ID | 6975 |
名前 | 景虎 |
コメント | ⊂二二二( ^ω^)二⊃ |
登城マップ |
武田氏館 2013年6月1日 | 記念すべき1城目。 間違えて、100名城ではない別のスタンプを押してしまうorz 戦国最強と謳われた甲斐の虎、武田信玄の居館。 1519年武田信虎によって築かれ、信玄・勝頼と武田氏3代に渡り本拠とした。 武田氏滅亡後は、新たに甲府城が築城され、躑躅ヶ崎館は廃城となった。 現在は武田神社となっているが、土塁や堀が整備・復元されている。 また、武田氏特有の両袖枡形虎口等の遺構も確認できる。 「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉の通り、 堅固な城は築かず簡素な造りとなっている。 |
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甲府城 2013年6月1日 | 2城目。 武田滅亡後、「天正壬午の役」勝者である徳川の所領となり、 築城を開始したが、完成前に関東に転封されてしまう。 その後、豊臣系の大名が入部し、 1593年に浅野長政らが完成させたと言われる。 現在は舞鶴城公園として整備され、稲荷櫓や山手御門等が復元されている。 立派な石垣が現存しており、天守台は不整形な形をしていた。 |
八王子城 2013年6月2日 | 3城目。 1578年前後?北条氏康の三男氏照によって築城された。 関東屈指の巨大な山城だったが、豊臣秀吉の北条征伐により、 わずか1日で落城した。 現在でも、石垣や曲輪跡等の遺構が残っており、 虎口や曳き橋(現在再建中)等も復元されている。 御主殿へ向かう虎口は、枡形で3度曲がる形となっていた。 |
足利氏館 2013年6月8日 | 4城目。 足利氏の第2代当主の義兼が鎌倉時代初期に築いたと言われる。 現在は鑁阿寺の境内となっているが、鎌倉時代の武家屋敷の面影が よく残っている。(本堂は2013年に国宝指定された) 四方を水堀と土塁で囲んでおり、東西南北に門が設けられている。 |
金山城 2013年6月8日 | 5城目。 新田義貞によって築城されたという説があるが、真偽の程は不明。 新田氏の一族、岩松家純が1469年に築城したというのが定説となっている。 軍神上杉謙信の攻撃を5度も退けるなど、難攻不落の名城と謳われた。 1590年に豊臣秀吉の北条征伐により、落城し廃城となった。 虎口や曲輪等が復元・整備されている。 中でも大手虎口の石垣が立派で、難攻不落の堅固な姿が再現されていた。 また、本丸には新田義貞を祀った新田神社が建立されている。 |
箕輪城 2013年6月8日 | 6城目。 1500年前後に長野業尚が築いたと言われる。 業尚の子である長野業政は武勇に優れ、武田軍の侵攻を何度も撃退するが、 業政が没すると武田軍によって落城し、長野氏も滅亡する。 その後は城主が度々入れ替わり、1590年に井伊直政が入城すると 近世城郭に改築されたが、直政が高崎城に移封されたため、廃城となる。 遺構として、石垣、土塁、空堀等が残っている。 また、貴重な丸馬出が現存している。 現在郭馬出西虎口の城門等を復元工事中らしい。 |
鉢形城 2013年6月9日 | 7城目。 荒川の対岸から写真を撮るため車で向かうが、少し道に迷うorz 1476年長尾景春が山内上杉氏に反旗を翻して築城したと言われる。 その後間もなく山内上杉氏の城となるが、1546年の河越夜戦で勝利した 北条氏康の勢力が強まり、四男氏邦が入城する。 鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点となったが、 1590年に豊臣秀吉の北条征伐により、落城し廃城となった。 特徴として、土塁や空堀等の遺構がよく残っている。 秩父曲輪には3、4段の石積土塁が復元されている。 また、二の丸に繋がる馬出もよく整備されており、空堀によって独立している。 |
川越城 2013年6月9日 | 8城目。 日本三大夜戦の一つである川越夜戦の舞台である。 1457年扇谷上杉氏の家宰の太田道真、道灌親子が築城したことに始まる。 1537年北条氏綱が川越城を奪取し武蔵国支配の拠点となる。 1546年河越城奪回を図る扇谷上杉氏が古河公方、山内上杉氏と連合を組み、 大軍で河越城を包囲するが、「地黄八幡」の北条綱成が半年間守り抜き、 後攻めの北条氏康が奇襲をかけ撃退する。 1590年に豊臣秀吉の北条征伐により降伏。北条氏滅亡後は、 徳川家康の関東移封に伴い、徳川家の譜代大名が代々城主となった。 東日本唯一の本丸御殿が現存しており、大変貴重である。 本丸御殿南側には、当時天守の役割を担っていた富士見櫓跡がある。 中ノ門堀跡には、門や堀が復元・整備されている。 |
二本松城 2013年6月22日 | 9城目。 1414年畠山(二本松)満泰が築城したといわれる。 1586年伊達政宗によって二本松氏は攻め滅ぼされ、伊達氏の支城となるが、 1590年豊臣秀吉の奥州仕置により、蒲生氏郷が入部し石垣が築かれる。 その後は上杉氏、加藤氏、丹羽氏が入部し、近世城郭として整備された。 現在は霞ヶ城公園として整備され、二階櫓、箕輪門、多聞櫓等が 復元・整備されている。 また、山頂の本丸石垣は修築復元されたものだが、出来がよく見応えがある。 天守台からの眺望はよく、二本松市街を見渡すことができる。 |
新発田城 2013年6月22日 | 10城目。 代々新発田氏の居城であった。 1581年新発田重家が上杉景勝に対して反旗を翻し、 7年に渡り徹底抗戦するも、乱は鎮圧され、新発田氏は滅亡した。 1598年上杉氏の会津転封に伴い、溝口秀勝が入部し新発田城を築城した。 現在は新発田城址公園として整備され、三階櫓と辰巳櫓が木造で 復元されているが、三階櫓は自衛隊の敷地内にあるため、見学不可である。 切込接ぎの石垣や立派な本丸表門、旧二の丸隅櫓が現存しており、 美しい景観であった。 |
会津若松城 2013年6月22日 | 11城目。 1384年蘆名直盛が築いた館(黒川城)が始まりとされる。 戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖と呼ばれた盛氏によって、 蘆名氏全盛時代を迎えるが、1589年摺上原の戦いで 伊達政宗に敗れ、蘆名家は滅亡した。 しかし、伊達氏も奥州仕置で会津を召し上げられ、蒲生氏郷が入部した。 氏郷は1592年から7重天守を築くなど近世城郭に改築・城下町を整備し、 町の名を黒川から若松へと改めた。 氏郷が亡き後は、上杉氏→蒲生氏→加藤氏→保科氏→松平氏が治めた。 1868年戊辰戦争では、1ヶ月も篭城に耐えたが、その後開城された。 現在は鶴ヶ城公園として、鉄筋天守、鉄門、走長屋が復元されている。 現存遺構は本丸、二の丸、出丸、水堀、石垣等がある。 極めて堅固な城郭であり、例えば北出丸は「鏖丸」の別名があり、 敵が侵入しても包囲殲滅できる仕組みとなっている。 天守台の野面積み石垣やV字型の武者走り等、非常に見応えがあった。 |
白河小峰城 2013年6月23日 | 12城目。 1340年結城親朝が築城したのが始まりと言われる。 1590年白河結城氏が奥州仕置で改易され、蒲生氏、上杉氏の支城となった。 その後、丹羽長重が移封され、1629年から城郭の大改築に着手し、 総石垣の城となった。 1868年戊辰戦争の白河口の戦いで激戦地となり、落城した。 現在は城山公園として整備され、三重櫓(天守)や前御門が復元されている。 特に三重櫓は絵図や発掘調査を元に、忠実に木造復元されている。 高石垣が見事であり、鷹の目を模した形状となっている。 しかし、2011年東日本大震災により崩落する等、甚大な被害を受け、 現在は復旧工事中である。 非常に美しい城と感じたが、現在は見るも無惨な姿となっている。 復旧工事後、もう一度訪れたい。 |