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メンバー情報

ID9968
名前百栗ケポ
コメント名城訪問をただの観光に終わらせることのないよう、もらったパンフレットにきちんと目を通し、自分なりに調べもし、印象に残ったことを記しておこうと思う。
ひゃっくりけぽ
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
山形城
2017年5月14日
1

本丸、二ノ丸、三ノ丸を持つ輪郭式の大きな平城。現在霞城公園となっているのは二ノ丸までだが三ノ丸まで含めた城全体では江戸城、豊臣大坂城、小田原城、名古屋城に次ぐ全国でも5番目の広さとのこと。すごい。本丸一文字門や二ノ丸東大手門の復原は気合が入っている。二ノ丸を囲む堀のすぐ横を山形新幹線が疾走して行くのも見ごたえがある。城内にある最上義光の騎馬像はとてもりりしい。山形鋳物でつくられているらしい。茶道で使われる茶の湯釜のほとんどは山形産の鋳物だという。
新発田城
2017年5月15日
2

本丸を二ノ丸が取り囲み、三ノ丸が南方につきだしたちょっと変わった縄張。輪郭・梯郭式併用型といい、これには地質が関係しているらしい。
このお城の特徴はなんといっても三階櫓。三匹の鯱が載る丁字型屋根。ユニーク。海鼠壁も美しい。
むかし、辰巳櫓で火事があってその失火の責任を問われて浪人となったのがあの堀部安兵衛のお父上なんだとか。
新発田城にはたくさんの古写真があるとのこと、それらをてがかりにしてさらに復元が進んだらまた訪れたい。
春日山城
2017年5月15日
3

中世〜近世の山城。石垣は用いられず自然の起伏を活かした空堀・土塁で多くの曲輪を守っていたらしい。天守はなく、周囲に山々に砦や屋敷を築いて巨大な城としての機能を持たせていたとか。これが当時の山城の特徴とのこと。当時として日本一の要害だったとはさすが謙信公。
城内にある春日山神社は上杉謙信がご祭神で、謙信公を深く敬愛していた小川澄晴さんなるひとが明治時代に創建した。その長男が小川未明さんという有名な童話作家で『赤いろうそくと人魚』はよく知られている。
江戸城
2017年5月19日
4

輪郭式平城または平山城。その大きさというか広さというか、調べてみると群を抜いている。大阪城公園の2倍の広さ、しかしこれは内郭だけの話。外堀まで含めた外郭を地図で見てみると、またの名を千代田城というのがうなずけるまさに千代田区そのまんま。
楠公レストハウスでスタンプを押すといやでも目にはいる楠木正成像は上野の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像とともに東京の三大銅像とのこと。
久保田城
2017年7月20日
5

築城者の佐竹義宣さんは常陸国から転封されて秋田に来たということで水戸城のほうにも名前がある。そんなわけでどちらも土造りのお城という共通点がある。ほかのお城は城主がころころ変わって覚えるのがたいへんだがここは佐竹さんだけ。わかりやすい。ちなみに秋田県知事さんも佐竹さん。
城内に立派な銅像があって、一瞬義宣公かと思ったが、実は義堯公なる人物。久保田藩最後の藩主。侯爵。そういえば武士のいでたちではなかった。
弘前城
2017年7月21日
6

東北地方唯一の現存天守。現存天守ということで最初に造ってそのまんま、と勝手にイメージしていたがそうではなくて、1611年に五層の天守が造られたが1627年に焼失してしまい、現在の天守は1810年に再建に着手されたものでしかも隅櫓を改築したものだったという。つまり最初の立派なのが16年でなくなっちゃって、つぎの質素な天守を再び得るまでなんと200年近い執念。感服する。おかげでこうして絵になる風景を楽しむことができる。
根城
2017年7月21日
7

百名城の中のひとつと知らなければこれがお城とは思えなかったろう。時代もこれまで訪れたお城の中でもっとも古い。築城は1334年。城としての役割を終えたのが1627年。パンフレットに「この間300年、ただの一度も落城することのなかった名城です」とある。さらに「昭和53年度から11年間に及ぶ発掘調査とその成果に基づく9年間の復原整備によって完成しました」とある。南部氏も八戸市もすばらしいと思う。
盛岡城
2017年7月22日
8

不来方のお城の草に寝ころびて空にすはれし十五の心。啄木。
連郭式平山城。「東北ではめずらしく」というフレーズで語られる総石垣造のお城。盛岡は花崗岩の街。盛岡地方裁判所構内にある石割桜も巨大な花崗岩の割れ目からどーんと伸びて見事な花を咲かせる。その目の前の大通りでくりひろげられる世界一の太鼓パレード「盛岡さんさ踊り」発祥の地とされる三ツ石神社の花崗岩もこれまた見上げるくらい大きくて見事だ。
七尾城
2017年8月11日
9

守護職や管領の地位にもついた畠山氏の流れをくむ能登畠山氏が16世紀はじめに築いた山城。上杉謙信との戦いによって落城するまでの約170年のあいだには多くの文化人が城を訪れ和歌や連歌の会が催されたという。このことからもわかるように七尾城は単なる立てこもりの砦ではなかった。多数の屋敷が建ち日常的な政治活動や生活の拠点でもある「山上都市」だった。
ダイナミックな石積みは驚嘆に値する。城からの眺めの良さに謙信が「絵像に写し難き景勝」と感想をもらしたとか。
小谷城、観音寺城、月山富田城、春日山城と並ぶ日本五大山城のひとつでもある。ちなみに三大山城で検索すると岩村城、高取城、備中松山城となる。山城は難攻不落である。
高岡城
2017年8月11日
10

築城は前田利長。利家の長男。数々の戦功を立て富山に隠居。富山大火のあと射水郡関野に城を造り地名を高岡と改めた。1609年に築城し1615年の一国一城令によって廃城。みじかい…。しかし城跡は残り、町民から「古御城(ふるおしろ)」と呼ばれ親しまれたという。加賀藩が保全を図り、明治になったときも服部嘉十郎(江戸明治期の役人・政治家)らの保存活動のおかげで、今もこうして市の中心部にこれだけ広大で緑豊かな公園が存在している。人工的な手が加えられていないため当時の水堀がそのまま満々と水をたたえたまま残されている。
松本城
2017年8月26日
11

西側、二の丸から内堀越しの眺めが最も有名。大天守に辰巳附櫓と月見櫓が複合し、渡櫓で乾小天守が連結する。この5棟すべてが現存で国宝。本物の黒漆塗。年間維持費は5億とも。姫路城とおなじ五階建ての層塔型天守。しかし戦国時代にあっては珍しいとされる平城。縄張りは本丸を中心に二の丸、三の丸が周囲を取り囲む「輪郭式+梯郭式」。枡形門と三重の水堀で防御を固める。内堀の幅は最大60メートルありこれは火縄銃の有効射程距離を考慮したものだそう。現在の姿への普請と城下町づくりを始めた石川数正から6家23人の譜代大名が明治維新までこの地を治めたという。
丸岡城
2017年10月21日
12

望楼型二重三階の独立式現存天守。寒い地方なので凍結して割れたりすることのないよう屋根瓦として地元特産の笏谷石製の瓦を使用した。福井市の足羽山で採れるが現在はもう採掘されていない。この石は青緑色だが濡れると深い青色に変化するので城郭ライターの萩原さちこさんは「雨の日に行きたい天守ナンバーワン」とおっしゃっている。
一乗谷城
2017年10月21日
13

国指定特別史跡。中世から戦国時代にかけての大名の館には共通した様式がみられる。洛中洛外図屏風にみられる花の御所のような方形館だ。ここ一乗谷を治めた朝倉氏の館にも広場や主殿、会所などがあった。そして有事の際のために山城が4つあったという。15世紀後半に築かれ16世紀後半に織田信長に滅ぼされるまで約100年にわたって栄えた。
ほかに方形館といえば武田氏館や足利氏館があげられる。
金沢城
2017年10月22日
14

梯郭式。平山城。自然石積み、粗加工石積み、切石積みなど多種多様な石垣が現存し「石垣の博物館」といわれる。なぜこのようにさまざまな石垣がみられるようになったかというと、前田利家から始まって3代利常、5代綱紀と改修するたびに最新の技術を取り込んでいったからだそう。
三十間長屋や石川門、鶴丸倉庫が現存している。
菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が復元されており現代の木造城郭建築物としては国内最大規模とのこと!
松阪城
2017年12月3日
15

築城の名手といわれる蒲生氏郷が築いた。氏郷は近江国蒲生郡日野で守護大名六角氏の重臣の三男として生まれた。観音寺城の戦いで六角氏が敗れると織田家に仕えるようになり数多くの戦いに参戦しのちに羽柴秀吉のもとでも働いた。
野面積がダイナミックな松阪城。蒲生家に吉祥をもたらす「松」の字と秀吉の本拠地「大坂」の「坂」の字をあわせて「松坂」と名づけたという。
氏郷が手がけた二本松城でも豪快な石積がみられる。氏郷が最後に城主になったのは会津若松城だった。
ちなみに「築城の名手」で検索すると藤堂高虎や加藤清正、黒田官兵衛の名が出てくるが個人的にはこの蒲生さんが気に入っている。
伊賀上野城
2017年12月4日
16

忍者の里伊賀国の中心地上野城下町。はじめ筒井定次が城を構えていたが徳川家康の時代になると今治から藤堂高虎が移ってきて30メートルの高石垣をつくるなど大改修を行った。豊臣秀頼にそなえるため五層の大天守も計画されていたが暴風雨で倒壊、そうこうするうちに大坂夏の陣で豊臣家が滅びたので城普請は中止された。以後城代家老が執政を行った。
現在の復興天守は地元の名士川崎克氏が私財を投じてつくった。伊賀文化産業城と称する。
周囲は上野公園として整備されておりこの地出身の松尾芭蕉をまつる俳聖殿がある。
千早城
2017年12月15日
17

楠木正成の城。元寇後、鎌倉幕府の力が弱まると西国を中心に悪党勢力が強大になっていった。彼らの本拠は山中で、ゲリラ戦を得意とした。山城が生活の場とも戦時の拠点ともなった。幕府転覆をはかった後醍醐天皇は悪党勢力の統率者であった正成を重用した。正成は幕府の大軍を相手に山上から矢を射、巨石や巨木を落とし夜襲をしかけるなどして善戦した。
千早赤阪村は大阪府にある村。周辺の自治体との間で何度か合併話があったようだがまとまらなかった。府内初の過疎地域に指定されてもいる。
あの大阪に村?と驚いたが逆に誇っていいと思った。事実「大阪府唯一の村」と胸を張っているし「身近な秘境」「感動に出会える風景」と銘打っている。足を運んでみるとまさにその通りである。
高取城
2017年12月15日
18

古代において都があった飛鳥と離宮のあった吉野とを最短で結ぶ交通の要衝を抑えるため地元の土豪越智氏が拠点にしていた。最初は支城にすぎなかったが織田信長による城割の命により大和国では高取城が残された。大和国を治める筒井順慶が、のちに羽柴秀長が、その後本多氏が大改修を行った。本多氏が断絶したあとを継いだ植村氏は将軍家光から必要なときにはいつでも勝手に城の修理を行ってよいという特別待遇を得、明治維新まで十四代にわたって植村氏による高取藩が存続した。
廃藩置県により廃城となったが明治20年頃までは天守など主要構造物は残っていたらしい。しかし人里離れた山頂にあったため管理されず自然崩壊したとのこと。
和歌山城
2017年12月16日
19

羽柴秀長が創建し、関ヶ原で功績をあげた浅野幸長が大改築を行い、その後徳川頼宣が御三家にふさわしい大改修を行った。石垣として秀長は緑泥片岩を、幸長と頼宣は和泉砂岩を、のちの徳川吉宗は花崗岩を使ったため城内には3種類の石があり、また積み方も野面積、打込接、切込接と入り交じっている。
緑泥片岩の石垣は徳島城も有名。
津山城
2018年3月19日
20

築城者「森忠政」。そんな名前は知らなかった。しかし森蘭丸という名前は知っていた。このひとは蘭丸の弟なのだそうだ。
本能寺の変のあとずっと秀吉方だったが関ヶ原の戦いでは東軍として戦功をあげた。それでここに城を建てた。当時は五重の層塔型天守があり70棟以上の櫓がひしめき建っていたらしい。この数は広島城や姫路城より多いとか。
このお城の見どころである備中櫓、なぜ美作国なのに備中なのか、忠政の娘が嫁いだのが鳥取藩主池田備中守長幸で長幸が津山城を訪れたのを機に建造されたから、なのだそうだ。
復元されたのがなぜ天守ではなく櫓だったのか。シンプルだった天守より生活空間として活用されていた櫓のほうが面白そうだからか、それとも資料の関係か、あるいは予算の都合か、よくわからない。
B'zの稲葉浩志氏は津山市市民栄誉賞第一号。
街なかを歩いていて時々河童のオブジェを見かけた。市内を流れる吉井川によく河童が出没するのだそう。市内循環バスのことを「ごんごバス」というのは津山では河童のことを「ごんご」と言うかららしい。
福山城
2018年3月19日
21

天守は層塔型。重要文化財として伏見櫓や筋鉄御門あり。市制50周年記念事業として天守、御湯殿、月見櫓を建造。
福山城、福山市と聞いてもそれがどこにあるのか知らなかった。新幹線駅があると聞きそれならそこそこ大きい都市なのだと思った。調べたらすごかった。人口で広島県内第二位。中国四国地方でも第五位。備後都市圏の中心地。たしかに福山は安芸国ではない。
高速道路で緑と赤のラインが入った「福山通運」のトラックを見たことがあったがあれはやはり福山市に本社を置く運送会社なのだった。
旅行ガイドブックに福山が載っていないなと思ったがでんと載っている「鞆の浦」は実は福山なのだった。
ゆかりの有名人を調べたら宮澤喜一、井伏鱒二、小林克也、世良公則などなど多数いた。
おお、ぜんぜんお城と関係ない…。
備中松山城
2018年3月20日
22

「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰からなる臥牛山全域に建てられた備中松山城。鎌倉時代に始まる歴史を持つ。それゆえ中世の山城に近世の天守をいただくユニークなお城になった。
明治の廃城令後、何度も競売にかけられ7円(現在の5万円)で落札。取り壊す費用もなく放置されひっそり荒廃していった。
おかげでこうして残りました。
築城者の中に小堀遠州という人物がいる。風流な名前だと思ったら茶人、書家、作庭家としても有名な文化人らしい。二条城には遠州が手がけた庭園が残っているとか。
鬼ノ城
2018年3月20日
23

7世紀後半の白村江の戦いで倭国が敗れたあとその防衛のために古代山城は築かれましたと大野城や基肄城などの説明があり、それらと同様の文脈のなかにこの鬼ノ城も載っていると、ここもそうなのかと思いそうになるが実際に訪れてみるとこんなところで唐・新羅連合軍を防衛できるのかなと首をかしげる。
別な説としてヤマト政権が地域支配を目的に築いたとの見方があるという。そっちかもねと思う。吉備地方はむかし、かなり強い国だったみたいだし。
岡山城
2018年3月21日
24

太平洋戦争の空襲で天守が焼失した全国7城のうちのひとつ。ちなみに他は水戸城、大垣城、名古屋城、和歌山城、福山城、広島城。
築城者は宇喜多秀家。安土城にならって作られたとか。「岡山」という小さな丘に建てた。
かつては櫓が35棟、城門が21棟あったものが、明治になると国もすべてを維持できず、やがて天守・月見櫓・西の丸西手櫓・石山門の4棟だけになってしまった。そして昭和20年6月29日の空襲で天守・石山門が焼失した。
現在の天守は昭和41年にむかし通りの外観で再現された。
ところで宇喜多秀家さんは長生きでした。34歳で八丈島に配流となり現地で84歳で亡くなりました。他の流人より厚遇されたようですが苦労も多かったと記録にあります。
丸亀城
2018年3月21日
25

丸亀城の素晴らしさは今さら語るまでもない。
というわけで、お城のパンフレットに載っていた「築城にまつわる伝説」をここに記す。
羽坂重三郎は一生懸命働いて石垣を完成させた功労者であった。殿さまは、空飛ぶ鳥以外にこの城壁を乗り越えられるものはあるまいと絶賛した。ところが重三郎は鉄棒を使ってすいすいと城壁を登ってしまった。殿さまは重三郎を生かしておけば、のちのち恐ろしいことになりかねないと考え、これを殺してしまった。
もうひとつ。雨の夕暮れ、作事場を通りかかった一人の豆腐売りが、お城の人柱として穴に投げ込まれ、生き埋めにされてしまった。それ以来、雨の降る夜は豆腐売りの怨霊がトーフトーフと泣き続けるのだという。
高松城
2018年3月22日
26

琴電から見える印象的な櫓、なぜお城の南東(巽)にあるのに艮(北東)櫓というのか、元は東の丸の北東の隅にあったからとのこと。昭和40年に当時の所有者であった旧国鉄から高松市が譲り受けて現在の位置に移築した。
艮櫓とともに重要文化財の櫓が月見櫓。出入りする船を監視する役目とともに、藩主が江戸から船で帰ってくるのを望み見る「着き見櫓」としての位置づけもあった。
天守の復元がなかなか進まないようだが、歴史と趣のある櫓がしっかりと存在している。
根室半島チャシ跡群
2018年6月25日
27

「アイヌの城」とされるが、チャシとは「砦・囲い」を意味するらしい。現地に立ってみるとどう想像をめぐらしてもここが城跡とはなかなか納得できない。砦や囲いなら、そうかもしれないとどうにか思える。
特に目を引く構造物がないのでかなり時代をさかのぼるのかと思いきや“築城”は16ないし18世紀のことらしい。ロシアの南下とも関係するのだろう。資料によると和人がアイヌ民族を苦しめたことに端を発する「クナシリ・メナシの戦い」とも関連しているとあった。
五稜郭
2018年6月26日
28

大砲による攻撃の死角をなくすため中世ヨーロッパで考案され発展した防御施設を幕末の日本で取り入れたお城だが、当時すでに旧式だったうえ、箱館奉行所の鐘楼が艦砲射撃の標的になってしまったなど、哀愁の漂う名城だと思う。
松前城
2018年6月27日
29

外国船の出没に備えて築城された最後の日本式城郭。しかし海からの攻撃に備えた造りだったため、戊辰戦争で旧幕府軍に背後から攻められ落城してしまった。
このお城の見どころは城内展示物だと思う。アイヌ民族の資料や、絵の才能に秀でた松前藩家老が描いたアイヌの指導者らの肖像画は目を引いた。
佐倉城
2018年8月28日
30

佐倉城のはじまりは「地元豪族の千葉氏」とあるが、続百名城「本佐倉城」を築城した中世の千葉輔胤の子孫だろうか。
それよりも近世になって大修築されていまの形になったことのほうに意味があるのだろう。徳川譜代の城で“老中の城”との異名をもつ。
鳥取城
2018年9月11日
31

鳥取城といえば「渇え殺し」。あまりにもむごい歴史がある。
見学して印象に残るのは球面石垣。てっきりこの石垣があるから天球丸というのだと思ったらそうではなく、初代藩主池田長吉の姉である天球院の居所があったからとのことだった。
昭和18年の鳥取大地震で天守台の石垣が崩壊したと公式ガイドブックにあった。最大震度6、マグニチュード7.2、そしてなんと震源の深さは0km。初めて聞いた。横ずれ断層型の内陸直下型地震だったとのこと。
月山富田城
2018年9月12日
32

戦国大名尼子氏代々の居城。尼子義久の代に毛利元就に攻められて落城した。
義久の父が“残念な死に方事典”に載っている。義久の父晴久は幼くして父親を亡くしたため、祖父の経久に育てられた。甘やかされたらしく、戦国武将としての厳しさが備わらないまま毛利元就との対決に身をおくことになった。亡霊が脳裏をめぐるなど、しだいに心が不安定になっていき、永禄3年師走の寒い夜、月に勝利を祈るため冷水を浴び続け、急性心筋梗塞で亡くなった…。
尼子氏滅亡はその5年後のことだった。
松江城
2018年9月12日
33

国宝松江城。静かで落ち着いた街に重厚な歴史の存在を感じさせる渋いお城。
お隣の鳥取県には妖怪の街があるがこちらは怪談の街といった趣がある。
慶長年間、堀尾吉春が築城の際、工事が難航したため人柱を立てることになった。家臣たちは盆踊りを一番うまく踊っていた美しい娘をさらってきて石垣の下に生き埋めにしてしまった。それからというもの、城主たちが次々と呪われ、ついにはお家断絶となった。松平氏が城主となり供養を行うと娘の亡霊は現れなくなったが、城下で盆踊りがおこなわれると城が揺れる怪現象が起こったため、盆踊りは禁止されるようになったという。
岩国城
2019年4月3日
34

岩国城といえば南蛮造の天守、一国一城令のために完成からわずか7年で破却された、昭和37年に天守を再建するとき麓から錦帯橋とのベストアングルが得られるよう実際の場所からずらした、など記憶に残りやすいエピソードがいろいろある。
一国一城令に注目してみた。それなら残されたお城はどこだったのか?なんと萩城。長門国の。※岩国城は周防国。
加賀国、能登国、越中国にまたがる前田家は金沢城と小松城を、因幡国、伯耆国にまたがる池田家は鳥取城、米子城、倉吉城を許された。毛利家の場合も、幕府は岩国城を破却する必要はなかったのに…という反応だったという。
郡山城
2019年4月4日
35

毛利元就が国人領主から戦国大名へと出世していくのに歩調を合わせるように、尾根上の一角にあったにすぎない本城が、全山に270もの曲輪をもつ要塞へと拡張していった。
現代でも歩きがいのある巨大山城。
広島城
2019年4月4日
36

毛利元就の孫輝元が、聚楽第を縄張の手本として築いたお城。
別邸の庭園である縮景園はお城から歩いて行けるところにあり、桜を眺めながらもみじまんじゅうと抹茶を味わうことができた。
揚げもみじまんじゅうもおいしかった。はっさく大福もおすすめ。長崎堂のバターケーキも最高。うにホーレンにはまだめぐり会えていないのでいつか必ず!
山中城
2019年5月16日
37

きれいに整備されているのでピクニック気分になってしまう明るいムードのある城。しかし、この城を舞台にしたいくさで2千人もの戦死者を出したと聞けば暗澹たる気分になる。
障子堀が見事な西ノ丸や本丸があるエリアから国道1号線をはさんだ南側にある岱崎出丸でその壮絶な死闘がくりひろげられた。攻める豊臣方7万、守る北条側4千による攻防は半日で勝負がついた。この戦いは戦国時代最大と言われている。
小田原城
2019年5月17日
38

北条氏の支城ネットワークの頂点に位置する城。関東一円に広がり、そこに含まれる百名城を調べると箕輪城、金山城、鉢形城、佐倉城、江戸城、川越城、山中城を挙げることができる。さらに続百名城なら沼田城、唐沢山城、忍城、滝山城、小机城、興国寺城まで含まれることがわかる。
小田原城は“土造りの城の最高到達点”と言われる鉄壁の防御構造をもって約5万の軍勢で籠城したが、豊臣秀吉の22万の大軍に囲まれ、開城することになった。
萩城
2019年6月17日
39

公式ガイドブックに明治期の姿が鮮明な写真として載っている。
盛岡市が盛岡城跡にかつてあった歴史的建造物の復元をめざしており、復元の根拠となる資料を提供してくれたら最高1000万円を支払うと呼びかけているが、萩城のこの写真のレベルなら充分1000万円なのだろうなと、下世話なことを考えてしまった。
おっと、萩城のこと。こんなに立派なのに幕末には藩庁が山口城(!?)に移されていたとか。そして明治になって廃城令により破却されたとか。
津和野城
2019年6月18日
40

山陰の小京都、津和野。
13世紀に築かれた中世山城を大規模に改築して近世山城へと変貌させた坂崎成正は津和野藩政の基礎を固めた名君とされる。
成正は大坂の陣で千姫大坂城脱出の際に活躍したが、その後千姫事件によって殺されたとか自害したとかで、坂崎家は断絶してしまった。
鉢形城
2019年7月2日
41

荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁という地形を活かした平山城。
最初に造られたのは1476年というから中世の城郭の渋さを感じる。
現在みられる規模に拡充したのは北条氏康の四男氏邦。豊臣秀吉による小田原攻めの際には北条氏の重要な支城となった。桁違いの数の敵を相手に1か月の籠城戦を戦ったのち城兵の助命を条件に開城した。
戦国時代を代表する城郭跡として国指定史跡に選定されている。
箕輪城
2019年7月2日
42

主要城主名に築城者の長野氏から始まって武田氏、織田氏、小田原北条氏と戦国時代の有力武将の名が連なり、いかにこの城を舞台にして多くの攻防がくりひろげられたかが想像できる。
最後は徳川家康の重臣井伊直政が入り、直政が高崎に移封されたあと廃城になった。
百名城スタンプが置いてある箕郷支所は、元箕郷町役場だったところ。
人吉城
2019年8月22日
43

人吉ひとよし。
「人」を含む地名はたくさんあるが「人」を含む市区町村名は「人吉」しかない。
「人」で始まる地名はいくつかあるが「人穴(ひとあな)」「人面(ひとづら)「人首(ひとかべ)」…怪しさを感じ勝手に好奇心を抱くのは私だけだろうか。
「人吉」の語源を調べると、交通の要衝であったため“舎”つまり宿があり、これを
人 吉 と読んだから、という説があった。怪しくなんてありませんでした。失礼いたしました。
鹿児島城
2019年8月23日
44

合戦の舞台になった城。1877年(明治10)の西南戦争。石垣には弾の痕が残っている。
鹿児島市内には大きな西郷隆盛像がある。
その近くにある照国神社前交差点は国道3号と国道10号の終点。
国道3号は北九州市の門司区から福岡市、熊本市など九州の西側を430キロ余り南下する。一方、国道10号は北九州市小倉北区にある国道3号ルート上にある富野口交差点を起点に大分市、宮崎市などを通って500キロ余り九州の東側を南下する。
九州の名城をクルマでまわればあちこちでお世話になる2大国道がここで再会して終点となる。
飫肥城
2019年11月5日
45

飫肥城は島津氏と伊東氏との攻防の舞台になった城。
伊東氏は長く日向国を治める戦国大名で、十一代伊東義祐の時代に絶頂を迎えた。
義祐は公家にあこがれ、豪華なお寺や邸をつくり、朝廷に献金して従三位の位を手に入れた。散財を繰り返す一方、国政はおろそかにした。
そんなとき島津氏に攻め込まれると、なすすべもなく逃げるしかなかった。
何年にもわたる放浪の末、乞食となって、さいごは浜に打ち捨てられたという。
徳島城
2020年1月28日
46

地元特産の阿波青石の石垣が雨にぬれてブルーグリーンがいっそう濃くなっていた。
豊臣秀吉から阿波国を与えられた蜂須賀家政ははじめ一宮城に入った。しかし一宮城は不便だったので、徳島城の築城にとりかかり、たった一年でできあがったという。
完成してうれしいなと踊ったのが阿波おどりのはじまり。
名護屋城
2020年10月29日
47

アクセスが難しいこんなところに当時は大都市が築かれていた。
五重七階の天守、御殿、周囲には120以上の陣屋。能や芝居や茶会が毎日、催されていた。朝鮮侵略のために。
膨大なエネルギーを費やし、あとに残されたのは破壊された石垣と政権崩壊。
平戸城
2020年10月30日
48

平戸城は平戸島にある。島は平戸大橋で本土とつながっている。鮮やかな朱色が美しい橋だ。
橋をかける計画は昭和41年に始まり、昭和48年起工式、昭和52年に供用が開始された。平成8年から平成22年まで有料化され、現在は無料。
大野城
2020年11月26日
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大野城といえば大宰府。
7世紀後半、このころ日本は白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れた。大野城は、軍事外交を主要任務とした地方行政機関である大宰府を連合軍侵攻の脅威から守る役割をもっていた。
大宰府と大野城は古代の道で結ばれており、大宰府からはさらに水城や筑紫館(のちの鴻臚館、さらには福岡城)、そして平城京へ通じる山陽道へとつながる道も延びていた。
この、山陽道へ至る道は水城の東門を通っていて、ここで大伴旅人と遊行女婦児島が歌を詠んだと…これは水城関連なのでこれ以上はやめておく。
吉野ヶ里
2020年11月27日
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縄文時代の遺物は土器や土偶など。弥生時代の遺跡からは鏡や銅鐸のほか、武器となった銅剣や銅矛が出土する。
稲作技術が広まって生産性が向上すると富が生まれ、富を得、守り、奪うために戦いが生まれるらしい。
弥生時代の遺跡である吉野ケ里には外濠、内濠があり、さらに土塁、逆茂木という、敵の侵入を防ぐ設備が整えられていた。発掘された甕棺の中には矢じりが刺さったままの人骨や激しい怪我の痕跡があるもの、首から上がないものもあったという。
佐賀城
2020年11月27日
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佐賀藩といえば鍋島家、鍋島家といえば“鍋島化け猫騒動”。
もともと佐賀藩は龍造寺家が治めていたが、龍造寺隆信が戦で亡くなったあと、後を継いだ政家が病弱だったため、国政を握ったのは重臣鍋島直茂だった。
100名城公式ガイドブックにも築城者や城主の名前の欄には鍋島某としか出ていない。
政家は隠居させられ嫡男の高房が家督を相続したものの、名目上の国主という立場に絶望して自殺を図りやがて亡くなってしまった。
そしてやがて、高房がかわいがっていた猫が化け猫となって城内に入りこみ、夜な夜な直茂を苦しめた。というお話。
福岡城
2020年11月28日
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九州最大の規模を誇り、天守台も巨大だが、天守が建てられたかどうかは不明らしい。
水戸城
2020年12月10日
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関東は土の城が主流。水戸城も。
水戸城の天守は空襲で焼失してしまった。
本丸と二の丸の間にあった空堀の跡をいまはJR水郡線が通っている。
高知城
2020年12月14日
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天守最上階の廻縁はぐるりと歩き回ることができるが、これは築城者山内一豊のおかげらしい。山内一豊はそれまで住んでいた掛川城のように高欄をめぐらそうとしたが、高欄は格式が高いからと幕府の目を恐れた家老が反対した。すったもんだはあったものの、結局、設置された。
ちなみに掛川城天守は平成6年に、高知城天守を参考に復元された。
今治城
2021年3月17日
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築城名人藤堂高虎が築いた海城。
今治城は九州と関西を結ぶ海の要衝・来島海峡を監視する役目を持っていた。
今治にある「のま果樹園」は、ミカンはもちろん“飲むゼリー”やストレートジュースも絶品。
松山城
2021年3月18日
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重要文化財21棟の迫力。
麓のロープウェー街では鯛めしを味わえるし、松山市駅の大観覧車からは市街を一望できる。
湯築城
2021年3月18日
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湯築城といえば道後温泉、道後温泉といえば万葉集であろうか。
「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
斉明天皇が、熟田津(伊予灘に面した船着き場)から戦へ向かう船を出すために潮待ちで道後温泉に滞在していた折に、お供の額田王が詠んだ歌。
大洲城
2021年11月15日
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大洲城は肱川とあるいは予讃線とのコラボが映える美しい城。
肱川には肱川あらしと呼ばれる現象がある。大洲盆地で発生した霧が肱川に沿って伊予灘へと勢いよく流れ出すもので、冬の使者とも言われている。
その昔、お殿様たちもお城から見下ろしていたのかもしれない。
宇和島城
2021年11月16日
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宇和島といえば南予地方、南予地方といえば“じゃこ天”。
おいしい。
松山空港では四国の形をしたじゃこ天が売られている。
ちなみに愛媛県の百名城5城について、今治城は東予地方に、湯築城・松山城は中予地方に、大洲城・宇和島城は南予地方に位置する。
ちなみにちなみに、愛媛県は東予、中予、南予と3つに分かれるのであって、北予とか西予といったものはない。
今帰仁城
2022年11月15日
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駐車場でクルマを降りるとなにかの音がずっとしていた。鳥だろうか、ムードづくりのBGMでも流しているのか。金属的な音にも感じた。
正体はセミだった。オオシマゼミ。8月頃から11月ぐらいまで元気に鳴いていると貼り紙がしてあった。
今帰仁城はほかのグスクに比べて古いので、まだ門がアーチ状に造られていない。ここのあとに見た中城城は見事なアーチ門だった。
中城城
2022年11月16日
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以前訪れたとき、お城の傍らに場違いな廃墟ホテルがあったと記憶していたが、なくなっていた。聞けば取り壊されたらしい。海洋博のために建てられたものだったが3年しか使われなかったとか。その後40年も廃墟として残り、ようやく数年前、行政が解体を行ったらしい。
お城では護佐丸以前の布積の、護佐丸による相方積の、そのほかもっと古い野面積の石垣が味わえた。
興味深かったのは井戸だ。井戸の水というものは湧いてくるかあるいは流れてくるかのどちらかだと思っていたが、ここでは上方から垂れてくるのだった。
太平洋戦争時の艦砲射撃による破壊のため石垣の内部が露出し、本土とは違ってぎっしり石が詰まっている様子が見学できた。
日本史でお城の石垣は信長の頃に始まると教わったが、沖縄ではそれよりずっと前から存在していた。それなのに最古の石垣は沖縄、とされないのは、当時沖縄は別の国だったからということだ。
博識で説明の上手なボランティアさんがたくさん教えてくださった。
首里城
2022年11月16日
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首里城を訪れるのは3度目だ。3年前の大火による正殿などの焼失後、初めての訪問だったが、物足りなさはまったく感じなかった。石垣の見事さ、燃えなかった多くの壮麗な門が補って余りある存在感を保っていたからだろう。正殿が復元されたらまた来なくちゃ、という宿題ができてしまった。
赤穂城
2024年6月2日
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播州赤穂駅からレンタサイクルを利用した。駅を出て右にある自転車屋さんだと、時間貸しをしてくれるのでリーズナブル。
お城のまわりを一周してみたら、びっくりするくらい広大なことがわかった。
大石神社には義士の像が並んでいた。
花岳寺の宝物館には書簡や絵画などのほか水琴窟もあった。
息つぎ井戸はちゃんと水をくみあげることができてうれしかった。近くにからくり時計があって楽しかった。
約2時間、レンタサイクル200円。
明石城
2024年6月3日
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駅のホームからの眺めが素晴らしい。
お城全体が県立公園になっていて、たくさんのりっばな樹木が見事だった。
お城は駅の北側。
南側にある商店街「魚の棚(うおんたな)」へ行ってみた。明石の食の台所とよばれているらしい。明石鯛、明石ダコをはじめ、目の前の海から捕れた魚介類などがたくさん並んでいた。
玉子焼(明石焼)のお店もあって、タコが入ったふわふわの丸い玉子焼きを美味しい出汁で味わった。
大阪城
2024年6月3日
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巨大なお城。堂々たる天守。立派な石垣。
外国人がたくさんいて、日本人はあまりいないようだった。
天守に登るのに、エレベーターはすごい行列だった。歩いて上るなら待たずにすむ。
多賀城
2024年6月27日
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国府多賀城駅を出て左に進むとすぐに館前遺跡がある。そこから北西の方向に歩いていくと復元中の南門や国宝指定が決まった多賀城碑があり、さらに北へ進むと政庁跡へと至る。
案内の看板があまり大きくないので、見落とすと迷いそうになる。
日本のお城の歴史をざっと見渡すと、弥生時代の環濠集落から始まり、飛鳥時代にヤマト政権が築いた倭国防衛のためのお城が西日本にあり、一方、東北地方には蝦夷支配のための城柵がおかれた。大伴家持は水城にも多賀城にも足跡を残している。当時の交通事情を考えるとすごいことだと思う。
仙台城
2024年6月27日
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平山城や平城が主流になりつつあった時代に山城を造った伊達政宗の真意はどこにあったのか?
それはわからないが、とにかく青葉山にあるので歩いて登城するのは大変だ。仙台駅から「るーぷる仙台」という観光バスに乗った。歩かなくて良かったと思うほどの坂だった。
市内を見下ろす眺めが抜群なのも山城だから。
帰りは歩いて下った。バスのルートではなく、工事中で車両通行止めの道を下った。修復された石垣や大手門脇櫓を見学できた。
最寄りの地下鉄駅は「国際センター前」。るーぷるはすごい混雑だったがこちらはガラガラだった。