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メンバー情報

ID5169
名前YMD50
コメント「日本100名城巡り」は日ごろの運動不足の解消にもなる絶好の目標です。
 年間、20城ぐらいを目指します。
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
足利氏館
2014年1月19日
 堀と土塁に囲まれたところは武士の館だけれど、いったん門をくぐると、
まさしく寺院の趣き。「城」と呼ぶにはちょっと違和感が・・・。
 
 この年9月5日、改めて訪問(参拝)。北門から入った広い庭に駐車。平日のせいか、参拝者もほとんどいなくて、境内はひっそりしていた。100名城めぐりをここから始めたものの、スタンプは足利市の観光パンフレットの余白に押しただけだった。お守りなどの売り場に、スタンプが置いてあり、お賽銭をいれてから、スタンプ帳にしっかり押す。
 ここの建物はお寺の本堂、経堂などお寺そのものだけれど、境内を取りまく土塁と掘は武士の館そのもの。中世の「城」に相当する守りの要だったのだろう。
鉢形城
2014年1月26日
 鉢形城は10年以上前に訪れたことがあります。当時に比べると、土塁や堀が復元され
ずっと城跡らしくなっていました。荒川を望む断崖絶壁の上からの眺めもいいですね。
 8月31日、再度訪れ、前回見られなかった、鉢形城歴史館で手に入れた地図をもとに、外曲輪、本曲輪、いろいろな馬出、深沢川を見てまわりました。土塁と堀で囲まれた大きな城です。豊臣氏の大軍に囲まれても持ちこたえることができるだけの城でした。。
金山城
2014年3月7日
金山城跡ガイダンス施設から出発。施設の女性職員から、丁寧に説明を受け、山登りを開始。30分弱で展望台の駐車場に到着。ここからは比較的平坦な山道を城跡へ向かう。通行禁止の部分があったりして、残念なところもあったが、金山城本丸跡までのルートはよく整備されていました。物見台の辺りから、自然を巧みに利用した石垣、堀が現れ、感動の連続。とくに、月ノ池、大手虎口からの石垣の重層構造、日ノ池の建築物には驚嘆しました。太田市の整備事業により発掘・復元されたのことで、まだまだ整備中のところもありました。貴重な文化財を守り、整備してきた太田市教育委員会は立派と思います。
9月5日に再度、登城。駐車場に当直したところ、ボランティアの方から、金山城の石垣について、見処の説明を受けました。本丸の裏手の古い石垣を発見。馬場の跡など新しい発見にも感激しました。
八王子城
2014年3月23日
ガイダンス施設を見学後、古道を通って御主殿跡へ向かいましたが、曳橋は通行不可でした。御主殿跡地から逆に虎口へ向かうと立派な石垣、石畳を発見、日陰にはまだ雪が残っていました。
管理棟まで、引き返し本丸跡に向けて登山開始。九合目を過ぎる辺りから、眺めがよくなり、中央自動車道も眼下に望むことができました。40分ぐらいの登山後、眺望を楽しみながらの昼食。
この城に北条氏が移ったのは1580年代の後半らしい。織田信長や豊臣秀吉らが交通の便利な場所に城を築いた時代に、こんな山の中に移らなければならなかったのは何故だろう。
箕輪城
2014年3月25日
箕郷支所でスタンプを押してから、箕輪城跡へ向かいました。ここの城跡の特徴は深くて大きな堀にあるようです。まだまだ未発掘の遺構があるようで、今後の整備が期待されているようです。とにかく、広大な城跡です。
9月5日、箕輪城を再訪問。鍛冶曲輪下の駐車場からのぼあったところ、蒸し暑い上、蚊にさされて大変でした。大きな堀だけかと思っていたところ、ところどころ石垣の遺構をみました。堀の開鑿も何回かに渡っておこなわれたようです。
 この城にはバイオトイレが設置してあり、いいアイデアだ思います。
岐阜城
2014年4月3日
 桜が満開の岐阜公園を通って織田信長公居館跡へ。ここはまだまだ発掘調査中のため、これからどんな風に整備するのか楽しみです。「めい想の小路」を通って、天守閣へ向けて登山を開始。途中、「馬の背登山道」は近道と標識に書いてあり、こちらのルートを選択。ところが、かなり急な岩場もあり、近道とはいえ時間がかかってしまいました。結局、ふもとから山頂まで50分ぐらい。岐阜城天守閣からの眺めは若干、もやがかかっていましたが最高でした。
2023年2月24日、再登城。発掘調査案内所でタブレットを借り、「信長公のおもてなしガイドツアー」の解説を利用できました。居館跡の解説ポイントには旗が立ち、タブレットの該当番号にタッチすると、音声が流れ、450年前の建物と内部、濃姫の部屋などのバーチャル映像が再生されます。現在、残っているのが石垣や岩盤だけなので、当時を想像する手助けになり、面白かった。案内所では、発掘の結果天守石垣の下からは信長時代のものが現れた、と聞きました。この日はあいにくの小雨模様だったので、天守に登るのは断念しました。
犬山城
2014年4月4日
雨上がりの午後、犬山城へ向かう。満開の桜の木曽川河畔に駐車スペースを見つけることができ、ホッとする。城内も満開の桜で、観光客も多い。犬山城は大きな城ではないものの、急な狭い階段など、往時の城の様子が伝わってくる。
30年以上前、新鵜沼駅から名鉄犬山線で名古屋へ通勤していたころ、木曽川のほとりの小山に立つ犬山城を当たり前のように眺めていたことを思い出しました。
甲府城
2014年5月1日
 甲府城については、ほとんど何も知らないままやってきました。野積みされた石垣の高さ、多さに驚きました。廃城後、荒れていた城址を舞鶴公園として整備し、石垣や稲荷櫓や鉄門を再建したそうです。往時の建物をすべて再建したら、さぞ素晴らしいでしょうjね。
 一方、武田神社(武田氏館跡)の守りは、堀と土塁だけです。武田氏の領国であった甲斐の国を治めるためには、高い石垣に守られた城の威容が必要だったのかもしれません。
甲府市内の二つの城が対照的です。
 なお、城近くのコインパーキングを利用したところ、500円かかってしまいました。
武田氏館
2014年5月1日
 武田氏館は南側の入り口付近は石垣もあり、城跡らしい雰囲気もありますが、中に入ると神社ですね。往時の躑躅ヶ崎館は守り重視の城という位置づけではなかったように感じました。
 館は甲府の扇状地のゆるい坂を上ったところにあり、戦に当たっての出撃の拠点としてはいい場所と感じました。勝ち戦で帰ってくるにはよしとしても、負け戦で帰ってくるには上りの坂道はキツイのでは?と思ってしまいました。
高遠城
2014年5月2日
 高遠歴史博物館に午前8時55分ぐらいに到着しました。9時開館のところを、受付の女性の好意で入館できました。スタンプは入り口においてあります。
 高遠城は自然の要害を利用した城ですが、桜で非常に有名になっています。桜の見頃はとっくに終わっていました。城の遺構は空堀、土塁、石垣などが中心で、構造物は少ないようです。
  12月、冬の低気圧が通り過ぎた後に再度訪れました。訪れる人もなく、ひっそりとしていました。
松本城
2014年5月2日
 ゴールデンウィーク中の平日でしたが、松本城には多くの人が訪れていました。風格ある城ですので、堀端を1週しながら撮影ポイントを探しました。内堀の西南側からの眺望がバランスのとれた天守閣と小天守の姿が撮れました。面白いポイントが西北側の埋橋越の天守のたたずまいです。松本城は堀や石垣も見所のある城です。
 天守閣の中は観光客でいっぱいでした。現存する日本最古の五重天守とのことですが、明治時代には破壊・倒壊の危機もあったそうです。保存に尽力した人々の功績はいつまでも顕彰したいですね。
 30年以上前に松本城を始めてみたとき、天守閣が少し傾いているように見えました。今回も、若干そんな気もしました。
  翌年、ゴールデンウィークの最終日に再登城。今度は、天守閣に登るのに40分待ちの状態でした。暑い日だったので、早めに退散しました。
松代城
2014年5月2日
 ゴールデンウィーク中の平日に訪れましたが、松代城跡での人影はまばらでした。広い平城で近所には民家や畑もあります。
 松代城は江戸時代当時の状態に、石垣、土塁、堀、橋、櫓門などが復元整備されており、開放感のある城跡でした。望楼の絵図によれば、昔は千曲川が近くを流れていたらしいのですが、現在は長野自動車道に遮られ、全然見られません。残された堀から、昔の様子を想像するしかありません。
江戸城
2014年5月10日
 楠公レストハウスでスタンプを押した後、二重橋へ向かった。やはり海外からの観光客が多い。二重橋、正門、石垣辺りを撮影した後、坂下門へ向かったが、こちらは人気も少なかった。
 江戸城跡は広大すぎて、かえって城跡としての印象よりも、公園としての印象が強くなる。長大な石垣や大きな堀を見ていると、徳川将軍家のために江戸城築城に駆出された大名たちはどう思っていたのだろう?
 8月24日、今度は北の丸方面から入城し、天守台に登った。今は、緑豊かな公園になっていて、見晴らしも気持ちがよい。
 この夏、名古屋城、大阪城と巨大な石垣を持つ城を巡ってきた。江戸時代初期の石垣を築き上げる技術が最高度に達したことが実感できた。
山中城
2014年5月18日
 柿田川湧水公園に立ち寄った後、国道1号線を箱根に向かって登った。山中城跡公園近くの駐車場に車を止めたが、建物が見当たらない。国道沿いに1,2分上ると蕎麦屋さんを兼ねたような売店が見つかる。もう少し、登ってくればよかった。この売店で、スタンプを押し、パンフレットを手に入れる。
 ここから、本丸、北の丸、西の丸に向かって登る。ツツジがきれいに咲いており、路に沿って、いろんな植栽が整備されている。城跡というより、その名のとおり城跡を利用した公園の色合いが濃い。障子堀・畝堀もツツジや周囲の緑と見事にマッチしていて、芸術的と思う。西の丸からの、富士山や駿河湾の眺望も見事だ。絶好のハイキングコースと思った。
 ただ、土塁と堀だけではこの地を守るのは難しいようだ。大量の鉄砲で攻められては守りきれなかったのだろう。
岡崎城
2014年8月4日
 国道1号線から岡崎公園駐車場に乗り入れると、目の前に岡崎城の東隅櫓と塀が飛び込んできました。石垣と堀を見ながら、文字通りの登城。松などの木立を通して、天守閣がチラチラ見えます。期待しながら、天守閣前の広場に出ましたが、木立や工事中やぐらのため、天守閣全体を見通すことは無理のようでした。天守閣の写真を撮ろうとすると、どうしも、松が邪魔をしてしまい、残念です。また、電車が時々通り過ぎる轟音にはちょっと驚きました。
 天守閣最上階からの眺望はとてもいいです。岡崎城全体の様子がわかり、堀や松などの木々に囲まれているっことがわかります。名鉄電車が鉄橋を渡るたびに轟音が聞こえる仕組みでした。
 三河武士の館家康館の「関が原の戦い」の解説や刀、槍、冑の体験展示はおもしろかった。城内のお店で、八丁味噌仕立ての「味噌カツ定食」を食べることができました。店内に「カクキュウ」のチラシが置いてあり、ここから数百メートルほどの八帖町にある、八丁味噌の工場見学に向かいました。
2016年2月29日冬の岡崎城を再訪しました。
小諸城
2014年8月12日
 長野県佐久地方に大雨警報が出ている中、駐車場に入る。駐車場から懐古園入り口に向かうと、そこはすでに城内。三の丸をくくらないまま、城内に悲哀ってしまったことになる。
 懐古園は古城を意識して整備されており、石垣、樹木、記念館などの建物がバランスよく配置されている。苔むした野面積みの石垣、階段、天守台跡など、まさに「古城」の風格が素晴らしい。
 島崎藤村が「小諸なる古城のほとり」と千曲川旅情の唄に詠んだ頃から、すでに100年以上経っており、一段と古城らしさが増しているのだろう。春夏秋冬いつ訪れてもいい城だと思うが、次は天気のよいときに来たい。
  翌年2月19日に再度,冬晴れの日に訪れる。木々の葉が落ち、城の周囲の地形がよくわかる。垂直に切り立った深い谷に囲まれた台地の上に建てられた城ということがよくわかる。懐古園の額がかかる三の門は、北向きのためよい写真がとりにくいのが残念。
上田城
2014年8月28日
上田城跡駐車場から、河岸段丘のを利用した石垣と南櫓と西櫓がすぐに眼に入った。河岸段丘はすぐにも崩れそうにも見えるのだけれど、予想外に丈夫なのだろう。石垣脇に設けられた急な階段を登り城内に入った。本来のいり口ではなくて、訪れる人向けの近道だ。ここの石垣の根元から水が少し流れ出していた。城の堀から水が流れ出ているのかもしれない。上田城の堀は、ため池のような感じになって面白い。
 城内には、公園になっているものの、ゴミ箱もトイレも無い。南北櫓内の展示や説明も控えめな感じであり、手を加えるのを最小限にとどめたいような印象だ。
 大河ドラマ「真田丸」の放映を控え、上田市内は「六文銭」の旗が至るところではためいている。上田城のガイドの人たちによると、受け入れ態勢が十分でないので大変なことになるだろうとのことだった。
福山城
2014年9月26日
 福山城は江戸時代になってから築城された城であり、歴史の表舞台に登場したこともない。そのため、あまり予備知識のないまま、福山駅の新幹線口を出たら、眼の前が石垣であった。石段を登ると1,2分で、本丸の広場に出てしまった。またまた眼の前に天守閣がある。バランスのよく取れた天守閣に見える。この日は、残念ながら臨時休館日のため天守閣の中には入れなかった。スタンプは、入り口横の建物に集まっておられたボランティアの人に声をかけ、押すことができた。
 残った建物は少ないが、石垣はよく残っており、樹木もよく茂って、散策するにはもってこいの場所である。 地味な城だけど、文化ゾーンの中心として福山の街に溶け込んでいるように感じた。
 なお、駅の新幹線新大阪方面のホームは絶好の撮影ポイントである。
広島城
2014年9月26日
 前日、広島空港から広島バスセンターへ来たときバスの車窓から、白壁と黒っぽい板壁で覆われた広島城が眼に飛び込んできた。満々と水を蓄えた堀と直線的な石垣も印象的である。
 次の日の早朝、二の丸の表門から入場する。本丸内は lower level と upper level 1メートルぐらいの段差があるぐらいで楽に天守閣まで歩くことができた。天守閣に入場し、広島築城の歴史のレクチャーをビデオで受けた。豊臣氏の傘下に入った、毛利輝元が大阪城や聚楽第に刺激を受けて、交通の便が良い地に城下町を造り出すために、平地に城作りを始めたらしい。大きな敷地の割に石垣もそんなに高くなく、威圧的な印象はない。ただ原爆によりすべての建築物が崩壊し、残ったのは石垣のみとのこと。天守閣は再建されたものであるが、黒っぽい板壁と白壁に質実剛健な様子が再現されているように見え。領国経営に力を注ごうとした毛利氏の意気込みがった伝わってくる城だと思う。
 二の丸に入ってすぐの場所に被爆樹木のユーカリの木がある。他にも2本の被爆樹木が残っているそうだ。
岩国城
2014年9月27日
岩国駅前で錦帯橋までのバスの乗車券を購入しようとしたところ、錦帯橋の入橋券、ロープウェイ乗車券、岩国城入場券のセット券(1170円)を勧められ、こちらを購入。岩国駅から錦帯橋まで途中の渋滞があり、思いのほか時間がかかった(30分程度)。錦帯橋でで下車すると、橋とともに山上の岩国城が目の前に現れた。橋と山の上の城に眼を奪われていたが、橋を渡った山の麓はしっとりと落ち着いた城下町の雰囲気が残っている。
 ロープウェイに乗ったときとの説明によると、戦後再建された岩国城天守閣はもとの位置より数十メートル移動させ、錦帯橋からよく見えるようにしたらしい。ロープウェイの駅から、狭い山道を天守閣に向かう。頂上近くに突然石垣が現れた。空堀もあれば、無残意に破壊された石が散らばっているところもある。もと天守閣のあったところと別のところに天守閣があり、ちょっとおかしな気もする。戦国時代も終わりを告げようとする時期に、山の上に石垣を築き、さらに天守閣を載せるという、城作りをしたのは何故だろう。
 築城後、7年にして取り壊される運命にあった岩国城は不思議な城に思える。
二条城
2014年10月24日
 地下鉄「二条城前」駅から地上に出ると、東大手門前の駐車場の観光バスから多くの観光客が東大手門をくぐっていくのが見える。まず、出口近くのテントで、スタンプを押し、募金をして記念バッジをもらう。早速二の丸御殿に入る。ポイントごとに音声ガイドの説明があり、わかりやすい。徳川家将軍が外様大名に謁見する広間、親藩大名に謁見する広間があり、「将軍の城」という感じである。二の丸御殿の庭園も丹念に手入れされている。やはり、世界遺産に登録されているだけに見どころ満載である。
 本丸内部は天守閣が焼失しており、少し寂しい。でも、天守閣跡からの見晴らしはよい。一番、印象に残ったのが、本丸の石垣が作る曲線・直線の精巧さである。石垣全体が芸術作品のように思える。
 二条城は徳川将軍家の京都における儀礼の場であることがよくわかる。江戸城や大阪城のような威圧的な石垣に囲まれていないため、戦いの場としては、ふさわしくないのだろう。大政奉還後、徳川慶喜がここを拠点にしなかった事情も納得できる。
明石城
2014年10月24日
 明石駅に到着したのは午後4時15分、日没まで1時間弱である。明石公園サービスセンター辺りは、喫茶店も閉まり、暗くなっていた。幸いサービスセンター窓口は午後5時まで開いており、スタンプを押すことができ、ホッとした。明石城の二つの櫓には、西日が当たっているものの、両方を1枚の写真に収めようとすると、残念ながらバランスがよくない。
 城内への坂道をたどると、思ったより石垣が立派である。下から眺め上げる櫓もどっしりとしている。しかし、城内から見る櫓は、案外小ぶりでかわいらしい。予想外だったのが、土塀に接して設けられた展望台からの眺望である。ここからは、瀬戸内海と明石海峡大橋の眺望を楽しむことができる。巽櫓と明石海峡大橋の新旧の建築物を1枚の写真に収めることができ、大満足。
高松城
2014年12月2日
JR高松駅から高松城に向かう。城内に入る前に、まず月見櫓・水手御門を外から眺めるために海側へ回る。ところが、真冬並みの寒波が襲来したため、海からの風が強く寒い。江戸時代には、水手御門から殿様は海に浮かぶ御座船に小舟で漕ぎ出したらしいが、現在は国道に遮られ、海とはつながっていない。
 西門から入り、天守閣跡に向かう。天守台の石垣は、以前の石垣が崩れそうになったため、現代の工法も利用しながら、補修の大工事をおこなって完成させたとのことだ。そのため、ほかの石垣と比べると整いすぎてちょっと違和感がある、でも、この石垣最上部からの眺めは素晴らしい。城内が一望できるし、瀬戸内海も見える。高松城が海水を堀に引いた水城だということがよくわかる。海につながてい頃は眺めも格別だったのだろう。
2018年3月25日再登城。艮櫓を早朝に撮影。
丸亀城
2014年12月2日
丸亀駅に近づくにつれ、電車の車窓から丸い小山の上に立つ丸亀城が見えてきた。駅から、城の濠まで徒歩10分程度。濠から見上げると全山石垣に覆われ、最上部に立つ天守閣は威圧感がある。大手一の門、二の門をくぐりぬけると、かなり急で長い「見返り坂」が待っている。この坂を登りきったた後、さらに急な坂(傾斜角30°くらい)が待っている。最後の坂を登りきると、20メートルを超える高石垣と瀬戸大橋、瀬戸内の工業地帯、讃岐富士などが一望できる。ここからは、螺旋状に二の丸、三の丸を巡っていくと本丸に行き着く構造になっている。扇のような曲線美の石垣も、真下から見上げると高いだけに上から覆いかぶさってくるような感じである。この日は冬型の気圧配置が強まり、本丸広場は吹きさらしになり、寒いことこの上ない。天守閣の入口も戸が閉められており、開けて入らなければならなかった。木造の天守は木組みがむき出しの構造で、住居としてはちょっと不向きな作りに思う。でも3階からの周りの眺望は素晴らしい。丸亀城の建物は山の頂上と麓にしか残っていないが、見所満載の城だった。
長篠城
2015年2月12日
浜松城から三方原台地を経て長篠城へ、武田軍と徳川軍の戦いの地を通って移動する。戦国期には人馬が通るのに難儀しただろう山間部も、今では新東名高速道路の建設の真っ盛りで、ダンプカーが行きかっている。
 長篠城は、土塁と壕が残っているくらいで、建築物は何も残っていない。本丸跡地を飯田線の線路が横切り、時折電車が通り過ぎる。この城は、武田軍に包囲されながらも落城せず、長篠設楽原での織田・徳川連合軍と武田軍の激突につながるという、戦国期の重大な転換点をもたらした城として重要なのだろう。対岸から本丸跡を眺めると、要害の地に位置していることがよくわかる。
 長篠城から車で10分ほどの設楽原古戦場にも行く。連吾川という小川を挟んだ2,300メートル程度の水田地帯が古戦場である。両軍のあまりの近さに驚くとともに、この一帯で、1日の戦闘で1万数千人の犠牲者がでたことを考えると、何とも言えない。
一乗谷城
2015年5月8日
越前大野城の石段を登り下りした後に国道158号線を下って、一乗谷へ向かった。気温25度以上の日が続いているが、取り巻く山々には残雪が見える。冬には1メートルぐらい積もるらしい。一乗谷朝倉氏遺跡方面への指示に従って、谷間に入ると遺跡が見えてきた。
朝倉氏の本拠地であったが、織田軍に焼き払われ、朝倉氏は滅亡したとの知識しかなかったので、整然とした大きな城下町があったことは驚きだった。朝倉氏は戦国の世の敗者であるが、城下町の作り方や枯山水風の庭園など、高度な文化があったようだ。一乗谷には、武家屋敷だけではなく、商人、職人など人々の町屋も、復元されており当時の様子が想像できるようになっていて楽しい。灰燼に帰した後、400年以上経ってからの、復元なので、難しいと思えるところだが、当時の道具と技術を使って、家々を復元したらしい。歩いてみると、敷跡地にはなぜだか、井戸がやたらに多いようだ。
 朝倉氏の滅亡後、この地は辺鄙な場所にあるため、誰も利用しようとしなかったのだろうか。そのため、遺跡の保存状態がよかったのかもしれない。
春日山城
2015年6月27日
 梅雨空のもと春日山城ものがたり館に午後2時半頃に着きました。ちょうどその頃から、雲間から日が射し始めました。ものがたり館の受付の女性の方の話では、妙高辺りで雨が降っても、この辺りでは天気がよいことも多いようです。天気予報では、「曇り一時雨」ということだったので、雨の中の山登りも覚悟していましたので、晴れ間が広がってきたのは予想外の出来事でした。
 春日山城跡は十数年前に登城したことがあり、その頃は山道を上るのもきつかったし、本丸跡からの見晴らしもよくなかったことを記憶しています。現在は、本丸跡までのルートも、かなり急な階段の近道もあれば、傾斜のゆるいループ状の山道もあり、よく整備されていると思います。また眺望を遮る木々も伐採され、日本海や頚城(高田)平野の見晴らしも最高でした。ただ、苦労して登った本丸跡に何もないのはちょっと寂しい気がします。欲を言えば、山頂辺りに何か記念になるものがあればいいいのに、と思いました。
竹田城
2015年8月3日
午前10時15分山城の郷に到着。平日にもかかわらず、すでに30台以上の車が来ている。ここから天空バスに乗り、第2駐車場に向かう。バスを降りた後は、料金所まで700メートルの山道を登る。35度以上の猛暑の中、アスファルト舗装の山道を登るのはきついきつい。水分とエネルギーを補給しながら登るが、100メートルごとの案内標識が励みになる。料金所からは、石段の路に変わるがすぐに石垣が現れる。山上に築かれた広大な石垣群は迫力十分であり、猛暑の中をやってきた価値が十分にある。平日の真昼間に訪れる人たちも予想以上に多い。ポイントごとにボランティアの人たちから、説明を聞くことが出来うれしい。竹田城は当初、土塁中心の城であったらしいが、羽柴秀吉に攻略されてから、この山の石を切り出して石垣が築かれたらしい。当時の最新の技術でった「穴太積み」の技法で築かれた石垣は美しい。ただ、通路を中心に黒いシートに覆われているのが残念であるが、多くの人が訪れ、知面が崩れるのを防ぐ意味があるらしい。残された石垣の上にあった建物は想像するしかない。関が原の戦いの後の時代の移り変わりの中で、建物は朽ち果てていったらしい。
小谷城
2015年8月16日
小谷城戦国歴史資料館で浅井氏三代の歴史と小谷城の全体像をビデオとパノラマ模型で学習してから、登城開始。幸い、番所跡近くまでは林道が通じているので、車を利用。残暑も厳しいので、飲料をもって尾根道を登る。番所跡ーお茶屋跡ー御屋敷跡ー桜馬場跡と曲輪が連続しており、尾根一帯が要塞化されている。そんな中、桜馬場からは、琵琶湖、竹生島の雄大な景色を望むことができ、気持ちがよい。さらに大広間跡ー本丸跡ー中丸跡ー京極丸跡ー小丸跡ー山王丸跡と城の中心部へ向かうと、ところどころに石垣、土塁、堀切が残っている。ポイントごとに、イラスト入りの案内板が設置されていて、往時を想像できるのが楽しい。ただ、石垣は崩れかかかったりしているものも多く、保存するのは大変そうだ。織田軍の猛攻により、落城の運命をたどった城であるため、どこまで保存・復元すべきかは難しい。
 帰途、腕に小さな痛みが走ったので、目をやると山ヒルが腕に吸い付いていた。水の中でヒルに吸い付かれたことはあるが、山では初めての経験だった。首筋でなくてよかった。
篠山城
2015年9月12日
篠山口からバスを利用、二階町(290円)で下車。まず、観光案内所で篠山のしないマップを手に入れる。篠山城大書院、青山歴史村、武家屋敷群、安間家資料館の順に見て廻る。城下町は、篠山城を中心にこじんまりとまとまっているため、1時間半ぐらいで廻れそうである。
 篠山城は広大な堀と高い石垣に囲まれた方形の城で、縄張りは単純に思える。大書院で観たビデオ説明によれば、関が原の戦いの後、大阪城に残った豊臣氏を包囲するために、中国方面の押さえとして諸大名に命じて作らせた城らしい。小さな城下町に不釣合いなくらいの、広大な堀や石垣を見ていると、大軍団の駐屯地のような雰囲気に思える。豊臣氏が滅んだ後は、なんとなく役目を終えたようだ。
 武家屋敷群に向かったら、茅葺の家々が目に付いた。これらの家々が、篠山藩の標準的な徒士の住宅だったらしい。武家屋敷の名前に瓦葺を想像していたので、驚いた。
観音寺城
2015年9月15日
 安土駅の安土城郭資料館でスタンプだけを押す。この後、安土城へ向かった。観音時城跡には訪れることなく、観音寺城跡がある山を眺めただけだ。実査に行っていないので、これでいいのか悩むところだ。安土城より、登るのは難しそうだが、いつか挑戦したい。
安土城
2015年9月15日
 2015年3月20日にも、安土城跡を訪れた。ところが駐車場に到着したのが16時10分頃で、大手道の木戸が半分閉じられており、登ることはできなかった。安土城考古博物館や天主信長の館で時間を使いすぎてしまったのが原因。
 今回は安土城から安土駅からタクシーでやって来た。大手道の木戸のところで杖を借りたが、これは正解だった。本丸跡まで、石段の道が続くが、階段と階段の間の横方向の間隔が広い。このため、石段の道も比較的のぼりやすい。伝羽柴秀吉邸、伝前田利家邸、伝徳川家康邸と歴史上の有名人物の名前が登場してくる。石段の道を信長も歩いて登ったのだろうかとか、秀吉は駆け上がったのだろうか、などと想像しながら階段を登る。昔の人たちは、どのくらい時間をかけて登ったのだろうか?
 頂上に近づくにつれ、高石垣が続々現れ、天主跡に達する。同時代の小谷城などと比べても、石垣の積み方は明らかに精巧で壮大である。信長がデザインした城郭の構築を可能にした、高い技術力の職人集団が存在したことがわかる。天主台跡からの琵琶湖の眺めは素晴らしかった。天下統一を目指した信長の精神が随所に残る城だと思う。
岩村城
2015年9月22日
1年前の9月18日に、本丸跡近くへの細い道を車で登った後、急坂を100メートル徒歩で登って、岩村城址の見事な石垣を眺めることができた。ただ、麓からの往時の路を通ることなく登城してしまったことには、心残りがあった。
 祝日のため、岩村歴史資料館の駐車には十数台の車が止められており、ここの登城口から本丸跡へ徒歩で向かう人たちも予想外に多かった。登城口から本丸跡まで900メートルあり、30分程度かかるらしい。民家を過ぎると、石畳の道が頂上目指して、ほぼ一直線に続いている。かなり急な道であるが、直方体の石材が傾斜を持って敷き詰められており、石段というよりも、文字通り石畳の道である。一定の間隔で現れる階段の段差は小さく、比較的歩きやすい。一之門、土岐門、大手門と登るに連れ、木々の間に石垣が現れてきた。急坂が続くが、主な場所においてある、説明文やイラストを見ていると疲れも忘れる。ゆっくり登ったが、30分くらいで6段に積み上げられた石垣の下まで来られた。
 本丸跡直下の駐車場に止められている車も多かったが、木立の間を巡る大手道を徒歩で登る値打ちも十分にあると思う。
高取城
2015年10月23日
壺阪山駅からまず夢創館に向かいスタンプとともに、高取城址の地図やハイキングコースの地図をゲット。ここの女性から、所要時間などを聞き、壺阪寺まではタクシー(1380円)で行き、そこから城を目指した。寺からの城跡までのハイキングコースはは約1時間の行程と聞いていたが、大部分が細い山道だった。途中、誰にも会うことなく、山道をあえぎながら登ったが、案内板があるので、道に迷うことはなかった。壺阪口門跡に着いて、初めて石垣が現れた。ここからが城内だが、登山道がしばらく続き、大手口門まで来て初めて城跡らしい雰囲気になってきた。ここからは、石垣で囲まれた枡形部分を通るたびに、次々に現れる高石垣に驚いた。ここまでやってきて、初めて人の姿がチラホラ見えるようになってきた。本丸に至るまで、予想以上に多くの石垣が残っていた。天守台跡には高取山584mの三等三角点の石が置かれていた。
 帰りは、大手口から土佐街道方面に降りていった。こちらの方が、少し広いが、急な山道の連続であることには変わりない。麓から食料・生活物資を運び上げるのも大変だっただろう。高取の城下町ははるかに離れたところに発展していた。
湯築城
2015年12月5日
 道後温泉のホテルを出て、8時半に湯築城に到着。円形の外と内堀に囲まれた城跡である。資料館近くの案内を読んでいたところ、ボランティアの方から、「資料館を開けますから、どうぞお入りください」と声をかけられた。9時開館時間までに20分もあるのにラッキーなことだ。早速、10分間のビデオを観て、湯築城の歴史を学習。伊予一円を治めていた河野氏によって築城された城で、天守・石垣はないが、典型的な中世の城郭である。ボランティアの方の説明では、円形の濠はとても珍しいそうだ。外堀も内堀もきれいな円形でしかも土塁で守られており、なかなか実戦的である。武家住宅が2棟復元されているものの、昔の建物は何もない。中央の小高い山に展望台があり、ここから2,3キロ先に松山城が見えた。予想していたより、松山城は近かった。
 翌朝、土塁展示室を見学していなかったことに気がつき、再登城。この日もボランティアの方が8時半頃に展示室へやって来て、開室となった。土塁切断面が展示され、高さ5メートルの土塁の内部構造や造成過程がよくわかった。堀を掘り、砂礫混じりの土を固める作業を、人力のみでよくやり遂げたものと思う。
松山城
2015年12月5日
リフトを使って登城。8合目のリフト降場から、高石垣を見ながら、戸無門、筒井門、隠門、太鼓門などを通って、やっと山頂の本丸広場にたどり着いた。山を削り高石垣で盛り上げて作ったと思われる本丸広場はかなり広い。切符売り場で尋ねたところ、切符を買わないでもスタンプを押すことができた。この日は天守に入らないまま帰った。
 翌日、愛媛県庁裏の二の丸庭園の脇を通って黒門跡から登城開始。曲がりくねった石段の山道は2メートルぐらいの幅があり登りやすい。25分くらいで大手門跡に至り、昨日通った道に合流した。松山城は立派な高石垣が山頂を取り囲み、天守を始め21棟の建物が現存している。さらに小天守などの櫓や門の木造による復元も行われており、往時の姿の再現に積極的なのがよい。本壇内部もやはり、いくつもの門を経ないと入れない構造になっており、防御は万全である。天守に入って、小天守、南隅櫓、北隅櫓を廊下で結ぶ連立式天主の内部構造がよくわかった。天守は落雷により焼失したが、1854年に天守が再建された新しい城とのこと。廃藩置県後も取り壊されることもなく、焼失部分も木造で復元され、城郭全体が維持されていて素晴らしい。
今治城
2015年12月6日
松山駅から特急「いしづち」で今治駅へ向かう。JR四国の8000系電車に乗るのは初めてであるが、乗り心地もよく予想外にスピード感のある特急だった。松山から40分弱で到着。駅前のバス乗り場から今治営業所行きのバスに乗り、今治城前で下車。200円、10分足らずで到着した。今治城は広い堀に浮かんだお城という印象だ。5層の天守閣が若干、バランスが悪いような気もする。お堀端から鉄後門へ向かうと石垣の巨石と重厚な復元櫓が目に入る。城の内部は方形になっており、隅の櫓や天守閣以外は広場になっている。縄張りは比較的、単純である。天守、山里櫓、御金櫓、武具櫓など城内の4箇所を巡ると絵葉書がもらえるスタンプラリーが行われていた。天守以外の建物は木造で復元されており、今治城復元の熱意が伝わってきた。中でも、武具櫓、多聞櫓、鉄御門を結ぶ建物内部の構造は見ごたえがあった。
 1時間半ぐらい見学した後、山里櫓の脇を通って城を出、今治駅まで歩いた。15分ぐらいの道のりだった。
彦根城
2015年12月20日
 今年の早春3月にも登城しているが、写真撮影に失敗してしまったので改めてこの年末に再登城。日曜日であったが、午前9時の到着であったたため、二の丸駐車場に駐車することができた。今回は玄宮園から黒門、出曲輪、三重櫓、西の丸。天守、太鼓門、天秤櫓、表門と普通と逆の通路を通ることにした。玄宮園からの天守を背景とする眺めは素晴らしい。それだけに、この庭園が完成すると、山上での生活は敬遠したくなるだろう。天守は眺め、威容を見せつける建物になったようである。彦根城は、天守だけでなく、石垣、堀、櫓と門、表御殿などすべたがそろった城である。麓から山上への道もそんなに険しくない。先日訪れた、松山城より楽に山道を登ることが出来た。快晴のため出曲輪からの琵琶湖の眺めも素晴らしかったし、三重櫓との間の大堀切も見事だった。天守はやや小ぶりながら、装飾豊かな概観だ。内部は、そんなに広くないが、急な階段が最上階へ続き、3階からの眺望は最高だった。天守前の広場では「ひこにゃん」が人だかりを作っていた。表門や大手門の近くでは、初めて登り石垣をみることができた。
福岡城
2016年1月28日
夕方、地下鉄赤坂駅から福岡城址を目指した。何度も福岡を訪れていたが、城跡へ来たのは初めてだし、そもそも城がどこにあるのかも知らなかった。東御門跡あたりから石垣や祈念櫓が現れ、城跡らしくなってきた。本丸まで来たが暗くなってきたので、ライトアップされた潮見櫓を見ながら下城した。
 翌早朝、再登城した。本丸まで来ると天守台をはじめ、丁寧に石積みされた高石垣が随所にある。建物が殆ど残っていないため、城としての知名度はイマイチだが、残された高石垣から察すると防御に優れた城だったことがわかる。多聞櫓は白壁が一部剥がれ落ちており、残念だ。
 スタンプは福岡城むかし探訪館できれいに押すことができた。ここでは、ボランティアの方から立体模型をもとに、福岡城の成り立ちや天守閣の有無などについて詳しい説明を受けた。城の南側は赤坂山を切り崩して堀にしたらしい。また、北側,東側の掘も掘削して大きくしたらしい。重機のない時代に、人力だけで7年間で築き上げたとのことで、どれほどの人手を使ってやったのだろう。  
大野城
2016年1月28日
まず大宰府天満宮に参拝。このあたりは1月24日から大寒波の影響が残り、除雪された雪がところどころに残っている。小雨が降り、天満宮の境内はグチャグチャで歩きづらい。
大宰府駅から都府楼跡まではタクシーで向かう。ここは礎石、記念の石碑、石段以外は何もない広い公園になっている。芝生のところどころに解け残った雪だるまがある。7世紀後半頃から大宰府が置かれ、当時は九州の中心地だった。朝鮮半島の白村江の戦いで百済・日本連合軍は唐・新羅の連合軍に敗れ、一挙に緊張が高まったらしい。防衛の要として四王子山に大野城が築かれたとのことだ。雨のため、城跡まで行くことはやめて、都府楼跡から山を眺めるだけにした。
 都府楼跡の脇にある大宰府展示館跡でスタンプゲットしたものの、実際に大野城址に足を踏み入れないのはちょっと心苦しい。大宰府界隈には歴史的文化遺産が多いようなので、またやって来られたらと思う。
佐賀城
2016年1月28日
JR二日市駅発13:45の特急かもめに乗車し、佐賀駅に向かった。車窓からは吉野ヶ里遺跡の建物も見えたが、今回はパス。佐賀駅からは、バスで佐賀城に向かった。途中、県庁あたりでは、城の外堀らしき大きな堀を渡った。後で聞いたところでは、県庁や図書館があるこの辺りは佐賀城城内にあたり、重臣屋敷があった一帯だったらしい。サガテレビの停留所で降りると、石垣や鯱の門が見えてくる。石垣の周りは空堀のままだが、本来は堀で囲まれた本丸だったらしい。ここは外から見ると石垣であるが、本丸側は土塁という面白い構造である。もともとは湿地帯だったらしく、満々と水をたたえた広い堀が防御の要だったようだ。復元された本丸御殿の玄関には、アームストロング砲のレプリカが置かれていた。本丸御殿の中は、ボランティアの方に、詳しく案内してもらった。佐賀の乱のため、残された建築物は鯱の門と御座間しかないらしい。佐賀県は本丸御殿をできるかぎり資料に忠実に復元したようだ。幕末の佐賀藩の働きなど、ボランティアの人に熱く語ってもらった。
丸岡城
2016年3月3日
丸岡城は文字通り、丸い岡の上に建つ小さなお城だった。入場券売り場で、この城の案内ビデオ(5分間)を勧められる。丸岡高校放送部の皆さんが編集したビデオで、丸岡城の特徴・見どころがまとめられている。石垣は素朴な野面積みであるだけではなく、4隅を結ぶ石垣の基礎部分は中央が窪んだ曲線になっている。瓦はすべて石瓦である。瓦の破片を持つと非常に重い。石瓦の総重量は120トンと説明してあった。この瓦を支えるために、城には太い柱がたくさん使われている。1階部分などは柱だらけという印象だ。築城当時の技術では、厳しい寒さに耐えられる瓦としては、石に頼る他なかったのだろうか?急な階段もこの城の特徴である。五十肩の痛みに加え、脚も痛かったため、この急な階段の昇り降りには苦労した。何とか3階まで登ると、戸が開放されており周囲の景色はよく見える。きょうは、太平洋側では気温が上がっているものの、北陸地方にまでは暖気は及んでいない。3階は吹きさらしのため、冷たい風もよく通り、あまり長居はできなかった。
城内には桜がたくさん植えられており、開花すれば見事だろう。 
多賀城
2016年3月30日
 仙台駅8時1分発の電車で多賀城跡に向かう。百名城のスタンプは駅の改札を出たところの公衆電話の脇に置いてあった。観光案内所は時間が早いため閉じられたままで、尋ねる人もいない。駅前の案内図をもとに見当をつけて、田んぼの中の小路を歩き始めると、多賀城碑、多賀城政庁跡の案内板がポイントごとにある。10分ほど歩くと、小高い丘の中腹に多賀城碑を発見。この近くには南門跡も発掘されており、広い道の遺構が石段に向かって続いている。石段を登りきると土塁に囲まれた政庁跡である。建物はなく、礎石が並んでいるに過ぎない。周囲は木立や畑に囲まれており、ウグイスの鳴き声も聞こえる。純然たる農村の一画である。奈良・平安時代には軍事基地のみならず、政治・行政の中心であったとは想像しにくい。昔の人と現代人では土地利用の仕方や考え方が全然違うのだろう。
 政庁跡は土塁も礎石もきれいに復元・整備されており、当時の様子がわかるように案内があるので十分に満足した。
伊賀上野城
2016年7月25日
加太トンネルを東から抜けると上野盆地が開けてきた。伊賀上野城は盆地の中心部の小高い丘に建てられた城である。上野公園の駐車場の係員から満車のため、だんじり会館の駐車場に向かうように指示された。この駐車場から、本丸広場まで5分ぐらいで到着。天守閣に登る前に、まず高石垣を上から眺めることにした。水をたたえた濠はよく見え、高いのも実感できるものの、石垣の様子は上からではなかなかわかりにくい。端まで行くのもロープで遮られているので、ちょっとためらわれる。北側石垣の一部分が張り出しており、幸いここからは反りの少ない高石垣の写真を撮ることができた。天守閣は1935年に個人の力で建てられた木造建築である。小天守を伴う三層の復興天守であるが、すっきりとした優雅な建物である。高石垣を下から眺めるために、俳聖殿の脇の径を濠に向かって降る。しかし、木々や生い茂った草に遮られ、全貌をつかむことができない。結局、上野高校の駐車場から、何とか石垣の一部を撮影することができただけだった。濠端の一部でよいから、木の枝や生い茂った草を刈り取ってもらえると、うれしいのだが。
五稜郭
2016年8月4日
 新函館北斗駅で借りたレンタカーで大沼公園を巡った後、五稜郭タワー前の駐車場に入った。真っ先にタワーの展望台に高速エレベータで上がる。降りるとガラス越しに星形の五稜郭が飛び込んできた。この時期、郭内の緑、市街地の白、両者を隔てる濠の水のコントラストが鮮やかで、箱庭を見ているようだ。
 日本で初めての洋風城郭は、星形の形状に特徴があるが、土塁、石垣、濠を組み合わせた大胆な設計だと思う。緑の木々に覆われた平和な公園であるが、武器・弾薬庫や兵士がそろえば完全な要塞になる。タワーから眺めたときには、2次元的特徴に眼を奪われていた。ところが郭内に入ると土塁・石垣が予想以上に高く、内部を見通すことはできない。復元された奉行所の建物は純和風である。和洋混淆の城郭であるところに、幕末という時代の要請が感じられる。結局は、旧幕府脱走軍がこの五稜郭で降伏し、封建制度終焉の地となってしまった。
 西洋文明をお手本にした明治政府にとって、五稜郭内の建物は不要だったのだろう。時代の移り変わりとともに城郭としての役割を終えてしまった。今は、市民公園として親しまれていてうれしい。
松前城
2016年8月5日
 北海道最南端の白神岬から国道228号線を北上すると松前城の天守閣が見えてきた。
日本海に臨む斜面に城は建てられている。城下に入り、急坂を上ると天守閣近くの駐車場に着いた。
 松前城は徳川幕府の命により、ロシアをはじめとする欧米列強からの攻撃に備え、1854年に完成した城郭である。石垣、堀も立派であり、山の中腹であるにも関わらず、堀には水がたたえられているのには驚いた。10年後に完成する五稜郭とは異なり、和風の伝統的設計思想に基づき築城されている。三の丸には台座が残っており、海に向けられた大砲が設置されていたのだろうか?このあたりに、幕末という時代が反映されている。
 天守閣は戦後に再建された建物であるが、天守に続く御門は築城当時のままらしい。門を支える石垣も綺麗である。
 海からの攻撃には強固だったかもしれないが、山側からの攻撃は想定していなかったようだ。箱館戦争では旧幕府軍の攻撃により簡単に落城したらしい。この城も時代の流れに翻弄されてしまったようだ。
松阪城
2016年9月1日
 大阪難波駅から近鉄特急に乗り午前11時松阪駅に到着した。駅前の観光案内所で松阪城跡までのルートを教えてもらった。百名城のスタンプが目に入り、尋ねたところ歴史民俗資料館の休館日に出すが、本来は予備のスタンプとのことだった。でも、結局は使わせてもらった。
 駅から松阪城跡までは徒歩15分程度。市役所脇の表門跡から登城した。櫓、門などの建物は全然残っていないが、石垣はほぼ完全な形で修復されている。石段、枡形、曲輪もよく残されおり、地図のないまま天守跡まで登ってしまった。本丸広場も広く、複雑な縄張りの広大な城跡であることに気付いた。内部の石垣は高くないものの、柵がなく縁まで近づくことができる。曲輪を取り巻く石垣は高く下を見ると足がすくむ。でも高石垣の上を自由に歩けるようにしてあるのはいいことだと思う。
 歴史民俗資料韓でスタンプと城跡地図を手に入れ、改めて城内を歩き回った。裏門跡から外に出ると、御城番屋敷の長屋が続いていた。静かな一角では、現在でも暮らしが営まれているらしい。松阪城の変遷の歴史は単純ではないものの、ここの人たちが松阪城を大切に見守っている様子はよくわかった。
名古屋城
2016年9月1日
名古屋城には2年前のお盆の時期に訪れ、人混みの中を天守閣、復元工事中の本丸御殿の一部を観て回ったことがある。このときは、雨上がりの天気のため、あまりきれいな写真を撮ることができなかった。
 今回、地下鉄名城線の市役所駅から地上に出たのは午後4時だった。青空が広がり、日差しが強い。外堀を回り、まず御深井丸西北隅櫓(清州櫓)に向かった。途中、石垣が内側に切れ込んだ鵜の首の一角当たりでは、木立越しに天守閣の4,5層部分が見える。西日に金鯱が燦然と輝いており、堀の西側から天守閣が見えるとは知らなかった。広い濠の向こう、石垣西北隅に清州櫓がたたずんでいる。西日が当たるこの時間の清州櫓のあたりは、櫓、濠、石垣、木々の緑などがすべて備わり、お城らしい絶好の撮影ポイントだと思う。急いで正門受付に回ると午後4時半で、閉門まで30分しかない。
西の丸からの西南隅櫓、天守閣など撮影ポイントを探しながら、本丸を目指した。職員が閉門時間の近いことを告げている。本丸、二の丸を経て東門を出たのが午後5時だった。今回は、天気も良かったので、青空と緑をバックにきれいな写真を撮ることができ、大満足だった。
大阪城
2016年9月16日
2014年8月20日夕方6時、森ノ宮駅から大阪城に向かう。24日までは大阪城のライトアップが実施されており、天守閣にも6時25分に入ることができた。
 翌日、大阪城公園駅から城に向かう。やはり、石垣の高さ、積み上げられた石の巨大さなど、尋常ではない。100トンを超えるような石を小豆島から運んだらしいが、重機の無い時代にどんな風に石垣を積み上げたのだろう。現在の石垣は徳川時代のもので、豊臣時代の石垣は下に隠されているらしい。再建された天守閣は豊臣時代のものをベースにしているとのことで、豊臣時代の石垣の公開が待ち遠しい。
 大阪城に2年ぶりに登城。今度はは谷町4丁目駅から六番櫓、多聞櫓、大手門、千貫櫓などの建物遺構や外濠と高石垣を観ながら京橋口へ廻る。このルートは見どころ満載である。濠の幅、石垣の高さや複雑さは他の城を圧している。内濠越しの大阪城天守閣は夕陽を浴びて、絶好の撮影ポイントだった。天守裏の山里丸には淀君、秀頼自刃の地と案内があった。城内では寂しげな地である。
千早城
2016年9月17日
 河内長野駅前バス停から10時15分発の金剛山ロープウェイ域行きの南海バスに乗車。バスは曲がりくねった山道を通り、予想以以上に山奥へ入って行く。30分ほどで金剛山登山口に到着し、下車。バス停から2〜30m先まで道路沿いを歩くと、千早城=千早神社への案内板があり、山側へ急な石段が続いている。石段を数えながら登ると552段目(誤差もあるかもしれないが)で神社の境内(四の丸跡)に到着した(11時15分)。千早城跡の案内がなければ、神社の境内でしかない。堀切らしき尾根径を経て、さらに100段近い石段を上ると千早神社の本殿に至る。ここは千早城二の丸跡らしい。
 楠木正成は千早城を本拠と定めて、鎌倉幕府軍と戦ったらしいが、最初からこんな山深くに立て籠もったとは信じられない。幕府軍に追い詰められ、最初は仮の砦だったのではないだろうか?戦いが長引くについて、守るのにふさわしい地形であることに気づき、千早城は次第に城砦らしくなってきたのだろうと想像してしまう。
 帰りは裏道を通って下山する。結局、千早城の山径を巡ったのは1時間ぐらいだった。
佐倉城
2016年12月3日
午後1時佐倉城址公園に到着した。佐倉民俗博物館の駐車場に止め、まず博物館のレストランで昼食。おろし豚カツセットを注文したところ、ライスは赤みがかかっていた。古代米が使われているようだ。
 1時半、城めぐりに出発。あらかじめ佐倉城跡散策マップを印刷しておいたので、スタンプ置き場の佐倉城址公園センターへの最短ルートを選ぶことができた。このセンターは物置然とし建物で、ちょっと意外だった。
 佐倉城の城内は土塁、空堀が残り、石垣が全然ない土の城である。大手門跡方面は比較的平坦であるが、本丸の南、西側かともにかなり急になっており、下部は帯曲輪、水堀で囲まれている。台地の縁に城が建てられたようだ。明治時代から終戦に至るまで、佐倉連隊の兵営が置かれていたため、建物は残っていない。しかし、土塁や空堀などはよく残ったものと思える。博物館前の馬出し空堀はきれいに復元されている。
 公園内は、紅葉もほぼ終わっており、残念ながら写真撮影のポイごントは残ながらあまり多くはなかった。午後3時帰途についた。
二本松城
2017年7月9日
 梅雨明けしていないのに福島の最高気温は35℃と予想されていた。猛暑のなか、二本松ICから10分弱で二本松歴史資料館に到着、スタンプを押す。ここの駐車場は有料となっていたが、駐車時間が短かったため無料となった。後で歴史資料館の近くに大手門跡があると知ったが、気づかないまま通り過ぎてしまっていた。
 歴史資料館の前の坂道を上り下りると、二本松城が見えてきた。三の丸広場の奥の駐車場から本丸を目指した。発掘調査の現地説明会が行われていたが、予備知識も何もないので資料をいただいただけでパス。石段、アスファルト道路、木のチップを敷いた小径の木陰を選びながら本丸を目指した。日射しは強烈だけれど、木陰は結構涼しいし、アジサイがきれいに咲いている。本丸直下の大石垣から本丸部分に登りきると、きれいに修復された本丸石垣が見えてきた。本丸跡からの眺めは素晴らしいが、遮るものがないため暑くて早々に退散した。。三の丸広場に戻ってから、箕輪門を経て城外に出て、少年隊の像にたどり着いた。どうも、巡路を逆にとってしまったようだ。
白河小峰城
2017年7月9日
 2014年6月にも登城しましたが、東日本大震災により石垣の一部が崩落し、石垣修復工事の真最中でした。崩落したそれぞれの石に番号をふり、できるだけ元通りに修復する工事と聞きました。大変な仕事です。
 3年後、白河小峰城に再登城しました。修復工事はまだ続いていますが、本丸部分の石垣はきれいに復元されていました。完全に壊れてしまった石もあるなかの修復工事は見事なものです。今回は三重櫓にも登ることができました。修復工事に膨大な費用が掛かっているのに、入り口で無料と聞き驚きました。史実に忠実に復元された木造の櫓は気持ちのいいものです。内部は思ったより小ぶりで、狭間は文字通り狭く、石落としも往時のままのようでした。この日は猛暑でしたので、最上階は残念ながら風通しはよくありませんでした。
 翌日早朝、改めて城の周囲を回ってみました。南側の石垣は修復中のため近づけないのですが、西側、北側は濠越しに城郭の様子が分かります。一部通り抜けできないところもありますが、実戦向けのいい城だと思いました。戊辰戦争で政府軍と旧幕府軍の争奪戦の舞台になった城ということも納得です。   
水戸城
2017年7月10日
水戸南ICから水戸市三の丸駐車場をナビにセットして水戸城に向かった。水戸駅界隈は複雑に入り組んでおり、駐車場の近辺をぐるぐる回る羽目になってしまった。まず、弘道館受付でスタンプを押す。水戸藩藩校として1841年に設立された、総合大学に匹敵する施設だったらしい。大政奉還後の徳川慶喜が新政府に対し、恭順謹慎の生活を送った部屋もあり、歴史の動乱期を生き抜いいてきた建造物である。
 水戸城は高い土塁で囲まれた城であり、空堀が道路や鉄道に利用されている。三の丸跡から二の丸跡への通路では大手門の復元工事中であった。二の丸跡では幼稚園、小学校、中学校、高等学校として利用されているが、白壁の塀で囲まれ、城跡らしい雰囲気に包まれている。一本道をさらに本丸跡に向かうと水郡線の線路を超えて、水戸第一高校の敷地内に入った。水戸城で唯一の現存建造物である藩医門の見学者に便宜が図られており良いことだ。空掘りの上の橋や見晴らし台からの眺めから、水戸城は台地の縁に建てられた城だといことが分かる。台地の下まで降りてみたいところだが、猛暑の中1時間近く歩いていると熱射病の心配が出てきた。木陰も少ないので下城した。
赤穂城
2017年9月7日
播州赤穂駅に13時36分に到着。雨模様のためタクシーを利用。駅前から赤穂城大手門前までの一本道を行き、ほんの数分で到着。大手門と石垣は復元された様子だが、立派な濠に囲まれた平城だ。大手門と枡形を通ると、大石神社や大石家長屋門があるが、一方では農家の畑もあったりして、場内という雰囲気でもない。復元工事中の二の丸庭園の横を通って、本丸櫓門前に到着。星型状の濠や石垣・土塁に囲まれた縄張りは山鹿素行の軍学に基づくものという説明があった。本丸櫓門の下に百名城スタンプがポツンと置かれていた。壁に説明があるものの、パンフレットがないのは少し寂しい。城の構造物は明治時代に取り壊されたが、残された写真などをもとに櫓・門・石垣などが忠実に復元されている。本丸内部の御殿の様子もわかりやすい説明がある。復元工事がなお進行中で、赤穂市の意気込みは立派だと思う。
 見所の少ない城跡という予断でやってきたが、復元:・整備が行き届いた城だった。星形の石垣に取り囲まれた本丸が印象に残った。ただ、汗と雨でビショビショになってしまった。
月山富田城
2017年12月1日
 松安来駅発9時40分のイエローバスに乗り込んだのは私と地元の老人2名のみだった。途中、色々の場所を廻るため、月山口へ着いたのは10時20分、月山山頂あたりでヘリコプタがホバリングしている。閉館中の安来市立歴史資料館と広瀬絣センターとの間の案内所で月山富田城の資料を手に入れ、城跡への道順を教えてもらう。資料館裏の山路を進み、花の壇を経て山中御殿に到着。石垣で守られた平地であり、城の心臓部に当たるらしい。ここから七曲りと呼ばれる、階段状の舗装・整備された路が山頂へ続く。曲がりくねった登りを29〜30段ぐらいを登っては休み、登っては休み進んだ。日射しのない寒い日であったが、それでも汗が出始めた。15分ほどかけて三の丸跡に到着し、ホッとする。休んでいると麓から島根県の防災ヘリがほぼ目の高さまでやって来て、ホバリングをして帰って行った。救助訓練らしい。ここからは二の丸跡、本丸跡はアップダウンがそれほど激しくない。それぞれ平坦な部分が予想以上に広いのは、かなり手を加えたのだろうか?月山山頂197メートルの碑が建てられていた。三の丸、二の丸、本丸からの眺めは素晴らしく満足した。
松江城
2017年12月1日
 松江駅前からバスに乗り県庁前で下車した。立派な堀と石垣、石垣の上の櫓が目前にある。大手門が残っていないため外曲輪から、二の丸までが広々と見通しが良い。広い階段を上ると本丸まで、比較的容易にたどり着いた。入り口が附櫓で守られた天守閣は、1,2階部分が黒板で覆われ、黒を基調とした地味な外観である。1,2層部分の大屋根が同じサイズで、その上に3,4,5層が建てられている。中に入ると、1階部分には井戸があり、割合広い階段で上がることができる。城の内部に柱の多いことが印象的である。柱は鉄の輪やかすがいで固定された板で包まれている。包み板と呼ばれるらしい。望楼型天守の最上階からは松江の街、宍道湖が見えるが、NHKのブラタモリでは松江の城下町は湿地帯にできたと言っていた。
 翌日は、堀川めぐりから始めた。カロコロ広場城乗船場から大手前広場乗船場までの舟は自分一人だけのこたつつきの貸し切り舟だった。橋をくぐるときは、船頭さんが舟の屋根を下げ、客も身をかがめなければならない。最初は街中の水路だったが、自然に城の堀となってきた。面白い経験だった。
名護屋城
2018年1月31日
博多駅から地下鉄、JR,バス、タクシーと乗附2時間半ほどかけて名護屋城博物館に到着した。ここは立派な博物館で、無料なのが不思議なくらいである。名護屋城と豊臣秀吉による朝鮮侵略関連の資料だけでなく、九州と朝鮮との交流の歴史も展示してあり、ガイダンスの設備・備品も整っている。ミニシアターで学習して、目の前に広がる城跡へ向かった。墓物館で名護屋城の往時の様子をバーチャルで見られるタブレット端末を借りた。大手門口からなだらかな登城坂を登り、タブレットをかざすと東出丸あたりの建物の映像が現れる。ここからは玄海灘もよく見え、城跡は海面からかなりの高さにあることがわかる。三の丸を経て本丸へ向かう。本丸は広い平地になっており、玄海灘と島々の眺望が素晴らしい。天守閣跡地は少し高くなっており、海側に近い。名護屋城は石垣の保存・整備が進められ、予想以上に立派な城だった。本丸跡かから見るだけでは大名たちの陣屋が麓に建ち並んでいたところを想像するのは難しい。秀吉がここに城を築いた頃も今も辺鄙な土地だと思うが、秀吉の執念に多くの人たちがつきあわされ大変な時代だったのだろう。
小田原城
2018年3月14日
4年前の2月伊豆への出張の帰りに立ち寄りました。小田原駅から徒歩10分程度の絶好のロケーションなのがいいですね。戦後の一時期、石垣の上に観覧車が廻っていたのですが、市民の寄付もあり、天守閣が再建されたという事実に驚きました。
 2016年に天守閣耐震工事が行なわれた後、初めての登城です。歴史見聞館で小田原城、北条氏五代の歴史を学習。豊臣秀吉に包囲された小田原城は周囲9kmの総構で囲まれた巨大な城郭でした。石垣の代わりに土塁で囲まれた城郭は、どんな様子だったのしょう?北条氏は滅亡しましたが、城は残りました。大改造を経た江戸時代の小田原城は北条氏の時代とは性格も様相も全然違うようです。北条氏の城というイメージが強く、少し変な気もします。ですが、天守閣の白壁は以前よりきれいに見え、展示室はリニューアルされています。最上階からの相模湾、伊豆の山並みなどの眺望も素晴らしいし、外観もバランスのと荒れた立派な天守閣だと思いました。
徳島城
2018年3月25日
徳島駅を出てJR牟岐線の跨線橋に上ると、目の前は徳島中央公園である。石垣が見えるが、何の一部かはわからない。鷲の門側に回ると、初めて下乗橋を経て城内へ入る枡形区画になっていることがわかる。門前の横手に広がる堀川と石垣が城らしい風景である。石垣には平たい石が多く、高さもそんなに高くないため、あまり威圧感のない城に思える。博物館でスタンプを押してから、ボランティアのガイドさんに引率された団体さんと一緒に、表御殿庭園を回り説明を聞いた。そんなに広くないが、巨石をうまく配置した印象的な庭園である。この後、標高約60メートルの城山山頂を目指した。石段を東二の丸跡を経て本丸跡に上ると、本丸跡は山頂の割に広い。しかし一部に石垣が残っているものの城の遺構らしきものは何もない。四国には建造物が残っている城が多いだけに、少々残念である。1時間半ほど回った徳島城は、公園の中に城の一部が残るという印象が強かった。
高知城
2018年3月26日
高知駅から路面電車で高知城に向かった。高知城前で下車すると2,3分で追手門前に着く。ここは、追手門と天守閣のツーショットが撮れる撮影ポイントである。快晴のおかげで、青空をバックにきれいな写真が撮れた。城内の桜は満開で、花見をしている人たちも多い。観光ボランティアの人に聞き、「ひろめ市場」でお寿司弁当を買ってきて、桜を眺めながらランチをとった。この後、三の丸、二の丸と石段を登り、本丸を目指した。本丸へは、二の丸からの渡り廊下で結ばれている。高知城の本丸は天守閣、御殿,石垣の上の塀も現存している貴重な存在である。本丸御殿から入ると、順路にしたがって天守閣へ登ることができる構造になっている。望楼型天守の外観は4層のように見えるが、内部は6階建てである。最上階の回廊から四方を見渡せるが、思いのほか高く感じた。木造天守だけあって、風格のある作りである、天守閣を出て、本丸の周囲を巡ると、石垣が適度に苔むしていて外観も風情がある。改めて、追手門あたりから眺めると、天守閣は小ぶりであるが、威圧感は十分な城に思えた。
鳥取城
2018年8月28日
 鳥取駅から、緑コースの100円循環バスくに乗車、仁風閣・県立博物館で下車した。濠の向こうには久松山を背に鳥取城の石垣が幾重にも重なって見える。西洋風の白い建物は物は仁風閣である。仁風閣は、団体客があるため1階部分のみが開放されており、入場料は無料だった。明治初期には二の丸の三階櫓などの建物の残る写真も展示されており、現状は少し寂しい。仁風閣を出ると、雨がポツリポツリと降ってきた。朝から雲が多めの蒸し暑い天気だったが、傘を持ってこなかったのが油断だった。幸い城跡には大木も多いので、雨宿りは可能と判断。坂下西門を通り、登り石垣や石切り場を見ながら二の丸に至る。木の下で雨宿りをしながら、市街地を眺める。風もよく通る場所なので、天気が良ければ最高だが・・・。菱櫓跡から眺めると、表御門方面は工事中であり、立ち入り禁止だった。この東側にはさらに石垣が続き、天球丸に至っている。鳥取城の山下の丸は、石垣と山裾で囲まれた平坦部が非常に広いのが印象的で、想像以上に広大な城郭である。山上の丸へは2合目まで登ったものの、雨と汗でぐしょぬれになり、断念。歩きごたえのある城だった。
津山城
2018年9月25日
曇り空のもと、JR津山駅から10分ほど歩くと、津山城登り口に到着。石段の向こうに三の丸を囲む。高石垣の一部が見える。さらに二の丸、本丸と三重の高石垣が積まれている。この城の石垣は、表面全体がツルツルと磨き上げられたように見える。石垣の勾配も綺麗な曲線を描いている。三の丸から二の丸に至る表中門あたりは、幅広い石段が20段以上正面の高石垣に向かって続き、さらに左へ10段以上続いていていて壮観である。 津山城のシンボルである備中櫓はいろいろな場所から見える。しかし、眺める場所や角度によって建物の印象が随分違う。天守のように見え宇場所もあれば、真下の二の丸から見上げた安定感のある姿もあり、一方本丸入り口あたりからは、高石垣から転がり落ちそうな建物にも見える。平日のため、本丸に来るまで、人影も少なくゆっくり見て回ることができた。曇っていた天気も少し日射しが漏れるようになり、天守台跡からは津山市街がきれいに一望できた。 小さな山を2重3重の高石垣で取り囲み、多くの櫓・門を城内に配置した往津山城を想像すると、防御というよりも領主の力を見せつける狙いをもって築城されたように思った。
備中松山城
2018年9月26日
 駅前からタクシーで城に向かった。武家屋敷町を通り抜けると、急な坂道に入り、人家が見えなくなると純然たる細い山道だ。駐ふいご峠まで10分、1380円だった。ここからはところどころ階段のある山道を登る。大手門跡に立つと、3重4重の高石垣が重なって見え、小さい櫓が巨石の上に建てられている。丸や四角の狭間のある土塀は、NHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像の通りだ。二の丸まで登ると、天守が見えてくる。本丸に入る前に、天守裏手の二重櫓に向かった。自然石の上に石垣が積み上げられており、見事なものだ。入場券売り場でスタンプを押し、本丸に入ると目の前は松山城天守だ。三層二階建ての造りで、内部は木組みがしっかり見える。あまり大きくないため、時代を経た木造家屋の雰囲気である。窓を通る風が心地よかった。内部は手入れが行き届いており、囲炉裏端があったりして、畳を敷けば今でも住むことができそうな印象だった。。帰りは、ふいご峠から歩いて降りたが、階段の段差も大きく、なかなかきつい登山路だった。いくら昔の人が健脚とはいえ、江戸時代に山上の城に詰めた人は少なかったのでなかろうか?
宇和島城
2019年2月3日
 宇和島駅には9時半に到着した。観光案内で宇和島城へのルートを教えてもらい、10分ほどで北側登城口に着いた。ここ長屋門での説明によると、宇和島城は藤堂高虎により築城され、1615年伊達氏により修築されたらしい。本丸へのルートは急な石段を登る近道か、緩やかなスロープの回り道かの二者択一である。登りは緩やかな道を選び、帰りは石段と決めた。途中から見えてくる石垣の反り具合を見ると、やはり藤堂高虎らしさがうかがえる  児童公園からは、石段の登城路になる。城山郷土館の脇を通り、石段を上ると天守が見えてくる。苔むした石垣越しの天守はなかなか風情がある。二の丸からは宇和島の市街地、良く見える。天気が良ければ、絶好の展望台にもなる。山頂部の本丸はそんなに広くないが、御台所の礎石越し天守が現れた。城山の麓や石垣下から見上げた三層の天守は堂々たる構に見えた。実際に近くで見ると、石垣の上に建てられた、思ったより小ぶりの天守だ。小さいながらも立派な破風を持った建物だ。木造天守の3階からの眺望は素晴らしいが、風通しがが良くて風も冷たい。帰りは石段を降り、上り立ち門のある南側登城口に回った。
大洲城
2019年2月3日
宇和島発の特急列車が伊予大洲駅に近づくと肱川べりの大洲城が見えてきた。13時38分、伊予大洲駅に到着、す大洲城までの道筋はわかりやすいので、小雨の中徒歩で城へ向かった。肱川橋からは、大洲城が良く見えるが、橋は大がかりな工事中だった。昨年7月の。肱川水害の影響だろうか? 20分程度歩き、大洲市民会館の駐車場を過ぎると、石垣の上に天守が見えてきた。この城は肱川のほとりの丘の上に位置しおり、麓の枡形部分から石垣の上の天守もよく見える。本丸に至るスロープは石段ではなく舗装・整備されている部分が多く、割合楽に登ることができる。白壁、黒板、灰色瓦を基調とした4層の天守と2つの櫓はきれいにつながっている。外観上は、天守のみが復元された建物とは思えない。台所櫓から入ると、確かに天守の木組は新しい。しかし、台所櫓、高欄櫓の床や連接部分の廊下もきれいに磨かれていて、城全体がしっくりと調和がとれている印象である。天守に入場したときは独占状態だったが、ボランティアの人が内部の木組みを丁寧に磨いていた。外観だけでなく、内部も手入れが行き届いた気持ちのよい城だと思う。15時10分城を離れた。
新発田城
2019年5月17日
 新発田駅前の観光案内所で市内地図をもらい、新発田城までの道を教えてもらった。20分ほど歩くと堀、石垣、櫓が見えてきた。新発田城址公園医に着いたようだ。堀に面したベンチからは3匹の鯱を最上階の屋根に戴く3階櫓、ぴったりとおさまった石垣、木々に囲まれた2階櫓をじっくりと眺めることができた。鯱はちょっと不思議な方向を向いている。表門にまわるとボランティアの人たちから、表門と隅櫓が江戸時代からの現存建造物で、3階櫓と辰巳櫓が復元された建物であると説明を受けた。3階櫓以外の建物には無料で入ることができた。表門から入ると2,30メートル先が塀で仕切られ、その先は自衛隊の駐屯地になっていて、掛け声が聞こえる。せっかく復元された3階櫓に入ることができないのは残念である。
 新発田城の残った城郭部分のうち立ち入ることができるのは一部分に限られている。しかし白壁と海鼠壁で覆われた櫓、切込はぎの技法で積まれた石垣を堀ごしに眺める景観は素晴らしいと思う。
岡城
2019年7月1日
豊後竹田駅からタクシーに乗って、岡城に向かった。乗車時間は5,6分、料金は700円、予想より安かった。駐車場には全然車がなく、この日1番の登城者になったようだ。入場券のほか、巻物の案内図をもらい、竹杖を借りて登城開始。すぐに崖の上に石垣が見えてくる。幸い雨はやんでいたものの、坂道は濡れて滑りやすい。大手門の大きな石垣が迎えてくれ、ここを通った後は比較的平坦になった。草刈り作業中の軽トラックも止まっていて城内に車も入れるようだ。家老屋敷跡などがあり、往時はここで暮らしていた人々が多かったことがうかがえる。下草の刈り取りが終わっている区画は、とても歩きやすい。建物はすべて壊されているものの、高石垣、門や屋敷跡の石垣などが残されており、よくぞ城を築いたという印象だ。高石垣の際まで進むと、深い谷が待っている。苔、蔦などで覆われている高石垣もあり、まさしく古城という感じだ。滝廉太郎がこの城をモデルに「荒城の月」を作曲したが、よく整備されているため荒城という雰囲気ではない。小雨が降りだし、1時間程度の滞在で離れなければならないのが残念だった。
弘前城
2019年8月7日
弘前駅到着は11時20分。観光案内所で教えられた通り、市内循環100円バスで弘前公園に向かい、市役所前で下車。近くの蕎麦屋さんで昼食後、公園に向かった。カンカン照りの弘前の気温は32〜33度ぐらいだろうか。 濠と土塁に守られた追手門から弘前公園に入る。広い園内には多くの樹木が茂っているため、木陰が気持ちよい。下乗橋からは本丸の石垣修理の様子がよく見える。本来なら石垣の上に立つ天守が本丸内に引っ越し中である。そのため、亀石のあたりから本丸内の天守がなかなかいい角度で眺められる。天守は小ぶりとはいえ、曳屋は水平移動だけではなく上下の移動や回転も必要な、細心の注意と技術を要する大工事である。天守に入ると、内部には太い鉄骨が入っており、移動の際の変形・倒壊を防止する役を果たすようだ。 本丸から北の廓、丑寅櫓、石垣修復工事現場を経て、14時半東門を出た。公園には、濠・土塁・石垣が保存されているのは勿論、城門、天守、櫓などの建物や橋も数多く現存している。これらの城郭要素が広い園内に程よく残り、多くの樹木に囲まれている。城郭と市民の憩いの場がマッチしたとても良い公園だと思った。
七尾城
2019年9月19日
七尾駅に13時51分に到着後、市内循環バスのまりん号(順回り)に乗車、七尾城史資料館に向かった。資料館でスタンプを押した後、ビデオで七尾城復元のCG映像を観て、城の変遷を学習。資料館員に本丸跡まで徒歩で登ると言うと、少し驚いた様子で本丸まで1時間程度かかる上、最終まりん号は16時40分なので、間に合うようにと降りて来てくださいと教えられた。おまけに、日が短くなったし、イノシシも出るので気を付けてとも言われた。 14時40分、資料館の自販機で飲料を買って、本丸に向かった。林道を15分ほど登った後は、ところどころ段差の大きな階段や木の根の多い山径も続き、城らしい痕跡は見当たらない。幸い「本丸まで**Km」の道標があるため安心感がある。途中に七尾湾ビューポイントもあり、疲れを忘れることができた。三の丸跡地では初めて2人の登城者に会った。二の丸、桜馬場へ来て、杉木立を通して石垣が見え、城跡らしくなった。本丸跡直下の3,4層の石垣を横目に見ながら登りきると、本丸跡の平地である。ここから、七尾湾の絶景が眼下に広がり、大満足。時計を見ると15時35分、最終便に間に合う時間である。
金沢城
2019年9月20日
 14時30分兼六園下・金沢城の停留所で下車。ここから時計回りに、金沢城の石垣巡りをする。石川門を百?掘園地から仰ぎながら、本丸南側に向かった。バスの車窓から眺めた、本丸南面の高石垣は近くから見ると、一つ一つの石が予想以上に大きく迫力がある。南面石垣の一部は明治時代に陸軍により構築されたそうだが、本丸の木々、イモリ掘の水面、緑の芝生に映え、この辺りはとても気持ちの良い散策コースにもなっている。石積模型のあたりから、薪の丸コース,三十間長屋コースの石垣を観察しながら、城内に入る。大きな城であるため、場所に応じて異なる石積みの技法が使われ、まさに「石垣の博物館」である。二の丸に到着したときは16時を過ぎており、菱櫓・五十間長屋に入ることはできなかった。数寄屋敷石垣、土橋門石垣、二の丸北面石垣を観ながら、復元なった菱櫓から橋爪門続櫓に至る石垣を巡った。新しく復元された建物・石垣は忠実に復元されているようだ。最後に石川門を通り、左右で異なる石積みを観ることができた。3年前に来た時には、復元された建物を中心に見て回り、若干消化不良気味だったが、今回は金沢城を堪能できた。
久保田城
2019年10月23日
 秋田駅西口を出て、広小路を千秋公園に向かって5、6分歩くと、大手門の堀はハスでびっしり覆われていた。堀端をそのまま進み、千秋公園入口から登城。穴門の堀では土塁の木々の紅葉が始まり、青空によく映える。坂を上ると表門の前の広場に出た。石段の下から見上げると、復元された表門はなかなか風格のある建物である。一方、石段下の地味な建物は御物頭御番所と説明にあり、城内に現存する唯一の建物らしい。表門を通ると広い本丸跡で、樹木も多い。ここに佐竹公銅像、神社、庭園がある。 本丸西北の角に向かい緩い坂道を上ると、白壁の御隅櫓が、木々の間から現れる。櫓の内部には、佐竹氏の歴史がパネル展示されており、水戸から秋田に国替えとなった経緯、城下町の建設、領内の銅山開発など、いろいろわかった。最上階の展望室からは秋田の市街地は無論、男鹿半島、日本海も一望でき、絶好の場所に立つ城である。久保田城に天守も高石垣もないことは水戸城と同じである。大きな戦を想定しない時代では、小高い山の上に巧みに築城すれば、堀と土塁で防御は十分と思われたのだろう。千秋公園は城らしさの残る良い公園だった。
盛岡城
2019年10月24日
盛岡駅から北上川にかかる開運橋を渡り、開運橋通りを盛岡城跡公園に向かって歩く。15分ぐらいで岩手公園下の交差点に着くと、目の前は盛岡城の高石垣である。石垣に沿って南側に回ると、白っぽい石垣がきれいに積まれている。ここは昭和平成の大修理が行われたらしい。高石垣の上の桜山馬場に来ると、またもや本丸を囲む石垣である。本丸の天守台跡は発掘調査中であった。朱塗りの橋を通って二の丸に行くと、新渡戸稲造や石川啄木の碑があり、石垣の上から盛岡の市街地が望まれる。三の丸から多目的広場に向かう。広場からは盛岡城の本丸、二の丸、三の丸を取り囲む石垣の贅沢な景観が楽しめる。石垣は花崗岩でしっかり築かれており、打ち込みハギの乱積や布積が見られ、石の境目が一直線になっているところもある。城の内部には建物が残っていないが、石垣から想像すると複雑な縄張りの城だ。鏡ヶ池を超えて、もりおか歴史文化館に入館、展示はなかなか面白い。城跡のガイドマップをここで手に入れたが、最初に見ていればもっと要領よく回れた。盛岡城跡はベンチが随所に置かれ、城跡も市内の眺望を楽しむことのできるよい公園だと思った。
津和野城
2020年3月16日
津和野高校の校門前の坂道を上ると、5分ほどで観光リフト乗り場に到着した。リフト乗り場のおじさんの話では、津和野城跡までの道には雪が積もり、朝から誰もリフトに乗っていないらしい。確かにリフト乗り場から見上げると、雪が残っている。それでも城跡に向かうことに決めた。リフトを降りると、山肌には雪が残っている。出丸跡は工事のため立ち入り禁止になっており、仮設の迂回路がある。仮設路の道板には数センチの積雪があり、とても滑りやすい。ゆっくり15分ほど歩くと、杉木立を通して石垣群が見えてきた。ただ工事用の足場が組まれているところも多い。山頂一帯に高石垣は複雑に廻らされているようだ。平坦地は雪で覆われ、訪れた人はいない。しかし、雪に隠れた部分も多く、どこへでも行けるわけではない。そのうち、雲間から日が射し、石段は雪解け水で一層すべりやすくなってきた。山頂の高石垣群、雪で覆われた本丸、二の丸、三の丸跡、さらに眼下の城下町の眺望は素晴らしく、来てよかった。帰途、木立の間の石段を下りるとき、ふとした気のゆるみから滑って転んでしまった。コート、ズボンが泥まみれになってしまい、大失敗だった。
萩城
2020年3月17日
東萩駅観光案内所で萩城へのアクセス方法尋ねると、萩循環バス西回りを使うのが便利そうだ。「萩城跡・指月公園入口」で下車。目の前は海に通じる堀で、二の丸東門跡の石垣が見える。城内に入ると、内堀と一定の高さにそろった石垣、堀に突き出た天守閣跡、背後の指月山が目に飛び込んできた。建物は何も残っていないが、堀と石垣がきれいな城跡だ。萩城中堀は海に通じ、鉄砲土塀の外側はすぐに砂浜だ。しかし、本丸門から城跡を見ると指月山に守られた山城の雰囲気もある。三角州の海側に指月山があるため、平地にありながら海側を山で守られた珍しい縄張りの城だと思う。本丸に入り、天守閣跡に上ると建物を支えた礎石が残っているだけだが、城跡全体を見渡せる。快晴の天気に加え、3月なのに気温も20度近くに上昇し、春風が気持ちよい。城内の「ミドリヨシノ」桜の蕾も間もなく開花しそうだ。本丸跡には、茶室、庭園、池がほどよく移築あるいは残されており、気持ちよい公園になっている。本丸内を東側に回ると、日本海と菊ヶ浜の砂浜が一望できる絶好のビューポイントにでた。鉄砲土塀のあたりから、砂浜に出ることもでき、景色の素晴らしい城跡だった。
姫路城
2021年3月24日
大手門から三の丸広場に入った。青空をバックに白壁の姫路城天守閣が映え、チラホラ咲き始めた桜と一緒にいい写真が撮れそうだ。 菱の門をくぐると、三国掘、高石垣、その上にそそり立つ大天守と威圧感十分の景観が現れる。「いの門、ろの門、はの門」と順路にしたがって登城する。天守をいろいろな角度で眺められるが、天守入口までの経路は複雑である。天守に入ると、訪れる人も多くないため、ゆっくり見て回ることができる。内部には展示物が少ないため、天守の1、2階はとても広く感じる。東西の大柱は60センチを超える太さがあるようだ。大天守は5層6階の建物で、階段も広いため昇降はそんなに大変とは思えなかった。が、天守を出て、坂道を下るときには脚がガクガクしてきた。階段昇降に予想外に筋肉を使い、脚にきたようだ。備前丸、二の丸を経て、天守の写真を撮りながら下城。次は西の丸に入る。いままでは、大天守を仰ぎ見ることが多かったが、西の丸からは若干仰角を下げて天守群を眺められる。カメラのファイダー越しに、松の緑、咲き始めた桜とともに、天守閣を狙う。とにかく、写真を撮りながら城内を2時間以上歩き回った。
鬼ノ城
2021年3月25日
吉備線服部駅から予約しておいたタクシーで鬼城山ビジターセンターに向かった。20分程で到着、センターで鬼ノ城築城の経緯や現況を学習した後、杖を拝借して西門に向かった。5分ほど舗装した道を登ると、前方に西門と巨大な土壁が見えてきた。復元された西門、角楼をつなぐ高さ7,8メートルの城壁が連なる。門をくぐり城内に入ると、城壁の上部には石が敷かれている。城壁が続く光景は小型の「万里の長城」といった様相だが、敷石が並ぶ壁の上部は内側に傾いているため、通路ではないようだ。角楼からは吉備地方が一望できるが、残念ながら曇天のため見晴らしは悪い。それにしても、このような山の上に防衛拠点となる城を築くとは、白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に大敗した後、大和朝廷はよほど外国勢力の侵略を恐れたのだろうか?礎石建物群跡を観た後、西門に戻り、南門方面へ向かう途中で吉備平野を見ながらおにぎりを食べた。タクシーの予約時間があるため、西門に引き返した。交通不便な地にもかかわらず、鬼ノ城を訪れる人々がかなりある。今まで訪れたどの山城とも異なる景色に出会い、とても印象深い古代山城だった。
岡山城
2021年3月25日
13時40分岡山駅前から路面電車に乗り岡山城に向かった。旭川沿いの堤防を降り、大手門側に回った。下段から眺める石垣は宇喜多時代の野面積みの石垣と池田時代に積まれた打ち込みハギの石垣が共存し、なかなか面白い。天守閣に入り、岡山出身の磯田道史さんのビデオ説明で岡山城の特色・歴史を学習。コンクリート製の復元天守であるが、外観は忠実に復元されたようである。改めて正面から眺めると、左右非対称の望楼型天守であることに気が付いた。天守を支える北側の石垣は折れ曲がっているので、地形上の制約を織り込んで築かれたようだ。戦災をまぬかれた月見櫓、中段から発掘された宇喜多時代の展示石垣を観た後、改めて旭川沿いの石垣を見て回った。宇喜多時代に築城されて以来、小早川氏、池田氏と城主が変わるごとに城は拡張・修復され、石垣の積み方の相違がくっきり現れている。本段東側の石垣には「(宇喜多)秀家は安定性の高い大型の石材をきちっと積んでいるのに対し、(小早川)秀秋は丸みの強い石材を粗雑に積んでいる」(若干悪意のある印象)との案内がある。確かにそう見えるが、粗雑に積んでも崩れてはいない。
郡山城
2021年3月26日
 可部駅前から安芸高田市役所前までのバスは、1時間近くかかった。途中分水嶺を超えると、江の川の上流域なのに開けた水田地帯であるのは意外だった。歴史民俗博物館で毛利元就の墓所や本丸へのルートを尋ねると丁寧に教えてもらえた。博物館から墓所まで15分、本丸まで25分程度とのこと。杖を借り、毛利家墓所の横手から本丸を目指した。敷石の小径はすぐに山径に変わり、登山となった。傾斜の緩い山径もあるため、比較的楽に御蔵屋敷跡まで登った。ただ、建物の痕跡は残っていないし、散乱する石は石垣の跡だろうか?三の丸へ向かうと、初めて2名の登城者に出会った。二の丸、本丸へと進むと本丸跡には一段高い櫓台が残る。ここに来るまで、石垣が壊れているため、打ち捨てられた城という印象が強い。関ケ原の戦いの後、毛利氏は長門・周防の二国に領土を削られ、郡山城も放棄したため、やむをえなかったのだろう。おにぎりを食べ、山頂近くを探索。三の丸通路下には石垣らしき雰囲気も残るが、破却感が強い。井戸跡は城内に残る城跡らしき唯一の痕跡にも思える。帰りのバスの時間もあるため、30分ぐらいで下山したが充実の城巡りだった。
高岡城
2021年9月27日
高岡駅の観光案内所で高岡古城公園へのルートを尋ねると、徒歩圏内だが万葉線の路面電車も教えてもらった。駅を出た電車は5,6分で最寄り駅の「急患医療センター前」に着いた。
 古城公園方面に向かうと、すぐに濠が現れた。濠には本丸橋がかけられ、木々の生い茂った坂道を登ると、芝生の本丸広場だった。本丸の周囲は土塁で囲まれ、散策コースが設けられている。前田利長の騎馬像を眺めながら散策路を進むと、朝陽の滝の水音が聞こえてきた。このあたりは、濠が池のような感じに入り込んでいる上、朱塗りの橋、中の島のあずまやなどがあり、大きな日本庭園のような雰囲気だ。中の島は堀の中に浮かび、一の橋、二の橋で小竹藪の郭と結ばれていた。
 博物館は閉っていたが、玄関先には百名城スタンプが無雑作にぽつんと置かれていた。二の丸・本丸を結ぶ土橋の両側には石垣が残る。西側は濠際まで降りることができ、雑草も刈り込んであったので石垣を真下から観察できた。
 古城公園は堀と土塁が中心の城跡だが、散策コースに沿って、彫刻作品や花壇が置かれた一画、桜や梅の多い一画、日本庭園の一画などバラエティに富んだ公園設計が面白かった。
根城
2021年12月2日
12時過ぎに八戸駅に到着、観光プラザに立ち寄り、情報収集。根城の知識はほとんどなく、中心街近くに城跡があるとは想像外だった。中心街方面に向かうバスに乗車、15分ほどで博物館前に着いた。
博物館では「南部師行公」の騎馬像が入館者を迎える。鎌倉幕府の御家人だった彼が1334年にやって来て、根城を築いたらしい。馬淵川南側の河岸段丘上に曲輪が拡がり、さらに一段高い場所が柵に囲まれた本丸である。
東門から本丸に入ると、真っ先に復元された主殿が目に入った。瓦屋根の建物ではないようだし、周囲には板葺きや茅葺きの建物も多い。縄文時代の住居と見まがうものもあるが、安土桃山時代の根城を基準として復元したらしい。主殿に入ると、大きな部屋がきれいに並ぶ。それぞれの部屋は板戸で区切られ、床は板の間である。囲炉裏が置かれた部屋もある。正月行事が展示された部屋では、鎧姿の主が客人をもてなす様子が再現されていて、なかなか面白い。
 安土桃山時代といえば,京都、大阪では立派な建築物があった世である。ところが、根城は中世の城郭のためか、復元建物の屋根は板葺き・茅葺きである。冬の寒さが厳しい地域なのに、違いに驚いた。
平戸城
2022年3月18日
13時44分本州最西端の鉄道駅「たびら平戸駅」で下車。併設の鉄道博物館に寄った後、駅前の国道に出て平戸桟橋行のバスに乗車。14時20分市役所前でおり、警察署横の石段を上った。ところどころ石垣や白壁の塀が残る石段を上ると乾櫓が見えてきた。平戸城に天守はなかったため、乾櫓がその役目を果たしていたらしい。
低気圧が通過したため、風も強く梅は荒れ模様だ。地蔵坂櫓下から北虎口門まで石垣に沿って進む。この門は平戸城に現存する唯一の木造遺構である。
埋櫓を左手に見ながら石段を進むと本丸広場に到着。三層五階の天守閣は内部が歴史体験アミュージアムとしてリニューアルされている。最上階から360度の絶景が楽しめるはずだが、あいにくの曇天である。ガラス戸を開けてテラスへ出ると強烈な風が吹き、景色を楽しむどころではなく早々に退散。幸い、出入り口の大型ガラス越しに周囲の景色を眺められる。眼下には城内の櫓(見奏櫓、懐柔櫓)、平戸大橋や大海原が見渡せるだけに、荒天なのが本当に残念だ。
この後桟橋方面に向かった。海沿いの小高い丘に築かれた平戸城は対岸の桟橋ふ頭や松浦史料博物館からの眺めも素晴らしい。
島原城
2022年3月20日
9時5分島原駅に到着した。島原城への坂道の途中、「城への近道」と書かれた案内を発見。城の堀を右手に向かうと空堀に降り、廊下橋跡から本丸に入ることができる。石段を登り本丸の枡形部分に入ると、現在は梅苑になっている。さらに進むと駐車場に変わった本丸広場に到着。
 島原城天守閣は五層の大きな建物だ。威圧感のある高石垣にも驚いた。島原市のような地方の小都市の天守閣はせいぜい三層であるのに、城郭の大きさが少々異様に思える。島原・天草の乱では押し寄せた一揆勢の攻撃に耐え、落城しなかったのもうなずける。しかし、この乱は松倉氏の苛烈な圧政に対する一揆であることを考えると、4万石の大名には不相応な城を築くため領民に大きな犠牲を強いたのだろう。昨日訪れた原城跡ではすべて壊されていたことが思い出される。
 天守閣入り口では武将姿の女性が案内してくれる。「島原大変」や普賢岳の噴火など島原地方の大災害の歴史も学ぶことができた。5階の回廊からは周囲が一望でき、東西南北各方向の説明パネルが助かる。「島原大変」の際の山崩れや海岸に至るまで処々に残る小高い丘が山崩れの名残であることなどよくわかった。
根室半島チャシ跡群
2022年9月11日
16時近くに根室駅に到着、さっそく根室インフォメーションセンターで百名城スタンプを押し、根室半島チャシ跡群パンフレットを入手。翌日のレンタカーを探したが空車はなく、やむなく納沙布岬とチャシ跡を回るタクシーを予約。2時間で12800円である。
 翌日、納沙布岬を回り、オンネモトチャシ跡へ向かった。駐車場のあたりは小さな起伏の草原である。岬に向かって草むらの中の小径を5分ほど歩くとオンネモトチャシ跡の案内がある。2,3メートルの盛り土部分を登ると、チャシ跡のようで直径十数メートルの半円形の平地である。チャシ跡の草はきれいに刈り取らている。もし、雑草が生い茂っていたらどこがチャシかわからなかっただろう。眼下の漁港、オホーツク海、海岸の断崖と草原、素晴らしい眺望だ。ここは、城というよりもアイヌの人々の見張り台だったのでは?と思える。
続いて訪れたノツカマフチャシ跡もやはり岬の突端に位置し、半円形の平地が並ぶ、見晴らしの良い場所だった。
チャシ跡には通常の城郭らしさはないものの、アイヌの人々がどのように使ったか?想像をかきたてられたし、オホーツクの海や海岸線の絶景を楽しむことができた。
吉野ヶ里
2023年2月1日
吉野ヶ里公園駅から田んぼの中の道を進むと10分ほどで公園入口に着く。この日は人影が少なかった。入口のスタッフからは
南のムラ→展示室→南内郭→北内郭→甕棺墓列→北墳丘墓
というルートを勧められた。環濠入口では、濠に沿って逆茂木の埋め込まれたものものしさに驚いた。
 吉野ヶ里遺跡は700年間にわたる弥生時代のすべての時期の出土品があるとのことだ。甕棺に埋葬された人骨の中には、頭部のないものや腹部に十個の矢じりの刺さったものがあるという。弥生時代には水田耕作が始まり、食料の争奪など集落間での争いが起こるようになった。そのため、集落を守るための濠や柵が必要になってきたようだ。南内郭や北内郭は二重の柵と濠で囲まれたうえ、物見やぐらもあって厳重に守られている。
 20年以上前にここを訪れた当時は、弥生時代の環濠集落という色彩が強かった。今回、環濠入口付近には逆茂木が植えられ、物見やぐらに見張りの兵士がいた様子など、防御性の高い「城郭」としての位置づけが強くなっていた。700年にもわたる弥生時代において、吉野ヶ里は単なる「環濠集落」から次第に防御性の高い「城郭」に変貌していったのかな?
人吉城
2023年2月2日
人吉ICで高速バスを降り、駐車場へ向かうと人吉駅行き路線バスが待っていた。「新町」バス停で下車すると、川の向こうが人吉城の角櫓、多聞櫓、長塀だった。城内の人吉城歴史館は休館中だが、スタンプの他に各種パンフレットがあり、便利。2020年7月の球磨川大水害の被害修理のため、球磨川沿いはほとんど立ち入り禁止のようだ。しかし、三の丸、二ノ丸、本丸へは立ち入り可能である。
 相良神社境内から球磨川べりの石垣に登ると水の手門跡が見学でき、球磨川から城内に往来できる構造なのがわかる。境内から三の丸、二ノ丸への石段を上がる。
 三の丸の城壁に設けられた「見学用階段」を登ると視界が開け、大きな広場である。広場の縁に立つと、眼下に球磨川と人吉の城下町が一望だ。二の丸への登城路は石垣に囲まれた枡形になっている。人吉城は球磨川沿いから山の上まで立派な石垣が築かれているのは驚きだった。
人吉城には立ち入り禁止の場所も多かったが、それでも三の丸・二ノ丸から眺めは素晴らしかった。川沿いの石垣は球磨川から城を守る役目も担ったようだが、なおかつ球磨川の水運も利用してきた人吉城。球磨川との共存は大変だったようだ。
熊本城
2023年2月3日
市電「熊本城・市役所前」で下車。坪井川沿いを西に向かう。対岸は熊本城石垣と長塀が続く。南口券売所に着くと同時に9時の開門。
 2016年7月の熊本地震の被害は甚大で熊本城内は天守閣のある一画を除き、基本的に立ち入り禁止である。足場を組んで設けられた回廊を通して城内を見学する。ボランティアガイドの人たちの解説を聴きながら回廊を巡る。普通なら熊本城の石垣を見上げながら回るところを、回廊から見下ろす石垣もあり、地震の被害がわかる。
 本丸御殿の闇がり通路を抜け天守閣広場に到着。小天守から入城し、石垣井戸や大天守への急な石階段を見学。天守閣内部の展示では、熊本城の歴史が各所で丁寧に解説されている。
 西南戦争での熊本城籠城戦(554日間)の展示も興味深かった。ナレーションでは、政府軍が故意に天守閣と熊本の街に火を放ったと言っていた。熊本城は石垣が複雑に入り組んでいるため、西郷軍も突破するのが難しかったかな? 
 6階の展望フロアからは工事中の箇所、手つかずの箇所がよくわかる。完全に復興するには時間と費用がかかる。部分的にしか見学できない熊本城であるが、観光客が次々とやってきた。
大分府内城
2023年2月20日
大分府内城を堀に沿って時計回りに一周することにした。石垣はきれいな野面積み、隅の石垣は算木積みだが、比較的大きな石で築かれている。石垣の上は二階櫓と白壁の長塀、水面の近くは犬走りとなっている。廊下橋へ来てみると、あると思ったスタンプ台が見当たらない。スタンプは大手門下に移ったらしい。
松栄神社から堀越しに、天守台跡の石垣、人質櫓や苔むした石垣を望むと絶好のビューポイントだ。北から東へ帯曲輪を回ると、北東の隅の石垣は扇形に削られている。東側一帯の石垣は、折れ曲がったり、出っ張ったりしてかなり複雑な形状である。一方、堀にそって復元された細長い帯曲輪には桜の木が植えられている。石垣の上には松が茂り、いくつか築かれた櫓が城らしい雰囲気を醸し出している。
復元された大手門をくぐり城内に入ると、即、駐車場である。城内外の相違には驚くばかりである。唯一、城らしさを味わえるのが北側の一画。ここには天守台石垣が残り、大?な天守が建てられていたようだ。天守台の急な石段と鉄製の階段を登った。景色がいいとは言えないが、それでも廊下橋・人質櫓・堀を見渡すことができる。
川越城
2023年3月7日
入口付近の「川越城跡」案内板によると、川越城二の丸、三の丸、本丸は堀に囲まれていたが、堀は埋められ何も残っていない。北門跡あたりには新しく土塁が復元されている。本丸御殿玄関前は広場であるが、「本丸御殿玄関前の施設」の案内板によると、発掘の結果、礎石や門の基礎が見つかったとのことだ。本丸御殿の北側広場には「台所」の説明があり、炊事用の場所となっていたらしい。川越城跡には城の遺構が少ないため、最近は発掘の成果公表にも力を入れているようだ。
本丸御殿には観光客、中高校生のグループなどが次々にやって来た。展示室のビデオでは解体修理の様子が流され、丹念な作業に感心した。本丸御殿の歴史をたどると、明治時代以降は県庁、公会所、煙草工場、武道場、学校校舎などに使われ、数奇な運命をたどってきたという。本来、本丸には他にも多くの建物があったが、残ったのは御殿玄関と家老詰所のみらしい。この御殿は立派な玄関を持つが、建物自体は比較的こぢんまりとしている。廊下から眺める庭の景色にも落ち着きがある。家老詰所の廊下に座って、庭をゆっくり眺たいが、長時間の滞在は遠慮してくださいとの注意書きがあった。
駿府城
2023年6月16日
午後3時10分、駿府城公園の二の丸堀まで来ると、巽櫓・東御門が現れ、堀の向こうには美しい切込接ぎの石垣が続いている。二の丸御門前、坤櫓と堀を回ると、櫓の北側から石垣は土塁に変わり、堀に覆いかぶさる木々の緑が美しい。
 西側の橋から公園に入ると、フェンスに囲まれた天守台発掘調査現場であり、見学できる。
  天守台跡が掘り起こされ、石垣や堀とともに天守台内側の様子がわかる。さらには、徳川時代の慶長年間に築かれた石垣と豊臣時代の天正年間に築かれた石垣が共存し、見比べることができる。天正期の野面積みの石垣、慶長期の切込接ぎの石垣、それぞれの違いが分かりやすく説明されている。この発掘現場は駿府城最大の見どころだと思う。ゆっくり見ているうちに3時45分になっていた。
 あわてて東御門・巽櫓に向かい、午後4時に閉る入場券売り場にはなんとか間に合った。徳川家康は今川氏の人質だった幼年期を駿府で過ごした後、壮年時代の天正期に駿府城を築いた。さらに秀忠に将軍職を譲った晩年の慶長時代にも駿府城の大改修を行ったとのことだ。これが、天守台発掘現場における、異なる築城時期の石垣が存在する理由だった。
掛川城
2023年6月17日
掛川駅北口から駅前通りを6,7分歩くと、木立の向こうに掛川城天守閣と太鼓櫓が見えてくる。石段を登り、四足門から城内に入る。十露盤堀、三日月堀など不思議な形の内堀を見ながら、本丸天守閣下の広場に進んだ。土曜日の午後、さわやかな好天のもと、天守閣を訪れる人々が後を絶たない。天守閣への石段から振り返ると、掛川の市街地が一望できる。新幹線車両がひっきりなしに掛川駅を通過する。
  ここは日本で最初に復元された木造天守閣らしい。外観は三層、内部は四階の望楼型天守である。階段には手すりがあるが、3階、4階に登る階段は狭くて急だし、部屋も狭い。大屋根の上に望楼を乗せた構造上、やむを得ないようだ。
  天守を出て二の丸御殿へ向かった。二条城、川越城、高知城と並び全国に4か所しか残っていない、城の御殿である。規模が大きいうえ、よく保存されている。廊下に面した部屋からは、庭園や天守閣の眺めを楽しむことができる。百名城スタンプはこの建物内の一画で押すことができた。この御殿には格式の高い立派な表玄関もあれば、御殿には似つかわしくない、農家の土間のような薄暗い出入り口もあり、当時の身分差別がうかがえる。
山形城
2023年9月21日
山形駅からJRの線路に沿って、山形城二の丸東大手門を目指した。10分ほど歩き、東大手門に到着した。大手門前の橋は、山形新幹線と仙山線をまたいでおり、真下を通ると新幹線と在来線の線路幅の違いがよくわかる。
 15時40分、東大手門から城内に入る。東大手門内部の観覧時間は16時までなので、何とか間に合った。ここで、百名城のスタンプを押す。ビデオ説明では、山形城は扇状地の端に位置する平城で、中心部が城下町より微妙に低い位置にある、珍しい城とのことだ。大きな城だったが、三の丸はほとんど埋められたらしい。大手門あたりの建物と土塁はしっかり復元されている。土塁の上から城内を眺めていると、赤トンボに気づいた。
 土塁を降り、最上義光像に向かった。前脚を高く上げた馬上の武者像は、躍動感にあふれるが、絶妙のバランスである。先日、NHKの「ブラタモリ」で、タモリが「最上義光」のネームプレートの位置が悪いと言っていた。確かにプレート側からは馬の腹が見えるだけで、肝心の本人が全然見えない。
本丸内部は、16時閉門のため入れない。本丸空堀の周囲を、高い土塁(一部石垣)や一文字門を眺めながら回った.。
仙台城
2023年9月23日
東北大学川内キャンパスで開催された学会の昼休みを利用、国際センター横の歩道を大手門跡に向かった。大手門跡から本丸跡への道路は車両通行止めである。昨年、一昨年と地震により、石垣が危険となり車両通行止めとなったらしい。しかし、歩行者は通行可能で、車の通らない道路を安心して登ることができる。
大手門跡から10分ほど急坂を歩くと、本丸直下の高石垣である。表面が平らな四角い切石をきれいにそろえ、整然と積み上げられている。また、算木積みの隅角が見せる傾斜のカーブも優美だ。
本丸跡入口まで来ると、道路には通行止めの柵。柵の向こうの道路には石垣が崩れ落ちている。東日本大震災で大きな被害を受け、修理が終わったところでまたもや地震の被害を受けるとは、残念なことだ。
本丸跡には御殿が建てられていたそうだ。ここには大広間の間取りが敷石を使って、展示されている。建物自体を復元するのは難しいのだろうか?秋晴れの下、本丸跡からの仙台市街の眺めは素晴らしい。高層ビルが多くなったようだ。観光ツアー付き添いのガイドさんの説明では牡鹿半島まで見通せるとのこと。地震で被害を受けた伊達政宗像も修復されていた。
和歌山城
2024年3月18日
和歌山城前でバスを降り、大手門から城内に入った。二の丸庭園に進むと桜祭りの準備中だが、開花にはまだ早い。天守閣に目を向けると、山裾は野面積みの石垣に取り巻かれている。二の丸と西の丸は屋根付きの廊下橋で結ばれる。この橋の小窓から天守閣や庭園はいい眺めだ。
 「わかやま歴史館」で城の歴史を学んだ後、鶴の渓、山吹渓を通り、裏坂へ向かった。山側には、ゆったりした傾斜の野面積み石垣が続いている。裏坂は比較的急な登り坂だ。折れ曲がった坂道を登りきると、天守閣前の広場に着く。
きれいな野面積み天守台には、天守、小天守、二つの櫓と多聞櫓からなる、連立式天守閣が築かれている。コンクリート造りの再建天守だが、石垣下から見上げた姿がとても美しい。天守三階の展望台からの見晴らしも素晴らしいが、この日は風が強く少々寒かった。
 急な石段の新裏坂を降り、動物園脇を通ると表坂へ続く高石垣のところに出た。ここは整然と積まれた切込み接ぎの高石垣がそびえ立っている。
 和歌山城は連立式の天守閣だけでなく、多くの石垣も大きな見どころである。築かれた時代ごとに異なるいろいろなタイプの石垣が随所に残されている。