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メンバー情報

ID7896
名前鈴木哲朗
コメント2016年夏に城めぐりを始めました! 探険しながら、城に関する知識も増やしていきたいです!
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
名古屋城
2016年8月23日
1城目。記念すべき最初の登城はほぼ地元の名古屋城へ。元々今川氏一族が『柳之丸』を築き、一帯を領有していたが、1532年、信長の父・信秀が『柳之丸』を奪い、『那古屋城』と称した。これが名古屋城の前身とされる。1610年、豊臣家の監視のために家康が天下普請で大規模な城門や櫓の築城を開始。家康の九男・義直が尾張徳川家の祖となり、明治維新まで代々続く。隅櫓や五層五階の大天守閣は全体的に美しく雄大。国宝第1号なのに戦災で燃えてしまったのは非常に残念だが、本丸御殿は復元が進み、在りし日の姿が戻りつつある。かつて尾張藩主の住居や藩の政庁として機能していた。障壁画や装飾金具など絢爛豪華。大天守の上にきらめく金の鯱がこの城のシンボル。
江戸城
2016年8月27日
2城目。1457年扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いたのが始まり。現在あるのは日本最大の規模を誇る徳川家の城。秀吉が関東平定後、江戸入りした家康は1603年に征夷大将軍になると江戸城の大改築に着手。1638年、家光の代で壮大な近世城郭が誕生した。しかし天守閣は明暦の大火で消失して以降再建されなかった。その天守の代わりとして機能したのが三重の富士見櫓である。皇居のとなりということで、敷地がものすごく広い上に伏見櫓・桜田巽櫓・二重橋など多くの観光スポットが存在する。天守台からは丸の内のオフィスが一望でき、都市と緑の共存ぶりが素晴らしい。
小田原城
2016年8月28日
3城目。北条早雲はじめ5代の歴史が延々と展示されてあり、非常に興味深かった。堂々たる銅門(あかがねもん)が印象的。天守閣の最上階からは海・山を含め、小田原の町が一望できる。難攻不落の城として知られ上杉や武田の侵攻を何度も退けてきた。天下統一を狙う秀吉の来襲に備え全周9kmにおよぶ総構を築くも、包囲され開城することとなり、北条氏は滅亡してしまう。その後、徳川譜代大名の大久保氏や稲葉氏が城郭の整備を行った。1686年に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末まで至る。1870年に廃城となり、その2年後までに多くの建物が解体された。
佐倉城
2016年8月30日
4城目。国立歴史民俗博物館の近くに位置し、普通の公園の中に溶け込んでいるというイメージ。石垣を使わず全て土塁で曲輪・掘割などが築造されているのが特徴。土塁の深さは意外とあり、落ちると危険な箇所も。1610年、土井利勝が入封し修築して以来、城下町が形成され、有力譜代大名が城主となった。幕末に日本を開国に導いた堀田正睦も佐倉城主であり、老中として幕府の要職についている。壮大な角馬出の空堀や土塁など保存状態が良い。本丸にはかつて三重の天守が建っていたという。
安土城
2016年9月12日
5城目。天下統一に向けて猛進する信長の城であり、国内において本格的天主の建築がここで始まったとされる。1579年に完成してからわずか3年ほどで、本能寺の変直後に焼失したものの、当時の家臣団屋敷の他、最上層の豪壮な外壁など、信長の強大な権力を伺いしれる。大手道には石段が続き、脇に伝羽柴秀吉の屋敷跡などがある。山頂には天主台礎石群があり、その近くから琵琶湖を見渡せる。信長が甲賀の長寿寺より移築した信長自身の菩提寺も訪れ、その中にある室町時代から現存する三重塔や二王門も素晴らしかった。
観音寺城
2016年9月12日
6城目。安土城の登城後、桑實寺(くわのみでら)を経由して本丸を目指した。想像以上に遠く、また山中、倒木だらけの悪路を通ったため、息切れしてしまった。日本の城で初めて本格的な高石垣が築かれた所で、井戸等の遺構はあるが、どことなく侘しさを感じる。山頂部は本丸の他、平井丸・落合丸・池田丸の3つの城郭跡がある。近江の守護佐々木六角氏の居城。1568年、信長が義昭を擁して上洛する際に、次々と近隣の支城が落とされたため、六角義賢・義治父子は城を捨てて逃げ出し、やがて廃城となった。
小谷城
2016年9月21日
7城目。登り途中、木が開けた所が何ヵ所かあり、そこから琵琶湖や竹生島が見えた。台風一過でぬかるみもあったが、曇っていたおかげで涼しく、気持ちよく登れた。浅井氏三代(亮政・久政・長政)の居城で初代亮政が1522年に築いたとされる。1567年、長政は信長の妹お市を妻に迎え、勢力の拡大をはかるが、1570年、朝倉攻めに出陣した信長に反旗を翻す。朝倉軍と連携し姉川で信長軍と戦うも敗北。その3年後、秀吉に攻めこまれ陥落した。小谷山山頂には、小谷城より築城時代の古い大嶽(おおづく)城の跡、さらに清水谷北側の尾根上には福寿丸・山崎丸などの砦があり、城域は広大。本丸跡の石垣も半ば崩れかけているが、戦国時代の山城の凛々しさを伝えてくれる。
彦根城
2016年9月21日
8城目。国宝の天守であるだけに、外観だけでなく、内部の土塀や床から築城当時の面影を感じる。本丸・天秤櫓だけでなく、黒門付近の玄宮楽々園も美しい。国宝の割には敷地がそれほど広くないだけに、1日で数々の重要文化財を巡れた。関ヶ原の戦いで戦功をあげた井伊直政に対し家康は佐和山城を与えた。その後も豊臣家や西国大名監視のため新しい城の築城を家康が命令。直政の子である直継が移築計画を家康に申し出、1622年頃ようやく完成した。明治維新に至るまで井伊家が譜代大名筆頭として君臨した。幕末に大老になった直弼は特に有名。
岩村城
2016年9月27日
9城目。日本三大山城の一つ。1185年、源頼朝の家臣加藤景廉が遠山荘の地頭となり、その長男景朝が築城したとされる。戦国時代においては信長の叔母にあたるおつやの方が岩村城主であった遠山景任に嫁いだが、後継ぎがいないまま景任が病没したため、養子としてむかえた御坊丸のかわりに「おんな城主」として君臨した。本丸までは勾配が急な所もあるが、道は整備されてて登りやすい。途中野うさぎとも遭遇。ローカル線である明知鉄道の窓からみえる農村の風景が美しかった。
姫路城
2016年10月10日
10城目。国宝8件、重要文化財74件を誇る世界遺産の城。国宝天守の中でもやはり壮大で、ずば抜けて城内は広かった。天気も幸いさわやかな秋晴れ。大天守に輪状に連なる3つの小天守(乾小天守、西小天守、東小天守)や櫓一つ一つがとても素晴らしかった。1333年、姫山に赤松氏が築き、それ以来13氏に渡り城主を受け継いできた。西国統治のための拠点として置かれ、羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政が拡張していった。関ヶ原の戦いを終え、天守を現在の姿に大改修したのは輝政で、さらに忠政の時に三の丸や西の丸などを増築した。菱の門、「は」の門、備前丸、井戸曲輪、西の丸などから見た天守群の姿は全て異なり、景観の変化を楽しめた。
赤穂城
2016年10月10日
11城目。播州赤穂駅から南にまっすぐ歩くと、雄大な三の丸隅櫓と大手門が出迎えてくれる。海を背にした「海城」という点で珍しい。近くに大石神社もあり忠臣蔵にまつわる歴史の奥深さを感じた。1645年、常陸国笠間から入封した浅野長直が築城命令し、1661年に完成。比較的新しいほうの城郭である。縄張りは非常に珍しいことに輪郭式と梯郭式を兼ね備えた変形型。三代藩主長矩が江戸城にて刃傷事件をおこしたことで即日切腹、浅野家は断絶となった。後に大石内蔵助をはじめ赤穂義士が吉良邸に討ち入りすることになる。
明石城
2016年10月10日
12城目。明石駅の目の前に広がる威風堂々たる城。現在天守閣はないが巽櫓と坤櫓が門番のようにそびえており、いずれも現存している貴重な三重櫓。現在は公園として整備され、日々賑わいを見せている。晴天に恵まれ明石海峡大橋が綺麗に見えた。初代明石藩主小笠原忠政によって築かれた。忠政はちなみに信長と家康を曽祖父に持つ。その後、戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家と続き、最後は越前大野の松平直明が入封し、以降10代継いで廃藩置県を迎えた。
鳥取城
2016年10月19日
13城目。戦国期から江戸時代を通して増改築がなされた城で、広大な城域に各時代の遺構が残ることから「城郭の博物館」と称される。石垣を補強するために作られた国内唯一の球面石垣「天球丸」が見もの。戦国時代に久松山山頂に築かれたのが始まり。1581年、秀吉が大軍で兵糧攻めした際、吉川経家が将兵の助命を条件に自害したことで世に知られるようになった。その後宮部氏、池田氏が入り、麓の近世城郭も整備された。池田家32万石の居城となった江戸前期までには、山頂に二重天守、山麓には三階櫓が建てられた。1943年、鳥取大地震で天守台など崩壊したが、昭和半ば頃から復元整備された。仁風閣は、鳥取池田家14代当主・池田仲博の願いで、別邸として建てられた。
松江城
2016年10月20日
14城目。駅から徒歩で宍道湖経由で登城。気持ちよく快晴だったがこの時期にしては少し暑かった。宍道湖に臨む水運の要衝に築かれた山陰地方唯一の現存天守。黒漆の下見板張で覆われている外観がこの城の威厳さを表している。1607年に初代藩主堀尾吉晴と孫の忠晴(二代藩主)が築城開始し、1611年に完成した。四重五階、地下一階の複合式望楼型という構造。江戸初期のに時代に建てられたとはいえ極めて実戦重視の城であり、石落や狭間などたくさん設けている。縄張も本丸周囲を多聞櫓で囲み、石垣や土塀も屈曲や折れを多用していることから防御性が高い。        
津山城
2016年10月21日
15城目。松江を訪れてからJR伯備線・姫新線を通って津山の町へ。さすがに山あいとあって段々肌寒くなっていった。関ヶ原の戦いで戦功をあげた森忠政が入封し、1616年に完成させた。津山盆地の中央に位置する鶴山に、総石垣でもって雛壇状に3、4段曲輪を重ねて築いた。いわゆる「一二三段」と呼ばれる構えである。城内にあった櫓の中で最大級だった備中櫓は平成17年に再建。かつて他にも六十くらいの門や櫓があり非常に堅固だった。現在は鶴山(がくざん)公園という形で整備され桜や紅葉の名所として知られる。
岡山城
2016年10月21日
16城目。旭川の西方の丘陵に建てられ後楽園と向かい合っている。1、2階部分が大きく、どっしりと構えた漆黒の望楼型天守は「烏城」の名にふさわしい。元々金光氏の居城だったが、1570年宇喜多直家に奪われた。その子秀家は1597年に大改修を行い、現在の姿のような五重六階の天守を築いた。関ヶ原の戦いの後は小早川秀秋や池田氏が入り、城を拡張して縄張を完成させる。空襲で焼失したが、昭和41年に鉄筋コンクリートで復元。屋根にも金箔瓦が葺かれている。回遊式大名庭園である後楽園から仰ぎ見る岡山城も美しい。
篠山城
2016年11月6日
17城目。冷たい風が吹きしきるなか登城。本丸にそびえたつ高石垣は勿論、平成12年に再建された大書院の装いも立派だった。家康が豊臣家の大阪城包囲と西日本の諸大名監視のため、山陰や山陽に通じる交通の要衝に築城。天下普請により工事が進められ、普請総奉行は池田輝政、縄張は藤堂高虎が担った。中心に本丸(現二の丸)と殿守丸(現本丸)を梯郭式に置き、それを二の丸(現三の丸)が輪郭式に取り囲む縄張となっている。
和歌山城
2016年11月6日
18城目。虎伏山山頂に建てられたことから別名虎伏城ともいう。徳川御三家の一つ紀伊藩の城ということで非常に格式が高い。1585年、羽柴秀長が紀ノ川と和歌川にはさまれたこの小山に城郭を築いたのが始まり。その後、関ヶ原の戦いで戦功をあげた浅野幸長が改築した。さらに、1619年に入城した家康の10男頼宣が二の丸の拡張、砂の丸・南の丸の造成などを行い、今見られる姿に仕立て上げた。三重三階の大天守と小天守・乾櫓・ニの門櫓などが多聞で結ばれた連立式天守である。惜しくも昭和20年の和歌山大空襲で焼失してしまい、現在は鉄筋コンクリート製。名勝の西之丸庭園や御橋廊下も合わせて訪問。本格的な紅葉は11月下旬頃から期待できそう。
大阪城
2016年11月28日
19城目。堀の深さ、敷地の広さ、天守の高さに至るまで圧倒的。日本人より外国人観光客の方が多く、大阪を代表する観光地であると実感した。大阪冬・夏の陣における真田幸村の戦功や秀吉に関する年表等の資料が豊富。信長に対抗していた石山本願寺の跡地を手に入れた秀吉は、全国統一の本拠地として大阪に定め、1583年に築城に着手。その約15年後、金色に輝く天守を含め城郭全体を完成させた。しかし、大阪夏の陣により焼失。1620年に徳川幕府が再建に踏み込んだ。全域にわたり盛り土や石垣の積み増し、堀の掘り下げが行われ、さらに天守閣が15mも高くなるなど、秀吉時代とは全く異質の城が出来上がった。その徳川の城も1665年の落雷で焼失。昭和6年に再建するが、またしても太平洋戦争の空襲で焼失した。平成9年の「平成の大改修」によって往時の姿が蘇った。
二条城
2016年11月28日
20城目。国宝の二の丸御殿、重要文化財の東大手門・東南隅櫓・唐門など建築物の一つ一つがとても荘厳だった。1603年家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍が上洛した際の宿泊所とするため築城。3代家光の時代、後水尾天皇行幸のため大規模な改修が行われ、二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画などが付け加えられた。かつては五重六階の天守閣もあったが現在は石垣のみ。日本史上空前の出来事として、徳川慶喜が二の丸御殿の大広間で大政奉還を表明したのはあまりにも有名。
一乗谷城
2016年12月12日
21城目。朝方冷え込みが厳しい中、JR一乗谷駅から30分ほど歩いた。足羽川の支流一乗谷川に沿って広がっている。朝倉氏遺跡は、戦国時代に朝倉氏が五代にわたり約百年間越前の国を支配した下町の跡。武家屋敷・寺院・町屋などほぼ完全な姿で発掘された。信長が西進するにあたり朝倉義景は交戦状態に入り、姉川の戦いにおいて敗北を喫する。さらに戦況が悪化すると一乗谷を放棄し、自害を余儀なくされ越前朝倉氏は滅亡。その後、越前の一向一揆を平定して、1575年柴田勝家が北ノ庄城を築城し、越前の首都機能が移転したことにより、一乗谷城は廃城となった。城そのものは一乗山という山頂に築かれている。
伊賀上野城
2016年12月19日
22城目。伊賀のシンボルとしてそびえる現在の復興天守閣は、地元選出の代議士、川崎克によって1935年に竣工した。多くの支援者の協力を得、私財をを投じて建てたのは驚き。さらに、松尾芭蕉や伊賀焼の歴史にも精通していた川崎は、芭蕉翁顕彰のため、城郭の中に俳聖殿も建てた。1585年、筒井定次が始めて近世城郭建設に着手し、三層の天守閣を設けた。1608年、定次は改易となり、天守閣は1633年頃に倒壊したとされる。藤堂高虎はその改易後に宇和島から国替えさせられ、豊臣家がいる大坂に対峙するための城として新たに築城した。高さ30mの高石垣はやはり圧巻。
松本城
2016年12月20日
23城目。個人的に国宝としては4城目。1504年に小笠原氏一族の島立貞永が築いた深志城が前身とされ、松本城への改称は1582年のこと。家康の関東移封によって、小笠原氏に代わり石川数正が松本城に入り、近世城郭の普請と城下町作りを開始した。子の康長に改修工事は受け継がれ、大天守や乾小天守、渡櫓などが完成した。連結式と複合式が組み合わさった特殊な天守群を形作っている。五重天守で現存するのは姫路城とこの松本城のみ。この日は天気に恵まれ、烏城といわれるほどの漆黒さがより照り映えたが、遠方にそびえる北アルプスは雲に隠れてしまった。周辺の旧開智学校などの遺構もおすすめ。
山形城
2016年12月21日
24城目。松本から新潟経由で在来線を乗り継いで行き、初めて山形の地へ。最上氏の祖先にあたる斯波兼頼が1357年に創築した。その後、戦国時代末期に最上義光が幾多の櫓を備え、大規模な平城に拡張した。その後に入った鳥居氏も改修を行う。三重の堀が巡らされた典型的な輪郭式で、本丸に天守はなく、二の丸を中心に防御体制をしいていた。二の丸東大手門は1991年に木造で再建。さらに本丸一文字門が石垣・大手橋等とともに平成27年までに復元整備された。霞城公園は春は桜が美しいそうだ。
仙台城
2016年12月22日
25城目。鎌倉時代創築といわれる千代城があった青葉山に伊達政宗が1600年に築城開始し、そこから2年あまりで完成させた。62万石の大名にふさわしく、当時天守は築かれなかったものの豪華な本丸御殿が建ち並んでいた。政宗死後、二の丸御殿も設け藩政の中心に。しかし、数々の貴重な建造物は明治時代に破却され、さらに1945年の空襲で焼失。現在、大手付近は大手門脇櫓のみが再建されている。本丸からは仙台の街並みを一望できる。伊達政宗像の雄姿が印象的だった。伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿も訪問。
盛岡城
2016年12月23日
26城目。仙台を巡った後在来線でひたすら北上し、途中中尊寺に寄ってから盛岡の地へ。盛岡市民の憩いの場として整備されてある。三戸から不来方の地に居城の移転を決定した南部信直が盛岡藩初代藩主。1597年、その嫡男利直を総奉行とし、築城を始めたという。豊臣家家臣の浅野長政の助言で、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵上に幾つもの曲輪を配し、それぞれ石垣を構築して内曲輪(御城内)とした。築城工事は洪水により困難を極めたが、36年かけて3代重直の代になってようやく完成を見た。明治初期は一時陸軍省所管となった。
犬山城
2017年1月5日
27城目。この城で国宝5城を制覇。別名白帝城。天気に恵まれ4階の高欄の間から愛知と岐阜を分ける木曽川を一望できた。1537年、信長の叔父である信康によって建てられた天守は現存最古の様式。中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として位置づけられる。織田家家臣の池田恒興、中川定成、豊臣家家臣の石川光吉(当の秀吉も一時城主となった)、徳川家陣営の小笠原吉次など城主はめまぐるしく変わった。最終的に1617年、成瀬正成が拝領し、以後成瀬家が幕末まで城主を務めた。
岐阜城
2017年1月5日
28城目。金華山(標高329メートル)頂上までロープウェイで移動。冬晴れに恵まれ長良川や濃尾平野が綺麗だった。斎藤道三が稲葉山城(山城部分)と城下町を作り上げ、そこに信長が美濃を攻略し、稲葉山城を岐阜城と改め居城として整備した。天下布武の印判を押した地として有名。安土城に移ってからは信長子息や一門が入る。しかし、関ヶ原の戦いで城主織田秀信が西軍につき、池田輝政に攻められ開城を余儀なくされる。その後、廃城となるも岐阜のシンボルとして再建された。信長居館入口の復興冠木門や巨大な岩石郡等、当時の信長の権威を感じ取れた。
高取城
2017年1月25日
29城目。日本三大山城の一つで、そのうち最も比高が高いことで知られる。近鉄壺阪山駅から徒歩で高取山に向かった。国見櫓跡からの大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)を含む町の眺めが良かった。高取に初めて城が築かれたのは南北朝期と言われ、地元の土豪越智氏が拠点としていた。1580年、信長が「城割」の命を発し、大和国は郡山城以外全て破却となったが、その4年後には筒井順慶が郡山城の詰めの城として高取城を定め、改修が施された。以来城主はよく代わり、羽柴秀長家臣の本多利久の時は大改修を行い、江戸期になって本多氏が断絶すると、徳川家譜代の家臣であった植村家政が高取藩初代藩主となった。以後、明治維新まで14代に渡り続くことになる。
岡崎城
2017年2月2日
30城目。家康生誕の城として有名。現在ある三層五階の復興天守は1959年に建てられた。家康は幼少の頃、今川家の人質となり他国で過ごしていたが、桶狭間の戦いで今川義元が敗死したことにより、再び岡崎城に拠点を移した。1570年、家康は本拠を浜松に移すと嫡男信康を岡崎城主にしたが、1579年に自刃。その後石川数正、本多重次を城代とした。さらに江戸幕府を開いてからは譜代大名が城主となった。本多康紀の時は井戸櫓や附櫓を持つ複合天守閣が出来上がる。城郭の拡張により東海道が城下に引き入れられ、岡崎は宿場町として繁栄するようになった。
長篠城
2017年2月2日
31城目。一時的に武田氏に服属されていたが、信玄の重篤化により武田軍は西上を取りやめ撤退。その隙をついて家康は長篠城を奪還した。武田軍の再侵攻に備え、家康は奥平貞昌を城主に任命し守備に当たらせた。1575年、武田勝頼の軍が攻め入って当城を包囲。これが「長篠の戦い」の前哨戦となる。結果、武田軍は大敗するも城の損傷は激しく、翌年貞昌は新城城に移転したことにより廃城となった。豊川と宇連川の合流した断崖上に本丸は位置し、まさに天然の要塞。昔激戦が繰り広げられた地にしてはどことなく侘しさを感じる。
鉢形城
2017年2月16日
32城目。荒川と深沢川の間に切り立った崖の上に作られ、遠方から見ると確かに攻めづらさを感じる。1476年、山内上杉氏の家臣長尾景春の築城と伝えられる。1558年から1570年にかけて北条氏邦が大規模な修築を加えた。1590年の秀吉による小田原攻めの際に当城は豊臣方の大軍に囲まれ、氏邦は城を明け渡すことになる。その後、間もなく廃城。発掘調査に基づき四脚門、四阿(あずまや)などが復元整備された。北武蔵を代表する戦国時代の平山城として注目を集めている。
川越城
2017年2月16日
33城目。1457年、上杉持朝の命で、家臣の太田道真・道灌親子が築いたといわれる。江戸時代には江戸の北の守りとして重要視され、幕府の重臣が代々城主となった。現存する建物は、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残っている。しかも、東日本唯一の本丸御殿で歴史的価値は大きい。家光が鷹狩りの際に休憩所として利用した「御成御殿」だったのではないかと考えられている。町並みも古く、土蔵や商家が立ち並び、「小江戸」の風格を帯びていた。他に富士見櫓跡、中ノ門掘跡などの遺構もある。
八王子城
2017年2月17日
34城目。京王線の高尾駅北口から、バスで霊園正門まで行き、そこから徒歩で向かった。戦国時代末期、北条氏康の三男氏照により、支城として築かれた。秀吉の関東制圧により上杉景勝軍、前田利家軍に攻撃され、一日で落城。八王子城の主力のほとんどが小田原城に向かってしまい、兵力が手薄だったところを狙われた。標高445mの深沢山山頂に位置する。山頂には要害地区、御主殿が建てられ、麓は居館地区、城下町を含む根小屋地区に分けられた。
水戸城
2017年2月18日
35城目。茨城県の代表的名勝、偕楽園と合わせて訪ねた。日本最大級の土造りの城で、石垣構築の跡すら見当たらない。元々は平安時代末から鎌倉時代初期にかけて馬場氏が館を構えていたという。1609年、徳川頼房が水戸に封じられ、水戸徳川家の居城に。2代藩主、光圀は国史『大日本史』の編纂事業に着手し、これを通じて幕末に巻き起こる尊王攘夷思想の原点ともいえる「水戸学」が形成された。水戸の象徴的存在だった三階櫓は昭和の戦災で焼失。現在は、土塁や堀、三の丸に作られた藩校弘道館や本丸薬医門(橋詰門)が残る。
足利氏館
2017年2月18日
36城目。平安時代後期に陸奥判官として活躍した源善康が最初の築城とされる。父の義国から足利荘を受け継ぎ、足利義康とも称して足利の祖となった。現在、足利氏宅跡に鑁阿寺(ばんなじ)があるが、1196年足利義廉が敷地内に持仏堂・堀内御堂を建立したのが始まり。さらに、1234年足利義氏が伽藍を整備して足利氏の氏寺となった。本堂・多宝塔・経堂・鐘楼など、これだけの国宝や重要文化財を有している点、関東においてとりわけ貴重な建造物といえる。
松阪城
2017年2月28日
37城目。石垣がかなり高く作られているが、柵がないため落ちないよう注意。快晴に恵まれ、町や海も見張らすことができた。丘陵、四五百森(よいほのもり)に築かれた平山城。1588年、秀吉によって南伊勢12万石を拝領し移封された蒲生氏郷が、3年かけて完成させた。本丸を中心に渦巻き状に曲輪を巡らせた渦郭式という縄張りを持つ。かつては天守の他、それに隣り合うように多聞をつなげて敵見櫓・金の間櫓などが配置されていた。裏門跡を出ると、石畳の両側に並んだ武家屋敷が一際目を引く。現存する江戸時代の武家屋敷の中で最大規模とのこと。
高松城
2017年3月11日
38城目。岡山からマリンライナーに乗車し、香川県へ。人生初の四国観光を満喫。またの名を玉藻城という。1587年、秀吉から讃岐一国を与えられ、生駒親正が国主として入府。その翌年から築城に着手し、数年かけて完成。以降、4代54年間に渡り、生駒氏の治世が続く。1640年、生駒氏の中で御家騒動が生じ、讃岐一国から出羽の国矢島に移された後は、常陸国下館藩主だった松平氏が移って新たに居城を構え、江戸時代の終わりまで続いた。瀬戸内海に面し、堀に海水が満ちる「海城」としての景観が綺麗だった。
徳島城
2017年3月11日
39城目。1385年に細川頼之が築城したが、その後、三好氏・長宗我部氏を経て1585年に蜂須賀家政が入り、修築を施した。家政の嫡男至鎮は家康に従って会津討伐に向かい、戦功を挙げたことから、阿波一国が与えられ徳島藩主となった。復元されたものとして、鷲の門や木橋に架け替えられた数奇屋橋がある。旧徳島城表御殿庭園、徳島城博物館、バラ園と園内は見所が多い。徳島市中央にそびえる城山が「猪山」と呼ばれるのは、形がイノシシに似ていることから。
高知城
2017年3月12日
40城目。徳島から在来線で乗り継ぎ、高知県へ。時間かかったが、四国の山あいや急峻な谷の景色をじっくり味わうことができた。関ヶ原の戦いにより戦功を挙げた山内一豊は、1601年、大高坂山に築城工事を開始し、その2年後に本丸・二の丸が完成、入城した。その優美な姿から「鷹城」の異名をもつ。1727年、大火により追手門以外の城郭ほとんどが焼失したが、1753年までに創建当時の姿で再建された。現存天守閣12城の一つであり、全国で唯一本丸全体の建造物が、江戸時代から完全な形で残っている。特に「懐徳館」という本丸御殿が貴重で、来客との正式な対面所として使われた。幕末に活躍した坂本龍馬・中岡慎太郎などの志士たちに関する展示も堪能。登城後、名勝桂浜へ向かった。
宇和島城
2017年3月13日
41城目。早朝、窪川駅から出発し、予土線をたどった。車窓からの四万十川の眺めは秘境感満載。宇和島駅に着く頃、生憎の雨だったが城の風景と重なり、それなりに風情があった。1596年頃に藤堂高虎が創建し、海に面する地形を活かした縄張りとした。1615年には伊達政宗の長男秀宗が宇和郡10万石を拝領して入城、宇和島伊達家が誕生した。さらに2代宗利の時に城を大改修し、多くの石垣や櫓を修築。現存の層塔型天守は、この宗利の手によるもの。明治に至るまで代々伊達家が継承した。城山南麓、登山口にたたずむ「上り立ち門」は国内現存の薬医門では最大規模を誇る。
大洲城
2017年3月13日
42城目。雨足が強まるなか、早足で登城した。肱川の河畔に望む木造復元天守で、すべて国産材を使用。脇にある高欄櫓と台所櫓は現存の櫓。鎌倉時代末期に守護として国入りした宇都宮豊房により築城されたといわれる。その後、宇和島城と同様、藤堂高虎によって修築され、伊予大洲藩の中心地として城下町は繁栄した。明治期に入り、城内のほとんどが破却され、1888年には老朽化に伴い天守も解体された。四層四階の天守の再構築に当たり、明治時代の古写真や「天守雛形」という江戸期の木組み模型など、資料が豊富にあったため正確に復元できた。庭園で有名な臥龍山荘は時間の都合上入館できず、外見だけ観るにとどめた。
湯築城
2017年3月14日
43城目。道後公園として整備され、道後温泉の手前に位置する。地形はほぼ円形で、中央部は30mほどの高さの丘陵地となっている。公園全域が、中世の守護河野氏の居城として、14世紀前半から約250年存続した。その長い歴史の中で、有力守護細川氏の介入や河野氏一族の内紛があったが、足利将軍家と結びつき、さらに大内・大友・毛利氏などと同盟や縁戚関係を結び、伊予の守護としての地位を堅持した。最後の当主通直は秀吉の四国攻めの際、小早川隆景に城を明け渡し、伊予支配に終止符を打った。堀や土塁など当時の姿のまま残っており、保存状態が良い。
松山城
2017年3月14日
44城目。湯築城から早足で松山城へ。松山市の中心部、標高132mの勝山にそびえ立つ。賤ヶ岳の戦いで有名な七本槍の一人、加藤嘉明が築き始めた。関ヶ原の戦いで家康に従軍し、その戦功により20万石与えられた。1603年、嘉明は城下に新居を移すと、初めて「松山」という名称が公にされた。現在ある連立式天守は1852年に再建されたものだが、昭和に入り、小天守やその他の櫓が放火や戦災等で焼失。昭和41年から総木造による復元が進められた。松山城は天守を含め、門や櫓など21もの重要文化財があり、見所が盛り沢山。天守から見る松山の街の眺めといい、とても素晴らしかった。松山市全体として「坊っちゃん」や「坂の上の雲」など名作の舞台となっているので、歴史や温泉だけでなく文学的にも富んだ街であると肌で感じた。
今治城
2017年3月14日
45城目。松山市を去るのを惜しみつつ、松山駅から乗車し再び電車で移動。夕方、今治駅に着き、徒歩で向かった。伊予半国20万石を領した藤堂高虎が海岸に築いた平城で、またしても築城の名手・高虎の名前が出た。1608年頃、建造物含め全体が完成したとされる。藤堂氏が転封されると、途中から松平氏が領主に。海水が引かれた広大な堀や、城内の港として船入を備えた日本屈指の海城となった。高虎が創建した当時の天守は、最新鋭の層塔型であったと考えられるが、現在の天守は本丸北隅櫓跡に建てられた模擬天守。
丸亀城
2017年3月15日
46城目。四国城巡りの最後は丸亀城へ。季節外れの寒さに我慢しながら登城した。現存12天守のうち最も小さい天守閣だが、高さ日本一を有する「石垣の名城」として知られ、麓から見るとその規模に圧倒される。1597年、生駒親正・一正による亀山への築城が始まり。安土城や大坂城を手本に、城郭だけでなく武家屋敷や城下町までも濠や土塁で囲んだ「総構」の手法を取っている。一国一城令により、生駒氏は高松城を残し、丸亀城を廃城としたが、その後、数々の戦功や良政を評価され、丸亀に大幅加増・転封された山崎家治が1642年から丸亀城の再築を開始し、城下町も整備した。
掛川城
2017年4月23日
47城目。室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出の足がかりとして、家臣の朝比奈氏に命じ築城した。秀吉が天下統一した1590年、山内一豊が入城し、それから10年間在城。賢明な一豊は城郭を大規模修築し、天守閣や大手門を建設するとともに、城下町の整備や治水工事に尽力した。安政の大地震で天守閣など大半が損壊したが、再建されることなく明治期に廃城。1994年、日本初の「本格木造天守閣」として往時の姿が蘇った。黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと考えられている。
駿府城
2017年4月23日
48城目。武田氏が滅亡したのをきっかけに、家康が甲斐・駿河の武田遺領を領有した。1585年、安倍川の扇状地につくられた今川氏の居館があった場所に築城を開始。浜松城からここに居城を移した。その後、秀吉が天下統一すると、秀吉の命により関東へ国替え。かわりに豊臣系大名の中村氏が入城した。江戸時代に入ると、家康が隠居のため再び入城し、大改修が行われた。現在の3重の堀を持つ輪郭式縄張りは、この時出来上がった。家康は大御所として実権を掌握し、駿府は江戸と並び政治・経済の中心地に。東御門から入り、巽櫓・紅葉山庭園・坤櫓などを散策。春霞のせいで富士山はほとんど見えなかった。
山中城
2017年4月23日
49城目。三島駅からバスで30分ほどで着く。日が暮れる前に急いで登城。石垣はなく土塁と空堀でできた土造の城だが、岱崎出丸や西櫓・西ノ丸間の障子堀が美しく、他の城では見られない景観だった。1560年代、小田原北条氏が西方に対する防備の要塞として箱根外輪山の西側斜面に築いた。さらに、尾根筋を利用して曲輪を配置し、街道も城域に取り込んだ。しかし、天下統一を進める秀吉の大軍に攻められ陥落。この時の城将松田康長、副将間宮康俊などの武将たちの墓が、三ノ丸にある宗閑寺境内にある。
千早城
2017年5月1日
50城目。金剛山への登山ルートの途上にある山城。最寄りのバス停「金剛登山口」から徒歩約2,30分くらいで本丸跡に着く。登山口からは石段が延々と続いており、千早城を攻めるのに容易でないことが体感できる。本丸には千早神社が鎮座。室町時代の軍記物『太平記』によると、楠木正成が鎌倉幕府に対して1332年に挙兵した際、上赤坂城とともに中心的な山城として重要な役割を果たし、激しい籠城戦にもかかわらず落城しなかったという。
丸岡城
2017年6月3日
51城目。6月といえど冷涼な空気に包まれ、気持ちよく登城できた。北陸唯一の現存天守であり、その現存天守の中でも最古の建築様式を誇る。別名「霞ヶ城」という名の通り、桜の名所としても知られる。1576年、一向一揆の備えとして、信長の命で柴田勝家が甥の勝豊に築かせた。二層三階の天守の屋根に葺かれているのは、笏谷石という石を加工した石製の瓦。福井市内の足羽山で採れるもので、雨に濡れるとより美しく映える特性があるという。家康の重臣である本多重次が、陣中から家族に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」の手紙が有名で、本丸への登り口にその碑がある。重次の長男、成重が越前丸岡藩の初代藩主。
高遠城
2017年6月24日
52城目。車で伊那インターから国道に沿って東進した。高遠城址公園として整備されており、園内には国の登録有形文化財に指定されてある高遠閣や城下から移築された問屋門、太鼓櫓等、歴史的建造物が豊富。草木の緑が一面を覆い、本格的な夏が近づいているように感じた。元々高遠氏が拠点としていたそうだが、築城年代は不明。武田信玄に滅ぼされてから、1547年に大改修が行われ、以後武田氏の南信濃支配の重要拠点となった。1582年、信長嫡男の信忠に攻められ、時の城主仁科五郎盛信が迎撃するも城は陥落。この高遠城の戦いで武田氏の支配が終わるきっかけとなった。
金沢城
2017年7月15日
53城目。夏の日差しが強く暑かったが、名勝兼六園も含め隈なく散策し満喫。1583年、賤ヶ岳の戦いの後に前田利家が入城し、本格的な城づくりを開始。高山右近を招き、築城の指導を仰いだとされる。1602年、落雷により天守が焼失し、さらに1759年の火災で城のほとんどが焼失した。その後も幾度か火災があったが、平成に入って菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が復元され、安政の頃の景観が再現された。城内のあらゆる壁に貼られた『なまこ壁』が一際目を引く。玉泉院丸庭園は、加賀藩三代藩主前田利常によって作庭を始められ、その後歴代の藩主により手を加えられた。饗応の場として活用された「兼六園」に比べ、藩主の内庭としての性格が強い。
高岡城
2017年7月16日
54城目。現在は城跡だが、高岡古城公園として整備され、国指定史跡や日本遺産にも選出されている。朝雨が止んでから登城。蒸し暑さが園内を満たした。加賀藩前田家二代の利長が、隠居していた富山城が1609年の大火で焼失したため、当時関野と呼ばれていた地に新しく高岡城を築いた。縄張は築城の名手でキリシタン大名である高山右近へ伝承された。入城して5年、利長は亡くなり、1615年の一国一城令で廃城に。しかし、城跡は残り、町民から「古御城」として親しまれた。水濠は全体の面積の三分の一を占め、そのほとんどが築城当時のままに残されている。
鬼ノ城
2017年9月30日
55城目。服部駅からタクシーで鬼城山ビジターセンターへ向かった。古代の文献資料がなく、謎の多い朝鮮式山城。岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼、温羅(うら)が築いたとされ、この城に住んで貢物や婦女子を略奪し、人々に恐れられたと言い伝えられている。「桃太郎」のモチーフといわれる伝説では、吉備津彦命(きびつひこのみこと)がこの温羅を退治したと言う。鬼城山はすり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦になっている。城壁は2.8kmにも及び、4箇所の門、6つの水門、角楼、高石垣など大々的に備えた。水門の設備などを見るに、先人の知恵の深さを改めて実感した。
備中松山城
2017年9月30日
56城目。標高430mの臥牛山頂上付近に建っており、現存天守を持つ城としては最も高い所にある。鎌倉時代、地頭秋庭重信が築いたのを起源とし、1683年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の姿となった。この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地だったため、戦国時代は激しい争奪戦が起き、城主交代が度々繰り返された。1575年、三村氏に代わり毛利輝元が城主となり、東方進出の拠点となった。毛利氏が関ヶ原の戦いで敗れて防長二国に退くと、江戸時代になってからは備中国奉行として赴任していた小堀正次、政一(遠州)父子により修築が行われた。幕末、徳川慶喜を補佐したのは備中松山藩主・板倉勝静。その勝静に仕えた漢学者・山田方谷は藩政改革を断行し、財政破綻しそうだった藩を立て直した。二重櫓や土塀だけでなく、峻険な岩肌の上に積まれた石垣は、他の城には見当たらないくらい荘厳。
七尾城
2018年2月3日
57城目。頂上へ登るにつれて積雪量が増し、身の危険を感じつつもなんとか本丸までたどり着いた。積雪時の山城登城は油断禁物。本丸からの七尾湾の眺めは、雪と青空を交えとても綺麗だった。能登国の守護・畠山氏が戦国時代に築いた城館跡。一帯は「城山」と呼ばれている。七つの尾根筋を中心に多数の曲輪を連ねたことが名前の由来となった。1577年、上杉謙信の攻撃に合い落城し、169年にわたる畠山氏の領国支配が終わった。その後は上杉氏が入り、1581年には信長から能登一国を与えられた前田利家が入城。港に近い小丸山で新たに築城することにより、七尾城は城としての機能を失った。
福岡城
2018年5月1日
58城目。九州城攻めの第一歩は福岡城へ。大濠公園も合わせて訪ね、池に浮かぶ「中の島」の景色に感動。豊前国中津から筑前国福岡(52万石)に移封された初代藩主黒田長政が1601年に築城開始し、7年程かけて完成した。平山城で、天守閣はなく過去建てられた時期があったかどうかも不明。大中小の各天守台と47の櫓があったという。多聞櫓・(伝)潮見櫓・下之橋御門など多くの文化財を有する。関ヶ原の戦いを終え、藩祖の長政が入って以降、他氏に替わることなく黒田氏12代で明治を迎えた。
大野城
2018年5月1日
59城目。大規模な古代朝鮮式山城で、百済からの渡来人の指導で造られたとされる。全周約8kmあり、健脚の人でも1日で隅々まで巡るのは厳しいかもしれない。百済支援のため、663年に大和朝廷は白村江の戦いに臨んだが、新羅・唐連合軍に敗戦。日本に来襲するのを恐れ、大和朝廷は九州を中心に防御施設を整えた。そのうち、太宰府の北側の守りとして四王寺山(大野山)に築かれたのが大野城。土塁や石塁、礎石群もいいが、全長約180mにわたる百間石垣がやはり見所。この日、観光客は見当たらず侘しさもあったが、山城全体を独り占めした気分になれた。
佐賀城
2018年5月2日
60城目。生憎の大雨のため、気分的に落ち着いて散策出来なかった。本丸正門である鯱の門は、天保期の現存建物であり、堂々たる構えが印象的だった。1608年、戦国大名龍造寺氏の居城であった村中城を鍋島直茂・勝茂父子が拡張して築造した。享保年間(1716〜36)の火災で天守を始め建物の多くを焼失。さらに、1835年にも火災が起き、藩政の中心だった二の丸御殿が焼失したため、10代藩主鍋島直正が再建に着手し、本丸御殿を建設した。本丸御殿は、明治以降も学校など様々な施設として利用されたが、1957年までに鯱の門を除いて全て解体された。2004年に本丸御殿の一部が木造復元され、佐賀城本丸歴史館として開館した。
名護屋城
2018年5月2日
61城目。西唐津駅からバスで30分ほど。東松浦半島北端に位置する。雨や霧のせいで期待していた玄界灘の景色が全く見えず、残念。大陸への出兵を目論んだ秀吉が、1591年に築城開始し、翌年完成。台地の頂上を本丸とし、二の丸、三の丸、山里丸、水の手曲輪などを備え、九州諸大名に普請を命じた。戦のための陣城とはいいながら城域は約17万平方メートルにも及び、金箔瓦を使用した五重天守も建てられた。城の周囲には大名たちの陣屋がおかれ、一時はかなりの賑わいを見せたという。秀吉の病没後、戦いは集結し、名護屋城は廃城。用材は近くの唐津城が築かれる際に転用された。
平戸城
2018年5月3日
62城目。日本最西端の駅「たびら平戸口」からバスで向かい、平戸大橋を渡った後に下車して登城。前日とは打って変わってよく晴れ、海と城の絶景を楽しむことができた。鎌倉・室町時代にかけて、この地は水軍として名を馳せた松浦党の本拠地であった。1599年、松浦家26代鎮信(しげのぶ)は亀岡に「日の岳城」築いたが、当時豊臣家と親交が深かったことから家康に嫌疑をかけられ、その疑いを晴らすべく城を焼却。松浦家は以来、約90年間「御館(おたち)」で過ごし、藩庁かつ藩主の私邸として使った。30代棟(たかし)の時、幕府の許可がおりて、1704年に再築を開始。これが今の平戸城である。全国的にも珍しく山鹿流の縄張りを採用。明治になって廃城したが、1962年、本丸に三重五階の模擬天守などが復興されている。城内には江戸期に通商を行っていた国々に関する資料や松浦家の遺品が展示されている。
島原城
2018年5月3日
63城目。松浦鉄道・JR大村線・島原鉄道と乗り継いで、ようやく島原の地へ。天守からは西側背後にそびえる雲仙普賢岳、対する東側の有明海と爽快な景色を味わえた。五重五階の天守は最上重を除いて破風が全くない典型的な層塔型天守。1618年、松倉重政が築城開始。築城のための課役、キリシタンへの弾圧、過酷な年貢などが原因で、農民たちが天草・島原の一揆を起こした。一揆勢は原城に立てこもり鎮圧されたが、松倉氏は一揆を抑えられなかった責任を取り断絶。その後、高力氏、松平氏などが入った。天守の他、巽三重櫓・丑寅三重櫓も再建されており、高石垣上に立ち並ぶ姿が美しい。
吉野ヶ里
2018年5月4日
64城目。前日に続き五月晴れで、心地よい風が吹き快適に登城できた。言わずと知れた弥生時代の環濠集落。脊振山地南麓から平野部へ伸びた帯状の段丘に位置する。城柵や環濠、主祭殿や物見櫓などが整備・復元されており、「ムラ」から「クニ」へ発展していく過程を知るための重要な史跡として注目されている。吉野ヶ里では、弥生後期の環濠において突出部が作られ、そこから物見櫓を思わせる掘立柱建物跡が発見されたことから、『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国を彷彿させた。「北内郭」は「クニ」の中心と考えられ、物見櫓・高床住居・竪穴住居等を配し、城柵と環濠で囲まれている。また、「南内郭」は王や支配階級の人々が暮らしていた場所と考えられ、建物は竪穴住居が主体となっている。
甲府城
2018年6月9日
65城目。古くは甲斐府中城、舞鶴城などとも呼ばれていた。武田氏滅亡後、豊臣政権の重臣浅野長政らによって築城された。関ヶ原の戦い後は、徳川一門によって支配され、幕末まで存続した。江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城だったが、1704年、当時の城主・徳川綱豊が綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、側用人の柳沢吉保が城主となり、城の拡張と修築が行われ、城下町も整備された。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山へ転封された後は、甲斐は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下に置かれた。現在の城地は江戸期と比べ、3分の1以下になったが、主要部の高石垣や天守台など往時の面影が残っている。
武田氏館
2018年6月9日
66城目。甲府城を登城してからすかさず北上し武田氏館へ。1519年に武田信玄が築いた武田氏の本拠で、「躑躅ヶ崎館」の呼び名で親しまれている。1919年に武田神社が創建された場所は、信虎、信玄、勝頼の三代が居住していた所で、政務の中枢を担っていた。一辺200mの正方形の主郭(現武田神社)を中心にいくつかの付属の曲輪で構成されている。かつては館の南側に家臣の屋敷や寺社など城下町が展開されていた。館は勝頼が新府城へ移転する際に一時破却されたが、武田氏滅亡後に甲斐国の統治拠点として織田・徳川・豊臣氏の家臣団により再利用された。
岸和田城
2018年8月15日
続1城目。続100名城シリーズ最初の登城。蛸地蔵駅から徒歩で向かった。楠木正成の一族・和田高家が現在の城より東側の野田町に築いたのが始まりとされる。1585年、秀吉の根来討滅により、秀吉の伯父・小出秀政が城主になり、本丸を五層の天守に仕立て上げた。以降、岸和田城主は、小出氏3代、松平氏2代と続き、1640年からは岡部氏が務めた。岡部宣勝はさらに城を近世城郭へと大改築し、明治維新に至るまで岡部氏13代が居城。1827年、天守閣は落雷で焼失。「八陣の庭」は、1953年に重森三玲が設計・作庭を行った独創的な回遊式枯山水庭園。
新宮城
2018年8月18日
続2城目。城跡からは緑と海・川があわさりとても景色が綺麗だった。珍しいことに城址の地下は紀勢本線が走り、熊野川を渡る列車もこれまた風情がある。1600年、和歌山城主であった浅野幸長は、家老の浅野忠吉に新宮の地を分け与え、翌年から築城開始。一時、一国一城令で廃城となるも、1618年に築城許可が下り、再び築城に着手する。しかし、工事半ばで主家の長晟(ながあきら)や家老の忠吉が移封され、代わって入封した水野重央(しげなか)が引き継ぎ、2代重良が1633年に完成させた。熊野川沿いの水の手曲輪では、炭納屋跡や船着場跡が発掘調査で確認され、ここに集められた木炭を江戸へ運んでいたとのこと。
津城
2018年8月25日
続3城目。信長の弟信包が1580年に創築。以後、津は城下町として栄える。その後、藤堂高虎が今治から移封し、1611年に大改修を行う。北側の石塁を高く積み増し、その東北と西北の両隅に三重櫓を築いた。高虎は参宮街道を城下に引き入れるなどして町の基礎を作り上げ、2代高次はそれをもとに城下を整備した。現存遺構は石垣ほどしかないが、その直線的な高石垣から高虎の築城技術の凄さを感じた。津城で唯一存在する建築物は、戦後建てられた「模擬櫓」で、櫓の下にそびえる石垣は当時から崩れず残っている。
田丸城
2018年8月25日
続4城目。夏空が映える中、セミの合唱が凄まじかった。近くにある村山龍平記念館も帰りに訪問。本丸の北側に天守台を配し、その手前に付櫓があり、穴蔵が存在する。1336年、北畠親房が南朝側の拠点として築いたことに始まる。15世紀後半は愛洲氏が城主となり、後に田丸氏に改名。1569年、信長は伊勢侵攻を始め、次男信雄に北畠氏の家督を継がせ、伊勢一国を支配下に置いた。その後、一時田丸氏が城主に復帰するも、稲葉氏を経て、1619年に紀伊徳川家付家老の久野氏が城主となり、以後幕末まで続いた。
八幡山城
2018年9月8日
続5城目。久々にロープウェーに乗り、八幡山山上駅へ。秋雨のせいで琵琶湖や比良山系は全く見れなかった。近江など43万石領主となった秀吉の甥・秀次の居城として1585年に築城され、宿老田中吉政が入城した。秀次は後に秀吉の養子になり関白に昇ったが、秀頼の誕生で失脚。秀次の移封後、京極高次が八幡山城に入城するも、1595年に廃城となる。城は主に山上と山麓に分かれ、ともに総石垣で構成される。本丸の虎口は外枡形で、秀吉の時代の城と推定されるが、天守台は明確になっていない。
広島城
2018年10月21日
67城目。この日は天気も気温も心地よく、雲一つない行楽日和に。内堀から望む天守や二の丸の櫓群はこの城ならではの景色で、非常に雄大。元々安芸高田に毛利家の居城があったが、経済的利便性等を考え広島へ移ることを決意。1589年、毛利輝元が瀬戸内の交通の要衝太田川の三角州に、城下町も含めて築城に着手した。このデルタ地帯の築城工事は「島普請」ともいわれ、10年を要したが、五重五階の大天守に小天守を連ねた連立式天守をはじめ、数多くの櫓群が120万石の大名たる威厳を誇った。1600年、輝元は萩へ移され、代わって福島正則が入ったが、幕府に無断で石垣を修築し改易される。その後、入封した浅野氏が明治まで続いた。天守は原爆により倒壊し、1958年に鉄筋コンクリート製で再建される。戦争がいかに悲惨かを改めて思い知った。
郡山城
2018年10月21日
68城目。広島城登城後、広島バスセンターから1時間半かけて安芸高田へ移動。谷が複雑に入り組んだ山全体を城域とした西日本最大級の戦国山城。吉田盆地を見渡す可愛川と多治比川の合流点の北側に位置する。14世紀中頃から地頭として吉田荘に土着した毛利氏が築いたとされるが、築城期は不明。その後、16世紀中期に毛利元就が城の拡大強化を図った。元就の孫輝元は広島城の建築に着工し、1591年に広島へ本拠を移した。郡山城は関ヶ原の戦い後に廃城となる。元就の菩提寺洞春寺は1572年に建立され、境内に元就やその一族の墓がある。墓は苔むしており、厳かな雰囲気が漂っていた。
米子城
2018年11月16日
続6城目。湊山公園の湊山山頂に本丸を置く広大な城。本丸手前の並立する天守台の姿が圧巻で、さらに頂上部へ登りつめると山々や中海の眺望が最高だった。応仁・文明の乱の頃、山名氏が飯山(いいのやま)に築いたと伝わる。戦国期には尼子氏が支配し、その後毛利氏が山陰を平定すると吉川広家が入り、1591から隣接する湊山に近世城郭の築城を開始した。広家が周防岩国へ移封されると、中村一忠が入り五重天守を建造。その後、加藤氏、池田氏、荒尾氏と城主が交代し明治を迎えた。建物こそないが、本丸・二の丸・三の丸、それに内膳丸や采女丸といった出丸など、当時の縄張の形態をとどめている。
月山富田城
2018年11月17日
69城目。安来駅からイエローバスに乗り、市立病院前で降車。息を切らしながら山中御殿・七曲りを通り本丸へ。周辺の紅葉はかなり進み、季節感満載。中世、出雲国を統一し、戦国大名となった尼子氏が、出雲支配を拠点とした城。1565年、毛利元就に攻め込まれると、籠城の末開城し、尼子氏は滅亡した。それから吉川氏や毛利氏一族が入り、関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れた後は、吉川氏に替わって堀尾氏が移封された。1608年、堀尾吉晴が松江に居城を移し、廃城となった。尼子家再興のため主家への忠義を貫いた武将・山中鹿介ゆかりの地でもあり、出雲における尼子氏の権勢を復活させるべく毛利氏に対抗するなど、数々の逸話が伝承されている。
浜田城
2018年11月17日
続7城目。夕日が沈む前に浜田駅から急ぎ足で城跡へ向かった。浜田市市街地中央部に位置する丘陵上にあり、別名亀山城という。昔、港として栄えた外ノ浦湾の風景に情趣を感じた。1619年に初代浜田藩主となった古田重治によって築城されてから、1866年に幕長戦争で大村益次郎率いる長州軍によって落城するまでの247年間、浜田藩主の本拠地だった。城の北側は断崖で日本海にのぞみ、南から西にかけて浜田川が堀の役割を果たした。古田氏は2代重恒に嗣子がいなかっため改易となり、その後は譜代大名の松平氏や本多氏等が藩主となった。かつては三層の天守があったが、1872年の浜田地震により倒壊し、現在石垣を残すのみ。
美濃金山城
2018年12月1日
続8城目。1537年、美濃の守護代一族斎藤妙春(正義)が築城した烏峰城がルーツとされる。妙春が1548年に久々利氏に謀殺されると、長井道利が城主となったが、やがて道三の娘婿でもある織田信長が美濃を支配したのに伴い、家臣の森可成が城主となり、「金山城」に改称。以降、長可・乱丸・忠政へと継がれる。1600年、忠政が川中島へ転封となると、石川氏の預かりとなり、翌年建物は解体されて犬山城の改修に使われた。天守も移築されたとの説があるが、今日では否定されている。自然岩盤を利用した石垣や破城の痕跡が見所。
高島城
2018年12月8日
続9城目。模擬天守だが、石垣や堀・冠木門も含め全体的に壮麗だった。諏訪社の神職だった諏訪氏が家康の関東入りに伴ってこの地を離れると、代わって築城名手と名高い日根野高吉が諏訪に入り、1592年から7年かけて諏訪湖畔に高島城を築いた。その後、諏訪氏は諏訪頼水の時に高島藩3万石の藩主として、父祖の地を回復し、明治維新まで城を守り抜いた。築城当時は主要な郭をほぼ一直線上に配置した連郭式で、諏訪湖と数条の河川に囲まれた、難攻不落の水城だった。城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから「諏訪の浮城」と呼ばれた。明治期に廃城となり、天守閣の撤去が終了すると、本丸跡が高島公園として一般に開放された。
苗木城
2018年12月16日
続10城目。中津川市内を流れる木曽川の右岸にそびえる高森山に築かれた。岩山の上にあり、敷地確保が困難であることから、懸造りという建築手法が用いられている。最大の魅力は巨岩を取り込んだ石垣で、それを取り巻く恵那山や木曽川の景色も素晴らしい。1520年代に遠山氏が築き、その後は豊臣氏に城を追われることになるが、関ヶ原の戦い前に家康の指示で苗木城奪還に成功し、苗木領の大名となる。以来明治に至るまで、苗木領主として初代友政から十二代友禄にわたりこの地を治めた。一万石という小規模の大名だったが、幕末期の一万石大名のうち苗木遠山氏のみが城を保有していた。
松代城
2019年1月6日
70城目。千曲川の自然堤防上にある城。1560年頃、武田信玄が北信濃を支配するため築城した。当初は海津城とも呼ばれ、武田・上杉の合戦で知られる川中島の戦いの舞台となった。信玄の死後、信長の家臣や上杉景勝の武将が入城するなど、城主は目まぐるしく変転する。1622年、真田信之が城主となり、真田氏3代目幸道の時に松代城と改名したとされる。近年、本丸大手の太鼓門や搦手の北不明門さらには二の丸周囲の長大な土塁も復元整備され、往時の姿がよみがえった。城の南側に位置する真田邸は、9代藩主幸教が義母・貞松院の住まいとして、1864年に建築した城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていた。
芥川山城
2019年3月2日
続11城目。倒木・倒竹が見受けられ、進入しづらい箇所が多かった。三好山自体が民有地ということもあり、致し方ない部分はある。摂津・丹波の守護・細川高国によって、1516年までに築城された。この後、高国を自害に追い込んだ細川晴元が滞在するが、三好長慶が晴元を追放し、1553年に入城。畿内を支配し、天下人との評価を受けるも、1568年に信長の軍勢に城を追われ、信長に擁されて上洛した足利義昭の重臣・和田惟政が城主となる。最終的には、高山右近父子が城を預かり、やがて廃城となった。
飯盛城
2019年3月2日
続12城目。登城の際、四条畷方面から向かうと急な坂を登らなければならないということで、野崎駅方面から行くことに決めた。飯盛山の山頂に四條畷市と大東市にまたがって存在する中世最大級の山城。三好長慶が居城とした所で、1560年に芥川山城から拠点をこの城に移した。長慶は将軍足利義輝を京都から追放し、信長より先駆けて政権を樹立させた「天下人」として名を馳せるようになる。やがて、長慶が没し、信長の勢力が伸びて、摂津・河内が平定されると、1576年ついに攻め落とされ廃城となった。
大和郡山城
2019年3月16日
続13城目。1580年、信長は大和一国の検地と新たに築かれる郡山城以外の城郭の破却を命じ、筒井順慶を城主とした。1585年に秀吉の弟秀長が100万石で入封すると、その石高にふさわしく整備された。その後秀長の養子秀保、増田長盛、さらには譜代大名数家が継いで、最後は柳澤氏6代が城主を務めて明治を迎えた。奈良盆地では良質な石材が乏しかったことから、付近一帯から「転用石」として墓石や石地蔵が集められた。その代表である「さかさ地蔵」は現在でも親しまれており「大永三年」の銘がある。内堀から望む追手向櫓や追手門の景観が素晴らしかった。天守台からは平城京大極殿・薬師寺なども望むことができる。
宇陀松山城
2019年3月16日
続14城目。辺りに杉が鬱蒼と繁る坂をひたすら登り、天守郭へ。頂上部(本丸)の木々はほぼ切られており、開放的になっていた。本丸にはかつて本丸御殿をはじめとする複数の礎石建物があった。14世紀半ば頃に秋山氏により築城される。豊臣政権下においては、大和郡山城・高取城とともに大和国支配の要をなした。やがて、徳川家大名の城となり、城主が福島高晴の時に「松山城」と改名されるが、大坂夏の陣で豊臣方と通じていた疑いで改易され、1615年に城は破却された。城山北西麓の春日神社には、宇陀松山城大手筋にあった春日門の櫓台が残っている。
鮫ケ尾城
2019年4月6日
続15城目。長野県側から『しなの鉄道』、『えちごトキめき鉄道』を乗り継いで新潟県へ。北新井駅から徒歩で向かった。雪を纏った妙高山がはっきり見えるくらいの青空で、かつ春の風物詩として名高いカタクリの花がよく咲いており気分爽快。1578年に上杉謙信が死去すると、長尾氏から養子になった景勝と、北条氏から養子になった景虎による後継者争いである御館の乱が勃発した。追い詰められた景虎は翌年にこの城に逃れ、数日の攻防の末、自刃したと伝えられる。主郭の北には堀切を挟んで米蔵と呼ばれる曲輪があり、現在でも表面を観察すると焼米などを見つけることができる。
高田城
2019年4月6日
続16城目。花見客が大勢いるなか、水堀の中心に建てられた三重櫓が一際異彩を放っていた。1610年、御家取り潰しとなった堀氏にかわって、家康の六男松平忠輝が信濃国川中島から入封。1614年に天下普請として伊達政宗や上杉景勝ら13大名に命じ、高田城築城に着手した。高田平野の中央よりやや西に寄った地点で、当時は菩提ヶ原と呼ばれていた。天守閣は建築されず、石垣もないのが特徴的だが、その理由は当時豊臣家との抗争に控え、完成を急ぐ必要があったからだと考えられている。忠輝は大坂夏の陣への遅参などを咎められ、1616年に改易。その後、稲葉氏や戸田氏など親藩・譜代の藩主が入れ替わり幕末を迎えた。高田城は春は日本三大夜桜、夏は東洋一といわれる蓮を楽しむことができる。
春日山城
2019年4月6日
71城目。この日は鮫ヶ尾城、高田城に続き、春日山城まで電車と徒歩で移動したため、終盤かなり足が痺れた。本丸からは頸城平野やそれを取り巻く山並みが一望できた。初期の築城者は不明だが、戦国時代に越後守護代長尾為景とその子景虎(上杉謙信)らが本格的に城を大規模に整備強化した。石垣は用いられなかったが、監物堀と呼ばれる長大な堀と土塁の総構の一部が今でも残る。謙信が出陣前に戦勝を祈願した所である毘沙門堂も見所の一つ。1579年に養子の景勝に、1598年には景勝の会津移封に伴って堀秀治に引き継がれるが、堀氏が1607年に直江津港付近にて福島城を新築して移ると、城としての使命を終えた。
新発田城
2019年4月7日
72城目。戦国時代に新発田重家が本拠地とした旧新発田館跡に、1598年加賀国大聖寺から入封した溝口秀勝が築城した。以来廃藩置県に至るまで溝口氏のみが城主を引き継いだ。周囲を沼沢地に囲まれ、また本丸を二の丸が取り囲み、三の丸が南方に突き出すという瓢箪形の特異な縄張となる。3代宣直の時に完成し、本丸には実質上の天守として、屋根が丁字型の三階櫓が築かれた。現在、三階櫓は木造再建されているが、本丸表門と旧二の丸隅櫓は現存しており、歴史的価値が大きい。本丸と二の丸の半分は、廃藩置県後、陸軍省の管轄となり、第二次大戦まで兵営として使われたが、1953年からは陸上自衛隊が駐屯し、現在に至る。
多気北畠氏城館
2019年4月27日
続17城目。4月後半とは言え、冷たい風が吹きかなり寒かった。山深い所に位置する館跡は上中下段の三段構造になっており、苔むした庭園は国名勝史跡に指定されるほど立派だった。平時の居館(多気御所)と西に構えられた詰城、さらに戦時の詰城である霧山城からなる典型的な中世山城。南北朝時代、南朝方の重臣北畠親房の三男で伊勢国司に任じられた顕能(あきよし)を祖とする。北朝方に田丸城を攻められ、多気へ逃れた顕能が築いたという説がある。その後、多気北畠氏が本拠としていたが、1569年に8代具教(とものり)が信長に降伏し、さらに1576年に具教は謀殺され、廃城となった。
忍城
2019年5月2日
続18城目。令和最初の城めぐりは『のぼうの城』で有名な忍城へ。五月晴れに恵まれ、御三階櫓が美しかった。成田氏が1470年頃に築城したとされるが諸説ある。戦国時代には上杉氏や北条氏の侵攻を何度も退け、難攻不落の城として名を馳せた。1590年の小田原平定の際、石田三成の軍勢に水攻めされるも、当時の城代だった成田泰季が多数の兵や領民を城の要所に配置したことで、小田原城開城まで持ちこたえ、「浮き城」の別名がついた。その後、家康が関東入りすると、譜代の有力大名が入れ替わり入封した。かつて行田の町では足袋の生産が盛んで、それにまつわる多数の用具や関係資料が重要有形民俗文化財に指定されている。
唐沢山城
2019年5月2日
続19城目。評判通りたくさんの猫が戯れており、とても癒された。940年に東国で反乱を起こした平将門を成敗し、下野守と武蔵守を拝命した藤原秀郷が築いたとされるが定かではない。平安時代の末からこの地の領主を務めてきた佐野氏が、15世紀に本格的に造り始めた説がある。唐沢山一帯は明治時代になると新政府の管轄下に置かれたが、佐野家ゆかりの人々は唐沢山古城跡に秀郷公を祀る神社を創建することを決議し、国や県に働きかけた。その結果、神社設立と官有林払い下げが許可され、1883年10月に大祭を施工し神社創建が実現された。本丸跡に残る高石垣は勿論、神社拝殿や本殿も威厳を感じた。
土浦城
2019年5月3日
続20城目。室町時代中期に小田氏の家臣菅谷氏が築いたといわれ、後に佐竹氏に追われた小田氏治が入城した。1590年の小田原平定後、家康の二男結城秀康の所領となり、関ヶ原の戦い後は主に譜代小藩の藩庁となった。江戸中期以降は土屋氏が代々城主となる。1685年、松平信興の時に甲州流軍学による築城術で大改修され、現在の縄張が完成。本丸は小規模ながら周囲には水堀がめぐり、水に浮かぶ亀の姿にたとえられ、「亀城」という呼び名がある。本丸正面の大手門となる櫓門(太鼓門)は1656年に改築され、関東地方で唯一現存する櫓門。
笠間城
2019年5月3日
続21城目。縄張は標高207mの佐伯山山頂周辺に展開しており、天守曲輪までの登りは少々きつかった。岩山の巨石を利用した天守曲輪では残存状況の良い石垣が見られ、櫓を転用した佐志能神社が鎮座している。元々鎌倉時代より笠間氏が本拠としていたが、小田原平定後に宇都宮氏に攻め滅ぼされ、城を奪われる。1598年、代わって蒲生秀行の所領となる。秀行は重臣蒲生郷成を城代に配し、郷成の手で中世城郭から近世城郭に改修された。江戸時代になり、浅野氏が藩主の時に山麓に下屋敷を造営したが、近世においては珍しく山上の城も幕末まで存続。本丸の八幡台にあった二重櫓は明治期に真浄寺に移築され、七面堂として使用されている。
本佐倉城
2019年5月4日
続22城目。汗ばむ陽気の中でも時折風が吹いて気持ちよかった。東山馬場に設置された千葉氏の家紋月星紋の盾が綺麗だった。1454年、古河公方と関東管領上杉氏が対立した享徳の乱が関東全域に広がり、下総の千葉氏もこの戦乱の中で内紛が起こる。これにより、本宗家が滅亡し、一族の岩橋輔胤が継承。本拠を千葉から佐倉(現酒々井町)へ移し、新たに築城した。秀吉の小田原征伐において、千葉氏は北条氏に味方し敗れ滅亡し、廃城となった。城域は大きく内郭と外郭に分かれており、現在周辺は田んぼだらけだが、かつては印旛沼と湿地帯に囲まれた要害だった。
大多喜城
2019年5月4日
続23城目。中世の頃の地名は、史料に『小多喜』とあることから、小多喜城と呼ばれていたとみられる。16世紀の前半代に武田氏が入城したと言われるが、その後安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、上総正木総家の居城として発展する。小田原平定後は本多忠勝が入城。忠勝は近世城郭に仕立て上げ、夷隅川に囲まれた山麓に城下町を開いた。1609年、スペインのサン・フランシスコ号が難破し、大多喜で保護されることとなった。そこに乗船していた一行のひとりであるドン・ロドリゴは『日本見聞録』に大多喜城の壮麗さを書き記し、海外でも高い評価を受けている。県立大多喜高校の敷地内には二の丸大井戸や昭和期に移築復元された薬医門があり、特異な風景だった。
上田城
2019年6月1日
73城目。尼ヶ淵一帯から見る西櫓・南櫓の姿が雄大だった。かつて城の南側の崖下には千曲川の分流があり、天然の堀となっていたが、崖面がもろく崩れやすかったことから、築城以来保護対策が行われ、大規模な石垣が設置された。本丸に建てられた7基の櫓のうち、南・北・西の3基が現存する。1583年、真田昌幸が築城。家康が北条氏と和睦を結んだ際、真田氏の所領である沼田領を北条氏に引き渡すとしたため、昌幸はこれを拒否し、家康との関係が悪化。1585年、家康が攻めるも城は落とせなかった。さらに1600年、関ヶ原に向かう徳川秀忠軍を上田城で迎え撃ち、結果的に秀忠の参軍を遅らせた。二度の上田合戦を経ても落城しなかったことで、真田武士の気概を天下に知らしめることとなる。関ヶ原の戦い後、城は破却されるも、1622年に仙谷忠政が復興し、本丸や二の丸が改修されたが、忠政の死で未完に終わり、以後城の形は変わらなかった。
小諸城
2019年6月1日
74城目。上田城登城後、小諸城に向かって東進。1487年、信濃守護小笠原氏の流れをくむ大井光忠が、現在の大手門北側に最初に築いたとされる。1554年、佐久地方を制圧した武田信玄は城を拡張整備し、1591年に入城した仙谷秀久による大改造を経て、現在の姿となった。元禄期から明治維新を迎えるまで牧野氏の居城となるが、維新後は廃城。旧小諸藩士達は荒廃していく城の姿を憂い、資金を集めて本丸跡に神社を祀り、公園にして「懐古園」と命名した。徳川家達が筆した「懐古園」の大額が飾られている三の門や正門にあたる大手門の姿が勇ましい。大手門より本丸が低い位置にある「穴城」という珍しい構造で、軍師山本勘助が考案したという説がある。島崎藤村が小諸の町を愛していたようで、随所に詩碑が見られる。
小牧山城
2019年6月8日
続24城目。桶狭間の戦いに勝利した信長は家康と協力し、美濃の斎藤氏を攻めるための準備をはじめる。1563年、頂上から美濃地方を一望できる小牧山に城を築き、清須から移り住んだ。1567年、美濃を攻略すると、稲葉山城(今の岐阜城)に住まいを移し、城や城下町は一旦廃れていく。信長が亡くなると、秀吉の勢力が強くなり、それに警戒した信長の次男信雄は家康と同盟を組み、秀吉に対抗した。1584年、家康は小牧山を本陣とし、小牧・長久手の戦いが起こるも、小牧付近では大きな戦いは行われず、秀吉と信雄は戦いを終えて、家康も秀吉と和解。その後小牧山城は再び使われなくなった。江戸時代に入ると、家康ゆかりの地として尾張徳川家により手厚い保護を受けたため、現在でも当時の堀や土塁の保存状態が良い。小牧山の歴史はとても深く、南東部中腹からは平安時代の骨壷が、南斜面からは旧石器が出土されている。
吉田城
2019年6月16日
続25城目。豊川と朝倉川を背に本丸を基点として二の丸・三の丸を前面と側面に配した「後堅固」と呼ばれる梯郭式の城。1505年、牧野古白により今橋城が築かれたことに始まる。その後、周辺勢力により争奪戦が繰り返され、城主はしばしば交替。今川義元の代の時に吉田城と呼ばれた。やがて、家康が奪うと、酒井忠次を城主に配した。徳川氏の関東移封後は池田輝政により改修される。本丸南側の石垣のほとんどは輝政の改修時のものだが、その他の部分の石垣は名古屋城天下普請で余った石材を転用したとされ、石に刻印が確認できる。豊川対岸に面する鉄櫓は城内最大規模の三重櫓で、1954年に模擬再建された。
古宮城
2019年6月16日
続26城目。百名城・続百名城シリーズをあわせて節目の百城目。杉林が鬱蒼と茂り、正直殺風景だった。白鳥神社の鳥居の奥に堀切で分割された東西の二城があり、東側が主郭で、西側が二の丸という一城別郭式。現地は看板が全くないので作手歴史民俗資料館から縄張図をもらうとわかりやすい。丘陵地全体に張り巡らされた縄張はほぼ完全な形で残存している。江戸時代の文献では、1571年、武田信玄が家臣の馬場信春に命じて築城させたとある。武田氏が奥三河の徳川領に侵攻する際の攻略拠点だったと考えられるが、謎は多い。1573年の信玄の病没や、1575年の長篠の戦いの敗戦によって、武田氏の勢力は衰え、やがて廃城となったと推定される。
赤木城
2019年7月13日
続27城目。連日雨の中、降らなさそうな日時を狙って登城。熊野市の山の奥地にあり、公共交通機関でたどり着くのは非常に難しいため車で向かった。途中道幅が狭い箇所があり、丸山千枚田に行く際も要注意。1586年、奥熊野の地侍たちによる「天正の北山一揆」が発生。一揆の原因は、太閤検地への抵抗という説がある。この一揆の鎮圧のため、当時の紀伊国主豊臣秀長の家臣であった藤堂高虎が築城したという。一揆で抵抗した北山の人々が処刑された刑場が、田平子峠にある。曲輪には高石垣が築かれ枡形虎口も設けられ、織豊系城郭の特色を示している。
備中高松城
2019年7月28日
続28城目。「土城」という異名があるとおり石垣はなく、土壇や沼からなる毛利氏の要塞。ハスの花が咲いており、綺麗だった。秀吉が中国攻めに際し、1580年に三木城、その翌年に鳥取城を兵糧攻めして落城させると、山陽を西進し、備中高松城を最前線に毛利軍と対峙した。力攻めすることができなかったため、黒田官兵衛の進言といわれる「水攻め」にとりかかり、堤防を築いて、足守川の水を引き入れ、孤城にした。秀吉は城主の清水宗治に対し、城兵の助命と引き換えに切腹し講和を結ぶように説いた。宗治はこれに応じ、湖上で切腹する。実はこの切腹の日の前日、秀吉は主君の信長が明智光秀の謀反で討たれたことを、毛利方に向かう光秀の密使を捕まえて察知しており、毛利氏との和睦成立後、「弔い合戦」を大義にかかげ、京都までの道のりを急いだ。いわゆる「中国大返し」の起点がこの高松の地と考えると、非常に興味深い。本丸には宗治の首塚がある。
福山城
2019年7月28日
75城目。福山駅を降りて早々天守閣がそびえるが、実態は1966年に建てられた博物館。昭和の空襲でそれまで現存していた天守閣や御湯殿など、多くの文化財が焼失しており、無念極まりないが、伏見櫓や筋鉄御門は幸い焼失を免れ現在に至る。元々は砲撃に備え、全国の天守で唯一北面に鉄板張りがなされていた。また、伏見櫓は古式の望楼型の三重櫓であり、極めて貴重な遺構。1619年、徳川譜代の家臣水野勝成が備後10万石の領主となり、1622年に城を築いた。7代藩主は幕末動乱期に老中首座として開国問題を指揮し、安政の改革を断行した阿部正弘であり、天守閣広場の西側に銅像が建てられている。
三原城
2019年7月29日
続29城目。三原駅構内と連結しており、すぐに天主台に上がれる。城と駅が合体しているという特異な外観だった。各曲輪はかつて瀬戸内海の海水を取り入れた水堀で囲まれていた。1567年、毛利元就の三男・小早川隆景によって、沼田川(ぬたがわ)河口の三角州である大島と小島を削平し、周辺を埋めたてて築かれたと伝わる。1577年には信長の中国攻めを受けて、毛利輝元が本陣を置いた。後に、隆景は城を改修し、一旦筑前へ移るも、三原に戻って城と城下町を完成させた。関ヶ原の戦い後、広島城の支城となり、福島氏・浅野氏へと城主は引き継がれる。天主台の石垣は西面は小早川時代、その他は福島時代に築かれ、石積の違いも明確である。市街地には舟入櫓跡の石垣が一部残っている。
石垣山城
2019年8月10日
続30城目。小田原駅からバスで石垣山へ。ミンミンゼミやヒグラシの鳴き声が城内をこだました。陣城とはいえ、その名のとおり石垣を多用した曲輪は、大城郭の威容を感じさせる。石垣が豪快に崩れている箇所もあり、かえって風格があった。1590年、秀吉が北条家の小田原城を攻めるために、笠懸山山頂に築いた城で、約80日間という短期間で完成させた。完成後、周囲の木を伐採し、北条氏方にとってわずか一夜にして出現したように見えたことから「一夜城」という異名がある。石積は野面積で、近江の穴太衆(あのうしゅう)によるもの。天守台跡は残っているが、天守が実際に建てられたかは不明。本丸展望台から眼下に見下ろす小田原の町並みや相模湾が美しかった。
小机城
2019年8月10日
続31城目。竹やぶが隅々まで生えており、地図なしだと縄張が分かりにくい。2,30分ほど散策すれば城全体を踏破できるくらいの広さだった。城域は高速道路で分断されるも、主要な遺構がほぼ原型のまま残されている。鶴見川に突き出た丘陵上の要害で、15世紀半ばまでには築城されていたと伝わる。1476年に始まる長尾景春の乱の中で、小机城の矢野兵庫助が景春勢に属したため、扇谷上杉氏の重臣・太田道灌が攻め落とした。戦国時代には、北条氏が関東進出するための軍事拠点となり、城も改修される。北条氏重臣・笠原氏が城代となった後、北条氏が城主となった。やがて、家康の関東入り後に廃城。
浜松城
2019年9月7日
続32城目。元々は今川氏の支城。信長の命を受け、1570年に家康は岡崎城から本拠を移した。家康は地名を浜松と改め、城も改修。家康自身はその後、駿府、江戸へと移り、浜松城はその間、堀尾吉晴が入ったほかは、幕末まで譜代大名が次々に入れ替わった。「出世城」という別名があり、歴代城主の中には、老中や大坂城代、京都所司代など幕府の要職に就いた者がいた。特に有名な城主は、天保の改革を行った水野忠邦。最高所は天守曲輪を置き、そこから一段ずつ下がって本丸、二の丸、さらに二の丸の南側から東側を囲んで広大な三の丸を配した。天守曲輪周囲の屏風折の石垣が、この城の特徴。
高天神城
2019年9月7日
続33城目。本丸がある東峰と西の丸がある西峰が独立し、尾根でつながった一城別郭式の構造。杉や檜に覆われて薄暗い中、木漏れ日を求めながら本丸や井戸曲輪など隈なく散策した。馬場平から田園地帯とその先の遠州灘までの眺望がとても映えた。室町時代に、今川氏が遠江侵攻の拠点として築いたとされ、戦国時代には武田氏と徳川氏の攻防の舞台となる。1574年に武田勝頼が攻め寄せ、当時の徳川方の城主・小笠原長忠は激しい戦闘の末、開城した。その後、城は武田方となったが、今度は家康の攻撃を度々受けることとなる。1575年の長篠の戦いの敗戦により、武田氏はさらに勢力を落とし、1581年についに落城した。
諏訪原城
2019年9月7日
続34城目。金谷駅から徒歩で向かう途中、旧東海道の金谷坂石畳を経由した。1573年、武田勝頼が遠江侵攻の拠点とするため、家臣の馬場信春に命じて牧之原台地に築城。諏訪原城の名の由来は、城内に諏訪大明神を祀ったことから。高天神城攻略のための陣城として、攻略後は兵站基地の役割を担った。しかし、家康の勢力が盛り返すと、武田勢は劣勢に立たされ、攻め落とされてしまう。その後、牧野城と改名され、今川氏真や松平家忠らが城番となる。武田氏滅亡後は城の必要性がなくなり、1590年頃に廃城となった。攻撃のために備えられた三日月堀と曲輪が組み合わさった広大な「丸馬出」が残っており、武田流築城術の集大成が垣間見える。
大垣城
2019年9月21日
続35城目。名古屋城や広島城と同じく、戦前は国宝に指定されていたが空襲により焼失。かつては四重天守を筆頭に櫓を合わせて13基が建ち並ぶ大城郭であった。天守は現在鉄筋コンクリート製の資料館となっている。土岐氏の家臣が16世紀に築いた牛屋城が前身とされる。1559年、当時城主の氏家卜全が堀や土塁を築いて大規模な大垣城が誕生し、1596年には伊藤祐盛によって天守が造営された。関ヶ原の戦いでは、西軍の陣が置かれ、一時石田三成が入城。しかし、東軍に包囲され、籠城戦の末開城した。1635年から明治維新にかけては、戸田氏が藩主を務めた。摂津国尼崎から移封された初代藩主戸田氏鉄は治山治水事業を手がけ、城下町の整備に加え、藩財政を強固にした名君として名高い。
新府城
2019年10月27日
続36城目。天気に恵まれ、北にそびえる八ヶ岳が雄大だった。八ヶ岳から伸びる七里岩の断崖を巧みに利用している。1581年、信長の軍が迫りつつある中、武田勝頼が領国の防衛体制を強化するため築城。築城から入城まで1年にも満たない短期間で造られた。しかし、すぐさま織田軍の侵攻を受け、在城わずか68日で自ら火を放ち敗走。再起をはかる途中で謀反にあい、ついには天目山で勝頼は妻子とともに自害した。新府という名前は、武田領国の新しい府中(首都)を示し、政庁機能を甲府の躑躅ヶ先館から移したことを意味する。武田流築城術の特徴とされる丸馬出や三日月堀が見られ、また北の帯曲輪にある突出した出構も興味深い。
要害山城
2019年10月27日
続37城目。1520年に武田信虎が築いた山城。居館と政庁を兼ねた武田氏館に対して、緊急時に立てこもる詰の城としての役割を担った。信虎・信玄・勝頼と三代にわたって使用され、武田氏滅亡後も修築・再整備されたが、やがて甲府城が築城されると廃城となった。西麓の登山口から主郭に至るまでの尾根伝いに堀切と曲輪の出入口となる八つの門跡がある。頂上の主郭に着くと堀切付近に石垣が確認でき、さらにそこから富士山を拝むことができた。要害山南麓には名刹積翠寺があり、その寺伝によると、1521年に駿河の今川氏が甲府近郊まで攻め入った時、信虎が懐妊中だった正室を要害山城に避難させ、正室はこの寺で信玄を出産したという。
鎌刃城
2019年11月16日
続38城目。米原駅からレンタサイクルを借りて鎌刃城へ。名神高速道路下の彦根43番ゲートをくぐった時、より冒険感が増した。念のため熊に出くわさないよう、早足で奥地へと向かった。築城年代は不明。戦国時代より江北の佐々木京極氏や浅井氏、江南の佐々木六角氏が争い、そのおおよそ境目に位置する城として、城主・城代が入れ替わった。1538年は六角氏の城に、1559年には浅井氏に属した堀氏が入城し、浅井方の城になった。1570年に浅井長政が信長に反旗を翻した時には、城主堀秀村は織田方に付き、やがて信長に湖北支配をまかされ、鎌刃城がその拠点となった。1574年、堀氏は突然改易され廃城。山城としては整備されてある方で、登城も苦にならなかった。最奥地にある青竜滝まで見に行ったが、途中の西郭群は急な坂があって進みづらく断念した。
竹田城
2019年12月15日
76城目。念願の「天空の城」竹田城へ。竹田駅から城の周囲を大回りし、西登山道を経由して向かった。1441から44年頃、山名宗全が赤松氏に対抗するため、家臣太田垣氏に基地の一つとして造らせたと伝えられている。代々太田垣氏が城主を継いできたが、秀吉の但馬攻めで落城した後は赤松広秀が入り、数年かけて現在見られるような総石垣の城に修築した。しかし、広秀は鳥取城攻めの際、城下町に火を放ったとの罪で家康から切腹を命じられ、城も廃城となった。縄張は、標高354mの古城山山頂部に、羽を広げた鳥のような形で曲輪が配されている。本丸や二の丸、北千畳・南千畳などどの曲輪に立っても壮大な景色に圧倒された。11月頃をピークに周囲に霧が立ちこみやすくなり、立雲峡などから運良ければ雲海の上に佇む城の美しい姿が見られる。
佐柿国吉城
2019年12月28日
続39城目。曇りの予報だったが、本丸に近づくにつれ晴れ間ができ日本海を一望できた。平時は山麓の居館で領国経営し、戦時には山上の詰城に籠もって戦うという、典型的な中世山城。居館跡は段上になっており、その下部は石垣を備えている。1556年、若狭守護武田氏の重臣粟屋勝久が築城したと伝わる。1563年以降、朝倉氏は若狭侵攻を繰り返したが、国境に位置する佐柿国吉城は毎回これを撃退し、難攻不落を誇った。粟屋氏は、越前へ出陣してきた信長と家康の連合軍を城に迎え入れたりもした。その後、1583年には秀吉の家臣木村定光が城主となるも、江戸時代初期に廃城。
浪岡城
2020年1月4日
続40城目。続百名城シリーズ本州最北の城へ。「浪岡御所」と尊称された中世城館。積雪でかなり進入しづらく、堀と土塁で区画された「内館」「北館」など計八つの縄張の形状がはっきり分からなかった。1460年代、後醍醐天皇を助けた北畠親房の子孫と伝えられる浪岡北畠氏によって築城された。城主居館のある内館西側には曲輪を登って入る坂虎口が設けられていた。1562年、浪岡氏の親族間で争い(川原御所の乱)が生じて勢力が衰え、1578年に津軽為信に攻められ落城。以後、約400年に渡り城跡は畑や水田として使われてきた。
弘前城
2020年1月4日
77城目。東北地方唯一の現存天守は、石垣修復のため本丸に移転されていた。凍てつくほど寒かったが雪を纏った弘前城の姿を見ると、不思議と心が温まった。津軽地方を平定した津軽為信の子・信牧(のぶひら)が1611年に築城。廃藩に至るまで津軽藩政の中心地となった。五重の天守は1627年の落雷で焼失。1810年、蝦夷地警備の功績を認められた九代藩主寧親(やすちか)が、本丸の辰巳櫓を三重に改築して天守代用とした。北の廓は西方から北方にかけて崖に面しており、籾蔵などの跡が確認されている。堀は3重に巡らされており、その中に残る3棟の櫓と5棟の城門も現存している。明治時代に弘前公園として解放され、さらに市民による桜の寄贈が盛んになり、桜の名所として知られるようになった。
岡豊城
2020年3月14日
続41城目。コロナの影響で歴史民俗資料館は閉まっており残念。国分川沿いの岡豊山に位置する長宗我部氏の本城。南北朝時代初期頃の築城と推定される。土佐七雄と呼ばれた有力国人の一家である長宗我部氏は、七雄中では最弱勢力だったが、国親の代で実力を蓄え成長する。幼少期に城を追われていたが、1518年頃に城を回復。さらに、その子元親が土佐のみならず四国を統一するも、秀吉の四国平定で所領を土佐一国に減じられた。最終的に元親は本拠を浦戸城に移し廃城となった。山頂部を中心に曲輪を階段状に配しており、その奥にある伝厩跡曲輪からの眺めが良かった。
河後森城
2020年3月15日
続42城目。松丸駅から松野西小学校を経由して風呂ヶ谷へ。そこを起点として西から順にU字型の曲輪群を踏破した。広見川、鰯川、堀切川の3本の川に囲まれた丘陵上にある。16世紀、この一帯は土佐一条氏と長宗我部氏の戦闘が度々繰り広げられた。元々、一条氏から養子に入った河原淵教忠が城主だったが、1584年頃までにこの地は長宗我部氏の配下になったと見られる。秀吉による四国平定後、宇和郡一帯は小早川氏、戸田氏、藤堂氏、冨田氏の所領となり、それぞれの時代に城代が置かれた。江戸時代には宇和島藩の伊達氏付家老桑折氏も居住したといわれる。帰り際、予想外に風が冷たかったので、松丸駅の足湯で暖をとった。
一宮城
2020年3月16日
続43城目。早朝、徳島駅からバスで40分程乗車し、一の宮札所前で降車。山城の規模としてはさほど大きくなく、倉庫跡から水の手丸に至るまで一時間くらいだった。陰滝にある鎖場はそこそこ落差があり要注意。1338年、小笠原長宗による築城とされる。その後、一宮氏と称し、一宮城を代々居城とした。1582年に長宗我部氏が阿波を支配すると、一宮氏は滅ぼされて城は家臣に与えられた。1585年、秀吉の四国平定後、蜂須賀氏が阿波国主となり入城するが、翌年に徳島城を築いて移り、支城の一つとなった。全体として土造りの山城だが、本丸のみに蜂須賀氏の築造とされる石垣がある。本丸からは雪をかぶった讃岐山脈が見れた。
勝瑞城
2020年3月16日
続44城目。国史跡に指定されており、城跡と城館跡からなる。現在も発掘調査を行っており、史跡の雰囲気を醸し出している。室町時代後半に阿波国守護の細川氏が守護所を置いた地で、阿波の政治・経済・文化の中心地として栄えた。戦国時代には、細川氏の家臣である三好実休が謀反を起こして実権を握り、引き続き勝瑞を本拠として城館を構えた。1582年、長宗我部氏の攻略を受けて焼亡し、江戸時代に徳島に城下町が営まれると急速に衰退した。三好氏の墓所は見性寺にあり、境内には三好氏の歴史を記した「勝瑞義冢碑」も建つ。
引田城
2020年3月16日
続45城目。山城ではあるが、三方を海に囲まれた海城ともいうべき立地。海風が心地よかった。16世紀初めころに、大内氏の家臣寒川氏に属する四宮氏が引田城主となった。その後、1571年に阿波の三好氏が城を奪い、家臣の矢野氏に与えた。1583年には長宗我部氏の讃岐侵攻を受けて、秀吉が仙石秀久を引田城に派遣するも撤退。1587年には代わって生駒親正が讃岐18万石の領主として入城した。聖通寺城に本拠を移した後も、国境守備の城として重視された。石垣は随所に見られ、特に北二の丸の高石垣が圧巻。本丸から眺める引田の町並みや瀬戸内海も素晴らしかった。
中城城
2020年7月24日
78城目。数年ぶりに沖縄の地を踏んでから、早速レンタカーを駆使して城攻めを開始。那覇空港の外に出た瞬間、強い日差しと蒸し暑さが身に沁みた。300余もあるとされる沖縄のグスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られる。城は六つの郭からなり、雨乞いの御嶽(うたき)など城内には八つの拝所がある。石垣は琉球石灰岩で積まれ、その白さと海の青さでより美しく映えた。曲線的城壁やアーチ型の門も沖縄独特。14世紀後半に先中城按司が数世代に渡って築き、1440年頃に座喜味城主「読谷山按司:護佐丸」が王府の命令により移ってきて、北の郭・三の郭などを増築したとされる。護佐丸は琉球統一に尽力したが、勝連城主の阿麻和利に攻められ、1458年に自刃。伝承では、阿麻和利が護佐丸を除くため、護佐丸が謀反を企んでいると尚泰久王に讒言をし、阿麻和利に討伐を命じたとされる。沖縄のグスクは本土より古い時代から石積技術が発達しており、主に布積み、野面積み、あいかた積み(亀甲乱れ積み)が見られる。その石造建築は1853年に来島したペリー探検隊も讃えている。
勝連城
2020年7月24日
続46城目。沖縄の世界遺産の中で最古のグスク。丘陵上にそびえる姿がとても雄大だった。また、一の曲輪に上がると、北は金武湾や山原(やんばる)の山々、南は知念半島や中城湾が一望できた。琉球統一を目指した勝連城主の阿麻和利は、1458年に護佐丸を倒し、王府打倒へ動き出したが、妻の百度踏揚(ももとふみあがり)とその付き人の大城賢雄(うふぐしくけんゆう)に知られてしまい、賢雄率いる王府軍により滅ぼされてしまう。百度踏揚は夫の阿麻和利を殺した賢雄と再婚するも、その賢雄も王府の陰謀で殺され、二度も夫を失ったことから悲劇の王女と言える。神が祀られている場所である御嶽(うたき)もやはり数多く存在し、按司の守り神を祀った玉ノミウヂ御嶽や、「火の神」を祀った台所とされるウミチムンなどを見学。神人(カミンチュ)という神職者が執り行う宗教儀礼に触れ、沖縄の崇拝文化により興味がわいた。
座喜味城
2020年7月24日
続47城目。赤褐色土の名護層を基盤とする標高約120mの丘陵に立地。一の郭と二の郭それぞれにアーチの門が造られているが、アーチ石のかみ合う部分にくさび石がはめられており、他のグスクには類例が見られないことから、現存する県内のアーチ門のうち最古と考えられている。読谷山按司護佐丸は、当初座喜味の北東に位置する山田城に居城していたが、1416年尚巴志がいる今帰仁城攻略に参戦し、その直後、地の利を考慮し座喜味へ築城したといわれる。1944年、旧日本軍によって高射砲陣地となり、戦後琉球政府の重要文化財に指定されるが、1960年には米軍のレーダー基地に使われたりと、激動の時代を目の当たりにした。城内に4ヶ所の拝所があり、現在二の郭アーチ門前に移設されている。他のグスクと同様、海の絶景が素晴らしかった。
今帰仁城
2020年7月25日
79城目。前日まわったグスクとは一味違ってやんばるの森に程近く、また志慶真川に沿った断崖上にあるため、かなり迫力があった。14世紀の沖縄本島は北山・中山・南山の「三山鼎立の時代」であり、北山王は今帰仁城を拠点に、本島北部を支配下とし、中国と貿易していた。しかし、1416年中山の尚巴志に滅ぼされ、北山としての歴史を終える。その後、中山は北部地域の管理のために監守を今帰仁城に設置するが、1609年に薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上したとされる。兵馬の訓練所である大隅(ウーシミ)、正殿等の建物があったとされる大庭(ウーミャ)、女官の生活場所とされる御内原(ウーチバル)など隈なく散策。西にある石灰岩からなる丘陵は「クバの御嶽」といわれ、聖域として地元の人々から崇められている。
知覧城
2020年8月8日
続48城目。真夏の城巡りは知覧城から開始。鹿児島駅から鹿児島交通バスに乗り、南九州市へ。酷暑に加えてヤブ蚊に追われながらもなんとか四つの曲輪(本丸、蔵之城、弓場城、今城)を踏破。シラス台地の浸食谷が天然の空堀となっている。鎌倉時代、一帯は知覧氏が郡司として統治していた。南北朝時代は佐多氏に与えられ、その後1417年には今給黎久俊が城を押領したが、3年後に島津久豊と佐多親久が城を奪取し、再び佐多氏の居城となった。佐多氏は江戸初期にかけて隣村に左遷されたり、再び知覧の地頭として戻ったりと目まぐるしく移るが、最終的には島津姓を名乗り、明治維新まで存続した。ついでに付近にある特攻隊の資料館にも寄り、沖縄戦に向かい戦死された兵士の方々を追悼。
鹿児島城
2020年8月8日
80城目。島津家久が1601年ころに築城開始。背後の城山(上ノ山)にあった山城と、麓の居館からなり、当初は山頂の曲輪が本丸、二の丸と呼ばれた。麓の藩主の居館(後の本丸)は、中世以来の館造りを踏襲。三方を堀と高石垣で区画し、御楼門を中心に多聞櫓、御角櫓が配されていた。1873年、本丸が火災で焼失。西南戦争最終戦の舞台としても有名で、1877年には二の丸も焼失した。復元された御楼門をくぐった先の石垣には、弾痕が生々しく残っており、日本最後の内戦の凄まじさを感じた。西郷隆盛は熊本・宮崎における戦いで新政府軍に敗れ、鹿児島の地に戻って、城山を中心に布陣することになる。そこで、立て籠もっていたとされる洞窟もあわせて訪問。別府晋介の介錯で隆盛は最期を迎えたという。城山展望台から見る桜島も、夏空に映え非常に雄大で素晴らしかった。
志布志城
2020年8月9日
続49城目。内城、松尾城、高城、新城の4つの山城をあわせて「志布志城」と呼ぶ。この内、中心的役割を果たしたのが内城で規模も最大。高城と新城のあった場所は中学校や私有地になっているため立ち入り不可。また、松尾城は雑草等繁茂しており、登城を断念した。南九州特有の白色砂質であるシラス台地上にあり、その地形や山崩れしづらい性質を利用して、深く切り立った長い空堀が造られている。正確な築城年は不明だが、「救仁院志布志城」なる城名が南北町時代の記録にあり、古くとも1336年には存在していたと見られる。城は奪い合いの歴史で、肝付氏や楡井氏、また島津氏一族の新納(にいろ)氏など目まぐるしく城主が代わるが、秀吉の九州平定後に廃城となった。登城後、志布志湾付近を散策してから志布志駅で日南線に乗り、北上して宮崎県へ。
飫肥城
2020年8月9日
81城目。飫肥駅から歩いて向かい、途中酒谷川にかかる橋を渡った。飫肥城目当てで来たが、「九州の小京都」と呼ばれるだけあって、想像以上に武家屋敷や商人通りが整備されており、城下町としての雰囲気に満たされていた。1452年、島津季久が入城したのが史料上の初出。後に島津氏と伊東氏が長年争うことになる。九州平定に乗り出した秀吉にいち早く味方した伊東氏は飫肥を与えられ、関ヶ原の戦い後は徳川家に領地を安堵される。1686年、伊東祐実により大改修が始まり、近世城郭に仕立て上げた。飫肥杉で作られた大手門や旧本丸に残る苔むした石垣など、風情が良い。帰り際、小村寿太郎の生家も立ち寄った。
佐土原城
2020年8月10日
続50城目。室町時代、伊東氏庶流の田嶋休祐によって築かれたという。しかし、勢力拡大を目指す本家の日向伊東氏が城を乗っ取り、佐土原氏と称した。1537年、城は焼失するが、後に伊東義祐が再建。義祐は城下町の整備も行うが、その後は大大名として驕り政治を省みなくなったことで、島津義久に本拠を奪われ、豊後に逃亡した。江戸時代には薩摩藩の支藩として佐土原藩が成立。明治維新まで島津氏一族が支配した。日本最南端の天守台が本丸にあるが、2018年の台風で崩落がおこり、登城路の途中までしか行けなかった。途中雨が降ってきたこともあり、「佐土原いろは館」で休憩。店員の方の宮崎訛りが印象的だった。
延岡城
2020年8月10日
続51城目。五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた山丘に位置する。日向松尾城主だった高橋元種は、関ヶ原の戦いの途中、東軍に寝返ったことで所領を安堵される。元種は1601年、延岡城の前身である縣城を築いて居城を移したが、1613年に改易され、代わって有馬氏が入封。2代康純の時に、天守代用の三階櫓、本丸二階門、二階櫓などが建てられた。この頃、地名も「延岡」に変わったとされる。その後、延岡藩には三浦氏、牧野氏、内藤氏と譜代大名が配された。城内には築城期や有馬期の石垣が多く残るが、中でも高さ約19mもある「千人殺しの石垣」が圧巻。礎石を外すと石垣が崩れ、一度に千人も敵を撃退することができるという伝承から名付けられた。
佐伯城
2020年8月11日
続52城目。早朝延岡駅から出発。佐伯駅で降りて徒歩で向かったが、なかなかの暑さで汗が吹き出た。最高所に着いてからようやく一息つき、水分を補給して海や山の景色を堪能した。1601年、日田から佐伯へ入部した佐伯藩初代藩主・毛利高政が、番匠川沿いの水上交通に便利で攻め難い八幡山に、築城開始から4年がかりで完成した。当初、本丸に三重天守を築き、さらに二重櫓5基などを建ち並べていたが、1617年の火災で本丸と天守は焼失。その後、天守は再建されなかった。江戸時代、毛利高慶(たかやす)が藩主の時、天守以外の建物が修復・再建された。天守台の石垣もいいが、麓の三の丸櫓門がとても雄大で感動した。
岡城
2020年8月11日
82城目。奥豊後の山あいにて、広大な敷地を囲った断崖絶壁とその壁上に累々と築かれている石垣群から「難攻不落の堅城」と謳われ、山城の中でも最高級の景観を誇る。あまりの壮大さに大変驚いた。1185年、緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるため築城したという伝説がある。1331年、志賀貞朝が入り城を拡張。16世紀末、当時豊後を治めていた大友義統は、秀吉に所領を没収され、それに伴い大友氏重臣の志賀親次も岡城から撤退。その後、播磨国三木城から入部した中川秀成により、現在残る高石垣を多用した近世城郭となった。本丸には天守代わりの御三階櫓が、西の丸には御殿が作られ政務を行う中心となった。廃藩置県により、13代続いた中川家の岡藩は終焉を迎え、さらに廃城令で建造物は全て破却。当時の荒廃した古城の様子から、瀧廉太郎は名曲「荒城の月」を生み出した。
臼杵城
2020年8月12日
続53城目。卯寅口から入り卯寅稲荷神社を経て、本丸、二の丸と続き、古橋口から出た。古橋口から見上げる鐙坂や大門櫓・畳櫓が美しい。1556年、大友義鎮(宗麟)が臼杵湾に浮かぶ小島(丹生嶋)に築城。かつては臼杵川河口の島を利用した天然の要害であった。キリシタン大名であった宗麟の城下らしく、キリスト教の施設が多く建てられ、城内には礼拝堂もあった。当時のイエズス会宣教師たちはローマに「臼杵の城」として報告している。秀吉の九州平定後、大友氏は改易され、福原氏・太田氏・稲葉氏と城主を変えつつ改修を重ねる。明治維新後に西南戦争の戦場となり落城した。
中津城
2020年8月12日
続54城目。今夏の九州城めぐりは中津城で締めくくり。天守最上階からは周防灘まで一望できた。中津川沿いに佇む黒塗りの五重天守が美しいが、1964年に建てられた模擬天守で、「奥平家歴史資料館」となっている。黒田孝高(如水)が秀吉の命で九州を平定し、中津16万石を拝領して、1588年に建てた。関ヶ原の戦い後、黒田氏に代わり細川忠興が入封し、小倉城と並行して中津城の修築を開始。完成後は家督と小倉城を三男忠利に譲り、自らは中津城へ移り、隠居の場とした。細川氏が熊本へ転封すると中津藩として独立し、小笠原氏・奥平氏と譜代大名が城主を継いだ。時間の都合で福沢諭吉の旧居に辿り着けず残念。
箕輪城
2020年10月24日
83城目。群馬県内初の登城。雲一つない秋晴れで気分爽快だった。榛名山の東南麓に広がる独立丘陵上の中心部に位置する。遅くとも1524年までには長野氏により築城されていたと見られる。長野氏は武田信玄の西上野侵攻に際し、箕輪城を本拠にして抵抗したが、1566年に落とされてしまう。その後、武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏といった名だたる戦国大名の拠点として、それぞれの有力家臣が配置された。最後の城主井伊直政が1598年に城を高崎に移すと廃城となった。郭馬出西虎口に復元された櫓門が一際目に付いた。
金山城
2020年10月24日
84城目。太田駅から無料レンタサイクルで大光院に向かい、そこからハイキングコースで城跡まで向かった。大光院は、家康が徳川家の祖とされる新田義重を追善するために創建した寺院だが、金山城はその新田の一族である岩松家純によって1469年に築城された。その後、下剋上を遂げて城主となった由良氏の時代に全盛期を迎え、上杉や武田の猛攻を受けながらも一度も落城しなかった。1584年、北条氏に降伏し城を明け渡すが、後に秀吉の小田原征伐で廃城となった。大堀切や日ノ池・月ノ池のほか、大手虎口の石積みがまさに要塞で、威圧感満載だった。
滝山城
2020年10月25日
続55城目。快晴に恵まれたが、草が生い茂り曲輪の形がよく分からなかった。現在は滝山自然公園として整備されている。本丸と中の丸の間は堀切で遮断されているが、そこに目印となる木橋が架けられている。1521年、武蔵守護代大石氏が築いて高月城から本拠を移したという。その後、1546年の河越の戦いの勝利で武蔵の国人領主を従えた北条氏康が、三男氏照を大石氏の婿養子として家督と城を相続させた。氏照は大改修を施し、1569年に武田信玄から侵攻されるが、見事に持ちこたえた。後に八王子城を築いて本拠を移したため、廃城となった。
秋田城
2020年12月19日
続56城目。東北新幹線と秋田新幹線を利用し、秋田駅を降りてからはバスで向かった。強い寒波の影響で吹雪が舞う中、地方行政の一拠点となった最北の古代城柵を堪能。733年、秋田村高清水岡に遷された当初は「出羽柵(いではのき)」と呼ばれ、760年頃に秋田城と呼ばれるようになる。蝦夷の支配や総括が目的だった。奈良時代は出羽国の政治を行う国府が置かれ、津軽や渡嶋(北海道)のほか、大陸の渤海など、行政・軍事だけでなく対北方交易の拠点としても重要な役割を果たした。全国的にも類例を見ない奈良時代の水洗トイレ遺構が発見され、古代沼の近くに復元されている。
久保田城
2020年12月19日
85城目。佐竹史料館に閉館間近のタイミングで入館。その後、雪深い中、千秋公園を散策。大雪の影響で視界が遮られることもあったが、なんとか御隅櫓までたどり着く。長坂を登っていくと見える表門は本丸の玄関口にあたり、とても格式が高い。またその門付近にある、出入者の監視を担う御物頭御番所は秋田藩の時代から唯一残っている。関ヶ原の戦い後、常陸から出羽秋田に転封された佐竹義宣が1604年に築いた。佐竹氏自身は石垣普請に精通せず、かわりに土塁普請を得意としたため、石垣がほとんど使用されなかった。城全体としては質素な造りで、天守や三重の櫓はないが、各曲輪の周囲や櫓台の土塁はよく残っている。
鶴ヶ岡城
2020年12月20日
続57城目。大泉長盛は1463年に大宝寺城を築き、子孫は大宝寺氏を名乗った。大宝寺氏は戦国時代に上杉氏と結んで勢力を伸ばしたが、上杉氏と最上氏の争いの中で衰退し、上杉方の支城となる。関ヶ原の戦い後、最上義光(よしあき)の所領となると、鶴ヶ岡城に改称される。1622年、最上氏が改易されると酒井氏が入り、大改修される。酒井氏は代々善政を施いたことでも知られ、国替えの幕命が下った時は領民の嘆願で撤回となったほどで、明治維新まで城主を務めた。東は内川、西・南・北の三方は堀と土塁を巡らした「回字」形状の典型的な輪郭式縄張。本丸跡地には荘内神社が建てられ、初代忠次や藩校致道館を創建した忠徳(ただあり)など酒井家4名が御祭神として祀られている。
米沢城
2020年12月21日
続58城目。鶴岡から米沢へ移動するにつれ、積雪量がさらに増え、歩道ですら歩行困難だったが、必死に雪をかき分けなんとかたどり着いた。雪国の過酷さをあらためて思いしる。最上川西岸の松川扇状地の中央部に位置する、土塁と水堀で築かれた典型的な平城。鎌倉時代から長井氏が支配してきたが、南北町時代から伊達氏に追われることになる。1548年、伊達氏は米沢に本拠を移し、後に伊達政宗もこの城で生まれたという。政宗は秀吉の命で岩出山城に移ると、蒲生氏の改修を経て、1598年に上杉氏重臣の直江兼続の城となった。関ヶ原の戦い後、敗れた上杉景勝は会津120万石から米沢30万石へ大減封されて、米沢城に移り、以降上杉氏の居城として明治維新まで存続。明治期に本丸跡に上杉神社が創建された。
二本松城
2020年12月21日
86城目。今冬、東北の城巡りは二本松城で締めくくり。この日も風が非常に冷たかったが、秋田や米沢の銀世界とは違い晴天に恵まれた。天守台から西に目をやると、安達太良山がそびえていた。現存してはいないが、1982年に再建された二階櫓や箕輪門、多聞櫓の姿が立派だった。1414年畠山満泰が築いたが、伊達政宗に攻められ畠山氏は滅亡。蒲生氏が入ると、石垣を用いた城郭に改修され、さらに1627年に入った加藤氏により近世城郭の姿に大改修された。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍に攻められ落城。二本松少年隊14名も命を落とすという悲話が残る。霞ヶ城公園より東に向かうと、詩人高村光太郎の妻智恵子の生家があり、二本松は自然と歴史・文化が豊かな町だと実感した。
興国寺城
2021年1月5日
続59城目。北条早雲が伊豆韮山に攻めいる際に本拠とした場所。後に今川・武田・徳川など持ち主がよく変わる。今まで登城した城跡のなかで、おそらく最小規模だと思われるが、それでも堀の深さは圧巻だった。天守台から眺める富士山や駿河湾が美しかった。
龍岡城
2021年2月27日
続60城目。函館の五稜郭と比較すればさすがにスケールは劣るが、国指定史跡の隣に小学校があったり石垣が未完成だったりとなにかと異質で、それがかえって味わい深かった。日本赤十字社の前身「博愛社」を設立した大給怛(おぎゅうゆずる)が建てた。浅間山や八ヶ岳に挟まれた自然豊かな土地柄。
黒井城
2021年4月3日
続61城目。別名保月城。雲海の名所とされる。築城年ははっきりしていないが、建武の時期に足利尊氏についた赤松貞範が丹波国春日部荘を領してから築城された。意外と勾配が急なところがあり、頂上手前は少し注意が必要。頂上にて桜の花が出迎えてくれた。
洲本城
2021年4月3日
続62城目。舞子駅から高速バスに乗り淡路島へ。快晴での海の景色を期待するも曇ってしまった。それでも桜の花が舞う様子は非常にお城に合っていた。築城の原点とされるのは安宅氏だが、現在見られる洲本城を築いたのは脇坂安治。本丸に位置する天守は模擬天守としては現存最古。
福知山城
2021年4月10日
続63城目。黒井城などを攻め、丹波を平定した明智光秀が初代城主。途中城主は羽柴秀長や杉原家次などが継ぎ、17世紀半ばから明治初期までは朽木氏が務めた。威風堂々とした天守閣を支える石垣には転用石がありとてもユニーク。展示資料から光秀の功績をじっくり学習できた。
出石城・有子山城
2021年4月10日
続64城目。地元名物・出石の皿そばを堪能してから登城。城下町や辰鼓楼といい情緒に満ちあふれていた。出石城は江戸時代に小出吉政、有子山城は安土桃山時代に山名祐豊が築城。有子山山頂からの景色は素晴らしかったが、そこにたどり着くまでの急勾配な尾根を、熊に注意しながら進まなければならない。
唐津城
2021年5月1日
続65城目。博多駅に到着後、地下鉄に入りそのまま唐津駅まで直行。1647年に寺沢氏が改易されてからは大久保氏、松平氏などと変わり、最終的には小笠原氏の代となって廃藩置県を迎えた。唐津湾や松浦川、「虹の松原」の景色に風情を感じた。
福江城
2021年5月2日
続66城目。長崎港からフェリーに乗船し、福江港へ。五島の歴史は古く、8世紀の肥前風土記には五島の関連記事がある。潜伏キリシタン関連遺産として島内には教会も多い。福江城の特筆すべき点は江戸時代終末期になって、藩主五島盛利が海防を理由に幕府に築城願いを出し、ようやく許可がおりたこと。江戸時代最後の城郭。
原城
2021年5月3日
続67城目。風もなく快晴に恵まれとても快適だった。有馬キリシタン遺産記念館を訪問してから原城跡へ登城。記念館ではヴァリニャーノの巡察等を含む日本国内のキリスト教の展開と、松倉家の圧政に耐えかねた島原・天草の人たちの一揆やキリシタン弾圧をメインに紹介している。城跡から見る普賢岳と海の穏やかな景色とは裏腹に、当時大勢のキリスト教信者がこの地で命を落としたのを考えると心が痛まれる。
久留米城
2021年5月3日
続68城目。元々福知山を治めていた有馬豊氏が1621年に筑後国久留米に入り城や町を築き上げていった。現在本丸には篠山神社や有馬記念館があり、その記念館で久留米藩歴代藩主の略歴を学習。二ノ丸や三ノ丸は既に埋め立てられており、区画は見た目ではよく分からない。有馬家の墓所である梅林寺もついでに訪問。
小倉城
2021年5月5日
続69城目。関門海峡に面し、古来より陸海の交通の要衝として重視された場所であることが窺える。最初は毛利氏が築いたが、その後関ヶ原の戦いで戦功をあげた細川忠興が城を大規模にし、城下町を建設。細川家が肥後国に転封した後、譜代大名の小笠原忠真が入国。九州諸大名の監視を任された。幕末、長州征討の時に長州藩に攻めこまれ、自ら城に火を放ったという悲しい歴史を持つ。
菅谷館
2021年6月27日
続70城目。武蔵嵐山駅から徒歩で15分ほど。比企城館跡群の一つ。鎌倉時代、宇治川や一の谷の合戦などで功績を上げた畠山重忠が居住していたと伝えられる。戦国時代となってから山内上杉氏・扇谷上杉氏の争いの中で頑強に整備された。
杉山城
2021年6月27日
続71城目。徒歩だとかなりの距離なので武蔵嵐山駅からレンタサイクルを使用。関東における戦国期の山城としてはかなり保存状態がいいように思われた。私有地としながらも縄張りがはっきりしていて分かりやすい。長享の乱後、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して造られた。
玄蕃尾城
2021年10月22日
続72城目。柳ケ瀬山尾根上に位置し、柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで本陣をおいた。起源は一説によると15世紀に豪族の柳ケ瀬秀行が築城したという。土塁の保存状態は非常に良好。ネット上の情報の通り、車で旧柳ケ瀬トンネル付近の脇道に入ってから駐車場まで細い道を通らなければならないが、所々に待避スペースは確保されてある。
福井城
2021年10月22日
続73城目。家康の次男・結城秀康が初代福井藩主になり、越前へ入国。かつての北庄城に修築を加えた。松平春嶽などの藩主が住んでいたとされる西三ノ丸(御座所跡)を経由し、山里口御門を通過。天守台と福の井を見学した。今では県庁や警察本部が建っているが、石垣や内堀の偉容は健在。
鳥越城
2021年10月23日
続74城目。朝、一時的に雨足が強まったが、少し晴れ間が出たところを狙って登城した。手取川と大日川に囲まれた鳥越山にその史跡がある。15世紀に一向一揆により守護の冨樫政親を滅ばしてからおよそ100年、信長家臣の佐久間盛政に攻めこまれ、ここに「百姓の持ちたる国」の終焉をむかえた。蓮如の布教活動の様子を歴史館で学習。
増山城
2021年10月23日
続75城目。増山城を巡る攻防は歴史上いくつもあるらしいが、特に、越中と越後それぞれの守護代と一向一揆が争った芹谷の戦いや、上杉謙信の神保氏への三度に渡る侵攻が挙げられる。その歴史舞台を全く把握せずにいくと、単なる鬱蒼とした杉林にしか見えないかもしれない。ただ規模は思ったより広く、時間の都合で池ノ平等屋敷は行けなかった。
岩櫃城
2021年11月6日
続76城目。群馬原町駅から徒歩30分ほどで平沢登山口、そこから本丸までは徒歩10分くらい。山々の紅葉も着々と進んでおりとても綺麗だった。登城後、真田道を歩いて古谷登山口まで行き、岩櫃山の峻険な岩肌を拝めた。城主として最初吾妻太郎行盛がいたが、里見氏に攻められて自害。その後、子の斎藤越前守憲行が奪回した。しかし、結局は真田幸隆に落城され武田氏の手中に落ち、幸隆が守護となった。
名胡桃城
2021年11月6日
続77城目。外観で分かるとおり郭が直線的に配されてある典型的な連郭式の城。最先端の郭から赤や黄で彩られた秋の三峰山を臨む。沼田地方は古くから上杉、武田、北条が領有争いした場所で、戦国時代末期になると北条氏と真田氏の争いとなる。惣無事令を出した秀吉が領土の境界線を利根川と裁定したが、それに反し沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃したため、秀吉が小田原を討伐するきっかけとなった。
沼田城
2021年11月6日
続78城目。日が沈む前に足早に沼田駅から坂を登り入城。現在は沼田公園として整備されてあるが、かつては五層の壮大な天守が建っていた。真田信之が初代沼田城主となり、田畑の開拓や町割など沼田領内の復興につとめた。元々この地は在地の有力者沼田氏が治めていたが、北関東の軍事上の要衝ということもあり、上杉・北条・武田で争奪戦が度々行われた。1581年、沼田奪還のため反撃しにきた沼田平八郎景義を真田氏が殺し、沼田氏は滅亡した。
郡上八幡城
2021年11月13日
続79城目。1933年に木造の模擬天守が建てられ、日本最古の木造再建城として知られる。このところの冷え込みにより楓も順調に赤く染まり、「天守炎上」の名にふさわしい出で立ちだった。1559年、東常慶と遠藤盛数との間で赤谷山城の戦いがおこり、その盛数が陣取った場所がこの城の起源。その子慶隆が郡上を統一し、城や城下町を建設していった。慶隆は秀吉に改易されるも、関ヶ原の戦いで東軍に与し、勝利したため八幡城主に復帰した。その他、郡上一揆や郡上の用水路整備、山内一豊の妻千代にまつわる資料など展示されてある。
津和野城
2021年11月27日
87城目。前日に新山口駅近辺で宿泊し、翌朝レンタカーで津和野まで向かう。新山口から約4、50分かけてリフト前の駐車場へ到着。天気は当初晴れのはずだったが、現地に近づくにつれ冷たい雨が強まってしまった。創建は古く、1295年頃能登から来た吉見頼行と伝えられる。縄張はあまり拡張することはなかったため、小規模にとどまった。大改築が行われたのは、1601年関ヶ原の戦いの行賞で入城した坂崎直盛による。山頂を削平し三重天守を設けた。坂崎氏断絶後は亀井氏が入って城下町を整備し、そのまま明治に至る。
萩城
2021年11月27日
88城目。津和野城を登城後、西進して萩の町へ。松下村塾や東光寺、幕末志士たちの旧宅や萩・明倫学舎などの観光スポットも合わせて散策。冬型の気圧配置ということもあり冷たい風が身に沁みた。関ヶ原の敗戦で西の総大将だった毛利輝元は長門・周防の2国に移封される。1604年築城を開始し、標高143mの指月山の山頂に要害、山麓に本丸・二の丸・三の丸を築いた。山頂は石切場が見受けられ、またイチョウ落葉の時季と重なり、黄色い絨毯が綺麗だった。古写真にもあるとおり、かつて五層の白亜天守が築かれていたが、明治初期に解体。それ以前に1863年、藩庁が山口に移されてからは萩城の重要性そのものが薄れていた。
大内氏館・高嶺城
2021年11月28日
続80城目。山口大神宮内にある登山口から高嶺城を目指した。息切れしながらも約40分で主郭に到着。木々に隠れてしまい、特に山口の町を一望できるわけでもないが、石垣は良好に残っていた。下山してから池泉庭園で有名な大内氏館跡を訪問。曹洞宗の龍福寺が敷地の中央に居座り、その東方に庭園が位置する。室町時代、守護大内氏が守護所となる館を築いた。最後の当主大内義長は1556年に詰城である高嶺城を築城開始。しかし、毛利氏に攻め込まれ、未完成のまま逃亡し自害し果てる。代わりに毛利氏が完成させた。関ヶ原の戦い後、本拠地を山口から萩へ移転。最終的に一国一城令により、廃城となった。
岩国城
2021年11月28日
89城目。新山口駅からバスで錦川沿いを進み、錦帯橋付近で降車。他に例を見ないアーチ型五連の木橋とその背後の山にそびえる天守閣がとても美しい。本丸にあった四重六階の天守は「南蛮造」という特異な形式で、完成からわずか7年で一国一城令により破却された。現在は本来の場所から約50mすらしたところに再建されている。関ヶ原の戦い後、岩国に転封された吉川広家が築いた。山頂の城郭と山麓の居館(御土居)で構成されている。日が暮れる前に吉香公園や吉川家墓所、紅葉谷公園も散策。楓もほとんど落葉し晩秋らしい風景だった。
白石城
2022年1月3日
続81城目。
多賀城
2022年1月3日
90城目。
品川台場
2022年2月23日
続82城目。
三春城
2022年4月30日
続83城目。
白河小峰城
2022年4月30日
91城目
越前大野城
2022年10月8日
続84城目。岐阜県側から中部縦貫自動車道を通り、九頭竜湖を経由して大野市へ。秋風が吹き、心地よかった。越前大野城の西には戌山城址があり、気象条件が揃えば、そこから雲海に浮かぶ「天空の城」を見ることができる。1574年に起こった越前の内乱を鎮めた信長の家臣金森長近は、その功により越前大野郡の3分の2を与えられた。亀山山頂を平らにして、大野城を築き領国支配の本拠とする。江戸時代に入ると、越前松平氏の支城となるが、後に大野藩として独立。1682年、譜代の土井利房が城主となり、以後幕末まで土井氏が藩主を受け継いだ。大野藩7代藩主の土井利忠は、藩店大野屋の開設、藩校明倫館と洋学館の開設、済生病院の新築、西洋式軍制の採用、蝦夷地の開拓などの藩政改革に取り組み、当時大赤字だった藩財政を黒字化させた名君として名高い。
脇本城
2022年11月19日
続85城目。
若桜鬼ケ城
2022年12月17日
続86城目。
新高山城
2022年12月18日
続87城目。
水城
2023年1月27日
続88城目。
基肄城
2023年1月27日
続89城目。
人吉城
2023年1月28日
92城目。
八代城
2023年1月28日
続90城目。
鞠智城
2023年1月28日
続91城目。
大分府内城
2023年1月29日
93城目。
角牟礼城
2023年1月29日
続92城目。