城。細川忠興というビッグネームも城主になっている。立派な総石垣造りに水堀、ガチガチの枡形虎口。石垣の上や小天守台、大天守台に登れるのが嬉しい。

加藤清正の次男忠広が幕府の特例許可を得て熊本城の支城として築城。忠広が改易され、小倉から細川忠利が熊本城に入封。忠利の父、忠興が八代城に入城。忠興亡き後、島原の乱で活躍した松井氏が入城し、明治維新まで一国二城体制として存続。
原城
2019年4月29日
続64城目。
天草列島の鬼池港〜口之津港をフェリーで渡り島原半島へ。雨の中、本丸を2周。幕府軍により徹底的に破壊された無残な石垣。37,000人の一揆軍はほぼ全滅。悲愴な歴史があった地に雨が降り注ぐ。
キリシタン大名の有馬晴信が1599年に築城。有馬氏が延岡城に転封となり、1616年に松倉氏が入封。松倉氏は原城を廃城して島原城を築城。重い増税と弾圧、悪政により天草島原一揆が勃発。天草四郎をリーダーとして一揆勢は原城に立てこもり、最期まで幕府軍に抵抗、、、鎮圧された。
唐津城
2019年4月29日
続65城目
原城から北上150km、2.5時間。大雨で機動力激減。写真の取高も激減。雨にも関わらず観光客が多くてびっくり。藤棚と天守と雨のコラボレーション。天守より石垣の散歩道の方がそそる!
関ヶ原戦後に外様大名の寺沢広高が築城。廃城となっていた名護屋城の資材を転用し、九州の諸大名に助力を得て完成。寺沢家断絶後は譜代大名が入れ替わり城主となる。水野忠邦が浜松城へ転出後、小笠原氏の居城となり明治維新を迎えた。
松浦川の河口、唐津湾に突き出た満島山に築かれた海城。海に浮かんでいるように見える浮城。
基肄城
2019年4月30日
続66城目
九州続100名城巡り4日目。宿泊した二日市温泉から 車で約15分。まずは草スキー場から山頂目指して登る。結構しんどいけれど距離が短いので助かる。小雨模様で山頂は霧の中、景色どころじゃない。先が見えず、散策したら迷子になりそうなので、早々に諦めて、車で水門へ。水門の石塁は見事だったが、台風被害の散々たる有様に切なくなる日本最古の朝鮮式山城。前年に築かれた水城と同じく太宰府の防塁として築城。基肄城、水城、大野城を結ぶ約4kmのラインが太宰府の外郭となる。基肄城の城壁は土塁メインだが、南水門部分は石塁。日本版万里の長城か。
水城
2019年4月30日
続67城目
筑前国の水城(みずき)。
白村江の戦いで敗れた倭国が、天智天皇の命で太宰府の防衛として築城。日本で最初に築城された国家レベルの防衛施設。高さ10m、長さ1.2kmに及び太宰府の前面に博多湾側からの侵入を塞ぐように築かれた防塁。水城の両脇を大野城と基肄城が固める。
本日唯一、雨が降らずに見れた城。あちこちに石碑がある。
久留米城
2019年4月30日
続68城目
水城から車移動、道が少し渋滞。雨降りの中、城周囲を一周り。城内の篠山神社社務所でスタンプ。石垣下が駐車スペースになっている。今回の旅の立役者ハスラーと石垣。傾斜がない高石垣は見事だが、石垣上の電柱が邪魔。
秀吉の九州平定後、毛利秀包が城主となり前身の城を改修。関ヶ原の戦い後、田中吉政の柳川城支城となる。有馬豊氏が入城後、70年かけて完成。有馬氏城主で明治維新を迎えた。
鞠智城
2019年4月30日
続69城目
平成最後の城巡りはここ鞠智城。広大な敷地。温故創生館の映像で知った土門や土塁を見に行きたかったが、降り続く雨で断念。
大野城、水城、基肄城とほぼ同時期の築城で、太宰府の補給基地や、政庁として300年間存続(推定)。鼓楼、米倉 、兵舎 、板倉が復元されている。八角型鼓楼がシンボルタワー。
角牟礼城
2019年5月1日
続70城目
祝!令和元年。九州続100名城巡り5日目。三の丸駐車場から二の丸、山頂の本丸へ。雨が降らず、朝の散策には程よい。土塁、石垣、石塁とバリエーション豊富。三島公園内の豊後森藩資料館でスタンプ。
大友氏支配時に、島津に攻められるが、落城せず。秀吉の九州平定後、毛利高政が入り、改修。関ヶ原戦後、毛利高政が佐伯城に転封となり廃城となった。
新府城
2019年5月4日
続71城目
九州から大阪に戻り、束の間の休息後、東へと遠征。駐車城に到着するや、鉄砲戦に備えて造られた出構(でがまえ)がお出迎え。背景には北アルプス。爽やかな早朝キャスリング開始。緩やかな乾門側からの登城。見事な枡形虎口。井戸曲輪〜二の丸〜本丸〜三の丸と歩を進め、大手枡形虎口を抜けるとトリッキーな丸馬出に三日月堀。さすが武田家築城術の集大成となる城。運に見放された武将、武田勝頼について学ぶ。
織田、徳川、北条に囲まれ、劣勢状況となった武田勝頼が、躑躅ヶ崎館を捨て背水の陣で新たに築城。山頂の本丸から二の丸、三の丸を配し、枡形虎口や丸馬出で防御を固めるも、織田信忠軍の侵攻が迫り、勝頼在城わずか2ヶ月あまりで戦わずして自ら火を放つ。勝頼は岩殿城へ向かう途中で自刃。
要害山城
2019年5月4日
続72城目
新府城から車で20分。旧ホテル要害前に車を停めて登城開始。やや急な山道を登って行く。土塁、竪堀、石垣、門跡が姿を現わす度に心拍数が上がる。山城はすでに虫たちの巣窟、クマンバチが自分達の縄張を主張する。
武田信虎が躑躅ヶ崎館の詰城として築城。嫡男となる武田信玄はここで産まれた。武田氏滅亡後は、豊臣家臣が城主となるが、徳川幕府天下普請により甲府城が築城されると廃城。山頂の主郭部からの尾根沿いに曲輪を配した縄張。
興国寺城
2019年5月4日
続73城目
要害山城から富士山東側を南下、2時間弱。駐車場から大土塁がドーンと目の前に。土塁を登って行くとジェットコースターのような下りの向こうに大空堀。その空堀底を歩く。周囲からは攻められ放題。天守台には奥ゆかしく残る石垣。
2019GW10連休の城巡りは、ひとまずこれにて終了。友に三島まで送ってもらい新幹線で帰阪の途に。
伊勢盛時(後の北条早雲)が興国寺城を拠点に伊豆に侵攻を果たし、韮山城へ移動。以降、北条、今川、武田の争奪戦が繰り広げられる。武田氏滅亡後は、徳川家康支配下となり、家康が関東に入封後には、秀吉家臣の中村一氏が在城。関ヶ原後には、天野康景が立藩するも改易となり廃城。
福江城
2019年7月27日
続74城目。
城に直接舟が出入り出来るよう”舟入”がある。潮が引いた外堀には磯蟹がたくさん。石垣は野面と切込。本丸にある五島高校舎は内堀内にあり守りが堅い。現存土塀の狭間にロープを通し命綱にして、石垣の清掃をしていた。二ノ丸に現存する庭園と隠殿屋敷も見学。スタッフの方が丁寧に説明してくれた。
五島藩主五島氏は、江戸初期に江川城を焼失して以来、石田陣屋に居城し、幕府に築城願いを出し続けていた。幕末に黒船が出現し始めたのを契機に、防衛目的で幕府からようやく許可がおり、五島盛成が築城を開始。1863年盛徳時、江戸時代最後に完成した城となったが、5年後の明治維新で解体。三方を海に囲まれた輪郭式縄張の海城。城の搦め手にある蹴出門や石橋、土塀が現存。二ノ丸に五島氏庭園と隠殿屋敷が残る。灯台に当たる常灯鼻も現存。
金田城
2019年7月28日
続75城目。
広い範囲に見所がたくさんで、暑さの中、3時間のトレッキング。1300年前の石塁に圧倒されました。
白村江の戦いで敗れた倭国が、天智天皇の命で防衛として築城。三方が海に囲まれた自然の要害。山を取り巻く石垣や山頂の石塁が残る。海路の要衝対馬、国境監視の最前線で防人が見張りにあたった。日露戦争時には城山砲台が造られた。
高島城
2019年8月9日
続76城目。
大阪を深夜2:30に出発。車で370km4時間。はやる気持ちを抑えながら堀の周りをぐるり。朝一ショットを狙うカメラマンがちらほら。野面の石垣がしっかり残っている。天守だけでなく櫓門、隅櫓塀等も復興。開門9時と同時に天守になだれ込む。
諏訪湖と川を天然の防備とする日本三大湖城の一つ。日根野高吉が諏訪湖畔に築城。諏訪氏が高島藩主となり、明治まで存続。南の丸は松平忠輝(徳川家康の六男)をはじめ、流人の監禁場所となった。天守は明治維新で破却され、昭和に復興天守が建てられた。
龍岡城
2019年8月9日
続77城目。
高島城から車で70km1.5時間。石垣と水堀で守られた田口小学校内を一巡り。夏の田舎のノスタルジー。御台所櫓は櫓というより屋敷。きっちりした石垣に武者返し。ダート道を車で上り、展望台から城を見下ろすと、確かに星型。城巡り後は夏らしく信州蕎麦を食べる。
日本に二つある五稜郭の一つ。幕末に松平乗謨が西洋軍学を採り入れ築城。函館五稜郭の3年後に完成、規模は半分程度。石垣や水堀、御台所櫓が現存。
鮫ケ尾城
2019年8月9日
続78城目。
龍岡城から車で140km1.5時間。近くの高田城で5月頃に熊が出たとの事。急遽熊よけスプレーを車から持参。暑くて焦ってスタンプを村上城の場所に押してしまう失態。本丸にたどり着くまで朦朧とする。草ぼうぼうだし、暑いし、米蔵で探した焼き米は米じゃない気がするし、夏の山城はしんどくて、景虎の歴史は上の空……下城して噂の漬物と熱いお茶でほっとひと息。
春日山城の支城として上杉氏が築城。大堀切で尾根を遮断する防備。上杉謙信が亡くなると景勝と景虎による跡目争い、御館の乱が勃発。景虎が関東への逃亡経路として入城するも、寝返りに合い炎上。景虎は自刃。米蔵跡からは当時の焼け焦げた米が出土する。
高田城
2019年8月9日
続79城目。
鮫ヶ尾城で体力的に結構やられたので、平たい高田公園は助かる。しかし、こんな割と人通りの多い所に熊が出るなんて油断ならないなぁ……
徳川家康の六男、松平忠輝が60万石で入封し、天下普請により築城。忠輝の岳父である伊達政宗が縄張し、現場指揮をとる。低湿地帯の為、石垣ではなく土塁を採用。天守の代用に三重櫓。忠輝が兄秀忠から改易された後、酒井、松平、稲葉、戸田、榊原氏など城主が変遷。譜代大名の左遷先となる。明治になり三重櫓は焼失、廃城。
村上城
2019年8月10日
続80城目。
高田城から車で190km2.5時間。6月に地震があった村上。街には「がんばろう村上」の幟旗。登城路に甚大な影響はなく、地元の人々が朝の散歩で行き交う。いざ登城口から登り始め、中世散策コースを経て本丸へ。山頂部に連なる東日本では珍しい総石垣群。長い石垣。山頂からは村上市街と日本海を一望。もう一つの見所は、50mは伸びる竪堀。ただ、竪堀を見るには山を下って、帰りはまた登るので朝からヘロヘロになりました。東北電力村上営業所のエントランスで24時間スタンプを押せるのはありがたいです。

中世期に本庄氏が築城。本庄氏は上杉謙信に背いて籠城するが、1年後に講和。本庄氏以降、村上、堀、本多、松平、榊原、内藤氏らが城主となる。天守と櫓があったが、焼失後は再建されず。明治になり破却。
鶴ヶ岡城
2019年8月10日
続81城目。
村上城からで北上すること80 km1.5時間。鶴岡公園到着と同時に雷雨。荘内神社社務所に行くだけで靴の中がグショグショ。藩校致道館を見て、堀をめぐり、御隅櫓を見つけて終了。

大泉氏が前身となる大宝寺城を築城。その後、上杉氏、最上氏の争奪地となり、直江兼続が修復。関ヶ原後、最上義光が鶴ケ岡城と改称して整備拡張。最上騒動で最上氏が改易されると、酒井忠勝が入城し大改修。庄内藩主として酒井氏が明治まで存続。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟として最後まで明治政府に抗戦。廃藩置県で廃城。典型的な輪郭式縄張として、本丸、二の丸、三の丸が配置。
秋田城
2019年8月10日
続82城目。
鶴ケ岡から車で北上すること130km 2時間。鶴ヶ岡城での土砂降りとうって変わって灼熱の夏日。古代遺跡の復元はあまり馴染みが無いけど、雰囲気は嫌いではない。

大和朝廷が築城した古代城柵。奈良時代から平安時代にかけての出羽国北部の軍事行政中心地。外郭東門、築地塀、水洗トイレが復元されている。
脇本城
2019年8月10日
続83城目。
秋田城から車で30km45分。雄大で開放感あふれた土塁ワールド、、、素晴らしい。生き物のごとく横たわる大土塁、山頂部から望む日本海の眩しさ、幾重にも連なりウネる土の芸術。最初に目に飛び込んできた光景のインパクトがすごいのだけど、それを上回って次から次へとブラボーな遺構が出現する。ドキドキワクワクで最後まで興奮しっぱなし。内館地区から500m離れた馬乗り場地区まで足を延ばす。広大な敷地が綺麗に草刈りされており、整備状態にも感服。

男鹿半島の付け根に安東氏が築城した山城。秋田を統一した安東愛季(ちかすえ)が改修。愛季の次男実季(さねすえ)は秋田氏を名乗り、関ヶ原後、常陸へ移動。丘陵全体に広がる城域は、内館、馬乗り場、兜ケ崎等の7つの地区に分けられ土塁で仕切られる。
浪岡城
2019年8月11日
続84城目。
脇本城から車で北上160km2.5時間。裏口みたいな雰囲気の内館方面からエントリー。見所は中土塁を設けた二重堀。広い曲輪の西館、居館跡柱か復元されている北館、そそる虎口や土塁もチラホラと。早朝散歩に手頃なお城。

北畠氏の末裔である浪岡氏が築城。北の御所と称された。戦国期に大浦(津軽)為信に攻められ落城。広大な丘陵を二重堀で仕切り、新館、東館、外郭、猿楽館、北館、内館、西館、検校館の8つの館(曲輪)で構成されている。
九戸城
2019年8月11日
続85城目。
三戸城から車で20km30分。九戸城ガイドハウス3時閉館前に滑り込み。今日は涼しくて助かる。避暑地に来てるみたいだ。本丸の野面積み石垣は東北最古級だという。本丸、二の丸の直線空堀や枡形虎口は蒲生氏郷の仕事。曲線的な曲輪の石沢館、若狭館は九戸氏の仕事。新旧それぞれの特色がある。

九戸氏が築城。南部氏の家督争いで南部信直と対立した九戸政実(まさざね)が挙兵。南部氏に加勢した豊臣秀吉が、天下統一総仕上げとして豊臣秀次、蒲生氏郷らを奥州仕置に送り込む。九戸城は6万の豊臣軍に取り囲まれ、政実は助命を条件に降伏するが、約束は反故にされ城内の者は皆殺しにされた。政実の乱後、蒲生氏郷が城を改修し、三戸城から南部信直が一時入城するが、盛岡城に居を移した為、九戸城は廃城。
白石城
2019年8月12日
続86城目。
小雨の中、丘陵上の本丸へ。平成になって木造復元された一ノ門(高麗門)、二ノ門(櫓門)、大櫓(天守)。仙台城の支城であった為、幕府をはばかり、三重櫓は天守ではなく、大櫓と呼ばれたそう。大櫓入り口の庇(ひさし)の下で雨宿り。天守開門と同時に入城。木造天守の木の香りがよい。青森ヒバを使用している。

鎌倉時代に白石氏が築城。奥州仕置後、会津に入封した蒲生氏郷の家臣、蒲生郷成が改修。一時、上杉景勝の領土となるが、関ヶ原の戦い時に伊達政宗が奪取。政宗の重臣、片倉景綱(小十郎)が城主となる。一国一城令では仙台藩伊達家の支城として存続が認められ、明治まで代々片倉氏が存続した。戊辰戦争時には白石列藩会議が開かれる。新政府占領後、廃城。
米沢城
2019年8月12日
続87城目。
戻ってきた夏の日差し。青空にたなびく上杉家の幟旗。謙信、鷹山、天地人、伊達政宗生誕地などなど、銅像&石碑ストリートを進み、本丸の上杉神社に到達すると、参拝者の長蛇の列。米沢城と言うより、上杉神社。上杉神社には上杉謙信高原が祀られています。陰ながら自分も旅の安全を祈願。城の形跡を探しに搦め手に回ると、土塁の虎口と、堀に咲く蓮の花を発見。

鎌倉時代に長井氏が築城。戦国時代には伊達氏の本拠地となる。伊達政宗出生の城。豊臣秀吉の命で会津は蒲生氏郷の領土となり、次いで上杉氏重臣の直江兼続が城主となる。兼続は徳川家康に直江状を送りつける。関ヶ原の戦い後、上杉氏は会津120万石から米沢30万石に減封され、景勝が米沢城主となる。景勝は直江兼続に命じ城を大改修。輪郭式縄張に石垣や天守を設けず、土塁と御三階櫓を築いた。米沢藩庁として明治まで上杉氏の居城。
向羽黒山城
2019年8月12日
続88城目。
熊の住処で、最も恐れていた城。万全の山城攻め装備で臨む。熊よけスプレー片手に登城開始。鈴にブザーにiPhoneからはミュージック。ビビりながらも竪堀、空堀、虎口、土塁、土橋などなど戦国山城の名残が随所に残っており、惹き込まれる。山頂一曲輪からは会津盆地を一望。暑さとドキドキで汗だくになりながらも無事に帰還。さすが東日本最大級の山城、まだまだ奥深い。

蘆名盛氏が隠居城として向羽黒山に築城。伊達政宗との摺上原の戦いに敗れ蘆名氏は滅亡。その後、政宗、蒲生氏郷、上杉景勝らの砦となる。氏郷の技術で堅固な要塞となり、景勝が韓国の熊川倭城を参考に籠城仕様に改修したとか。関ヶ原の戦い後、景勝は米沢に移封され城は破却。
三春城
2019年8月12日
続89城目。
桜の季節ではなく、夏の三春城。城までの標識を増やし、ピンクの幟旗も増やし、草を刈り、田村氏の処世術と愛姫を前面に押し出すと良い雰囲気になりそう。

戦国時代に田村氏が築城。 周辺の有力大名からたびたび侵攻されるが、伊達政宗の正室に愛姫を嫁がせ、伊達家と同盟関係を結ぶ。人取橋の戦いで伊達・田村軍は佐竹・蘆名連合軍を撃退。政宗が三春城に入り相馬派を一掃。しかし、豊臣秀吉の奥州仕置で田村氏は改易、三春城は蒲生領となる。その後、上杉、加藤、松下と続き、安東氏の末裔である秋田氏が幕末まで三春藩主となった。戊辰戦争時には奥羽越列藩同盟から脱退し、無血降伏。廃藩置県で廃城。
大多喜城
2019年8月13日
続90城目。
雨が上がり蒸し暑い朝。有料駐車場に車を停め、大手門付近の堀跡、本丸の土塁をみつつ天守はまだ閉まっているので、二の丸にある大多喜高校の敷地へと大井戸と薬医門を見に行く。遠回りしたが、本丸から二の丸へ降りられた。本田忠勝を大河ドラマに、の幟旗。天守9時の開門待ち。すでに汗ダラダラなので天守館内のクーラーで生き返る。

真里谷氏が築いた小田喜城が前身。里見氏が領土を没収され、徳川家康領となり、徳川四天王の一人、本多忠勝が10万石で城主となり、天守を持つ大多喜城を築城。大多喜藩の拠点として阿部、青山、稲垣、松平氏らが城主となる。明治に入り廃城となり、昭和に模擬天守が建てられた。
本佐倉城
2019年8月13日
続91城目。
月星紋盾がお出迎え。高い土塁で築かれた虎口、筑波山方面への眺望、侵入するのにはばかられる薄暗い虎口、狙い撃ちされるのは必至。クモの巣にまみれている。とにかく暑くて汗がしたたる。熱中症に注意。

1400年代後半に千葉氏が築城。小田原征伐で千葉氏が改易され、徳川領となる。小笠原、土井氏が入り、佐倉藩庁が置かれたが、佐倉城への藩庁移転により廃城。
土浦城
2019年8月13日
続92城目。
太鼓門と霞門が現存。西櫓と東櫓が復元。東日本大震災で建造物が破損したが、修復される。昼の一番暑い時間帯。太鼓櫓だけでもう充分。

豪族小田領であり、佐竹氏に小田城を追われた小田氏治が入城。小田原平定後、結城秀康(徳川家康二男)の結城城の支城となる。松平、西尾、朽木、松平氏の後、甲斐武田家の元家臣であった土屋氏が継ぎ、明治まで200年間存続。
笠間城
2019年8月13日
続93城目。
スタンプがある井筒屋が休みで、笠間市役所支所で押印。登城口が全然分からずタイムロス。笠間陣屋跡の駐車場に車を停め、ようやく17時頃から登り始める。夕方の山城は心細い。堀、虎口を見ながら、八幡台櫓跡の大土塁まで息を切らして登る。山頂部に続く登城路は倒木が行く手を阻む。山頂部には関東の山城には珍しく石垣が多用されているが、地震の影響で崩れており、そもそも倒木以上に危ない。締めに真浄寺に移築された八幡台櫓を見に行った。

笠間氏が佐白山に築いた山城。約370年間、笠間氏の居城であったが、小田原平定後に宇都宮氏に攻められ笠間氏は滅亡。蒲生郷成が入城し大規模改修。城主が目まぐるしく入れ替わり、牧野氏で明治維新を迎える。
岩櫃城
2019年8月14日
続94城目。
念のため熊避けスプレー持参。急峻な岩櫃山の中腹にある本丸を目指す。二の丸、中城等の各曲輪間には、竪堀と横堀が網の目のように張り巡らされる。武田勝頼がここに来ていれば、表裏比興者の真田昌幸の知略で歴史が変わっていたかも⁉雨が強まり、本丸から下城する頃にはすっかり本降り。

築城主と伝わる斎藤氏滅亡後、武田家臣の真田幸隆が奪取し戦略拠点とする。織田信長に追われた武田勝頼を真田昌幸(幸隆の三男)が岩櫃城に迎えようとするが、叶わず武田氏は滅亡。真田氏は豊臣秀吉、次いで徳川家康の傘下となり、岩櫃城は沼田城、上田城の支城として存続。。一国一城令で廃城。
名胡桃城
2019年8月14日
続95城目。
北条と真田が奪い合い、小田原征伐の起因となった城。歴史を変えた城、というキャチフレーズを前面に押し出していて良い感じ。切り立った段丘上に、馬出・三郭・二郭・本郭・ささ郭・物見郭が細長く並ぶ典型的な連郭式。コンパクトにまとまってるし、門、建物跡、喰違虎口、土塁、丸馬出などが復元整備されていて、周りやすい。雨で機動力落ちながらも、楽しめた。

武田家臣の真田昌幸は名胡桃城を前線拠点とし、調略で北条領の沼田城を入手。武田氏滅亡後、昌幸は名胡桃城を沼田城の支城として北条軍に対抗。その後、豊臣秀吉の沼田裁定で、名胡桃城は真田領、沼田城は北条領となる。しかし、裁定を不服とした北条氏が名胡桃城を占領した事を発端に、秀吉は小田原攻めを敢行。北条氏は滅亡し、全沼田領は真田氏のものとなった。役目を終えた名胡桃城は廃城。
沼田城
2019年8月14日
続96城目。
利根川と薄根川が合流する河岸段丘上にある崖城。北条、上杉、武田が争奪戦を繰り広げた関東支配の重要拠点。西櫓台の石垣が残る。鐘櫓の鐘は江戸初期の城鐘。先程までいた名胡桃城方面を臨むも雨で視界不良。いずれも雨☔だったが、上州真田三名城揃い踏み。3城のスタンプが揃うと、記念にクリアファイルを貰える。続100名城選定をキッカケに盛り上げようとしている良いモデルケース。

沼田氏が築城した後、北条領となるが、上杉謙信が奪取。謙信の死後、再び北条氏が制圧。上杉景勝と武田勝頼の同盟により、武田家臣の真田昌幸が調略で沼田城を入手。武田氏滅亡後、独立した真田昌幸が支配。秀吉の沼田裁定で、またしても北条領となるが、小田原平定で北条氏は滅亡。沼田城は昌幸の長男、信之が継承し、松代移封後も飛び地支配。後に真田氏分家が継承するも改易され城は破却。その後、沼田藩は再興されるが、城は再建されず明治となる。
唐沢山城
2019年8月14日
続97城目。
駐車場から猫がたくさん。虎口、堀切、土塁を見ながら、登って行く。神社への参道なので、整備されていて登り易い。本丸を囲むのは関東には珍しい高石垣。本丸跡には築城主の藤原秀郷を祀る唐沢山神社。雨降らずラッキー。

戦国時代、佐野昌綱は上杉謙信の度重なる侵攻を度々撃退。関東一の山城と謳われる。佐野氏は豊臣、徳川に従い所領を安堵される。佐野城が築城後に廃城。唐沢山頂の本丸から、尾根城に曲輪が連なる連郭式山城。
忍城
2019年8月15日
続98城目。
まずは忍城水攻め時に石田三成が築いた石田堤を散策してから、朝一の忍城へ。御三階櫓は立派、威風堂々としている。博物館内は涼しいが、櫓内は暑い。天気はまだ持ちこたえてくれた。

室町時代に成田氏が築城。利根川、荒川に挟まれた湿地帯にあり、沼を堀、島を曲輪とした、守りやすく攻めにくい城。上杉、北条の侵攻を何度も凌ぐ。小田原征伐時には石田三成の水攻めに耐え抜き、浮き城の称号を得る。江戸時代は忍藩庁として譜代大名の居城となった。関東七名城の一つ。
菅谷館
2019年8月15日
続99城目。
歴史的には未知の城だが、遺構は保存状態良好で、楽しませてくれる。本郭、二の郭、三の郭が配置され、深い堀と高い土塁で防備体制を取る。スズメバチ注意の札、毒ヘビ注意記載された木橋、奥ゆかしく佇む蔀土塁、凛と立つ畠山重忠公の像。出枡形土塁付近から持ちこたえていた天気が崩れ大雨に。鬱蒼とした木々の下では、一時的に雨を凌げるが、結局濡れて帰還。

鎌倉時代の畠山重忠の居館(推定)。山内上杉氏が菅谷城として再興。その後、後北条氏が進出(伝)。
杉山城
2019年8月15日
続100城目。
山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城(推定)。土塁や堀の横矢掛け、虎口に施された喰違、枡形、折れ。これでもかと技巧が凝らされ、どの遺構もトリッキーで主役級で、まさに土造りの城の頂点ともいえる、続100の最後を飾るに相応しい名城!