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メンバー情報

ID7896
名前鈴木哲朗
コメント2016年夏に城めぐりを始めました! 探険しながら、城に関する知識も増やしていきたいです!
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
名古屋城
2016年8月23日
1城目。記念すべき最初の登城はほぼ地元の名古屋城へ。元々今川氏一族が『柳之丸』を築き、一帯を領有していたが、1532年、信長の父・信秀が『柳之丸』を奪い、『那古屋城』と称した。これが名古屋城の前身とされる。1610年、豊臣家の監視のために家康が天下普請で大規模な城門や櫓の築城を開始。家康の九男・義直が尾張徳川家の祖となり、明治維新まで代々続く。隅櫓や五層五階の大天守閣は全体的に美しく雄大。国宝第1号なのに戦災で燃えてしまったのは非常に残念だが、本丸御殿は復元が進み、在りし日の姿が戻りつつある。かつて尾張藩主の住居や藩の政庁として機能していた。障壁画や装飾金具など絢爛豪華。大天守の上にきらめく金の鯱がこの城のシンボル。
江戸城
2016年8月27日
2城目。1457年扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いたのが始まり。現在あるのは日本最大の規模を誇る徳川家の城。秀吉が関東平定後、江戸入りした家康は1603年に征夷大将軍になると江戸城の大改築に着手。1638年、家光の代で壮大な近世城郭が誕生した。しかし天守閣は明暦の大火で消失して以降再建されなかった。その天守の代わりとして機能したのが三重の富士見櫓である。皇居のとなりということで、敷地がものすごく広い上に伏見櫓・桜田巽櫓・二重橋など多くの観光スポットが存在する。天守台からは丸の内のオフィスが一望でき、都市と緑の共存ぶりが素晴らしい。
小田原城
2016年8月28日
3城目。北条早雲はじめ5代の歴史が延々と展示されてあり、非常に興味深かった。堂々たる銅門(あかがねもん)が印象的。天守閣の最上階からは海・山を含め、小田原の町が一望できる。難攻不落の城として知られ上杉や武田の侵攻を何度も退けてきた。天下統一を狙う秀吉の来襲に備え全周9kmにおよぶ総構を築くも、包囲され開城することとなり、北条氏は滅亡してしまう。その後、徳川譜代大名の大久保氏や稲葉氏が城郭の整備を行った。1686年に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末まで至る。1870年に廃城となり、その2年後までに多くの建物が解体された。
佐倉城
2016年8月30日
4城目。国立歴史民俗博物館の近くに位置し、普通の公園の中に溶け込んでいるというイメージ。石垣を使わず全て土塁で曲輪・掘割などが築造されているのが特徴。土塁の深さは意外とあり、落ちると危険な箇所も。1610年、土井利勝が入封し修築して以来、城下町が形成され、有力譜代大名が城主となった。幕末に日本を開国に導いた堀田正睦も佐倉城主であり、老中として幕府の要職についている。壮大な角馬出の空堀や土塁など保存状態が良い。本丸にはかつて三重の天守が建っていたという。
安土城
2016年9月12日
5城目。天下統一に向けて猛進する信長の城であり、国内において本格的天主の建築がここで始まったとされる。1579年に完成してからわずか3年ほどで、本能寺の変直後に焼失したものの、当時の家臣団屋敷の他、最上層の豪壮な外壁など、信長の強大な権力を伺いしれる。大手道には石段が続き、脇に伝羽柴秀吉の屋敷跡などがある。山頂には天主台礎石群があり、その近くから琵琶湖を見渡せる。
観音寺城
2016年9月12日
6城目。安土城の登城後、桑實寺(くわのみでら)を経由して本丸を目指した。想像以上に遠く、また山中、倒木だらけの悪路を通ったため、息切れしてしまった。石垣や井戸等の遺構はあるが、どことなく侘しさを感じる。山頂部は本丸の他、平井丸・落合丸・池田丸の3つの城郭跡がある。近江の守護佐々木六角氏の居城。信長が義昭を擁して上洛する際に敵対し、やがて次々と支城を落とされたため、放棄し廃城となった。
小谷城
2016年9月21日
7城目。登り途中、木が開けた所が何ヵ所かあり、そこから琵琶湖や竹生島が見えた。台風一過でぬかるみもあったが、曇っていたおかげで涼しく、気持ちよく登れた。浅井氏三代の居城で初代亮政が1522年に築いたとされる。姉川の戦いで敗北してから3年後、秀吉に攻めこまれ陥落。小谷山山頂には、小谷城より築城時代の古い大嶽(おおづく)城の跡があり、さらに清水谷北側の尾根上にある福寿丸・山崎丸などの砦を含め、城域はかなり広大である。
彦根城
2016年9月21日
8城目。国宝の天守であるだけに、外観だけでなく、内部の土塀や床から築城当時の面影を感じる。本丸・天秤櫓だけでなく、黒門付近の玄宮楽々園も美しい。国宝の割には敷地がそれほど広くないだけに、1日で数々の重要文化財を巡れた。関ヶ原の戦いで戦功をあげた井伊直政に対し家康は佐和山城を与えた。その後も豊臣家や西国大名監視のため新しい城の築城を家康が命令。直政の子である直継が移築計画を家康に申し出、1622年頃ようやく完成した。明治維新に至るまで井伊家が譜代大名筆頭として君臨した。幕末に大老になった直弼は特に有名。
岩村城
2016年9月27日
9城目。日本三大山城の一つ。1185年、源頼朝の家臣加藤景廉が遠山荘の地頭となり、その長男景朝が築城したとされる。戦国時代においては信長の叔母にあたるおつやの方が岩村城主であった遠山景任に嫁いだが、後継ぎがいないまま景任が病没したため、養子としてむかえた御坊丸のかわりに「おんな城主」として君臨した。本丸までは勾配が急な所もあるが、道は整備されてて登りやすい。途中野うさぎとも遭遇。ローカル線である明知鉄道の窓からみえる農村の風景が美しかった。
姫路城
2016年10月10日
10城目。国宝8件、重要文化財74件を誇る世界遺産の城。国宝天守の中でもやはり壮大で、ずば抜けて城内は広かった。天気も幸いさわやかな秋晴れ。大天守に輪状に連なる3つの小天守(乾小天守、西小天守、東小天守)や櫓一つ一つがとても素晴らしかった。1333年、姫山に赤松氏が築き、それ以来13氏に渡り城主を受け継いできた。西国統治のための拠点として置かれ、羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政が拡張していった。関ヶ原の戦いを終え、天守を現在の姿に大改修したのは輝政で、さらに忠政の時に三の丸や西の丸などを増築した。菱の門、「は」の門、備前丸、井戸曲輪、西の丸などから見た天守群の姿は全て異なり、景観の変化を楽しめた。
赤穂城
2016年10月10日
11城目。播州赤穂駅から南にまっすぐ歩くと、雄大な三の丸隅櫓と大手門が出迎えてくれる。海を背にした「海城」という点で珍しい。近くに大石神社もあり忠臣蔵にまつわる歴史の奥深さを感じた。1645年、常陸国笠間から入封した浅野長直が築城命令し、1661年に完成。比較的新しいほうの城郭である。縄張りは非常に珍しいことに輪郭式と梯郭式を兼ね備えた変形型。三代藩主長矩が江戸城にて刃傷事件をおこしたことで即日切腹、浅野家は断絶となった。後に大石内蔵助をはじめ赤穂義士が吉良邸に討ち入りすることになる。
明石城
2016年10月10日
12城目。明石駅の目の前に広がる威風堂々たる城。現在天守閣はないが巽櫓と坤櫓が門番のようにそびえており、いずれも現存している貴重な三重櫓。現在は公園として整備され、日々賑わいを見せている。晴天に恵まれ明石海峡大橋が綺麗に見えた。初代明石藩主小笠原忠政によって築かれた。忠政はちなみに信長と家康を曽祖父に持つ。その後、戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家と続き、最後は越前大野の松平直明が入封し、以降10代継いで廃藩置県を迎えた。
鳥取城
2016年10月19日
13城目。戦国期から江戸時代を通して増改築がなされた城で、広大な城域に各時代の遺構が残ることから「城郭の博物館」と称される。石垣を補強するために作られた国内唯一の球面石垣「天球丸」が見もの。戦国時代に久松山山頂に築かれたのが始まり。秀吉が兵糧攻めした際、吉川経家が将兵の助命を条件に自害したことで世に知られるようになった。その後宮部氏、池田氏が入り、麓の近世城郭も整備された。
松江城
2016年10月20日
14城目。駅から徒歩で宍道湖経由で登城。気持ちよく快晴だったがこの時期にしては少し暑かった。宍道湖に臨む水運の要衝に築かれた山陰地方唯一の現存天守。黒漆の下見板張で覆われている外観がこの城の威厳さを表している。1607年に初代藩主堀尾吉晴と孫の忠晴(二代藩主)が築城開始し、1611年に完成した。四重五階、地下一階の複合式望楼型という構造。江戸初期のに時代に建てられたとはいえ極めて実戦重視の城であり、石落や狭間などたくさん設けている。縄張も本丸周囲を多聞櫓で囲み、石垣や土塀も屈曲や折れを多用していることから防御性が高い。        
津山城
2016年10月21日
15城目。松江を訪れてからJR伯備線・姫新線を通って津山の町へ。さすがに山あいとあって段々肌寒くなっていった。関ヶ原の戦いで戦功をあげた森忠政が入封し、1616年に完成させた。津山盆地の中央に位置する鶴山に、総石垣でもって雛壇状に3、4段曲輪を重ねて築いた。いわゆる「一二三段」と呼ばれる構えである。城内にあった櫓の中で最大級だった備中櫓は平成17年に再建。かつて他にも六十くらいの門や櫓があり非常に堅固だった。現在は鶴山(がくざん)公園という形で整備され桜や紅葉の名所として知られる。
岡山城
2016年10月21日
16城目。旭川の西方の丘陵に建てられ後楽園と向かい合っている。1、2階部分が大きく、どっしりと構えた漆黒の望楼型天守は「烏城」の名にふさわしい。元々金光氏の居城だったが、1570年宇喜多直家に奪われた。その子秀家は1597年に大改修を行い、現在の姿のような五重六階の天守を築いた。関ヶ原の戦いの後は小早川秀秋や池田氏が入り、城を拡張して縄張を完成させる。空襲で焼失したが、昭和41年に鉄筋コンクリートで復元。屋根にも金箔瓦が葺かれている。回遊式大名庭園である後楽園から仰ぎ見る岡山城も美しい。
篠山城
2016年11月6日
17城目。冷たい風が吹きしきるなか登城。本丸にそびえたつ高石垣は勿論、平成12年に再建された大書院の装いも立派だった。家康が豊臣家の大阪城包囲と西日本の諸大名監視のため、山陰や山陽に通じる交通の要衝に築城。天下普請により工事が進められ、普請総奉行は池田輝政、縄張は藤堂高虎が担った。中心に本丸(現二の丸)と殿守丸(現本丸)を梯郭式に置き、それを二の丸(現三の丸)が輪郭式に取り囲む縄張となっている。
和歌山城
2016年11月6日
18城目。虎伏山山頂に建てられたことから別名虎伏城ともいう。徳川御三家の一つ紀伊藩の城ということで非常に格式が高い。1585年、羽柴秀長が紀ノ川と和歌川にはさまれたこの小山に城郭を築いたのが始まり。その後、関ヶ原の戦いで戦功をあげた浅野幸長が改築した。さらに、1619年に入城した家康の10男頼宣が二の丸の拡張、砂の丸・南の丸の造成などを行い、今見られる姿に仕立て上げた。三重三階の大天守と小天守・乾櫓・ニの門櫓などが多聞で結ばれた連立式天守である。惜しくも昭和20年の和歌山大空襲で焼失してしまい、現在は鉄筋コンクリート製。名勝の西之丸庭園や御橋廊下も合わせて訪問。本格的な紅葉は11月下旬頃から期待できそう。
大阪城
2016年11月28日
19城目。堀の深さ、敷地の広さ、天守の高さに至るまで圧倒的。日本人より外国人観光客の方が多く、大阪を代表する観光地であると実感した。大阪冬・夏の陣における真田幸村の戦功や秀吉に関する年表等の資料が豊富。信長に対抗していた石山本願寺の跡地を手に入れた秀吉は、全国統一の本拠地として大阪に定め、1583年に築城に着手。その約15年後、金色に輝く天守を含め城郭全体を完成させた。しかし、大阪夏の陣により焼失。1620年に徳川幕府が再建に踏み込んだ。全域にわたり盛り土や石垣の積み増し、堀の掘り下げが行われ、さらに天守閣が15mも高くなるなど、秀吉時代とは全く異質の城が出来上がった。その徳川の城も1665年の落雷で焼失。昭和6年に再建するが、またしても太平洋戦争の空襲で焼失した。平成9年の「平成の大改修」によって往時の姿が蘇った。
二条城
2016年11月28日
20城目。国宝の二の丸御殿、重要文化財の東大手門・東南隅櫓・唐門など建築物の一つ一つがとても荘厳だった。1603年家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍が上洛した際の宿泊所とするため築城。3代家光の時代、後水尾天皇行幸のため大規模な改修が行われ、二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画などが付け加えられた。かつては五重六階の天守閣もあったが現在は石垣のみ。日本史上空前の出来事として、徳川慶喜が二の丸御殿の大広間で大政奉還を表明したのはあまりにも有名。
一乗谷城
2016年12月12日
21城目。朝方冷え込みが厳しい中、JR一乗谷駅から30分ほど歩いた。足羽川の支流一乗谷川に沿って広がっている。朝倉氏遺跡は、戦国時代に朝倉氏が五代にわたり約百年間越前の国を支配した下町の跡。武家屋敷・寺院・町屋などほぼ完全な姿で発掘された。信長が西進するにあたり朝倉義景は交戦状態に入り、姉川の戦いにおいて敗北を喫する。さらに戦況が悪化すると一乗谷を放棄し、自害を余儀なくされ越前朝倉氏は滅亡。その後、越前の一向一揆を平定して、1575年柴田勝家が北ノ庄城を築城し、越前の首都機能が移転したことにより、一乗谷城は廃城となった。城そのものは一乗山という山頂に築かれている。
伊賀上野城
2016年12月19日
22城目。伊賀のシンボルとしてそびえる現在の復興天守閣は、地元選出の代議士、川崎克によって1935年に竣工した。多くの支援者の協力を得、私財をを投じて建てたのは驚き。さらに、松尾芭蕉や伊賀焼の歴史にも精通していた川崎は、芭蕉翁顕彰のため、城郭の中に俳聖殿も建てた。1585年、筒井定次が始めて近世城郭建設に着手し、三層の天守閣を設けた。1608年、定次は改易となり、天守閣は1633年頃に倒壊したとされる。藤堂高虎はその改易後に宇和島から国替えさせられ、豊臣家がいる大坂に対峙するための城として新たに築城した。高さ30mの高石垣はやはり圧巻。
松本城
2016年12月20日
23城目。個人的に国宝としては4城目。1504年に小笠原氏一族の島立貞永が築いた深志城が前身とされ、松本城への改称は1582年のこと。家康の関東移封によって、小笠原氏に代わり石川数正が松本城に入り、近世城郭の普請と城下町作りを開始した。子の康長に改修工事は受け継がれ、大天守や乾小天守、渡櫓などが完成した。連結式と複合式が組み合わさった特殊な天守群を形作っている。五重天守で現存するのは姫路城とこの松本城のみ。この日は天気に恵まれ、烏城といわれるほどの漆黒さがより照り映えたが、遠方にそびえる北アルプスは雲に隠れてしまった。周辺の旧開智学校などの遺構もおすすめ。
山形城
2016年12月21日
24城目。松本から新潟経由で在来線を乗り継いで行き、初めて山形の地へ。最上氏の祖先にあたる斯波兼頼が1357年に創築した。その後、戦国時代末期に最上義光が幾多の櫓を備え、大規模な平城に拡張した。その後に入った鳥居氏も改修を行う。三重の堀が巡らされた典型的な輪郭式で、本丸に天守はなく、二の丸を中心に防御体制をしいていた。二の丸東大手門は1991年に木造で再建。さらに本丸一文字門が石垣・大手橋等とともに平成27年までに復元整備された。霞城公園は春は桜が美しいそうだ。
仙台城
2016年12月22日
25城目。鎌倉時代創築といわれる千代城があった青葉山に伊達政宗が1600年に築城開始し、そこから2年あまりで完成させた。62万石の大名にふさわしく、当時天守は築かれなかったものの豪華な本丸御殿が建ち並んでいた。政宗死後、二の丸御殿も設け藩政の中心に。しかし、数々の貴重な建造物は明治時代に破却され、さらに1945年の空襲で焼失。現在、大手付近は大手門脇櫓のみが再建されている。本丸からは仙台の街並みを一望できる。伊達政宗像の雄姿が印象的だった。伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿も訪問。
盛岡城
2016年12月23日
26城目。仙台を巡った後在来線でひたすら北上し、途中中尊寺に寄ってから盛岡の地へ。盛岡市民の憩いの場として整備されてある。三戸から不来方の地に居城の移転を決定した南部信直が盛岡藩初代藩主。1597年、その嫡男利直を総奉行とし、築城を始めたという。豊臣家家臣の浅野長政の助言で、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵上に幾つもの曲輪を配し、それぞれ石垣を構築して内曲輪(御城内)とした。築城工事は洪水により困難を極めたが、36年かけて3代重直の代になってようやく完成を見た。明治初期は一時陸軍省所管となった。
犬山城
2017年1月5日
27城目。この城で国宝5城を制覇。別名白帝城。天気に恵まれ4階の高欄の間から愛知と岐阜を分ける木曽川を一望できた。1537年、信長の叔父である信康によって建てられた天守は現存最古の様式。中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として位置づけられる。織田家家臣の池田恒興、中川定成、豊臣家家臣の石川光吉(当の秀吉も一時城主となった)、徳川家陣営の小笠原吉次など城主はめまぐるしく変わった。最終的に1617年、成瀬正成が拝領し、以後成瀬家が幕末まで城主を務めた。
岐阜城
2017年1月5日
28城目。金華山(標高329メートル)頂上までロープウェイで移動。冬晴れに恵まれ長良川や濃尾平野が綺麗だった。斎藤道三が稲葉山城(山城部分)と城下町を作り上げ、そこに信長が美濃を攻略し、稲葉山城を岐阜城と改め居城として整備した。天下布武の印判を押した地として有名。安土城に移ってからは信長子息や一門が入る。しかし、関ヶ原の戦いで城主織田秀信が西軍につき、池田輝政に攻められ開城を余儀なくされる。その後、廃城となるも岐阜のシンボルとして再建された。信長居館入口の復興冠木門や巨大な岩石郡等、当時の信長の権威を感じ取れた。
高取城
2017年1月25日
29城目。日本三大山城の一つで、そのうち最も比高が高いことで知られる。近鉄壺阪山駅から徒歩で高取山に向かった。国見櫓跡からの大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)を含む町の眺めが良かった。高取に初めて城が築かれたのは南北朝期と言われ、地元の土豪越智氏が拠点としていた。1580年、信長が「城割」の命を発し、大和国は郡山城以外全て破却となったが、その4年後には筒井順慶が郡山城の詰めの城として高取城を定め、改修が施された。以来城主はよく代わり、羽柴秀長家臣の本多利久の時は大改修を行い、江戸期になって本多氏が断絶すると、徳川家譜代の家臣であった植村家政が高取藩初代藩主となった。以後、明治維新まで14代に渡り続くことになる。
岡崎城
2017年2月2日
30城目。家康生誕の城として有名。現在ある三層五階の復興天守は1959年に建てられた。家康は幼少の頃、今川家の人質となり他国で過ごしていたが、桶狭間の戦いで今川義元が敗死したことにより、再び岡崎城に拠点を移した。1570年、家康は本拠を浜松に移すと嫡男信康を岡崎城主にしたが、1579年に自刃。その後石川数正、本多重次を城代とした。さらに江戸幕府を開いてからは譜代大名が城主となった。本多康紀の時は井戸櫓や附櫓を持つ複合天守閣が出来上がる。城郭の拡張により東海道が城下に引き入れられ、岡崎は宿場町として繁栄するようになった。
長篠城
2017年2月2日
31城目。一時的に武田氏に服属されていたが、信玄の重篤化により武田軍は西上を取りやめ撤退。その隙をついて家康は長篠城を奪還した。武田軍の再侵攻に備え、家康は奥平貞昌を城主に任命し守備に当たらせた。1575年、武田勝頼の軍が攻め入って当城を包囲。これが「長篠の戦い」の前哨戦となる。結果、武田軍は大敗するも城の損傷は激しく、翌年貞昌は新城城に移転したことにより廃城となった。豊川と宇連川の合流した断崖上に本丸は位置し、まさに天然の要塞。昔激戦が繰り広げられた地にしてはどことなく侘しさを感じる。
鉢形城
2017年2月16日
32城目。荒川と深沢川の間に切り立った崖の上に作られ、遠方から見ると確かに攻めづらさを感じる。1476年、山内上杉氏の家臣長尾景春の築城と伝えられる。1558年から1570年にかけて北条氏邦が大規模な修築を加えた。1590年の秀吉による小田原攻めの際に当城は豊臣方の大軍に囲まれ、氏邦は城を明け渡すことになる。その後、間もなく廃城。発掘調査に基づき四脚門、四阿(あずまや)などが復元整備された。北武蔵を代表する戦国時代の平山城として注目を集めている。
川越城
2017年2月16日
33城目。1457年、上杉持朝の命で、家臣の太田道真・道灌親子が築いたといわれる。江戸時代には江戸の北の守りとして重要視され、幕府の重臣が代々城主となった。現存する建物は、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残っている。しかも、東日本唯一の本丸御殿で歴史的価値は大きい。家光が鷹狩りの際に休憩所として利用した「御成御殿」だったのではないかと考えられている。町並みも古く、土蔵や商家が立ち並び、「小江戸」の風格を帯びていた。他に富士見櫓跡、中ノ門掘跡などの遺構もある。
八王子城
2017年2月17日
34城目。京王線の高尾駅北口から、バスで霊園正門まで行き、そこから徒歩で向かった。戦国時代末期、北条氏康の三男氏照により、支城として築かれた。秀吉の関東制圧により上杉景勝軍、前田利家軍に攻撃され、一日で落城。八王子城の主力のほとんどが小田原城に向かってしまい、兵力が手薄だったところを狙われた。標高445mの深沢山山頂に位置する。山頂には要害地区、御主殿が建てられ、麓は居館地区、城下町を含む根小屋地区に分けられた。
水戸城
2017年2月18日
35城目。茨城県の代表的名勝、偕楽園と合わせて訪ねた。日本最大級の土造りの城で、石垣構築の跡すら見当たらない。元々は平安時代末から鎌倉時代初期にかけて馬場氏が館を構えていたという。1609年、徳川頼房が水戸に封じられ、水戸徳川家の居城に。2代藩主、光圀は国史『大日本史』の編纂事業に着手し、これを通じて幕末に巻き起こる尊王攘夷思想の原点ともいえる「水戸学」が形成された。水戸の象徴的存在だった三階櫓は昭和の戦災で焼失。現在は、土塁や堀、三の丸に作られた藩校弘道館や本丸薬医門(橋詰門)が残る。
足利氏館
2017年2月18日
36城目。平安時代後期に陸奥判官として活躍した源善康が最初の築城とされる。父の義国から足利荘を受け継ぎ、足利義康とも称して足利の祖となった。現在、足利氏宅跡に鑁阿寺(ばんなじ)があるが、1196年足利義廉が敷地内に持仏堂・堀内御堂を建立したのが始まり。さらに、1234年足利義氏が伽藍を整備して足利氏の氏寺となった。本堂・多宝塔・経堂・鐘楼など、これだけの国宝や重要文化財を有している点、関東においてとりわけ貴重な建造物といえる。
松阪城
2017年2月28日
37城目。石垣がかなり高く作られているが、柵がないため落ちないよう注意。快晴に恵まれ、町や海も見張らすことができた。丘陵、四五百森(よいほのもり)に築かれた平山城。1588年、秀吉によって南伊勢12万石を拝領し移封された蒲生氏郷が、3年かけて完成させた。本丸を中心に渦巻き状に曲輪を巡らせた渦郭式という縄張りを持つ。かつては天守の他、それに隣り合うように多聞をつなげて敵見櫓・金の間櫓などが配置されていた。裏門跡を出ると、石畳の両側に並んだ武家屋敷が一際目を引く。現存する江戸時代の武家屋敷の中で最大規模とのこと。
高松城
2017年3月11日
38城目。岡山からマリンライナーに乗車し、香川県へ。人生初の四国観光を満喫。またの名を玉藻城という。1587年、秀吉から讃岐一国を与えられ、生駒親正が国主として入府。その翌年から築城に着手し、数年かけて完成。以降、4代54年間に渡り、生駒氏の治世が続く。1640年、生駒氏の中で御家騒動が生じ、讃岐一国から出羽の国矢島に移された後は、常陸国下館藩主だった松平氏が移って新たに居城を構え、江戸時代の終わりまで続いた。瀬戸内海に面し、堀に海水が満ちる「海城」としての景観が綺麗だった。
徳島城
2017年3月11日
39城目。1385年に細川頼之が築城したが、その後、三好氏・長宗我部氏を経て1585年に蜂須賀家政が入り、修築を施した。家政の嫡男至鎮は家康に従って会津討伐に向かい、戦功を挙げたことから、阿波一国が与えられ徳島藩主となった。復元されたものとして、鷲の門や木橋に架け替えられた数奇屋橋がある。旧徳島城表御殿庭園、徳島城博物館、バラ園と園内は見所が多い。徳島市中央にそびえる城山が「猪山」と呼ばれるのは、形がイノシシに似ていることから。
高知城
2017年3月12日
40城目。徳島から在来線で乗り継ぎ、高知県へ。時間かかったが、四国の山あいや急峻な谷の景色をじっくり味わうことができた。関ヶ原の戦いにより戦功を挙げた山内一豊は、1601年、大高坂山に築城工事を開始し、その2年後に本丸・二の丸が完成、入城した。その優美な姿から「鷹城」の異名をもつ。1727年、大火により追手門以外の城郭ほとんどが焼失したが、1753年までに創建当時の姿で再建された。現存天守閣12城の一つであり、全国で唯一本丸全体の建造物が、江戸時代から完全な形で残っている。特に「懐徳館」という本丸御殿が貴重で、来客との正式な対面所として使われた。幕末に活躍した坂本龍馬・中岡慎太郎などの志士たちに関する展示も堪能。登城後、名勝桂浜へ向かった。
宇和島城
2017年3月13日
41城目。早朝、窪川駅から出発し、予土線をたどった。車窓からの四万十川の眺めは秘境感満載。宇和島駅に着く頃、生憎の雨だったが城の風景と重なり、それなりに風情があった。1596年頃に藤堂高虎が創建し、海に面する地形を活かした縄張りとした。1615年には伊達政宗の長男秀宗が宇和郡10万石を拝領して入城、宇和島伊達家が誕生した。さらに2代宗利の時に城を大改修し、多くの石垣や櫓を修築。現存の層塔型天守は、この宗利の手によるもの。明治に至るまで代々伊達家が継承した。城山南麓、登山口にたたずむ「上り立ち門」は国内現存の薬医門では最大規模を誇る。
大洲城
2017年3月13日
42城目。雨足が強まるなか、早足で登城した。肱川の河畔に望む木造復元天守で、すべて国産材を使用。脇にある高欄櫓と台所櫓は現存の櫓。鎌倉時代末期に守護として国入りした宇都宮豊房により築城されたといわれる。その後、宇和島城と同様、藤堂高虎によって修築され、伊予大洲藩の中心地として城下町は繁栄した。明治期に入り、城内のほとんどが破却され、1888年には老朽化に伴い天守も解体された。四層四階の天守の再構築に当たり、明治時代の古写真や「天守雛形」という江戸期の木組み模型など、資料が豊富にあったため正確に復元できた。庭園で有名な臥龍山荘は時間の都合上入館できず、外見だけ観るにとどめた。
湯築城
2017年3月14日
43城目。道後公園として整備され、道後温泉の手前に位置する。地形はほぼ円形で、中央部は30mほどの高さの丘陵地となっている。公園全域が、中世の守護河野氏の居城として、14世紀前半から約250年存続した。その長い歴史の中で、有力守護細川氏の介入や河野氏一族の内紛があったが、足利将軍家と結びつき、さらに大内・大友・毛利氏などと同盟や縁戚関係を結び、伊予の守護としての地位を堅持した。最後の当主通直は秀吉の四国攻めの際、小早川隆景に城を明け渡し、伊予支配に終止符を打った。堀や土塁など当時の姿のまま残っており、保存状態が良い。
松山城
2017年3月14日
44城目。湯築城から早足で松山城へ。松山市の中心部、標高132mの勝山にそびえ立つ。賤ヶ岳の戦いで有名な七本槍の一人、加藤嘉明が築き始めた。関ヶ原の戦いで家康に従軍し、その戦功により20万石与えられた。1603年、嘉明は城下に新居を移すと、初めて「松山」という名称が公にされた。現在ある連立式天守は1852年に再建されたものだが、昭和に入り、小天守やその他の櫓が放火や戦災等で焼失。昭和41年から総木造による復元が進められた。松山城は天守を含め、門や櫓など21もの重要文化財があり、見所が盛り沢山。天守から見る松山の街の眺めといい、とても素晴らしかった。松山市全体として「坊っちゃん」や「坂の上の雲」など名作の舞台となっているので、歴史や温泉だけでなく文学的にも富んだ街であると肌で感じた。
今治城
2017年3月14日
45城目。松山市を去るのを惜しみつつ、松山駅から乗車し再び電車で移動。夕方、今治駅に着き、徒歩で向かった。伊予半国20万石を領した藤堂高虎が海岸に築いた平城で、またしても築城の名手・高虎の名前が出た。1608年頃、建造物含め全体が完成したとされる。藤堂氏が転封されると、途中から松平氏が領主に。海水が引かれた広大な堀や、城内の港として船入を備えた日本屈指の海城となった。高虎が創建した当時の天守は、最新鋭の層塔型であったと考えられるが、現在の天守は本丸北隅櫓跡に建てられた模擬天守。
丸亀城
2017年3月15日
46城目。四国城巡りの最後は丸亀城へ。季節外れの寒さに我慢しながら登城した。現存12天守のうち最も小さい天守閣だが、高さ日本一を有する「石垣の名城」として知られ、麓から見るとその規模に圧倒される。1597年、生駒親正・一正による亀山への築城が始まり。安土城や大坂城を手本に、城郭だけでなく武家屋敷や城下町までも濠や土塁で囲んだ「総構」の手法を取っている。一国一城令により、生駒氏は高松城を残し、丸亀城を廃城としたが、その後、数々の戦功や良政を評価され、丸亀に大幅加増・転封された山崎家治が1642年から丸亀城の再築を開始し、城下町も整備した。
掛川城
2017年4月23日
47城目。室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出の足がかりとして、家臣の朝比奈氏に命じ築城した。秀吉が天下統一した1590年、山内一豊が入城し、それから10年間在城。賢明な一豊は城郭を大規模修築し、天守閣や大手門を建設するとともに、城下町の整備や治水工事に尽力した。安政の大地震で天守閣など大半が損壊したが、再建されることなく明治期に廃城。1994年、日本初の「本格木造天守閣」として往時の姿が蘇った。黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと考えられている。
駿府城
2017年4月23日
48城目。武田氏が滅亡したのをきっかけに、家康が甲斐・駿河の武田遺領を領有した。1585年、安倍川の扇状地につくられた今川氏の居館があった場所に築城を開始。浜松城からここに居城を移した。その後、秀吉が天下統一すると、秀吉の命により関東へ国替え。かわりに豊臣系大名の中村氏が入城した。江戸時代に入ると、家康が隠居のため再び入城し、大改修が行われた。現在の3重の堀を持つ輪郭式縄張りは、この時出来上がった。家康は大御所として実権を掌握し、駿府は江戸と並び政治・経済の中心地に。東御門から入り、巽櫓・紅葉山庭園・坤櫓などを散策。春霞のせいで富士山はほとんど見えなかった。
山中城
2017年4月23日
49城目。三島駅からバスで30分ほどで着く。日が暮れる前に急いで登城。石垣はなく土塁と空堀でできた土造の城だが、岱崎出丸や西櫓・西ノ丸間の障子堀が美しく、他の城では見られない景観だった。1560年代、小田原北条氏が西方に対する防備の要塞として箱根外輪山の西側斜面に築いた。さらに、尾根筋を利用して曲輪を配置し、街道も城域に取り込んだ。しかし、天下統一を進める秀吉の大軍に攻められ陥落。この時の城将松田康長、副将間宮康俊などの武将たちの墓が、三ノ丸にある宗閑寺境内にある。
千早城
2017年5月1日
50城目。金剛山への登山ルートの途上にある山城。最寄りのバス停「金剛登山口」から徒歩約2,30分くらいで本丸跡に着く。登山口からは石段が延々と続いており、千早城を攻めるのに容易でないことが体感できる。本丸には千早神社が鎮座。室町時代の軍記物『太平記』によると、楠木正成が鎌倉幕府に対して1332年に挙兵した際、上赤坂城とともに中心的な山城として重要な役割を果たし、激しい籠城戦にもかかわらず落城しなかったという。
丸岡城
2017年6月3日
51城目。6月といえど冷涼な空気に包まれ、気持ちよく登城できた。北陸唯一の現存天守であり、その現存天守の中でも最古の建築様式を誇る。別名「霞ヶ城」という名の通り、桜の名所としても知られる。1576年、一向一揆の備えとして、信長の命で柴田勝家が甥の勝豊に築かせた。二層三階の天守の屋根に葺かれているのは、笏谷石という石を加工した石製の瓦。福井市内の足羽山で採れるもので、雨に濡れるとより美しく映える特性があるという。家康の重臣である本多重次が、陣中から家族に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」の手紙が有名で、本丸への登り口にその碑がある。重次の長男、成重が越前丸岡藩の初代藩主。
高遠城
2017年6月24日
52城目。車で伊那インターから国道に沿って東進した。高遠城址公園として整備されており、園内には国の登録有形文化財に指定されてある高遠閣や城下から移築された問屋門、太鼓櫓等、歴史的建造物が豊富。草木の緑が一面を覆い、本格的な夏が近づいているように感じた。元々高遠氏が拠点としていたそうだが、築城年代は不明。武田信玄に滅ぼされてから、1547年に大改修が行われ、以後武田氏の南信濃支配の重要拠点となった。1582年、信長嫡男の信忠に攻められ、時の城主仁科五郎盛信が迎撃するも城は陥落。この高遠城の戦いで武田氏の支配が終わるきっかけとなった。
金沢城
2017年7月15日
53城目。夏の日差しが強く暑かったが、名勝兼六園も含め隈なく散策し満喫。1583年、賤ヶ岳の戦いの後に前田利家が入城し、本格的な城づくりを開始。高山右近を招き、築城の指導を仰いだとされる。1602年、落雷により天守が焼失し、さらに1759年の火災で城のほとんどが焼失した。その後も幾度か火災があったが、平成に入って菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が復元され、安政の頃の景観が再現された。城内のあらゆる壁に貼られた『なまこ壁』が一際目を引く。玉泉院丸庭園は、加賀藩三代藩主前田利常によって作庭を始められ、その後歴代の藩主により手を加えられた。饗応の場として活用された「兼六園」に比べ、藩主の内庭としての性格が強い。
高岡城
2017年7月16日
54城目。現在は城跡だが、高岡古城公園として整備され、国指定史跡や日本遺産にも選出されている。朝雨が止んでから登城。蒸し暑さが園内を満たした。加賀藩前田家二代の利長が、隠居していた富山城が1609年の大火で焼失したため、当時関野と呼ばれていた地に新しく高岡城を築いた。縄張は築城の名手でキリシタン大名である高山右近へ伝承された。入城して5年、利長は亡くなり、1615年の一国一城令で廃城に。しかし、城跡は残り、町民から「古御城」として親しまれた。水濠は全体の面積の三分の一を占め、そのほとんどが築城当時のままに残されている。
鬼ノ城
2017年9月30日
55城目。服部駅からタクシーで鬼城山ビジターセンターへ向かった。古代の文献資料がなく、謎の多い朝鮮式山城。岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼、温羅(うら)が築いたとされ、この城に住んで貢物や婦女子を略奪し、人々に恐れられたと言い伝えられている。「桃太郎」のモチーフといわれる伝説では、吉備津彦命(きびつひこのみこと)がこの温羅を退治したと言う。鬼城山はすり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦になっている。城壁は2.8kmにも及び、4箇所の門、6つの水門、角楼、高石垣など大々的に備えた。水門の設備などを見るに、先人の知恵の深さを改めて実感した。
備中松山城
2017年9月30日
56城目。標高430mの臥牛山頂上付近に建っており、現存天守を持つ城としては最も高い所にある。鎌倉時代、地頭秋庭重信が築いたのを起源とし、1683年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の姿となった。この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地だったため、戦国時代は激しい争奪戦が起き、城主交代が度々繰り返された。1575年、三村氏に代わり毛利輝元が城主となり、東方進出の拠点となった。毛利氏が関ヶ原の戦いで敗れて防長二国に退くと、江戸時代になってからは備中国奉行として赴任していた小堀正次、政一(遠州)父子により修築が行われた。幕末、徳川慶喜を補佐したのは備中松山藩主・板倉勝静。その勝静に仕えた漢学者・山田方谷は藩政改革を断行し、財政破綻しそうだった藩を立て直した。二重櫓や土塀だけでなく、峻険な岩肌の上に積まれた石垣は、他の城には見当たらないくらい荘厳。
七尾城
2018年2月3日
57城目。頂上へ登るにつれて積雪量が増し、身の危険を感じつつもなんとか本丸までたどり着いた。積雪時の山城登城は油断禁物。本丸からの七尾湾の眺めは、雪と青空を交えとても綺麗だった。能登国の守護・畠山氏が戦国時代に築いた城館跡。一帯は「城山」と呼ばれている。七つの尾根筋を中心に多数の曲輪を連ねたことが名前の由来となった。1577年、上杉謙信の攻撃に合い落城し、169年にわたる畠山氏の領国支配が終わった。その後は上杉氏が入り、1581年には信長から能登一国を与えられた前田利家が入城。港に近い小丸山で新たに築城することにより、七尾城は城としての機能を失った。
福岡城
2018年5月1日
58城目。九州城攻めの第一歩は福岡城へ。大濠公園も合わせて訪ね、池に浮かぶ「中の島」の景色に感動。豊前国中津から筑前国福岡(52万石)に移封された初代藩主黒田長政が1601年に築城開始し、7年程かけて完成した。平山城で、天守閣はなく過去建てられた時期があったかどうかも不明。大中小の各天守台と47の櫓があったという。多聞櫓・(伝)潮見櫓・下之橋御門など多くの文化財を有する。関ヶ原の戦いを終え、藩祖の長政が入って以降、他氏に替わることなく黒田氏12代で明治を迎えた。
大野城
2018年5月1日
59城目。大規模な古代朝鮮式山城で、百済からの渡来人の指導で造られたとされる。全周約8kmあり、健脚の人でも1日で隅々まで巡るのは厳しいかもしれない。百済支援のため、663年に大和朝廷は白村江の戦いに臨んだが、新羅・唐連合軍に敗戦。日本に来襲するのを恐れ、大和朝廷は九州を中心に防御施設を整えた。そのうち、太宰府の北側の守りとして四王寺山(大野山)に築かれたのが大野城。土塁や石塁、礎石群もいいが、全長約180mにわたる百間石垣がやはり見所。この日、観光客は見当たらず侘しさもあったが、山城全体を独り占めした気分になれた。
佐賀城
2018年5月2日
60城目。生憎の大雨のため、気分的に落ち着いて散策出来なかった。本丸正門である鯱の門は、天保期の現存建物であり、堂々たる構えが印象的だった。1608年、戦国大名龍造寺氏の居城であった村中城を鍋島直茂・勝茂父子が拡張して築造した。享保年間(1716〜36)の火災で天守を始め建物の多くを焼失。さらに、1835年にも火災が起き、藩政の中心だった二の丸御殿が焼失したため、10代藩主鍋島直正が再建に着手し、本丸御殿を建設した。本丸御殿は、明治以降も学校など様々な施設として利用されたが、1957年までに鯱の門を除いて全て解体された。2004年に本丸御殿の一部が木造復元され、佐賀城本丸歴史館として開館した。
名護屋城
2018年5月2日
61城目。西唐津駅からバスで30分ほど。東松浦半島北端に位置する。雨や霧のせいで期待していた玄界灘の景色が全く見えず、残念。大陸への出兵を目論んだ秀吉が、1591年に築城開始し、翌年完成。台地の頂上を本丸とし、二の丸、三の丸、山里丸、水の手曲輪などを備え、九州諸大名に普請を命じた。戦のための陣城とはいいながら城域は約17万平方メートルにも及び、金箔瓦を使用した五重天守も建てられた。城の周囲には大名たちの陣屋がおかれ、一時はかなりの賑わいを見せたという。秀吉の病没後、戦いは集結し、名護屋城は廃城。用材は近くの唐津城が築かれる際に転用された。
平戸城
2018年5月3日
62城目。日本最西端の駅「たびら平戸口」からバスで向かい、平戸大橋を渡った後に下車して登城。前日とは打って変わってよく晴れ、海と城の絶景を楽しむことができた。鎌倉・室町時代にかけて、この地は水軍として名を馳せた松浦党の本拠地であった。1599年、松浦家26代鎮信(しげのぶ)は亀岡に「日の岳城」築いたが、当時豊臣家と親交が深かったことから家康に嫌疑をかけられ、その疑いを晴らすべく城を焼却。松浦家は以来、約90年間「御館(おたち)」で過ごし、藩庁かつ藩主の私邸として使った。30代棟(たかし)の時、幕府の許可がおりて、1704年に再築を開始。これが今の平戸城である。全国的にも珍しく山鹿流の縄張りを採用。明治になって廃城したが、1962年、本丸に三重五階の模擬天守などが復興されている。城内には江戸期に通商を行っていた国々に関する資料や松浦家の遺品が展示されている。
島原城
2018年5月3日
63城目。松浦鉄道・JR大村線・島原鉄道と乗り継いで、ようやく島原の地へ。天守からは西側背後にそびえる雲仙普賢岳、対する東側の有明海と爽快な景色を味わえた。五重五階の天守は最上重を除いて破風が全くない典型的な層塔型天守。1618年、松倉重政が築城開始。築城のための課役、キリシタンへの弾圧、過酷な年貢などが原因で、農民たちが天草・島原の一揆を起こした。一揆勢は原城に立てこもり鎮圧されたが、松倉氏は一揆を抑えられなかった責任を取り断絶。その後、高力氏、松平氏などが入った。天守の他、巽三重櫓・丑寅三重櫓も再建されており、高石垣上に立ち並ぶ姿が美しい。
吉野ヶ里
2018年5月4日
64城目。前日に続き五月晴れで、心地よい風が吹き快適に登城できた。言わずと知れた弥生時代の環濠集落。脊振山地南麓から平野部へ伸びた帯状の段丘に位置する。城柵や環濠、主祭殿や物見櫓などが整備・復元されており、「ムラ」から「クニ」へ発展していく過程を知るための重要な史跡として注目されている。吉野ヶ里では、弥生後期の環濠において突出部が作られ、そこから物見櫓を思わせる掘立柱建物跡が発見されたことから、『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国を彷彿させた。「北内郭」は「クニ」の中心と考えられ、物見櫓・高床住居・竪穴住居等を配し、城柵と環濠で囲まれている。また、「南内郭」は王や支配階級の人々が暮らしていた場所と考えられ、建物は竪穴住居が主体となっている。
甲府城
2018年6月9日
65城目。古くは甲斐府中城、舞鶴城などとも呼ばれていた。武田氏滅亡後、豊臣政権の重臣浅野長政らによって築城された。関ヶ原の戦い後は、徳川一門によって支配され、幕末まで存続した。江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城だったが、1704年、当時の城主・徳川綱豊が綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、側用人の柳沢吉保が城主となり、城の拡張と修築が行われ、城下町も整備された。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山へ転封された後は、甲斐は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下に置かれた。現在の城地は江戸期と比べ、3分の1以下になったが、主要部の高石垣や天守台など往時の面影が残っている。
武田氏館
2018年6月9日
66城目。甲府城を登城してからすかさず北上し武田氏館へ。1519年に武田信玄が築いた武田氏の本拠で、「躑躅ヶ崎館」の呼び名で親しまれている。1919年に武田神社が創建された場所は、信虎、信玄、勝頼の三代が居住していた所で、政務の中枢を担っていた。一辺200mの正方形の主郭(現武田神社)を中心にいくつかの付属の曲輪で構成されている。かつては館の南側に家臣の屋敷や寺社など城下町が展開されていた。館は勝頼が新府城へ移転する際に一時破却されたが、武田氏滅亡後に甲斐国の統治拠点として織田・徳川・豊臣氏の家臣団により再利用された。
岸和田城
2018年8月15日
続1城目。続100名城シリーズ最初の登城。蛸地蔵駅から徒歩で向かった。楠木正成の一族・和田高家が現在の城より東側の野田町に築いたのが始まりとされる。1585年、秀吉の根来討滅により、秀吉の伯父・小出秀政が城主になり、本丸を五層の天守に仕立て上げた。以降、岸和田城主は、小出氏3代、松平氏2代と続き、1640年からは岡部氏が務めた。岡部宣勝はさらに城を近世城郭へと大改築し、明治維新に至るまで岡部氏13代が居城。1827年、天守閣は落雷で焼失。「八陣の庭」は、1953年に重森三玲が設計・作庭を行った独創的な回遊式枯山水庭園。
新宮城
2018年8月18日
続2城目。城跡からは緑と海・川があわさりとても景色が綺麗だった。珍しいことに城址の地下は紀勢本線が走り、熊野川を渡る列車もこれまた風情がある。1600年、和歌山城主であった浅野幸長は、家老の浅野忠吉に新宮の地を分け与え、翌年から築城開始。一時、一国一城令で廃城となるも、1618年に築城許可が下り、再び築城に着手する。しかし、工事半ばで主家の長晟(ながあきら)や家老の忠吉が移封され、代わって入封した水野重央(しげなか)が引き継ぎ、2代重良が1633年に完成させた。熊野川沿いの水の手曲輪では、炭納屋跡や船着場跡が発掘調査で確認され、ここに集められた木炭を江戸へ運んでいたとのこと。
津城
2018年8月25日
続3城目。信長の弟信包が1580年に創築。以後、津は城下町として栄える。その後、藤堂高虎が今治から移封し、1611年に大改修を行う。北側の石塁を高く積み増し、その東北と西北の両隅に三重櫓を築いた。高虎は参宮街道を城下に引き入れるなどして町の基礎を作り上げ、2代高次はそれをもとに城下を整備した。現存遺構は石垣ほどしかないが、その直線的な高石垣から高虎の築城技術の凄さを感じた。津城で唯一存在する建築物は、戦後建てられた「模擬櫓」で、櫓の下にそびえる石垣は当時から崩れず残っている。
田丸城
2018年8月25日
続4城目。夏空が映える中、セミの合唱が凄まじかった。近くにある村山龍平記念館も帰りに訪問。本丸の北側に天守台を配し、その手前に付櫓があり、穴蔵が存在する。1336年、北畠親房が南朝側の拠点として築いたことに始まる。15世紀後半は愛洲氏が城主となり、後に田丸氏に改名。1569年、信長は伊勢侵攻を始め、次男信雄に北畠氏の家督を継がせ、伊勢一国を支配下に置いた。その後、一時田丸氏が城主に復帰するも、稲葉氏を経て、1619年に紀伊徳川家付家老の久野氏が城主となり、以後幕末まで続いた。
八幡山城
2018年9月8日
続5城目。久々にロープウェーに乗り、八幡山山上駅へ。秋雨のせいで琵琶湖や比良山系は全く見れなかった。近江など43万石領主となった秀吉の甥・秀次の居城として1585年に築城され、宿老田中吉政が入城した。秀次は後に秀吉の養子になり関白に昇ったが、秀頼の誕生で失脚。秀次の移封後、京極高次が八幡山城に入城するも、1595年に廃城となる。城は主に山上と山麓に分かれ、ともに総石垣で構成される。本丸の虎口は外枡形で、秀吉の時代の城と推定されるが、天守台は明確になっていない。
広島城
2018年10月21日
67城目。この日は天気も気温も心地よく、雲一つない行楽日和に。内堀から望む天守や二の丸の櫓群はこの城ならではの景色で、非常に雄大。元々安芸高田に毛利家の居城があったが、経済的利便性等を考え広島へ移ることを決意。1589年、毛利輝元が瀬戸内の交通の要衝太田川の三角州に、城下町も含めて築城に着手した。このデルタ地帯の築城工事は「島普請」ともいわれ、10年を要したが、五重五階の大天守に小天守を連ねた連立式天守をはじめ、数多くの櫓群が120万石の大名たる威厳を誇った。1600年、輝元は萩へ移され、代わって福島正則が入ったが、幕府に無断で石垣を修築し改易される。その後、入封した浅野氏が明治まで続いた。天守は原爆により倒壊し、1958年に鉄筋コンクリート製で再建される。戦争がいかに悲惨かを改めて思い知った。
郡山城
2018年10月21日
68城目。広島城登城後、広島バスセンターから1時間半かけて安芸高田へ移動。谷が複雑に入り組んだ山全体を城域とした西日本最大級の戦国山城。吉田盆地を見渡す可愛川と多治比川の合流点の北側に位置する。14世紀中頃から地頭として吉田荘に土着した毛利氏が築いたとされるが、築城期は不明。その後、16世紀中期に毛利元就が城の拡大強化を図った。元就の孫輝元は広島城の建築に着工し、1591年に広島へ本拠を移した。郡山城は関ヶ原の戦い後に廃城となる。元就の菩提寺洞春寺は1572年に建立され、境内に元就やその一族の墓がある。墓は苔むしており、厳かな雰囲気が漂っていた。
米子城
2018年11月16日
続6城目。湊山公園の湊山山頂に本丸を置く広大な城。本丸手前の並立する天守台の姿が圧巻で、さらに頂上部へ登りつめると山々や中海の眺望が最高だった。応仁・文明の乱の頃、山名氏が飯山(いいのやま)に築いたと伝わる。戦国期には尼子氏が支配し、その後毛利氏が山陰を平定すると吉川広家が入り、1591から隣接する湊山に近世城郭の築城を開始した。広家が周防岩国へ移封されると、中村一忠が入り五重天守を建造。その後、加藤氏、池田氏、荒尾氏と城主が交代し明治を迎えた。建物こそないが、本丸・二の丸・三の丸、それに内膳丸や采女丸といった出丸など、当時の縄張の形態をとどめている。
月山富田城
2018年11月17日
69城目。安来駅からイエローバスに乗り、市立病院前で降車。息を切らしながら山中御殿・七曲りを通り本丸へ。周辺の紅葉はかなり進み、季節感満載。中世、出雲国を統一し、戦国大名となった尼子氏が、出雲支配を拠点とした城。1565年、毛利元就に攻め込まれると、籠城の末開城し、尼子氏は滅亡した。それから吉川氏や毛利氏一族が入り、関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れた後は、吉川氏に替わって堀尾氏が移封された。1608年、堀尾吉晴が松江に居城を移し、廃城となった。尼子家再興のため主家への忠義を貫いた武将・山中鹿介ゆかりの地でもあり、出雲における尼子氏の権勢を復活させるべく毛利氏に対抗するなど、数々の逸話が伝承されている。
浜田城
2018年11月17日
続7城目。夕日が沈む前に浜田駅から急ぎ足で城跡へ向かった。浜田市市街地中央部に位置する丘陵上にあり、別名亀山城という。昔、港として栄えた外ノ浦湾の風景に情趣を感じた。1619年に初代浜田藩主となった古田重治によって築城されてから、1866年に幕長戦争で大村益次郎率いる長州軍によって落城するまでの247年間、浜田藩主の本拠地だった。城の北側は断崖で日本海にのぞみ、南から西にかけて浜田川が堀の役割を果たした。古田氏は2代重恒に嗣子がいなかっため改易となり、その後は譜代大名の松平氏や本多氏等が藩主となった。かつては三層の天守があったが、1872年の浜田地震により倒壊し、現在石垣を残すのみ。
美濃金山城
2018年12月1日
続8城目。1537年、美濃の守護代一族斎藤妙春(正義)が築城した烏峰城がルーツとされる。妙春が1548年に久々利氏に謀殺されると、長井道利が城主となったが、やがて道三の娘婿でもある織田信長が美濃を支配したのに伴い、家臣の森可成が城主となり、「金山城」に改称。以降、長可・乱丸・忠政へと継がれる。1600年、忠政が川中島へ転封となると、石川氏の預かりとなり、翌年建物は解体されて犬山城の改修に使われた。天守も移築されたとの説があるが、今日では否定されている。自然岩盤を利用した石垣や破城の痕跡が見所。
高島城
2018年12月8日
続9城目。模擬天守だが、石垣や堀・冠木門も含め全体的に壮麗だった。諏訪社の神職だった諏訪氏が家康の関東入りに伴ってこの地を離れると、代わって築城名手と名高い日根野高吉が諏訪に入り、1592年から7年かけて諏訪湖畔に高島城を築いた。その後、諏訪氏は諏訪頼水の時に高島藩3万石の藩主として、父祖の地を回復し、明治維新まで城を守り抜いた。築城当時は主要な郭をほぼ一直線上に配置した連郭式で、諏訪湖と数条の河川に囲まれた、難攻不落の水城だった。城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから「諏訪の浮城」と呼ばれた。明治期に廃城となり、天守閣の撤去が終了すると、本丸跡が高島公園として一般に開放された。
苗木城
2018年12月16日
続10城目。中津川市内を流れる木曽川の右岸にそびえる高森山に築かれた。岩山の上にあり、敷地確保が困難であることから、懸造りという建築手法が用いられている。最大の魅力は巨岩を取り込んだ石垣で、それを取り巻く恵那山や木曽川の景色も素晴らしい。1520年代に遠山氏が築き、その後は豊臣氏に城を追われることになるが、関ヶ原の戦い前に家康の指示で苗木城奪還に成功し、苗木領の大名となる。以来明治に至るまで、苗木領主として初代友政から十二代友禄にわたりこの地を治めた。一万石という小規模の大名だったが、幕末期の一万石大名のうち苗木遠山氏のみが城を保有していた。
松代城
2019年1月6日
70城目。千曲川の自然堤防上にある城。1560年頃、武田信玄が北信濃を支配するため築城した。当初は海津城とも呼ばれ、武田・上杉の合戦で知られる川中島の戦いの舞台となった。信玄の死後、信長の家臣や上杉景勝の武将が入城するなど、城主は目まぐるしく変転する。1622年、真田信之が城主となり、真田氏3代目幸道の時に松代城と改名したとされる。近年、本丸大手の太鼓門や搦手の北不明門さらには二の丸周囲の長大な土塁も復元整備され、往時の姿がよみがえった。城の南側に位置する真田邸は、9代藩主幸教が義母・貞松院の住まいとして、1864年に建築した城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていた。
芥川山城
2019年3月2日
続11城目。倒木・倒竹が見受けられ、進入しづらい箇所が多かった。三好山自体が民有地ということもあり、致し方ない部分はある。摂津・丹波の守護・細川高国によって、1516年までに築城された。この後、高国を自害に追い込んだ細川晴元が滞在するが、三好長慶が晴元を追放し、1553年に入城。畿内を支配し、天下人との評価を受けるも、1568年に信長の軍勢に城を追われ、信長に擁されて上洛した足利義昭の重臣・和田惟政が城主となる。最終的には、高山右近父子が城を預かり、やがて廃城となった。
飯盛城
2019年3月2日
続12城目。登城の際、四条畷方面から向かうと急な坂を登らなければならないということで、野崎駅方面から行くことに決めた。飯盛山の山頂に四條畷市と大東市にまたがって存在する中世最大級の山城。三好長慶が居城とした所で、1560年に芥川山城から拠点をこの城に移した。長慶は将軍足利義輝を京都から追放し、信長より先駆けて政権を樹立させた「天下人」として名を馳せるようになる。やがて、長慶が没し、信長の勢力が伸びて、摂津・河内が平定されると、1576年ついに攻め落とされ廃城となった。
大和郡山城
2019年3月16日
続13城目。1580年、信長は大和一国の検地と新たに築かれる郡山城以外の城郭の破却を命じ、筒井順慶を城主とした。1585年に秀吉の弟秀長が100万石で入封すると、その石高にふさわしく整備された。その後秀長の養子秀保、増田長盛、さらには譜代大名数家が継いで、最後は柳澤氏6代が城主を務めて明治を迎えた。奈良盆地では良質な石材が乏しかったことから、付近一帯から「転用石」として墓石や石地蔵が集められた。その代表である「さかさ地蔵」は現在でも親しまれており「大永三年」の銘がある。内堀から望む追手向櫓や追手門の景観が素晴らしかった。天守台からは平城京大極殿・薬師寺なども望むことができる。
宇陀松山城
2019年3月16日
続14城目。辺りに杉が鬱蒼と繁る坂をひたすら登り、天守郭へ。頂上部(本丸)の木々はほぼ切られており、開放的になっていた。本丸にはかつて本丸御殿をはじめとする複数の礎石建物があった。14世紀半ば頃に秋山氏により築城される。豊臣政権下においては、大和郡山城・高取城とともに大和国支配の要をなした。やがて、徳川家大名の城となり、城主が福島高晴の時に「松山城」と改名されるが、大坂夏の陣で豊臣方と通じていた疑いで改易され、1615年に城は破却された。城山北西麓の春日神社には、宇陀松山城大手筋にあった春日門の櫓台が残っている。
鮫ケ尾城
2019年4月6日
続15城目。長尾家の内紛、御館の乱で長尾景虎が自害した場所と伝えられる。天気が心配だったが、雪を纏った妙高山が見えるくらいの青空だった。春の風物詩と名高いカタクリの花がよく咲いていた。
高田城
2019年4月6日
続16城目。桜の時期と重なり、大勢の観光客にのまれた。水堀の中心にたつ三重櫓は一際異彩を放つ。明治期に駐屯地として使用され、土塁の撤去や水堀の埋め立てなどが行われた。
春日山城
2019年4月6日
71城目。春日山駅から徒歩で参上。坂を登ると入口付近で上杉謙信像が威厳たっぷりに出迎えてくれる。石垣こそないが本丸・毘沙門堂・直江屋敷など規模は大きく、山城らしい威容を誇る。景観が最高。
新発田城
2019年4月7日
72城目。冷気につつまれているせいか、高田城の桜は五分咲きなのに、新発田城のはまだ蕾だった。櫓は木造で再建されており、当時の面影を感じた。古写真がいくつか残っていてほぼ原型をとどめているのが分かる。
多気北畠氏城館
2019年4月27日
続17城目。ゴールデンウィークなのにこの日はかなり寒かった。境内にある庭園は規模は小さいものの、絵になる風景がいくつもあった。公共交通機関で行かれる方は、最寄りの伊勢奥津駅にて、無料で電動機付き自転車を借りれる。
忍城
2019年5月2日
続18城目。令和最初の城めぐりは『のぼうの城』で有名な忍城へ。周囲が湖で囲まれていたことから浮き城とも言われる。城下町において足袋の生産が盛んだったとのこと。近辺には古墳群もあり、歴史好きにはたまらない。
唐沢山城
2019年5月2日
続19城目。約1000年前に藤原秀郷が築城したのが始まりと伝えられる。車で神社の近くまで寄れるため、アクセスは容易。評判通り猫がそこらじゅうに戯れており、癒された。
土浦城
2019年5月3日
続20城目。土浦駅から徒歩で15分ほど。小規模だが、関東地方で唯一現存する櫓門(=太鼓門)など歴史は深い。本丸は周囲に水堀が巡り、「亀城」との呼び名もある。
笠間城
2019年5月3日
続21城目。天守曲輪までの登りはきつかったが、石垣や佐志能神社の裏にある巨石は立派だった。八幡台の櫓は真浄寺という寺に移築され、城跡から北方に離れた位置にある。登城後、かさま歴史交流館にて休憩。
本佐倉城
2019年5月4日
続22城目。汗ばむ陽気の中でも時折風が吹いて気持ちよかった。東山馬場にある月星紋盾がこの城跡の見所で、迷わずシャッターを押した。丘の上から臨むと田んぼだらけだが、昔は京成線付近まで印旛沼だったとのこと。
大多喜城
2019年5月4日
続23城目。学校の敷地内に薬医門と井戸が現存する。天守閣の外観は威厳があるが、勿論コンクリート製。1590年に本多忠勝が10万石で入城した。
上田城
2019年6月1日
73城目。二度にわたり徳川軍を撃退した真田家の城として有名だが、現在の形に修築されたのは小諸から入封した仙石忠政による。駐車場から見る尼ヶ淵と二つの櫓は上田城ならではの光景。博物館のビデオで、より真田の歴史に興味が沸いた。
小諸城
2019年6月1日
74城目。「懐古園」という公園内に小諸城址がある。公園玄関口の三の門だけでなく、小諸駅をはさんで向かいにある大手門も素晴らしい。島崎藤村が小諸の町を愛していたようで、随所に詩碑が見られる。
小牧山城
2019年6月8日
続24城目。行く前はそれほど印象は濃くなかったが、資料館を見てまわるうちに、歴史スケールの大きさを実感した。大手道は安土城と同じく直線的に作られている。信長・家康の歴史を再確認できるいい機会だった。
吉田城
2019年6月16日
続25城目。鉄櫓(くろがねやぐら)が資料館になっており、城の歴史と町の風土について学んだ。石垣もあるが、三の丸等は公園として市民に溶け込んでいるそう。豊川の景観が映え、浮世絵にもよく描かれた。
古宮城
2019年6月16日
続26城目。神社の奥に東西の二城があるが、看板は全くないので作手歴史民俗資料館から縄張り図をもらってからの方がわかりやすい。ちゃんとした駐車場らしき場所も見当たらず、殺風景という印象。城は一城別郭式。
赤木城
2019年7月13日
続27城目。連日雨の中、降らなさそうな日時を狙って登城。藤堂高虎の城といわれ、途中改修はされたが石垣の積み方は築城当時のもののように感じた。多くの経験談の通り道幅が狭い箇所があり、丸山千枚田に行く際も要注意。
備中高松城
2019年7月28日
続28城目。「土城」という異名があるとおり石垣はなく、土壇や沼からなる。秀吉に水攻めされ、湖の中で孤立化したことで有名。自刃した部下思いの清水宗治の首塚を見ると空しく感じた。
福山城
2019年7月28日
75城目。福山駅を降りて早々天守閣がそびえるが実は博物館。水野勝成が大和郡山から入封したのがはじまり。幕末、権勢をふるった老中阿部正弘の出身地であることも初めて知った。筋鉄御門(重要文化財)の姿が勇ましい。
三原城
2019年7月29日
続29城目。三原駅構内の階段をのぼればすぐに天守台に上がれる。外観は悠々としている反面、駅と合体していて特異だった。夏の日差しが照りつけ、汗だくになりながら本丸中門跡や船入櫓跡を観てまわった。
石垣山城
2019年8月10日
続30城目。小田原駅からバスで石垣山へ。秀吉が北条家の小田原城を攻めるために築いた壮大な城。小田原の町を眺望できる観光スポットとしても名高い。一晩で石垣や曲輪を備えたという「一夜城」の伝説がある。
小机城
2019年8月10日
続31城目。竹やぶが隅々まで生えており、地図なしだと城の縄張りが分かりにくい。櫓跡などは位置付けがはっきりしていないが、室町時代に築城されたと推定され、その歴史は深い。2,30分ほど散策すれば森全体を踏破できるくらいの広さだった。
浜松城
2019年9月7日
続32城目。元々今川氏の支城だったが、今川義元が桶狭間の戦いで敗れると信長が家康をこの地に配置させた。現在の高石垣などは秀吉の重臣、掘尾吉晴が建てたもの。家康公銅像がシンボル的存在。
高天神城
2019年9月7日
続33城目。一城別郭式の城。徳川と武田が戦いを繰り広げた場所として名高い。草が生い茂り縄張りが分かりづらかったが看板のおかげで多少イメージできた。馬場平から海への眺望が美しい。
諏訪原城
2019年9月7日
続34城目。旧東海道の金谷坂石畳を登ってつきあたりを右折するとビジターセンターが見えてくる。金谷駅から現地まで車道を伝って歩くのは危ないため、電車で攻城される方はこのルートがおすすめ。全国最大規模の丸馬出に圧倒された。
大垣城
2019年9月21日
続35城目。名古屋城や広島城と同じく、戦前は国宝に指定されていたが戦争で焼失。現在は鉄筋コンクリート製の資料館となっている。関ヶ原の戦いの拠点として、石田三成が構えた場所だが、1635年以降は戸田氏が藩主となり大垣の町をより一層整備した。
新府城
2019年10月27日
続36城目。武田流築城術が駆使され、東西の出構が魅力的だった。意外とこの時期でも草木が生い茂り、通行しづらいところもちらほら。武田勝頼が信長の侵攻に備えて築城。
要害山城
2019年10月27日
続37城目。武田氏館から車で北へ。武田信玄が生まれた所とされる。辺りの石垣をちらほら見ながら、笹藪を掻き分け登った。頂上の主郭に着くと堀切付近に石垣が確認でき、さらに富士山を拝むことができた。
鎌刃城
2019年11月16日
続38城目。アクセスしづらい城として有名。名神高速下の彦根43番ゲートから進入。山城としては整備されてある方で、登城も苦にならなかった。奥地にある青竜滝まで見に行ったが、途中の西郭は急な坂があって進みづらく、断念した。
竹田城
2019年12月15日
76城目。念願の「天空の城」竹田城へ。山名持豊が太田垣光景を城主に配したのが始まり。JR竹田駅から徒歩で向かう。その際、沿線にある法樹寺などの寺を目の当たりにし、益々情緒あふれる町だと感じた。雲海こそ現れなかったが、北千畳から南千畳に至るまで壮大な景色を堪能できた。
佐柿国吉城
2019年12月28日
続39城目。曇りの予報だったが、本丸に近づくにつれ晴れ間ができ日本海を一望できた。若狭守護大名武田氏の家臣、粟屋越中守勝久によって建てられた。越前朝倉氏の軍勢に対抗したことで知られる。これにて2019年の城巡りは終了。
浪岡城
2020年1月4日
続40城目。続百名城シリーズ本州最北の城へ。積雪で計八つの縄張りははっきり分からず、さらに進入しづらかった。北畠親房の後裔浪岡氏の築城とされているが、大浦(津軽)為信に落城された。
弘前城
2020年1月4日
77城目。東北地方唯一の現存天守は、今現在石垣修復のため本丸内側に移動されてある。凍てつく寒さながらも雪を纏った弘前城の姿を見、不思議と心が温まった。二代藩主津軽信牧(のぶひら)が城を完成させてから、廃藩に至るまで津軽氏が藩政を握った。
岡豊城
2020年3月14日
続41城目。四国を平定した長宗我部元親が建てた城。秀吉が四国を統一したことで、土佐一国に減じられた。コロナの影響で歴史民俗資料館に入れなかったのが残念だが、スタンプは警備室に行けば押せる。伝厩跡曲輪からの眺めがよい。
河後森城
2020年3月15日
続42城目。風呂ヶ谷から進入し、西から順にU字型の曲輪群を踏破。16世紀この地帯で土佐一条氏と長宗我部氏の争いが繰り広げられた。この日は予想外に風が冷たく、松丸駅の足湯で暖をとった。その後在来線を使ってのんびりしながら徳島県へ。
一宮城
2020年3月16日
続43城目。1338年、小笠原長宗による築城とされる。山城の規模としてはさほど大きくなく、倉庫跡から水の手丸に至るまで一時間くらい。陰滝にある鎖場はそこそこ落差があり危険。時期的に珍しく、雪をかぶった讃岐山脈が見れた。
勝瑞城
2020年3月16日
続44城目。長宗我部氏の侵入に備え、三好氏が館や家臣の屋敷などを築いたという。一般人からすると城郭とは違い遺跡に近いイメージを持たれるかもしれない。城があったと言われる場所は見性寺の敷地内にある。
引田城
2020年3月16日
続45城目。山城であるが海に面した所にあり風が気持ちよかった。歴史は古く、応仁(1467年)のころ国人寒川氏が所領としていた。石垣は随所に見られ、特に北二の丸が圧巻。本丸から見た引田の町並みも素晴らしかった。
中城城
2020年7月24日
78城目。数年ぶりに沖縄の地を踏んでから早速城攻めを開始。本州の石垣の質とは違い石灰岩らしく、その白さと海の青さでより美しく映えた。按司(あじ)護佐丸が1440年に城を完成形にしたが、その後阿麻和利に攻略され滅んだ。曲線的城壁やアーチ型の門も沖縄独特。
勝連城
2020年7月24日
続46城目。沖縄の世界遺産の中で最古のグスク。玉ノミウヂ御嶽やトゥヌムトゥなどの遺構を見学。城全体の雄大な姿に感動。神人(カミンチュ)の宗教儀礼や神が祀られている御嶽(うたき)の存在を知り、楽しく過ごせた。王女百度踏揚(ももとふみあがり)の悲劇の舞台でもある。
座喜味城
2020年7月24日
続47城目。二つの郭で構成されたグスク。他の沖縄の城と同様、曲線状の城壁・アーチ門が美しかった。1420年頃、読谷村按司の護佐丸が築城。城内に4ヶ所の拝所があり当時の人々の信仰心が感じ取れた。
今帰仁城
2020年7月25日
79城目。北山王の拠点として知られるが、15世紀初め中山の尚巴志に滅ぼされた。近くにクバの御嶽といわれる丘陵があり神域とされる。前日まわったグスクとは違い、やんばるの森を辺り一面見渡せた。志慶真川に沿った断崖上にあり、自然の要塞そのもの。
知覧城
2020年8月8日
続48城目。元々鎌倉時代に知覧氏が治めていたが、南北朝時代に島津家庶流の佐多氏が居城とした。酷暑に加えてヤブ蚊に襲われながらもなんとか四つの曲輪を踏破。改めて真夏の山城の過酷さを知る。特攻隊の資料館にも寄り、沖縄戦に向かい戦死された兵士の方々を追悼。
鹿児島城
2020年8月8日
80城目。西南戦争最終戦の舞台。西郷隆盛が明治新政府軍に対抗して奮起するも最期の場となった。石垣上の弾痕が生々しく残っており、日本最後の内戦の凄まじさを感じた。城山展望台から見る桜島が素晴らしかった。
志布志城
2020年8月9日
続49城目。シラス台地上にある城。堀切が大きかった。現在、志布志城を構成する4つ(内城・松尾城・高城・新城)の城のうち、内城と松尾城は南北朝時代に築城された当初から存在していたらしい。内城は奥まで行けたが、松尾城は途中草が生い茂り、なぜかゴミも散乱していたため登城を断念。
飫肥城
2020年8月9日
81城目。飫肥城目当てで来たが想像以上に武家屋敷や商人通りが整備されてあり、町全体の雰囲気がとても良かった。飫肥藩伊東家の文化財を数多く展示している。飫肥杉で作られた大手門が見所。ついでに小村寿太郎の生家も拝見した。
佐土原城
2020年8月10日
続50城目。佐土原藩島津家の居城。日本最南端の天守台が本丸にあるが、2018年の台風で崩落がおこり、現在も一部登城路の途中までしか行けない。早期復旧をただただ願う。二の丸に位置する鶴松館も休館で時間を持て余してしまった。
延岡城
2020年8月10日
続51城目。やはり二の丸の千人殺しの石垣が見物。勾配がゆるやかなのが特徴的。その名のとおり礎石をはずした瞬間に石垣が崩れ落ちそうだった。史料によるとその歴史は古く、奈良・平安時代の豪族土持氏が支配していたが、その後高橋元種が赴任し城を完成させたとのこと。
佐伯城
2020年8月11日
続52城目。日田から入部した佐伯藩初代藩主・毛利高政が築城。山頂に位置する本丸の石垣や廊下橋もよいが、やはり麓にある三の丸櫓門がこのお城の目玉。観光交流館の近くには国木田独歩館がある。英語教師として来た国木田独歩も佐伯の町をこよなく愛し、佐伯が舞台の作品を作り上げていったとのこと。
岡城
2020年8月11日
82城目。歴史は古く義経の時代まで遡るとされる。城主は志賀氏の後、中川氏が入り総石垣の近世城郭に仕立てあげた。山城の中ではトップレベルにつくほどの規模と雄大な景観を誇る。滝廉太郎の「荒城の月」のモチーフとなったのもうなずける。
臼杵城
2020年8月12日
続53城目。キリシタン大名の大友義鎮が大分を離れて、臼杵城を築城。古橋口から見た石垣の並び、大門櫓、井楼櫓がとても綺麗だった。公園として整備されてあるが、本丸跡からの海の眺めなど観光地としてふさわしい景観がある。
中津城
2020年8月12日
続54城目。今夏、九州城めぐりは中津城で締めくくり。1588年に黒田官兵衛が着工。江戸時代では九州外様藩の監視のため、代々譜代大名が入封。元々天守は建てられず、現在あるのは模擬天守とのこと。福沢諭吉の旧居もあり、学問的要素の強い町という印象を受けた。
箕輪城
2020年10月24日
83城目。群馬県内初の登城。西暦1500年前後に長野氏が築城し、代々継承されてきたが、結局武田信玄に落城された。その後、武田の他に織田や北条、徳川といった名だたる武将の家臣が配置されることとなる。郭馬出西虎口の城門が堂々と復元されている。
金山城
2020年10月24日
84城目。太田駅から無料のレンタサイクルで大光院に向かい、そこからハイキングコースで城跡まで向かう。1469年、岩松家純が築城。後に上杉や武田に攻撃を受けたがなかなか落城せず、最後は北条支配下の最中、秀吉の小田原征伐に際し廃城。一際目を引くのは南曲輪に位置する石垣の要塞だった。
滝山城
2020年10月25日
続55城目。北条氏照のもとで拡張された。甲斐の武田への備えや北関東への進出の基盤となった。この季節らしく気候は穏やかで心地よかったが、三の丸など草が生い茂り歩きづらいところも。八王子市には他に滝山城と並んで「滝山三城」と称される高月城、根小屋城がある。
秋田城
2020年12月19日
続56城目。最北の古代城柵で地方行政の一拠点となった。蝦夷や渤海との交易の窓口でもある。天平5年(733年)当初は出羽柵と呼ばれていた。全国的にも珍しい古代水洗トイレ(復元)があり、当時の生活水準の高さに驚く。
久保田城
2020年12月19日
85城目。佐竹史料館に閉館間近のタイミングで入館。その後、千秋公園を散策。大雪の影響で視界が遮られることもあったが、なんとか御隅櫓までたどり着く。御物頭御番所は秋田藩の時代から唯一残っている建物。関ヶ原合戦の後、秋田に転封された佐竹義宣が築城。
鶴ヶ岡城
2020年12月20日
続57城目。酒井家三代の酒井忠勝が出羽国荘内に入り、そこから明治維新まで酒井家が善政を施した。「鶴ヶ岡城」という名前は、この地で隠居した最上義光がつけた。現在、本丸内の荘内神社には酒井家藩主となった4人が御祭神として祀られている。
米沢城
2020年12月21日
続58城目。鶴岡から米沢へと移動してきたが、ますます積雪量が増え、途中道路上なのに歩行困難な箇所も。雪国の過酷さを思いしる。17歳で上杉家の養子に出された9代藩主上杉鷹山は、殖産興業などで藩を立て直した名君として名高い。
二本松城
2020年12月21日
86城目。「霞ヶ城公園」として整備されてある。麓から悠々とした城の姿が見れる。戊辰戦争時、新政府軍に向かって武勇を奮った少年隊の悲劇の場。本丸より西に目をやると安達太良山、さらに「智恵子抄」といい、二本松は自然と歴史・文化が豊かな町だった。
興国寺城
2021年1月5日
続59城目。北条早雲が伊豆韮山に攻めいる際に本拠とした場所。後に今川・武田・徳川など持ち主がよく変わる。今まで登城した城跡のなかで、おそらく最小規模だと思われるが、それでも堀の深さは圧巻だった。天守台から眺める富士山や駿河湾が美しかった。
龍岡城
2021年2月27日
続60城目。函館の五稜郭と比較すればさすがにスケールは劣るが、国指定史跡の隣に小学校があったり石垣が未完成だったりとなにかと異質で、それがかえって味わい深かった。日本赤十字社の前身「博愛社」を設立した大給怛(おぎゅうゆずる)が建てた。浅間山や八ヶ岳に挟まれた自然豊かな土地柄。
黒井城
2021年4月3日
続61城目。別名保月城。雲海の名所とされる。築城年ははっきりしていないが、建武の時期に足利尊氏についた赤松貞範が丹波国春日部荘を領してから築城された。意外と勾配が急なところがあり、頂上手前は少し注意が必要。頂上にて桜の花が出迎えてくれた。
洲本城
2021年4月3日
続62城目。舞子駅から高速バスに乗り淡路島へ。快晴での海の景色を期待するも曇ってしまった。それでも桜の花が舞う様子は非常にお城に合っていた。築城の原点とされるのは安宅氏だが、現在見られる洲本城を築いたのは脇坂安治。本丸に位置する天守は模擬天守としては現存最古。
福知山城
2021年4月10日
続63城目。黒井城などを攻め、丹波を平定した明智光秀が初代城主。途中城主は羽柴秀長や杉原家次などが継ぎ、17世紀半ばから明治初期までは朽木氏が務めた。威風堂々とした天守閣を支える石垣には転用石がありとてもユニーク。展示資料から光秀の功績をじっくり学習できた。
出石城・有子山城
2021年4月10日
続64城目。地元名物・出石の皿そばを堪能してから登城。城下町や辰鼓楼といい情緒に満ちあふれていた。出石城は江戸時代に小出吉政、有子山城は安土桃山時代に山名祐豊が築城。有子山山頂からの景色は素晴らしかったが、そこにたどり着くまでの急勾配な尾根を、熊に注意しながら進まなければならない。
唐津城
2021年5月1日
続65城目。博多駅に到着後、地下鉄に入りそのまま唐津駅まで直行。1647年に寺沢氏が改易されてからは大久保氏、松平氏などと変わり、最終的には小笠原氏の代となって廃藩置県を迎えた。唐津湾や松浦川、「虹の松原」の景色に風情を感じた。
福江城
2021年5月2日
続66城目。長崎港からフェリーに乗船し、福江港へ。五島の歴史は古く、8世紀の肥前風土記には五島の関連記事がある。潜伏キリシタン関連遺産として島内には教会も多い。福江城の特筆すべき点は江戸時代終末期になって、藩主五島盛利が海防を理由に幕府に築城願いを出し、ようやく許可がおりたこと。江戸時代最後の城郭。
原城
2021年5月3日
続67城目。風もなく快晴に恵まれとても快適だった。有馬キリシタン遺産記念館を訪問してから原城跡へ登城。記念館ではヴァリニャーノの巡察等を含む日本国内のキリスト教の展開と、松倉家の圧政に耐えかねた島原・天草の人たちの一揆やキリシタン弾圧をメインに紹介している。城跡から見る普賢岳と海の穏やかな景色とは裏腹に、当時大勢のキリスト教信者がこの地で命を落としたのを考えると心が痛まれる。
久留米城
2021年5月3日
続68城目。元々福知山を治めていた有馬豊氏が1621年に筑後国久留米に入り城や町を築き上げていった。現在本丸には篠山神社や有馬記念館があり、その記念館で久留米藩歴代藩主の略歴を学習。二ノ丸や三ノ丸は既に埋め立てられており、区画は見た目ではよく分からない。有馬家の墓所である梅林寺もついでに訪問。
小倉城
2021年5月5日
続69城目。関門海峡に面し、古来より陸海の交通の要衝として重視された場所であることが窺える。最初は毛利氏が築いたが、その後関ヶ原の戦いで戦功をあげた細川忠興が城を大規模にし、城下町を建設。細川家が肥後国に転封した後、譜代大名の小笠原忠真が入国。九州諸大名の監視を任された。幕末、長州征討の時に長州藩に攻めこまれ、自ら城に火を放ったという悲しい歴史を持つ。
菅谷館
2021年6月27日
続70城目。武蔵嵐山駅から徒歩で15分ほど。比企城館跡群の一つ。鎌倉時代、宇治川や一の谷の合戦などで功績を上げた畠山重忠が居住していたと伝えられる。戦国時代となってから山内上杉氏・扇谷上杉氏の争いの中で頑強に整備された。
杉山城
2021年6月27日
続71城目。徒歩だとかなりの距離なので武蔵嵐山駅からレンタサイクルを使用。関東における戦国期の山城としてはかなり保存状態がいいように思われた。私有地としながらも縄張りがはっきりしていて分かりやすい。長享の乱後、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して造られた。
玄蕃尾城
2021年10月22日
続72城目。柳ケ瀬山尾根上に位置し、柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで本陣をおいた。起源は一説によると15世紀に豪族の柳ケ瀬秀行が築城したという。土塁の保存状態は非常に良好。ネット上の情報の通り、車で旧柳ケ瀬トンネル付近の脇道に入ってから駐車場まで細い道を通らなければならないが、所々に待避スペースは確保されてある。
福井城
2021年10月22日
続73城目。家康の次男・結城秀康が初代福井藩主になり、越前へ入国。かつての北庄城に修築を加えた。松平春嶽などの藩主が住んでいたとされる西三ノ丸(御座所跡)を経由し、山里口御門を通過。天守台と福の井を見学した。今では県庁や警察本部が建っているが、石垣や内堀の偉容は健在。
鳥越城
2021年10月23日
続74城目。朝、一時的に雨足が強まったが、少し晴れ間が出たところを狙って登城した。手取川と大日川に囲まれた鳥越山にその史跡がある。15世紀に一向一揆により守護の冨樫政親を滅ばしてからおよそ100年、信長家臣の佐久間盛政に攻めこまれ、ここに「百姓の持ちたる国」の終焉をむかえた。蓮如の布教活動の様子を歴史館で学習。
増山城
2021年10月23日
続75城目。増山城を巡る攻防は歴史上いくつもあるらしいが、特に、越中と越後それぞれの守護代と一向一揆が争った芹谷の戦いや、上杉謙信の神保氏への三度に渡る侵攻が挙げられる。その歴史舞台を全く把握せずにいくと、単なる鬱蒼とした杉林にしか見えないかもしれない。ただ規模は思ったより広く、時間の都合で池ノ平等屋敷は行けなかった。
岩櫃城
2021年11月6日
続76城目。群馬原町駅から徒歩30分ほどで平沢登山口、そこから本丸までは徒歩10分くらい。山々の紅葉も着々と進んでおりとても綺麗だった。登城後、真田道を歩いて古谷登山口まで行き、岩櫃山の峻険な岩肌を拝めた。城主として最初吾妻太郎行盛がいたが、里見氏に攻められて自害。その後、子の斎藤越前守憲行が奪回した。しかし、結局は真田幸隆に落城され武田氏の手中に落ち、幸隆が守護となった。
名胡桃城
2021年11月6日
続77城目。外観で分かるとおり郭が直線的に配されてある典型的な連郭式の城。最先端の郭から赤や黄で彩られた秋の三峰山を臨む。沼田地方は古くから上杉、武田、北条が領有争いした場所で、戦国時代末期になると北条氏と真田氏の争いとなる。惣無事令を出した秀吉が領土の境界線を利根川と裁定したが、それに反し沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃したため、秀吉が小田原を討伐するきっかけとなった。
沼田城
2021年11月6日
続78城目。日が沈む前に足早に沼田駅から坂を登り入城。現在は沼田公園として整備されてあるが、かつては五層の壮大な天守が建っていた。真田信之が初代沼田城主となり、田畑の開拓や町割など沼田領内の復興につとめた。元々この地は在地の有力者沼田氏が治めていたが、北関東の軍事上の要衝ということもあり、上杉・北条・武田で争奪戦が度々行われた。1581年、沼田奪還のため反撃しにきた沼田平八郎景義を真田氏が殺し、沼田氏は滅亡した。
郡上八幡城
2021年11月13日
続79城目。1933年に木造の模擬天守が建てられ、日本最古の木造再建城として知られる。このところの冷え込みにより楓も順調に赤く染まり、「天守炎上」の名にふさわしい出で立ちだった。1559年、東常慶と遠藤盛数との間で赤谷山城の戦いがおこり、その盛数が陣取った場所がこの城の起源。その子慶隆が郡上を統一し、城や城下町を建設していった。慶隆は秀吉に改易されるも、関ヶ原の戦いで東軍に与し、勝利したため八幡城主に復帰した。その他、郡上一揆や郡上の用水路整備、山内一豊の妻千代にまつわる資料など展示されてある。
津和野城
2021年11月27日
87城目。前日に新山口駅近辺で宿泊し、翌朝レンタカーで津和野まで向かう。新山口から約4、50分かけてリフト前の駐車場へ到着。天気は当初晴れのはずだったが、現地に近づくにつれ冷たい雨が強まってしまった。創建は古く、1295年頃能登から来た吉見頼行と伝えられる。縄張はあまり拡張することはなかったため、小規模にとどまった。大改築が行われたのは、1601年関ヶ原の戦いの行賞で入城した坂崎直盛による。山頂を削平し三重天守を設けた。坂崎氏断絶後は亀井氏が入って城下町を整備し、そのまま明治に至る。
萩城
2021年11月27日
88城目。津和野城を登城後、西進して萩の町へ。松下村塾や東光寺、幕末志士たちの旧宅や萩・明倫学舎などの観光スポットも合わせて散策。冬型の気圧配置ということもあり冷たい風が身に沁みた。関ヶ原の敗戦で西の総大将だった毛利輝元は長門・周防の2国に移封される。1604年築城を開始し、標高143mの指月山の山頂に要害、山麓に本丸・二の丸・三の丸を築いた。山頂は石切場が見受けられ、またイチョウ落葉の時季と重なり、黄色い絨毯が綺麗だった。古写真にもあるとおり、かつて五層の白亜天守が築かれていたが、明治初期に解体。それ以前に1863年、藩庁が山口に移されてからは萩城の重要性そのものが薄れていた。
大内氏館・高嶺城
2021年11月28日
続80城目。山口大神宮内にある登山口から高嶺城を目指した。息切れしながらも約40分で主郭に到着。木々に隠れてしまい、特に山口の町を一望できるわけでもないが、石垣は良好に残っていた。下山してから池泉庭園で有名な大内氏館跡を訪問。曹洞宗の龍福寺が敷地の中央に居座り、その東方に庭園が位置する。室町時代、守護大内氏が守護所となる館を築いた。最後の当主大内義長は1556年に詰城である高嶺城を築城開始。しかし、毛利氏に攻め込まれ、未完成のまま逃亡し自害し果てる。代わりに毛利氏が完成させた。関ヶ原の戦い後、本拠地を山口から萩へ移転。最終的に一国一城令により、廃城となった。
岩国城
2021年11月28日
89城目。新山口駅からバスで錦川沿いを進み、錦帯橋付近で降車。他に例を見ないアーチ型五連の木橋とその背後の山にそびえる天守閣がとても美しい。本丸にあった四重六階の天守は「南蛮造」という特異な形式で、完成からわずか7年で一国一城令により破却された。現在は本来の場所から約50mすらしたところに再建されている。関ヶ原の戦い後、岩国に転封された吉川広家が築いた。山頂の城郭と山麓の居館(御土居)で構成されている。日が暮れる前に吉香公園や吉川家墓所、紅葉谷公園も散策。楓もほとんど落葉し晩秋らしい風景だった。
白石城
2022年1月3日
続81城目。
多賀城
2022年1月3日
90城目。
品川台場
2022年2月23日
続82城目。
三春城
2022年4月30日
続83城目。
白河小峰城
2022年4月30日
91城目