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メンバー情報

ID3990
名前けん
コメントすべての城に登城するという目的が達成できるのかどうか、その目的を達するのがいつになるのか、何やら心許ない気もします。ただ、その土地の雰囲気や折々の季節感、美味しい食べ物なども楽しみながら、自分のペースで、ゆるゆると塗りつぶしていければと思っています。
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
松代城
2013年2月17日
池波正太郎「真田太平記」が終盤に差し掛かった頃に登城。折しも雪解けの頃で、城の中もぬかるむ場所があちこちに。

前身の海津城は、川中島の戦いで武田側の要となった場所。平城ながら、三方を山に囲まれ前方には千曲川を有する城郭としての高い守備能力は、現地を訪れてみると一目瞭然。善光寺平からさらに戸隠方面まで一望できる景観は、信州の城であることを実感させてくれる。

周辺には、真田宝物館をはじめ、松代藩や佐久間象山ゆかりの旧跡が点在。駐車場も用意されているので車で移動しながらの観光も可。異色なのは松代象山地下壕、併せて必見。
上田城
2013年2月21日
この一年の間、仕事で上田に行く機会が多かったのだが、いわゆる「登城」は2月になってからのこと。

映画「サマーウォーズ」でも馴染みの東虎口櫓門を抜けると真田神社。神社に向かって左手は千曲川による急峻な段丘構造で、そこから今では遊歩道となっている堀が巡らされている。それにしても上田には六文銭や真田氏にちなんだものがいっぱいで、真田三代への愛着を感じさせる素敵な街。この街を訪れるならば、真田太平記館、その作者である池波正太郎が愛した蕎麦屋「刀屋」、さらには「真田太平記」によく登場する別所温泉にも併せて立ち寄りたい。写真は残暑厳しい8月下旬に撮影したもの。
小諸城
2013年2月28日
上田での仕事が終わったのちに急行、草笛本店前に駐車して登城。

さっそく500円を払って入園。時刻は夕暮れ、終日暖かな一日であったため、城内あちこちでぬかるむ状況。一方で、いたるところに雪が残り、懐古神社の噴水も凍結。それでも傾く夕日に、藤村が詩にした古城の風情を感じることができた。懐古神社に参拝、三の門を経て、しなの鉄道小諸駅脇の自由通路を抜け大手門も確認。
松本城
2013年3月6日
訪問者来訪に合わせて、国宝に登城。

いつも外から眺めているばかりの城も、小天守や月見櫓が一体となっているからか、中に入ってみると意外に広いとの印象。春らしい陽気の中、近くは開智学校、遠くは北アルプスの山々が美しく見える。平城として、外敵に対する備えが特に気になる造りではあるが、北アルプスを背景にした姿の美しさは秀逸。写真は敢えて小天守、月見櫓も見える構図で掲載。
武田氏館
2013年3月14日
JR甲府駅を降りて武田通りを直進、山梨大学を抜けると武田氏館跡に建つ武田神社。道すがら、現在の地図に古地図を重ね、武田二十四将の居館の位置を示したものを楽しむことができる。天守など典型的な城郭構造を持たない館とはいいつつも、要害山を背に甲府の街を望む場所に堀を配した立地。

スタンプのある宝物殿では、武田氏にまつわる書状や甲冑、刀剣、武田二十四将図などを見ることができるが、登城時には「孫子の軍旗」も展示。大正期に追贈された官位記なども興味深い。とはいえ、宝物館前の「キティちゃん」は興醒め。

大手門を抜け復元された土塁石塁を見て、水琴窟の奏でる音色に時を忘れ、武田三代の夢に思いを馳せる登城となった。
甲府城
2013年3月14日
武田氏館を後にして、途中でほうとうを食べて登城。

中央線の車窓からはこの城の一部をいつも見ていながら、正直なところ、甲府と言えば武田信玄公の居城・躑躅が崎館しか頭になかった。今回、登城して初めて、この城の歴史的・戦略的意義の大きさを知る。すなわち、信玄公の築いた遺産を継承しつつ、豊臣にとっては徳川を牽制し、徳川にとっては江戸の防衛線の一つであるということ。

訪れてみると、城郭の規模の大きさにも目を見張る。
城郭建築が保存されている舞鶴城公園はもとより、そもそもJR甲府駅は城内の一角を占め、山梨県庁などにも及ぶ本格的なもの。曇天のため、天守台跡から富士山を望むことは叶わなかったが、満開の紅梅・白梅、早咲きのコヒガンザクラを楽しむことができた。丁寧に解説をいただいた「甲府城御案内仕隊」の方に、この場をお借りして感謝。
高遠城
2013年3月21日
諸般の事情で、桜の時期より早いこの時期に登城。

「真田太平記」の書き出しは、まさに春の高遠城から始まるが、この城に登るのは、やはり桜の時期がよい。城内はタカトオコヒガンザクラで満ちていて、桜雲橋などは桜の時期、本当に絵になるだろう。とはいえ、織田信忠が仁科五郎盛信を攻めた戦の激しさに思いを馳せることができるのは、桜花のない時期だからこそとも。城跡から望む中央アルプス、南アルプスの山なみは、本当に素晴らしい。
大阪城
2013年3月26日
甲子園での選抜観戦に合わせて登城。
桜花は既に満開の時期を過ぎていたが、春らしい登城となった。

これまで見てきた城との比較において、そのスケールの違いに驚嘆。一代でこの城を造り上げるまでに至った豊臣秀吉公の業績の凄まじさを感じたし、この城を落とさねば自らの天下はないとして大坂の陣に勝負を賭けた徳川家康公の決意にも凄みを感じた。

スタンプを押してもらうためには、有料の天守閣への入場が必要だが、展示室に陳列されている展示品を見るだけでも十分に価値あり。また、石垣の壮大さ、石垣を構成する巨石にも驚く。
小田原城
2013年5月12日
息子が所属するサッカーチームの大会終了後、息子とともに登城。

丘陵地に築城された難攻不落の城のイメージがピッタリ、城下町を含めかなり広範に及ぶ総構えも壮観。すぐ近くに敷設されている東海道からも、旅人たちはその威容を仰ぎ見ることができたことだろう。

1枚目の写真は本丸の正門・常盤木門。常盤木とは常緑樹を意味し、門の傍の松になぞらえて命名されたのだとか。2枚目は本丸から仰ぎ見た天守閣、3枚目は小田原駅前の北条早雲公の像。
駿府城
2014年10月9日
出張にて浜松から静岡、昼食をとりながらの移動にならざるを得なかったため、新幹線を利用。逆に、静岡で少し時間に余裕ができたため、1時間に満たない空き時間を利用して駿府城に登城。

東御門から駿府城公園内へ、巽櫓を観覧、本丸跡、天守台跡を経て清水御門へ抜けて、再度周辺を散策という順路。オーソドックスな輪郭式の縄張、白と薄い灰色を基調とした塀や石垣は、いかにも質実剛健。将軍というより武将としての家康公の精神世界を体現したものとも言えるのではないだろうか。写真は東御門、本丸跡碑と家康公、発掘・復元された内堀。

かつての東海道府中宿の賑わいそのままの静岡市内、県や市の中枢を担う機能が今もこの城の周辺にあることを思えば、今日においても、この城の果たす役割・影響の大きさを感じざるを得ない。
熊本城
2014年11月1日
同窓会のため帰郷、母を誘って熊本城及び人吉城登城の旅へ。

これまで幾たびも登城してきた馴染みの城、中学時代には写生大会の舞台でもあったが、改めて眺めてみると自分の中のイメージはこの城が原点。

写真はそれぞれ、備前掘から見た飯田丸、大天守と小天守(この写真のみ2013年1月14日撮影)、同窓会に向かう途中に見上げた不開門付近・夜景。
人吉城
2014年11月1日
熊本城登城から鹿児島本線、肥薩線と乗り継ぎ、人吉の地へ。駅から歩くこと十数分で人吉城登城。

球磨川とその支流・胸川に挟まれ、後背を山とした縄張りは見事としか言いようがない。平安・鎌倉期から相良氏の安定した治世の下で、独自の発展を遂げてきた街の歴史をそのまま表現した雅さえ感じさせる城。堀ではなく川に囲まれる城の魅力も秀逸。

写真は、胸川に面する多門櫓・長塀と大手橋、はね出し工法を用いた「武者返し」、球磨川に架かる水の手橋から見た水ノ手門跡。写真を見ても、人吉城は川があっての城だと再認識。
山中城
2014年12月29日
旧東海道を歩く旅、箱根湯本から三島宿に向かう途中での登城。

登城前は正直あまり期待していなかったのだが、登城してみてこの城が百名城に挙げられたことが理解できた気がした。戦乱の世が天下統一に向けて動き始めた時間の流れの中で、そこに至るまでの築城技術が芸術的に完成された場と言えるだろう。結果として、北条氏の完成度の高い築城技術は、小田原攻めという時代の流れを止めることはできなかったが、往時の思いと技を後世に伝えることができたと言えるだろう。

写真は、旧東海道間の宿・山中宿に面した諏訪・駒形神社、西の丸跡から見た障子掘、西の丸物見台から望む富士山と愛鷹山。
八王子城
2015年3月28日
高尾駅を通過することしばしば、そのうちに登城しようと思いつつも果たせなかった八王子城についに登城。本格的な春が近付きつつある3月下旬の晴れの午後、他方で腰痛明けで若干の不安も。

高尾駅からガイダンス施設近くまでバス利用、施設で入手した地図を片手に、まずは古道経由で居住地区からアプローチを試みるも、残念ながら曳橋は工事中。「御主殿の滝」を経由して居住地区の遺構を堪能。

軽登山の様相を見せた要害地区、服装も心の準備も十分でなく息も上がったが、春の陽射しと花の香に誘われて本丸跡まで到達。築く側、攻める側のいずれの苦労にも想いを巡らせつつ春の山城を堪能。次は梅の季節に再訪し、詰城にも足を伸ばしたい。写真は、工事中の曳橋、当時の石組みも残る虎口と本丸跡。
箕輪城
2015年4月4日
前回登城した八王子城に、春の山城の魅力を感じていたところ、急に空いた時間ができたので新幹線・バスと乗り継いで登城。前回の八王子城途上の時と異なり、花散らし雨がそぼ降る、少し肌寒い午後。

旧箕郷町役場にてスタンプをいただいて、かつての城下を散策して、桜花で彩られた観音様口から登城開始。まもなく目の当たりにした大堀切は、とても人の手によるものと思えない壮大さ。土塁や野面積みの石垣も往時を偲ばせるエネルギーが宿るよう。既に梅花の頃は過ぎていたけれど、桜や椿、コブシの花も素敵な場所。旧箕郷町の田町、伝馬町という地名は、井伊直政公による移転に伴い、今も高崎市の中心街にその名を残す。栄枯盛衰はあるが、時間を越えたつながりのようなものを感じる。

写真は、椿花を添えた蓑輪城本丸跡の石碑、雨に濡れる桜花に彩られた御前曲輪、虎韜門から登ってきて振り返った大堀切、ここも梅の季節に再訪したい城。
足利氏館
2015年4月18日
通勤中に読んだ吉川英治「私本太平記」に触発され、春らしい一日、金山城跡と併せて登城。

山門と堀を見た瞬間、太平記の時代にタイムスリップしてしまった感覚。鎌倉時代の禅宗様建築の本堂は、2013(平成25)年8月に国宝指定。いわゆる天守や石垣のある城、土塁や堀切から構成される山城とは違う、以前登城した城で言えば武田氏館(躑躅ヶ崎館)のイメージに近い。桜の時期を過ぎ、緑萌える時期の登城となったが、鐘楼近くの桜や、多宝塔脇のイチョウが映える季節がお勧めなのかも。

足利駅から館に向かう途中に立ち寄った足利学校でも、市内散策後、金山城跡への移動の道すがら渡った渡良瀬橋でも感じたのは、ゆるやかで落ち着いた時の流れ。

写真は、それぞれ鑁阿寺の山門、クスノキと枝垂桜に両脇を固められて建つ本堂、参道に建つ足利尊氏公像とハナミズキ。
金山城
2015年4月18日
足利氏館(鑁阿寺)に続いて登城。足利市駅から東武伊勢崎線利用で太田駅に到着するも、史跡金山城跡ガイダンス施設の閉館時間が迫っていたことと時間と体力節約のため、太田駅前からタクシーを利用。

西矢倉台方面から登城、馬場の脇を抜け月ノ池、大手虎口を経由して南曲輪に達すると太田市街を一望。日ノ池を左に見ながら御台所曲輪をさらに進むと実城(本丸)跡、そこには新田義貞公を祀る新田氏ゆかりの新田神社が鎮座。実城北側の神社裏手に残る石垣に往時を偲び、その後、物見台まで戻って再び太田の街を遠望。

山城であることを改めて感じながら金山を降りていくと、駅前には新田義貞公の像。今回登城できなかった反町館をはじめ新田荘遺跡には、改めて訪問の機会を持ちたい。

写真は、大手虎口と実城鎮座の新田神社、日ノ池越しに望む南曲輪。
鉢形城
2015年4月25日
春の山城の魅力に見せられて、最寄り駅・寄居駅から徒歩で登城。

駅からハナミズキの咲く街中を散策、荒川に架かる正喜橋を渡ると、そこは鉢形城曲輪跡。折りしも「寄居北條まつり」の紅白の幟がはためく。土塁沿いに上っていくと新緑の中に薄紅のツツジの咲く本丸址、さらに進むと樹齢150年を超えるというエドヒガンの巨木(町天然記念物)。荒川とともに、この城の天然の堀の役割を果たす深沢川を超え、再び土塁に沿って歩くと歴史館入口へと到達。

泉水坂、八高線踏切を超えて大手の位置に鎮座する諏訪神社に参拝、大手虎口の門を抜け改めて荒川を見下ろす眺めを堪能。三の曲輪、二の曲輪を経て搦手橋、長久院跡を巡った後、県指定の名勝・玉淀から改めて鉢形城の眺めを満喫。降り注ぐ春の陽射し、木々の新緑、鳥のさえずりにしばし時を忘れる。

写真は、本丸址近くの武者小路実篤が揮毫した田山花袋の漢詩碑、大手虎口の四脚門、玉淀の眺め。
掛川城
2015年4月28日
旧東海道島田宿から掛川宿への旅のゴールとして登城。久々に天守を備えた城郭。

街道沿いに建つ大手門から、逆川沿いに歩いて一路天守を目指す。安政の大地震により天守閣など大半が損壊した後、一帯は公園として利用されてきたそうだが、本丸広場には春の花が香る。空に泳ぐ鯉幟を仰ぎ見ながら天守最上階に上ると、そこからは掛川の街を一望。天守を後にして、二の丸に建つ掛川城御殿(国指定重要文化財)を巡り、そのまま掛川駅から新幹線で帰路に就く。

写真は、境川沿いに建つ大手門、御殿正面付近から見た天守、天守から望む掛川の街。
川越城
2015年4月29日
家族の予定が合ったため、小江戸・川越の観光を兼ね、初めて家族揃って登城。

東武東上線川越市駅下車、大正浪漫夢通り、蔵造りの町並みを経由して、川越城中ノ門堀跡、本丸御殿、富士見櫓跡の順路。二の丸跡に川越市立博物館・美術館が、三の丸跡に埼玉県立川越高等学校が建つなど、かつての曲輪を伺い知ることができないことに加え、象徴たる天守を持たず、また山城のような自然を利用する術も持たない平城は、正直なところ少し寂しい。とはいえ、江戸時代の本丸御殿の遺構を今日に留める貴重な城郭遺跡であり、家族で楽しく観覧。帰路には三芳野神社、喜多院、熊野神社にも参拝。

写真は、西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むため中ノ門堀跡、埼玉県指定有形文化財の本丸御殿、その南側に位置する富士見櫓跡であることを示す石碑。
白河小峰城
2015年5月3日
GWの家族旅行を兼ねて福島県の三つの百名城に登城。連休ならではの渋滞を抜けて、初日にまず訪れたのは白河小峰城。

2011年3月11日に発生した東日本大震災により、数箇所の石垣・曲輪が崩壊、または積み重ねがゆるむ被害が出ており、今年4月19日まで入城を見合わせる事態が続いていた。桜御門跡など現在も入城が制限されている場所も残っているほか、現在も修復が継続中。二の丸から清水門跡を経由して本丸へ、三重櫓は多くの人が並んでいたため登ることができなかったが、素晴らしい天気の中、復興に向けた多大な努力に敬意を表する登城となった。

写真は、堅固な石垣の城・小峰城に相応しい二の丸からの眺め、前御門と三重櫓、今もなお続く石垣の修復作業。
二本松城
2015年5月3日
白河小峰城から東北道をさらに北上して、二本松城に登城。別名霞ヶ城とも。

城の前には、戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊「二本松少年隊」の顕彰碑。同じ年頃の子供を持つ親としていきなり心を揺さぶられる。箕輪門から入って三の丸、洗心亭、搦手門を経由して本丸で二本松の町並や安達太良山を展望。平山城で家族で登城するにはハイキング気分、春の花が咲き、緑萌える時期に訪れることができて気分転換もなった。

写真は、霞ヶ城の威容を象徴する箕輪門、前身は城内に建立された茶亭のうちの一棟「墨絵の御茶屋」とされる洗心邸、穴太積みによる本丸下南面大石垣と本丸石垣。
会津若松城
2015年5月4日
GWの家族旅行、二日目の登城は若松城、別名鶴ヶ城。

生憎の曇天の中、連休ということもあって登城者多数。妻の墓参を兼ねての登城であり時間的な制約もあったため、城内を時間をかけて散策することはできなかったが、天守への登城のほか、鶴ヶ城稲荷神社にも参拝。曇天ながらおよそ半世紀ぶりに葺き替えられたという赤瓦が映えていたのが印象的。墓参からさらに飯盛山へと向かったが、二本松城とともに、戊辰戦争の悲哀を感じる百名城めぐりとなった。

写真は、鶴ケ城会館付近から撮影した北出丸の石垣と堀、天守から見た走長屋、鉄門そして干飯櫓、本丸から仰ぎ見た天守。
岡崎城
2015年7月11日
旧東海道徒歩旅の一環で登城。岡崎二十七曲に苦戦しながら、龍城橋先から二の丸へ。既に16時半近くであったため「三河武士のやかた家康館」には立ち寄らず、二の丸に設置された幾つかの家康公の像を確認した後に天守を目指した。

天守では岡崎の街を一望、その後、龍城神社に参拝、御朱印をいただく。時間の制約もあって坂谷曲輪から「東照公産湯の井戸」へ、再度二の丸を抜けて大手門というルートで散策。

写真は、徳川家康公生誕の城だが、敢えて「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と詠われた本多平八郎忠勝の像、本丸から見た岡崎城天守と龍城神社、岡崎公園の象徴にもなっている大手門。
佐倉城
2015年7月12日
旧東海道で岡崎城に登城した翌日、息子とともに車で佐倉城址公園へ。戦国時代の城郭とは異なる土塁と空堀を中心とした構成。ある意味で、幕閣の中心をなした譜代大名の居城らしさを感じることができる遺構。ことの是非はともかく、陸軍の兵営とするため往時の建物を破壊し、形あるものとして残っているのが土塁や堀中心というのは少し残念。とはいえ、その土塁や空堀はこの城の特徴を今に強烈に主張しているわけではあるが。

息子とともに、城址公園を散策後、城址公園内にある国立歴史民族博物館(歴博)の展示を見て、成田山新勝寺へと向かった。歴博でのランチでは古代米のハヤシライスやカレーライスを食べた。

写真は、江戸末期、幕府にあって日米修好通商条約の調印に奔走した佐倉藩主・堀田正睦の像、歴博と二の丸との間にある馬出し空濠、出丸の土塁から見た水堀。
長篠城
2015年7月19日
旧東海道を歩く旅の途中といえば、いささか寄り道が過ぎるけれど、豊橋から飯田線で長篠城駅下車で一路長篠城址へ。本丸を散策、長篠城址史跡保存館を見学の後、馬場信房及び鳥居強右衛門の墓所を経て宇蓮川と寒狭川の合流点に架かる牛淵橋という順路。

その後、思い切って設楽原まで足を延ばして、山県昌景、原昌胤、甘利信康といった武将の墓所を経て設楽原歴史資料館。復元された馬防柵を見て、再度設楽原の激戦地を散策。今回の旅で、長篠・設楽原の戦いのイメージが自分の中でかなり具体性を帯びた気がする。この二つの場所は、ぜひ一緒に見るべきだろう。設楽原歴史資料館では、史跡案内図(500円)を購入。

写真は、長篠城本丸跡に建つ長篠城址の碑、牛淵橋から見た長篠城、武田勝頼公の本陣が置かれた近くにある設楽原歴史資料館屋上から見た馬防柵(復元)。
岐阜城
2015年8月2日
息子とともに早朝名古屋から岐阜入り、七曲りルートで登城。家族向けとの触れ込みであったが軽い登山の趣き。それでも、朝方で本格的な暑さが到来する前の時間帯であったこと、木陰の中を登っていくことができること、すれ違う方々と気持ちよく朝の挨拶を交わしながらの登山であったことから、気持ちよく天守のある場所にたどり着くことができた。

天守からの眺望はとにかく素晴らしい。織田信長公が「天下布武」を唱え天下を望んだ気持ちも理解できるような気がした。欲を言えば、犬山城などまで見通すことができれば最高だったが、次の機会に譲ることにしたい。なお、下山時にはロープウェイを利用。

写真は、信長公が天下統一へと踏み出したことを示す天下第一の門、登城途中でその姿を見せた復元天守、谷に面した部分に配置された石垣。
犬山城
2015年8月2日
息子とともに岐阜城から転戦、猛暑の中を名鉄・犬山遊園駅で下車して徒歩で天守を目指す。犬山神社や三光稲荷、針綱神社に参拝の後、黒門跡、本丸門を経由して本丸へ。天守内部では階段の傾斜が急で、大人でも上り下りには苦労するほど。天守最上階からの眺めは格別だが、高所恐怖症の僕にとっては爽快感とともに恐怖感も。

それにしても、木曽川を挟んで望む天守の雄姿は、天守を持つ百名城数々あれど犬山城に並ぶものなしではなかろうか。後堅固の城とは良くぞ言ったものだと思う。

写真は本丸から見た天守、天守最上階の下に位置する破風の間、ライン大橋から見た天守の雄姿。
名古屋城
2015年8月2日
息子との城めぐり、この日の締め括りは三名城に数えられる名古屋城。
この日は既に岐阜城、犬山城に登城しているので二人とも疲労感漂う中での登城であったが、時間も限られており、地下鉄市役所駅を下車して、まずは東門から急ぎ本丸天守を目指す。表二之門の手前に本丸石垣を手掛けたという加藤清正公の石曳きの像を見て、この「名城」も清正公が関わった城であることを知る。

復元中の本丸御殿を左に見ながら天守に登り、名古屋の街を一望。その後、清正石を見て、西之丸、深井丸と進み、閉門時間を告げられると正門から出て反時計回りに外堀を歩いて、夕日に照らされた名古屋城を堪能。

写真は。それぞれ西の丸側から見た天守と西南(未申)隅櫓、二の丸にあった「清正公石曳きの像」、夕日に照らされる天守。
佐賀城
2015年8月13日
博多駅から特急ハウステンボスで佐賀駅へ、その後バスに乗り換えて、佐賀城跡に到着。かつて龍造寺氏の居城で、その後鍋島氏のものとなった佐賀城、堀は西側を除いて逆コの字型で現存。今に残る北堀に架かる「くすのさかえ橋」を渡ると、かつての城内には県庁をはじめ学校、体育館、図書館、美術館、マスメディアなどが集積。栄城本丸の入り口となる鯱の門から入ると、すぐに本丸御殿を模して建造された佐賀城本丸歴史館。

本丸御殿の遺構を保存しながら、その一部を復元した本丸歴史館は、夏休み期間中ということもあって、プロジェクションマッピングやクイズラリーなどが開催されており、一緒に出かけた子供たちも佐賀城でのひと時を満喫。機会があれば、次回はゆっくりと周辺を散策する時間を確保したい。

写真は、佐賀市営バス佐賀城跡線佐賀城跡バス停を降りてすぐ撮影した鯱の門、夏休みで多くの子供たちが訪れていた佐賀城本丸歴史館、公民館から再移築された御座間・堪忍所(佐賀市指定重要文化財;1838(天保9)年に第十代藩主・鍋島直正公により建設)。
吉野ヶ里
2015年8月13日
佐賀駅から長崎本線を二駅、高床倉庫をイメージした駅舎と卑弥呼像が出迎えてくれる神埼駅から徒歩で吉野ヶ里歴史公園へ。公園にたどり着いた最初の印象は、とにかく広いということ。

中世から近世にかけての建造物を見ることが多い百名城めぐりにあって、弥生時代の遺跡への「登城」は稀なので、復元された建造物、特に北内郭や南内郭の主祭殿や高床住居、物見櫓などには終始圧倒されっ放し。また南内郭近くの展示室にあった甕棺などの展示物も、古代浪漫を大いに掻き立ててくれるものであった。子供たちは「弥生くらし館」で「親魏倭王」の金印や銅鐸のレプリカ作りに挑戦、大満足の様子。帰路は、「天の浮橋」、歴史公園センターを抜けて夕焼けの中を吉野ヶ里公園駅まで徒歩で。

写真は、吉野ヶ里の政を司る最重要施設である北内郭・主祭殿、夕日に照らされた南内郭・物見櫓、その物見櫓から見た吉野ヶ里歴史公園と佐賀の街。
名護屋城
2015年8月14日
夏休みを利用しての九州の百名城めぐり、今回の旅で最も楽しみだったのが名護屋城。言わずと知れた太閤秀吉の「唐入り」の前線基地で、一時期ではあるが日本の政治・軍事の中心となった場所。今回は家族旅行を兼ねて車での登城。

予想していたことではあるが、まず驚くのはそのスケールの壮大さ。前線に諸将や兵を送り出すだけならば、ここまでの規模と機能を備えたものでなくてもとも思うが、これが往時の太閤の権勢か。大手口から東出丸、三の丸、本丸を経由して天守臺跡へ。この天守臺跡からの眺めがまた格別。往時には五層の天守がそびえたとのことだが、さらに素晴らしい眺望だったに違いない。崩れた石垣を見ながら、馬場跡から二の丸、弾正丸、搦手口を経て名護屋城博物館。昼食時には呼子港付近でイカを堪能、期待に違わぬ大いに満足の一日。

写真は、大手口から見た東出丸跡、天守臺跡からの眺望、築城時と崩壊後の石垣の状態が一望できる馬場跡。
福岡城
2015年8月15日
夏休みの福岡滞在の機会を利用して、息子とともに朝の福岡城に登城。この日は戦後70周年記念の日。

敢えて大濠公園から三の丸、名島門を経て、左手に旧母里太兵衛邸長屋門を見ながら二の丸へ。そのまま埋門跡を抜け、大天守台跡に登り現代の福岡の街を眺める。改めて古地図を見ると、大濠公園は博多湾につながる文字どおり「大きな堀」。大天守台跡からは遠くには福岡タワーやヤフオクドームなども確認。

鉄御門跡から本丸跡、裏御門跡、再度本丸を抜けて祈念櫓を見ながら表御門跡、二の丸跡、扇坂御門跡と来て鴻臚館展示館でスタンプ、鴻臚館の遺跡も見学。清々しい朝の空気の中を、少し汗ばみながら心地よいウォーキングとなった。上之橋御門跡から出て、しばらく地下鉄赤坂駅に歩いていくと、福岡城跡堀石垣を見ることができる地下通路を発見、案内の方の懇切丁寧な解説を聞きながら、改めて黒田如水・長政父子の築いた福岡城の壮大さを実感。

写真は、本丸北東隅に鬼門封じのために設けられた祈念櫓(福岡県指定文化財)、大天守台からの眺望、地下通路下の福岡城跡堀石垣の実物展示。
金沢城
2015年9月7日
金沢への出張を機に登城、残念ながら雨。
北陸新幹線の開通で金沢の街には観光客、それも外国人の方が多数。兼六園下までバス利用、紺屋坂を上って石川門から城内へ。ちなみに、石川門の名の由来は、門が石川郡の方向を向いていたことに因むのだそうで、同じく石川郡に由来する県名に同じ。

入口休憩所でスタンプを押印、河北門、菱櫓、五十間長屋を観ながら散策、橋爪門から二の丸へ。重要文化財に指定された三十間長屋から戌亥櫓跡、本丸跡、同じく重文指定の鶴丸倉庫を足早に巡って帰路に。

この城は「石垣の博物館」と言われているそうだが、見どころのひとつはやはり石垣。「金沢城 石垣巡り」というチラシが用意されているので、また機会があれば散策してみたい。もちろん隣接する日本三名園のひとつ、兼六園とともに。

写真は、お堀通りから見上げた石川門と兼六園下交差点付近にある「前田利家公之像」、2015年11月4日再訪時の菱櫓。
伊賀上野城
2015年9月22日
旧東海道の徒歩旅で亀山宿まで歩いた後、伊賀市に宿泊し翌日早朝に息子とともに登城。

夜明け前に蛇谷堀(蛇池)から上野公園に入り、台所門、城代役所跡を経由して天守、高石垣という行程。朝日の中の上野城は格別だったけれど、特に藤堂高虎の高石垣には、堀からの度肝を抜かれるほどの高さもさながら、直線的な鋭さ、他を寄せ付けぬ威圧感を感じることができて、城巡りの醍醐味を満喫。芭蕉生誕三百年を記念して建てられた俳聖殿や、三重県立上野高校の図書館横に現存する唯一の建造物である武具蔵を散策して一旦宿泊先に戻って朝食。

再び、芭蕉生誕の地を経由して今度は天守最上階に登り、伊賀の街を一望。この地が豊かな自然に囲まれた土地であることを実感。

写真は、この城の代名詞とも言うべき高石垣、衆議院議員であった川崎克氏が私財を投じて建設した模擬天守、天守最上階の天井に掲示されている著名人の書画。尾崎行雄、若槻禮次郎、近衛文麿といった政治家から、横山大観、佐佐木信綱、徳富蘇峰といった文化人に及ぶ書画が何気なく展示されているのも、天守を作った川崎氏の影響力によるものか。
松阪城
2015年9月22日
旧東海道の徒歩旅を関宿まで進め、その後のスケジュールを再検討した結果、急遽、息子とともに登城。

市役所側の表門から入って、歴史民族資料館でスタンプを確保。その後、助左衛門御門跡、鐘ノ櫓跡、藤身櫓跡を抜けてきたい丸、本丸を経て天守跡へ。金ノ間櫓跡から再び本丸下段、中御門跡、二の丸を経由して本居宣長舊宅・鈴屋が保存されている隠居丸を散策。裏門跡を経て本居宣長ノ宮に参拝、御城番屋敷を散策、公開住居を見学。

それにしても、伊賀上野城を見た後で松坂城の石垣を見て物足りなさを感じてしまうのは、僕たちだけではないだろう。安土城築城に参加した蒲生氏郷が穴太衆をして築かしめた石垣は繊細だが、大胆さを兼ね備えた才能の開花は、やはり会津若松城か。

写真は、隠居丸に移設された鈴屋に至る鈴屋遺跡保存会正門、彼岸花に彩られた裏門の石垣、槇垣が印象的な御城番屋敷。
水戸城
2016年3月5日
3月初旬、水戸城を訪れるならばこの時期と思い定めていたが、生憎の曇り空。春間近にもかかわらず少し肌寒さを感じながら、梅の花の淡い彩りと香りを楽しむことができた登城となった。
「義公生誕の地」から、JR水郡線に沿った道を使って本丸へ。二の丸から大手門跡を抜けて弘道館を散策、旧茨城県庁前から水戸駅、さらには梅の花の香る偕楽園へ、という行程。

写真は、茨城県立水戸第一高等学校に移築された水戸城唯一の建築遺構である薬医門、9代藩主・徳川斉昭によって開かれた水戸藩の藩校・弘道館、その弘道館の付属施設で「弘道館記」を刻んだ石碑を納めた覆堂・八卦堂と梅花。
二条城
2016年3月27日
旧東海道徒歩旅の最終日、三條大橋到達直後に家族で登城。
地下鉄東西線二条城前駅から出ると、正面には東南隅櫓。改修工事中の東大手門、絢爛豪華な唐門を抜けて国宝・二の丸御殿を拝観。さらに、二の丸庭園から本丸櫓門、本丸庭園を見ながら天主台へと向かい、天主台から京都の街を臨む。鴬張りの床や大政奉還の場面が描かれた大広間一の間など、子供たちも京の都に建つ城を満喫していた様子。

写真は、二条城の東南隅櫓、国宝・二の丸御殿、そして天主台からの眺め。
多賀城
2016年3月31日
息子とともに、新幹線で奥州の誇りを二つの城に訪ねる日帰り旅。
まず登城したのは、鎮守府兼陸奥国府として古代から中世にかけて奥州経営の一大拠点であった多賀城。国府多賀城駅から館前遺跡、多賀城碑を見ながら、外郭南門方向から緩やかに坂を上って政庁跡へ。古代からの遺構に直接触れることができるわけではないが、多賀城碑には歳月の重みを感じた。また、少し離れてはいたが、多賀城廃寺跡などにも立ち寄ることができた。

写真は、外郭南門跡付近に建つ多賀城碑の覆堂、政庁跡に展示されている模型、塔跡付近から眺めた多賀城廃寺跡。
仙台城
2016年3月31日
多賀城跡から一旦仙台駅に戻って牛タンで腹ごしらえ、そしていざ仙台城へ。
仙台城への登城には「るーぷる仙台」を利用、本丸北口脇から本丸に登り、伊達政宗騎馬像とご対面。宮城縣護国神社を含む仙台城本丸を散策の後、中門を経由して大手門脇櫓。さらに、仙台市博物館内の遺構を確認して、息子とともに徒歩で瑞鳳殿を目指し、何とか閉館までに参拝することができた。

写真は、本丸跡に建立された伊達政宗公騎馬像、大手門脇櫓と現存する仙台城唯一の建造物遺構である大手門北側土塀、そして夕焼けに照らされた瑞鳳殿。
高岡城
2016年8月21日
夜行バスを利用して高岡に入り、さっそく登城。

往時の主要な建造物こそないけれど、人工物である濠や土塁、石垣が、周囲の緑と共存しているさまは、かつてこの街そのものが前田利長によって開かれ、その政治の中心であった城跡が今でも高岡の人々の生活にかかわってきていることとは無縁ではないだろう。城が築かれた場所も戦略的に庄川と小矢部川をうまく利用することができる地の利があり、城の西側にあったという小矢部川の支流・千保川の氾濫原を活かした縄張り。徳川の世になったとはいえ、戦国の世を知る武将ならではの城造りの妙を感じた。今は桜の名所のひとつとして数えられるこの地、次は桜花の時期に再訪したい。

射水神社に参拝後、古城公園を出て高岡大仏、瑞龍寺(拝観時間前につき山門のみ)、八丁道経由で前田利長墓所と歩いて、次の目的地・七尾へ。

写真は、内濠に浮かぶ朝日橋、本丸広場北側の前田利長騎馬像、本丸と二の丸とをつなぐ土橋西側に残る築城当時の乱積みの石垣。
七尾城
2016年8月21日
バスで高岡から七尾に転戦、駅周辺で能登の海の幸を握った鮨に舌鼓を打ち、「まりん号」待ち時間を利用して、七尾城攻城の前哨戦として前田利家が能登の地に築いた小丸山城(現・小丸山公園)を散策。

降車ボタンを押しながら、「まりん号」が城史資料館前バス停を通過してしまい、一区間分余計に歩くという災難に見舞われながら城史資料館でスタンプを確保。そのまま徒歩で本丸を目指した。8月下旬とはいえ、水分を持たずに本丸を目指した愚は、今から考えると「無謀」の一言に尽きるが、徒歩で本丸を目指したことは、この城がいかに難攻不落であったかを身をもって知るには十分過ぎるほど。本丸までの道すがら時折見える能登の海の美しさと、急に現れた桜の馬場の石垣の力強さには圧倒された。

本丸近くの駐車場では、ボランティアガイドの方から、小さな本丸登城の認定証をいただいたが、とてもよい記念となった。

写真は、それぞれ小丸山城本丸跡に建立された「史蹟 前田利家小丸山城址」と刻まれた石碑、突如現れ、圧倒的な威圧感を示す桜馬場石垣、そして本丸の眺望。
高松城
2016年9月25日
ここにきてやっと中国・四国地方の百名城の攻略を開始。まずは、我が国屈指の水城・高松城攻め。

学校が休暇の息子を相棒に、いつかは乗りたいと思っていた「サンライズ瀬戸」を利用して高松入り。さっそく讃岐うどんを朝食に、現在、玉藻公園となっている高松城跡へ。 生駒親正が築城を始め、冲方丁「光圀伝」にも登場する徳川光圀の兄・松平頼重が整備を進めた城には、物語の影響もあってか、何やら折り目の正しさを感じた。海水が引き込まれた堀には鯛が泳ぎ、潮が引いた後の石垣のいたるところに貝が付着。他方で、よく手入れが行き届いた披雲閣の庭園ではゆっくりとした時の流れを感じることができる、この城の個性を十分に堪能。

写真は、天守台から見た内堀と鞘橋、月見櫓、そして瀬戸大橋通りを走る琴電と艮櫓。
丸亀城
2016年9月25日
高松城から転戦、JR予讃線で丸亀駅下車、徒歩で現存天守を攻める。
丸亀駅到着時には曇天、天守を仰ぎ見ながら本丸にたどり着く頃には雨が降り出した。天守までの道は比較的急な坂道で、雨だと滑りがち。

現存三重天守の中で最も小規模とのことだったが、展示も充実していたし、外は雨だということもあって、息子とともに比較的ゆったりと時間を過ごした。天守から戻って見返り坂を下り、内部が公開されていた大手一の門を見学し、御殿表門、かぶと岩を経由して搦手に廻り込み、再び搦手口から三の丸を巡ったが、「石の城」が誇る石垣を十分に堪能することができた。

写真は、それぞれ丸亀市民広場から見上げた丸亀城の雄姿、二の丸搦手付近から見上げた天守、搦手口付近の石垣と讃岐富士(飯野山)の競演。
津山城
2016年9月26日
岡山駅近くでレンタカーを借りて、息子とともに一路津山へ。桜の頃でも、紅葉の頃でもなく「晴れの国・岡山」で予想外の雨の登城となったが、ささやかに咲く彼岸花がお出迎え。現存する石垣から、壮大な櫓群に囲まれた城郭建築を偲ぶことはできたが、櫓跡を巡りながら、この城で構想された櫓がすべて復元できたら、どれほど凄いことかとも。B級グルメの雄「津山ホルモンうどん」も堪能することができて満足。

写真はそれぞれ、二の丸から見上げた備中櫓、天守台から見た備中櫓、彼岸花に彩られた雨の中の本丸東の石垣。
備中松山城
2016年9月26日
日本三大山城の一角を占め、今年はNHK大河ドラマ「真田丸」のオープニングにも登場した備中松山城攻め、今回の息子との旅で楽しみにしていた城。津山城から転戦し、レンタカーを返さなければならない時間的な制約のために高梁市街からの登城を諦め、城見橋公園駐車場に車を止めてシャトルバスで鞴峠まで上る一般的な登城プラン。時間の制約から大松山城に足を伸ばすことはできなかったが、切り立つ岩の上に築かれた石垣や土塀は十分に堪能。展望台にも立ち寄って、雲海の中に浮かぶ城の眺めにも思いを馳せた。

写真はそれぞれ、大手門付近から見上げた石垣と土塀、二の丸からの本丸の眺め、展望台からの天守と二重櫓の雄姿。
鬼ノ城
2016年9月27日
白村江の戦いに惨敗を喫した大和朝廷が、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築いたとされる鬼ノ城に登城。城壁見学路を歩いて、その壮大さに大和朝廷の強烈な危機感を感じることができたが、古代にどのようにしてこれだけの建造物を築くことができたのか、この場所と「桃太郎」の逸話とはどう関係しているのか、謎が謎を呼ぶ登城行となった。

写真はそれぞれ、展望台から撮影した西門と高石垣、振り返って撮影した東門付近の展望所(撮影がうまくいかなかった「屏風折れの石垣」の代わりとして掲載)、角楼から見た西門。
岡山城
2016年9月27日
鬼ノ城から帰還した後、中学の修学旅行以来となる後楽園を含め岡山城界隈を探訪。夜にはライトアップされた天守まで出かけたが人の気配がまったくなく、県庁所在地の真ん中に所在する城ながら、ちょっとした恐さも感じたが、「晴れの国」にやっと戻ってきた陽の光の中に渋く輝く姿は、宇喜多、小早川、池田といった歴代城主のセンスが競演する名城であることを改めて物語っていた。

写真は、威風堂々たる不明門、本丸本段から見上げた天守、後楽園から遠望した天守。
根城
2017年1月28日
弘前の恩人を訪問するために冬の青森へ。せっかくの機会なので、青森県内にある日本百名城を攻略することに。まずは東北新幹線を八戸で途中下車、バスを利用して冬の根城に登城。

主な見学路では除雪されており、地元のかたがたの「おもてなし」の心を感じつつも、時々足を滑らせながら根城南部氏の居城跡である「史跡 根城の広場」を散策。本丸も主殿を手始めに時計とは逆方向に回りながら復元された建物を巡った。奥州における南朝側の拠点となった城跡は雪深かったものの、奥州から南朝の理想実現を目指す熱い思いを感じた登城行となった。八戸駅までの帰路では、行き先の違うバスに乗ってしまって、雪道を走って何とか予定していた新幹線に乗ることができたのも、今となってはよき思い出。

写真は、国道104号線沿い「史跡根城址」と刻まれた石碑と本丸遠景、主殿広間に再現された正月11日の儀式、八戸市博物館前の南部師行公騎馬像。
弘前城
2017年1月29日
青森市に住んでいた頃に何度も訪れた弘前城、今回は友人と二人、改めて冬の弘前城の良さを発見する登城行。折りしも石垣修復のため、現存天守が元の場所から曳屋されており、かつてない本丸を見ることができるのを楽しみに。そしてこの城が記念すべき五十城目。

前日の根城もそうだったが、冬の津軽の雪深さの中の登城行には思いのほか苦労。それでも東門から入って三の丸、二の丸、四の丸、北門で一旦城外に出て石場家住宅や仲町伝統的建造物保存地区を巡り、一陽橋から再び城内に入って春陽橋、北の郭と歩いて、本丸にて曳屋された天守と対面。下馬橋から再び二の丸、杉の大橋を経由して追手門という順路で、弘前城を十分に満喫。

写真は、本丸中央付近に曳屋された弘前城天守、現在の下馬橋から本丸の眺め、東門正面・弘前文化センター前にある藩祖・津軽為信公像。
岩村城
2017年8月12日
夏休みで子供たちが不在の間、妻とともに日帰り登城行。
雲の多い、時折雨のパラつく生憎の天気だったが、雨に濡れた石垣の魅力とともにこの城にはお似合いだったかもしれない。

あまりにも丹精に整備されていて、正直なところ軽登山くらいの負荷しか感じていなかったが、幾重にも重なる本丸虎口の石垣には衝撃を覚えるほど。山城の醍醐味や石垣のある種の芸術性を感じた登城行となった。

城下町となる岩村も素敵なまちで、時代を超えてタイムスリップしたような、心地よい錯覚に陥る。山城を満喫し、城下の風情を楽しめたのは、良き夏の思い出。

写真はそれぞれ、一の門付近の斜面の石垣、岩村城の「顔」とも言うべき本丸虎口の石垣、そして復元された藩主邸の太鼓櫓。
高知城
2018年3月26日
出張で訪れた高知にて、現存12天守のひとつを攻める。
この城は言わずと知れた山内一豊(「やまうちかつとよ」と読むことをこの登城行で知る。)の築いた近世城郭。高知市内の中心部に位置していて、今も市民には馴染みの場所であるようだ。いつも思うことだが、近世の城郭は軍事拠点としてだけでなく、政治や経済の拠点でもあるわけだけど、いい場所を見つけてくるものだ。

ふらりとまち歩きをしてみると、150年ほど前に武市半平太や坂本龍馬などが、この城を見上げながら酒を飲み、国事を語っていたのかと思うと、本当に不思議な気がする。夜には市内で鰹のたたきも堪能。

写真は、城内にあった板垣退助像と天守のコラボレーション、高知県立高知城歴史博物館の展望ルームから見た天守と桜花、本丸御殿と天守。
石垣山城
2018年5月1日
思い立って石垣山城に登城、続百名城スタンプラリーとしては初登城。
眼前の戦に備えるための築城というカテゴリーとしては、秀吉好みの他を圧倒する規模感、壮大さという点で肥前名護屋城にも共通するものを感じる。一方で、「兵どもが夢のあと」の風情も共通項。確かにこの地にこれだけの城が忽然と現れれば、小田原城内は騒然となったであろうことは想像に難くない。

地質学的には、北米プレートとフィリピン海プレートのプレート境界に位置する小田原城を、箱根火山の東に位置する石垣山城で攻めるという構図だそうで、これまた興味深い視点。

写真は崩落過程を留めた本丸石垣、この場所の石垣の崩れ方さえも確かに肥前名護屋城を髣髴とさせる。
大多喜城
2018年5月4日
続日本百名城を巡る登城行、第二城目は千葉県夷隅郡大多喜町に残る大多喜城跡。往路は品川発の高速バスを利用。だけど連休の渋滞で東京アクアライン「海ほたる」まで何度も立ち往生、これには本当に困った。

大多喜の町には古い家並みや商家、寺院が残っていて、癒しの空間。大多喜城そのものは模擬天守(写真)だが、現存する二の丸御殿薬医門やコンパクトながらもしっかりした土塁は立派、さすが本多忠勝が手がけた城だ。大多喜藩最後の藩主・松平正質は、かつて理化学研究所を率いた理事長・大河内正敏氏の父君、県立中央博物館大多喜城分館となっている天守内に大河内氏の写真も飾られていた。

町をぶらりと歩いて、いすみ鉄道で大原駅へ。その後、外房線、京葉線と乗り継いで帰宅。時間はかかったけれど、いすみ鉄道→外房線の旅はこれまた長閑で、癒される時を過ごすことができた。
滝山城
2018年5月5日
この城は北條氏照が八王子城に移るまでの本拠地であり、武田信玄の猛攻にも耐えて必要以上の侵攻を許さなかった「中世城郭の傑作」なのだとか。確かに、完成された北條系築城技術を随所に散りばめ、お腹いっぱいに満喫できる壮大な山城だ。

移動は八王子駅からバスを利用、登城口はバス停すぐそばにあるが、この地域に張り巡らされた城郭をシリーズで訪ねるなら車は必須であるように思う。

写真は中の丸と本丸を繋ぐ「引橋」、続百名城のスタンプとしても図案化されている。
小机城
2018年5月19日
「篠原城・小机城お城めぐり」というイベントへの参加を機に、小机城に登城。
これまで立ち入ったことがない空堀を歩いたり、第三京浜で分断された曲輪を歩いたりと、地元のガイドの方にご案内いただいたために、多くの発見に満ちた充実した登城行。

自然地形を生かしながら土塁と空堀の戦略的な配置によって、攻めがたい城を築くのが北條流。これまで見てきた八王子城や山中城、滝山城などとも比較しながら、丹念に見て歩くことができた。それにしても土塁を残した竹林は幻想的、今回は大人数での集団行動のために良い写真を得ることはできなかったけれど、再びチャレンジしたい。
明石城
2018年9月24日
郷里への電車旅、途中下車して明石城へ登城。
まずはランチ代わりに、明石・魚の棚商店街「たこ磯」の玉子焼(明石焼き)を堪能。築城からちょうど400年、明石公園の中にあって二基の三重櫓と二つの櫓をつなぐ土塀が印象的。ちょうど公開されていた坤櫓の内部も見学。折りしもガーデニング関係のイベントが開催されていて、二の丸に当たる明石公園内ではジャズの演奏が響いていた。

写真は内部を見学させていただいた坤櫓、土塀と巽櫓、明石駅のホームからの眺望。
赤穂城
2018年9月24日
明石城から転戦して、赤穂城へ。
播州赤穂駅に降り立ち、しばらく県道32号を進んで花岳寺経由で赤穂城の堀に取り付く。立派な大手門を抜けて大石邸の長屋門を右に見て大石神社に参拝、三の丸から庭園を整備中の二の丸、さらには本丸へと進むと、それまで何とか耐えていた雲の間から雨粒が落ちてきた。それでも天守台に登ってみると、気分は爽快。これが山鹿素行の縄張りによる城なのかと感激も新たに。

その後、二の丸を傘を差しながら散策、残念ながら赤穂市立歴史博物館を訪ねることはできなかったが、それでも限られた時間の中で、徒歩で城内や赤穂の街を闊歩できて満足。

写真は、大手門と三の丸大手隅櫓、本丸門、播州赤穂駅前の大石内蔵助像。
福山城
2018年9月24日
赤穂城登城後、播州赤穂駅、相生駅経由で福山入り、北口を出るとそこには福山城。

それもそのはず、福山駅は山陽鉄道の駅として、1891(明治24)年に福山城の三の丸南側を東西に横断するように建てられ、現在のコンコースが二の丸正門である鉄御門及びその外枡形のあった場所に当たるのだとか。天守を除けば熊本城の宇土櫓と並び、現存する最古の櫓のひとつで国指定重要文化財の伏見櫓、同じく国指定重要文化財の筋鉄御門を経て、本丸にてその日のうちにスタンプを確保。夜は福山駅近くの「尾道ラーメン 一丁」にて。

翌朝朝食前に再び福山城周辺を散策。かつての三の丸に当たる県立歴史博物館、ふくやま美術館が立ち並ぶ一角から二の丸、本丸を探索。二の丸北にある福寿会館、その北に位置する三蔵稲荷神社、旧阿部神社を合祀した備後護国神社と転戦。街中に残る往時の城の面影を探してみたかったがタイムアップ。

写真は、雨の夕暮れにライトアップされた天守、翌朝二の丸で出会った老中 阿部正弘像、福山駅のホームから見た福山城。
新府城
2019年4月29日
平成最後の城巡りは、甲斐武田家の栄枯盛衰を見てきた続百名城二城。最初に訪れたのは、甲斐武田家の終焉を今に伝える新府城。

絶大な兵力を誇りながらも天下を手中に収めることができなかった武田家の無念を示すかのような曇天の下、韮崎駅前にある市民交流センター ニコリで電動アシスト付自転車をレンタル、そこから七里岩に急激に登ってしまえば、あとはアップダウンを繰り返しながら新府城に至る。そうそう、途中スタンプを確保するために、韮崎市民俗資料館に立ち寄ることを忘れずに。

たどり着いた新府城跡、確かに要害の地であり、戦に備えるには納得できる場所。壮大な造りでもあるけれど、躑躅ヶ崎館に感じられる名門武田氏の武家としての余裕やら矜持やらは既に感じられない。

写真は、県道17号から新府藤武神社への参道を兼ねた本丸跡への最短コース。三日月堀も候補だったけど、やはりこちらの方が新府城らしいかな新府城らしいかな。
要害山城
2019年4月29日
甲斐武田氏の栄枯盛衰を訪ねる登城行、新府城に続いて攻めたのは要害山城。武田晴信が誕生したとされる城だ。躑躅ヶ崎館や新府城と比較すると、一時代前の山城という印象だけど、躑躅ヶ崎館の詰城として同時代に存在。それぞれの役割を担う城を使い分けていたという点はとても合理的。

甲府駅前の藤村記念館(旧睦沢学校校舎)でスタンプを確保、本数も少なくバスの時間が合わなかったため、タクシーを利用して登山口へ。概ね40分ほどで山頂に当たる主郭部に到達。さらに進んで、門跡や竪堀跡を見たあとで下山。これを攻めるのは厳しいだろうなぁと痛感した。

写真は、主郭部にあった東郷平八郎書による「武田信玄公誕生之地」の碑。1521(大永元)年、今川氏親の家臣・福島正成の進軍の際、武田信虎の正室・大井夫人は懐妊中で、躑躅ヶ崎館から詰の城である要害山城(あるいは麓の積翠寺との説もあり)に避難。この地で武田信玄を生んだとされることから建てられたものだそうだ。
土浦城
2019年5月5日
こどもの日の城攻めは常総の二城。
最初に登城したのは土浦城。土浦駅下車、「自転車の街」を徒歩にて、搦手門跡経由で亀城公園を目指す。

旧前川口門から旧二の丸に入ると、鯉幟が泳ぐ堀と土塁、そして櫓門が出迎えてくれる。東櫓は土浦市立博物館の付属展示館となっていてスタンプ確保後に観覧、そのまま趣のある土塀に沿って霞門、西櫓を経て土浦市博物館。かつての大手門跡であったことを示す案内板のある土浦小学校から等覺寺を経て、東光寺境内に残る土浦城南門の土塁、県道24号大町交差点の信号機脇で「市指定史跡 南門の跡」と刻まれた石碑を確認して、水戸街道土浦宿の面影を残す中城通りを散策。帰路立ち寄った霞ヶ浦では初夏の雰囲気を満喫。

写真は土浦城本丸太鼓門、関東地方で唯一現存する櫓紋なのだとか。桜花の時期はさらに映えるに違いないけれど、新緑の中の勇壮な門もまたよい。
本佐倉城
2019年5月5日
土浦城登城後、電車を乗り継ぎ乗り継ぎして訪れたのは千葉氏の居城・本佐倉城。こちらは平山城。

京成大佐倉駅を起点に内郭群の相当部分を散策し、ガイドの方から勧められた向根古屋(外郭)の遺構を経て、JR酒々井駅に至るややハードなコース取り。上杉謙信に対抗するために連携関係にあった北条氏の影響なのか、土塁や空堀を駆使した縄張り、中でもセッテイ近くの深い空堀や前述の枡形虎口・馬出の遺構は圧巻。

写真は東山のビューポイントから大佐倉駅方向の眺望。駅そのものは見えないけれど、左に伸びるセッテイ山など、本佐倉城の北側のつくりが一望できる構図。目の前に広がる水田はかつて印旛沼とそれに連なる湿地帯だったことも良く分かる。
八代城
2019年7月12日
一国二城が許された肥後に八代城を訪ねた。
行きは熊本空港からバスで熊本駅へ。その後、九州新幹線・新八代駅を経由して、最後の一区間は鹿児島本線を使って八代駅に到着。市内を循環するバスで最寄の停留所まで。ただ、空港からも直行バスがあったようで、そちらを使えばよかったかも。

高麗門・欄干橋から本丸跡へ進み、途中八代宮参拝を挟んで、東側の宝形櫓から反時計回りに櫓跡を巡りつつ大天守・小天守跡へ。本丸北東の三階櫓跡で折り返して、廊下橋門跡からかつての二の丸北側にあたる松井神社に参拝、八代市立博物館未来の森ミュージアムにてスタンプを確保して、八代城主三代松井直之が、母の崇芳院尼のために建立した茶庭・松濱軒を散策。一国一城の原則を超えて、島津対策を重視した幕府の意図を、二番目の城の壮大さに感じた登城行となった。

写真は、県道42号と250号が交差する松江城町交差点から撮影した大天守跡。
菅谷館
2019年8月10日
大学の試験の終了を機に、北武蔵の三つの城に登城、まず訪れたのは鎌倉時代の居館を拡張した菅谷館。武蔵嵐山駅から徒歩にて登城。縄張りの中に設けられた埼玉県立嵐山史跡の博物館で情報を得た後、広大な土地に土塁と堀を巡らせた城跡を満喫。

写真は、二ノ郭の順路右の小高い土塁の上に建っていた畠山重忠の像。
右に見える銘板に刻まれた碑文は「冠題百字碑文」と呼ばれるものだそうで、本郷に住む在野の儒学者・漢学者小柳通義の撰文、各行の最初の一文字を連ねると「畠山重忠公正路を踏んで讒に遭う」の題をなしているとのこと。
杉山城
2019年8月10日
菅谷館を辞して再び武蔵嵐山駅に戻り、この日二城目となる杉山城を目指す。

徒歩による攻城戦は、武蔵嵐山駅からスタンプのある嵐山町役場までが一苦労。さらに、炎天下の登城行は町役場から大手口まででかなりの体力を消耗。それでも、室町時代の典型的な山城であるこの城は、地形をうまく利用して設けられていて、歩いていて本当におもしろい城。外郭、南二の郭、馬出郭、南二・三の郭を経由して、本郭を右に見ながら虎口脇を抜け、一旦搦手口まで下ってみる。その後、再度北二・三の郭を抜けて本郭へ。その間、保存状態のよい見事な竪堀なども堪能。

ただ、その後は軽い熱中症となって、ふらふらしながらタクシーを呼んで、東武東上線 小川町駅まで。冷房がギンギンに効いた車の中で何とか元気を取り戻すことができた。

写真は、本郭の石碑と祠、そして案内板。その奥には本郭北側の土塁も。
忍城
2019年8月10日
小川町駅からは東武東上線を利用、さらに寄居駅で秩父鉄道に乗り換え、行田市駅に向かう。目的はこの日三城目の攻城となる忍城、豊臣秀吉による小田原攻めに伴う水攻めで一躍名を上げた「浮き城」だ。

行田市駅からも徒歩で登城、行田市役所交差点、忍の時鐘楼跡を経由して御三階櫓へ。時間もいい時間だったし、まずは行田市郷土博物館でスタンプを確保、そのまま御三階櫓に上って市内を展望。

その後、本丸土塁を堪能し、忍城十五門のうちのいくつか(成田御門(現・行田市立中央小学校)、太鼓門(同忍中学校)など)を訪ね、忍城址と県道128号を挟んで鎮座する忍諏訪神社と忍東照宮に参拝。この日の登城行が無事に進んだことを感謝。残念ながら、今回は總願寺に移築された北谷門や石田堤、水城の名残を今に留める水城公園を訪れることができなかったが、機会を見て再訪したい。

写真は御三階櫓と高麗門、あずま橋の夕景。
鹿児島城
2019年9月11日
出張の機会を利用して、鹿児島城に登城。といっても、城跡を歩くというより、西南戦争の戦跡巡りのような感じの軽めの登城行。

鹿児島中央駅からバスを利用、城山入口交差点で石垣に刻まれた西南戦争の弾痕跡や私学校跡地(現 鹿児島医療センター)に残る正門を確認、「敬天愛人」と刻まれた石碑、西郷隆盛終焉の地を辿って城山公園展望台へ。市内、そして桜島を一望できるこの場所から城跡を確認。

城山を降りて、北御門跡から本格的な城歩き。鹿児島県 歴史資料センター 黎明館でスタンプを確保して、現在復元工事中の御楼門跡へ。さらに二之丸跡に建つ県立図書館を抜け、西郷隆盛そして小松帯刀像銅像、照国神社で参拝して帰路に。限られた時間ということもあって、尚古集成館や多賀山公園 (東福寺城跡)への訪問は今後の課題。

写真は、鹿児島城の後背にある城山からの眺望、北御門跡付近の石垣、そして照国神社に建つ島津久光公像。
諏訪原城
2019年9月23日
2015年の旧東海道徒歩旅の途中で初登城、今回はそれ以来のスタンプを確保するための登城行。

とはいえ、素通りはもってのほか、東海道を再び歩き、完成された武田流築城術を確認したくなるのが人情。今回もJR金谷駅から旧東海道石畳を上って登城。駅から歩くこと20分、そこにはビジターセンターが設けられたり、真新しい案内板が設置されたりと続百名城に指定された効果が歴然。ビジターセンターでスタンプを確保した後、改めて順路に沿って馬出しや曲輪を堪能。

写真は二の曲輪中馬出し、この城の魅力は何といっても馬出しにあると思う。本曲輪から見る旧東海道金谷宿の眺めも格別。
吉田城
2019年9月23日
諏訪原城に続いて、こちらも旧東海道徒歩旅でのリベンジシリーズ。前回は、息子とともに、旧東海道からちょっと寄り道という感じで立ち寄ったが、今回は豊橋駅から路面電車 豊橋鉄道東田本線を利用して豊橋公園前駅下車、豊橋公園を抜けて城内を散策。

前回の登城行で、大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が置かれた痕跡などを含めて公園内を探索していたのだけど、北御多門跡から豊川に下りてみたり、広重の浮世絵のように吉田大橋から鉄櫓を撮影してみたりと、前回とは違う楽しみ方で吉田城を満喫。

写真は吉田大橋から見た鉄櫓、青空だったらもう少し素敵な写真になったかな。
浜松城
2019年9月23日
この日の最後の目的地は、やはり旧東海道徒歩旅の際に登城済みの浜松城。最初の登城は、かつての同僚に連れてきてもらった機会。

JR浜松駅を出発して、徒歩で城を目指す。途中、本多忠勝の屋敷跡とされる遠江分器稲荷神社に参拝。一気に天守に取り付きスタンプを確保、その後、天守からの眺望を楽しみ、前回の登城で見逃していた天守内の井戸を確認。荒々しく雄雄しい石垣をじっくりと眺め、これまた前回訪れることができなかったこの城の前身とも言うべき曳間城跡を攻城。旧東海道の曲がり角でもあった連尺交差点の大手門跡を経由して、餃子を手土産に凱旋。東海道に面する三河、遠江の三城を巡る旅を締めくくった。

写真は、家康公鎧掛松付近から撮影した浜松城天守と本丸石垣。野面積みの石垣の自己主張が際立つ。
和歌山城
2019年11月8日
かつての同僚たちとの再会を兼ねた、近畿遠征の最初のターゲットは和歌山城。
和歌山駅到着後、駅から伸びる一本道を辿って徒歩で城を目指す。大手門から入って一旦岡口門まで抜けて、表坂から本丸へ。この平坦な土地柄で、こんなにも城に向いた土地があるのかと思えるような立地条件で、ちょうど高知城を訪れた時と同じ印象。本丸御殿跡から天守の眺めを楽しんだ後、いよいよ天守。紀州徳川家が治めた和歌山を一望後、追廻門、紅葉渓庭園、二の丸庭園を巡って再び大手門経由で駅へと向かう。

いつもながらの慌しい登城行で、徳川吉宗公之像や紀州徳川家御廟を訪れることはできなかったが、また次の登城機会に。

写真はこの城との最初の出会いとなった一の橋と大手門、本丸御殿跡から見た天守、紅葉渓庭園と御橋廊下。
岸和田城
2019年11月8日
和歌山城から岸和田城へ転戦、阪和線、関西空港線、南海本線と乗り継いで、蛸地蔵駅下車、徒歩にて登城。

府立岸和田高校の生徒と思しき若者たちが写真撮影している脇を抜けて、岸和田五風荘の庭園を散策したのち、堀に映る美しい城の写真を何枚か撮影。予め覚悟していたことだけど、大手櫓門は閉じられ、門前には「臨時休場」の看板。「八陣の庭」を堪能することは叶わず。二の丸公園を散策後、だんじり会館を訪れてスタンプを確保、そのまま堀に沿って歩を進め岸城神社へ。

本丸攻めが成就しなかったために、城を十分に堪能できなかったのは残念だけど、地元に愛される、端正な城の姿はとても好感を持てるものだった。だんじりの季節にでも、再訪できることを強く望む。

写真は五風荘前あたりから撮影した天守の雄姿。
福知山城
2019年11月9日
大河ドラマが始まる前の予習という意味合いでは決してなく、あくまで百名城&続百名城攻略の一環としての丹波攻め。幸い前日の飲み会の影響もなく早起きできて、まずは福知山城へ。三宮駅から阪急神戸線、阪急今津線で宝塚駅、JRに乗り換えて福知山線利用。福知山駅到着後は徒歩で登城。

福知山線の車窓からは霧に煙った景色が続いたが、もしかしたら「天空の城」を目指していたら絶好の天候だったのかもしれない。そんなことを考えながら駅に到着、東へ続く平坦な道を進むと、市役所あたりから端正な天守が霧の向こうに見え始めた。昇龍橋を経て本丸へと登城、野面積みの石垣のところどころに残る転用石を見つけながら、天守周辺を散策。天守内でスタンプを確保してそのまま天守内の資料館を見学、さらに御霊神社へと足を伸ばした。

写真は本丸から見上げた天守、転用石らしき石も見える。
篠山城
2019年11月9日
飲み会先行の無計画な登城行となったため、福知山城から笹山城に転戦。福知山線を再度戻って、篠山口駅下車、その後バスにて二階町通りに到着。最寄のバス停から歩いて登城。

「築城の名手」として名を馳せた藤堂高虎が縄張りを担当したという城は、さすがに安定感のある城だ。本丸は緩やかに高くなった丘陵にあり、お手本のような輪郭式。大書院の壮大さにまずは驚かされたけれど、さらに気になったのは今に残る馬出し、そして天守が築かれることがなかった天守台の石垣。

城下町をゆっくりと散策したかったけれど、このあと黒井城攻めを控え、時間的制約から望み叶わず、他日を期すことに。笹山口に戻るバスが来るまでのわずかな時間にお土産の栗と黒豆を購入。

写真は、東馬出の堀、三の丸から見た大書院、城の東南に位置する天守の石垣。案内板によれば、築城時、「堅固すぎる」との理由で幕府の指示により天守の建築を中止したのだとか。
黒井城
2019年11月9日
無計画な丹波登城行、何とか目指す三つの城を攻める目処が立つ。とはいえ、最後の城は「丹波の赤鬼」こと赤井直正の黒井城、最後の城が明智光秀を悩ませた難攻不落の山城というプレッシャーを感じながらの登城。

一応覚悟はしていたものの、現実問題として黒井駅にコインロッカーがないことを知って、まずはお土産を抱えながらの山城登城に腹を括った。時間も限られていたので、早々に春日住民センターでスタンプを確保。パンフレットも入手していざ登城開始。

折りしも黒井城まつりが開催されているさなか、春日局の出生地とされる興禅寺を訪れる。登城口では、ここまで来ればと迷わず「急坂コース」を選択、息を切らしながら本丸を目指す。本丸まであと200mというところで知り合った、ともに攻城に苦労した一期一会の同士に本丸にて写真を撮ってもらったが、この登城行のよい記念となった。

写真は本丸で撮影した石垣と城下の町並み。登城の達成感と本丸からの眺めの素晴らしさ、そして城仲間の一期一会の情けの厚さは、とても写真では伝わらないな。
広島城
2019年11月23日
娘と新幹線で広島に途中下車、原爆ドーム、平和記念資料館に圧倒され、広島風お好み焼きに満足した後に登城。

堀に美しく映る太鼓櫓、多聞櫓を見ながら城南通りを進み、御門橋を渡ると二の丸。さらに本丸へと進む。広島大本営跡を横目に、さらに進むと天守が現れる。豊臣秀吉の聚楽第を参考にしたとも言われる復興天守(外観は復元)は、確かに端正な造り。その天守が戦争、それも原爆によって失われてしまったことは本当に残念。

天守内にあるミュージアムショップでスタンプを確保して城を辞したが、天守最上階から見た広島の街に広がる真っ青な空がとても印象的だった。

写真は、城南通りから撮影した二の丸太鼓櫓と多聞櫓、真っ青な空にそびえる五重五階の天守、二の丸へ通じる御門橋と御門櫓。
高島城
2020年6月27日
COVID-19によって城巡りを控えざるを得なかったが、久々の登城行。向かったのは17年9月に諏訪湖一周ウォーキング時に家族で訪れた高島城、スタンプの獲得とその時未体験の天守からの眺望を楽しむことが主な目的。

上諏訪駅から徒歩で城を目指す。甲州道中からも少し離れた場所に位置するこの城は、往時、諏訪湖に突き出た縄張りを有していて「諏訪の浮き城」との異名を持つが、埋立てによって今はその面影を留めてはいない。それでも町家の陰から天守が見えると、改めて城を訪ねる旅ができる幸せを感じることができた。

勝手口に当たる土戸門跡から本丸に入り、しばし散策。本丸御殿跡にはまだアジサイの花も残っていた。資料館を兼ねる復興天守は、コロナ禍の影響で入場人数の制限や入館前の手指消毒などの措置が取られていたが、無事入館。最上階からの諏訪の眺望を楽しんだ。

ここで湖の舟に乗ることができたという御川渡御門を出て、冠木橋付近から天守の写真を撮影。さらに南之丸跡、二之丸跡、三之丸跡を経て再び上諏訪駅へ。写真はその時のもの。駅構内の足湯で疲れを癒した。
赤木城
2020年8月7日
南紀・伊勢六城と伊勢神宮参拝の旅、最初の目的地は「築城の名手」藤堂高虎が手掛けたとされる赤木城。特急南紀で新宮入り、駅前で借りたレンタカーを利用して城を目指す。平山城とはいえ、東郭のすぐ下に数台が駐車可能なスペースがあり、到着後すぐに登城開始。

最近、竹田城にも似た雰囲気を持つ城として知名度が上がっているそうだけど、平成に入って整備が進められているからなのか、はたまたコロナ禍の影響なのか、多くの観光客が訪れるというわけでもなく、ゆっくりと遺構を巡ることができた。特に、自然石を荒々しくも緻密に積んだ石垣は見応えあり。虎口から主郭へ進むときの期待感も、この城ならではのワクワク感。

写真は主郭から見下ろした東郭、確かに天空の城を思わせる。新宮までの帰路に立ち寄った丸山千枚田も圧巻。
新宮城
2020年8月7日
赤木城からレンタカーで新宮まで戻って登城。
元々はに熊野三山を支配した熊野別当の別邸があった場所なのだそうだが、実際に熊野川の畔の丹鶴山に立つと、この土地を治める者が居を構えたくなる場所であることが心情的に理解できる。それともうひとつ、浅野氏・水野氏と支配者は変わっても、この地に大きな影響を及ぼしているのは今日に至るまで熊野信仰なんだという強い印象を受けた。

遺構で印象深かったのは、水ノ手。熊野川に面した船着場があったのだそうだが、江戸期に特産品である備長炭を江戸に送って財源を得る拠点となっていたのだとか。軍事上の戦略拠点が、産業の拠点となっていることは興味深いところ。特急南紀から見えた、沈む夕日が城跡と熊野川を照らす光景は忘れられない。

写真は、鐘ノ丸から撮影した本丸の石垣と熊野川、出丸の石垣も少し写っているかな。登城後に世界遺産に追加登録された阿須賀神社に参拝、隣接する新宮市歴史民俗資料館でスタンプを確保、同じく世界遺産の熊野速玉大社にも参拝。時間の関係で神倉神社まで足を延ばすことは叶わなかったが、再度熊野詣の機会があれば次こそは訪れてみたい。
宇陀松山城
2020年8月8日
前泊した松阪でレンタカーを借りて、多気北畠氏城館とともに登城。道の駅 宇陀路大宇陀に駐車して周辺地図を入手、松山地区まちづくりセンターでスタンプを確保、係の方から倒木の影響で春日神社からの登城はできない旨の情報を得て、同センター近くから車も通行可能な整備された道路を徒歩で登城。

整備された道を過ぎると、山城らしい自然の地形を利用した虎口や荒々しく積まれた石垣が姿を現し始めるが、それとともに蚊も数多く出現。蚊を払いながら少し上ると、広がりをもった平坦な本丸と一段高い天守郭が現れる。本丸ではとてもいい風が吹いていて、周辺の山々の眺めとともにとても心地がよい。夏草に覆われて、周辺の郭を巡るのはかなり大変。

城下に当たる松山地区は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、歴史的な町並みを巡るのも楽しみのひとつ。猛暑の中ではあったけれど、森野舊薬園や数多くの古民家を巡ると心癒されるし、「奈良一奈良漬いせ弥」にてお土産を購入。登城後、道の駅で食べた「宇陀牛肉うどん」も美味。

写真はかつて宇陀松山城の大手に当たる春日門、現在は春日神社が鎮座。
多気北畠氏城館
2020年8月8日
宇陀松山城からレンタカーで転戦。予め美杉ふるさと資料館にて、霧山城までの地図をいただいてから北畠神社に参拝、社務所でスタンプと御朱印を確保。北畠神社は社殿を彩る朱が眩しく、周辺の緑とのコントラストが秀逸。北畠顕家像や心安らぐ庭園も見どころ。

とはいえ、この登城行での最終目的地は霧山城跡。意を決して上り始めるが、詰城跡までは難なく達するものの、山城・宇陀松山城での疲労も影響してか、杉が生い茂る山中を歩けど歩けどなかなか本丸は見えてこない。こういう場所だからこそ、到達したときの達成感もひとしおで、「霧山城跡」の石碑が見えた時には家族にLINEで喜びを伝えたくて連絡。

写真は城跡に建つ「霧山城址」の石碑。
田丸城
2020年8月9日
コロナ禍渦中の南紀・伊勢登城行も最終日、松阪を出発して伊勢神宮に参拝、そこから田丸城へ向かう。何とも温かみのある田丸駅の駅舎から徒歩で城跡へ。まずは大手門橋から城内に進み、当地出身で、朝日新聞社社主を務めた村山龍平の記念館でスタンプとパンフレットを確保。

二の丸には玉城町立玉城中学校が建つ。遺構が数多く残る、歴史を感じさせる場所に学び舎がある生徒たちは本当に幸せだと思う。富士見門、蓮池から天守跡へと進むが、途中では土塁や荒々しく積まれた野面積みの石垣を堪能。また、本丸跡からは周囲の眺望がすばらしい。二の丸の石垣からは、中学校のグラウンドで行われている野球の試合を観戦しておられる保護者の方々がおられるなど、今も地域に根差した重要な場所として機能していることが分かったし、城跡と地域がうまく共存している印象。

写真は本丸虎口の石垣、さまざまな石垣が折り重なって天守まで続くさまは続百名城にしておくには惜しいと思える力強さがある。
津城
2020年8月9日
南紀・伊勢六城登城の旅の最後に訪れたのは津城。築城の名手とされた藤堂高虎によるもので期待もしたのだけれど、県庁所在地の中心部にある城跡で、遺構があまり残っていないことに加え、城跡を活かした街づくりが行われている印象もなく、少し残念。

津新町からお城西公園経由、土橋から西之丸へ侵入し、藩校有造館の講堂の正門・入徳門、西鉄門虎口を抜けて本丸跡へ。本丸を囲む石垣はさすがに堅固。藤堂高虎の騎馬像や「高山公遺訓」を見ながら、さらに東へと進み丑寅三重櫓を仰ぐ。北堀を眺めたのち、そのまま時計回りに進んで、高虎による改修前の石垣や埋門などを楽しみながら、高山神社でスタンプを確保。

写真は、市役所側から北堀に浮かぶ戌亥櫓跡を撮影したもの。高虎による改修により堅固さを増した津城の名残が感じられる一枚。
新発田城
2020年8月12日
23時40分、東京駅梶橋駐車場バスターミナル出発の深夜バスを利用して新発田入り。6時半前の到着とあって、開門時間となる9時まで諏訪神社や清水園、足軽屋敷、寺町などを散策しながら徒歩で城跡近くまで。それでも時間を持て余すため、新発田城本丸や二の丸の相当部分を占有する陸上自衛隊新発田駐屯地の周囲を歩いて、城の規模感を体感。

辰巳櫓、表門、二の丸隅櫓が居並ぶ様は壮観だし、三匹の鯱を屋根に乗せた本丸三階櫓もこの城ならでは。とはいえ、良きにつけ悪しきにつけ、この城の一番の特徴は近代的な自衛隊の装備と城の遺構が混然一体となっていること。誰かが書いておられるような戦国自衛隊感満載な雰囲気だと思う。当初雨の予報だったのだけれど、何とか降られずに次の目的地である村上に向かうことができたことには感謝したい。

写真はそれぞれ、辰巳櫓、表門、二の丸隅櫓の揃い踏み、本丸三階櫓の雄姿、その本丸三階櫓と陸上自衛隊による戦国自衛隊感満載の一枚。
村上城
2020年8月12日
新発田城から転戦。
JR村上駅に到着後、駅前の観光案内所で市内地図を入手、駅前からはまちなか循環バス」を利用して「村上小学校前バス停」で下車。バスを降りた小学校では、小学校の敷地の隅には「村上城追手門跡」の案内板を発見。村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)でスタンプとパンフレットを確保、折しも開催されていた六斎市(村上朝市)を楽しみながら登城口へ。

朝から降っていた雨も上がったようで、登城道は濡れていたが、雨が上がってくれたのは何よりだった。それでも、四ツ門跡から中世散策コースで本丸を目指してみると、ところどころに泥濘があって少し歩きづらい場所もあった。

埋門から直線的な本丸石垣が見えた時には、ある種の感動を覚えた。その感動、本丸から日本海が見えた時には最高潮に。曇天ではあったが、自然に包まれた村上の町の豊かさが感じられたからだ。

写真は、三面川が注ぐ日本海と緑濃き自然に囲まれた村上の町を、かつて本丸にあったとされる秋葉神社の鳥居とともに撮影したもの。お土産は、駅前の観光案内所で求めた村上茶の新茶。
鶴ヶ岡城
2020年8月12日
羽越五城の旅、三城目は鶴ヶ岡城。新発田城、村上城から転戦。
さすがに深夜バス利用、さらにひとつ平山城を挟むと、体力的にもつらくなってくるが、三城目は平城。駅前から県道349号に出て、そのまま道なりに歩くと30分足らずで二の丸堀に取り付く。本丸・二の丸跡周辺は鶴岡公園として整備されているが、輪郭式の構造、堀や土塁を残しつつも、本丸跡には荘内神社、稲荷神社や大宝館(郷土人物資料館)、藤沢周平記念館が設けられ、城跡としては少し寂しい。

荘内神社の社務所でスタンプと御朱印を確保して宝物殿を見学、今回は時間の関係で致道博物館(旧三の丸跡)や藩校「致道館」を見学することはできなかったが、次回訪れることがあれば見学してみたい。驚いたのは帰りに見つけた西郷隆盛の顕彰碑、戊辰戦争での寛大な戦後処理が縁なのだそうだ。その帰り道、ついに土砂降りにあって途中からタクシーを利用して鶴岡駅に戻った。ここまで持ってくれたのが嘘のようだったが、この日の登城行はその影響なく、予定どおり終了。

写真は、内堀を挟んで中ノ橋跡から見た大寶館。同館は大正天皇の即位を記念して創建、即位の日に開館した物産陳列場。
山形城
2020年8月13日
前日の雨の鶴岡から一転、素晴らしい好天の下、山形城を攻める。まずは山形駅近くに建つ24階の高層ビル、霞城セントラルの展望ルームから山形城跡、現在、霞城公園と呼ばれている市民の憩いの場を俯瞰。

観光案内所で周辺の地図を手に入れた後、駅を越えて東へ進み、三の丸土塁跡。11か所あったとされる三の丸の出入口のいくつかを地図で確認しながら辿りつつ、山形メディアタワー近くにあった鍄門から二の丸北門を経由して霞城公園へ。最上義光が築城した山形城がとにかく壮大な城であったことを、この散策で体感。県庁所在地にありながら、ここまで遺構を保存し、市民と共生している城は素晴らしいと思う。

この城の顔ともいうべき本丸一文字門、最上義光騎馬像、東大手門、一旦二の丸の外に出て最上義光歴史館を見学後、山形市郷土館(旧済生館本館)でスタンプを確保。南大手門跡から霞城公園を後にしてこの旅の最後の訪問地、米沢へと向かうことに。

写真は、霞城セントラル展望ルームからの眺望、東大手門近くに建つ最上義光騎馬像、そして復原された本丸一文字門。
米沢城
2020年8月13日
羽越五城を訪ねる今回の旅の最後の目的地は、米沢城。
米沢駅からまずバスで上杉家廟所へ。明治に至るまで米沢城内に安置されていたという上杉謙信の遺骸のほか、初代景勝から12代斉定までの藩主を祀る場所。猛暑ではあったけれど、静かな杉木立の中で一息つきながら、上杉歴代の治世に思いを馳せる。

廟所からは徒歩で米沢城へ。本丸に鎮座するのは藩祖謙信を祀る上杉神社、境内には西から内堀を渡って入ったが、あちこちにさまざまな銅像や石碑が建つ。中には七尾城攻略戦後に献身が詠んだ九月十三夜は、七尾城登城が懐かしく思い出された。また、上杉鷹山の「為せば成る…」は自分に元気をくれているようでもあった。そうそう、伊達政宗生誕の地碑もあったなぁ。

山形大学工学部を訪問して以来訪れた上杉記念館も懐かしく、松岬神社に建つ草木塔や帝人の共同設立者である秦逸三の胸像にも、刺激をもらった気がする。上杉城史苑で家族への土産を購入し、米沢をあとにして一連の登城行を終えた。

写真は、往時上杉謙信の遺骸が祀られていたという御堂跡を舞鶴橋から撮影したもの。神社の鳥居前にあった「懸かり乱れの龍」の幟旗も見える。
脇本城
2020年9月19日
北東北をめぐる登城行、最初に訪れたのは秋田。初めての新幹線での秋田入り、駅でレンタカーを借りて向かったのは脇本城。レンタカーという選択肢は、一日で秋田の百名城・続百名城を堪能するのに不可欠と考えたから。

心配を他所に見事な晴天の下、右に風力発電施設を見ながら渋滞もなく快適なドライブ。国道101号のトンネル手前の駐車場に車を止めて、いよいよ登城開始。まずは菅原神社に参拝、無人の案内所で地図が載ったパンフレットを手に入れた。案内所近くでは、既に登城を終えた方、同じくこれから登城する方にそれぞれお声がけいただいてリモートでは味わえない、城旅の素晴らしさを再認識。天下道を経由、南端の曲輪からいくつかの曲輪をめぐり、大土塁、主郭部、いったん戻って北西部の曲輪と見て回った。

前日の雨の影響もあって、ある曲輪で水たまりができていたり、空堀が滑りやすかったりはしたけれど、期待していたとおりのこの城特有の壮大さを体感。写真は、生鼻崎の南端の曲輪から内館を一望して撮影。
秋田城
2020年9月19日
脇本城からの転戦、レンタカーでのんびり1時間足らずで秋田城跡へ。秋田城跡歴史資料館に駐車して、まずは同館でスタンプを確保した後に城跡散策前の予習。井戸跡の井筒や「天平の木簡」、斬新なデザインの小札甲と冑などを見て、道路を隔てた城跡へ。

正殿跡、政庁東門や築地塀を見ながら東大路を進んで外郭東門へ。さらにブラタモリでも紹介された古代の水洗トイレ跡を含む鵜ノ木地区の建物跡群を巡って、再び政庁跡へ。この間、ぽつぽつと降り出した雨が次第に強くなって、駐車場に辿り着くころには土砂降りに。これもまた佳き思い出。

この城を代表する写真一枚を選ぶにあたって、政庁東門や外郭東門などもいいなとは思ったけれど、やはりこの城を特徴づける復元施設として古代の水洗トイレ跡の全景を選択。
久保田城
2020年9月19日
秋田の百名城・続百名城を一気に攻める旅、最後に訪れたのは久保田城。いわずと知れた久保田藩佐竹氏の居城、現在は千秋公園として整備。

脇本城、秋田城の登城に利用したレンタカーを秋田駅で返却、徒歩で黒門跡から二ノ丸に入り、佐竹史料館でスタンプを確保。歴代藩主の鎧や佐竹氏本陣の旗「旌旗」などを見て、長坂門跡、表門(復元)を経由して本丸へ。御隅櫓の閉館時間(16時半)に何とか間に合って最上階から夕刻を迎える秋田の街を一望。曇天ではあったものの遠くに脇本城を抱く男鹿半島や古代秋田城があった高清水公園あたりがよく見えて、一日の登城行を振り返り。本丸跡に鎮座する八幡秋田神社への参拝を経て、長岡安平による庭園としての千秋公園も楽しみながら、土塁を堪能できる帯曲輪門跡や胡月池を経て、中土橋門跡から公園の外へ。「支那そば 伊藤」に立ち寄ることができなかったのは残念だったが、のんびりと散策できて心身ともにリフレッシュ、夕食には「秋田比内地鶏や」にて「究極親子丼」(1,580円)で幸せな気分に。

写真は、この城の顔ともいえる表門と御隅櫓、そして本丸の中心に建つ12代藩主・佐竹義堯の像。
浪岡城
2020年9月20日
秋田から奥羽本線で弘前まで来て一泊、早朝に弘前城を散策した後で、浪岡駅に移動し徒歩で登城。少し時間をずらせば駅に隣接する「青森市浪岡交流センター あぴねす」で自転車を借りることができたようだけど、徒歩。後々、時間が押して駅まで走って戻る原因がここにあった。ただ、徒歩もよいもので、自転車だったら城に直行したであろうところ、浪岡八幡宮に立ち寄ったり、浪岡川のほとりを散策したり。

浪岡城跡案内所に着いてみると休館、後に訪れた「青森市中世の館」も休館とついてなかったところもあるけれど、逆に広大な城域を歩くことで、いろんな想像力をかき立てられる気がした。順路に従って、猿楽館、東館、北館、西館、内館と進んだが、北館や西館の周囲に見られた中土塁は面白い構造だと感じた。曲輪の間をつなぐ木橋も風情が感じられて好印象。

写真は北館に広がる板塀と杭、往時には武家屋敷があったのだとか。
九戸城
2020年9月20日
浪岡城から走って駅に戻り、予定の電車・新幹線に乗って二戸駅下車。北東北の登城行、次のターゲットは九戸政実の城、九戸城。「いわて銀河鉄道」二戸駅の改札で自転車を借りて、往時の三ノ丸に建つ九戸城ガイドハウスへ。ここでスタンプ押印、マップやパンフを入手できただけでなく、周辺のランチ事情なども丁寧に教えていただいた。

城の周囲は発掘調査や整備工事が進められていたけど、堀跡をたどって二ノ丸搦手門、本丸追手門を経由して本丸に到達。端正に整えられた本丸南側の堀に施された、北東北最古とされる野面積みの石垣や、本丸虎口跡も確認。これが九戸城落城後に整備され、「福岡城」と名を改めた後のもので、往時の九戸城のものでないのは少し残念。九戸時代の遺構については、今後の調査の進展を期待したい。発掘調査中の二ノ丸大手門から、「日本の城跡で見られる堀跡としては最大級の立派なもの」と説明のあった堀跡を進んで、ガイドハウスに帰還。

写真は本丸南の堀の石垣の上から二ノ丸を眺望したもの、左には本丸虎口跡の土塁も見える。
盛岡城
2020年9月20日
一泊二日での北東北の城巡り、最後に訪れたのは三戸南部氏の居城・盛岡城。盛岡駅から市内を循環する「でんでんむし号(左回り)」を利用して盛岡城跡公園バス停にて下車。

まず歴代南部諸公を祀る櫻山神社に参拝、御朱印を受領後、瓦門から登城開始。二ノ丸の高石垣、啄木歌碑、渡雲橋を経て本丸。上ってきてまず驚くのは、そう広い本丸ではないけれど、現在もなお発掘調査が進められていること。そして、戦時中の金属供出に遭った南部中尉騎馬像の台座のみが残されていること。金属供出のこともさながら、騎馬像の説明文には「朝敵となった旧藩の汚名をそそぎ…」と綴られていて、如何に戊辰戦争が奥州の人々の心に深い傷を残したのか改めて感じさせられた。

鶴ヶ池沿いの宮澤賢治詩碑を見て、「もりおか歴史文化館」で押印。時鐘、帯曲輪、中津川に架かる毘沙門橋、彦御蔵、吹上坂と転戦して、一泊二日とはいえ北東北を制覇した充実感に浸りながら城をあとにした。帰りにはぴょんぴょん舎で「盛岡冷麺」(850円)を堪能。

写真は、櫻山神社境内の烏帽子岩、本丸と二ノ丸を結ぶ渡雲橋、本丸に建つ南部中尉騎馬像台座。
福井城
2020年10月31日
万全の感染対策の下、越前・加賀・越中の7つの城を巡る旅、最初に訪れたのは福井城。北陸フリーきっぷを使って福井入りして、そのまま早速登城。

今も県庁として利用されている城跡に御本城橋から侵入、結城秀康像のお出迎えを受ける。近くにあった地図を頼りに、瓦御門の遺構を見ながら、福井県警察本部庁舎の裏手、本丸北西部に位置する天守台へ。「福井」という県名の由来になったとの説もある井戸「福の井」、福井地震の影響で崩落したままの姿を留める控天守台の石垣などを確認。井戸の近くでは県産茶をふるまいを受けて、ほっと一息。新たに復元された山里口御門、御廊下橋をたどって堀の外周も散策。

その後、現在、柴田神社として整備されている北ノ庄城趾も散策、城下町としての福井の整備には柴田勝家の果たした役割の方が大きい気もするけれど、街の中ではどちらかといえば結城秀康推し、「中央とのパイプ」ということなのだろうか。夕食には「あみだそば 福の井」にて「おろしそば三昧」、少し季節外れの感もあるけれど美味。

写真は内堀越しに臨む早朝の天守台、右には山里口御門、御廊下橋も。
一乗谷城
2020年10月31日
駅前の観光案内所で情報収集して駅前から京福バスに乗車、30分もしないうちに一乗谷に到着。

朝倉義景の墓所に参拝後、まずは城館跡を散策。その後、城館跡を離れ、景鏡館跡、下城戸跡を経由して、この旅の序盤のヤマ場となる山城攻めへ。登りは下城戸ルートを選択、クマ除け用の鈴も利用。テレワークの影響か体力の衰えを感じつつも無事三ノ丸跡に到達。千畳敷もよかったけれど、宿直跡から一望した谷の眺望に達成感。しかし帰路の英林塚ルートで、苔生した岩に足を取られ転倒、脇腹を強打(その後、骨折と判明)。心の油断を見透かされ見事に返討ち。何とか下山して、初代朝倉孝景の墓所に詫びを入れ、上城戸、復元街並を散策して宿泊地に帰還。

写真は、この館跡の象徴でもある唐門、「一乗城山」頂上の碑、往時の雅を今に伝える諏訪館跡庭園。
越前大野城
2020年11月1日
福井市内でレンタカーを借りて、越前大野城へ。赤根川を渡った城下町西駐車場に車を止めて、南登り口から天守を目指す。土井利忠の隠居所であった柳廼社、百?坂を経由して本丸へ。本丸では、荒々しく積まれた野面積みの天守台、天守最上階からの眺望を堪能。

二の丸を囲む外堀から、道路を挟んだところにあった旧武家屋敷、名水百選に選ばれた水源「御清水」、大野市指定史跡となっている朝倉義景の墓所などを散策。一乗谷での負傷がなければ、もっと街の風情を楽しめたのかもしれないのに、時間の制約もあって本当に残念。このあと、さらに永平寺へ移動して参拝。

写真は、「越前おおの結ステーション」付近から見上げた天守。最近では朝靄に浮かぶ「天空の城」としても有名な城だけに、山頂に位置する天守の姿がとても美しい。
丸岡城
2020年11月1日
越前大野城、永平寺と転戦して、いよいよ現存天守の丸岡城攻め。その前に、駐車場前にあった一筆啓上茶屋にて、ソースかつ丼とおろし蕎麦がセットになった「福井県人セット」で腹ごしらえ。

石棺が展示されていたり、本丸周辺の堀の埋立てがなされていることもあって、往時の縄張りを体感することができないのは少し残念な気がするけれど、流石に現存天守の迫力は、それを補って余りあるほど。急な階段、剥き出しの梁、どれも時の流れを感じさせてくれるものだった。

時間の制約があったこともあって、旧城下をゆっくりと散策することはできなかったけれど、もし次に来ることがあれば城下の寺院を散策してみたいなぁ。

写真は、天守最上階の梁、本多重次が陣中から妻へ宛てた手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」が刻まれた石碑と天守のコラボ、天守一階の入側。
鳥越城
2020年11月2日
金沢駅近くで車を借りて、一路鳥越城を目指す。生憎の雨の中、概ね50分ほどで鳥越市民サービスセンターに到着してスタンプを押印。さらに10分ほどで本丸近くの駐車場に辿り着いた。悪天候で負傷の身には、険しい山城でこのアクセスはありがたい。「クマ出没注意」の案内があったため、傘とともに再びクマ除けの鈴を持参しての登城。

後三の丸、後二の丸と進んで土橋を越えると、よく整えられた布目積みの石垣と、いかにも砦といった感じの重なり合う門が見えてくる。二つの門を抜けて本丸に入ると、この地に集った一向宗徒たちの息遣いが今にも聞こえてきそうだ。雨が強かったため、二の丸までしか進むことはできなかったが、次に来る機会があれば晴天の下で三の丸やその他の曲輪、それに巧妙に配置された空堀ももう少しゆっくりと巡ってみたいものだ。そうそう、鳥越一向一揆歴史館も休館日だったし。

写真は雨に煙る桝形門と本丸門、そして端正に積まれた布目積みの石垣。
富山城
2020年11月2日
県庁所在地の城には二つのタイプがあるようだ。歴史をしっかりと受け止め、それを語り継ぐ語り部としての城、もうひとつは物理的な価値を今に留めず、心象としてその街に暮らす人々の心の中に象徴として存在する城。戦後復興の象徴としての模擬天守を有するこの城は、やはり後者のカテゴリーに当てはまる城なのだろうなぁ。かつてこの地に統治する場所として存在した何か、それによって現在も見えない影響を及ぼし続けている何か。

この城がどうして続百名城に選定されたのか、僕にもよくわからないけれど、かつてそこにあったことによって、街やそこに住む人の暮らしに、現在も見えない影響を及ぼし続けていることが評価されたからなんだろうなぁ。

写真は、この城唯一の遺構建築物である千歳御門。国指定の登録有形文化財とはいえ、富山市歴史郷土館の写真は、今回は選択せず。
増山城
2020年11月2日
越前から始めた今回の登城行も加賀、越中と転戦してきて、いよいよ予定していた最後の城 増山城へ。富山城址公園近くで車を借りて、まず目指したのはスタンプが置かれている砺波市埋蔵文化財センター。

同センターには概ね1時間弱で到着、この日は閉館日ながらスタンプの押印は玄関口で可。増山陣屋まで来てみたけれど、雨はいっこうに止む気配はなく、あとから来られた登城者も陣屋で引き返されてしまう非常に心細い状況。

とりあえず行けるところまで行こうと心に決めて、ダムを渡って冠木門へ。そのまま七曲りを経ていくつかの郭を散策しながら、城の中心とされる二ノ丸に到達。雨でも歩きやすい遊歩道が整備されていて、本当に助かった。深く掘られた空堀や、地形を十分に考慮した郭配置など「山城の教科書」と言われる所以がよく理解できた。中でも二ノ丸鐘楼堂跡から安室屋敷跡を眺めた際の空堀の深さは印象的。

写真は、増山陣屋から最寄りの登城口となる冠木門。
春日山城
2021年10月31日
感染拡大を避けつつ、前回の北陸登城行からおよそ1年振りの城巡りの旅。気合十分で出かけたのは上越、まずは上杉謙信の本拠地・春日山城に登城。

春日山駅から徒歩で20分ほど歩いて大手道入口から登城開始、ここでウォーキングマップを入手。8月初旬にクマ出没との掲示を受けて、念のため熊鈴を投入。番所跡、南三の丸跡などを経て柿崎屋敷跡、景勝屋敷跡など城の中核部分へ。早朝薄曇りの中ではあったけれど、本丸跡からは直江津の街や日本海の眺望を堪能。毘沙門堂、直江屋敷跡と下り、千貫門、御屋敷跡経由で春日山神社に参拝。再度、但馬谷から三の丸跡、二の丸跡経由で本丸に到達、毘沙門堂参拝後に神社の長い階段を下り、林泉寺を経て「春日山城跡ものがたり館」でスタンプを押印。

このあとの予定から早朝の登城となったため、林泉寺の拝観時間と予定を合わせることができず残念ではあったが、春日山城の主要な曲輪をゆっくりと散策できたこと、日本海の眺望に出会えたことは何よりだったかな。

写真は、本丸跡にあった「史蹟 春日山城阯」の石碑、毘沙門堂、春日山神社の上杉謙信公像。
鮫ケ尾城
2021年10月31日
春日山城登城後、春日山駅から妙高はねうまラインを利用して北新井駅に移動、徒歩で鮫ヶ尾城へ。駅に置いてあった地図を頼りに歩くこと約30分、この地域の鎮守・斐太神社にまずは参拝。神社からおよそ5分の「斐太歴史の里」総合案内所でスタンプ押印を済ませ、ここでいただいた縄張図を見ながら東登城道から登城開始。

序盤は弥生時代の遺跡が点在するが、歩を進めていくと保存状態の良い堀切や曲輪跡が次々に姿を現す。山頂に築かれた城とはいえ、攻略にさほど苦労しなかったのは、往時の大手道(南登城道か?)ではなく、整備された道だったからかもしれない。本丸跡からは遠く日本海から広がる平野を一望できて、この城が置かれた戦略的な意味が理解できた気がした。また、御館の乱について知るよい機会にもなった。

下りは北登城道を使って案内所に向かったが、途中落ち葉が幾重にも重なって滑りそうになった箇所もあったので注意が必要。案内所で、途中の温泉でひと休みをお勧めいただいて悩んだけれど、勢いのまま次の高田城へ。

写真は、本丸跡にあった鮫ヶ尾城碑と本丸跡からの眺望。
高田城
2021年10月31日
春日山城、鮫ヶ尾城と山城を攻めて、この日最後に訪れたのは高田城。北新井駅から最寄りの高田駅まで移動して、徒歩15分程度で西堀橋に到着。残念ながら既に季節を過ぎてしまった堀一面の蓮を見ながら橋を渡り、かつての二の丸に位置する上越市立歴史博物館でスタンプを押印。

日も傾きつつあったので、まずはこの城の代名詞ともいうべき三重櫓へ。秋の色付いた木々とともに櫓を写真に収め、本丸跡を散策、極楽橋から旧二の丸を超えて外堀の外周を反時計回りに四分の一ほど巡って、大手橋跡から再び二の丸跡に入って西堀沿いを散策。さすがに山城攻めの疲れもあってか、城の北側や東側まで足を延ばすことは叶わなかったが、雁木作りの街並みを楽しみながらこの日の城旅を終了。帰りには、先達お勧めの「軍ちゃん」にて海鮮丼を堪能。次にこの城を訪れるなら、やはり桜の時期なんだろうな。

写真は、秋の夕日に照らされた三重櫓の雄姿と、旧陸軍第13師団跡に残る二の丸土塁跡。
龍岡城
2021年11月1日
上越の三城を攻略した翌日、上越妙高駅から長野、小諸を経由して龍岡城駅に降り立つ。徒歩で10分ほどで城の北にあたる場所にあった桝形に到着。さらに進んで大梁山蕃松院に参拝、その後、五稜郭であいの館にてスタンプを押印。

まずは大手門を起点に、反時計回りに現在小学校の敷地となっている龍岡城の外堀の外周を散策。一部草が茂っていて歩き難い場所もあったが、五稜郭の縄張りや規模感、周囲の地形との関係を掴むことができた。一旦館に戻って係の方に展望台への道を尋ね、地図をいただいて、この旅最後の軽登山。道を間違えそうになったりで苦労もしたが、展望台からの眺望は格別。下山して今度は五稜郭の内部から堀や土塁を写真に収めた。

写真は龍岡城の桝形に建つ「史蹟 龍岡城阯」の石碑と、展望台からの眺望。
高天神城
2021年11月2日
上越から戻った翌日、掛川駅でレンタカーを借りて訪れたのは高天神城。まずは大東北公民館でスタンプを押印、パンフをいただいて、いただいた助言のとおり、追手門側に車を止めてさっそく城攻めを開始。

この日、直接二の丸方面へ連なる道は、土砂崩れのため立ち入り禁止だったため、三の丸、御前曲輪、本丸と転戦、さらに井戸曲輪を経て高天神社に至る。ただ、ここまでは武田・徳川による激戦の城という印象が希薄な印象。馬場平では遠く御前崎の風力発電施設や太平洋の煌めきをのんびりと眺めることができた。

ただ、堂の尾曲輪から井楼曲輪に至る曲輪群はこの城が「一城別郭の城」と呼ばれる理由そのままに土塁や空堀が緻密に施されており、のどかな印象も一変。これらを体感したのちに、井戸曲輪から三日月井戸を経て搦手門まで下り、再度井戸曲輪まで戻って車を止めた追手門側駐車場に帰還。このあとさらに川原石を用いた玉石垣が不思議な景観を醸し出している横須賀城にも転戦。

写真は、険しい山の中に設けられた追手門跡と、往時の姿を今に伝える堀切跡。
興国寺城
2021年11月2日
高天神城と横須賀城の登城を終え、掛川駅から原駅へ向かう。原駅から興国寺城通りを歩いていけば、およそ30分ほどで興国寺城に到着。何といっても、この城は北条早雲の壮大な夢の始まりの場所。

既に根古屋交差点から三の丸に緩やかに上る傾斜が始まり、本丸跡へと導く。比較的平坦な曲輪が続くかと思えば、本丸付近には堆く積まれた土塁が現れ、進路に立ちはだかる。本丸土塁前に鎮座する根古屋高尾山穂見神社前でスタンプを押印、同神社に参拝を済ませ、本丸土塁を登って天守台跡を極める。

その天守台跡から北に下ると、本丸と北曲輪の間の深い空堀に取り込まれる。天守台跡には礎石が残されているが、そう大きな建物があったようには感じられない。三の丸から海に通じる場所は湿地帯だったために、この場所が難攻不落であったことは容易に想像できる。

写真は二の丸と天守台跡の土塁、天守台北の空堀跡。
笠間城
2021年11月7日
笠間駅前で自転車を借りて城跡を目指す。折しも笠間市は菊まつり開催中で電動自転車が借りれるか不安もあったが、何とか無事に調達(料金:1時間300円、追加料金30分ごとに100円)。

駅前から自転車で15分で「かさま歴史交流館 井筒屋」。ここでスタンプを押印、「笠間城跡巡り案内」を入手。また館内には城への道筋を示した写真が掲示されていた。

坂を上り始めるとすぐ右に大石内蔵助像、赤穂移封前に刃傷事件の浅野家は笠間藩主であったので、この近くに大石邸があったのだとか。その後概ね10分ほどで千人溜跡にある駐車場に到着。

自転車を止めて進むと大手門跡、そのまま時折現れる石垣を見ながら、本丸玄関門石垣脇の階段から本丸へ。宍ヶ崎櫓跡、八幡台櫓跡を経て天守曲輪へ侵入、震災の傷跡が残る石垣を見て佐志能神社に参拝。さらに自転車で下屋敷跡、移築された八幡台櫓が残る真浄寺を転戦して笠間駅に帰還。もう少し計画的に動ければ、菊まつりを楽しみ、笠間稲荷神社に参拝し、名物の栗を堪能できたのにと少し残念。

写真は天守台後に建つ佐志能神社社殿と、真浄寺に移築された八幡台櫓。
唐沢山城
2021年11月7日
笠間城登城後、水戸線、両毛線、東武佐野線と乗り継いで、田沼駅からタクシーを利用して唐沢山レストハウスでスタンプを押印。タクシーを利用したのは佐野駅で途中下車、佐野城跡の散策と佐野ラーメンの寄り道による行程遅れがその理由。

くい違い虎口から入って、天狗岩に登り眺望を満喫し、大炊の井、三の丸を経て工事が行われている二の丸で本丸石垣を撮影。南局側から唐澤山神社に登って参拝し、南城跡にある社務所にて御朱印をいただいた。再度、大手道を使って二の丸から引局、長門丸(御花畑)、金の丸、杉曲輪、北城と東に連なる曲輪群を攻略。最後は避来矢(ひらいし)山に登って唐沢山を下った。

本丸石垣が修復工事中だったのは残念だけど、天狗岩や南城からの眺望は素敵だったし、北城の東を走る二重の堀切をはじめとする遺構の壮大さも素晴らしかった。

写真は、くい違い虎口に建つ「国指定史跡 唐沢山城跡」の石碑と、本丸石垣に囲まれた唐澤山神社の社殿。
一宮城
2021年11月20日
徳島駅前からバスに揺られること40分ほど、一の宮札所前バス停に到着。一宮神社前の登城口でスタンプ押印、パンフレットを入手して登城開始。

登城途中は整備された石段がひたすら続く。途中にあった倉庫跡、才蔵丸、明神丸からの眺望は素晴らしかったけれど、中でも徳島市内や眉山、さらには淡路島、紀伊水道まで見えそうな明神丸からの眺めは格別。そこから帯曲輪を経由してたどり着いた本丸石垣も「質実剛健」を想起させるもの。本丸に鎮座する若宮社参拝後、釜床跡を経由して下山。バスの時間が気になって小倉丸などを目にすることはできなかったが、一宮神社とその向かいの四国八十八箇所霊場第十三番 大日寺に参拝、再度駅前に戻って徳島城跡へと向かう。

写真はスタンプやパンフが置かれていた登城口、それと印象的な一宮城本丸石垣。
徳島城
2021年11月20日
一宮城登城から徳島駅前まで戻り、駅南西の跨線橋を舌石を見ながら渡って下乗橋、大手門石垣、復元された鷲の門を通って堀の周囲を散策。再度数寄屋門から入って城山の貝塚を経由して徳島城博物館でスタンプ押印。西坂口から城山へのアプローチを開始して、西三の丸、西二の丸さらには本丸跡に到達。

県庁所在地の城はそれなりに開発が進んでしまって、遺構の保存状況が残念に思われる場合も多いけれど、この城では比較的往時の石垣などが残されている印象。貯水池などを除けば、県庁や学校などの公共施設が置かれなかったこと、大正時代に貝塚などの遺跡が確認されていたことなどが、その理由なのかもしれない。それにしても、平坦地に忽然と現れる岩山を一宮城に代わる城郭に、とした蜂須賀公の慧眼には感服。また、「阿波の青石」として有名な緑色片岩が用いられた石垣は、ご当地石垣という感じで好印象。また、「中華そば 萬里」で食べた「中華そば肉玉子入」は思い出の味となった。

写真はそれぞれ、月見櫓跡の石垣を背景に建つ徳島城跡の石碑と、金色の銀杏に彩られた蜂須賀家政公銅像、「阿波の青石」を用いた大手門石垣。
勝瑞城
2021年11月21日
徳島市内からレンタカーを利用して勝瑞城跡へ。市内は比較的混雑するとの話を聞いていたが、比較的スムーズに到着。城館跡に車を止めることにしたが、地元のイベント開催日とあって城館跡は大賑わい。先達の写真で伺い知ることができる閑散とした広場とはひと味違う登城行となった。

一方で、少し離れた勝瑞城跡は人も少なく、ゆるりと散策することができた。濠の外周を反時計回りに歩いて、北に設けられた木橋から本丸跡に侵入。かつて高く堆く積まれたとされる土塁跡や勝瑞義冢碑、三好三代の墓所などを巡り、三好氏が権勢を誇った時代に思いを馳せ、往時を偲ぶひと時を過ごした。

勝瑞城館跡展示室でスタンプを押印、パンフレットを入手して館内を拝観。かつてこの地は阿波国の政治・経済・文化の中心だったとの説明があったけれど、遭遇したイベントを通じて地元の方のパワーやエネルギーは今も衰えていないことを感じながら、次の目的地・引田城に向かった。

写真はそれぞれ、現在見性寺となっている勝瑞城跡の南濠、かつて鉄工所の敷地だったいう勝瑞城館跡の石碑。
引田城
2021年11月21日
勝瑞城跡からレンタカーで転戦。県道14号、県道1号、さらに板野ICから高松道を利用して引田IC経由でスタンプが設置されている讃州井筒屋敷まで概ね30分程度。そこから引田港近くの駐車場に車を止めて登城。城山は標高82mなので、そう苦も無く登ることができる。

狼煙台跡、本丸石垣跡あたりから見える港や街並み、また北二の丸の石垣(訪問時には石垣は一部修復中)は見どころ。また引田鼻灯台から望む播磨灘を行きかう船の動きは見ていて飽きない。グループで城廻をされている方々の声に現実に引き戻されて下山、次の点線の地である洲本城へ向かった。

写真はそれぞれ本丸石垣の上から望む引田港、北二の丸下段の石垣。
洲本城
2021年11月21日
引田城から高速道路を利用、まずは淡路文化史料館にてスタンプを押印、洲本城の情報も収集。城跡のある三熊山の駐車場に車を止めて登城開始。追手口からさっそく乱積みの石垣の迫力に圧倒されながら、本丸を目指す。近付いてみると模擬天守についていろいろと言いたくなることもあるけれど、遠目からは天守があるのとないのとではかなり印象が違うのではないかな。個人的には、こんな模擬天守もありかな。洲本八景とされる天守台からの眺めや馬場からの眺め、そして東の丸高石垣付近からの眺めはいずれも格別。周辺の海を一望できる立地は、元々紀州熊野水軍の安宅氏によるものという説明も納得。徳島に戻る途中、淡路島南PAで「玉ねぎカレーライス」(760円)をいただいたけれど、これまた美味。

写真は淡路文化史料館の史跡碑と三熊山頂上の模擬天守と、東の丸高石垣付近からの眺望。
岡豊城
2021年11月22日
2018年3月以来の再登城、当時は続百名城スタンプが配置される直前の時期、出張で同僚と訪れた場所、とはいえ前回と違って今回は土砂降りの中での登城行となった。

高知駅前からバス、学校分岐(歴民館入口)バス停で下車、10分ほど歩けばスタンプが設置されている高知県立歴史民俗資料館。開館前とあって押印を後に回して二ノ段、詰下段を経由して詰に到達。以前訪れた時には二層の櫓のような建物があったが撤去されたよう。三ノ段、四ノ段、展望広場から虎口。土砂降りのため伝厩跡曲輪まで足を延ばさず、資料館に帰還。やはり詰の西に残る土塁群がこの城の見どころか。雨のため、岡豊山に配置された各曲輪からの眺望を楽しむことができなったのは本当に残念。

資料館では映像をゆっくりと楽しんで、長宗我部氏の家紋入りのルーペを自分への土産にバス停へ。山を下りる途中、長宗我部元親の次男・香川親和の墓所と伝えられる場所があったので、立ち寄って参拝。

写真は、2018年3月に訪問した際に撮影した長宗我部元親 飛翔之像、今回の登城時に撮影した田中光顕の書による「長宗我部氏岡豊城址」の石碑。
備中高松城
2021年11月22日
午前中、土砂降りの中、高知で岡豊城登城を決行、高知駅まで戻って、高速バス利用で岡山駅に移動。スタンプが設置されている高松城址公園資料館の開館時間は15時まで、間に合うかどうか時間的には微妙ではあったけれど、岡山駅から吉備線で備中高松駅、そこからさらに徒歩で高松城跡を目指す。

資料館到着は15時を10分ほど回った時間だったが、ボランティアの方々が残っておられたので無事に押印完了。時間を過ぎていたが、展示された資料を見る時間を与えてくれたし、ボランティアの方が見どころなどを教えてくれて感謝感激。

三の丸跡から順に本丸跡に転戦したが、幸か不幸か雨降りの後ということもあって、この地がかつて沼地・湿田で平城とはいえ攻める側にとっては攻めにくい城であることを体感できた気がする。主な曲輪はもとより、胴塚や蛙が鼻築堤跡などにも足を運ぶことができて、秀吉・官兵衛と清水宗治と毛利勢の戦役の規模感も感じることができた。

写真は、清水宗治辞世の碑「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」、水攻め史跡公園に残る築堤跡。
姫路城
2021年11月23日
備中・吉備津神社&吉備津彦神社から転戦、13時近くに姫路駅着。曇天の下、駅から徒歩で大手前通りを直進、中ノ門跡から反時計回りに中曲輪の門跡、千姫の小径を散策して市之橋門から中曲輪へ。そこからは順当に桜門橋・大手門から内曲輪に入り、一般的な順路に従って天守群を巡った。備前丸、東曲輪、上山里曲輪、三国堀曲輪では、門や櫓の個性を楽しみながらボチボチと。喜斎門跡から再び中曲輪を内堀に沿って散策して大手門前に帰着。

とにかくその規模に驚きを覚え、個性豊かな門と櫓のラインナップに魅了されっ放し、城を攻めるというよりこの城の威容に圧倒され続けたひととき。特別公開の機会にでも再訪して、今回注意してみることができなかった構造物や遺構、修復工事中だった菱の門などを見てみたい。

写真は、千姫の小径から見た石垣、次回訪問を期して敢えて掲載する修復中の菱の門、三国堀越しの天守群。
三原城
2022年3月19日
中国地方の塗りつぶしを目的とした城巡りの旅、最初に訪れたのは三原城。三原駅の駅舎からそのまま天守台にたどり着くことができるので、まずは小早川隆景の居城の本丸から攻略することに。

天守一巡後に駅南口から出て、すぐ近くの観光案内所(三原観光協会)でスタンプを押印。再び北口側に回って、線路下に残る石垣を愛でたり、本丸を囲む堀の周囲にある案内板を読んだりしながら散策、一巡したところで「浮城」の異名の面影を求めて船入櫓を訪れた。

現在の街並みから往時の城の姿に思いを馳せることはかなり難しいが、小早川隆景にとって、新高山城からこの地に移って瀬戸内海の覇権を確立しようとした時期の城だけに、そのエネルギーの一端は今もこの場所に留まっている気はした。難攻不落の山城を攻めるのに比べると気楽な登城だけど、かなりの物足りなさを感じるのはやむを得ないか。

写真は、生憎の曇天下の天守台と、新幹線高架下に残された石垣。
新高山城
2022年3月19日
三原城から転戦。
三原駅から山陽本線本郷駅下車、同駅から10分もせずにスタンプ設置場所の本郷生涯学習センターに到着するので、まずはスタンプ押印と周辺の地図などを情報収集。さらに沼田川を越え川沿いの道を進むと、「新高山城跡大手道入口」「新高山城跡登山道入口」といった道標が出現。細い舗装道から山道になり、さらに左に少し登ったところに三原市が設置した案内板や竹製の杖、観光パンフレットを置いたポストなどが設置されている。

折しも数名の同業者の方々が一緒で、道に迷うことなく、番所跡、?真寺跡、中の丸(二の丸)跡を経て、案内板から概ね20分ほどで本丸跡に到達。本丸跡は中心部が剥き出しの岩場となっていて、題目碑などが複数建つ修験者の道場跡のような様相だったけれど、向かいに高山城跡、眼下に沼田川や集落を見下ろすことができる山城の本丸らしい眺望を堪能。

時折パラパラと雨がやってきたが、本格的に降り始めたのは駅に戻って電車待ちの時間。雨の中での登城は相当困難だったはずなので、天の神さまに改めて感謝。

写真は沼田川を挟んだ二つの山城跡(左が新高山城)と、岩場となっている新高山城本丸跡。
岩国城
2022年3月19日
この日最後に訪れたのは、吉川氏の城・岩国城。
本郷駅から山陽本線で岩国駅、さらにバスで錦帯橋バスセンター下車。到着は概ね15時半頃、錦帯橋料金所で錦帯橋、ロープウエー往復、岩国城がセットになったセット券を求めようとすると、時間超過で叶わず。できるだけ城跡での散策時間を稼げるよう、途中急ぎ足で16時10分に何とか天守に到着、スタンプ押印という所期の目的を達成。

天守からの眺望などを満喫後、旧天守台、大きな空堀を経て北ノ丸、さらに大釣井などを確認した上でロープウエーで下山、その後、時間の許す限り吉香公園や錦帯橋周辺を散策。下山後は急に冷えて天候も悪化、3月とは思えぬ寒さに震えてバス待ちすることとなったが、無事に新山口まで移動して翌日に備えた。

写真は、模擬天守から見下ろした錦帯橋や岩国城下の街並み、城内の水瓶で、非常用の脱出口との説もある大釣井、錦帯橋越しに見上げた模擬天守の夕景の三枚。
萩城
2022年3月20日
萩には宿泊先最寄りの新山口駅から、バスでのアプローチ。終着の東萩駅まで乗車、その後徒歩で、松下村塾、松陰神社、伊藤博文旧宅、玉木文之進旧宅と巡って東光寺・毛利家墓所を訪ねた。東光寺前バス停から循環バス(100円×2)を乗り継いで、萩城跡・指月公園入口バス停下車、料金所でスタンプ押印を済ませ、萩城に登城。

周辺の石垣や雁木を巡って天守台に到達、さらに志都山神社に参拝して、指月山頂にある詰城攻略に着手。ここでも石垣や山頂の巨石群などを見て、山頂からの萩城下の眺望をしばし堪能。もう少し緩い感じの城なのではとの当初の印象は大きな誤解で、関ヶ原後や幕末の激動期の長州藩の緊張感が伝わってくるような遺構の数々を目の当たりにした。なお、萩城周辺で土産用の萩焼を購入。

下山後は天樹院(毛利輝元)墓所、さらに武家屋敷跡群を散策し、北の総門から萩城下へ。菊屋横丁の高杉晋作誕生地、江戸屋横丁の木戸孝允旧宅などに立ち寄って、旧萩藩校明倫館でランチ。萩バスセンターからJRバスを利用して、次の目的地・山口へ。

写真は、指月山から見た城下町、天守台と指月山、菊谷横丁の高杉晋作誕生地。
大内氏館・高嶺城
2022年3月20日
萩城からの転戦、JRバスを日赤前バス停で下車、まずは大路ロビーでスタンプ押印と情報収集。大内氏館の歩き方だけでなく、高嶺城登城ルートについても丁寧なご指南を受けた。

館周辺は雅な雰囲気を残す「小京都」と呼ぶに相応しい風情。館跡に建つ龍福寺参拝後、周辺の土塁や門、枯山水庭園の跡を辿ったが、最も趣深いのは境内に位置する池泉庭園跡だろう。

その後、徒歩で瑠璃光寺に国宝五重塔を訪ねたが、これまた「小京都」を感じさせてくれる素晴らしい風情。大内氏館に立ち寄って、ここを旅程から外す選択はまずないだろう。毛利家の香山墓所も併せて参拝。

さらに、ここから大内氏館の詰城としての役割を担う高嶺城登城を試みたが、逆にこの行程には少し無理があったかもしれない。当初は翌早朝に城攻めの予定としていたものだが敢行、山口藩庁門から所要概ね1時間、17時過ぎに攻略に成功。明るいうちに主郭から山口の町の眺望を目にすることができた。帰路、木戸孝允旧宅跡に建つ木戸神社に参拝、周辺の菜の花に癒された。

写真は大内氏館跡の池泉庭園、高嶺城主郭跡に建つ「史跡 大内氏遺跡高嶺城跡」と刻まれた石碑と案内板。
津和野城
2022年3月21日
新山口駅から特急「スーパーおき」を利用して、津和野入り。10時には津和野駅到着、駅前の「かまい貸自転車店」で自転車をレンタルして城跡を目指す。

途中、馬場先櫓、物見櫓といった遺構を確認、坂を上って駐車場に駐輪、そこから観光リフトを利用して城跡へ。今回の旅では、雨でリフトが使えるかどうかが心配のタネだったが安堵。リフトを降りて5分ほど歩くと東門跡。現在、城内の所々で石垣等の補修整備が行われているようで、東門跡ほか多くの場所で足場が組まれていた。

三十間台や三の丸からの眺望は、石州瓦の独特な色合いと相まって素晴らしいものだった。人質郭の石垣や南門櫓の石垣なども質実剛健で、確かにこれは名城と呼ぶに相応しい。

自転車の機動力を生かして、西周旧居、森鴎外旧宅を回って、太鼓谷稲成神社に参拝、御朱印をいただく。津和野藩家老多胡家表門、藩校養老館なども巡って「山陰の小京都」を満喫。津和野大橋や津和野駅ではSL山口号にも遭遇して得した気分。

写真は、三の丸から見た人質郭の石垣、三十間台から見下ろす津和野の眺望、森鴎外旧宅付近から見上げた津和野城。
浜田城
2022年3月21日
津和野城からの転戦。
14時過ぎに特急で津和野発、浜田駅着が15時15分頃。当初の計画では翌朝の登城を考慮していたが、雨予報を受けて、この日の登城することを決断。スタンプ設置場所の社務所は16時で閉まるため、タクシーで急ぎ濱田護国神社に向かってスタンプを押印。その後ゆるりと城跡を散策。

この城は、浜田川と松原湾に囲まれた丘陵地に建つ平山城で、まずはその立地の妙に感心させられる。津和野城の門が、浜田県庁の門として利用されたのちに、この地に移設されているのはご愛敬だが、本丸跡からの松原湾の眺めは何とも美しい。かつてここを北前船が出入りしていたことを踏まえると、ここが政治の中心としてだけでなく、経済とも密接な関係にあった場所であることがわかる。

本丸攻略後、焔硝蔵跡、中ノ門跡を経て、松原湾近くに鎮座する嚴島神社まで足を延ばした。裏門跡の道標を発見し損ねたが、大手門跡の道標は確認。さらに城山を回り込んで、現在、浜田城資料館となっている「御便殿」を見学して、バスで浜田駅周辺の宿泊地へ。

写真は、本丸跡から見下ろした松原湾の眺望、この城では重要な位置にある中ノ門跡の遺構。
郡山城
2022年3月22日
一連の中国攻めの最後は、毛利元就の本拠地・郡山城。
早朝に高速バスで雨の浜田駅前を出発、広島BCでバスを乗り換え安芸高田市役所前バス停まで。そこから徒歩10分ほどで歴史民俗博物館だけど、生憎の臨時閉館。予めわかってはいたものの、ここまでの道のりを考えると…。ただ、これも感染症下での登城行の良い思い出になると思い直して、スタンプが押された用紙を受領して登城開始。

三矢の訓跡碑、御里茶屋跡、元就火葬場跡、隆元墓所と巡って、元就墓所あたりからは本格的な山城の様相。マンホールにあった「百万一心」の言葉の意味を石碑で学び、御蔵屋敷跡、釣井の段、勢溜の段と攻め上る。勢溜の段からは眼下に郡山の町を一望、三の丸では石垣を愛で、二の丸を経て本丸に辿り着く。雨降りあとの粘土質の土、突き出た木の根に苦戦しつつも何とか目的を達成。

下りは満願寺跡、尾崎丸、本城にも立ち寄ることができたので、自分へのご褒美を兼ねて、先達諸兄も立ち寄ったとされる「お好みハウス山小屋」でお好み焼き。

写真は、毛利家墓参行の締めとなった毛利元就墓所、本丸から見下ろす二の丸跡、山頂に本拠を移す前の拠点・本城跡。
古宮城
2022年4月9日
奥三河と西美濃の城を攻略する旅、最初の目的地は古宮城。
攻略が難しい城だという気はしていたけれど、敢えて公共交通機関での登城を試みた。遠方からのアプローチで難しいのは新城駅口バス停の時間調整で、今回は長篠城まで足を延ばして時機を待った。

新城のバス停では、この日古宮城攻略を目論む同業諸氏7名が同乗、バスに揺られること概ね40分ほどで作手高里バス停に到着。近くの歴史民俗資料館でスタンプを押印、周辺の地図などをいただいていざ古宮城へ。

直後に現れる両袖枡形虎口は、ここまで来てよかったと感じさせてくれた遺構。御神木・大ヒノキに元気を得て城跡を散策、東西の主郭や土塁、深い堀切などを堪能した。元々私有地とのことで開放いただいていることに感謝しつつ、注意事項にあった他者への挨拶を心掛けた。その後、亀山城跡に転戦、「つくで手づくり村」で「ハヤシライス」(800円)。むしろ新城市内にいるよりも、時を有効に過ごすことができたのではないか。

写真はそれぞれ、古宮城の登城口となる白鳥神社、亀山城に向かう途中に振り返って撮影した古宮城跡全景。
大垣城
2022年4月10日
古宮城登城後は大垣攻めに向けて岐阜に宿泊。夜陰に乗じて、ライトアップされた岐阜城天守や信長居館跡を堪能。翌朝、岐阜を発ちJR東海道本線を利用して、8時前に大垣入り。

「水の都」を標榜する町らしく、周囲には湧水や水路が数多くある。また、奥の細道結びの地で、句碑も多い。それらを辿りながら駅から歩けば、20分ほどで大垣城跡着。のちに設けられた東門ではなく、往時からある鉄門跡経由で本丸に侵入、まずは桜花舞う天守を眺めた。往時の柳門を移築した東門、水之手門、明治二十九年大洪水跡碑、「おあむの松」、戸田氏鉄公騎馬像、西門を巡ったのち、南西隅に位置する西総門(京口門)跡に足を延ばして、そのまま本陣跡まで美濃路を散策。

9時開館の天守に戻って、天守からの眺望を満喫。晴天のおかげで関ヶ原も、金華山頂上の岐阜城も見通すことができた。本丸を辞して水路を辰ノ口門まで歩いて、岐阜経由で次の目的地である小牧山城へと向かった。奥の細道結びの地はまた次の楽しみに。

写真は、天守を背景に建つ戸田氏鉄公騎馬像、まだかろうじて桜花を残す天守を本丸から。
小牧山城
2022年4月10日
奥三河&西美濃の旅の最後は小牧山城。
信長にとっては尾張から美濃へ、そして天下への飛躍に向けた出発点であり、秀吉と家康にとっては互いのプライドをかけた決戦の地。

まずは駅前の観光案内所で情報収集、そのあと徒歩で20分も歩くと外堀の役割を担うような合瀬川、さらに土塁の外周を歩いて土塁断面の展示施設から土塁内に侵入。小牧・長久手の合戦時に家康が5日で築いたとされる土塁内を反時計回りに進むと搦手門跡、そこから本丸を目指して山を登り始める。

江戸期には尾張徳川家の管理下に置かれ、容易に人が立ち入れなかったそうだが、明治期に公園化が進み、搦手からの登城道はやや整備され過ぎの感。それでも虎口跡や保存状態の良い土塁や石垣もあった。また、私財を投じて整備・寄付された歴史館最上階からの眺めは格別。

大手道を下って、桜の馬場、土塁や堀の跡を見ながら小牧山城史跡情報館で復習。ガイドの方の分かりやすい説明を伺いながら、築城時と改修時の違いなどを学んだ。

写真は、シンボルロードから見上げた小牧山、主郭に建つ歴史館と小牧山を市に寄付した尾張徳川家19代徳川義親氏の像。
三春城
2022年4月17日
奥州道中徒歩旅は白河止まりになったままだけど、桜の頃に滝桜を訪ねたいと思っていたところ、この春、妻と娘と一緒に、三春城攻略行とセットでついに実現。

この時期には臨時電車もあるので、最も早く滝桜にたどり着ける電車を選択、9時半に三春駅を出発する臨時バスに乗ることができた。滝桜からは三春町役場前バス停で下車、地元の高校生が教えてくれた店で三春索麺、ほうろく焼など郷土料理を堪能、「三春きたまち蔵TENJIN」で情報収集したのちに登城開始。

といっても、まずは三春小学校前に移築された藩講所表門・明徳門を見て、歴史民俗資料館でスタンプ押印。資料館周辺の桜谷ではさらに満開の枝垂桜を満喫して、ようやくお城坂に取りついた。

その後は先達諸氏とほぼ同じルート、二の門跡、愛姫生誕の地碑、竪堀跡、揚土門跡、二の丸跡、本丸跡、大広間跡などを散策。滝桜はもちろん、二の丸や本丸、さらには三春駅周辺の八島川沿いの桜がとても美しく、家族でよい花見の機会になった。

写真は、三春小学校前の明徳門と、三春城本丸に建つ「舞鶴城址」の石碑。いずれも桜花が写り込んで、素敵な写真となったんじゃないかな。
基肄城
2022年5月1日
GWは帰省のために博多入り、最初に訪れたのは基肄城跡。

博多駅から電車で30分もかからず基山駅着、駅からは徒歩15分ほどでスタンプが設置されている基山町民会館、そこでスタンプを押印して周辺の地図を入手。ウォーキングコースの設置看板なども頼りにしながら、駅から1時間ほどで水門跡に到着。

町民会館でいただいた案内図によると、災害復旧工事のため水門跡から直進する管理道路は通行できないと記載されていて、水門跡近くから続く散策路に入ってさらに高みを目指した。米倉礎石群、鐘撞堂、つつみ、土塁跡と標柱に記された場所をたどって東北門跡、そこから一旦下って再び登りに入って丸尾礎石群、さらに登って基山山頂。特別史跡 基肄(椽)城跡碑で記念撮影後、「いものがんぎ」、天智天応欽仰之碑を見て、草スキー場側に下山。日本植林発祥之地碑も確認、帰路は「きのくに古(歩)道」を利用、町役場経由で駅まで全行程概ね3時間といったところ。

写真は、水門跡と「いものがんぎ」付近から望む基山山頂付近。
久留米城
2022年5月1日
基肄城からJRを利用して転戦。
久留米駅到着がほぼ正時で、駅前でからくり時計の実演を拝見。そのまま徒歩で、県立明善高校前で「明治天皇久留米大本營」と刻まれた石碑を見ながら左折、かつての城域が今はブリヂストンなどの工場が連なる城下町に変貌したことを実感しつつ冠木御門に到着、駅からおおむね20分ほど。

筑後川沿いの丘陵部にあるかつての本丸跡は現在、篠山神社の境内。拝殿参拝後に社務所でスタンプ押印、そこにパンフレットなどはなし。そこから時計回りに周囲の櫓跡を散策。往時には7つの櫓があったとのことだけど、そのうち乾、艮、月見、巽、太鼓といった櫓跡を辿った。併せて本丸跡にあった数々の石碑や、有馬氏移封以前の城主・小早川秀包を祀った小早川神社も興味深く拝見。途中、月見櫓脇から蜜柑丸と名付けられた腰曲輪にも降りた。帰りは西鉄久留米駅から天神へ、途中息子が勧めてくれた大砲ラーメン本店にて「昔ラーメン 並」をおにぎりセットで。

写真は、本丸に侵入する大手口にあった冠木御門跡の石垣と、本丸御殿跡の案内板付近から見た本丸。
鞠智城
2022年5月2日
GWの北部九州城巡りの旅、三つめの目的地は鞠智城。以前も訪れたことのある古代朝鮮式山城跡だが、スタンプ押印と来訪のたびにある新たな発見を楽しみに登城。

まずは八角形鼓楼を間近に望む温故創生館でスタンプ押印、そのあと館内でビデオや展示されたパネルを観覧。ちょうどこの日はクイズラリーが開催中。訪問時点で既に時計は16時を回っていたため、広大な城域を回って16問全てに答えることは難しそうだと考えて10問正解を目指して城巡りを開始。

順当に八角形鼓楼、米倉、兵舎、板倉、長者山展望広場休憩所、灰塚展望所とここまでは前回までの流れ、そこから百済系銅像菩薩立像が発見された貯水池跡に足を延ばし、その後、池ノ尾門跡、堀切門跡と回ったところで一旦戻って回答を提出。全12問を回答してギリギリ10問正解、ころう君グッズ2点を拝領。そこから深迫門跡を見てこの日の登城行を完了。

写真は、最後に訪れた深迫門跡と、夕暮れの八角形鼓楼。
水城
2022年5月4日
福岡に戻って訪れたのは水城、博多駅からJRを利用。

同行してくれた娘とともに水城駅に降り立つと、駅舎の中にスタンプが設置されていたので、さっそく押印。駅舎を出ると歩いて1分もかからず「土塁断面ひろば」に到着。ちょうどこの場所は、鹿児島本線敷設のために土塁が分断された貴重な場所で、線路を挟んで両側に土塁が残っている。今回は時間の関係で、水城駅から御笠川沿いまでの中央エリアの土塁の周囲を散策したが、次回は水城跡展望台などを訪れてみたい。

写真は、線路によって分断された土塁断面ひろばの土塁と、その上に建つ「史跡 水城跡」の石碑。
大野城
2022年5月4日
今回のシリーズでは基肄城、鞠智城、そして水城と白村江の戦いの後に急遽築かれた北部九州の備えのいくつかを訪ねてきたが、その最後を締めくくるのは大野城跡。

水城跡の散策後、西鉄下大利駅から二日市駅で乗り換えて太宰府駅にて下車、荷物を駅のコインロッカーに預けて、まずは太宰府天満宮に参拝。そこから大野城址が広がる四王寺山に向けて軽登山を開始。

天満宮を後にして概ね70分ほどで大宰府口城門跡に到着、さらに5分ほど歩くと焼米ヶ原。そこから一旦下って再度の登り、すると小石垣や北石垣、さらに登って尾根伝いに整備された土塁を経て主城原礎石群。宇美町道を四王寺林道まで降りると既に17時少し前、そこから17時閉館の福岡県立四王寺県民の森センターに滑り込んで、何とかスタンプを押印。疲労も重なっていることから百間石垣などの遺構は次回の楽しみとして、太宰府駅に帰還。途中立ち寄った高橋紹運の居城・岩屋城跡からの眺望は格別。

写真は、焼米ヶ原から見下ろした太宰府の街と少しピンボケになってしまった小石垣、そしてラスボス感満載の主城原礎石群。
飯盛城
2022年7月2日
新大阪駅からJRおおさか東線、片町線を乗り継いで野崎駅下車。大東市立歴史民俗資料館にてスタンプを押印、縄張り石垣マップをいただいて登城開始。

資料館で教えていただいたとおり、東高野街道から慈眼寺 (野崎観音)脇を抜け、野崎つり橋、野崎城跡を経由しながら、まずは虎口跡を目指した。真夏のような暑さと七曲りの疲れで這う這うの体となるこちらを横目に、ハイキングに向かう子どもたちの元気さが羨ましい。

南丸、堀切を越えると飯盛山の頂上、往時の本丸高櫓郭跡で小楠公像を仰ぎ見ることができた。石垣跡や大きな堀切を愛でつつ飯盛山史跡碑まで来ると、そこからは四条畷に向けて急激な下り。傾斜が緩やかなところに鎮座する四条畷神社、さらに小楠公墓所にも参拝。二枚で縄張りを表現した御城印、四条畷側を入手できなかったのは心残り。

写真は、本丸高櫓郭跡にあった「飯盛城址」の石柱と、本丸展望台郭からの眺望。
芥川山城
2022年7月2日
飯盛城から転戦。四条畷駅から新大阪駅まで戻ってJR京都線で高槻駅へ、さらに高槻市営バスで最寄りの塚脇バス停で下車して芥川山城のある三好山を目指す。なお、スタンプは高槻駅にある観光案内所、そこでルートマップも入手。

登城ルートとして選択したのは塚脇ルート、私有地を開放していただいていることに感謝しつつも、現地の案内板が少ないことなどは少し残念。それでも、曲輪と思しき平坦地や堀切、竪土塁などは最初の天下人と称されることもある三好長慶の城であることを思わせる。

主郭を置いたとされる三好山山頂には、三好長慶と松永久秀を祀る祠が鎮座。また、大型のパネルには芥川山城の説明書きがあって、併せて観光案内所でいただいたものとは別のパンフレットが置かれていたので、これを入手。飯森城とはまた違った角度で大阪の街の眺望を堪能。帰路は大手筋ルートを選択し、大手門石垣を見ることができた。このルートは竹林を抜けるルートで、笹が積もった場所では滑りやすいし、鹿や猪を防ぐための柵が設けられているので扉の開閉には要注意。

写真は、主郭跡に建つ祠と大手門石垣の威容。
福江城
2022年9月24日
博多港を23日23時45分発の船で出発、福江港に到着したのは24日8時半頃。眠そうな息子とともに、港から正面に見える福江城(石田城)に直行。

この城は「日本で最後に築城された城」とされ、維新直前に海防のために幕府から築城が許されたのだとか。かつては三方を海に囲まれていたそうだが、現在は埋め立てられ、城内には県立五島高校の校舎が建つ。それでも長年波風に晒されてきた石垣には、往時の日本人の危機感が刻まれているようで尊い。

息子のリクエストで路線バスを利用して堂崎天主堂にも寄り道。福江港に戻って、先達お勧めの「うま亭」にて長崎ちゃんぽんと五島うどんを堪能したのち、五島庭園を見学。スタンプ押印はここで。案内の方に丁寧なご説明を伺うこともできて大満足。福江港からジェットフォイルを利用して長崎入り、長崎新幹線「かもめ」開通に沸く市内を散策して、平戸城攻略に向けて佐世保に移動。

写真は、石田城の御築山橋門と、邸宅側から見た五島庭園。庭園の池に浮かぶ中之島は、福江島のシンボルである鬼岳の溶岩を用いた亀の形、この隠居所を作らせた第30代盛成公が亀好きだったことによるのだとか。
平戸城
2022年9月25日
佐世保駅前に宿泊、松浦鉄道と路線バスを利用して、観光交通ターミナルまで乗車。併設された観光案内所に荷物を預け、レンタサイクルを手配(電動アシスト機能付;500円/4時間)。坂道が多い平戸の地で、移動のための機動力が格段に上がったところで、まずは平戸城攻め。それにしても、平戸港から見る平戸城もまた佳きかな。

方啓門虎口から二之郭、亀岡神社に参拝後、御朱印を受領。明治天皇外祖母である中山愛子像、乾櫓、地蔵坂櫓、北虎口門、本丸門を経て、模擬天守へ。平戸瀬戸を背景に、天守、見奏櫓、懐柔櫓を望む眺望が目に飛び込んできた瞬間は、この地を訪れた喜びを感じることができた最高のとき。

大手門跡を抜け、再び自転車を駆って平戸ザビエル教会、松浦史料博物館、オランダ商館を見学。平戸藩主の私邸であった松浦史料博物館の石垣や建物、さらに所蔵品は見応え十分。観光案内所で教えていただいた平戸漁協が運営する旬鮮館で海鮮丼を満喫して博多経由で帰路に就く。

写真は、天守最上階から見下ろした平戸瀬戸と見奏櫓、松浦史料博物館の石垣と門、平戸港から見上げた平戸城址。
出石城・有子山城
2022年10月7日
京都駅から山陰本線、さらに八鹿駅から路線バスに乗り継いで、雨の出石入り。まずは人気店・近又にて出石そばをいただいて「皿そば之証」を受領。

辰鼓楼が象徴的な大手門跡を抜け、観光案内所でスタンプ押印、パンフ入手、荷物を預けて登城を開始。登城橋から西の郭、二の丸を経由して西の隅櫓、仙谷秀久を祀る感応殿に参拝すると、出石そばの源流がかつて赴任していた信州・上田にあることを知る。稲荷参道を経て稲荷曲輪の社殿に参拝したところで、このまま有子山登城に進むかどうか、ひと思案。

登城の意思を固めてはみたけれど、案の定、岩場の多いところでは足元が滑りがち。細心の注意を払いながら歩を進めると、中間地点以降は比較的平坦で歩きやすい登山道。第六曲輪あたりからは石垣遺構も見え始めて、千畳敷に寄り道して主郭に到達。わずかの時間、雲も切れて出石城下の眺望を楽しめたし、天候のおかげで幻想的な城址を堪能することもできた。登りで確認できなかった石切場、井戸曲輪を見て下山。諸杉神社に参拝し、残された時間を伝建地区の散策に充てた。

写真は、谷山川に架かる登城橋と出石城西の本丸隅櫓、雨雲に覆われた有子山城主郭。
若桜鬼ケ城
2022年10月8日
前日のうちに出石から鳥取に移動、この日は鳥取から若桜を目指す。因美線、若桜鉄道と乗り継いで若桜駅着。若桜鉄道は車両も若桜駅舎も、レトロ感があって、朝から素敵な気分にさせてくれる。

観光案内所が開くのを待ってスタンプを押印。担当の方からは、雨の影響で登城道が滑りやすいため車道でのアプローチを勧められた。昨日の成功体験から古城ルートを選択、第一町民体育館脇の登城口から攻城を開始。確かに岩が露出した場所では滑りやすく、電気柵が設置された狭い場所もあって緊張感を覚えたが、昼間は通電されていないことを後で知る。

破却の影響で石垣が崩れた三の丸虎口から三の丸に至ると、若桜の町を一望。段差と石垣で区画された曲輪を歩きながら天守跡まで来ると、若桜が但馬と播磨に向かう街道の結節点であったことがよくわかる眺望。下山は六角石垣、山腹遺構を経由して、八幡山ルートを利用。出石同様、若桜の街も伝建地区。大火を経て防火対策を生かした伝統的な都市計画が生きている街並みを堪能。

写真は、破却の爪痕を残す本丸虎口跡と、破却を免れた六角石垣。
鳥取城
2022年10月8日
若桜でご一緒した城友さんと互いの健闘を称えて別れ、鳥取城跡へ。駅からは市が運営するコミュニティバスを利用、久松公園まで100円。北の御門跡から侵入、扇御殿跡に建つ明治期の洋風建築「仁風閣」でスタンプ押印。県立博物館で荷物を預けて攻城開始。

西坂下御門、登り石垣、裏御門跡、石切場、三階櫓跡といった二の丸の遺構を巡り、表御門跡を出て天球丸石垣、巻石垣を愛でる。稲荷社の脇から天球丸を経由して、山上ノ丸の攻略に着手。

登り初めの八幡宮跡から20分ほどで山上ノ丸の石段。天守櫓跡にはコスモスが数多く咲いていて、さながら「天空の城ラピュタ」の一場面。また、そこからの日本海や鳥取砂丘、鳥取の街の眺望は格別。ただ、余力なく太閤ヶ平まで足を伸ばすことはできず残念。

鳥取西高校が建つ三の丸、太鼓御門、大手に当たる中ノ御門を出て吉川経家立像にたどり着くころには、鳥取城の戦いの凄まじさを身に染みて感じることができた。

写真は、天球丸石垣と巻石垣、吉川経家の立像と山上ノ丸、三階櫓の櫓台と仁風閣。櫓台には「お左近の手水鉢」も見える。
月山富田城
2022年10月9日
山陰攻城行三日目、松江駅から山陰本線利用で荒島駅着、安来市のコミュニティバスで市民病院バス停下車、月山富田城を目指す。

歴史資料館開館前とあって、案内板の地図を頼りに登城開始。尼子興久墓所、馬乗馬場、千畳平、太鼓壇、奥書院、花ノ段と重層的な曲輪群や遺構を巡る。山中御殿は、曲輪の規模が大きく石垣が多用されるなど、尼子氏以降の影響を強く反映。

菅谷口から軍用道を経由、登城の難所・七曲がりへ。今でこそ整備されて歩きやすいが、それでも体には負担が重い急坂。やっとの思いで登り切った三ノ丸からの眺望に癒され、元気を得て二ノ丸、本丸を攻略、勝日高守神社にも参拝。ここにも鹿介記念碑、主君・尼子氏ではなく、富田城はあくまでも鹿介押しを貫徹。

大土塁や、松江城を築城するもこの地に墓所とした堀尾吉晴墓所、麓に立つ巌倉寺を経て、飯梨川対岸で尼子経久騎馬像に遭遇。再度川を渡って資料館でスタンプを押印し、高守社御朱印を受領。ここでも係の方に丁寧な対応をいただき本当に感謝。帰路は月山入口バス停から安来駅まで。

写真は、花ノ段から望む山中御殿跡、三ノ丸から望む西袖ヶ平と城下、尼子経久騎馬像。
松江城
2022年10月9日
午前に引き続き生憎の曇天、安来駅経由で松江に戻って、駅前から路線バスで国宝松江城・県庁前バス停へ。月山富田城から松江城という流れは堀尾吉晴の半生を辿っている気分。

バス停に着くと松平直正騎馬像や堀尾吉晴像に迎えられ、大手門跡から侵入。外曲輪、三之門跡、二之丸の櫓群を経由して松江神社に参拝、その後、一之門を経て本丸へ。そこには現存12天守・国宝五城のひとつ松江城天守が圧倒的な存在感で屹立。しばらく本丸を散策したのち、天守を拝観。

地階で国宝指定の決め手となった祈祷札のレプリカ、1階で東西の天守最大柱や階段に備え付けられた引き戸などを見ながら、最上階まで進むと、宍道湖や日本海、うっすらと大山などを望む眺望に魅了。松江城、決して侮ることなかれ。

天守を辞したあと、北ノ門、ギリギリ井戸跡、馬洗池、中曲輪北之丸を経由して、搦手虎口から堀の外周を散策。小泉八雲旧宅や武家屋敷跡、宇賀橋、北惣門橋などを眺めながら、現在島根県庁が建つ三之丸跡、千鳥橋(御廊下橋)まで歩いた。

写真は、二の丸に建つ南櫓と中櫓、大手門前に建つ堀尾吉晴像、そして国宝・松江城天守。
米子城
2022年10月10日
前日に松江から米子まで移動して宿泊。翌朝は暗いうちから外堀跡を散策。街中に鎮座するお地蔵さまの数に驚く。米子市立山陰歴史館で押印したスタンプは、周囲が暗かったため不出来となったが、これもまた旅の思い出。

鳥取大学医学部付属病院を越えて湊山公園を散策、中海側の登城口から攻略開始。行程は、登り石垣、内膳丸を経て、中海展望所、さらに水手御門側から本丸へと侵入するルートを採用。これによって、概ね海城としての米子城の輪郭を掴むことができた。

晴天だったらなとは思いつつも、周囲を360度見渡せる本丸はとても魅力的。本丸からの眺望を目に焼き付け、鉄御門跡、四重櫓櫓台、番所跡を経て城山大師像 近くの登城口に降り立つ。

二の丸枡形虎口、隣接する飯山に築かれたという采女丸などを見ながら米子駅に帰還。これをもって4日間の山陰攻城行を無事終了、このあと出雲に移動して出雲大社に参拝、稲佐の浜から戻ると、偶然出雲駅伝のスタートに遭遇するというおまけ付き。

写真は、国道9号久米町交差点付近から望む本丸石垣と、特定の日にダイヤモンド大山が見えるはずの天守跡からの眺望。
大洲城
2022年11月23日
伊予國の百名城・続百名城を訪ねる旅、最初に訪れたのは大洲城。初日は生憎の雨模様。駅に到着後、傘を差しながら歩くこと概ね30分、まずは先達御用達の「さおや」にて「ちゃんぽん」(1,050円)をいただいて登城開始。

往時の二の丸であった市民会館脇から緩やかな勾配の坂を上っていくと、眼下に肘川を望むことができる二の丸上段。さらに井戸丸を見ながら進むと、復元された四層四階の天守と二つの重要文化財の櫓が連なる本丸にたどり着く。真新しさの残る天守に登って肘川を見下ろすと、時折、雨に煙る鉄橋を横切って走る予讃線の列車がなんとも幻想的。銀杏や紅葉に彩られた北の葵御門跡を下って、水の手櫓・水の手御門跡を経由して苧綿櫓、さらにわずかに残る外堀跡を経て、大洲高校近くの西門、三の丸南隅櫓を見て攻略完了とした。この城はむしろ雨のほうが、むしろ風情が感じられてよいかも。

「おはなはん通り」、紅葉が美しい臥龍山荘を散策して、その日は大洲泊。雲を残しながらも青空がのぞく翌朝、朝靄に包まれた大洲城天守を再度堪能。写真は、それぞれ雨の肘川橋、西門跡付近、翌朝緑地公園から見た天守。
河後森城
2022年11月24日
伊予大洲駅を8時前に発ち北宇和島駅で予土線に乗り換え、10時20分頃松丸駅着。公共交通機関を利用した登城者ということで、駅舎内にある観光案内所で担当の方から最短の登城コースを伝授いただいた心遣いに感謝しつつ、荷物をコインロッカーに預けて登城開始。この日は、昨日と打って変わって、爽やかな晩秋の朝。

最短コースは承知しつつも、敢えてパンフレットの徒歩コースを選択。整備された遊歩道を風呂ヶ谷、井戸などを辿って西第十曲輪でスタンプ押印。心地よい森林浴と地元の子供たちが作成した案内パネル、そして連なる曲輪群を満喫しながら本郭に到達し、旧松丸街道の町並みを眺めた。古城に連なる東の曲輪群へと下り、新城まで足を延ばして再度本郭手前まで戻って下山ルートへ。移築門とされる永昌寺山門を見て、最後に「河後森城趾」と刻まれた石碑で登城行を完了。登城後、駅に併設された足湯を楽しむことができなかったのは心残り。

写真は、河後森城趾の石碑と、西第二曲輪から見た本郭。
宇和島城
2022年11月24日
河後森城から転戦。松丸から宇和島自動車虹の森線のバスで50分ほど揺られて13時に宇和島駅前着、徒歩で藩老桑折氏武家長屋門を目指す。長屋門では門前の「一心」にて「宇和島鯛めし定食」(1,540円)を、観光物産協会のショップで家族への土産物を求めて登城開始。

長屋門を発って井戸丸、二之丸跡を辿って現存天守のひとつ宇和島城天守でスタンプを押印。現存天守ならではの急階段を上り、天守最上階から風光明媚な宇和島のリアス式海岸を眺め、贅沢なひとときを過ごす。三の門まで戻って、長門丸、宇和島城最古と言われる藤兵衛丸石垣、式部丸を散策して、これも現存する上り立ち門に至る。現在、宇和島城整備事務所が置かれている御作事所跡、和霊神社が鎮座する山家公頼邸宅跡、宇和島空襲で焼失するまで現存した追手門旧蹟の石碑などを見ながら登城を完了。このあと、さらに足を延ばして、和霊信仰の総本山・和霊神社にも参拝。

写真は、宇和島伊達家の居城の象徴でもある寛文天守、城内最古とされる藤兵衛丸石垣、天守と同じく現存する建築物・上り立ち門。右に建つのは大津事件の際の大審院長、宇和島出身の児島惟謙の像。
松山城
2022年11月25日
宇和島城から、特急宇和海を利用して松山入り。市内の丘陵地・勝山の上にライトアップされた天守を見ながら、一番町泊。翌朝県庁脇の黒門口登城道から登城開始、二之丸史跡庭園や天守の開門前に、筒井門を抜けて本丸へ、さらに乾門を抜けて古町の登城口まで往復して、4つの登城道のうち2つを攻略。本丸からは、朝の霞掛かった松山の街と瀬戸内海の眺望を楽しむことができた。

9時の開門を待って、連立式の天守を散策。本丸に至るまでにも迷路のような道を辿ったが、コンパクトな構造の中に、さらに複雑に門が配置され、姫路城を彷彿とさせるよう。

往時の資材運搬用の道であった東雲口登城道を徒歩で下って、加藤嘉明騎馬像や正岡子規の句碑と出会い、再度戻って壮大な登り石垣を見ながら県庁裏登城道を下り、4つの登城道を制覇。二之丸史跡庭園でのんびりした後、一旦湯築城跡攻めに向かうが、戻ったのちにリフトで登城、夕暮れに染まる天守と松山の街並みを堪能。写真は、天守最上階からの本丸の眺め、東雲口の加藤嘉明騎馬像、夕暮れの本丸櫓群。
湯築城
2022年11月25日
大街道から路面電車で道後公園下車、正面はもう往時の湯築城搦手門跡。周囲には堆く積まれた土塁が残っていて、いかにも城跡の名残。搦手門あとすぐそばの資料館でスタンプを押印、ガイドの方からこの城のあらましや、この城の主であった河野一族のお話を伺う。時宗の開祖一遍が河野氏の出身とはここで教えていただいた。

往時の湯築城の城域は道後公園全域だけれど、その復元・整備は現時点で公園の南半分に留まっていて今後の進展が期待される。それでも、小牧城跡でも見たような外堀土塁の断面展示などは素晴らしいものだし、秋山好古大将の書による石碑、一遍上人が題目を刻んだとされる石造湯釜なども見どころ。

遮蔽土塁、大手門跡というように公園の外周を反時計回りで散策、道後温泉本館で明治まで使われた石造湯釜付近から丘陵地を登り始め、いわゆる杉の壇を経て、本壇。展望台から城域、道後周辺はもとより松山城などの眺望を楽しむことができた。岩崎神社方向に下ったのち、子規記念博物館、道後温泉駅、伊佐爾波神社を巡って「椿の湯」で汗を流した。写真は、搦手口の土塁、本壇展望台からの眺望、上級武士居住地区から見た城域中心部。
能島城
2022年11月26日
早朝松山を出発して、8時前に今治駅着。駅のコインロッカーに荷物を預けて、駅前のバス停からバスを乗り継ぎ、9時半には村上海賊ミュージアムに到着。途中、来島海峡を渡るしまなみ海道を楽しむことができたけれど、ここはサイクリストの聖地。時間的な余裕があれば、ぜひ自転車で訪れたい場所。

2014年本屋大賞を受賞した和田竜「村上海賊の娘」で、少しだけ土地勘はあったつもりだけど、村上水軍について、博物館の展示を通じて、当時の海賊がどのような役割を担っていたのかなど、改めて学びの機会を得ることができた。

港から出発する能島城上陸&潮流クルーズツアーにも参加。村上海賊の操船技術を直に体験する機会は本当に貴重。ただ上陸した能島城跡は現在、史跡保存のための工事中。もう少し自由に散策できる時間があればとも思わなくもなかったけれど、ガイドの方の説明はとても参考になった。

写真は、博物館最上階から見た能島城跡、背景には伯方・大島大橋、その手前に右が能島で左が鯛崎島。もうひとつは三之丸跡から見た南部平坦地と鯛崎島。南部平坦地には船着場や四阿、「史跡能島城跡」と刻まれた石碑もあった。
今治城
2022年11月26日
能島城跡から転戦。村上海賊ミュージアムから、バスを乗り継いで今治桟橋バス停に着いたのは14時半頃。そこから徒歩で今治城跡に登城。

瀬戸内海側から三之丸跡へと至る土橋で内堀を渡り、高麗門跡、復元された鉄御門、渡辺勘兵衛に由来する石垣の大石・勘兵衛石を見ながら進むと、三之丸跡には築城者である藤堂高虎の騎馬像。本丸跡に鎮座する吹揚神社に参拝後、模擬天守へ。五重六階の天守最上階からは、各所に配置された櫓や門、今治港、遠くはしまなみ海道の眺望を楽しむことができた。

櫓めぐりのスタンプラリーにも参加、御金櫓、山里櫓、武具櫓を回って、担当の方からの説明をうかがうことができただけでなく、最後に素敵なポストカードをいただくことができた。夕暮れに染まる城のシルエットに癒しをもらって、山里櫓から内堀を抜けて今治駅へ、そして新居浜で一泊したのちに帰路に就いた。これで四国はコンプリート。

写真は、夕日を背景にした今治城のシルエット、藤堂高虎騎馬像と天守、天守最上階から見下ろした鉄御門。
中津城
2022年12月26日
少し早めの年末休暇をもらって、新幹線で小倉経由中津へ。
駅にある観光案内所で貸自転車をお借りして、登城開始。駅からは西に延びる道を新中津市学校まで進み右折、藩校 進脩館跡、中津市立南部小学校に残る生田門や「おかこい山」跡などを見ながら、10分ほどで中津神社の鳥居に到着。

自転車を置いて、本丸南側の石垣や椎木門跡、三斎池などを散策、中津大神宮と奥平神社に参拝後、カッコ良すぎる模擬天守でスタンプ押印。

享保年間から幕末に至るまでこの地を治めたのは、「長篠の戦い」で決死の籠城戦を展開した奥平家。模擬天守には、長篠の戦に関する展示のほか、一時期、中津を本拠とした黒田孝高(官兵衛)に関するものもあった。それよりも印象的だったのは、本丸に官兵衛に謀殺された宇都宮鎮房を祀る城井神社が鎮座していたこと。

水門跡から中津川沿いに石垣を眺めながら散策、薬研堀の石垣には黒田・細川という二家が築いた石垣の境界を確認、薬研堀越しの模擬天守は流石に絵になる。登城後、福澤旧宅、寺町散策を経て駅へ、そこから宇佐神宮参拝に向かった。

写真は、薬研堀越しの模擬天守と、黒田・細川時代の石垣境界。
角牟礼城
2022年12月27日
大分駅から博多行「ゆふ」を利用、1時間15分ほどで豊後森駅着。駅近くの観光案内所で地図などを入手、駅前から三の丸跡までタクシーを利用(運賃は2,000円ほど)。少し前に降った雪が残っていて、登城道がぬかるんでいたらどうしようかと思ったが、思っていたほどではなくて安堵。

竪堀や苔生した石垣を横に見ながら、大手門跡、井戸曲輪、二ノ丸跡、櫓門跡を経由しながら本丸跡に至る。まだ雪が残る本丸跡では、北側の石垣の修復工事が行われているようで、複数の重機が入っていた。

下りは豊後森駅まで徒歩。角牟礼神社に参拝、さらに下山途中の至るところで見守ってくれるお地蔵さまの豊かな表情に和まされる。末広神社付近まで下りてくると、急傾斜の石段に足を取られそうになったり、御長坂の石畳が凍結していて足を滑らせコケそうになったりとひと苦労。久留島庭園でまったりとした時を過ごし、豊後森藩資料館でスタンプ押印。

写真は、山頂に角牟礼城を望む久留島庭園と、雪が残る角牟礼城本丸跡。
大分府内城
2022年12月27日
角牟礼城登城から大分駅に戻って、徒歩にて登城。
県庁側に設けられている大手門の迫力は素晴らしいが、かつて門内に大分県庁が置かれ、その後、整備が中途半端になっているせいなのか、「とりあえず城址公園として整備しました的」な、いわゆる「県庁所在地の城」状態が続いている。ただ、登城するまで、この城が大友宗麟の居城と誤解していたことは恥ずかしい限り。

大手門でスタンプを押印、そこから宗門櫓へ時計回りに城址公園を散策、廊下橋から松栄神社に出て、帯曲輪から堀を挟んで人質櫓などの櫓群を確認。天守台からの眺望も楽しむことができた。ただ、これから整備も進むのだろうけれど、このあと訪れた大友屋敷跡への期待値のほうがやや上回った印象は否めない。

写真は、山里丸跡から堀を挟んで眺める人質櫓、百名城スタンプが置かれている大手門、天守台から見下ろした廊下橋と山里丸。
佐伯城
2022年12月28日
宿泊先最寄りの大分駅からJR日豊本線に乗車、概ね1時間20分ほどで佐伯駅着。まだ観光案内所が開いている時間ではないため、そのまま最寄りのバス停から佐伯市コミバスで内野入口バス停下車。

山中家屋敷跡や、開館したばかりの城下町観光交流館、国木田独歩館などに立ち寄りながら、「歴史と文学の道」を進むと三ノ丸櫓門。佐伯市歴史資料館でスタンプ押印を終え、いざ登城開始。

登りは往時から存在した「登城の道」を選択、本丸にたどり着くと、獨歩碑近くからは市街地はもちろん、遠く海に浮かぶ島々を見ることができた。また、早い時間にもかかわらず、多くの地元の方がラジオ体操のために集合して、互いに声を掛け合っておられたさまには、地域コミュニティの力強さを感じることができた。
北出丸から廊下橋下を抜け、本丸跡へ。その後、二の丸、西の丸を散策、帰りは廃城後新たに整備された「独歩碑の道」を使って下山。味愉嬉にて、郷土の調味料を使った「ごまだしうどん」と、店主の楽しいトークを堪能して臼杵へと向かった。

写真は、本丸を頂きに置く佐伯城の三ノ丸櫓門と、獨歩碑付近からの眺望。
臼杵城
2022年12月28日
佐伯城から転戦。
臼杵駅構内の観光案内所で観光地図を入手、まずは八町大路の街並み散策に出かけようとすると、駅舎正面に臼杵大仏のレプリカ。石仏は今回行程にうまく組み込むことができなかったので、レプリカでも拝観できたのはありがたい。

早春賦作詞者 吉丸一昌像が建つ大手門公園で城跡を右に見ながら八町大路に入り、臼杵川まで行き着いて、龍原寺三重塔。さらに、二王座歴史の道を経由して、小手川商店で土産物を物色、味噌ソフトクリームも味わった。臼杵八坂神社、稲葉家下屋敷を経て、臼杵
市観光交流プラザでスタンプを押印後、いざ登城開始。

大友時代の大手・古橋口から鐙坂を上るルートは現在工事中のため通行禁止、稲葉入部後にできた今橋口から二之丸に入って臼杵護国神社に参拝、大門櫓、井楼櫓、畳櫓と巡って本丸へと移動。かつて丹生島と呼ばれた島を要塞化した大友宗麟の慧眼に感服しながら、まだ僅かに紅葉が残る城内散策を続け、搦手に当たる卯寅口から抜けて、再び駅に戻った。所要およそ3時間ということろか。

写真は、岩盤を掘り込んで造ったとされる古橋口と、夕日に照らされながら搦手に建つ卯寅口脇櫓。
岡城
2022年12月29日
2022年最後に攻略したのは、竹田市の岡城。
大分駅発の九州横断特急に1時間ほど揺られ豊後竹田駅着。年末で観光案内所は休業、自転車を借りることは叶わず。やむなく駅のコインロッカーに荷物を預け、町の散策を開始。愛染堂、円通閣、そして瀧廉太郎の記念館や作曲した曲が流れるトンネルを経て、武家屋敷跡、キリシタン洞窟礼拝堂、広瀬神社と巡って、岡城跡にたどり着く。

まず、この城が頼朝と対立した義経を匿うために築城したという伝説があることを知る。次に驚くのは、約9万年前の阿蘇山の噴火に伴う溶結凝灰岩の断崖絶壁に造られた「難攻不落の城」が決して看板倒れではないこと。さらには藤堂高虎や加藤清正による助言を入れて門の位置や方角を変えるなどの小ネタも。何より瀧廉太郎が「荒城の月」をイメージしたとされるのも説得力があるように思う。

大手門から西の丸、一旦中川覚左衛門屋敷跡まで歩を進め、それから戻って本丸跡を経て下原門跡まで、3時間を超えてこの城の魅力を満喫。写真は、二の丸に建つ瀧廉太郎像、岡城阯史跡碑、清水谷を挟んだ本丸の眺望。
志布志城
2023年3月3日
2023年最初の城巡りの旅は日向国、そして最初に訪れるのは志布志城。現在は鹿児島県に属するものの日向の城。宮崎駅から日南線で志布志を目指した。とはいえ油津で乗換え、福島今町で代行タクシーに再度乗換えとなかなかの長旅。それでも駅に併設された観光特産品協会で、続百名城スタンプのある埋蔵文化財センターまでの道順や無料の貸自転車の手配など丁寧に対応いただいたことで本当に助かった。

自転車を小学校の裏に止めて、いざ登城開始。シラス台地を削って築かれた曲輪は独特で、この地ならでは。埋蔵文化財センターのジオラマやいたいだいた資料も参考に、臨場感を感じながら散策。あちこちに設置されたマップで現在地を把握できるのはありがたいけれど、今後の調査を踏まえて説明内容が充実するといいなぁ。大手口を経て矢倉場から本丸、中野久尾、大空堀、大野久尾と散策。さらに武家屋敷や志布志発祥の地、宝満寺跡、いくつかの山頭火句碑などを巡って、バスで都城を経由して宮崎へ。

写真は、シラス台地が削り込まれた本丸登口跡と、三宝荒神を祀った祠を背景にした本丸跡の標柱。
飫肥城
2023年3月4日
前日同様日南線を利用して飫肥を目指すも、途中下車して青島神社に参拝。飫肥に到着すると小雨のため、傘を差して徒歩で大手門へ。歴史資料館でスタンプ押印、その後、松尾の丸、旧本丸跡、大手門西側の土塁などを散策。なお、歴史資料館で入手した飫肥城共通入場券はJAF会員特典で700円。

城外に出て小村寿太郎生家、旧伊東伝左衛門家、藩校 振徳堂、田ノ上八幡神社を巡り、おび天蔵でかつお飯とおび天盛り合わせ(計1,430円)。さらに小村寿太郎記念館、豫章館、販売所で「あゆみちゃんマップ」(800円)を購入して「九州の小京都」飫肥城下をのんびりと散策。マップに付いている引換券を利用して、家族へのお土産も確保。

印象的だったのは、小倉處平という人物。自分を貫いた生き方の実践者というだけでなく、外交官・小村寿太郎などの人材育成にも力を入れた人のようだ。こうした人物を知ることにも、旅はよい機会を与えてくれる。

写真は、雨の大手門、苔生した感じが素敵な本丸搦手に位置する北門、第13代藩主伊東祐相により創建された藩校 振徳堂。
延岡城
2023年3月5日
宮崎駅から特急「にちりん4号」を利用して概ね1時間で延岡駅、そこから徒歩20分で城山公園南駐車場着。掲示されていた地図に用意してあった城山公園のパンフと石垣マップを入手して城巡りを開始。

三ノ丸跡、石御門跡、吹上坂を経由して三階櫓跡。ここには「空の先駆者 後藤勇吉の碑」も建立。紅白のヤブツバキの花を愛でつつ天守台まで到達。本丸広場、二階門(櫓門)跡、二階櫓跡を経て、この城の代名詞でもある「千人殺しの石垣」に対面し圧倒される。牧水歌碑公園を経て北大手門から一旦北駐車場に出て北櫓跡の石垣を見る。再び城内に戻って、二ノ丸跡から内藤家墓所を見降ろして、二ノ丸の管理事務所でスタンプ押印。ちょうどよい頃合いとなったことから、天守台に戻って10時の鐘を傍で聞いた。

そこからのんびりと駅方向、「元祖チキン南蛮 直ちゃん」にてチキン南蛮定食(1,000円)をいただく。駅まで間近の店に到着した際には、開店前にもかかわらず既に20人ほどの待機列ができていたけれど、確かに美味。

写真は、見上げて撮影した「千人殺しの石垣」と、右に移設された内藤家墓所が控える城の表門 北大手門。
佐土原城
2023年3月5日
延岡城から転戦。延岡駅から日豊本線を利用、約80分で佐土原駅着。さらにそこから歩くこと75分ほどで「いろは館」に到着。ここでスタンプ押印とともに情報収集、職員の方から、縄張図のついたパンフレットや佐土原城の遺構を説明した資料などをいただく。

道路向かいの鶴松館も開館していて、鶴松館経由で「中の道」を使って天守跡を目指し登城開始。この鶴松館のあった場所も、かつて政庁が置かれた場所とのことで佐土原城の一部。折しも「MIYAZAKI山城クエスト」が開催中で、その案内板や予め設けられた標柱をたどりながら進んだ。

城門跡が残る虎口や本丸枡形虎口などを経由して本丸跡、そして天守台跡にたどり着く。往時、この場所には天守があって金箔を施した鯱瓦を戴いていたというのだから、日向の中心的な城と言っても過言ではないだろう。

残念ながら、南の城や松尾丸は見逃してしまったし、大手道も途中までしか進むことはできなかったけれど、山城を堪能できたことに満足。帰路は近くの停留所から宮崎駅までバスを利用。

写真は、パンフの表紙にもなっている大手道の虎口と、鯱瓦が見つかったという石垣の残る天守台跡。
今帰仁城
2023年3月18日
那覇から沖縄道も利用して名護方面へ。備瀬のフクギ並木を散策後、世界遺産・今帰仁城跡着。現地で案内を見て、急遽、無料でのガイドをお願いすることに。そのご説明に聞き入りながら北山の要となったグスクを堪能。

平郎門から入って、大隅を左に見ながら七五三の階段を進み、大庭では「志慶真乙樽の歌碑」に纏わる背景を伺った。主郭では「今帰仁里主所火の神」に参拝、さらに門を抜ける頃には、それまで空を覆っていた雲も快晴となって、志慶真門郭では今帰仁ブルーの海を背景に、ガイドの方も交えて家族で記念撮影。再度主郭に戻って御内原から見える豊かな自然に癒しをもらった。また、御内原にあった城内上之御嶽では、国宝金装宝剣拵に関する北山王の逸話を興味深く拝聴。

御内原でガイドの方と別れたのちは旧道、カーザフを経由して歴史文化センターに帰還、スタンプ押印。登城の思い出にと「今帰仁城跡ガイドブック」を購入。「今帰仁そば」に立ち寄ったものの、シーカヤック体験の集合時間が迫っていたためランチにありつけなかったのは残念。

写真は、荒々しい石積の平郎門、志慶真門郭から見上げた主郭の城壁、大庭を含む御内原からの眺望。
座喜味城
2023年3月19日
那覇から国道58号を利用して小一時間で座喜味城跡着。9時前に到着したので、スタンプが設置されているユンタンザミュージアムは開館前。

松林を抜けると、目の前に石造アーチ門を中心に、両翼に堅固な石積みを備えた二の郭の城壁が出現。アーチ門に近付いて、他のグスク等で類例が確認されていない「くさび石」も確認。城の主要部は、周囲を城壁で隔てた二つの郭から構成され、構造は至ってシンプル。それでも枡形に類似した防衛システム、美しいだけでなく、城の防御にも機能的な曲線的な石積など、築城の名手・護佐丸が手掛けたグスクであることを実感。

ひととおり城を堪能した後は、家族と城跡公園内に設けられた木道を散策して、周辺の自然を体感。ユンタンザミュージアムに戻ってスタンプ押印、展示などを通じて読谷村の歴史を学んだ。特に印象的だったのは洗骨の風習と沖縄戦。さらに登れる灯台のひとつ、残波岬灯台にも立ち寄って御菓子御殿でランチ。

写真は、一の郭の石造アーチ門と、二の郭の城壁から見下ろした一の郭と二つのアーチ門。
首里城
2023年3月19日
過去3~4回訪れた首里城に家族で登城。前回は2019年3月の出張時に同僚と訪れたはずだから、4年振り。同じく世界遺産である座喜味城からの転戦。

首里城公園駐車場に駐車、首里杜館にて押印後、守礼門、世界遺産・園比屋武御嶽石門を経て、正門である歓會門からグスク内へ。瑞泉門、漏刻門、廣福門と順路を辿り、首里森御嶽のある下之御庭では正殿復元工事に用いる漆塗りの原料製作のボランティアを募っていたので、参加して微々たる貢献。火災で大きな損傷を受けた大龍柱に心を痛めながらも、さらに奉神門の先に正殿はなく地元の方々の無念さを改めて痛感。

今回の登城では御嶽の存在を意識して散策。あちらこちらに残る御嶽は、このグスクが軍事や政治の中心であっただけでなく、祈りの場でもあったことを物語る。今回初めて訪れた京の内、美福門や継世門、さらにはグスクの外に出て、玉陵、首里金城の大アカギ、金城町石畳道、さらには識名園にも足を延ばした。

写真は、このグスクのみならず沖縄の象徴でもある守礼門、国王が城外に出かける際に安全祈願をしたとされる聖地で世界遺産の園比屋武御嶽石門、王家の陵墓で同じく世界遺産の玉陵。
勝連城
2023年3月21日
那覇を出発、浦添城経由で「あまわりパーク」に到着。城跡と施設内の常設展を見ることができる入場券(600円)を購入、スタンプもここで押印。期待した青空は少なく、厚い雲に覆われた空の下、施設内を一旦抜けて一般道を歩いて登城口へ。

順当に「門口のカー」から散策を始め、いくつかの井戸跡や城壁、御嶽などを見ながら順路に従って遺構を巡る。一の郭まで達すると、この城が三方を海に囲まれた与勝半島に位置することを実感、さらに宮城島、平安座島へと続く海中道路を一望。また、一の郭に祀られていた、勝連を守護する大きな霊石をご神体とする玉ノミウヂ御嶽にも参拝。

「あまわりパーク」まで戻ると、阿麻和利の活躍を描いた、地元の高校生による素晴らしいライブパフォーマンスを見学、これは必見。護佐丸の宿敵であり、首里王府に敵対したとされるが、歴史が勝者に都合がよいものであることは常。勝連では今も愛され、慕われている存在であることを改めて知る。

写真は、史跡碑と三の曲輪の石積み、二の曲輪にあった火の神を祀る場所ウチミムン。ウチミムンとは「三個のかまど石」を意味するとのこと。
中城城
2023年3月21日
阿麻和利の居城・勝連城跡から、その好敵手・護佐丸の本拠地・中城城跡に転戦。中城城の入口では色鮮やかな花がお出迎え、入場料は400円。スタンプもここで押印。入場後は無料のカートで正門付近まで2分足らずで到着。

正門を抜けると、一の郭を囲む石積みは現在大規模な修復工事の最中。仮設の階段を利用して南の郭に進むと、いくつかの御嶽に参拝。南の郭には8つの遥拝所があるそうで、まさに祈りの場所。他方、アーチ門を抜けた一の郭は城内で最も広い郭で、正殿や護佐丸が宴を催した観月台の跡。石畳道に誘われて次のアーチ門を潜ると、かなり高い城壁に囲まれた二の郭。ここでは航海安全と郭に住む人々を守護する神を祀ったシライ富の御イベに参拝。ここでは高い技術を用いて築かれた曲線状の城壁と、そこからの中城湾の眺望が素晴らしい。三の郭、西の郭、大井戸、北の郭を経て裏門から城外へ。近くにあった伊壽留按司、さらには少し離れた場所にあった護佐丸の墓所も参拝。

写真は、南の郭にあった雨乞イノ御嶽とアーチ門、世界遺産碑と三の郭の城壁、中城城の主であった護佐丸の墓所。
向羽黒山城
2023年8月27日
東照宮参拝後、東武鬼怒川線、会津線を利用して会津若松入り。途中夕闇に向羽黒山城のシルエットを見る。8時25分発のバスを利用、概ね9時頃にインフォメーションセンターバス停下車。センターにて、地図や情報を入手、併せて無料で電動アシスト付き自転車をレンタル。途中自販機がないとの助言から、自販機で飲み物を2本購入して出発。直ちに向羽黒ギャラリーにてスタンプを押印。

羽黒神社&出世稲荷神社参拝、三曲輪跡、源平沼を散策し、お茶屋場跡から会津若松城を望む。水神社を経て階段を上って二曲輪跡、さらに虎口を下って土塁や堀跡、石積み跡を確認。その後、一曲輪跡を目指して「古城の道」を進む。竪堀に驚嘆し、土塁や虎口に山城の魅力を感じつつ大きな岩石のある一曲輪に到達。再度みかえり坂から登って二曲輪下の堀と土塁を堪能、伝盛氏屋敷跡と思しき曲輪も散策。

帰路は自転車で風を感じながら下って、「山田まんじゅう」でご主人のお話を伺いながらかき氷。センターに返却時、ガイドの方から写真を示していただきながら、礎石や石積みの解説をいただく。13時13分発のバスで会津若松に移動。写真は二曲輪下の虎口跡と、一曲輪の標柱。
知覧城
2023年9月16日
宿泊先をかつて家族で訪れた指宿の旅館に設定し、鹿児島中央駅から快速「なのはな」で指宿へ。さらにレンタカーを利用して知覧を訪ねた。まずはミュージアム知覧で情報収集とスタンプ押印。館内展示を拝見し、1/600模型で大まかな曲輪の配置などを頭に入れて、登城口最寄りの駐車場へ移動。「ねぷた」と知覧のつながりには少し驚きを覚えた。

登城口から空堀に沿って進むが、今城と弓場城はこれから整備が進められるようで、繁茂する草木や張り巡らされた蜘蛛の巣に苦戦。道標に従って残り二つの曲輪を目指そうとすると、さらに深い叢と倒木を超えていくことに。ただ、蔵之城は最も調査整備が進んでいるようで、虎口や掘立柱建物跡、曲輪の案内板なども設けられ、曲輪周囲の土塁なども確認することができた。本丸は土砂崩れの跡と思われる場所がブルーシートに覆われており痛々しさを感じつつも、「知覧城趾」の石碑を見ると攻略の達成感に満たされた。時間の制約から、さらなる散策は断念。

城を辞去して、特攻平和会館、武家屋敷を訪問。いずれも、この地を訪れるならは必見だろう。写真は、本丸跡の石碑と武家屋敷の本馬場通。
志苔館
2023年10月7日
連休を利用して道南の名城を巡る旅、最初に訪れたのは志苔館。新幹線は東京駅発が20分ほど遅れ、新青森駅までは立ちっ放し。たどり着いた函館駅では駅弁も売り切れ、予定していた空港直行バスに乗ることもできず、空港から城への通路も工事中で前途多難な旅の始まり。函館空港からタクシーで移動して、そのまま待ってもらっている間に城跡を散策。運転手の方によれば、降雪のため道路整備などの公共事業は秋に集中する傾向があるのだとか。

志苔館和人殉難御霊・阿伊努悵魂御霊慰霊碑に参拝し、四阿でスタンプを押印、整備された土塁の緑と津軽海峡の青のコントラストを楽しみながら、さらに土塁を抜けて郭内へ。黄色い花が一面に咲いた郭内で建物跡や井戸跡などを確認、土塁に沿って一周してその広さを実感。今はこんなに心穏やかでいられる場所なのに、この場所がアイヌと和人がこの地で争った時代があったとはねとか、道南に設けられたという12の館を訪ねて歩くのも楽しそうだななんて考えながら20分ほど滞在、市電の始発・湯の川駅までタクシーで送ってもらうことができた。

写真は志苔館の城跡碑と郭内から望む津軽海峡、遠くには函館山も見える。
五稜郭
2023年10月7日
志苔館から転戦。市電・五稜郭公園前駅を降りて、まずは五稜郭タワーへ。函館駅から直行なら、バスでタワー近くの停留所で降りることができるはずだが、志苔館からだとこのルート。連休初日とあって五稜郭タワーは結構な混雑だったが、JAFの会員証で絵葉書を受領。このあと箱館奉行所でも特典の絵葉書をいただいたので、何気に得した気分。

タワー展望中は生憎の小雨となったが、傾きかけた太陽で五稜郭に架かる虹の橋を見ることができたのはよかったか。眺望で大まかな方向感覚を掴んで、一の橋、半月堡、二の橋、門番所跡を経由して主要部が復元された箱館奉行所内部を巡る。一旦裏門橋を渡って郭の外に出て、再び戻っていくつかの稜堡の土塁の上まで登ってみた。異国船に対する幕府の行政機能を担う要塞だが、今や榎本武揚や土方歳三らの「夢のあと」。自分用の土産に、タワー一階で「五稜郭歴史回廊ガイド」を購入。このあと駅まで戻って、バスで函館山からの夜景見物。

写真は、それぞれ五稜郭タワーからの眺望、箱館奉行所の虹、夕日に照らされた城跡碑。
上ノ国勝山館
2023年10月8日
昨日のうちに新函館北斗駅まで移動、翌朝、宿泊先近くでレンタカーを借りて、上ノ国勝山館へ向かう。国道227号を概ね1時間半ほどで開陽丸記念館に到着。榎本率いる旧幕府艦隊の旗艦が座礁沈没した経緯を学び、船を失った榎本の落胆に思いを馳せる。さらにレンタカーで移動して目的地である勝山館に到着。

まずはガイダンス施設でスタンプを押印、ビデオやパネルで上ノ国の歴史や武田信広という武将、蠣崎氏や松浦氏との関係、コシャマインの戦いなどについて学ぶ。これまで曖昧だった北海道の歴史の一端に触れる良い機会となった。館跡に向かう前に夷王山神社に参拝し、その後、丘陵地を下りながら搦手側から勝山館の遺構を巡った。館の中央を貫く通路の両側に建物跡が配置されていたようで、城というより柵や堀、土塁によって周囲を囲まれた集落という印象。残念ながら、荒神堂付近まで下ったところで予定していた時間となっていたため、上ノ國八幡宮や上国寺まで下り切ることはできなかったが、道の駅上ノ国もんじゅにて「てっくい天丼」に舌鼓、そのあと松前城へと向かった。

写真は、それぞれ夷王山神社からの眺望、丘陵地に位置する多くの住居跡。
松前城
2023年10月8日
連休を利用した道南の城巡り、上ノ国から日本海追分ソーランラインを利用して概ね1時間ほどで松前に到着。まずは道の駅北前船松前で、津軽海峡を見ながら一休み。幸いなことに竜飛崎などはもちろんのこと、この日は岩木山を望むことができた。再度車で松前城内に設けられた駐車場に車を止め、城巡りを開始。本丸のうち無料で散策できる区域を経由して松前神社に参拝、その後、本丸北に位置する旧寺町を散策しながら松前家墓所へ。

満を持して入場料を支払う場所でスタンプを押印、三重櫓に入って学びの時間。櫓の最上階からの眺望を確認したのち、重要文化財の本丸御門、松城小学校の玄関としても利用されたという本丸表御門玄関などを見学。さらに、時間の許す限り二ノ丸、三ノ丸の遺構を巡った。また、再度寺町方面に引き返して、阿吽寺に残る松前城から移築された山門(堀上門)を見た。日本海の夕焼けを見たかったけれど、この日のうちに仙台に移動することにしていたため、16時をめどに移動を開始。18時頃には新函館北斗駅に到着。

写真は、それぞれ三階櫓と本丸御門、松前家墓所、三階櫓最上階から望む津軽海峡の眺望。
白石城
2023年10月9日
三連休最終日、道南から仙台まで移動、翌朝東北本線白石駅で下車して、伊達政宗の側近・片倉小十郎景綱が城主を務めた白石城を目指す。残念ながら、前日と打って変わって、白石の空は生憎の雨模様。駅で荷物を預け、身軽になってまずは移築門のある延命寺、そのあと強く降り出した雨に心が折れそうになりながら愛宕山に位置する片倉家廟所を徒歩で巡った。白石城には野球場になっている沼の丸跡から侵入し、西の丸跡、横綱大砲の銅像が建つ二の丸跡、馬場跡を経由して、裏御門跡から本丸跡へと進んだ。

白石城の天守は、1995年に約120年振りに復元されたもの。それだけ地元の思いが結晶した天守であるように思われた。最上階からの眺めを楽しんだ後は、大手一ノ門、二ノ門を経て歴史探訪ミュージアムに立ち寄り、さらに厩口門跡から出て、旧小関家武家屋敷、さらには真田信繁の血を引く阿梅、大八の墓所がある当信寺に足を延ばした。駅前で白石温麺を堪能して、白石蔵王駅から東北新幹線で帰路に就いた。

写真はそれぞれ、井戸屋形近くから見上げた天守、「大人の休日倶楽部」のCMにも使われたという旧小関家武家屋敷。
佐柿国吉城
2023年11月3日
敦賀駅近くでレンタカーを調達して、県道225号&143号、国道27号を利用して若狭国吉城歴史資料館まで。資料館でスタンプ押印、「国吉城址散策絵図」を入手したりパネルを見たりして予習の上で登城開始。

比較的登城者が多かったものの、害獣除けの柵を超えたのちは念のためクマ除けの鈴を使用。100mごとに本丸までの距離が表示されるなど整備された階段状の登城道を進むと、伝二ノ丸跡の喰違虎口に到達。さらに200mほど進むと、尾根を削平した曲輪が現れる。暑さを感じるほどの好天に恵まれたため、?郭さらに本丸から若狭湾の眺望は格別。再び城主居館跡まで戻り、周囲に残る石垣も確認。このあと引き続きレンタカーを利用して、敦賀市内を経由して玄蕃尾城へと向かった。

写真は、本丸手前の平坦地?郭から見えた敦賀半島&若狭湾、城主居館正面虎口跡に残る石垣。
玄蕃尾城
2023年11月3日
佐柿国吉城からレンタカーで約1時間、玄蕃尾城の登城口に到着。柳ヶ瀬トンネル前の左折までは順調、途中から車1台がやっと通れるほどの道になってやや心細くなったが、何とか行き止まりの駐車スペースに辿り着けた。この城跡唯一のトイレの前にあるボックスの中に置かれたスタンプを押印、パンフレットを入手して登城を開始。

湧水の影響と思われる泥濘を越えてしばらく歩けば、刀根と柳ケ瀬の境にある久々坂峠。峠を左に上っていくと、傾斜は緩やかだが深く落ち葉に覆われた道が城跡へと誘う。虎口少し手前に案内板があるので、そこまで来ればもう一息。南虎口を皮切りに、保存状態の良い土塁や堀切が連なっていて、「土の城」の醍醐味を堪能できる。

主郭を経て北虎口まで行き着くと、虎口郭の空堀に降りて周囲を散策、張出郭、腰郭などを巡って駐車スペースに帰還。帰路には小利根トンネルに立ち寄り、市内では「金ヶ崎の退き口」で有名な金ヶ崎城跡登城や、越前一之宮・氣比神宮への参拝も達成、夕食はヨーロッパ軒敦賀駅前店にて「カツ丼セット」(1,210円)。

写真は、主郭の北に位置する馬出郭と主郭に位置する櫓台跡。
小谷城
2023年11月4日
前泊した敦賀市内から北陸本線でJR河毛駅まで移動、駅でレンタサイクルを手配。途中、後ろ髪引かれながら小谷攻めの前線基地・虎御前山を通過、小谷城戦国歴史資料館を目指す。

順当に追手道から登城を開始すると、いきなり猛将・磯野員昌の屋敷跡。クマ除け柵を通過後クマ鈴を鳴らしつつ急な山道を登っていくと、傾斜がやや緩やかな尾根道へ。間柄峠、金吾丸跡、番所跡を抜けると、いよいよ小谷城の中心部。ここで浅井長政自刃の地である赤尾屋敷への立ち寄りを後回しにしたために、下山の選択肢を狭めてしまうことになった。本丸跡を越え、京極丸跡、山王丸跡、六坊跡から大嶽城跡まで到達後、再度赤尾屋敷跡の長政自刃の地を訪れた。資料館の展示や翌日に訪れた長浜城での説明などから、小谷城の建築物の一部は、その城下町とともに秀吉によって長浜に移されていることを学んだ。なお、資料館ではスタンプを押印し、家族への土産にリンゴジャムを購入。

写真は、大広間から見た小谷城本丸跡、築城初期段階に小谷城の主郭が置かれていたと考えられている大嶽城、赤尾屋敷跡の奥にあった「浅井長政自刃之地」と刻まれた石碑。
鎌刃城
2023年11月4日
小谷城登城後に、再び北陸本線を利用して米原駅に移動。駅に隣接する観光案内所でレンタサイクルを調達、深坂道、県道240号を経由して旧中山道番場宿へ。番場の忠太郎の銅像を右折、残念ながら閉鎖されてしまった旧カフェ源右衛門でスタンプ押印と「鎌刃城トレッキングマップ」を入手して名神高速道路43番ガード前に自転車を止めて登城開始。ただ、まったく意図せず、今福寺跡、番場城跡、滝谷林道経由で青龍滝(鎌刃城(伝)水の手)からの登城と相なり、思いのほか時間と体力を使ってしまった。

狭い尾根を切り拓いて整備された曲輪は山城のお手本ともいうべきもので、あまりの急傾斜で落下防止のためのロープが彼方此方に張られていた。北5及び北6郭には手造りの展望所が設けられていたが、厚い雲に覆われた空で眺望は今ひとつ。時間と体力の制約から一連の西曲輪に足を延ばすことはできず、また連続堀切群を超えていく元気もなかったけれど、無事に営業時間内に自転車を返却できたのは何よりだった。

写真は、虎口石垣と城跡碑、(伝)水の手に位置する青龍の滝。
彦根城
2023年11月5日
鎌刃城登城後に米沢泊。早朝から長浜城跡を訪ね、踵を返して彦根城へと向かったが、彦根シティマラソンと遭遇、城へのアクセスに時間がかかりそうだったので、一旦佐和山城に登城し、さらに小説「花の生涯」の舞台でもある埋木舎を経由して彦根城へ。

佐和口から入って、開国記念館でスタンプ押印。往時の表御殿跡に建つ彦根城博物館を観覧後、表門坂、大堀切、鐘の丸、廊下橋、天秤櫓、太鼓丸、太鼓門を経由して国宝であり現存天守が待つ本丸へ。連休とあってか三階三重の天守への登城を待つ観光客は長蛇の列。それでも無事に登城を果たして、これにより国宝五城への登閣を果たした。着見台や太鼓門内からの眺望を楽しんでいると、運よく「ひこにゃん」登場の時間。西の丸三重櫓、水の手御門を経て黒御門、槻御殿、玄宮園を散策、大手門跡で改めて登り石垣を眺めて、京橋口門から中堀を渡る。夢京橋キャッスルロードで土産物を探し、駅前で「近江ちゃんぽん」を遅めのランチとして、若狭、東近江の登城行を締めくくる。

写真は、佐和山城本丸跡から撮影した彦根城天守、天秤櫓と廊下橋、藩主着任前の井伊直弼が若き日を過ごした埋木舎の門。