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メンバー情報

ID8034
名前悠樹
コメント2013年から百名城巡りを始めました。歴史に関心ある悠樹です。一生をかける超長期プランでマイペースに見ていきたいと思ってます。
2020年頃から、各城の登城メモには「登城番号」「城の概要・歴史」「当日の順路」「感想・その他」を段落別に記載するようにしています。

年度別登城数
2013年 3城
2014年 8城
2015年 3城
2016年 16城
2017年 7城
2018年 16城
2019年 37城
2020年 12城
2021年 4城
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
会津若松城
2013年4月6日
百名城巡り一城目。当時大河ドラマ舞台だっただけあり賑わってました。
春日山城
2013年8月16日
二城目。糸魚川の蓮華温泉へ友人と行った際に春日山城にも寄りました。いかにもな山城という雰囲気でした。

2020.6.6再訪
上杉謙信が本拠を構えたことで有名な山城。春日山城は謙信の父為景の代から長尾家(上杉家)が城主となり、景勝の代まで戦国山城として発展を遂げた。
今回は二度目の登城。前回は春日山神社から登城しましたが、今回は大手口から向かうことにした。それなりに長い階段を登りましたが、早朝に登城を開始したので涼しく、そこまで体力を消耗せずに済んだ。この時期は毛虫が多いようで、草むらに入っての探索は止めといた。本丸付近に到着すると眺望良く、高田平野や日本海を見渡すことが出来た。
また、6月にも関わらず、草刈りをして頂いているようで、春日山城の雛壇状の曲輪がよく見て取れた。春日山城の管理の方々、感謝します。本丸から少し下ったところに、上杉謙信が出陣前に祈りを捧げた毘沙門天尊像を安置した御堂があり、お参りさせて頂きました。
山形城
2013年9月15日
三城目。山形の友人と行きました。当時本丸復元中で、いつかまた行ってみたいです。少し離れますが上山城にも行きました。
二本松城
2014年8月13日
四城目。お盆休みを利用して一気に東北の城を回ろうと思い、まず二本松城へ行きました。坂がきつく、防御が高い城でした。
仙台城
2014年8月13日
五城目。実物はないですがCG再現された天守を見ることができました。
多賀城
2014年8月14日
六城目。ロマンを感じる城でした。
盛岡城
2014年8月14日
七城目。
根城
2014年8月15日
八城目。再現された建物のセットが当時を偲ばせ感動しました。案内してくれた地元のおじさんもいい人でした。

2023.4.21再訪。
1334年に南部師行が馬淵川の河岸段丘上に築いた連郭式平城。根城は南部領の主要交通路に位置していた。師之は南朝方の北畠親房の子顕家の奥州統治に従って当地に入り、以降根城南部氏(八戸氏)の本拠として機能した。根城南部氏は、糠部地方に点在する南部氏一族でも随一の勢力を持っていた。しかし、南北朝時代の終焉と共に衰退し、次第に北朝方だった三戸南部氏の勢力が増した。そして八戸(南部)政栄の時代に豊臣秀吉の奥州仕置によって明確にその家臣格となった。1627年直義の時代に根城南部氏は伊達領との国境守備のため遠野へ移封され、廃城となった。その後八戸の中心は八戸城へ移る。
八戸市博物館→本丸→中館→東善寺館→岡前館→沢里館→八戸城
本丸に中世城郭を丸ごと復元したという、とてもロマンを感じる城。特に主殿の中は、部屋から武士が出てくるんじゃないかと雰囲気があった。博物館から本丸へ続くまっすぐな道、もともと堀だということで驚いた。イメージすると、現在と雰囲気変わる。
弘前城
2014年8月15日
九城目。この時は夏に行ってしまいましたが、いつか桜の時期にも行ってみたいです。

2023.4.21再訪。
奥州仕置や関ヶ原合戦を経て津軽領有を認められた津軽為信が、当地を治める中心地として高岡の地に築いた梯郭式平山城。着工は1603年だが、竣工は2代目信牧の時代。1628年高岡城から弘前城へ改称。当初5層の巨大天守を有していたが、1627年に落雷によって消失してしまい、その後1810年9代寧親の時代に現在も現存する独立式層塔型3層天守が建てられた。弘前城は江戸時代を通じて津軽氏の居城として機能したが、明治政府の廃城令によって役目を終えた。その後、弘前城は公園として整備され、現在は三大桜名所の一つとして知られる城郭となっている。
追手門→二の丸(南内門→未申櫓→辰巳櫓)→本丸→北の郭→二の丸(丑寅櫓→東内門)→三の丸(東門)→四の丸(北門)→西の郭→弘前城情報館
現存天守、現存三重櫓、現存門…見所が多い城郭。この日ソメイヨシノは散っていたが、本丸のヤエベニシダレは満開で、天守と併せとても良かった。本丸石垣はまだ工事中。また来たい。当日城から岩木山を眺められた。大きくて驚き。
久保田城
2014年8月16日
十城目。東北の城をこの時一気に見て回りましたが、久保田城が最後になりました。入る際に迷った記憶。
鉢形城
2014年10月25日
十一城目。秩父旅行の道中友人と三人で行きました。広い城で全て見ることができなかったのでまた行きたいです。

2020.9.5再訪
1476年に長尾景春に築かれた城郭。城主は上杉氏を経て1558年に北条氏邦が務め、上野国進出の拠点として用いられた。
鉢形城は荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘上に築かれている。特に荒川側は川幅が広く断崖絶壁で攻められる気がしない。鉢形城は東北南側を川に囲まれた要害であるが、西側は陸続きの構造となる。しかし、西側には連郭式に曲輪が築かれており、堀を幾重にも巡らせ強固な造りとなっている。現に豊臣秀吉による北条攻めでは、上杉・前田・真田連合軍(3〜5万とされる)相手に3500の兵で1か月余りも耐えきったという。凄い城ですね。
見所の一つとして復元石積土塁がある。石積土塁には裏込め石が使用されておらず、いわゆる「石垣」とは異なる技術らしい。土塁を高く積み上げ、有事には城兵がすぐに駆け上がれるように階段状になっているのが特徴。また、城内の堀や土塁はとてもよく整備されており、城郭の姿がよく見て取れる。当時の姿が想像出来て楽しいです。
一乗谷城
2015年5月3日
十二城目。かつての朝倉氏の繁栄を思うとロマン溢れる城でした。

2021.3.13再訪
応仁の乱の時代、朝倉孝景が主家斯波家を追放し、その頃越前支配の本拠として築いた城郭。一乗谷川に沿った南北に細長く形成される谷の地形が利用されており。谷内の町全体を守る構造となっている。谷の入口には城戸、周囲の山尾根には連郭式山城が築かれており、強固に敵の侵入を阻む。一乗谷城は朝倉氏の戦いの歴史(主家斯波氏との戦いや一向一揆、信長との戦い等)を経て、戦国城郭として発展を遂げたという。また、一乗谷は4代孝景の時代に全盛期に入り、文化面でも優れた発展を見せた。
前回は復元町並のみの訪問だったが、今回はまず一乗谷朝倉氏遺跡資料館に行き、その後、上城戸→諏訪館跡庭園→中の御殿跡→湯殿跡庭園→朝倉館跡→復元町並→下城戸と回った。
当時の朝倉氏の繁栄を考えると、栄枯盛衰、やはりロマン溢れる城。特に朝倉館跡周辺はワクワクした。あと資料館で見たのだが、永正の一向一揆で圧倒的な戦力差を覆す朝倉宗滴は凄すぎる。山城登城が目的の一つだったが、天候に恵まれず断念。もう一度リベンジしたい。
松江城
2015年5月4日
十三城目。友人と出雲大社と共に松江城へ行きました。
月山富田城
2015年5月4日
十四城目。時間が無くて本丸行けなかったのが口惜しい。登山。
金山城
2016年1月29日
十五城目。会社に遅い正月休みを貰い城巡り旅へ。山城。

2022.3.11再訪
金山城は、1469年に新田一族の岩松家純が重臣の横瀬国繁に命じ、金山丘陵上に築かせた連郭式山城である。家純没後は国繁の支配下となり、その後は横瀬氏(後に由良氏に改姓)が城主となった。由良成繁が城主であった戦国時代後半頃は、周辺の北条氏や上杉氏、武田氏、佐竹氏による戦禍に巻き込まれたが、それでも生き延びたという。しかし、1583年に城主国繁が北条氏に捕らわれる事件が発生し、その翌年には北条氏に開城となった。その後は北条氏の支城となるが、1590年の北条征伐の際に廃城となった。
ガイダンス施設→西城→見附出丸→西矢倉台西堀切→西矢倉台下堀切→物見台下堀切→馬場下通路→物見台→馬場曲輪→大堀切→月ノ池→大手虎口→大手虎口北下段曲輪→日ノ池→御台所曲輪→大ケヤキ→本丸→新田神社→本丸残存石垣
本当に1590年廃城なのかと思うくらい、近世城郭に匹敵しそうな石造りが特徴的であった。城内には4つの堀切があったが、よく掘ったなと感心した。城内からの眺望良く、ここから上杉武田佐竹北条の軍勢を見てたのかーと耽る。
彦根城
2016年1月31日
十六城目。城もよかったですが、ひこにゃんもよかったです!
姫路城
2016年2月1日
十七城目。

2024.2.8再訪。
姫山と鷲山が並ぶ丘陵上に築いた平山城。1333年赤松則村が姫山上に縄張りを築き小寺頼季に守らせたことを最初とする説と、1555年頃に黒田重隆・職隆父子が主君小寺政職の許しを得て御着城の出城として築いたのが最初とする説がある。1577年、織田信長の命で播磨平定に臨んだ羽柴秀吉は、傘下に入った黒田孝高から姫路城を明け渡され、近世城郭へ整備した。1582年の山崎合戦後は秀吉一族である秀長や木下家定が入城した。関ヶ原合戦後は池田輝政が播磨一国52万石の本拠として入城し、現代に残る白亜の連立式天守を完成させた。1617年池田氏は鳥取城へ転封、代わり本多忠政が入城して西の丸を整備した。その後榊原氏等城主が頻繁に入れ替わり、酒井氏の時代に明治を迎えた。そして1993年に日本初の世界文化遺産として登録され、現在に至る。
喜斎門跡→三の丸→二の丸→本丸→西の丸→大手門→好古園→姫山公園→シロトピア記念公園→県立歴史博物館→日本城郭研究センター
連立式天守も西の丸百間廊下も見応えあるわ。この時期西小天守が初の一般公開をしており、貴重な物を見ることが出来た。
和歌山城
2016年2月2日
十八城目。

2024.1.28再訪。
1585年、豊臣秀吉が紀州征伐により平定した地を統治するため、弟秀長に命じ、虎伏山の峰上に築いた平山城。普請奉行は藤堂高虎が務めた。秀長時代、城代として桑山氏が入り、秀長の家系大和豊臣氏が途絶えると、そのまま桑山氏が城主となった。1600年、桑山氏は大和新庄藩へ移封され、代わり浅野幸長が関ヶ原合戦の功で和歌山37万石の城主となり、連立式天守の建造等の大規模な改修を行った。1619年に浅野氏が広島藩へ移封となると、徳川家康十男徳川頼宣が55万石の待遇で入城。江戸時代、頼宣家系の紀州徳川氏は、徳川御三家の一つとして和歌山にて栄えた。明治となり1871年に廃城となるが天守は残り、1931年に国宝となった。しかし、1945年の和歌山大空襲で焼失。その後1958年に外観復元天守として再建され、現代に至る。
不明門→南の丸→御蔵の丸→大手門→東掘外周→岡口門→松の丸→本丸御殿→天守閣→砂の丸→西之丸庭園→二の丸→西の丸→わかやま歴史館→吹上門→追廻門→護国神社
外観復元とはいえ、天守は存在感があって良い…。紀州徳川氏に相応しい規模の城郭であった。
松阪城
2016年2月4日
十九城目。

2024.1.26再訪。
1588年、南伊勢12万石を領有する蒲生氏郷が、松ヶ島城に代わる新たな本拠地として、伊勢平野中央に位置し北側に阪内川を臨む丘陵(四五百森)上に築いた平山城。氏郷は楽市楽座を発して城下の商業を発展させ、後の松坂商人の礎を作ったが、1590年に氏郷が会津42万石へ移封となった。次いで服部氏が入城したが、1595年秀次事件に連座して自害となった。同年古田氏が入城したが、1619年に石見国浜田へ移封となった。その後、松阪は徳川頼宣の領地となり、以降江戸時代を通じて紀州藩の松坂城代が置かれた。明治時代になり松坂城は役目を終えたが、1881年に松阪公園となり、現在に至る。松坂商人の一つに現在も残る大企業三井がある。
歴史民俗資料館→二ノ丸→隠居丸→本丸下段→本丸上段→きたい丸→御城番屋敷→原田二郎旧宅→三井家発祥地
石垣の規模は流石百名城だけあり迫力がある。周辺にも歴史スポットが多くあり、そちらも見応えがある。歴史ある街って良い感じ。松阪が商人の町だったとは知らなかったが、三井家発祥地に行けて良かった。御城番屋敷も良し。前回は松阪牛食べたなあ。
岡崎城
2016年2月5日
二十城目。私は三英傑では家康好きで、この時念願叶って行くことができました。家康館もよかったです。近くの松平八代の墓がある大樹寺も行きました。大樹寺からの岡崎城は必見です!

2022.5.14再訪
1452年頃、西郷頼嗣が龍頭山上に築いた梯郭式平山城。その後松平信光によって松平氏領有となる。当初は砦程度の規模であったが、信光の玄孫清康の時代に本拠として整備された。清康死後、松平氏は今川氏の従属となるが、清康の孫徳川家康は岡崎城を拠点に独立を果たした。家康の関東移封後は田中吉政が城主となり、近世城郭として整備され、江戸時代には本多氏、水野氏等の譜代によって更に発展を遂げた。1871年に取り壊しとなるが、天守は1959年に復興され現在に至る。
大手門→二の丸→坂谷曲輪→風呂谷曲輪→風呂谷門→本丸→本丸埋門→天守→持仏堂曲輪→太鼓門→二の丸→隠居曲輪→菅生曲輪→東曲輪→東丸
前回は家康館をメインに見たので、今回は城内全域をじっくり見た。本丸を守る清海堀は深くきれいに残っていて目を引かれた。そして前回見逃した岡崎城側からのビスタラインも確認!徳川原点の城、楽しませて頂きました。
小諸城
2016年2月6日
二十一城目。
高岡城
2016年6月13日
二十二城目。
七尾城
2016年6月14日
二十三城目。
新発田城
2016年6月22日
二十四城目。
この時引っ越すことになり、最後に両親と地元の城を見に行きました。自衛隊基地だけあって日本軍関係の展示が多かったです。

2022.7.21再訪
揚北衆新発田氏の居城として築かれた輪郭・梯郭併用式の平城。平城だが周囲を湿地帯に囲まれ防御に優れている。新発田氏は御館の乱の恩賞に不満を抱き1581年に乱を起こすが、1587年に滅亡。上杉氏の会津転封後、1598年に加賀大聖寺から溝口氏が6万石大名として移る。溝口氏は上杉遺民一揆平定に尽力し、関ヶ原合戦でも東軍として行動した。以降溝口氏は江戸時代を通じて新発田城を藩庁として用いた。しかし明治維新後、城の多くの建築物が破却され、更に一部は旧陸軍省の管轄となった。現在では陸上自衛隊駐屯地と城の遺構がコントラストした名所となっている。
新発田城址公園駐車場→堀部安兵衛像→表門→辰巳櫓→旧二の丸隅櫓
まずは復元三階櫓を眺める。全国唯一の三匹鯱や海鼠壁は特徴的で良い。昔駐屯地側からも眺めたことがあるが、それも良かった記憶。現存の表門や隅櫓や切込接石垣も雰囲気あって魅力的である。壁一つ向こうの駐屯地の異世界感が凄い。
山中城
2016年8月27日
二十五城目。
引っ越し後、まずこの城へ来てみました。他では見られない障子堀が印象的でした。

2023.9.3再訪
1560年代に北条氏康が小田原城防備のため築いた山城。田方平野や駿河湾を見渡す事が出来、旧箱根街道も抑えられる要衝に位置している。1589年、豊臣秀吉との軍事的緊張が高まると、北条氏政は岱崎出丸の増築等改修を実施した。しかし、改修が完了しないまま、翌1590年に秀次率いる豊臣の大軍4万に攻撃され、苛烈に抵抗するも僅か半日で落城したという。城兵は松田康永率いる4千であった。戦後は廃城となるが、1934年に国史跡に指定、1973年以降は整備や学術調査が続けられ、現在に至る。
山中城跡案内所売店→三ノ丸堀→西ノ丸→西櫓→北ノ丸→本丸→兵糧庫→二ノ丸→元西櫓→宋閑寺→御馬場曲輪→岱崎出丸→すり鉢曲輪→売店→箱根旧街道(北条橋まで)
草刈り等の整備が施され土の城の姿がよく復元されており、特色の障子掘の姿が堪能出来た。また、自然地形を取り入れた縄張りや、水の確保への余念が無さといった、築城者の堅城への拘りが感じられた。売店では障子掘ワッフルという洒落たものが売られている。
甲府城
2016年9月18日
二十六城目。

2021.8.4再訪
甲斐国が1582年に徳川氏の領国となり、家臣の平岩親吉が甲斐の本拠として一条小山上に築いた平山城(諸説有)。その後徳川の関東移封と共に甲斐は豊臣の領国となり、豊臣秀勝や加藤光泰、浅野幸長が支配した。甲府城の主な石垣はこの時代に築かれ、近世城郭に発展した。関ケ原合戦後、甲府城は親藩大名である徳川義直、忠長、綱重、綱豊が治めていき、1704年には譜代大名柳沢氏が治めた。柳沢氏は1724年に大和郡山城に移るまで城の改修や城下町発展に大きく貢献した。その後幕府直轄領となり、明治を迎えた。
鍛冶曲輪門→坂下門石垣→武徳殿→内松陰門→銅門跡→本丸→謝恩碑→天守台→鉄門→中の門跡→天守曲輪→稲荷曲輪→稲荷櫓→庄城稲荷跡→稲荷曲輪門→石切場跡→鍛冶曲輪→遊亀橋
洗練された石の城という印象で、百名城として見応えある遺構であった。城内に石切場があったが、ふんだんに石垣を築けた理由の一つなのだろう。甲府城は自治体が積極的に門や櫓、石垣等の復元を進めているようで感心した。天守台からは甲府盆地を見渡すことが出来、眺め良し。あとこの日はとても暑かった。
武田氏館
2016年9月18日
二十七城目。友人三人と見に行きました。武田神社では武田家関連のものが多く見られます。近くのほったらかし温泉もよかったです。

2019.6.22再訪
武田神社前に新しく信玄ミュージアムという施設が出来ていました。武田信玄直筆の書状や、発掘調査で出土した軍馬の骨格が展示されていました。
小田原城
2016年9月22日
二十八城目。改修したばかりでキレイでした。

2021.5.10再訪
15世紀中頃、大森氏が足柄平野の拠点とするために丘陵上に築いた平山城。しかし、1496年に韮山城を本拠地とする伊勢宗瑞(北条早雲)によって小田原城は奪取された。2代目氏綱の代からは北条氏の本拠地として用いられた。その後中世城郭として大きく発展を遂げ、1590年の小田原合戦時には秀吉15万の大軍をもってしても力攻めを諦めた程になる。その後徳川氏の拠点となり、譜代の大久保氏や稲葉氏が城主となって、近代城郭として更なる発展を遂げた。
北条早雲像→御用米曲輪→本丸広場→常盤木門→二の丸広場→郷土文化館→銅門→馬出門→八幡山古郭東曲輪→三の丸外郭新堀土塁→小峯御鐘ノ台大堀切→稲荷森→山ノ神堀切→城下張出→蓮上院土塁→江戸口見附→早川口遺構
まずは城跡公園で近代城郭の姿となった小田原城を楽しむ。復興天守や復元門等見所が多い。そしてその後はレンタサイクルにて中世城郭の姿残る総構巡りに出発。全長9kmと言われる総構の大きさを感じることが出来た。特に北西部は総構の良好な遺構が残っていてとても楽しめた。
松本城
2016年10月22日
二十九城目。友人四人で行きました。現存天守だけあって当時を偲ばせる迫力ある城でした。
江戸城
2016年12月31日
三十城目。

2023.12.9再訪
1457年、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が、享徳の乱で対立した古河公方足利氏に対するため、台地上に築いた平山城。その後道灌を謀殺した上杉氏や、上杉氏を破った北条氏が城主となり、更に1590年の北条征伐後に豊臣秀吉の命で徳川家康が城主となった。家康は江戸城を本拠とし、未発展だった地を都市として発展させた。1603年に家康が征夷大将軍となると、幕政を行う政治の中心地となった。家康は全国の大名に天下普請を命じ、江戸城を大幅に改修させた。そして発展を続け、世界に類が無い100万人都市となった。しかし、1868年に将軍徳川慶喜は無血開城を決め、新政府軍へ明け渡す。そして東京奠都により天皇陛下がお住まいになる皇居となった。
外濠⇒内濠⇒皇居外苑⇒皇居東御苑
イカロス出版「廃城をゆく7」片手に敢えて徒歩で三十六見附を巡った。浅草見附から総構をのの字を描き歩く。途中諦めそうになったが江戸城の広さを肌で感じられて良かった。そして城内には巨大な堀、曲輪、石垣、天守台…。天下人の威光を強く感じられた。そして城とビル群、過去と現代のコントラスト。これも江戸城の魅力。
箕輪城
2017年3月4日
三十一城目。攻めづらそうな城でした。

2022.8.27再訪
1500年頃、榛名山東南麓の丘陵上において、長野氏が築いた平山城。長野氏三代業正の時代である1557年、武田信玄の西上野侵攻が開始されるが、難攻の箕輪城と業正率いる箕輪衆の力で退け続けたとされる。しかし、四代業盛の時代1566年には落城し、武田氏の支配となる。武田家滅亡後は織田家の滝川一益、北条家の北条氏邦、徳川家の井伊直政と城主が移り、特に氏邦と直政の時代に大改修されて近世城郭へと発展した。しかし、1598年に直政が居を高崎城へ移したことで役目を終え、廃城となった。
史跡箕輪城跡駐車場→搦手口→新曲輪→稲荷曲輪→丸馬出→霊置山口→(堀底を移動)→三の丸→蔵屋敷→鍛冶曲輪→虎韜門→大堀切→郭馬出→木俣→二の丸→本丸門馬出→本丸→御前曲輪→(駐車場戻り車移動)→大手口→丸戸張
堀切の規模が非常に大きく、これを掘ったと考えると驚愕する。堀切を代表する城だと感じた。郭馬出周辺等はよく整備されており、城郭の形が分かりやすくとても良かった。本丸と蔵屋敷を繋ぐ木橋は期間限定で通行可能らしい。ラッキー。
掛川城
2017年4月1日
三十二城目。

2021.12.14再訪
龍頭山上に築かれた梯郭式平山城。16世紀初頭に今川氏重臣の朝比奈氏によって遠江支配の拠点とするために掛川古城から移動する形で築城された。その今川氏は桶狭間の戦い後弱体化してしまい、1568年武田氏に本拠地の駿河を奪われると、掛川城に移ることになる。その後1569年に徳川氏との戦いで開城することになり、以後徳川重臣である石川氏が城代となった。1590年の徳川氏関東移封後は、豊臣系大名である山内氏が城主となった。江戸時代に入ると山内氏は土佐に移封され、その後は掛川城には多くの徳川譜代大名が城主を務めた。現在の天守は1621年に建築されたものを1994年に木造復元したもの。天守型は3層4階の複合式望楼型。そして二の丸御殿は1861年に建築され現存している国重要文化財である。
大手門→番所→三光稲荷→三の丸広場→四足門→三日月堀→本丸→天守丸→天守→二の丸→御殿→茶室→竹の丸。その後大日本報徳社にも立ち寄り。
現存御殿や復元天守等、見所が結構多い。御殿からは当時の風情を感じることが出来た。
白河小峰城
2017年4月15日
三十三城目。友人が白河へ引っ越した事を機会に行って来ました。現時点で一部修築中だったのが残念ですが、桜も咲いててきれいな城でした。
水戸城
2017年7月23日
三十四城目。

2024.2.17再訪。
12-13世紀初め頃、源頼朝から常陸大掾の官職を得た馬場資幹が、水戸地域支配の本拠とするため、那珂川と千波湖に囲まれた丘陵上に築いた平山城。1426年、佐竹氏家臣の江戸道房が奪い城主となる。1590年、佐竹義宣が豊臣秀吉の許可を得て江戸氏から水戸城を奪い、本拠を太田城から移して常陸国の政治経済の中心と定め、城下町を整備した。1602年、義宣は秋田へ転封となり、代わり徳川家康の子息武田信吉、徳川頼宣、徳川頼房が相次ぎ城主となった。以降頼房の家系は徳川御三家の一角となり、大日本史を編纂し水戸学の基礎を築いた徳川光圀や、幕末期に藩政改革を進め藩を立て直した烈公徳川斉昭、最後の征夷大将軍徳川慶喜を輩出した。城内の建物は、戊辰戦争や太平洋戦争等でほぼ失われ、現在城内の敷地の大半は高校等の公的機関に使用されている。
弘道館→鹿島神社→空堀→大手門→二の丸展示館→二の丸隅櫓→薬医門→黄門神社→常磐神社→偕楽園→好文亭→茨城県立歴史館
復元が進んだことと、梅の時期の偕楽園を見たかったこと、晴天を衝け放映時ハマったこともあり再訪した。快なり、快なり!
名古屋城
2017年9月16日
三十五城目。

2024.2.12再訪。
1609年、徳川家康が、9男義直の清須城に代わる居城とするため、西国大名らに天下普請を命じ築いた近世平城。その前身は、今川氏が築城し、織田信秀が簒奪して信長が継いだ那古野城である。義直の家系は、徳川御三家の筆頭として諸大名の中で最高の家格を有した。7代藩主徳川宗春は、当時享保の改革にて質素倹約を進めた徳川吉宗の政策と正反対となる、金融緩和政策を名古屋で発布して幕府と対立したことで有名。明治以降は陸軍管理となるが、1893年に宮内省管理となり名古屋離宮となる。1930年、名古屋市へ下賜され、同年旧国宝へ指定された。しかし、太平洋戦争で天守や本丸御殿等が焼失。その後天守は1959年に外観復元、本丸御殿は2018年木造復元された。現在天守の木造復元方針について論争中。
順路省略。
朝一で入城し、本丸御殿一番乗りゲット。豪華絢爛で凄い。清州櫓は現存の三重櫓で見られて良かった。もし天守が現存であれば、姫路城に匹敵する歴史遺産であったろう。天守の復元方針については、今後他の城郭の天守復元方針にも影響する重大な決断となるので、十分な吟味を願う。
岩国城
2017年11月3日
三十六城目。
福山城
2017年11月4日
三十七城目。

2022.9.18再訪
1622年、水野勝成が拠点を神辺城から移し築いた輪郭式平山城。神辺城が山城で戦国向きなのに対し、本城の立地は陸水運の要衝(現福山)が選定された。水野家石高は10万石だが、西国鎮衛の役目のため、城郭は大大名クラスの規模で造られた。神辺城や京の伏見城からの移築物が多く利用されたとされる。全国唯一の鉄板張り五重六階複合式層塔型天守は本城竣工時には築かれている。水野家の無嗣断絶後、松平時代を経て、1710年に譜代の阿部家が領する。阿部家は幕末に老中阿部正弘を輩出している。太平洋戦争時には空襲によって大多数の建築物が消失。しかし戦後復興事業にとって天守や一部櫓が再建、2022年には築城400年の節目として天守の外観復元等の事業が行われた。
順路省略
築城400周年に再訪。天守は白塗りを基調とし、鉄板張りの黒色も楽しめる二度美味しい姿となった。天守内の展示も一新され、家族連れでも楽しめる内容となった。伏見櫓は伏見城から移築されたものだが、伏見櫓は1600年の伏見城の戦いも含め、様々な災禍を生き残り、現存したと考えるととても感慨深い。オーラが違うわ。
岐阜城
2018年4月28日
三十八城目。
高島城
2018年5月1日
三十九城目。続百名城一城目。

2024.5.5再訪。
1592年、豊臣秀吉家臣日根野高吉が、諏訪湖岸の島状地形上に築いた連格式平城で、当時諏訪湖に浮かぶ様に立地した事から、日本三大湖城の一つとされた。1602年、日根野氏が下野国へ移封され、代わり関ヶ原合戦で功があった諏訪頼水が城主となった。そもそも諏訪地域は、かつて1542年に武田氏と高遠氏の連合軍に敗れた諏訪頼重の旧領であり、頼水の代で取り戻した形となる(ただし頼水は頼重の従兄弟の子)。諏訪氏は江戸時代を通じ諏訪地域を治め続け、明治を迎えた。1875年に城は破却され、翌年高島公園として開放された。その後天守の再建運動が幾度も起き、1970年に復興天守が建築され、現代に至る。
高島公園一周→角櫓→天守閣→護国神社→諏訪大社本宮→上原城→桑原城
かつて諏訪湖に接し浮城と呼ばれていたが、干拓が進み内陸の城となった。しかし、諏訪湖と高島城の写真が撮りたく桑原城から望遠で撮影(右下に高島城)。当時の姿は見たかったなあ。ちょうど大河ドラマ風林火山を見返していたので、諏訪惣領家本拠の上原城も登城。小日向さんの諏訪頼重を思い浮かべる。
杉山城
2018年5月4日
四十城目。続百名城二城目。良い山城でした。スタンプは役所の中ですが休日でも入れます。
川越城
2018年5月4日
四十一城目。百名城三十九城目。GWのため周辺が混んでて、車で行くのが大変でした。
足利氏館
2018年6月3日
四十二城目。百名城四十城目。近くの足利学校跡にも行ってみました。

2022.12.5再訪
平安時代末期に源義国と子足利義康によって築かれた平城。義康の子義兼の代では、鎌倉幕府の有力御家人となり執権北条氏から妻を迎えている。国宝鑁阿寺本堂は義兼の時代に築かれた。その後、足利氏からは室町幕府を創設した尊氏を輩出し、天下の名門となる。その後足利氏は義昭の代で織田信長によって凋落してしまう(足利氏は同下野国内で喜連川藩として存続)。しかし、鑁阿寺は足利氏一門の新田氏の子孫を称する徳川氏によって保護を受け、明治時代においても文化財として保護を受けたため、今日に寺社建築物や鎌倉武士居館縄張りの姿を残す。
鑁阿寺山門→本堂→多宝堂→鐘楼→経堂→御霊屋→大酉堂→校倉→蛭子堂→土塁に登り一周→濠外を一周(東門→北門→西門→山門)→足利学校
紅葉を過ぎた頃に訪問したが、まだその残滓を感じられた。鑁阿寺本堂を始め、城内の寺社建築物は国宝や重文が多く厳かな雰囲気。そして土塁や濠といった鎌倉城郭の姿も見所。他の城郭とは趣が異なる所もあるが、十分に楽しめた。あと、近くの足利学校も見所が多いので必見。
吉田城
2018年6月17日
四十三城目。続百名城三城目。敷地内は公園になっています。スタンプ設置箇所の鉄櫓は15時で閉まってしまうのですが、ぎりぎり間に合いました。ガイドの方の話が面白かったです。
興国寺城
2018年7月22日
四十四城目。続百名城四城目。車で入ると道が少し狭い。スタンプは城内の神社の隣に無人で置いてある。城北にある空堀が凄い。
鎌刃城
2018年8月11日
四十五城目。続百名城五城目。山城で結構歩きます。場所によっては足場が悪く、斜面に落ちそうでした。野生の鹿がいた。
安土城
2018年8月11日
四十六城目。百名城四十一城目。
階段を結構登る必要があり足に応えます。

2023.11.26再訪
1576年、天下統一を見据えた織田信長が本拠地とするため築いた山城。当時は三方を琵琶湖に囲まれ、湖上輸送に優れた立地であった。城郭全体は石垣で取り囲まれ、最高所には天守が設けられた所謂近世城郭の先駆けであった。天守は5層7階の壮大なものであったとルイス・フロイス等によって記録されている。1582年の本能寺の変後、城は明智光秀によって簒奪されるが、その後の光秀と羽柴秀吉による山崎合戦の後に焼失。出火原因は不明。以降織田信雄や秀信が入城したが、1585年に信雄が羽柴秀吉に屈し廃城となった。
石塁→大手道→伝羽柴秀吉・前田利家邸跡→黒金門跡→二の丸跡→本丸跡→天守跡→?見寺三重塔→仁王門→安土城考古博物館→安土城郭資料館
大手道が真っすぐ続く。防御に注力した戦国の城と異なり、魅せるための城の側面があると感じられた。天守台まで行くと、大きな礎石が連なって残されており、往時の天守の想像を膨らませる。三重塔は1454年建立であり、信長時代を経て現在まで残る姿はロマンを感じた。
観音寺城
2018年8月11日
四十七城目。百名城四十二城目。安土城城郭資料館という施設に安土城と観音寺城2つのスタンプが置いてあります。車で観音寺城へ行く場合は、近くの観音正寺に駐車してそこから徒歩10分強くらいです。
八幡山城
2018年8月11日
四十八城目。続百名城六城目。
小谷城
2018年8月12日
四十九城目。百名城四十三城目。小谷城戦国歴史資料館で勉強。今回は資料館のみで登城せず。いつかまた来たい。
大垣城
2018年8月12日
五十城目。続百名城七城目。天守閣内は関ヶ原関係の展示が多かったです。
上田城
2018年9月22日
五十一城目。百名城四十四城目。学生以来8年ぶりに登城。真田丸放送時に来たかった・・・。今でも大河仕様の甲冑とかが近くの観光会館で少し展示されてます。
駿府城
2018年10月7日
五十二城目。百名城四十五城目。妻と友人夫婦の4人で行きました。天守台の発掘調査を行っているそうで、その現場を見ることができます。城内の2つの櫓ではそれぞれ資料展示してて見応えありました。特に巽櫓は規模が大きくて良かった。駿府城の後、久能山東照宮も行きましたがこちらも良かったです。
忍城
2018年12月22日
五十三城目。続百名城八城目。
長篠城
2019年2月10日
五十四城目。百名城四十六城目。宇連川と豊川を利用した天然の要害。川の対岸から長篠城を眺めてみましたが、城は崖の上にありここから攻めるのはかなり難しそう。唯一地続きとなる城の北側には空堀や土塁等の遺構が残る。さすが500の兵で武田軍15000を防いだ城だと思いました。設楽原の方にも行って再現された馬防柵も見てきました。
古宮城
2019年2月10日
五十五城目。続百名城九城目。山全体に築かれた戦国の城。現在も当時の地形がよく残っていました。中は何重にも横堀や土塁が造られており、容易には侵入出来ない。スタンプは作手歴史民俗資料館で押印。城の場所は分かりにくいかもですが、資料館の人が親切に教えてくれました。近くにある亀山城にも行ってみました。
石垣山城
2019年2月20日
五十六城目。続百名城十城目。登城は3回目ですがスタンプは今回ゲット。妻と行ってみました。本丸からは史実通り小田原城を見ることが出来ます。石垣山城内の井戸曲輪には、野面積の石垣がほとんど当時のまま残っているとのことで見事でした。
佐倉城
2019年3月2日
五十七城目。百名城四十七城目。

2024.1.7再訪
北に印旛沼、西と南に鹿島側と高崎川が流れ、台地の先端部を利用し築城された平山城。元々戦国時代中期に本佐倉城主千葉親胤が鹿島幹胤に命じ築城させた中世城郭であったが、その途上で千葉氏が滅亡。1610年、後に江戸幕府大老となる土井利勝が佐倉に封じられると、江戸の東を守る要として築城を再開し、1617年に完成した。1633年に利勝が古河藩へ転封となると、以降石川氏、形原松平氏、堀田氏、大給松平氏、大久保氏、戸田氏、稲葉氏、大給松平氏と頻繁に城主が入れ替わった。1746年、堀田氏が再度城主となり、以降幕末まで定着した。その後廃城令によって破却となるが、1873年からは帝国陸軍佐倉連隊駐屯地として活用された。戦後1962年に市史跡となり、現在は佐倉城址公園として整備されている。国内最大規模を誇る国立歴史民俗博物館の地としても有名。
武家屋敷→ひよどり坂→大手門跡→佐倉城址公園センター→本丸跡→出丸跡→二の丸跡→国立歴史民俗博物館→旧堀田邸
城内には空堀が多く残っている。城周辺も歴史の見所が多い。博物館は展示数が規格外過ぎて凄い。
津城
2019年3月16日
五十八城目。続百名城十一城目。

2024.1.26再訪。
1558年頃、北畠氏傘下勢力である国人長野氏の一族細野藤光が、安濃川と岩田川に挟まれた三角州上に築いた安濃津城を起源とする説がある。その後、織田信長の伊勢侵攻を発端とした大河内城の戦いにより北畠氏が臣従すると、信長の弟信包が入城した。信包は城の拡張工事を行い1580年には近世城郭へと改修した。その後信包は秀吉に臣従し、1595年に丹波国柏原へ移封となると、代わり富田一白が入城した。一白の子信高の時代、関ヶ原合戦で東軍として参戦し、西軍30000に対し安濃津城籠城戦を繰り広げた結果、奮戦するも城は荒廃してしまう。1608年、信高は伊予国宇和島へ移封となり、代わり築城の名手として名高い藤堂高虎が入城した。高虎は終生の地として城を大改修して復興させた。以降、明治まで藤堂氏の居城となった。
東鉄門→本丸→埋門→天守台→模擬三重櫓→西鉄門→西の丸→下馬冠木門→高山神社→内堀外周
石垣が随所に残っている。野面積みや打込接ぎ等種類が豊富。西の丸が拡張されて、往時の姿ではないのは少し残念。水堀とそこに浮かぶ石垣も美しい雰囲気である。
田丸城
2019年3月16日
五十九城目。続百名城十二城目。
石垣が数多く残っていて見応えありました。天守台からの眺めも良かったです。スタンプは村山龍平記念館で押印。

2024.1.26再訪。
1336年、南朝方の北畠親房が、南朝朝廷吉野から伊勢神宮外港大湊への途上の拠点として、田丸山上に築いた平山城。1342年に足利尊氏によって落城してしまうが、伊勢国司となった多気北畠氏が伊勢志摩支配の拠点として再建し、庶流の田丸氏が入城した。田丸直昌の時代、織田信長の伊勢侵攻に伴い北畠具教の養子となった織田信雄に明け渡すことになった。1575年、信雄は田丸城を近世城郭へと改修し三層の天守を建てたが、1580年に焼失してしまう。その後、蒲生氏、稲葉氏、木下氏、関氏、藤堂氏が変わり領有し、1619年、紀州藩主徳川頼宣家老の久野宗成が城代となった。以降は久野氏が代々城代となり、明治となった1869年に廃城となった。
北の丸→本丸→二の丸→搦手門→遊歩道→蓮池→大手門→富士見門→遊歩道
平山城中心部には石垣が積まれ、その周りには土の中世城郭の雰囲気が残る二度美味しい城。模擬天守?はさておき、天守台大きい。信雄さん凄い。
滝山城
2019年3月30日
六十城目。続百名城十三城目。近くに多摩川が流れており、滝山城はその渡河地点を抑えるために建てられたそうです。滝山城本丸と中の丸からは多摩川を眺めることが出来ました。城南側から敵を迎える場合は、二の丸が重要防御地点となるらしく、二の丸には何れの虎口にも馬出が造られています。道も狭く、二の丸への侵入は難しそうでした。城北側は山の傾斜が大きく出丸も設けられており、こちらも侵入は難しそう。良い山城でした。スタンプは八王子市加住市民センターで押印。
今治城
2019年5月1日
六十一城目。百名城四十八城目。藤堂高虎が築上した城で、日本三大水城の一つ。水堀が広く防御の高さが伺えました。また、今治城は初めて枡形虎口を取り入れた城とのことで、多聞櫓ではその解説を聞くことが出来ました。天守閣も立派でした。
松山城
2019年5月1日
六十二城目。百名城四十九城目。
平山城ですが山頂までロープウェイかリフトで登ることが出来ます。GWなので結構混んでおりました。現存十二天守の一つで、天守には趣がありました。石垣は高さ14m以上の箇所もあるらしく、迫力が凄かったです。

2024.2.10再訪。
1602年、賤ケ岳七本槍の一人である加藤嘉明が、関ヶ原合戦の功で得た伊予松山20万石を支配する本拠地とするため、松山平野中央に位置する勝山上に築いた平山城。1627年、嘉明は松山城完成間近に会津へ転封となり、代わり蒲生氏郷の孫忠知が入封した。忠知は二の丸を整備するが、1634年に早世し蒲生氏は断絶した。その後1635年に松平定行が伊勢桑名から転封され、以降松平氏が明治まで松山を領すこととなった。定行の時代には連立式天守を建築するも、その後1784年9代定国の時代に落雷で焼失してしまう。しかし1854年12代勝善の時代に天守は再建され、今も現存している(現存天守として最も新しい)。松山城は天守の他も多く建築物が現存し、1950年に重要文化財として指定され現在に至る。
ロープウェー→長者ヶ平→本丸広場→天守→ロープウェー
湯築城
2019年5月1日
六十三城目。百名城では記念すべき五十城目。
歴史的遺構が多く残されており、発掘調査が続けられているらしいです。湯築城記念館や武家屋敷で発掘物やその調査内容を見ることが出来ます。山頂の展望台からは松山城を眺めることが出来ました。

2022.2.9再訪。
1335年前後頃、河野通盛が、本拠地を伊予国河野郷から同国の経済と文化の要地である道後へ移すため、松山平野の丘陵上に築いた中世平山城。河野氏は源平合戦において源氏方として功績を挙げ伊予国に領地を得た豪族である。通盛の時代には足利尊氏から伊予守護へ任じられるも、以降河野氏は阿波国守護細川頼之の介入や一族間の内紛に悩まされた。通直の時代、1535年頃に湯築城外堀を築いた。そして村上海賊来島氏との関係強化を試みたが却って来島騒動と呼ばれる軍事抗争へ発展してしまい、河野氏は衰退した。最後の当主通直の時代、長宗我部氏との戦いの最中1585年に豊臣秀吉の四国攻めが始まり、小早川隆景に降伏して開城した。その後1587年に一時福島正則が城主となるが、程なく廃城となり役目を終えた。
西部→湯築城資料館→家臣団居住区→上級武士居住区→東部→丘陵部
河後森城
2019年5月2日
六十四城目。続百名城十四城目。山城ですが1時間くらいで回ることが出来ました。本郭、古城、新城それぞれ見ましたが良い眺めでした。近くの松丸駅で地図を貰うことが出来ます。
松丸駅併設のぽっぽ温泉もリーズナブルで良かったです。
宇和島城
2019年5月2日
六十五城目。百名城五十一城目。松山城に続いて現存天守閣。天守と石垣からは歴史を感じられました。宇和島城からは宇和島港を眺めることが出来、当時港を重視していたことが伺えました。
近くの伊達博物館では伊達家について紹介されており、伊達政宗公から息子の宇和島藩主秀宗公への書状を見ることが出来ました。伊達政宗公は息子思いだったようです。
大洲城
2019年5月2日
六十六城目。百名城五十二目。天守閣は再現ですが、当時の資料に基づいて忠実に再現されてるとのことで見応えありました。大洲城には4つの櫓もありますがこちらは現存らしく、国の重要文化財に指定されています。櫓も見てみましたが良かったです。南隅櫓だけ城外(当時の三の丸)にあります。
勝瑞城
2019年5月2日
六十七城目。続百名城十五城目。

2024.1.3再訪
傍に吉野川や今切川が臨み、また当時は周囲を湿地帯が取り囲む地形に築かれた平城。築城年は諸説あるが、遅くとも15世紀後半には阿波国守護細川氏の守護所として用いられたとされる。当時勝瑞城は阿波国の政治・経済・文化の中心として大いに繁栄したという。1553年、三好実休が軍勢をもって主君細川氏之を自害させ、その子真之を傀儡として三好氏が阿波国を支配し、勝瑞城はその本拠となった。1576年、実休の子長治は真之に出奔され対立してしまい、一宮成相や長宗我部元親が真之を支援したため自害へ追込まれてしまう。その後長治に代わり十河存康が城主となるが、1582年に中富川の戦いで元親が存康を破り、勝瑞城は一月の籠城の後開城した。その後、元親によって破却され廃城となり、城下町の多くは蜂須賀家政によって徳島城へ移築され、衰退した。
勝瑞城館跡→見性寺
現在遺構はあまり残されておらず、近隣住民の公園として利用されているようだ。この地がかつて阿波国の中心だったんだなあ。引続き調査を進めて頂き、城や町並みの姿をいずれ復元してくれないかと期待している。
洲本城
2019年5月3日
六十八城目。続百名城十六城目。山上に築かれており、城からの眺めが良かったです。西の丸にある残念石が気になります。天守付近に蜂が結構いたので注意。
芥川山城
2019年5月3日
六十九城目。続百名城十七城目。芥川山城はかつて三好長慶が居城としていました。スタンプはしろあと歴史館で押印。妙に混んでると思ったら、今日から明日までジャズのイベントが開催されているようです。時間の都合で芥川山城の方には行けなかったのでいずれリベンジしたい。
要害山城
2019年6月22日
七十城目。続百名城十八城目。要害山城跡までは山道を登ります。草木が伸びて山道を阻んでいるので注意。山上の要害山城には「門跡」「主郭部」等簡単な表示板が設置されてますが地図が欲しいです。と思ってたらスタンプ設置場所の藤村記念館で貰えました。先に来るべきでしたね。要害山城主郭部には「武田信玄公誕生之地」の石碑があり感動しました。
諏訪原城
2019年7月28日
七十一城目。続百名城十九城目。かつて武田家家臣馬場信春が高天神城攻略のため築いた城郭。城内には諏訪大明神を祭った諏訪神社があり、諏訪原城の由来となっているそうです。城内には馬出が随所に見られ、特に二の曲輪の馬出は規模が大きく迫力があります。諏訪原城は馬出がある城郭の代表と言っても良いのではと思いました。今年3月に出来たばかりのビジターセンターは新しくてきれいでした。来年には諏訪原城のジオラマが設置されるそうです。城内には自動販売機は設置されていないので、この季節は飲み物を持っていった方が良さそうです。
篠山城
2019年8月11日
七十二城目。百名城五十三城目。徳川家康が豊臣秀頼の大坂城包囲と西日本の大名を夫役によって疲弊させるために築いた城郭。虎口には馬出や枡形が設けられ、石垣は高く積まれており篠山城の防御力の高さが伺える。築城の縄張り奉行があの藤堂高虎とのことで納得。城内の大書院は資料に基づいて設計・復元されたらしく、見ていて厳かな雰囲気を感じました。
黒井城
2019年8月11日
七十三城目。続百名城二十城目。明智光秀の丹波攻めの際は「丹波の赤鬼」赤井直正が城主として戦い、明智軍を一度退けた山城。保月城とも呼ばれる。山頂まで登城しましたが、山道は狭く急で、この城を攻め登るのはかなり厳しいと思いました。山頂からの眺望はとても素晴らしく、山頂に残された石垣も見られて満足です。登城の際は汗だくだくで、水分を用意していって本当に良かった。来年の大河ドラマでの赤井直正の活躍に期待。
福知山城
2019年8月12日
七十四城目。続百名城二十一城目。明智光秀が丹波平定後に、丹波を支配するため築いた城郭。明治政府の廃城令によって一度失われてしまったが、昭和に福知山市のシンボルとして天守閣含め再建された。天守閣内部は博物館になっており、展示物の中には本能寺の変〜山崎合戦の流れを絵で表したものがあって面白かった。天守閣外観は、続百名城スタンプ帳の表紙を飾るだけあり見事でした。城の一部が現在工事中で入ることが出来ず、これは残念でした。来年の大河ドラマの舞台になるので整備しているのかな。来年に向けて市のあちこちで明智光秀をプッシュしてました。
出石城・有子山城
2019年8月12日
七十五城目。続百名城二十二城目。山頂に築かれた戦国の城郭有子山城と、その政治機能を山の麓に移して築城された近世城郭出石城。有子山城の方は暑さと体力的に断念。前日の黒井城攻めの疲れが残っていた。出石城城の建物は明治期に取り壊されてしまったが、石垣や堀は残っており、模擬櫓も建てられている。城を見ながら当時の姿を想像して歩いた。城と周囲は結構賑わっていた。お盆という事で来る人も多いのか駐車場もすぐ埋まっていた。周辺には出石蕎麦の店が並んでおり、食べてみたらおいしかった。出石蕎麦の始まりは、信州上田から出石に国替になった仙石家が蕎麦職人を連れてきたからだそうです。
若桜鬼ケ城
2019年8月12日
七十六城目。続百名城二十三城目。矢部氏が築き、その後尼子氏や毛利氏、織田氏といった勢力が攻防を繰り返した山城。城として機能していた当時から播磨・但馬へ続く街道が通っており、交通の重要な拠点だったとのこと。各方面から敵が来た場合、城内からその動きを眺めることが出来そうでした。若桜鬼ヶ城は一時近世城郭として石垣の整備が進められましたが、その後一国一城令が出され廃城となり、石垣は破壊されました。城内には現在でも石垣が崩された状態を見ることが出来ます。破壊された石垣というのもこれはこれでノスタルジックで良かった。スタンプは麓の観光案内所で押しましたが、城の二の丸にもありました。
鳥取城
2019年8月13日
七十七城目。百名城五十四城目。羽柴秀吉の中国攻めの一つ、「鳥取城渇え殺し」が行われた城郭。吉川経家に「日本にかくれなき名山」と評された鳥取城は、秀吉に力攻めでなく兵糧攻めを決断させた。鳥取城開城後、時代が変わり宮部氏、池田氏によって近世城郭へと改修された。特に池田光政の時代には、32万石大名の本城として大改修が行われた。そのため鳥取城には壮大な石垣が多く建てられており、登城しながら興奮していました。全国唯一の球型石垣「天球丸・巻石垣」も見ることが出来、鳥取まで来た甲斐がありました。球型だと防御に向かない気がするのですが、平和な時代(1807年築)だったということでしょうか。時間と体力と暑さの都合で山頂の本丸に行けなかったのが心残り。
スタンプ設置箇所の仁風閣は明治時代に池田仲博建てた洋風建築でこちらも見応えありました。仁風閣は映画るろうに剣心のロケ地にもなったそうです。
小机城
2019年8月31日
七十八城目。続百名城二十四城目。長尾景春の乱の舞台の一つとなった城。小机城はそれぞれ独立した本丸と二の丸と表記された郭で構成され(実際どちらに本丸機能があったか分かっておらず、それぞれ西郭、東郭ともいう)、2つの郭はつなぎの郭を介して土橋で繋がっている。つなぎの曲輪は小机城で最も高い位置となり、城全体の監視や西郭と東郭への援護を行っていたそう。つなぎの郭に登ると、西郭や東郭へ続く道を側面から臨むことができ、ここから弓を射掛けられそうだと思いました。西郭と東郭、つなぎの郭は全体を空堀で囲み防御を高めています。小机城は構造が独特で面白い城と思いました。
今回は妻と二人で行きました。入口が分かりにくかったのでもっと案内板が欲しいです。城内は木で覆われてて涼しかったですが、蚊が多いので注意。
岩村城
2019年9月15日
七十九城目。百名城五十五城目。岩村城は1185年に築城された山城だが、その後近世城郭として改修され、城内には山の中なのに石畳や石垣が続いている。岩村城の見所である六段壁は、山の急な斜面に石垣を築く技術とのことで必見です。あと、城のあちこちでに再現CGビューアスポットがあり、スマホでQRコードを読み込むことで当時の姿を見ることが出来ます。これは歴史ロマンを感じます。
登城後、城下町にも行ってみました。昔ながらの日本住宅を見ることが出来、こちらも見応えありました。最後にワンカップの日本酒「女城主」を買い、信長の叔母「おつやの方」に思いをはせながら帰りました。
八王子城
2019年9月20日
八十城目。百名城五十六城目。北条氏照が元々拠点としていた滝山城から、更に防御性を求めて築いた山城八王子城。訪れて最初にガイダンス施設にて予習。八王子城と滝山城を比較した立体模型が展示されそれぞれ特徴が説明されていたのですが、八王子城がはより防御に優れた地形であることが分かりました。その後管理棟を通りすぎ、古道を進んで居館地区へ。御主殿曲輪の虎口は石垣や石畳が復元されているらしく立派でした。御主殿後を見学し、その後一度管理棟へ戻って今度は本丸がある要害地区へ向けて登山開始。今度は金子曲輪を経由して行きました。こちらは完全に山道で、他の方も言われてますが登山装備の方が良いです。本丸近くに視界が開けた場所があるのですが、都心方面まで眺められてとても眺めが良かった。関東平野からの敵軍の動きが見やすそうです。その後本丸まで行き、下山。登山開始から1時間強くらいで戻れました。満足しましたが、心残りは管理棟のガイドの方が既に出ていて不在だったこと。ガイドの方が一緒じゃないと見学出来ないエリアがあるので、もっと早い時間に行けば良かったなー。
大和郡山城
2019年10月19日
八十一城目。続百名城二十五城目。筒井順慶が築城し、その後豊臣秀長が大和支配の本拠地として入城した。秀長以降、大和郡山城は近世城郭に整備された。城内には規模の大きい堀や石垣が残されており、二の丸と本丸をそれぞれ一周しましたがとても見応えがありました。石垣は当時石材が乏しくなったとのことで転用石が多く使われている。天守台には石垣として用いられているお地蔵さまも確認出来る。天守台には当時天守が建てられていたそうで、どんな天守だったのか気にります。スタンプ設置場所の柳沢文庫では現在大和郡山城の発掘調査結果が展示されていて勉強になりました。あと、追手向櫓と追手門を眺める景色は雰囲気ありました。
岸和田城
2019年10月19日
八十二城目。続百名城二十六城目。楠木正成の一族の和田氏が築いたという伝承が残る城郭(実際は不明)。その後城主は移り変わり、1640年に岡部氏が入場した。岡部氏は元々駿河国の武将で、戦国時代には今川氏の家臣でした。岡部家13代目藩主長職は版籍奉還後、県知事や外務次官、貴族院議員、東京府知事、司法大臣を務めた凄い人らしい。岸和田城天守閣内は博物館になっており、岡部氏についても詳しく展示されていた。天守閣は文献によると当時5層だったらしいが、1827年に落雷で焼失。現在は3層の復興天守となります。しかし、個人的に水堀外から眺めた現天守は立派でしっくりしていた。二の丸に「二の丸多聞」と書かれた建物があり、櫓と思ったらトイレで笑った。
飯盛城
2019年10月19日
八十三城目。続百名城二十七城目。1560年に畿内支配に成功した三好長慶が居城として築いた山城。。今回は時間が無く実際に登城せず。スタンプは大東市立歴史民俗資料館で押印。2019年の調査によって飯盛城からは大量の石垣が発見されたとのこと。このことから、当時において石垣を本格的に導入した先進的な城郭だったことが伺える。なんと織田信長最初の石垣の城、小牧山城(1563年築)よりも早いらしい。資料館には飯盛城の模型が展示されており、各曲輪の配置がよく分かりました。いつかリベンジしてちゃんと登城します。
千早城
2019年10月20日
八十四城目。百名城五十七城目。1332年、楠木正成が鎌倉幕府軍に対して籠城した山城。幕府軍十一万人に対し、楠木軍は八百人だったが、千早城の防御性能と奇策によって勝利したと言われる。スタンプは金剛山麓まつまさで押印。車をそこに停めたまま山道を30分程歩き、千早城に到着した。千早城の周りは急な斜面に囲まれており、まさに要害でした。本丸には現在千早神社が建てられており、神社では楠木正成が落城させず守り抜いたことに因んだ御守りが売られており、購入しました。千早城から下山後、結構汗をかいたのでまつまさ隣の山の豆腐で豆乳アイスクリームを食べたがおいしかった。
高取城
2019年10月20日
八十五城目。百名城五十八城目。1332年に越智氏が築いた山城。その後1585年に豊臣秀長の重臣本田利久が入城し、大和郡山城の詰城として整備された。高取城周辺では「日本最強の城高取城」の旗が立っていた。最初に夢創舘へ行き、スタンプを押印。夢創舘ではCG再現された高取城が映し出されていた。夢創舘の方に高取城への行き方を相談したら親切に教えてくれた。私は車で壷阪寺を通り過ぎ、そのままずっと奥へ行って壷阪口門跡の入口付近の道に縦列駐車した。最初に本丸の方へ向かい、残された石垣から高取城の規模の大きさが伺えました。特に天守台含む本丸石垣が高く立派でした。かつて本丸には、この山の上に連立式天守が建てられていたそうです。これほど最強の城とは・・・。本丸を見た後は坂を下り、二ノ門方面へ。途中分岐して国見櫓へ行きました。国見櫓からは大和国を見渡すことが出来、眺めが良かったです。二ノ門近くには水堀と猿石があります。猿石は飛鳥時代に造られたものだそうで、この石が今までどんな光景を見てきたのか考えたら感慨深かったです。
宇陀松山城
2019年10月20日
八十六城目。続百名城二十八城目。秋山氏によって築かれ、その後1585年に豊臣秀長配下の多賀秀種が入城。畿内と東国の前線の城として整備された。この当時、大和国は大和郡山城を本拠とし、高取城と宇陀松山城を加えた3城で支配する構造となっていたそうです。
スタンプは千軒舎で押印。車で行きましたが千軒舎の駐車場が狭かったので近くの道の駅「宇陀路大宇陀」に駐車しました。宇陀松山城へは千軒舎脇の道から15分程度歩き、到着。最初に南西虎口部の連続桝形が迎えてくれました。本丸は開けており、当時本丸御殿が建てられていたそうです。さらに一段上がると天守廓があり、当時は天守が存在したと考えられているそうです。本丸からの眺めは良く、大峰山脈まで見渡すことが出来ました。また、本丸は当時総石垣だったそうで、現在もその名残が少し残っています。二の丸の方へも行きたかったですが、現在は通行止めでした。また、城下には城の大手門にあたる松山西口関門が現存で残っています。
多気北畠氏城館
2019年10月21日
八十七城目。続百名城二十九城目。宇陀松山城から伊勢本街道を通り多気北畠氏館跡へ。南北朝時代から戦国時代において、この城は伊勢国司北畠氏の本拠地として用いられた。平成9年の発掘調査では多気北畠氏館跡に石垣が見つかっており、中世城郭で使用された石垣としては全国最古(15世紀前半)と書かれていた。北畠神社に参拝し、その後北畠氏館跡庭園に向かった。この庭園は管領細川高国の作と言われており、現在にまで景観を保ったまま残っている貴重なもので国指定名勝とされています。庭園はとてもきれいでした。もうすぐ紅葉の時期になりますが、その頃はもっときれいなのでしょう。山上の霧山城への登山は雨が降りそうだったので止め、帰路につきました。
小牧山城
2019年10月21日
八十八城目。続百名城三十城目。帰路の途中で登城。1563年、織田信長が美濃攻略のため小牧山に築いた城郭。山頂の主郭部には当時先進的に石垣が築かれていた。その後の石垣を持つ近世城郭のルーツになったと言われている。現在は主郭部には石垣が一部残っており、当時の面影が感じられた。主郭部には現在模擬天守が建てられています。天守展望室からは濃尾平野を四方見渡すことが出来ました。信長が選んだ場所なだけあります。天守内では秀吉VS家康の小牧長久手の戦いについても詳しく紹介されていました。小牧山麓には「れきしるこまき」という新しい情報館が建てられていた。現在企画展示として「信長のお城絵展」をしており、信長の勝幡〜安土の歴代の城がそれぞれ特徴が分かるように描かれており面白かった。
品川台場
2019年11月3日
八十九城目。続百名城三十一城目。江戸末期、幕府が外国船から江戸湾を防衛するために築造した海上砲台。当初は11基の砲台築造が計画されたが、最終的には6基のみ完成した。現在史跡としては第三台場と第六台場が残っており、その内一般公開されているのは第三台場のみとなる。第三台場には復元ですが砲台が設置されていました。砲台に立ち、江戸湾に入り込む外国船を仮想して楽しみました。
城と関係ないですが、台場を見た後ユニコーンガンダムを見に行きました。
新府城
2019年11月24日
九十城目。続百名城三十二城目。武田勝頼が織田軍の侵攻を迎え撃つために、新たな本拠地として築いた城郭。しかし、織田軍の侵攻は勝頼の想定より早かったため、新府城は築城途中で破棄されてしまい未完成のままとなってしまう。その後の勝頼の運命は知っての通り。だが新府城は丸馬出や三日月堀等の武田流防御施設を備えており、城の東西には塩川と釜無川が流れ、天然の水堀として機能している。そして新府城が築かれている七里岩は八ヶ岳から南北に20km以上続く高さ40〜150mの巨大な岩盤帯となっており、勝頼はこの七里岩全体を長大な防御ラインにする構想を持っていたといわれる。もし新府城が構想通り完成していれば、織田軍の苦戦は必至となり歴史は別なものになっていたかもしれません。
新府城に残る遺構も良かったですが、七里岩のスケールの大きさに驚いた。
大多喜城
2020年1月18日
九十一城目。続百名城三十三城目。室町時代に武田氏、正木氏が治め、その後本多忠勝が十万石の大名として入り、近世城郭に改修させた城郭。城内には復興(一説では模擬)だが天守が建てられている。天守内は博物館になっていて、当時の武具や書状、城下町の模型等が展示されていて、入城料200円としては見応えありました。二の丸には当時御殿の裏門として使用されていた薬医門や、大井戸が残されている。ただ、現在二の丸は高校の敷地になっていて、見に入るのに躊躇しました(入りましたが…)。
近くの老舗和菓子屋で「最中十万石」という最中を購入。おいしかった。
大多喜城を見た後本佐倉城へ向かう予定でしたが、この日は寒く雪まで降ってきたので中止にした。いずれリベンジする。
唐沢山城
2020年3月7日
九十二城目。続百名城三十四城目。927年に藤原秀郷が築き、その後佐野氏が1602年に廃城とするまで治めた城郭。戦国時代においては、上杉謙信の度重なる攻城を撃退したとされる堅城。レストハウスで縄張図を貰うことが出来、これを見ながら登城しました。唐沢山の地形を上手く工夫した防御設備が随所に見られ、楽しめました。唐沢山城には関東の城郭としては珍しく石垣が築かれており、西国の技術が導入されていることから当時の佐野氏と豊臣政権の友好関係が伺えるそうです。特に本丸周囲の高石垣や本丸虎口に残る鏡石が立派で、当時の姿が偲ばれました。そして現在本丸には藤原秀郷を祀る唐澤山神社が建てられていました。あと石垣としては、北西部の土矢蔵と呼ばれるエリアにも築かれており、本丸よりも古いものとのことで、造られた経緯が気になります。あと、噂通り城内には猫がたくさんいました。
津山城
2020年3月14日
九十三城目。百名城五十九城目。1603年に森忠政が美作国を治める本城として築いた城郭。津山城は鶴山の上に築かれた平山城。城を側面から見に行くと、天然の絶壁の上に石垣が建てられており、その防御性に感心しました。そして入城後、まず三の丸への入口である表門を見ました。ここは石垣を利用した巨大な桝形構造になっており、その壮大さに感動しました。そして本丸に向けて巨大な石垣が何段も築かれている様を見て更に感動しました。津山城にはかつて4重5階地下1階の天守や77棟の櫓が建てられていた(明治の廃城令で破壊)とのことで、石垣群から当時の姿を想像して眺めてました。現存してないのが本当に残念。しかし、本丸には備中櫓が復元されており、津山城のシンボルとしてとても目を引く存在となっております。備中櫓内では、コンピューターグラフィックで再現した往時の津山城をDVDで解説してくれており、とても勉強になりました。スタンプも備中櫓内で押印。津山城は、地形や石垣の構造を見るに、とても実戦向きで防御の堅い城だと思いました。流石鬼武蔵の家系です。
玄蕃尾城
2020年3月20日
九十四城目。続百名城三十五城目。1583年に勃発した賤ヶ岳合戦において、柴田勝家が本陣を置いた陣城。玄蕃尾城は、近江から越前に繋がる北国街道を見渡せる位置に築城されている。玄蕃尾城は尾根上に複数の曲輪を構成しており、曲輪間は細い土橋を介さないと連絡出来ない。また、各曲輪は空堀に囲まれ、曲輪の縁には土塁が形成されている。特に本丸の土塁は高く、立派な虎口だったのだろうと伺える。また、城内に侵入してきた敵に対し、複数曲輪から連携して多面攻撃を行える工夫も見られた。
噂通り、陣城とは思えないほどの防御機能を持った城郭でした。何より縄張りが現在でもはっきり分かるほど整備されているのが素晴らしい。賤ヶ岳合戦において、秀吉は北国街道に防衛ラインを築き、勝家の近江侵攻を遮断したと聞くが、勝家はどのような気持ちで秀吉軍を眺めていたのだろうか。
車で米原方面から行くには、柳ケ瀬の長く狭いトンネルを抜けてすぐ右に曲がり、ひたすら林道を真っ直ぐ進むと駐車場があります。駐車場は少し狭いです。その後20分程登山すると玄蕃尾城です。
佐柿国吉城
2020年3月20日
九十五城目。続百名城三十六城目。若狭守護武田氏の家臣、栗屋勝久が1556年以前に築いたといわれる城郭。国吉城は当時、難攻不落と言われた城郭で、その堅牢さは数で圧倒的に勝る朝倉軍の攻撃に10年耐えた実績が語る。城郭は、平時に使用される麓の居館と、戦時に使用される山頂部の詰の城で構成される。そして、詰の城は二の丸、本丸、連郭式の曲輪群で構成されている。
さすが難攻不落と呼ばれるだけあって、詰めの城は高低差が激しく、登るのに苦労しました。一部の曲輪同士の移動で、ロープを手放せない場所もありました。城内からの眺望は良く、日本海や敦賀半島、美浜方面を見渡すことが出来ました。また、他にも国吉城には石垣を探す楽しみもあり、建築時代によって4種に分類される石垣が、居館跡や詰めの城で見られます。
城に行く前に若狭国義城歴史資料館に寄り、色々予習することが出来ました。なんとコロナ対策で一人一枚マスクが貰えました。
越前大野城
2020年3月21日
九十六城目。続百名城三十七城目。1575年に織田信長から大野の地を与えられた金森長近によって、亀山を利用して築かれた平山城。金森家はその後飛騨国を与えられて転封し、大野城はその後城主が移り代わって最終的に土井家が幕末まで治める。城内には当時から使用されていた野面積みの石垣や、推定復元された天守が建てられている。やはり天守のある城はいいです。残雪がある雄大な山脈を背景に眺める天守台石垣と天守は魅力的でした。
天守は3月21日現在冬季休館中。この時期スタンプは本来武家屋敷旧田村家に設置されていますが、旧田村家は現在コロナで臨時休館中。現在スタンプは、大野市観光協会に設置されています。皆さんの言う通り、スタンプのインクが薄くなっていたので、インクを補充するようにお願いしておきました。
大野城と言えば雲海ですが、今回は見れなかったのでまた来たい。
郡上八幡城
2020年3月21日
九十七城目。続百名城三十八城目。1566年に郡上を統一した遠藤慶隆が築いた城郭。
その後秀吉の時代に稲葉貞通が入り、近世城郭として改修を行った。石垣は一部修復を加えているが、当時の姿を現在も留めているとのこと。そして天守は当時の物ではなく、大垣城を参考に1933年に再建されたものだが、木造再建としては日本最古となる。
城内は、現存天守とはまた違う味のある雰囲気でした。城に来るまで知らなかったのですが、山内一豊の妻千代は、慶隆の妹という説もあるんですね。城内の展示物を見てたら功名が辻を見たくなってきました。あと、越前大野城を築城した金森家の家系の頼錦が、その後郡上八幡城城主となり、1754年の宝暦騒動を経て改易になったと知りショック。城内には3箇所撮影スポットがあり、そこから撮る天守はどれも良い感じでした。
高田城
2020年6月6日
九十八城目。続百名城三十九城目。
1614年に徳川家康六男松平忠輝の居城として築かれた城郭。高田城は天下普請によって築かれた平城で、城の規模は19万坪の広さにも関わらず、その建築期間はたった4ヵ月という。建築期間を急いだためか、近世城郭としては珍しく石垣を用いずに土造りの城となっている(近場に石の採掘所が無いことも理由らしい)。城内に残る土塁は高田城の見どころの一つとなっている。高田城の本丸には三重櫓が建てられている。平成5年に再建されたものだが、水堀に囲まれ、土塁上に君臨する三重櫓は高田城のシンボルとして立派なものである。
松平忠輝が勘当された後、高田城の城主は移り巡ることになる。最終的に徳川譜代の榊原家が治め、明治維新を迎えたという(地元なのに今回知った)。
スタンプは上越市立歴史博物館で押印。
龍岡城
2020年6月6日
九十九城目。続百名城四十城目。
江戸時代末期に建築された西洋式近代城郭。築城したのは三河奥殿藩藩主大給松平乗謨。大給松平家は元々三河に本拠として領地を持っていたが、江戸時代を通じて加増を受け、最終的に信州佐久群に本拠を超える領地を持つことになった。その後、幕末の動乱期に幕府は参勤交代政策を緩和したことで、乗謨は在国期間が増えることから、より領地の広い佐久へ本拠を移すことを幕府に願い出て、受理された。乗謨は洋学に強く関心を持っており、新たな本拠となる龍岡城の設計には西洋式築城術を取り入れた。
ついに来ました五稜郭。登城の際は、まず五稜郭であいの館に向かい、スタンプ押印と龍岡城について勉強をしました。五稜郭展望台への行き方もであいの館で知ることが出来ました。その後五稜郭を一周し、展望台へ。展望台からは龍岡城の姿をよくよく眺めることが出来ました。展望台へは車で向かいました。道が結構狭いので注意した方が良いです。
岡山城
2020年6月19日
百城目。百名城六十城目。
かつて石山と呼ばれてたこの地に宇喜多直家が入城し、その後息子の秀家が岡山城として拡張整備を行い、発展を遂げた近世城郭。宇喜多秀家が関ケ原の合戦で敗れた後、岡山城は小早川秀秋が入城し、「二十日堀」の整備等更に発展を遂げた。その後は池田家が代々城主を務め、明治維新を迎えた。明治以降も天守は現存のまま残され国宝に指定されたが、太平洋戦争時の岡山大空襲によって焼失。現在は外観復元された天守が建設されている。
半分制覇の節目の城、岡山城です。話には聞いていましたが場所によって様々な石垣積みがなされていて面白かった。岡山城内に残る月見櫓は、現存櫓では珍しい二重二階地下付きらしいです(内側から見ると三重櫓)。外観復元された黒塗りの天守は立派で格好良く、色んな角度から楽しみました。天守内は博物館になってます。岡山出身である磯田道史さんの岡山城解説映像も見ることが出来ました(全部見て30分くらい)。最後に後楽園に行き、ぼーっと庭園を眺めておりました。とても満足。
岩櫃城
2020年11月1日
百一城目。続百名城四十一城目。
築城年不明。戦国期までは斎藤氏が岩櫃城を治めていた。1563年に武田信玄が上野国へ侵攻する際、家臣真田幸隆に命じて岩櫃城を攻撃した。岩櫃城は後に「武田三名城」と呼ばれるほどの堅い山城で、幸隆相手に健闘したと言われる。幸隆の計略により落城し、その後は真田氏の拠点となる。1615年に一国一城令により廃城となり、岩櫃城の歴史の幕を閉じた。城内随所に残る竪堀が見所である。
今回は友人と四人で登城した。平沢登山口観光案内所で頂いた詳細な縄張り図を見ながら、竪堀を見て楽しんだ。潜龍院跡にも行きたかったが、時間の関係で行けなかったのでまた来たい。
余談だが、東吾妻町役場の外観が城でした。
三原城
2020年12月31日
百二城目。続百名城四十二城目。
小早川隆景が沼田川河口域の島々を繋ぎ、築いた海城。1567年に小早川水軍の砦として築かれ、その後隆景が新高山城から本拠を移した1582年頃、隆景晩年の隠居地となった1596年頃、更に福島氏の時代を経て改修され近世城郭となった。その後浅野氏の城となり明治を迎える。1894年に城内を貫通してJR三原駅が開業し、その際城郭の大部分が取り壊されたが、現在も大規模な石垣や水堀等が残っている。
年末年始は通常時と異なりスタンプは三原市役所夜間窓口にあるとのこと。最初に市役所へ行き、スタンプと地図「三原城下町を歩く」を入手。地図を参考に、本丸中門跡→舟入町櫓跡→天守台→隆景広場→刎跡と巡る。
街中を歩いていると、石垣があちこちにある。当時の三原城の規模の大きさが伺える。天守台からはかつての西国街道や城下町、詰め城桜山城に思いを馳せ楽しんだ。城の東、和久原川の流れが水刎で直角に曲げられていて、当時の技術力に感心する。そして噂通り、本当に駅と城が一体化していて、石垣の中にJRの入口があって驚いた。
福井城
2021年3月13日
百三城目。続百名城四十三城目。
結城秀康が関ケ原合戦後に越前68万石を拝領し、元々あった北ノ庄城城域を拡張して本拠地として築城された。完成は1606年。輪郭式平城で、かつては四層五階の天守があったとされる(1669年に火災で焼失)。本丸の水堀や切込接石垣は健在。本丸以外にも市街所々に城の遺跡が残る。
まずは福井県庁守衛室でスタンプを押印。県庁入口近くで「福井県庁周辺マップ」が貰えるので、それを参考に回る。ルートは結城秀康像→散策路→天守跡→福の井→山里口御門
→御廊下橋→掘割広場→福井神社。その後福井市立郷土歴史博物館と北ノ庄城にも足を延ばす。
意外と見所が多い福井城。流石家康次男の城郭で、壮大な本丸水堀や美しい切込接石垣には目を見張る。現在本丸には福井県庁が建ち、どう見てもミスマッチだが、ずっと眺めていると癖になる。山里口御門が工事中だったのだけ残念。福井神社内には、あの幕末の名君、松平春嶽公の像がある。
丸岡城
2021年3月13日
百四城目。百名城六十一城目。
柴田勝家の甥柴田勝豊が1576年に築いた平山城。安井氏、青山氏の時代を経て、江戸時代に入ると結城秀康重臣今村盛次の拠点となる。しかし、盛次は本多氏と対立して処分を受け、その後本田成重が入城し、本多氏の支配が続く。その本多氏も丸岡騒動によって1695年に改易となり、最終的に有馬氏が明治時代まで治めた。現存天守(望楼型二層三階独立式)は少し前まで日本最古1576年築とも言われていたが、近年の研究で1626(+α)年(本多成重の時代)築と特定されたという。
まずは丸岡歴史民俗資料館にて勉強。その後は天守の方に向かう。スタンプは天守の入城券売所で押印。
天守は日本最古の建築様式とされており、質素ながら力強さも感じる。天守台の石垣は野面積みだが、その配列は見事と感心。丸岡城特有の寒冷地仕様笏谷石製石瓦も良い味を出している。建築当時としても古風、しかしながら造りに拘りを感じる。流石鬼作左の息子、成重。天守を登ると周囲の平野部を見渡せ、眺めが実に良い。風が吹くと天守が揺れて結構怖い。
そういえば葵徳川三代で成重が主君松平忠直に手を焼いていたのが印象的だったなあ。
鳥越城
2021年3月14日
百五城目。続百名城四十四城目。
東に手取川、西に大日川を望み、標高312mの城山に築かれた連郭式山城。加賀は15世紀に蓮如の影響で一向宗が広まり、守護富樫氏を破って「百姓の持ちたる国」となった。1546年に尾山御坊が築かれた後は、ここを中心に一向宗が栄えることになるが、他地域は各組衆が管理していた。白山山麓は山内衆が治めていたが、信長との戦いが激化すると山内衆大将鈴木出羽守が防衛のため築いたのが鳥越城とされる。その後、一向一揆最後の拠点となるまで戦い続けたが、1582年3月に落城。百姓の国の終焉となった。
鳥越一向一揆歴史館でスタンプ押印し、鳥越城に向かう。通常は城山中腹まで車で行けるのだが、現在は山道に積雪があるので麓のスペースに駐車。その後ほぼ雪山登山状態となり麓から鳥越城まで30分程度かかった。後三の丸→後二の丸→本丸→二の丸→三の丸の順で巡る。
堀や土塁等の遺構、柵列や桝形門といった復元物があり、中世山城を堪能することが出来た。本丸からは周囲一帯を見渡せて気持ち良い。非常に楽しめた。3月現在は雪があることを踏まえた装備は必要と思われるので注意。
鮫ケ尾城
2021年9月24日
百六城目。続百名城四十五城目。
越後-信濃国境と春日山城の中間地点に築かれた連郭式山城。築城年は不明だが、上杉氏と武田氏の軍事的緊張が高まった1553年以降に、上杉氏の手によって発展を遂げた。1578年、上杉謙信が急死したことで、その養子である景勝と景虎間で御館の乱と呼ばれる後継者争いが勃発した。景虎方は、上杉憲政居館である御館に籠り景勝方と攻防を繰り返すが、やがて戦況が悪化し、景虎方の堀江宗親が城主を務める鮫ヶ尾城へ移った。しかし、戦況を覆すことは出来ず景虎はここで自刃し、鮫ヶ尾城は落城、その後人の手がつかないまま廃城となった。
斐太歴史の里総合案内所→東登城道→東一ノ丸→本丸→米蔵跡→腰曲輪→二ノ丸→三ノ丸→井戸跡→虎口→北登城道。その後、御館公園へ。
案内所で縄張り図を頂き、鮫ヶ尾城へのルートを教えて頂いた。噂の炭化米も案内所で見ることが出来た。その後は弥生時代に築かれた環濠跡も見ながら山道を進む。道中は堀切が多く見られ、かなり防衛に力を入れて築城されたことが伺えた。本丸からは、高田平野や春日山城方面を見ることが出来た。景虎の心中は如何なるものだったのか…。
美濃金山城
2022年5月14日
百七城目。続百名城四十六城目。
1537年に斎藤道三の命で斎藤大納言妙春が築いた梯郭式山城(当時名称は鳥峰城)。城郭は木曽川や中山道に臨める古城山上に築かれた。その後妙春は1548年に道三と対立する美濃国守護土岐氏一族の久々利氏によって討たれ、金山城は城主不在となる。1565年、美濃国は織田信長に攻略され、その家臣森可成が城主となり、名前は金山城に改められた。その後は森氏の鬼武蔵長可や蘭丸、忠政が城主となり、織豊城郭として発展を遂げた。1600年に忠政が川中島へ移ることになり、犬山城主石川光吉所有となるが、建物は解体され犬山城改修に用いられたと言う。そして1601年に破城された。
観光交流館→戦国山城ミュージアム→第1駐車場→出丸→三ノ丸→二ノ丸→桝形虎口→南腰曲輪→本丸→本丸桝形虎口→東腰曲輪→引返す→物見台→大堀切→つくも谷→蘭丸広場
石垣が随所に残り、その破城の様がノスタルジックであった。本丸からは木曽川を挟んで一帯の盆地を見渡せた。城内の石垣や桝形虎口の跡から、当時の城郭の発達さが窺われた。大堀切も規模が大きく見応え有り。
苗木城
2022年5月14日
百八城目。続百名城四十七城目。
1526年頃に遠山昌利によって木曽川沿いの高森山上に築かれた山城(諸説有り)で、天空の城として名高い。美濃と信濃の国境近くにあることから、織田氏と武田氏の最前線の城として機能した。本能寺の変後の1583年、城主遠山友忠は秀吉に従う事を認めなかった経緯から、当時秀吉方の森長可に攻略されてしまう。以後1600年まで森氏、河尻氏が支配することになるが、関ヶ原合戦の折に友忠の子友政が城を奪還した。以降は江戸時代を通じて遠山氏1万石の本拠となった。江戸時代、1万石クラスの大名で城持ちなのは、この苗木城を有する遠山氏のみだという。
苗木遠山資料館→足軽長屋→龍王院跡→風吹門→大矢倉→大門→御朱印蔵跡→綿蔵門→坂下門→菱櫓門→千石井戸→本丸口門→玄関口門→本丸→馬洗い岩→笠置矢倉跡→書院跡
天然の巨石と石垣の組み合わせに、目を見張る。山の上にも関わらず石垣が洗練されていて凄い。城内からは、木曽川や東美濃一帯を見渡すことが出来、良い眺めであった。本丸天守跡は絵になるなあ。大矢倉も凄い。
鬼ノ城
2022年9月21日
百九城目、百名城六十二城目。
築城年代諸説有(5-8世紀)。築城者や目的は不明。古代山陽道や瀬戸内海航路を見渡せる鬼城山上に築かれている。城郭の分類としては古代山城の神籠石系瀬戸内型である。しかし、朝鮮系城郭の技術が用いられている事から、昨今は神籠石系も朝鮮式山城と同様、663年の白村江の敗戦を発端として大和朝廷が国土防衛のため築いたとする見方が強いとの事。本城は朝鮮系城郭と同様に山頂を城壁で広大に囲む構造であり、城壁は版築土塁や高石垣で形成されている。また、本城の特徴として城壁内外に敷き詰められた「敷石」があり、他の古代山城には見られないものだという。そして鬼ノ城は8世紀頃まで機能し以後廃城となった。
鬼ノ城ビジターセンター→西門→南門→東門→屏風折れの石垣→北門→礎石建物群→鬼城山→角楼
初めて古代山城に行ってきた。今まで見てきた城郭と設計が全く異なり、新鮮だ。古代人が築き、暮らしていたと思うとロマンを感じる。眺望とてもよく、ハイキングとしてもおすすめな城郭であった。行きは総社駅からビジターセンターまでタクシー(3000円台)、帰りは服部駅まで徒歩(1時間半弱)とした。
菅谷館
2023年1月31日
百十城目。続百名城四十八城目。
都幾川に臨む台地上に築かれた複郭式平城。城は当時交通の要衝の鎌倉街道とも隣接していた。築城年や築城者は不明。ただ、鎌倉時代初期には鎌倉幕府御家人の畠山重忠が居住していた記録が吾妻鏡に残っている。重忠の死後、所領は重忠妻が相続し、そしてその再婚相手の足利義純(後の源姓畠山氏)が継いだ。その後、15世紀後半頃には山内上杉氏の所領となっており、この時代に扇谷上杉氏の河越城への抑えとして改修が進んだとのこと(諸説有)。河越夜戦以降は北条氏の所領となるが、北条時代の遺物が出土されていないため、この時代城として機能していたか物議を醸している。
嵐山史跡の博物館→搦手門跡→三ノ郭→西ノ郭→二ノ郭→畠山重忠像→南郭→本郭
菅谷館は鎌倉殿に出てた畠山重忠の居城だった聞き登城。平城ながらも、自然地形を上手く利用して防御が高いと窺えた。土塁や堀はくっきり保存されており、往時の姿を偲ばせられる。他にも三ノ郭の掘立柱建物跡位置の復元が見られる。ちなみにこの城には大手門が見当たらない。西ノ郭の虎口と考えられてきたが、鎌倉街道との位置関係で矛盾があるため、明確でないらしい。
浪岡城
2023年4月21日
百十一城目。続百名城四十九城目。
北畠顕義が1470年頃に居城として築いた平城。目的は、軍事的対立を深めた安藤氏と南部氏の仲介であったとされる。浪岡北畠氏は、南朝方有力公卿北畠親房を祖とし、奥州統治の役目を担った家柄であるため、本城は浪岡御所とも呼ばれる。浪岡城は浪岡川の段丘上の小高い地形に築かれており、複数の独立した郭が、中土塁を挟む二重堀によって区画された構造を持つ。浪岡は津軽地方の交通の要衝であったため、交易を通じて16世紀前半まで繁栄を誇ったが、1562年の川原御所の乱で一族間の争いが起きて衰退、更に顕村の時代1578年に大浦(津軽)為信によって侵攻され、落城となった。
中世の館→北館→東館→浪岡城跡案内所→猿楽館→内館→西館→新館→検校館
曲輪はそれぞれ独立していて、中土塁を挟んで連絡を取っている。曲輪間で高低差はあまり無く、まさに中世の城郭という感じ。当日、城内の桜が満開で、そちらに結構目がいってしまった(笑)。中世の館や浪岡城までは、浪岡駅のレンタサイクルを利用した。無料。しかし、津軽為信は色々酷いことをするものだ。
九戸城
2023年4月22日
百十二城目。続百名城五十城目。
1500年頃、九戸光政によって築かれた梯郭式平山城。九戸城の西は馬淵川、北は白鳥川、東は猫淵川によって囲まれ、更に西は断崖となっている天然の要害を用いた城郭である。九戸政実の時代、政実は豊臣秀吉の奥州仕置において、確執があった南部信直の家臣とされたことを不服とし、1591年に南部領へ侵攻(九戸政実の乱)。結果、惣無事令に違反したとして豊臣秀次を総大将とする奥州再仕置軍6万5千によって九戸城は取り囲まれ落城した。その後、九戸城は蒲生氏郷によって本丸・二ノ丸を中心に近世城郭へ改修され、福岡城へ改称となった。福岡城には南部信直が入城して本拠としたが、信直の孫重直が1633年に南部藩庁を盛岡城へ移したことで廃城となった。
松ノ丸跡→三ノ丸跡→二ノ丸跡→若狭館跡、石沢館跡、本丸跡(を眺める)→九戸城ガイドハウス→二戸市埋蔵文化財センター
戦国時代終焉の地。本丸の石垣は東北最古級ということで、雰囲気ある。当日時点で本丸や若狭館等立入禁止エリアはあるが、覗くことは出来た。九戸政実の人生を学んだ。落城の時の気持ちはどんなだったろう。さわやかトイレの裏は…。
赤穂城
2023年8月1日
百十三城目。百名城六十三城目。
浅野長直が熊見川河口に築いた変形輪郭式平城。瀬戸内海に面した海城でもある。縄張りを担ったのは甲州流軍学者の近藤正純であり、軍学に基づき横矢を全域に取り入れている。着工は1646年、竣工は1658年とされ、縄張りの姿は現代にも残る。なお、浅野家支配前の池田氏の時代(1600-1645年)には本格的な城郭が整備されていたと言われる。浅野家の時代は1701年に起きた殿中刃傷事件(忠臣蔵で有名)によって終焉し、以降永井家、森家が支配することになる。赤穂では江戸時代を通じて塩田開発を推進し、藩財政を支えたとされている。明治になると廃城令によって荒廃が進むが、国史跡として1923年に城内の大石邸、1955年に赤穂城自体が登録され、文化財として整備が進むことになる。
赤穂市立歴史博物館→大手門→三之丸→赤穂大石神社→二之丸(庭園から反時計回り)→本丸門→本丸→天守台
日本三大敵討ちの一つの赤穂浪士討入り、その藩士の本拠となる城。見事な石垣と、甲州軍学流縄張りが見所であった。城内はよく整備されていて、特に二之丸庭園が奇麗であった。
この日の暑さは凄まじかった…。
備中高松城
2023年11月12日
百十四城目。続百名城五十一城目。
三村氏の重臣石川久孝によって低湿地帯に築かれた梯郭式平城。築城年不明。三村氏は1575年の備中兵乱で毛利氏によって滅ぼされ、以降毛利氏方の清水宗治が城主となる。1577年、織田氏は羽柴秀吉を総大将に中国攻めを開始し、その後備前国の宇喜多氏が降ると、毛利氏は高松城を主とした備中の7つの城を防衛ラインとして対抗した。1582年、秀吉は高松城を攻撃するが、堅固なためすぐに戦略を転換。蛙ヶ鼻から足守川まで2.6kmもの堤防を12日間で築いて水攻めを行い、城を孤立させた。その後、本能寺の変を知った秀吉は高松城開城と宗治切腹を条件に毛利氏と和睦。以降は宇喜多氏家臣花房氏が城主となるが、一国一城令により廃城となった。
備中高松城址資料館⇒二の丸⇒本丸⇒首塚⇒胴塚⇒三の丸⇒自刃の地⇒石井山秀吉本陣⇒太閤岩⇒蛙ヶ鼻
清水宗治公の首塚や自刃の地が残る。城内の蓮は、昭和時代に市が沼を復元した際に地中に埋まっていたものが自然に復活したのだとか。宗治公も同じ蓮を見たと思うとロマンを感じる。堤は蛙ヶ鼻に僅かに現存。往時の姿を想像すると、これを短期間で築いた秀吉は凄まじい。
竹田城
2023年11月23日
百十五城目。百名城六十四城目。
1443年に山名宗全が嘉吉の乱で敵対した赤松氏に備えるため、家臣の太田垣氏に命じ築いた山城。但馬街道と山陰道が交差する要衝を臨み、古城山山頂一帯を縄張りとする。太田垣氏は7代に渡り城主を務めたが、織田信長の侵攻を受け1580年に開城した。その後桑山氏の時代を経て羽柴秀吉に臣従した赤松広秀が1585年より城主を務めた。秀吉は広秀に命じて竹田城を近世城郭へ改修させた。今日の竹田城が有す石垣はこの時代のもので、穴太衆技法を用いた打込接で築かれている。その後広秀は関ヶ原合戦で敗し、1600年に廃城となった。1943年に国史跡として指定され、現在に至る。
立雲峡駐車場→立雲峡テラス→山城の郷→北千畳→三の丸→二の丸→本丸→天守台→南二の丸→南千畳
前日23時から立雲峡駐車場で車中泊。祝日前日だけあり続々と車がやってくる。明朝、朝焼けと共に竹田城を眺める。残念ながら雲海はあまり出ていなかったが、その姿は壮観で2時間程眺めていた。その後山城の郷から徒歩で竹田城へ向かう。城内から眺める石垣も立派で堪能出来た。いずれ、雲海上の竹田城を眺めるべく、再訪したいと思う。
能島城
2023年12月23日
百十六城目。続百名城五十二城目。
南北朝時代、村上氏の一派である能島水軍が、瀬戸内海の芸予諸島の一つである能島に本拠地として築いた海城(他の一派には因島水軍、来島水軍がある)。島そのものが城郭であり、周囲は激しい潮流が流れ接岸が容易ではなく、天然の要害として機能した。村上氏は、各水軍が付近の海域の制海権を握り、平時には水先案内人や海上警固、海上運輸を生業とし、また戦時には各々に大内氏や毛利氏、河野氏といった大名と敵味方になって戦い、独自の勢力を築いていた。城主村上武吉の時代には、厳島の戦いや第一次・二次木津川口の戦いに臨んでいる。1588年、天下人豊臣秀吉が海賊禁止令を発すると、その役目を終えて廃城となった。以降無人島となり、現在までその城跡をよく保存している。
村上海賊ミュージアムのみ。
島を利用した海賊の城ということで、他の城とは異なる新鮮な魅力を感じた。今回突然思い立って訪問したため島上陸は無し。いずれ上陸を果たしたい。
引田城
2024年1月2日
百十七城目。続百名城五十三城目。
築城年不明。播磨灘を見渡す城山山頂に築かれた平山城。16世紀初め頃には寒川氏家臣の四宮右近が居城とした。その後三好氏の侵攻を受けてしまい、1570年に三好家臣の矢野駿河守が城主となった。しかし、三好本拠の阿波国で戦乱が始まると、1577年に駿河守は引田城から阿波国へ引き上げてしまう。その後1583年に羽柴秀吉の四国攻め先遣隊の仙谷秀久が入城するが、同年讃岐を侵攻する長宗我部元親との引田合戦に敗れ撤退。しかし四国攻め後に秀久は再度城主となった。1587年に讃岐国を与えられた生駒親正が入城し、高松城、丸亀城と共に讃岐国支配の拠点となった。この時代に引田城は石垣の城へと改修されている。その後、一国一城令によって廃城となり、役目を終えた。
讃州井筒屋敷→引田港側登山口→南二の丸→北二の丸→北曲輪→本丸→化粧池→引田鼻灯台→東の丸
城内からの海の眺望がとても良い。城内には随所に織豊時代の石垣が残っており、特に北二の丸石垣は保存が良く素晴らしい。アップダウンがあって足に来るが、見応えある城郭であった。讃州井筒屋敷には江戸時代の日本家屋が見学出来てこれも良い。
一宮城
2024年1月2日
百十八城目。続百名城五十四城目。
1338年、小笠原(一宮)長宗が居城とするため、東竜王山の尾根先端部に築いた山城。鮎喰川を濠として臨み、背後には峻険な四国山脈が控える阿波国最大規模の天然要害である。1362年に一宮氏は守護細川氏の軍門に下り、以降家臣として活躍する。阿波国が三好氏の支配となるとその家臣となるが、1576年に細川真之が三好氏と対立すると、城主一宮成相は真之へ味方した。成相と三好方の十河存康間で攻防が繰り返されるが、成相を支援した長宗我部元親が、中富川の戦いで存康を破り、更に成相を謀殺し、家臣の谷忠澄と江村親俊を城主とした。しかし、1585年に羽柴秀吉の四国攻めを始め、一宮城は羽柴秀長によって開城となった。その後、蜂須賀家政の居城となり改修が進められた。家政が徳島城へ居城を移した後は支城として機能したが、一国一城令によって1638年に廃城となった。
登山口→倉庫跡→才蔵丸→明神丸→本丸→小倉丸→椎丸→水ノ手丸→陰滝→一宮神社
堀切や竪堀といった遺構がよく残っており、中世山城の姿を堪能することが出来た。本丸には家政が築いた石垣が巡らされており、この姿も良い。
徳島城
2024年1月3日
百十九城目。百名城六十五城目。
1585年、羽柴秀吉に阿波国を与えられた蜂須賀家政によって、寺島川と助任川に囲まれた猪山の地形を利用して築かれた連格式平山城。当初、秀吉は長年軍功のある正勝(家政父)に阿波国を与えようとしたが、正勝が秀吉側近の道を希望したため息子に与えたとされる。城内は、山上の詰の城と、麓の藩政が行われる御殿に分かれた構造となっている。徳島城は江戸時代を通じて蜂須賀氏の居城として用いられ、明治時代を迎える。その後廃城令によって1875年に鷲の門を除く全建築物が破却され、1906年日露戦争戦勝記念に敷地の多くが公園として開設された。1945年には徳島大空襲によって鷲の門を焼失するも、1989年に復元され現在に至る。
徳島中央公園→御殿跡→鷲の門→西三の丸→西二の丸→本丸→東二の丸→徳島城博物館→庭園
近世城郭としての水堀、石垣の遺構がよく残されていた。石垣上には櫓跡の石碑が随所に立っており、廃城令で失われた建築物が偲ばれる。詰の城である山上にも立派な石垣が積まれており、当時の蜂須賀氏の威光が感じられた。尾張木曽川の土豪蜂須賀氏が、よくぞ出世したものだと感心。
赤木城
2024年1月27日
百二十城目。続百名城五十五城目。
1589年、藤堂高虎が、北山街道を押さえられる赤木川の北岸丘陵上に、熊野の鉱山資源や木材を産出する拠点として築いた平山城。1585年に起きた秀吉の紀州征伐や、1588年に起きた一揆鎮圧事件北山征伐で現地統治に苦心したことから、山奥にも関わらず堅牢な城郭として整備されたという。浅野氏領地時代である1614年、北山領民300人が新宮城へ侵攻するという北山一揆が起きたが失敗し、参加した領民は処刑されたと言われる。北山の地は度々一揆が起こる統治が難しい地であったが、1615年に発された一国一城令により廃城となり役目を終えた。その後城は原形を留めたまま現代に至り、貴重な遺構として国指定史跡となっている。また、この地は鉱山の町として奈良時代から1978に鉱山が閉山するまで栄えたとされる。
紀和鉱山資料館→東郭→主郭→北郭→西郭→南郭→道の駅熊野・板屋九郎兵衛の里
鉱山資料館にも赤木城の展示があり勉強になった。朝早く行って滞在中ずっと一人で見ることが出来た。このような山奥によくこれだけの石垣を築いたなあ。城関係ないけど近くの丸山千枚田、絶景なのでご一緒に。
新宮城
2024年1月27日
百二十一城目。続百名城五十六城目。
1601年、和歌山城主浅野幸長の重臣浅野忠吉によって、熊野川河口上の丘陵丹鶴山上に築城が開始された平山城。1615年に発布された一国一城令によって築城途中に一時廃城となったが、1618年に再開。しかし、1619年に忠吉が三原城へ移封。新宮には徳川頼宣の付家老水野重忠が入城し、2代重良の時代1633年に完成した。新宮城は熊野川流域で生産した備長炭を江戸等へ送る拠点になっていたといい、水ノ手曲輪には港跡や炭納屋があったとされる多数の礎石が残る。その後水野氏の支配のまま、明治時代を迎えた。新宮城は廃城令によって天守や櫓等の建築物が取り壊されたが、石垣は現在も往時の姿を残している。
阿須賀神社→歴史民俗資料館→観光案内所→南曲輪→松ノ丸→水ノ手曲輪→大手門→松ノ丸へ戻る→鐘ノ丸→本丸→天守台
資料館の方に教えて貰い、観光案内所で「国指定史跡紀伊新宮城続日本100名城」を購入。城巡りで役立った。山全体に石垣が巡らせられていて、結構規模が大きい。一通り見ると足に来る。天守台はかつて連立式天守があった。藩主の和歌山城と一緒である。熊野速水大社にも参拝した。
高遠城
2024年5月5日
百二十二城目。百名城六十六城目。
三峰川と藤沢川に挟まれた河岸段丘の突端に築かれた梯郭式平山城。築城者築城年は不明。一説には北条得宗家時行が諏訪上社大祝諏訪頼嗣と共に挙兵した大徳王寺城とされる。戦国時代初期には頼嗣の長男信員の家系の高遠氏が本拠とした。1542年、城主高遠頼継は、諏訪惣領の座を狙い、武田氏と結び諏訪へ侵攻。しかし、惣領となれず武田氏へ反旗するも敗北した。以降は武田氏拠点として山本勘助等による改修が進み、武田勝頼、仁科盛信が城主となった。1582年の織田氏による武田侵攻の際、盛信は他城の降伏が続く中、徹底抗戦したとされる。その後織田家臣毛利秀頼が入城するも、天正壬午の乱以降は武田から徳川家臣となった保科氏が城主となった。保科氏は徳川秀忠の庶子正之を養子とし後継にした。正之が出羽山形へ転封すると、以降鳥居氏、内藤氏が城主となり、明治を迎えた。
大手門→進徳館→三ノ丸→二ノ丸→本丸→南曲輪→法幢院曲輪→勘助曲輪→高遠町歴史博物館
諏訪氏は、上社と下社、上社の惣領家と大祝家への分裂と統合、大祝家子孫の高遠氏等、複雑で理解が難しい。桜シーズンの高遠城をまた見に来る予定。