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メンバー情報

ID3218
名前kumaso
コメント北条早雲が戦国大名のスキームを構築した先駆者、惣と守護はただ納税を受けるだけの関係だったが、大名が治水・開墾などの事業を支援し惣の農民たちは年貢と兵力を大名に提供するスキームを構築した。
もっといろいろんことを歴史から学べればいいです。
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
足利氏館
2012年12月27日
源氏の棟梁八幡太郎義家から分家した足利氏、鎌倉時代からの館は武田氏と同じ濠に囲まれた長方形の造り。
今は、鑁阿寺(ばんな)として、親しまれている。
足利尊氏がここから直義とともに挙兵した地、しかし、後世では、鎌倉幕府倒幕後、南朝後醍醐天皇と争い、明治以降国賊の汚名を着せられたままである。 太平記に載っている7代目に天下をとるという秘文書が経堂にあったのだろうか?
新田義貞に敗れ、九州で再興し、楠正成、義貞を打ち破り、最後は弟直義にも裏切られた尊氏。 どんな青春時代をこの地で過ごしたのだろうか?
金山城
2012年12月27日
足利の隣、7km離れた太田市に金山城がある。 山城で車でないと行けない。
本丸跡には、新田神社が祭られている。 山に石垣が張り巡らされた貴重な山城だそうだ。
城跡からは、太田市や遠くアルプス山系が見える。
日の池、月の池があり、祭事および貯水用に使用されていたと推測されている。
川越城
2012年5月26日
本川越駅から市内循環の観光バスで川越城の本丸御殿へ行く。バスは180円。
本丸御殿の入場料は100円、平城なので天守閣はなく、奉行所のような建物だった。
市内には太田道灌の像、東照宮神社など見どころっがたくさんあるので、一日楽しめる。
佐倉城
2012年12月31日
大晦日、千葉桜木霊園でお墓参りの後、佐倉城跡まで足を延ばしてみた。
歴史博物館は当然ながら閉館しており、今は公園となつている本丸二ノ丸の跡地を散歩した。
ここは明治政府発足後初めての軍隊、陸軍第二連隊が駐屯地として利用された所で、歴史的建造物はほとんど取り壊されたようだ。
土井正勝の居城として、佐倉11万石、江戸城の支城として役割を果たしたようだ。
石垣は無く土塁と空堀そして川が防護壁の役割を果たしている。
江戸城
2012年5月24日
半蔵門線の大手町駅から歩いてA1出口へ、途中平将門の首塚にお祈りを捧げ、大手門から登城。入場料は無料、たくさんの外国人をお見かけした。 百人番所などを見て、天守閣の石垣がある本丸へ。 この広い芝生の広場が大奥の跡地、端には赤穂浪士討ち入りのきっかけになった松の大廊下がある。 富士見櫓は門が閉められ、遠くから撮影した。
小田原城
2012年6月2日
後北条5代の堅城、小田原城。 伊勢新九郎が伊豆一国を奪い取り、北条早雲と名乗り戦国大名のさきがけとなった。 それまでの地頭、守護は地侍・農民から税を取り立てるだけだったが、早雲は直接的に税を獲るかわりに、灌漑などの土木工事を整備し、農民の役に立つ政治をおこなった。また、惣とよばれる集団から若者を武士として取り立て、軍事力を強化した。そして、関東を制圧するまで子孫たちは勢力を伸ばした。
そう思うと、小田原城に思い入れが深くなった。。。
武田氏館
2012年8月18日
‎010 躑躅ヶ崎館
甲府駅からまっすぐ北に伸びた武田通りを進むと、そこに武田神社がある。
甲斐武田神社、信虎、信玄、勝頼三代が拠点とした躑躅ヶ崎館跡に​神社として祀られている。 周りには堀があり、武田24将の屋敷もあり、城下町として栄えた​。
史料館にある「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」の旗が歴史を感じる。
甲府城
2012年8月18日
‎011甲府城 
武田氏滅亡後、柳沢吉保が築城、甲府駅も城内の一部とは知らなか​った。遠くは富士山も見え、天領の経営と甲州街道の要所の抑えと​して機能したようだ。
城の跡地は公共の県庁・市庁が多いが、もともと城は藩主の私有財産という意識は薄く、そのため廃藩置県も比較的スムーズに明治政府が進めたと聞く。甲府駅も甲府城の敷地内にあるのはこうした背景ではと思った。
松代城
2012年9月22日
ここは川中島の合戦の要所で海津城と呼ばれ、山本寛助が築城したと言われている。千曲川の水をうまく利用した要崖だった。
武田氏滅亡後、森長可等々を経て、真田信之が治めることになった。
真田昌幸が徳川方に長男真田信に見方させ、真田家の存続を託した。信之は弟幸村より有名でないが、家光の信頼も厚く譜代大名に準じた扱いを江戸城では受けていた。
父の形見として上田城の城壁の石を松代城に持っていこうとした一時でも彼の想いが伝わる。 松代藩は真田氏居城として幕末まで続く、佐久間象山などを排出する。
上田城
2012年9月22日
真田昌幸により築城され、徳川に二度攻められた。二度目は有名な徳川秀忠の軍を関が原の合戦に着陣させなかった。 その為、関が原以後徳川の恨みを買い、上田城は破壊されたそうである。その後仙石忠政が再建した。 長野新幹線開通後便利になり、漫画で人気のスポットにもなっている。 真田信繁こと幸村は九度山に父昌幸とともに幽閉され、実は大阪冬の陣まではまったく世には無名だった。夏の陣で最後の突撃で徳川本陣に迫る活躍を見せたため有名にになった。短く豪快な死に方が後世の人に人気の原因。
松本城
2013年4月13日
天守閣とアルプスの山々が映える松本城。やはり桜は散りかけているが、とても鮮やかにお城を装飾していた。
高遠城
2013年4月12日
日本3大桜の名所、高遠城に桜満開の季節に行ってきました。城を見るより、桜を楽しんだ感じです。 信玄の5男仁科盛信が織田軍と最後まで戦い、最期を遂げた地には思えない、綺麗な桜で平和を満喫できる場所です。
駿府城
2012年9月16日
静岡駅から歩いて10分、駿府公園になっている。家康の隠居城で3重の堀が施されていた。維新後静岡県の財政事情が悪化し、駿府城の本丸を陸軍が使用することになり、最内の堀は埋められたそうだ。
関が原以後、城の普請は西国大名にやらせ財力を削いだ。石垣に普請した大名の紋章が刻まれている。
また、駿府の街は安部川の氾濫を防ぐため、薩摩藩が堤防工事を行い、薩摩堤と言われている。
掛川城
2012年9月16日
新幹線の掛川駅から徒歩で7分、商店街が閑散として地方都市の不況が感じられた。県庁のある静岡駅前とは大違い。。。
掛川と言えば山内一豊が5万石の大名として関東の家康を抑える役として期待された。しかし、後輩の加藤清正、福島正則等々に比べ秀吉からの報酬は少なく、家康の東軍に加担して土佐20万石に取り立てらた話は有名だ。
もっと昔徳川軍に追いつめられた今川氏真が掛川城に逃げ込み、井戸から霧が出て徳川の攻撃から九死に一生を得た伝説もあるようだ。
名古屋城
2012年10月8日
尾張名古屋は城で持つというが、本当だなと思う。天下普請で関が原の勝利後外様大名の力を削ぐために、江戸城、駿府城、名古屋城の増築工事にかりだした。
名古屋城の有名な金の鯱鉾は、金閣寺の金箔の3倍の量だそうだ。
戦時中に天守閣は焼失したが、建築資料が残存していたために再建できた。
現在は本殿の再建を手掛けている。さすがに大きく城に来た感じがする。
岡崎城
2012年10月8日
祖父清康から父松平広忠、そして竹千代へと引き継がれ、今川家織田家の勢力争いの中翻弄され続けた。両家に人質にとられ、織田信長との幼少時代のつながりと桶狭間の戦いで、東三河の国主にのし上がった拠点岡崎城。
その後家康が征夷大将軍になり天下をとると、譜代の大名が5万石と小さいながら東照宮家康の聖地としてこの地を治めた。
城は小さいながら三河武士の気骨を感じる質実剛健に建築されているイメージが残った。
二条城
2012年12月24日
徳川家康が大阪城の対策として二条城を増強し、関ヶ原の勝利後、征夷大将軍となり豊臣秀頼を臣下として接見した間があった。その時秀頼を補佐したのが、加藤清正と浅野長政だった。
その2百数十年後、最後の将軍徳川慶喜が、親藩大名と外様大名に大政奉還を宣言した間も紹介された。
幕末の歴史的瞬間がここで繰り広げられたと思うと、その時慶喜の心境は…。 後藤象二郎、小松帯刀はその時どのように感じたのだろうか?
名護屋城
2012年7月1日
007名護屋城
強者どもが夢の跡、まさに名護屋城跡は感じさせてくれる。当時、大阪城に次ぐ​大きな城を築き上げた時の秀吉の権勢は凄かった。天下統一後、と​ち狂った秀吉がこの二回に渡る朝鮮派兵、これが一つの原因で戦場​で奮闘した豊臣恩顧の福島正則、加藤清正、黒田長政らと後方支援​した石田三成の対立になった。
名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城で、1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が撤退てったいするまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。 周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集いました。
吉野ヶ里
2012年7月1日
006吉野ヶ里遺跡
弥生時代の城の原型。推定延長2.5kmの壕に囲まれた日本最大級の規模の弥生時代の環壕集落(かんごうしゅうらく)跡。多数の住居跡、高床倉庫群跡、3,000基を超えるかめ棺墓、弥生時代中期の王族の墓である墳丘墓(ふんきゅうぼ)などが発掘された。
ガイドのおじさんはここは邪馬台国ではないと自説を話をしてくれた。おそらく雲仙普賢岳の噴火を見て、陸があると思った朝鮮もしくは中国本土から渡ってきた人々で、卑弥呼より100年ぐらい後の世代だという。
北の内郭は政治が行われ、南内郭は王家の住居だそうだ。
佐賀城
2012年7月1日
佐賀城は、本丸殿が復元され鍋島藩の歴史を垣間見ることができる。
とくに幕末の佐賀藩では、鍋島直正が先進的で、長崎からの海外情報をいち早く手に入れ、軍事や医学などの西洋科学技術の導入に努めます。軍事では、幕府に先がけて反射炉を完成させ、鉄製大砲を鋳造しました。また、精煉方において、蒸気機関の研究を行い、蒸気船凌風丸の建造に成功します。さらに幕府が設けた海軍の教育機関である長崎海軍伝習所に藩士を派遣して学ばせ海軍の増強に努めました。医学では、種痘を全国に普及させ、医師の免許制度をつくり、日本における近代西洋医学の基礎を作っていきました。
平戸城
2012年7月2日
008平戸城 
平戸城は別名:亀岡城とも言い、 第30代雄香棟により、宝永元年(1704年)に再建築城、山鹿流の縄張り(統計)にて、1718年(享保3年)に落成しました。
初めは、松浦氏26代当主松浦法印鎮信が慶長4年に着工した日の岳城である。
しかし、鎮信は、幕府への政治的な配慮から日の岳城が完成を待たず自ら焼き捨てた。 松浦氏は、63,000石を領する城持大名であったが、その後「御館」を築いて居館とした。 名君と言われた松浦氏29代当主、松浦天祥鎮信は、山鹿素行の弟子の一人となり、平戸築城を模索する。 元禄16年、30代松浦棟は、幕府の築城許可を得て、宝永4年に山鹿流による新城を完成させたのが、「亀岡城」とも呼ばれる現在の平戸城である。松浦氏は、天正15年の秀吉による九州征伐に参陣して本領安堵されて以後、12代に渡って平戸を領し明治に至った。
島原城
2012年7月2日
009島原城
強行軍で平戸から島原へ、見る時間も短時間であった。九州外様大名の抑えの城として、堅牢に作られたように見えた。
成立当時の領主である松倉氏の知行は4万石であったが、総石垣で天守と櫓49棟を建て並べた。火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、関わった領民の一揆を引き起こす一因となった。
天守は破風を持たない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で最上階の廻縁高欄を後に戸板で囲ったため「唐造り」のようになっていた。
熊本城
2012年6月30日
004熊本城
加藤清正を偲ぶ、勇ましさと美しさを感じる名城。
2度にわたる朝鮮出兵で清正は外国人と戦い、過酷な籠城戦も経験する。この朝鮮での体験をいかして、特に、日本にはない見事な石垣の技術を吸収し、籠城に備えた非常用の食糧備蓄や井戸の重要性を学んでいる。
城郭の周囲は約9kmあり、大小の天守をもつ複合天守閣、長さ約240mもの長塀をはじめ、櫓49、櫓門29を数える堂々たる偉容を誇った。美しいカーブを描く武者返しの石垣、石落としや鉄砲孔などの様々な戦闘のための工夫はもちろん、籠城に備えて数多くの井戸が掘られ様々に食糧備蓄の工夫がなされていた。