駿府城 2013年10月5日 | S旅行会のバスツアーで登城しました。 午前中は、駿河・遠江をめぐる武田氏と徳川氏の激しい攻防の 舞台となった高天神城に登城しました。映画「影武者」の当地 をめぐる戦闘シーンを思い起こしました。念願の大堀切を見れて 大感激でした。 駿府城は、徳川家康の隠居城。駿府公園となっている広々とした 城内、石垣に最高権力者としての城を実感しました。 鷹を手にして、上空を睨んでいる家康晩年の銅像は迫力があり ました。 駿府城は、記念すべき1城目の城です。 ★2014年2月6日再登城しました。(10月の写真から2枚差し 換えました) 2013年10月の登城時、時間の関係で二の丸堀越しの東御門と 巽櫓の景観、そして弥次喜多像を見過ごしていましたので 今回しっりと見物しました。 また、城内の紅葉山庭園にも入園、山里の庭には、芝に囲ま れて駿河の国の象徴・富士山を模した築山がありました。 天気の良い日には、ここから富士山が見えるとのことでした。 最後は、家康公元服の社・静岡浅間神社に参拝しました。 |
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武田氏館 2013年10月6日 | 「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」風林火山の旗をはためかせて、京をめざすも、その目前に生涯を閉じた戦国最強の武将。幻の天下人・武田信玄の居館「武田氏館」に登城です。 武田神社の東には宝物館があり、「風林火山」の旗など武田氏ゆかりの遺品が数多く陳列されていました。 そこには、信玄が抱いた天下への夢が遺品とともに永遠の眠りについていました。 写真の一つは宝物館で購入した小冊子「名将武田信玄」(500円)の表紙です。 49頁の小冊子ですが、「信玄の生涯」はもちろんですが、「武田24将」「信玄をとりまく女性」「信玄ゆかりの地」「武田の遺品」「信玄年譜」「甲斐源氏・武田氏略系図」などが記載されており、コンパクトですが充実しており、お勧めです。 |
甲府城 2013年10月6日 | 秀吉は甲府城を徳川の押さえの城と位置づけ一族重臣の加藤氏・浅野氏を置きました。また、江戸期は徳川一門の城となり、甲府城は豊臣・徳川政権を通じて関東の押さえの城として常に重要視された城でした。 壮大な天守台石垣が残っており、天守などの建造物がないだけに一層石垣の素晴らしさが目立ちました。 東日本最大級の高石垣に納得です。 天守台からの富士の眺めに期待していたのですが、富士方面はあいにく雲がかかり、今回は、富士を望める城めぐりは断念しました。小田原城・山中城等の、次の登城の機会に期待です。 (帰りの中央自動車道・バスの車窓からは、バッチリ望めました。) |
大阪城 2013年10月11日 | Aカルチャーセンターの現地講座「大阪城石垣観察」の折に 登城しました。 講師の話を聞きながら約2時間、壮大な石垣が残る大阪城を 散策しました。 二の丸南側の折れが幾重にも続く石垣と、広大な水堀との 組合せが最高でした (2014年11月21日再登城) 今年は慶長19年(1614)の大坂冬の陣から400年。来年は大坂夏の 陣から400年を迎えます。 これに合わせて、大阪城では「大坂の陣400年天下一祭」が 開かれています。 天守閣で申し出ると「大坂の陣読本」が頂けるとの事でしたので 登城しました。 豊臣秀頼は、天下人の血筋を誇りながら、凡庸な性格が豊臣家を 自滅させたとされてきました。 しかし、これは秀頼没後の歴史の中心にいたのが徳川氏だか らで、近年の研究の進展により、この徳川中心の史観を払拭し、 通説とは異なる秀頼の実像が浮かび上ってきています。 私が最近読んだ『「歴史文化ライブリー・豊臣秀頼」,吉川弘文館、 著者・福田千鶴』も、そんな書でした。 没後400年、秀頼の再評価が高まる事は、大阪人にとって大変 嬉しい事です。 |
観音寺城 2013年12月15日 | Aカルチャーセンターの「戦国時代を歩く」を受講して登城しました。西国33番札所めぐりで観音正寺を訪れことがありますので、実際は2度目の登城です。 近江の守護・佐々木六角氏が築いた観音寺城。標高432mの繖(きぬがさ)山山頂から南山麓に広がる大城郭で、中世五大山城の一つに数えられています。 H講師の説明を聞きながら、多数の曲輪をめぐり、高度な石積み技術で石垣を多用し、信長が安土城築城にも手本にしたと言われる山城遺跡を満喫しました。 永禄6年(1563)の観音寺騒動(近江国衆と六角氏の対立)から、永禄10年(1567)の六角氏式目の制定への経緯等、新しい知識を得ることができました。 六角氏式目ーー重臣20名が起草、六角氏が承認、家臣団が 六角氏を封じている これは観音寺城の縄張りにも表れています。一般に思いうかぶ強い戦国大名のイメージは、軍事上の中心であった山頂に居所を定めるものですが、ここでは主郭が山頂に位置していない。多数の曲輪の中に埋没している。これは国衆に規定された六角氏の権力構造を反映しているとの説明でした。 |
二条城 2014年1月4日 | 3度目の登城です。今回は正月庭園公開(平成26年1月2日〜4日) に合わせて登城しました。 10時の開城と同時に、まず「展示・収蔵館」に向かいました。館内 には二の丸御殿大広間 上段の間 障壁画「松錦鶏(まつきんけい) 図」(原画)が展示されており、開城直後で入館者はまだ4人、係員 の方からゆっくり説明を聞くことができました。 展示室に設けられた「将軍の座」に座り、将軍と同じ目線で周囲の 松を眺めると、まるで将軍を護るように枝を伸ばしており、松に 囲まれた威厳を示す空間を体験できて大満足でした。 係員の方からも、「15代将軍慶喜」の気持ちは如何ですかと声を かけて頂きました。 正月庭園公開ということで、東大手門には門松が飾られ、城内は 琴の音が響き、お茶席も設けられ、雅やかな気分で、二の丸・ 本丸庭園、そして清流園をめぐりました。 二条城の本格修理のため、一口城主基金(200円以上)を受付中、 わずかですが協力させて頂き、記念品のバッジを頂きました。 |
篠山城 2014年1月9日 | 3度目の登城です。 大書院では、歴史街道4館共通券を購入しました。(大書院のみ 400円、共通600円 他に武家屋敷 安間家資料館等3館入館可) まず、シアター室でビデオ作品「篠山城物語」を鑑賞、10分位 の作品ですが、築城の歴史的背景が良くわかり、お勧めです。 (9時30分から15分毎に放映) 大書院の後は、本丸跡を散策、天守台に登りました。 天守台からは、篠山市内が一望でき、はるかには八上城のあった 高城山が望めました。秀麗な山容は、丹波富士の別名にふさ しい山です。 高石垣の裾と内掘の間に広くとられた犬走りを見学した後は、 外郭に出て3つの角馬出を見学しました。 北・南・東馬出の内、特に南馬出は土塁と堀がほとんど完全に 残っており、土塁馬出の遺構としては日本唯一の貴重なものです。 篠山に来れば良く買って帰るのですが、今回もシルクロードで ゆらめくピンク色の陽炎を連想させる丹波黒大豆から生まれた お酒「楼蘭」を買って帰途につきました。 篠山は、今も城下町の面影を濃く残す私お気に入りの街です。 |
和歌山城 2014年1月29日 | 2度目の登城です。 天守閣は惜しくも鉄筋コンクリート造ですが、嘉永3年(1850)の 再建天守の大工棟梁が画き残した詳細な記録をもとにして、 外観は寸分違わず復元されているといいます。 券売所で、スタンプ帳を持って入場料400円を払うと、こちらからの 申し出前に、入場券と同時に百名城スタンプも出して頂き、しかも 62番ですよと親切な言葉。思わずにっこり、スタンプの状態も良く、 お礼を言って二の門櫓をくぐり大天守に向かいました。 3層3階の最上階は回廊高欄造で展望台として、乾櫓のむこうには、 和歌山市街、紀ノ川河口、紀淡海峡などが遠望でき城を訪れる 人々の心をなごませてくれます。 見る方向次第でその姿を変える白亜の連立式天守群、岡口門、 松の丸櫓台の高石垣、美しい大名庭園は、さすが紀伊徳川家の 威光を示す巨城でした。 山吹渓(やまぶきだに)は、豊臣時代のなだらかな石垣が残り、紀州 特産の青石の野面積が美しく風情のある処でした。 思わず上着1枚を脱ぎたくなるほどの、好天気に恵まれ紀州・ 名城の旅を満喫できた一日でした。 |
掛川城 2014年2月6日 | 3層4階の秀麗な木造復元天守に登城した後、二の丸御殿に 向かいました。 掛川城御殿は二条城など全国でも4ヵ所しかない貴重な現存御殿です。 頂いたパンフレットによると、廃藩置県により掛川宿に無償で 払い下げされ聚学所となり、その後も、女学校、掛川町役場、 掛川市役所、農協、消防署などに使用されてきました。 そして昭和55年(1980)に、国の重要文化財に指定されました。 いったんは、このような使われ方をされながらも、現在ほぼ 原形で残ったことに驚き、保存に留意をされた掛川市の皆様 に感謝です。 そしてこの二の丸御殿は時代劇映画のロケ地として度々使わ れているとのことで、藤沢周平原作の「小川の辺(ほとり)」 のシーンの一部をこの御殿で撮影したとのことでした。 (展示ケースの中に、映画シナリオ本がありました。) 藤沢周平の愛読者で、原作8本の映画化のうち、「小川の辺」は 「蝉しぐれ」、「山桜」と並んでお気に入り映画のベスト3として いる私にとって思わぬ発見でうれしいことでした。 (もちろん8本すべて観ています。) |
山中城 2014年2月7日 | 山中城の一番の見所は障子堀と畝堀です。巧みに曲輪の 周囲に配し、防御能力を高めています。 以前から是非訪れたいと思っていただけに、実際にその スケールの大きさを目の前にして、大興奮でした。 畝は敵の行動を妨げ、堀底に落ちれば脱出は困難で、城兵は 土塁越しに、容易に狙撃ができます。 このように巧みな防御を備えた城でしたが、天正18年 (1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には守備兵4千、対する 豊臣軍は約7万、圧倒的な兵力と鉄砲数の差はどうしようも なく、半日で落城しました。 S講師の話によれば、「各地を転戦し城攻めの技術を高めていた 豊臣軍は、事前に山中城の堀幅の情報を得て、この堀を越える 木橋を準備して城攻めに当ったのではないか。 圧倒的な数の鉄砲が援護すれば、敵前で橋を組立てる事も容易で あったろう」 又、「既に、鉄砲の装甲貫通距離50mのこの時代にしては、 堀幅が狭い。戦いが、もう10年も前であれば、1週間は籠城 できたであろう」との話もありました。 それにしても、私の感想は、北条流築城術お見事、圧巻の 遺構でした。 |
小田原城 2014年2月7日 | 山中城を後にして、箱根関所を訪ねました。同所では 遠見番所から富士山の遠望を楽しむ事ができました。 東海の名城を訪ねての旅、2日目ようやく富士山が望め ました。そしていよいよ小田原城入りです。 小田原城本丸広場には、猿が飼われていました。小田原城 を攻め落した豊臣秀吉への倍返し? (秀吉の若き時代のあだ名は、サル) 小田原城天守閣内には、「北条氏5代を大河ドラマに」の 旗印が掲げられていました。「光秀、ガラシャ、幽斉、忠興を 大河ドラマに」の誘致活動に少し関係して、その実現を願って いる私にとつては、手強いライバル出現です。 小田原城の総構は、大坂城・江戸城をはじめ全国の城で 応用されています。後北条氏は5代で滅亡しますが、 北条流築城術は天下人にもその実力を認められ、全国に 広まり生き続けていったのです。 本日で、11城目。先はまだまだ。 昼食は、料理茶屋 小伊勢屋で美味しい海鮮丼を、土産は、 (株)ういろうで ういろうを購入し帰途につきました。 |
伊賀上野城 2014年2月13日 | 伊賀上野城は、藤堂高虎が家康の命で、筒井定次の城を、 大坂城(豊臣秀頼)攻めの拠点として大改修を行いました。 そのため大坂の方向、西に防備が固く、本丸西面 の石垣が峻険なのもその理由です。又、本丸も西に移して います。 まず、城の周囲を回り、堀と高石垣を眺めましたが、 水堀から垂直に立ち上がる高石垣の威容に圧倒されました。 現存する石垣の高さ第1位は、徳川大阪城本丸東面の石垣 で高さ30m余り、第2位はこの上野城本丸西面の石垣で高さ 28m余りとのことでした。 その後、今度は本丸の石垣の先端から、反対に高石垣と水堀を 見下ろしましたが、28mの高さはやはりすごい威圧感で、腰が どうしても引けます。 最後は、手だけを伸ばしてのカメラ撮影、「もうこれで ゴメンなさい」状態で、引き下がりました。 要害堅固な高石垣、期待通りの城でした。 尚、大天守3階の屋根補修工事は、皆様の登城記を読ませて 頂くと、最近まで足場が組まれていたようですが、私の登城 した2月13日には、すっかり取り除かれていました。 |
松阪城 2014年2月13日 | 巨石を交えた高石垣が、各曲輪を巡り見事な石垣の城 でした。豪壮な石垣は予想以上で、さすがは、戦国武将・ 蒲生氏郷が築いた城、往時を偲ばせる堅固な城でした。 御城番屋敷を訪れ、御城番武士の略歴を知りました。 その歴史は文久3年(1863)から、現在も形は変わっても脈々と 引継がれています。頂いたパンフレットを、帰りの電車で読み 感動しました。 本日の2城は、共に石垣に見るべきものの多い城でした。 石垣をしっかりと見るため、各曲輪を歩き回りました。 また松阪城は、近鉄松阪駅から徒歩で往復30分と少し遠い せいか、よく歩きました。(1日のスマホ歩数記録 22,043歩) そのせいもあり、帰りは難波まで特急券を奮発、特急でゆったり と帰りました。 尚、本日の2城登城でJAF会員証を提示して3ヵ所で 入館料の割引を受けました。 伊賀上野城 大天守100円、芭蕉翁記念館50円 松阪城 本居宣長記念館100円 わずかな金額ですが、優待施設に結構城郭関係の施設も あるようですので、JAF会員の皆様は事前に調べられて登城 されることをお勧めです。 |
赤穂城 2014年2月18日 | 3度目の登城。 過去は、観光バスで岡山方面への観光途中での立寄りでした。 バス駐車場から、土産店の案内人に導かれて大手門から入り、 隅櫓、大石邸跡長屋門、大石神社をまわり、土産店に戻り お茶の無料接待、そしてお土産のしおみ饅頭を買うというパターン でした。本丸は、神社手前からの説明のみで入場の経験はあり ませんでした。 今回は、単独行。 JR赤穂駅から、お城通りを歩きました。 途中、早水藤左衛門、萱野三平が、「城主の刃傷」の知らせ を持って、江戸から早駕籠を飛ばして4昼夜半。ここで喉を うるおし、大石邸に急を告げたという「息つぎ井戸」にも 立寄りました。 1年9ヵ月にわたる仇討劇の、始まりの舞台になった処です。 登城は午前9時、今回は時間をかけてゆっくり散策しました。 本丸は復元整備が進んでおり、良い雰囲気でした。 スタンプは、本丸櫓門下の左側ですから注意です。右側を通れば 私もですが気づかず、引返すことになります。 最後は、大石神社に参拝し、スタンプラリー成就を祈ってお城を 後にしました。 |
姫路城 2014年2月18日 | 恐らく5度目の登城。 姫路城は黒田官兵衛一色。家老屋敷公園内には「ひめじの 黒田官兵衛 大河ドラマ館」が設けられていました。 官兵衛時代の姫路城のミニチュアセットが上手く出来て いました。官兵衛が幽閉された有岡城の牢獄も再現され ていました。 城内の、りの一渡櫓を「官兵衛の歴史館」として彼に まつわる資料が展示されていました。 奇跡の「中国大返し」、羽柴軍の諸隊は3つのルートに 分かれて姫路城に帰還したとしてそのルートが図示され ており、大変興味深く見入りました。 羽柴軍の中国攻め、後方支援基地として姫路城の戦略的 位置は極めて高く、まさに姫路城があったからこそ「中国 大返し」は可能だったと、改めて感じました。 姫路城と大河ドラマ館の共通入場券は700円ですが、ICOCA カード支払は630円、しかも好古園の割引入場券(150円必要) がついていました。 好古園には、姫路藩主の下屋敷がありました。姫路城を借景に した日本庭園で、瀬戸内海をイメージした大池には錦鯉が彩りを 添えており、もっとゆっくりと散策したい処でした。 |
明石城 2014年2月18日 | JR山陽本線明石駅の車窓から、こんもりした森の緑の 上に白亜の二つの三重櫓が見えます。 JRで通るたびに目にしていた城ですが、登城するのは 2度目です。 とき打ち太鼓に迎えられ入場すると、二つの三重櫓を結ぶ 白く長い城壁が直ぐに見えてきます。 この景観は素晴らしく、明石城の特徴的な姿です。 左の坤(ひつじさる)櫓と右の巽櫓の棟の方向が、全く異なり ます。 本丸の隅には天守台が残っています。ついに天守の建つこと のなかった天守台ですが、ここに登ると坤櫓が至近距離に 見えて、破風の組合せがよく確認できます。 坤櫓は伏見城の遺構だと伝わります。第3回日本城郭検定 試験2級にも、出題されていました。 ただ、天守台は明石海峡からの風が冷たく、早々に 退散しました。 巽櫓の近くには、木のスロープが設けられ、城壁越しに明石大橋、 淡路島が眺められ、ここからの眺望も素晴らしいでした。 明石海峡に接する要衝の地の守りとして築かれた明石城ですが、 今は城跡を中心に、周辺の自然環境と調和した都市公園に 生れ変わっていました。 |
彦根城 2014年3月1日 | JR彦根駅からまっすぐにのびた「駅前お城通り」を通って 登城しました。登城は3度目ですが、過去は自動車、観光 バスで歩いては初めてです。 馬屋、佐和口多門櫓、直弼公ゆかりの埋木舎(玄関のみ)を 見学して、表門から登城、まず彦根城博物館に入館しました。 高さや幅が微妙に変えられている石段を登り切ると、天秤櫓が 見え頭上に廊下橋が架かっています。廊下橋は、非常時には 落し橋となって敵の進路を分断する機能を持っています。 天守は、現存天守の中で最も派風の数が多く、また派風を バランスよく配しており、小規模ながらも華麗な天守です。 白亜の壁に黒の板部分が締まりを与えています。 天守3階からは、石田三成の居城であった佐和山城跡が 一望できました。以前、佐和山城跡を訪れたとき、反対に 山頂から彦根城が望めたことを懐かしく思いだしました。 西の丸三重櫓から、黒門を通り、楽々園、玄宮園、最後は 大手門橋を見て、次の安土城に向かいました。 彦根城の滞在時間約3時間をとりましたが、それでも まだ見どころの多い城でした。 |
安土城 2014年3月1日 | 信長の城、登城でふと思ったことを記します。 私は、現在Aカルチャースクールで、前4世紀ごろ、 わずか10年で前人未踏の大征服をなしとげた マケドニア王アレクサンドロスについて学んでいます。 マケドニア軍はなぜ強かったのか、それは父フィリポス 2世の時代に、いつでも軍事行動が起こせる常備軍を整えた こと、長槍の密集歩兵部隊の戦法を確立させたことと 言われています。これをアレクサンドロスは完成させ たのです。 時代は変わり信長は、舅である斉藤道三と対面します。 斉藤家の槍衆は2間柄の槍に対し、信長の槍衆は朱塗り 3間半柄の槍500本を林立させて、見る者を威圧しました。 道三は、うつけ者と呼ばれていた信長の並みはずれた器量を 見抜き、「いまに見よ。この道三が子供は、やがてあのうつけ者が 家来として、門前に、馬をつなぐようになろうは必定じゃ。」と いった有名な話があります。 そして戦国時代、「兵農分離」を行い、戦いのプロフェショナル 軍団を作ったのも信長でした。 軍事的天才といわれる、2人には共通点があるなと思いました。 |
長篠城 2014年3月6日 | 長篠城址史跡保存館の展示室・(第3ケース)「鳥居強右衛門の 勇気」で見たことが、強烈な印象として残っています。 強右衛門については、小説でも読み、彼の信念に貫かれた態度と 行動には感銘していたのですが、改めて目前で、彼にまつわる 資料を見るとよりその感を強くしました。 城内に「援軍来たらず」と叫べば助かった命、しかし「城内の衆、 援軍は来る」と死を覚悟して叫び,槍先に散ったのです。 本丸探索後は、鳥居強右衛門コースを歩きました。 馬場信房のお墓、強右衛門磔死の碑、長篠城の全域が見渡せる 牛渕橋を回り鳥居駅に向かいました。コースの多くは、新東名高速 の工事区間で、コースが迂回しているようで、しっかり確認が 必要です。私は、歩くのに必死で強右衛門のお墓は見過ごして しまいました。 三河東郷駅で下車、首洗池、信玄塚、設楽原歴史資料館の後、 馬防柵再現地に向かいました。 馬防柵の一画には、「土屋右衛門尉昌次戦死之地」の碑が建って おり、かってこの地で繰り広げられた合戦のすさまじさが呼び 起こされました。 |
岡崎城 2014年3月7日 | 前日6日は、三河東郷駅から豊橋駅に戻り、駅前ホテル に宿泊、7日は豊橋駅8時32発の名鉄・特急で岡崎城に 近い東岡崎駅へ向かいました。 前夜、ホテルでは設楽原歴史資料館で買った「長篠・設楽原の 戦い史跡案内図」(500円)を見て、実際に訪れた地点を地図上 で辿りました。東西両軍の布陣、進路、将氏姓名表等 内容は豊富でお勧めです。これを携えてもう一度ゆっくり 合戦の史跡を巡りたいと思いました。 岡崎城は、徳川家康の誕生から独立までを見守った徳川家 原点の城です。それだけに、家康公ゆかりのものが数多く あります。城域はそう広くないので、案内マップに沿って 回れば見落とさないと思います。 坂谷橋近くには、「純情きらり手形の道」の看板がありま した。そうです、このNHK連読ドラマ(宮崎あおい主演) は、岡崎の八丁味噌の蔵元が主な舞台でした。 赤い神橋から見る龍城堀、龍城堀越しに見る巽閣も趣があり、 クロマツ、クスノキ等の巨木がうっそうと生い茂っているのも 印象的でした。 最後は、乙川に架かる潜水橋を渡り、東岡崎駅に帰りました。 |
名古屋城 2014年3月7日 | 地下鉄・名城線「市役所」駅7番出口を通り、東門口 から登城しました。この地下鉄出口は城門に似せて造られ ており、雰囲気のある出口です。 東門改札所でスタンプをゲット、二の丸に続き西の丸に 入りました。 以前登城した時とは、少し雰囲気が違いました。その理由 は直ぐわかりました。西南隅櫓が解体修理工事のために素屋根 で覆われているのです。修理の完了は、平成26年の秋、もう半年 もすれば天守の前に再び白壁を現してくれます。 西南隅櫓と天守の連なりを撮影しょうと思っていただけに少し残念 でしたが、カメラアングルを変えて、3分咲きの梅枝越しに天守を 撮影しました。 本丸では、御殿の復元工事が行われており、平成25年の第1期 工事完成に伴い、公開がされていました。平成30年には第3期迄 全ての工事が終了するとの事で、完成が楽しみです。 天守登城の後は、正門口を出て、名古屋城のスケールを感じ ながら外堀を歩き、西北隅櫓と堀端公園からの天守の姿を撮影し 帰途につきました。 復元とはいえ、金のシャチホコをいただく天下普請の大城郭、 立派でした。 |
宇和島城 2014年3月11日 | 宇和島城は、築城の名人・藤堂高虎デビューの城です。 縄張りを4角形と見せかけて、不等辺5角形としています。 ノーマークとなる1辺を使って、反撃しまた逃れることも できるようにしているのです。 また、高虎で有名な高石垣も藤兵衛丸の石垣に既にその 片鱗が見られました。 本丸に登城すると、海が望めます。かっては不等辺5角形のうち 2面が直接海に面する海城でしたが、現在では埋め立てられて 海から隔てられています。在りし日の姿を想像するのみです。 この高虎の城は、宇和島伊達家に引継がれ、伊達秀宗が宇和島へ 入城しました。秀宗は奥州の伊達正宗の長男ながら側室の子で あり、正宗の正室・愛姫が忠宗を生んだため立場が微妙になっ ていましたが、正宗が徳川家に懇願し、これ迄の戦功が認め られ、秀宗に宇和島藩が与えられました。 この辺りは、大河ドラマ・独眼流正宗のシーンにも、愛姫(桜田淳子) と猫御前(秋吉久美子)のからみとして出ていました。 秀吉から一字を賜って秀宗と名乗っていたため、徳川氏の世では、 本家家督を嗣げなかったのでしょうか。 |
大洲城 2014年3月11日 | K旅行社の「伊予5名城」を訪ねての旅で登城しました。 まず、東予港から、雪の山容が美しい石鎚山を眺めながら 宇和島城を目指して南下、次に大洲城に登城しました。 大洲城天守は、明治期に姿を消しましたが、江戸時代の天守 雛形が現存し、明治の古写真もあったことから、復元は限りなく 本物に近い木造で復元されたという。 いずれも重文の高欄櫓と台所櫓を従えた天守が、清流・肱川 のほとりに、ひときわ誇らしげにそびえ立っており、往時の 姿で見事に甦っていました。 古い街並みの残る大洲市は、NHK連続テレビ小説「おはなはん」 の舞台となっています。 明治中期、この地を舞台に明るく生きた主人公・おはなはん (主演・樫山文枝)の姿を描いた作品は、記録的ヒットとなり、本作 以降「ん」がタイトルに含まれる作品は、高視聴率になるという ジンクスがあり、NHKもこれにあやかる傾向があるそうです。 そういえば、最近の「あまちゃん」「ごちそうさん」もそうです かね。 出発時間の関係で、ロケ地「おはなはん通り」をゆっくり巡れ なかったのは残念でした。 |
今治城 2014年3月11日 | 今治城を訪れてまず気が付く事は、水堀が幅約60mにも 及ぶ広大な堀であることです。当時の鉄砲の装甲貫通 距離50mを意識して、まず水堀を隔てた戦いを想定して いるのです。 また堀の水のきれいさです。これは、現在も内堀に瀬戸内の 海水が流れこんでおり、水が出入りするので全国の城の中 でも水質の良い堀のトップクラスとの事でした。 平成19年に復元された鉄(くろがね)御門もなかなか見応えが あります。写真撮影をしていると、門の近くで通路に旗指物を 指しておられた方から、「どちらからですか」と声を掛けられました。 会話を交わしていると、当初の再建計画では、費用は6億円の予定 でしたが、幕末期の写真、発掘調査結果を基礎資料とし、そして 広島大学教授の指導などを受けて可能限り忠実な再建を行った。 結果、費用は10億円となったとの事でした。 きっと多数の市民の寄付を得て再建されたと思います。今治市民の 再建に掛ける心意気が感じられました。結果、大手側からの景観は 往年の威容を取戻し、これで城の風格がぐっと備わったのです |
松山城 2014年3月11日 | K旅行社の「伊予5名城」を訪ねての旅・4城目の登城。 ロープウェイ、帰りはリフトを使って登城しました。 15年ぶりの登城ですが、駅はエスカレータの付いたきれいな建物に すっかりリニューアルされていました。 マドンナ姿の案内嬢の説明を聞きながら、2分間の快適な空中遊覧 を楽しみました。 ロープウェィを降りて大手門跡方面へ少し歩くと、揚木戸門跡の 石垣に突き当たりますが、まずこの約17mの高石垣に圧倒されま した。 そして天守が見えたと思うと、太鼓櫓の下で180度回転して戸無門 から筒井門を攻めなければなりません。 通路は鋭角的に曲がり、高石垣の櫓には石落しと数多くの狭間の 仕掛けがあります。さすがは戦国の勇将、加藤嘉明が築いた城です。 どこからも攻めるのは難しい重防備ぶりを見せつける城でした。 本壇・建築群の大天守及び小天守・南隅櫓・北隅櫓は渡廊下で結 ばれた「連立式」です。姫路城・和歌山城と並んで「日本3大連立式 平山城」と呼ばれ、どこから見ても優美な姿を見せてくれます。 これで「日本3大連立式平山城」は登城達成しました。 |
湯築城 2014年3月11日 | K旅行社の「伊予5名城」を訪ねての旅・5城目の登城。 まず湯築城資料館に入館、主要城主であった河野氏の歴史を辿る 「河野氏物語」の映像を見ました。 源平合戦で功績を挙げてから、秀吉の四国攻めにより小早川 隆景に開城し、河野氏の伊予支配に終止符が打たれるまでを 10分程度にまとめた映像でしたが、河野氏の盛衰が良く分か りました。 中でも蒙古襲来の時、多くの武将は石築地(元寇防塁)の中に 入り戦いましたが、河野通有率いる一族は石築地を背に、 最前線に陣取って戦いました。 この勇敢な戦いぶりは、「河野の後築地(うしろついじ)」と して後世まで語り継がれており、この戦いの功績により、失われ ていた旧領を回復し、河野氏再興のきっかけとなったと言う話は、 大変興味を引かれました。 土塁展示室にも入り、土塁の大きさを実感、そして石造湯釜見学の 後は、午後6時30分からの道後温泉からくり人形を見て、椿の湯 (360円)に入浴し旅の疲れを落としました。 伊予5名城巡り、時間は少しタイトでしたが、旅の最後はやはり 「温泉」、良いものでした。 |
鳥取城 2014年3月14日 | 青春18キップを使っての登城。 JR川西池田〜鳥取区間(4,200円)のうち、上郡〜 智頭区間(1,260円)は、第三セクター鉄道の区間で、青春 18は利用出来ません。上郡で切符を購入しょうと すると、なんと「智頭線満喫一日乗り放題キッブ」 (1,000円)があり、このキップは、青春18の利用期間 と合わしての企画乗車券との事。 お蔭で、往復8,400円の所が、3,300円でOKでした。 山陰地方への列車旅行は、この路線を特急「スーパーはくと」を 利用して旅するのが常で、智頭線を各駅で旅するのは初めです。 平福駅の佐用川に沿って蔵屋敷が並び、郷愁を誘う風景、 宮本武蔵駅の剣豪名ズバリの駅、恋山形駅ではハート形の駅看板 とピンク色の駅舎など、車窓風景を結構楽しみ旅をしました。 鳥取駅に着いたとたんに、ミゾレ交じりの雨に天候が急変、当初 予定していた「山上の丸」への登城は断念。 かっての城郭の規模を伝える石垣が整然と残っている「山下の丸」 を、自らの命とひきかえに城兵の助命を願い、自刃して果てた 吉川経家に思いを巡らせ散策しました。 |
松江城 2014年3月15日 | 前日の、JRを利用しての青春18キップ・鳥取城登城 に続いて、本日はS旅行会のバス利用による松江城 登城。 松江城は、以前観光で玉造温泉や出雲大社へ行った途中で 立寄った事があり、確か4度目の登城。かって遊覧船で 堀川巡りをした想い出が呼び起こされました。 黒塗の下見板張りで覆われた天守は、黒々と鎮まり見る者に ひときわ重厚な感じを与えます。 天守地下には井戸、内部には石落し、狭間が多く見られ 極めて戦闘モードの高い天守です。天守の入口に付櫓を付属 させ、天守に敵兵が近づいたら、ここからの攻撃で天守への 侵入も阻止するようにされていました。 そんな中で、天守1階の柱にハート形の木目があるのが、 御愛嬌で、多くの人が写真を撮っておられました。 天守最上階からの眺めは絶景で、特に南方は、眼下に広がる 宍道湖が美しいです。 尚、「松江城大手門の復元資料を探しています。懸賞金額 500万円」の看板(主は松江市観光施設課松江城国宝化推進室) がありました。 皆様、お宝発見ですぞ。古写真や設計図、一度見直して下さい。 |
月山富田城 2014年3月15日 | 1997年のNHK大河ドラマ「毛利元就」の放映の頃に 登城したので、17年ぶりです。 安来市立歴史資料館で、現地ガイドの方の出迎えを受け ました。前日の雨で、山上への道が相当ぬかるんでいる ので、杖を借りる方が良いとのアドバイスを受けました。 太鼓壇には、尼子再興のために尽力した山中鹿介の銅像が あります。華麗な鎧兜をまとい、三日月に祈る凛々しい 鹿介の銅像は、人々を惹きつけます。 花の壇に続く、山中御殿は城主の居館があったとされる場所 ですが、かっては城郭の中心部分であった事を連想させる 広々とした広場と、周りを囲む石垣が残るのみです。 本丸へは、ここから七曲りの急坂を登らなければなりません。 特に下山の時は、杖を借りていて大正解でした。 標高192mの中世の典型的な山城、山中御殿から、三の丸、 二の丸、本丸へと馬の背にそって郛が築かれていました。 永禄7年(1564)、毛利軍に完全包囲されるも、山中鹿介らの 奮戦で1年半にわたり抵抗を続けますが、永禄9年ついに降伏、 尼子氏80年の栄華は終わりを告げたのです。 |
小谷城 2014年3月17日 | 青春18キップと湖北町こはくちょうバスを使っての登城。 河毛駅9:18着、同駅9:30発の上記バスで小谷城戦国歴史 資料館へ向いました。料金200円、ワゴンタイプの小型バス で、乗車は私のみでした。 こはくちょうバスの利用には、注意が少し必要です。 定期便と予約便があり、予約便は、利用時間の30分までに 電話予約が必要です。私は、前日に予約しました。 また、予約便は資料館前までOKですが、帰りに私のように 定期便を利用する場合は、資料館口からの乗車となります。 距離は短いのですが、注意が必要です。往きに、帰りの停留所 の場所を教えてくれます。 以前の登城は、大手からでしたが、今回は小谷城の落城の時、 秀吉が突撃した搦手の清水谷ルートから登城しました。 道の険しい西側からの攻撃は予想外であったようで、秀吉は 、長政が守る本丸と、父・久政が守る小丸の間にある京極丸を 落し、父と子を分断することに成功しました。 久政が自刃すると、翌日長政も自刃して、姉川合戦の後、3年間 信長の前に立ちはだかった浅井家は滅亡したのです。 |
岩村城 2014年3月19日 | まず岩村歴史資料館に入り、地元ガイドの方から岩村の 歴史と文化について説明を受けました。 ここでは、以前本を読み知ってはいたのですが、信長の叔母で 「女城主」と呼ばれた、おつやの方の悲劇についての説明も ありました。 帰宅後、信長を呪い叫びながら逆磔にされ殺されて行った 最期とそれに至る経緯を楠戸義昭著「城と女・上巻」で再度 読み直しました。 字数の関係で詳しくかけませんが、この城には武田VS織田 の争奪戦と女城主の悲しき末路が刻印されています。 文章は次のように書いて閉じていました。 「そして7年後、叔母の処刑を命じた信長も、岩村城を攻めた信忠 も、武田家から返され元服した御坊丸(信長の5男で養子、武田へ 人質として送っていた)も、信長から岩村城を与えられた森蘭丸 もが、本能寺の変によって死ぬのである。 本当に叔母の呪いだったのだろうか。」 岩村城を代表する景観の一つ、6段の石垣を見て本丸に辿り着き ました。 城下町を見下ろすと、この城の悲話を忘れさせるような景観が 広がっていました。 |
犬山城 2014年3月20日 | 東海の名城を訪ねる旅の2日目、犬山城へ登城です。 前日は岩村城の後、苗木城へ登城しました。 苗木城は、巨岩と石垣に懸造の建物が配された全国 でも珍しい城で、巨岩と一体化した天守台跡には、 現在巨岩に掘られた柱穴をもとに、柱で枠組が再現 されており、百名城の1つになってもおかしくないと 思われるインパクトのある城でした。 犬山城の見所は、3重4階地下2階の現存の望楼型 天守です。最上階は高欄の間で、赤いじゅうたんの ひかれたこの間からはベランダのように外へ出て眺望を 楽しめます。 ここからは木曽川を直下に望むことが出来、本丸の北面から 西面は断崖になっており、木曽川を背にした後堅固の城 である事が良く分かります。 四方に設けられた廻縁の幅は、わずか1mほどで高欄(てすり) も設けられていますが、下を見ると怖いくらいでした。 しかし眼下を悠々と流れる木曽川の眺めは、時を忘れる程でした。 この後、犬山市文化史料館では、精巧に復元された犬山城と 城下町模型など犬山城関係の資料と成瀬家関連資料を見て 次の登城先・岐阜城に向かいました。 |
岐阜城 2014年3月20日 | 昼過ぎから生憎雨が降り出し、山麓の岐阜公園・ 歴史博物館に着いた頃には、金華山頂上の天守も 雨にかすみ、確認もできない状態となってしまいました。 金華山ロープウェー山麓駅から山頂駅まで、ロープ ウェーで約3分、そしてかなり急な階段を約10分で 天守入口に到着しました。 岐阜城は戦国の興亡を伝える美濃の名城、数々の戦史を 秘め、戦国武将の野望を物語る城です。 信長が「天下布武」のスローガンを掲げたのもこの岐阜 からでした。 天守からは、眼下には、濃尾平野と悠然と蛇行する長良川 と木曽川が一望出来るという。 天下人も愛した眺望を期待していたのですが、雨のため 次の機会にお預けでした。 帰り、山麓の信長居館跡で、地元ガイドの方から、最近の発掘 調査で、最大規模の庭園跡が見つかったとの説明を受けました。 そして、この時代に大きな庭園の造成に石垣を用いたのは珍しく、 当時の最高の技術を取り入れることで、天下布武の意気込みを 示したのではないかと推測しているとの事でした。 改めて岐阜城は、信長の天下統一の本拠地であった事を感じ ました。 |
千早城 2014年3月22日 | 3度目の登城。 登りは金剛山への登山ルートを使い、下りは四の丸から 五百数十段の石段を降りました。 楠正成が築いた千早城は、標高600m、千早の山里からも 200mほど高い所にあり、三方が絶壁で後方の山路のみが 金剛山頂につながる山城です。 これは、今も曲輪の端に立ち、眼下を見ると、千早城が いかに急峻な地に築かれていたかを実感する事が出来ます。 ここで、太平記の100万期はオーバーにしても、数万或いは 10万を超す鎌倉幕府の大軍を相手に、わずか数百人でそれまで の常識を覆す戦いを敢行したのです。 守りの人数を多く見せるため、わら人形に甲冑を着せ、また攻め 手を近くまで引き寄せた上で櫓から石や丸太を転がす。それでも 這い上がってくる兵たちには糞尿を浴びせました。 まさに山城の持つ高低差の利点を生かした、平地の武士には考え られない作戦をとりました。 そしてこの山中の小城の籠城戦の成功が倒幕を呼び、歴史を変え たのですが、それ以降は騎兵が攻める事の出来ない急峻な山頂に 山城が築かれ始め、城の歴史にも大きな影響を与えたのです。 |
高取城 2014年3月22日 | 35城目、K旅行社を利用しての登城。 城跡への道路事情が悪く出発地より2台の中型バスに 分乗しての登城です。S講師も車中説明のためバス 乗換が必要で大変そう。 七ッ井戸で降りて、坂道を約15分歩くと本丸に到着です。 うっそうとした林の中を進むと、突然累々たる高石垣群が 現れるのは感動ものです。 明治時代中ごろまで存在していた天守をはじめとする 建築物は、全て取り壊されてしまっていますが、今も本丸、 二ノ丸をを中心として、城一帯に延々と連なる石垣は、 当時の威容を偲ばせます。 ただ、もう少し周りの木を伐採して遠くから見えるように すればどうかなとも思いました。(勿論、ファンとしては 現在の竹田城の様になってしまっても困るのですが) スタンプは、城下に戻り「夢創館」でゲット、小冊子 「ようこそ高取町へ」(200円)を購入、城址の事もコンパクト にまとめてあります。 家老屋敷長屋門(植村邸)、お里・沢市の墓所と伝わる信楽寺、 イベント開催中の「雛の里親館」でお雛さまを見て帰途 に着きました。お雛さま、旅の疲れをいやしてくれました。 |
鬼ノ城 2014年4月5日 | 麓の砂川公園から、小型バスに乗り替えての登城。 鬼城山ビジターセンター前で、現地ガイドの方と合流して、 まず鬼ノ城の歴史について説明を受けました。 663年(天智2)の白村江の敗戦後、大和朝廷は大陸からの 侵攻を恐れ、北九州から大和に至るルート上に、百済からの 亡命者の指揮によって、大野城など6城を築城しました。 これらの6城は「日本書記」に記載されており、朝鮮式山城と 呼ばれています。 一方、鬼ノ城もそんな防衛施設の一つであろうと推察される ものの、どの歴史書にも一切記されてなく、諸説あるが、 いまだ解明されいない謎の山城です。歴史書に記載がなく、 上記の城と区別して神籠石系山城と呼ばれています。 版築で突き固められた土塁の城壁の高さは、6〜8mで要所は 高石垣が積まれていました。古代の城とは思えないほど見事 な高石垣でした。 温羅(うら)と言う鬼がこの地にすみ、鬼ノ城は本当に鬼の城 であったという伝承もあり、この地は桃太郎の鬼ケ島の最有力 候補であると云う。 鬼ノ城は古代ロマンをかき立ててくれる城でした。 |
岡山城 2014年4月5日 | 37城目 後楽園は、旭川の堤防を覆い尽くすように桜並木が続き、 多くの花見客で賑わっていました。後楽園が一番華やぐ 時に合わせての岡山城登城となり、ラッキーでした。 岡山城と云えば、宇喜多秀家です。 秀吉の信任を得た、秀家はわずか27歳の若さで、五大老 の一人に抜擢され、大大名となりました。 その後、関ケ原の合戦では、秀家は西軍の主力として奮戦 しますが、小早川秀秋の東軍への寝返りが主因で敗北します。 秀家の後に、岡山城に、新しい城主として入ってきたのが 秀家にとっては裏切り者の秀秋でした。 秀家ファンの私は、この事はなんと不条理な出来事だった のだろうといつも思うのです。 しかし、秀秋はわずか2年後に死に、一方秀家は八丈島 に流され、食事など非常に厳しい環境に置かれたとはいえ、 84歳の天寿を全うしました。 その時には関ケ原の勝者は全て亡くなっており、敗者の秀家 のみが生き残っていたのです。 勿論、長生きが秀秋にとって幸せだったかどうか今となっては、 知るすべもないのですが。 |
一乗谷城 2014年4月10日 | 38城目 春の青春18キップを使って、利用期間の最終日に登城。 大阪駅から福井駅へ、そして福井駅からは京福バス 東郷線で約30分、武家屋敷前で下車しました。 バスの便が2時間に1本程度のため、時刻表をしっかり 調べて出発する必要があります。 以前は、山中温泉等、温泉ツアーの途中に立ち寄った事が あり今回で3度目の登城でした。 この日は、一乗谷館のみのため、上・下城戸、復元町並、 南陽寺跡庭園、朝倉館跡、湯殿跡庭園、諏訪館跡庭園等を じっくり見て回りました。 いずれも「北の京」と呼ばれる文化都市として、一乗谷が栄華を 極めた跡を偲ばせるものでした。 しかし朝倉義景に天下取りの情熱が薄かった理由は、この美し かったであろう一乗谷の世界で、満足していたためだろうと 思いました。 信長によって、朝倉氏は滅亡し、一乗谷も灰塵に帰すのですが、 天下布武を掲げて押し進んだ信長、それに対して義景は、乱世 では保守的すぎた。 越前一国の安定のみを願った義景と信長との差が、朝倉氏滅亡、 一乗谷炎上という結果を招いたのではないかと思いました。 |
高遠城 2014年4月17日 | 39城目 訪れた4月17日は、1500本とも云われるタカトオコヒガン ザクラが満開でした。 やや小ぶりで赤みを帯びた可憐な桜が、爛漫と咲き乱れている 様は、さすが「さくら名所百選」に選ばれた処と思わせました。 しかし桜の名所として知られる高遠城は、戦国時代でも際立った 落城物語の舞台です。 天正10年(1582)3月、5万の兵を繰り出した織田軍の攻撃に 対して、城主の仁科盛信(勝頼の異母弟)は、わずか千人の兵で 果敢に立ち向かいました。 女子供までがよく戦いましたが、結局は、多勢に無勢、盛信 以下すべての人々は壮絶な最期を遂げます。 9日後には勝頼が天目山で自刃し、武田氏は滅亡する。 多くの武将が離反するなか、この高遠城だけが、最後の 武田武士の誇りをかけて戦ったのです。 頂いた、「高遠城址公園周辺案内図」によると、「盛信の 流した血は城内に植えられているコヒガンザクラの赤み になぞられている」と記されていました。 そんな、高遠城の桜、織田の大軍を一身に引き受けて散った 武田武士の誇りを称えて咲き誇っていました |
松本城 2014年4月17日 | 40城目 観光と、直近では21年7月の北アルプス燕岳登山の時以来の 3度目。 凛と佇む国宝天守群と、常念岳を中心とした北アルプス連峰 が遠く連なり、美しく光る組合せを期待して登城したのですが、 天候がすぐれず今回もお預けです。 松本城の魅力は、現存天守群の美しさです。 5重の天守を中心に、乾小天守を渡櫓で連結し、東に辰巳付櫓と 月見櫓を配した変化のある造り、天守の唐破風と千鳥破風、 黒漆の下見板と白漆喰壁のコントラス、この国宝5棟が一体化 した姿が魅力的です。 大天守内の階段も見所です。 急勾配で踏み板の幅は狭く、段差は高いです。 特に4階の階段は日本一急な階段で、7ヵ所ある階段いずれもが 敵兵の侵入を防ぐ工夫がされています。 黒門を入ってすぐの右側に、市川量造と小林有也の顕彰碑 が立っています。 明治時代になって、天守も売却・破壊の運命にさらされました。 二人は、この天守の買戻し、保存、修理に苦労されました。 二人の苦労がなければ、今の美しく風格ある松本城は、恐らく 存在しなかったと思います。感謝です。 |
松代城 2014年4月18日 | 41城目 この城は、武田信玄が上杉謙信に対する備えとして、家臣の 山本勘助に命じて築かせたとされています。 当時は、海津城と呼ばれ、川中島の合戦では、重要な役割を 果たしました。 武田氏滅亡後、幾たびか城主を変え、元和8年(1622)に 真田信之が、上田城から入城しました。 以来、真田氏10代が約250年にわたって守り続けた城です。 22年間、上田藩主として国を治めた信之、6万5千石から 10万石へ加増されての転封を、仕置きと呼ぶのはどうかなと 思われますが、果たしてどうであったか? 関ヶ原の合戦では、信之は父・昌幸、弟・幸村と袂を分ち、 この時、父・弟はすでに亡くなっていましたが、将軍徳川秀忠とは 確執が生れていなかっただろうか。 秀忠にしては、関ケ原遅参の原因ともなったこの父子を、許すこと など出来なかったと私は考えます。 上田城から、松代城への転封は徳川家に歯向かった真田家への 仕置きであったと思えます。 城内に現存する石垣で、最も高い戌亥櫓に上がり、満開の桜に 覆われた景観を見渡しながら、ふとそのように考えました。 |
上田城 2014年4月18日 | 42城目 かつて真田氏の居城であった上田城跡に咲き乱れる千本もの 桜は圧巻でした。 丁度、千本桜まつりが開催されており、無料の「ふるまい十勇士 鍋」等にも花見を楽しむ多くの人々が行列を作っていました。 関ヶ原合戦の後、徳川家康は、真田昌幸・幸村父子を紀州高野山 に流し、信之に対して上田城を与えたものの、城は廃棄処分に しました。工事は、建物の撤去に止まらず、石垣は崩され、 堀も埋められと言います。 家康は、この地で、徳川勢を2度も撃退した城の存在を許さ なかったのです。 真田氏の松代転封後、上田城主となった仙石忠政は幕府から 許可を得て、埋められていた堀を掘り起こすなどして再建に 着手、仙石氏の但馬・出石転封後は、松平(藤井)氏が城主と して明治維新を迎えています。 このため、現在の城は仙石氏、もしくは松平氏時代のものです。 5月12日、2016年のNHK大河ドラマは、幸村の生涯を描く 「真田丸」に決定したとの発表がありました。 上田城は、真田一族激闘の地であります。 ドラマ化で、ますます人気の城になると思いました。 |
小諸城 2014年4月18日 | 43城目 小諸城址は、懐古園と言う史跡公園として整備されています。 懐古園の入口には、国の重要文化財の三の丸が建ち、登城者を 迎えてくれました。 小諸城は信玄が山本勘介に命じて縄張させ、仙石秀久が完成させ た城です。 正秀は、小諸から同じ信州の上田へ転封になり、さらに但馬 出石へ転封になりますが、そのおり、信州からソバ職人を同行 させた事から、出石もまたソバ処として知られるようになりま した。 城跡には苔むした野面積石垣が累々と残り、特に天守台付近 は島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」と詠まれたイメージに ぴったりの所でした。 天守は落雷によって焼失し、再建される事はありませんでしたが、 天守台から望む馬場跡の桜は、藤村のロマン漂う信濃の古城に ふさわしい素晴らしい景観でした。 信州5名城めぐり2日間の旅で訪れた、高遠・松本・松代・ 上田・小諸城、いずれの地でも城址を彩る桜が咲き誇り、 歴史ロマンを盛り上げてくれました。 桜ざんまいの2日間、いつまでも想い出に残る旅でした。 |
竹田城 2014年4月24日 | 44城目、4度目の登城。 過去は、中腹の駐車場に車を停めての登城でしたが、 今回は、JRを利用して竹田駅から、表米(ひょうまい)神社 登山道で登城しました。 石垣だけしか残っていないのに、山城にそぐわぬ山頂の豪壮 な石垣群、眼下に広がる竹田城下の景観、初めて15年程前に 訪れて以来私を魅了する城です。 天空の城としてこの数年人気が急上昇、観光客が急増し、制限 つき見学が3月より実施されている事は、ニュース、新聞で 知っていました。 変わってほしくないという期待の反面、きっと当時とは変わって しまっただろうなという躊躇があり、登城は遅れて近畿の14名城 で最後の城となりました。 見学コースは、北千畳側からの一方通行に限定されており、コース の上には、マットが敷かれていました。また、本丸と天守台そして 南千畳も入場禁止になっていました。 史跡保護と安全確保上、止むを得ない措置である事は、解りますが 竹田城ファンとしては少し残念ですね。 何とか、城跡の美しい景観だけはいつまでも変わらないで欲しいと 強く思いました。 |
江戸城 2014年4月29日 | 45城目、2度目の登城。 東北5名城ツアー参加のため、東京に前泊時に登城しました。 まず楠公休憩所にて、スタンプをゲットしました。 楠木正成像、1.5ヵ月前に千早城へ登城した後だけに感慨深く カメラに収めました。 大手門より登城、門は典型的な外枡型で規模も大きいです。 大手休憩所でガイドマップを頂き、汐見坂より、本丸・ 天守台を目指しました。 汐見坂は、坂から江戸湾を一望出来た事からそう呼ばれます。 この急坂を上ると、本丸が城内の高所に位置していた事が実感 できます。 天守台は、ここに日本の城郭史上最大の天守が存在した場所で すが、明暦の大火で焼失し、以降、天守の再建は見送られました。 天守台の大きさに圧倒的されました。 石室、松の廊下跡、内側からの富士見櫓を見た後は、 本丸御殿跡を通り抜け、汐見坂を下り、平川門から下城しました。 内側から見た富士見櫓は、以外と単調な造りでした。 やはり櫓は、外側から堀越に、石垣の上のそれを見るものです。 広さはもちろん、全てが大きく、まさしく将軍家と共に歴史を 刻んだ日本最大の城郭でした。 |
仙台城 2014年4月30日 | 46城目 時間の関係で、三の丸跡から歩かず、バスで本丸まで一気 に登城しました。 埋門あたりは、駐車場の一部となっており、車が頻繁に出入り していますが、ここに現存する土塁は、政宗時代の遺構で 食違虎口となっています。 馬上凛々しく仙台市街を見下ろす政宗騎馬像は、人気の撮影 スボツトで記念撮影する人が絶えません。 この銅像は戦後に造られた2代目、初代は太平洋戦争時に徴用 されたと言う。 銅像ばかりに気をとられて、見逃し勝ちが台座のレリーフです。 後で、調べると?元服した11歳の頃、?朝鮮出兵の出陣の時、 ?支倉常長を見送る時、?権中納言従三位の位についた時、 の政宗の人生、4つの場面がここに描かれています。 本丸東側の懸造の御殿跡、資料展示館の精巧なCDで再現 された300インチの巨大スクリーンで観る「仙台城」の映像 もお勧めです。 現在の仙台城に当時の建物は残っていませんが、苔むした石垣・ 遺構に、政宗の天下取りの野望を秘めた城であった事を感じま した。 最後、政宗の遺言で建てられ壮麗な墓所・瑞宝殿にお参りしま した。 |
多賀城 2014年4月30日 | 47城目 多賀城は、奈良時代に東北に築かれた律令国家の要の城です。 現地ガイドの方からの政庁跡説明の後、外郭南門跡にある 多賀城碑(重文指定)の説明を受けました。 万治3年(1660)頃、約900年ぶりに土中から掘り出されこの 碑は、「壺碑」(つぼのいしぶみ)とも呼ばれています。 拓本コピーも使っての説明によると、藤原朝かつ(藤原仲麻呂・ 恵美押勝)の多賀城改修の記念碑であると初めて知りました。 建立は、碑文から天平宝宇6年(762)です。 恵美押勝は、叔母の光明皇后と従妹の孝謙天皇の信任を背景に 最高権力者の座に君臨しました。 しかし道鏡の台頭をきっかけに孝謙上皇と激しく対立するように なり、碑建立の2年後、天平宝宇8年に乱を起こすも敗れ、捕ら えられて処刑されました。 奈良時代、異彩を放つ人物として関心を抱いていただけに、思わぬ 発見で驚きでした。 多賀城の歴史を物語るこの碑には、遙か奈良時代からのロマンが 秘められており感動を覚えました。 反逆者となった男の記念碑、或は反乱の後に、埋められたのかも 知れませんね。 |
盛岡城 2014年5月1日 | 48城目 盛岡城址入口の桜山神社にお参りした時、岩手県知事・ 達増拓也氏に偶然お目にかかりました。 平成19年4月30日、岩手県知事に初当選した時、翌5月1日 初仕事としてこの桜山神社にお参りし、以降、毎年5月1日 には、県民の安寧を願いお参りを続けているとの事でした。 あの震災の後、テレビで良くお目にかかっていましたが、 当時と比べてずいぶん穏やかなお顔に戻られたと思いました。 まだまだ、復興大変だと思います。お体に気をつけられて、 頑張って下さい。 盛岡城址見学の後は、昼食で盛岡そば処「東家」でわんこ そばに挑戦しました。 接待(5人の客に1人の接待役)のおねえさんの「どんどん」 や「じゃんじゃん」の掛け声に乗って、そしてなりよりも 美味しい事で随分多く食べました。 席の関係で、2人のおねえさんに攻められうれしいやら、 つらいやら。 途中までは、わんこそばの算木で数えていたのですが、 分からなくなりました。 自己申告で証明書は、50杯と書いてもらいましたが、 実際は?でした。 |
根城 2014年5月1日 | 49城目 根城・南北朝の動乱を疾風の如く駆け抜けた北畠顕家 と関係の深い城です。 顕家ファンの私にとっては、気になっていた城だけに 今回登城出来て大満足です。 「花将軍」とも称され、NHK大河ドラマ「太平記」では、 後藤久美子が演じました。 16歳で陸奥守に任じられ、奥州制圧を成し遂げた後、奥州軍を 率いて上洛するも、足利軍と泉州石津(堺市)で戦い、21歳で 討ち死にしました。 根城は、建武元年(1334)に南部師行によって築城されたと伝わり ます。師行も顕家と共に泉州石津で討ち死にします。 主殿には、顕家・師行の遠征経路が掲げてありました。 北方謙三著「破軍の星」には、陸奥の地に新国家建設 の夢を抱きながらも、若くして散った顕家の壮絶な生き方が 描かれています。 勿論、師行の活躍も描かれています。 根城到着時は、殆ど雨は降っていませんでしたが、主殿の見学を 終えた頃から、大振りの雨に見舞われました。 城攻めに来て、反対にまるで水攻めにあったよう。もう1時間降る のが遅れていれば見学も充分出来たのに、残念でした。 |
弘前城 2014年5月2日 | 記念すべき50城目、百名城の半分達成です。 今年は桜前線と共に百名城を訪ねる旅に出かけましたが、 いよいよ桜の名所として名高い弘前公園にある弘前城へ 登城しました。 ソメイヨシノ、シダレザクラ、八重桜など約2,600本 余りの桜が園内を埋め尽くし、そこでは華やかな 春の景色が私を出迎えてくれました 花群れ越しには残雪をいただく岩木山の雄大な眺めが あり、堀は散り始めた桜の花いかだで、まるで堀全体に ピンクのじゅうたんを敷詰めたようでした。 堀をピンク一色に染め上げたこの絶景には、思わず 驚嘆の声をあげました。 どこを見ても感動的な花景色に巡りあえ、大満足の一日 でした。 実は天守と堀と桜の重なる定番シーンは、来年から 暫く見ることが出来なくなります。 石垣の大規模修理が必要になったため、修理は秋からで、 重機を入れるため内堀の一部も埋め立て、天守閣も移動 させて、工事全体の終了は10年後を見込んでいるという。 そのせいもあり、ゴールデンウィーク中とはいえ、天守閣の 登城には30分以上の待ちが出来る程、混み合っていました。 |
五稜郭 2014年5月20日 | 51城目 百名城No.1〜3の3城登城のため北海道へ登城です。 五稜郭は、幕末の箱館(現・函館)開港により、箱館奉行所として 築かれました。 当初は、箱館山麓にありましたが、湾岸から近く防衛上不利な ために、内陸の亀田の地に奉行所を移したのです。 しかし、そんな大砲の攻防に備えたはずのわが国初の洋式城郭も 箱館戦争では、新政府軍の攻撃の前になすすべもなく開城降伏 してしまいました。 五稜郭が完成した時は、既に大砲の飛距離、破壊力は格段に進歩 しており、このような城は旧式になっていたのです。 隣接する五稜郭タワーに上ると、五稜郭の星形と半月堡(馬出し) の迫力ある眺望が眼下に迫ります。 ただ展望台2階の土方歳三の像が、逆光でうまく撮れなかったのは 残念でした。 五稜郭のその夜、携えていった司馬遼太郎、「燃えよ剣(下巻)」 の最後の2章、五稜郭と砲煙を読み直しました。 自らの死に場所を求めて壮烈に戦い散った土方歳三の姿に、 現地を見た直後という高まりのせいか、より胸を熱くしました。 |
松前城 2014年5月21日 | 52城目 5月下旬にもかかわらず、名残の桜が登城を出迎えて くれました。 松前城は、海への防備に主体をおいたため、戊辰戦争で、 土方歳三らの旧幕府軍に背後から攻められて落城しました。 松前藩屋敷を先に見物して、松前城へ登城しました。 このため、山側から下る形となり、実際そのように感じました。 松前藩屋敷には、北前船の交易で栄えた「松前」を再現した 建物が14棟あります。 江戸時代へのタイムスリップを楽しめる処でした。 松前から江差に向かい江差会館で江差追分を聞きました。 第15回江差追分全国大会(昭和50年)チャンピオン・浅沼春義氏の 見事な江差追分、いつまでも記憶に残ると思います。 昼食のニシン・カズノコ丼美味しかった。 |
根室半島チャシ跡群 2014年5月23日 | 53城目 松前から根室へ移動。 途中、千歳・釧路に宿泊するもやはり遠い所でした。 納沙布岬近くにあるオンネモトチャシ、純粋な軍事施設 というより、漁業の見張り場的な色彩が強いチャシ( 砦・囲い)と思いました。 岬の先端に土盛りだけが残っており、バックには温根元漁港が 見えました。案内板がなければ、ただの草原としか見えない 所でした。 納沙布岬に立つ北方館からは、岬から3.7kmの地にある貝殻島 の灯台が遠望できました。 ここは国境の地であることを実感です。 北方領土返還署名もしました。外交交渉の中で、新たに ウクライナ問題という阻害要因が発生したのも心配です。 根室は風もきつく相当寒く感じたので、一体何度ぐらいだったの だろうと、帰宅してネットで調べると、23日の根室の最高気温は、 5.8度、道理でした。 百名城中、登城難易度の非常に高い所に入っている、根室半島 チャシに登城できてホットです。 |
備中松山城 2014年5月25日 | 54城目、2度目の登城。 二の丸から眼下に高梁の城下町を望むと、この城が天険の 要害に築かれた山城であることが実感出来ます。 作家・川西欄氏が、多感な少年時代、この高梁で暮らした思い出を 綴った短編小説集「夏の少年」を、15年程前に読んだ事を思い出し 帰宅後早速、頁をひもときました。 「夏の少年」180頁、あとがきから。 「岡山県のほぼ中央あたりに、Tという町がある。 今から30年ほど前、私は約6年間、その町でくらした。 …中略… その町で暮らした6年間は、私にとってたいへんに恵まれた 時期だった。 町には、大きな川が流れていて、私はそこで水泳と釣りを 覚えた。山には、古い城跡があり、そこには野生の猿がいた。 友だちがいて、家族がいた。」 …以下省略… 著者が、「変わってほしくない思い出の町」と念じた町、 今も変わらず風情ある景観を残して佇んでいました。 山頂に突然現れる小ぶりながら凛とそびえ立つ天守と、しっとりと 趣ある城下町、是非もう一度訪れたい城でした。 日本三大山城、岩村城、高取城、備中松山城、制覇です。 |
津山城 2014年5月25日 | 55城目、3度目の登城。 備中松山城からJRを利用しての登城。 津山駅16時17分着、駅から徒歩約15分で登城は 16時40分頃。 津山城(鶴山公園)の閉園時間は、夏場は19時ですが、 備中櫓は16時30分で閉館です。 それ以降のスタンプは、券売所。私も表券売所でゲット しました。 備中櫓に入れませんでしたが、私は幸いAカルチャーセンター の関連催し(美作国建国1300年記念講座)で、昨年3月24日に登城 しており、これでOkでした。 なぜ美作の津山城に備中の櫓があるのか、この時の現地 ガイドの方の説明を思い出しました。 初代津山藩主の森忠政は、鳥取藩主の池田備中守長幸に娘2人 を嫁がせています。(嫁いだ姉が若くして亡くなり、妹も嫁いだ) その娘婿の長幸が津山城を訪れるのを機に造られたのが「備中 櫓」であるとの説明でした。 池田備中守長幸の「備中守」は職名であり、「美作・備中」等の 地名ではなく、鳥取藩主の池田備中守長幸の職名に因んだ備中櫓 なのです。 見事な石積みが累々と残り、昔日の面影を今に伝える立派な城址 でした。 |
岩国城 2014年6月17日 | 56城目 過去、宮島観光などで錦帯橋に立ち寄ったおり、麓から 見上げていた岩国城です。 錦帯橋には、3回程度来ていましたが、お城登城は初めてです。 ロープウェー山頂駅から天守への道は、深い樹木に覆われ、しかも 雨のため霧もかかり、何か幽玄の世界に包まれたようでした。 天守最上階から眼下の錦帯橋と城下町のパノラマを期待していた のですが、あいにくの雨で、眺望は良くありませんでした。 百名城巡りを始めて、ロープウェーでの登城は、岐阜・松山・岩国城 と3度目ですが、岐阜城に続き2度目の雨です。 10月にリフトで登城を予定している津和野城、良い天気であります ように。 元和元年(1615)の一国一城令で、完成からわずか7年でこの城は、 破却の運命に見舞われました。 この周防の国には岩国城だけであったにもかかわらず、吉川 岩国藩は、毛利氏の一族として破却されたのでした。 破壊の跡が残る石垣も見て、見学を終りましたが、関ケ原以降 の幕府の毛利氏に対する厳しい仕置きが伺われる話であると 共に、岩国城は本当に悲運の城だと思いました。 |
広島城 2014年6月18日 | 57城目 平和記念公園は訪れた事がありますが、広島城は初めての登城。 原爆により、国宝だった天守閣をはじめ城内の建造物は、 全て倒壊しました。 現在の天守は、昭和33年(1958)に外観を復元して再建された もので、白壁と木材の外観の対象が美しく、内部のコンクリート 造りを感じさせない見事な造りです。 復元された二の丸表御門から登城。 現地ガイドの方から、二の丸から本丸への土橋わきの被爆 ユーカリ、そして本丸・中御門跡では被爆後の猛火で赤く 変色した石垣、被爆マルヤナギの説明を受けました。 被爆樹木は、緑豊かに蘇生しており、そんな今の姿に強い 感銘を受けました。 護国神社前では、原爆投下時、動員学徒として通信業務に従事 していて奇跡的に助かった女学生が、福山・小倉へ「新型爆弾 により広島壊滅」の第一報を伝えた、中国軍管区司令部地下 通信室跡の説明も受けました。 広島城は、悲しい負の遺産の残る歴史の証人の城です。 しかし、今は被爆前の姿を取戻し、平和都市広島のシンボルに なっているのです。 |
郡山城 2014年6月18日 | 58城目 登城は時間の関係で、毛利家の墓所迄です。 本丸へ通じる西の山道の洞春寺跡に元就と一族の墓が ありました。 元就墓所は一段と高い場所にあり、墓標として植えられた ハリイブキは枯れてしまっており、隣の樫の木に固定されて 立っていました。 また、墓所の近くには、日本百名城NO.72のスタンプの デザインにもなっている「百万一心」の石碑がありました。 現地ガイドの方の説明によれば、 「郡山城の改修の際、元就は人命を尊び、人柱に代えてこの 文字を刻んだ石を石垣に埋めると工事がうまくいったと伝えられる。 幕末に長州藩士が山で見つけ、拓本もとったが、石そのものは 所在不明のまま。 碑は、昭和6年に拓本を摸刻して建立された。 碑の文字は、「一日一力一心」とも読めるように書かれており、 日、力、心を一つにする一致団結の教えである。 心の右側の点が一つしかないのは、二(ふた)心を抱かない ようにと、石工さんが遊び心で彫ったもの。」 以上のような説明がありました。 家内の結束を何よりも大切にしていた元就の人柄に触れられる 碑でした。 |
福山城 2014年6月18日 | 59城目 広島・山口方面旅行の折に新幹線のホームから、 見ていたお城ですが、登城は初めて。 福山城は、徳川幕府から西国大名の監視の拠点として、 譜代大名の水野勝成(家康の従兄弟)が元和5年(1619)に 備後10万石の領主として入り築いた城です。 元和の一国一城令の発布以降も、幕府の政策などで特別に 新規の築城が認められることがあったのです。 元和8年(1622)に築かれた福山城は、その代表的な例です。 築城に当っては、勝成が最初に入った近くの神辺城や伏見城の 建物が移築されました。 豊臣家が滅んで7年も経っていますが、毛利氏ら西国大名の監視・ 防衛強化に努めていたのですね。 5重6階地下1階の天守内部は、博物館になっており、地階展示室 の福山城模型の前で、係りの方から縄張りや北面外壁が防御の ため鉄板で覆われていたという説明を受けました。 最上階は、展望台になっており新幹線の駅ホームも望め、眺めが 素晴らしいでした。 その後は、今も残る伏見櫓や筋鉄門などを見学しました。 伏見櫓は、白壁3重の豪華な姿を残す立派な櫓でした。 |
大分府内城 2014年6月28日 | 60城目 九州地方、百名城の最初の登城。 登城は、城内にある文化会館の解体工事のため大手門からでなく 山里丸と西の丸を結ぶ屋根つきの橋、廊下橋からの登城です。 この廊下橋、平成7年に再建されたのですが、今年1月に 登城した和歌山城にもあった事を思い出しました。 府内城の方が、小ぶりですが、黒い下見板と白壁が美しく調和 しており、私はこちらの方が好きです。 従来、文化会館に置かれていたスタンプも大手門前と廊下橋の 中程に置かれていますが、廊下橋の方がきれいに押せました。 天守台から堀越しに望む廊下橋の景観も、素晴らしいでした。 大友宗麟の像がありました。慶長2年(1597)築城の、この府内 城とは、直接結びつきがないのですが、豊後の国といえばやはり 宗麟なのでしょう。像が小さいのが気になりました。 大分市民の芸術・文化の拠点として利用されてきた文化会館、 跡地の活用方法はどうなるのでしょうか。 恐らく府内城跡の史跡として、市民の憩いの場になるので しょうが、生れ変わった府内城に、将来また登城したいと思い ました。 |
岡城 2014年6月28日 | 61城目 滝廉太郎の「荒城の月」のモデルとされる城。 断崖絶壁に築かれた、往時の石垣が今も累々と残っており、 まさに「荒城」を体感できました。 特に三の丸は、清水谷の底から約70mの高さにあり石垣の上 から谷底をのぞけば、フェンスが一切ないので足がすくみます。 天正14年(1586)、島津軍の豊後侵入の折には、3万の大軍に 3回にわたり攻撃されたが、落城しなかった。 戦後、秀吉から感状をもらい、難攻不落の城として名が高かつた。 勇猛な島津軍が、撃退されたのも納得の堅城でした。 岡城は、文治元年(1185)に、豊後の豪族・緒方惟栄(これよし) が義経を迎えるために築城したのが始まりと伝えられています。 義経は、途中で船が難破し、入城することは無かったのですが、 この事は、すっかり忘れていました。 帰宅後、司馬遼太郎「義経」を読むと、下巻の413頁からに 書かれていました。 入城券がユニークで、そのまま大事に保存したいと思うほどの 掛軸風の巻物です。城探索にこれを使うと傷めてしまうので、 別途案内図を入手して準備しておく方がベターです。 |
丸岡城 2014年7月2日 | 62城目、2度目の登城。 天守は、昭和23年(1948)の福井大震災により倒壊したが、 同30年(1955)出来る限り古材を使って再建されました。 そのため、現存天守として小規模ながら望楼部が大きく 重量感のある天守を今に伝えています。 又、北国のことなので屋根瓦が寒冷破損を防ぐため全て 石瓦になっています。 2・3階への階段は大変急で段差も広く、ロープにつかまら ないと上り下り出来ないほどです。 スリッパも脱いで、慎重に上り下りしました。 丸岡城の天守台石垣の前に、「一筆啓上碑」が建てられています。 「一筆啓上火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と刻まれた 石です。 徳川家康の家臣本多作左衛門重次が、戦場から留守宅の妻に 宛てた手紙で、簡潔にして要領を得た模範的文例として知られて います。 「お仙」とは、後に丸岡城6代目の城主となった本多成重のこと です。 成重のおかげで丸岡は、「短い手紙」コンクールの地として今や 全国に知られるようになっています。 勿論、百名城スタンプにもこの碑は実物以上に大きく?デザイン されています。 |
七尾城 2014年7月2日 | 63城目 麓の七尾城史資料館でスタンプを押し、三橋美智也が歌って 大ヒットした「古城」の碑を見て、本丸北駐車場から登城 しました。 調度丸から、桜馬場間は野面積の石垣が数段に積まれており、 まるで高石垣のようです。 重層的な石垣は美しく、しかし見る者を威圧します。 また、二の丸と三の丸を隔てる堀切を上り下りしましたが、 深いだけではなく、その急傾斜に圧倒されました。 この間、木梯子を変えて上り下りしなければなりませんが、 堀切りの深さ・大きさと急峻さが、体験できてお勧めです。 午前中の丸岡城に続き、この堀切の梯子も大変急でした。 充分な注意が必要です。 軍神・上杉謙信といえども、城内で発生した疫病と重臣らの内応が なければ、落せる事は困難だったろうと思える堅固な巨大山城 でした。 謙信は、落城後有名な「九月十三夜」の詩をこの城で詠んだと 伝わっています。 七尾城を落し、手取川で織田軍を撃破して上洛への橋頭保を 築いたかに思えた謙信でしたが、半年後の天正6年(1578)3月、 春日山城であっけなく死を迎えたのでした。 |
金沢城 2014年7月3日 | 64城目 現存建物の河北門から登城しました。 城内に入ると、以前に登城した折に比べて、随分復元が 進んだ事に驚きました。 資料によると、平成13年に菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・ 橋爪一の門が、平成22年に河北門・いもり堀が復元され、 現在橋爪二の門が復元中でした。 三の丸から眺める、これらの建物群は、その堂々たる姿に 北陸に一時代を築いた加賀百万石の往時の姿を偲ばれる 立派なものでした。 城内見学の後は、いもり坂から尾山神社、長町武家屋敷跡、 兼六園を散策しました。そして兼見御亭での昼食後、妙立寺 (忍者寺)、にし茶屋街を見学して帰途につきました。 妙立寺は、加賀藩の祈願所ですが、物見台ともとれる望楼、 金沢城への逃げ道といわれる大井戸など、出城としての要素を 数多く持ち、忍者寺と云われる数々の仕掛けが散在する寺でした。 寺の美人のガイドの方が、深さ25mの伝説の井戸の説明では、 寺からお城までは犀川の下をくりぬく必要があり、当時の 技術では果たして可能だったのでしょうかと笑みを浮かべながら 説明されたのが印象的でした。 |
久保田城 2014年7月17日 | 65城目 秋田空港より、リムジンバスにて秋田駅へ、泊りを秋田駅 近くのホテルに予約していたため、駅のコインロッカーに荷物を 預けて徒歩15分程で登城しました。 スタンプは、御隅櫓(観覧券100円)でゲット、3層4階造の最上階 展望室からは、市街地の彼方に日本海が望め眺望が良くお勧め です。 ところで、秋田と云えば、美人の本場で有名です。 俗説でしょうが、「佐竹氏が関ケ原の戦の後、水戸から秋田へ 転封の時、美人を多く連れて行ったから、秋田には美人が多い」 と言う話を聞いた事があります。 実際は、東北地方の日本海側は日照時間が短いので、女性は肌 が白いので美人に見えると言うのが正しいと私は思うのですが、 秋田名物の比内地鶏の料理を食べた店のお嬢さん、ホテル・ フロントのお嬢さん、秋田駅・みどりの窓口のお嬢さん、皆さん 確かに美人揃いでした。 明治維新まで、佐竹氏260年の藩政をみつめた土塁の城です。 約2時間半、各曲輪の周囲の土塁等を歩きまわり充実のお城 探索を楽しみました。土塁の城もなかなか良いものです。 |
白河小峰城 2014年7月18日 | 66城目 秋田駅から新幹線こまち号とやまびこ号そして、在来線を利用 して、白河駅に到着、秋田から約4時間の移動時間でした。 駅のホームからは、天守と修復工事の大きいクレーンがそびえ ているのが見えました。初めての土地で、駅から歩いていくお城 の方向がハッキリ確認出来るのは心強いものです。 現在、大震災で崩落した石垣の修復工事中で、城内が入場制限 されています。(但し、第1・3日曜日に限り公開) スタンプは、白河集古苑にてゲット、館内には「結城家古文書館」 「阿部家名品館」の2つの展示室が設けられていました。 南北朝時代に北畠親房が多賀城に入ると、南朝による奥羽支配の ために、結城家には大きな期待がかけられ、結城宗弘はその中枢 に座ったのでした。その後、子供の親朝の時代には、北朝に帰順 するのですが、この時代にも興味ある私にとっては貴重な資料で した。 館内には、小峰城城郭復元寄付金箱が設けられており、私も気持 ちでしたが協力させて頂きました。 木造復元の3重櫓の端正なたたずまい、奥州の関門にふさわしい お城でした。 |
川越城 2014年7月23日 | 67城目 北関東の6名城を訪ねる旅・1日目、川越城です。 江戸の背後の守りとして重要視され、幕閣が城主となって きました。 現存する本丸御殿は、高知城と並び、2つだけです。 かっては、16棟の規模を誇りましたが、明治維新後に次第に 解体され、玄関と大広間・詰所などと、移築された家老詰所 を残すのみです。 しかし、大唐破風に三つ葉葵の鬼板を載せた銅板葺屋根の玄関 は壮麗で、幕閣の居城としての往時を偲ばせます。 一番街の文化財も見てきました。 明治26年(1893)川越は町全体の1/3を焼失する大火に舞われ ました。 しかし、川越商人たちは焼失後直ちに耐火性に優れた土蔵造り の店舗を再建し、現在の江戸時代の趣を濃く残す街並みに見事 復興を果しました。 通りから少し奥に、川越のシンボル・時の鐘がありました。 今から約400年前、城主酒井忠勝は城下に時を告げるため、 鐘楼を建てました。これも川越大火で焼失しましたが、翌年 には再建され、今も1日4回、市民に時を告げています。 小江戸川越の散策、想い出に残る時間となりました。 |
箕輪城 2014年7月24日 | 68城目 北関東の6名城を訪ねる3日間の旅・2日目、箕輪城です。 ガイドを「箕輪城語り部の会」の方にお世話になりました。 非常にわかりやすく説明して頂き、有難うございました。 長野氏は、武田氏の侵攻によく耐えたものの、永禄9年 (1566)ついに箕輪城は落城しました。 父・長野業政の遺訓を守り、わずか19歳の若さでこの地で 自刃した、業盛の話には戦国の世とはいえ、胸が痛みました。 業盛の死によって、長野氏4代・約60年の箕輪城時代 は終わりましたが、その後は、武田氏・織田氏・北条氏・ 徳川氏と次々と城主が代りました。 箕輪城城主の遍歴は、まさに戦国絵図を見るようであると 感じました。 最後の城主は、徳川家の譜代井伊直政で、慶長3年(1598) 城を高崎に移し箕輪城は廃城になりました。 毎年秋には、箕輪城まつりが開催され、イベントで武田軍と 長野軍の攻防戦が繰り広げられ、ガイドの方も参加するとの 事でした。(攻防戦結果は、歴史通り長野氏が負けるとの事) 山中に大堀切や土塁、石垣も残る巨大な平山城で見るべき所 の多いお城でした。 |
金山城 2014年7月24日 | 69城目 北関東の6名城を訪ねる3日間の旅・2日目、金山城です。 上杉氏、武田氏の幾度の城攻めにも落城しなかった堅城振りが 良く復元整備されていました。 山頂部に日ノ池、月ノ池と大きな池があるのは非常に珍しく、 日ノ池は生活用水の場の他、戦勝祈願や雨乞いなどの儀式 が行われたと思われる神聖な池で、対になる月ノ池はその 下方の入口脇にあり、誰が放したか金魚が泳いでいました。 実城(みじょう)へ向かう大手虎口も見事に復元整備されていま した。石垣上部は復元されたものですが、下部は当時の石垣 を使っているとの事で、その高石垣からも金山城の堅城振りを 伺い知る事が出来ました。 ガイドの方から、復元箇所にアゴ止め石が使われている部分を 教えてもらいました。 地盤が軟弱な箇所の石垣の崩落を防ぐために、最下部の石を 石垣面より前へ出して据え付けた石積み技法ですが、所々 採用されており興味を引きました。 遺構の分布範囲は金山全体の約300haに及ぶとの事。 総石垣の巨大な戦国の山城の全容がよみがえる日が待ち遠しい です。 |
足利氏館 2014年7月24日 | 70城目 北関東の6名城を訪ねる3日間の旅・2日目、足利氏館です。 室町幕府を興した足利氏館跡は、現在鑁阿寺(ばんなじ)という 寺になっています。 城の遺構としては堀と土塀が残るくらいで城内は寺の建造物が 多く建っています。 館は平安時代末期から鎌倉時代初めに足利氏2代目・義兼に よって築かれたと言われています。 義兼は源頼朝の挙兵に参加して鎌倉幕府の有力御家人となり、 8代目尊氏は室町幕府を興し京都に移りますが、足利氏館は 足利氏発生の地、氏寺として伝承されました。 中世地方武士の居館の典型として、堀・土塀が往時の姿を良く 留めているのは、足利氏の厚い保護を受けたためです。 境内には、国宝の大御堂(本堂)、重文の鐘楼・経堂の他貴重な 建物が多く残っており、ガイドの方から詳しい説明を受けました。 尚、百名城のうち、城跡が現在社寺となっているのは、No.24の 武田氏館(武田神社)と足利氏館の2ヵ所です。 猛暑のなか、ガイドさん有難うございました。 最後、駐車場横の「太平記館」で休憩、今夜の宿泊地・高崎へ 向いました。 |
鉢形城 2014年7月25日 | 71城目 北関東の6名城を訪ねる3日間の旅・最終日、鉢形城です 歴史館前の駐車場でガイドの方と合流して、まず二の曲輪に 向かいました。 二の曲輪の南側は土塁に囲まれ、そこには三の曲輪を隔てる長大 な堀が復元されており、わずか1本でしたが山中城でも見た畝も 復元されていました。 山中城の障子堀・畝掘にすっかり魅せられた私にとっては、何か うれしい気分になりました。 三の曲輪の発掘調査に基づき復元された石積土塁、四阿、四脚 門も見応えがありました。 本曲輪に立ち荒川を望むと、荒川の険しい断崖にガードされた 城である事が良く分かりました。 切り立った断崖は、対岸から城を眺める者に堅固さをアピール し、この城を攻める困難さを植えつけたと思います。 歴史館も見応えがありました。 館内に入ると櫓門が復元されており、櫓上には侵入者 を許さないように弓兵と鉄砲兵の人形が武器を構えて待受 けていました。 精巧に作られたジオラマも鉢形城の全容が良く分かりお勧めです。 さすが、秀吉の大軍とわたり合った堅城であると強く感じた城で した。 |
八王子城 2014年7月25日 | 72城目 北関東の6名城を訪ねる3日間の旅・最終日、八王子城です。 天正18年(1590)6月23日、城主・北条氏照が主力部隊を引連 れて小田原城へ入り、不在にしている隙に5万とも云われる 秀吉軍の猛攻を受けました。 対する城内側は、留守を預かるわずかな兵と女・子供等3千人 程で、大軍の猛攻に抵抗の術なく、わずか1日で落城しました。 ガイドの方から、まず大手門跡で説明を受け御主殿跡へ向い ました。 途中、御主殿の滝を覗きました。この滝は、落城時に婦女子が 身を投じ、3日3晩赤く染まったと言われ、その最期は壮絶でした。 御主殿跡は、発掘調査により大規模な礎石建物跡と庭園構造が 整備されていました。 中国製の陶磁器類やベネチア・ガラスなど約7万点に及ぶ出土遺物 があり、後北条氏の経済力が偲ばれる処でした。 小田原城の開城が、7月3日、秀吉の天下統一が成るのですが、 そのわずか10日前に、城方の死者はほぼ全軍の3千人を出して、 落城しました。天下統一前の最後の戦いとはいえ、まさに壮絶な 戦いがこの城で繰り広げられたのでした。 |
新発田城 2014年7月29日 | 73城目 北陸・上越の名城巡り2日間の旅・1日目、新発田城です。 現存の表門と二の丸隅櫓が国重要文化財です。 廃藩置県後、城内は陸軍の歩兵16連隊が置かれました。 多くの古写真が残っており、平成16年に天守にあたる 3階櫓と辰巳櫓が木造で復元されました。 3階櫓は、T字型の屋根に3匹の鯱が載る非常に特徴のある櫓 ですが、現在は自衛隊基地内にあるため一般公開されていま せん。 再建された辰巳櫓ですが、この櫓は赤穂義士堀部安兵衛と 大きな関りがあります。 安兵衛は、寛文10年(1670)に新発田で生まれました。辰巳櫓 の管理責任者であった、父中山弥次衛門は櫓の失火の責任を 負って浪人になりました。 ほどなくして父が死去、安兵衛は家名再興のため江戸に出て、 助太刀をした高田の馬場の決闘で名を挙げました。 これを知った浅野家家臣・堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組 を望みこれが安兵衛の浅野家士官に繋がる訳です。 高田の馬場以降の、安兵衛については知っていましたが、 新発田城との関りは知りませんでした。 安兵衛の運命を決めた辰巳櫓なのです。 |
春日山城 2014年7月30日 | 74城目 北陸・上越の名城巡り2日間の旅・2日目、春日山城です 念願の謙信公・春日山城登城です。 中世五大山城、春日山城・七尾城・小谷城・観音寺城・月山冨田城 今回で全て登城出来ました。 上杉謙信の春日山城は広大な城域に様々な遺構が残っており、 戦国の山城としての魅力に溢れていました。 三の丸には、景虎の屋敷跡がありました。謙信公の跡目を景勝と 争い敗れて自害するのですが、美男であったと言われています。 屋敷跡には花が供えてあり、今も城ガールに人気があり、花が 絶えないとガイドさんの話でした。 城跡の後は、林泉寺に行き、謙信公のお墓にお参りしました。 側には川中島合戦の死者の供養塔があり、境内の宝物館には 謙信公ゆかりの品が展示されていました。 幼少の時代ここに預けられ、義を重んじた謙信公の基礎はこの 時代に培われたのです。 最後ものがたり館でスタンプをゲット、謙信公の生涯の映像を 見ました。 現地ガイドのO氏には、城跡からものがたり館まで同行頂き、 色々のお話を聞かせて頂きました。大変勉強になり有難う ございました。 |
高岡城 2014年7月30日 | 75城目 北陸・上越の名城巡り2日間の旅・2日目、高岡城です 百名城、ちょうど3/4登城となりました。 大手口の右側に高山右近像がありました。 摂津・高槻城跡公園で右近像を見た事を思い出しました。 後日、知人から造りは同じものだと聞きましたが、どうなん でしょうか? 右近は、秀吉のキリスト禁教令によって追放された後、前田利家は 秀吉の許しを得て、約25年間客将として前田家に抱えていました。 その折高岡城の縄張りを担当したと伝わっています。 満々と水をたたえる水濠が築城時のまま残っており、「連続馬出」 に戦国時代を生き抜いた前田家のしたたかさが見えました。 一般に前田家は、徳川家に対して恭順の意を示していたと言え ますが、万一の場合、徳川家の侵攻にも備えていたのです。 現地ガイドの方から買った「高岡古城公園ガイド」(400円)、 カラー写真も豊富で良く分かり、復習に随分参考になりました。 最後、瑞龍寺にお参りして帰途につきました。 さすが前田家の菩提寺、国宝・重要文化財の建物が多く残って いる立派な寺院でした。 |
山形城 2014年9月3日 | 76城目 前日は多賀・仙台城に登城しましたが、2城は今年4月30日に登城 済につき、今回は登城記省略です。 8月は、お盆行事等地域の行事が多くあり百名城登城は休み、 1ヵ月ぶりの登城になりました。 仙台からの途中、山寺(立石寺)へ立寄りました。奥の院では、 「足腰健康仏足お守」を買って、今後も健脚で無事に百名城登城が 達成出来るようにお願いしました。 途中、芭蕉と曽良像がありました。9月1日付、A新聞の芭蕉 「おくのほそ道」旅の目的は情報探索か、特に同行の曽良は隠密 だった(?)を読んだ直後だけに、記事を思い出し暫くの間、像に 見入りました。 山形城では、まず最上義光歴史館(無料)に入場しました。 義光関係の武具・書状等の遺品が展示されており、鉄の 指揮棒はレプリカですが、手に取る事が出来ました。 (2.5Kgあります) 義光は、謀将として戦国の世を生き抜いた武将と思われがち ですが、書状等から当時一流の文化人でもあった事が窺い知れ ました。 本丸は復元整備が進められており、威容を誇った巨城が徐々に、 甦りつつあります。 |
二本松城 2014年9月3日 | 77城目 二本松城と云えば、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」でこの 地の戦国大名・畠山義継が伊達への服属問題がこじれ、 伊達政宗(渡辺謙)の父輝宗(北大路欣也)を二本松城まで拉致 しようとしたが、政宗の追撃を受けて輝宗もろとも射殺された 衝撃的なシーンが思い出されました。 箕輪門前には、戊辰戦争・新政府軍との戦いで、15歳前後の 少年達によって結成され、14名が戦死した二本松少年隊群像が ありました。像は、少年隊の奮戦姿と我が子の出陣服を仕立て る母の姿を表しています。 像のボタンを押すと二本松少年隊の歌が流れました。 少年隊の出陣服装は、まちまちだったそうです。多くの家庭では、 急の出陣に、母が徹夜で父や兄の着物などを少年の体に合わせて 縫い、何とか形のみを整えたのでしょう。 歌を聴きながら、像を眺め、その時の母の思いを想像すると胸が 熱くなりました。 戊辰戦争で建物が失われたものの、山頂部の本丸、山麓部の 居館跡に往時の石垣が見事に復元されており、見応えある石垣の 城でした。 小ぶりですが、東櫓台からの枡形虎口は必見です。 |
会津若松城 2014年9月4日 | 78城目 朝一番、飯盛山に向かい先ず「白虎隊記念館」で白虎隊のビデオ を観ました。 白虎隊自刃の地からは、会津若松城が望めますが、カメラの ズームでようやく確認できる程で、思った以上に遠く、疲れ 切った体で、城下に燃え上がる火を見て、既に落城と誤認した のは致し方ないと思いました。 白虎隊の演舞も見る事が出来ました。この地は、若くして散った 若者達を弔って、今も参詣者が絶えませんでした。 城は、北出丸から入城しました。四方を石垣でがっちりガード されており、万が一敵の侵入を許しても四方から攻撃可能な 事から「みなごろし丸」という別名が説明板にありました。 戊辰戦争の時、新政府軍がこの付近まで押寄せたものの、ここ を突破出来なかったと言われていますが、納得の防御スペース でした。 平成23年に、赤瓦に葺き替えされた五層の天守からは、飯盛山や 城下の町並みが美しく望まれ、天守から走長屋、鉄門、南走長屋、 干飯櫓と長く連なる建物群の眺めも壮観でした。 随所の堅城振り、さすが戊辰戦争を戦い抜いた東北随一の名城 だと思いました。 |
人吉城 2014年9月19日 | 79城目 人吉城は、鎌倉時代から江戸時代の終わりまでの約670年間、 35代にわたり、この地を治めた相良(さがら)氏の居城です。 しかし、城下が相良氏支配で常に平穏な日々であったわけでなく お家騒動も繰りかえされました。 その一つ、寛永17年(1640)に起きた「お下(しも)の乱」の首謀者 となった家老の相良(犬童)清兵衛屋敷跡で、地元ガイドの方 からそんな人吉城の歴史について説明を受けました。 この屋敷跡では、井戸を持つ地下室遺構が発見されており見学 が出来ました。 五稜郭でも見た、西洋式石垣の「はね出し石垣」がありました。 中世城郭のこの城で、西洋式城郭の手法が採られているのは 不思議と思っていましたが、文久2年(1862)の火災後の石垣工事 で設置したとの事で納得でした。 鎌倉時代、城内で発見されて人吉城の別名「三日月城」の由来と なった三日月文様のある石は、人吉城歴史博物館にありましたが、 私の想像とは随分小さく見逃さないように。 城跡から眺める、雨にかすむ球磨川と城下の町並みはなかなか 風情がありました。 |
飫肥城 2014年9月19日 | 80城目、4/5達成となりました。 南九州の名城めぐりの3日間の旅2日目 (1日目は岡城へ登城しましたが、6月28日に登城済につき 今回の岡城への登城記録は省略です。) 台風16号の影響で南九州は、午後からは一段と雨脚がきつく なり、雨の中の登城となりました。 飫肥城は、戦国時代南九州で島津氏と伊東氏が100年に渡り 争った城です。両氏の争奪戦は、豊臣秀吉の九州統一の天正 16年(1588)、伊東祐兵(すけたけ)が城主に返り咲くまで、実に 100年もの長い間戦いを繰り広げました。 下校途中の小学生が、大手門で雨宿りをしていました。 本丸は現在の飫肥小学校の用地内にあり、そういえば 「ここは飫肥小学校です。運動場を渡る時は学校の先生に 一言お願いします。」の看板がありました。 飫肥小学校の生徒達は、昭和53年に樹齢100年の飫肥杉を 用いて復元された立派な大手門を毎日くぐって登下校して いるのです。なにか羨ましく思いました。 飫肥杉が林立、苔むした石垣が城郭を取りまき、格調の ある大手門が立ち、奥深い歴史を感じる城跡でした。 |
鹿児島城 2014年9月20日 | 81城目 南九州の名城めぐりの3日間の旅、最終日 朝の出発時間に余裕があり、ホテル近くの大久保利通銅像、 その後「維新ふるさとの道」を通り、大久保利通生い立ち の地、西郷隆盛・従道誕生地、大山巌、東郷平八郎誕生地 を見て歩きました。 その後大手橋を渡り、明治6年(1873)の火災により焼失した 御楼門跡から登城しましたが、石垣には明治10年(1877)の 西南戦争での激しい銃撃戦を物語る残痕が残っていました。 本丸敷地内の、歴史を刻む様々な記念碑等を見学の後、 百名城スタンプのデザインとなっている本丸北東隅の鬼門 除けを見に行きました。 北東は鬼門に当るため、石垣の隅をわざと窪ませて鬼門除け にしていますが、鹿児島城はハッキリと隅欠きが見られました。 77万石の石高を有した島津氏の居城でしたが、相次ぐ火災や 西南戦争で焼失、本丸跡には歴史資料センター黎明館が、 二の丸跡には県立図書館等が建ち、今は堀と石垣だけが 往時を伝えていました。 地元ガイドの方にお世話になりましたが、お名前も、 「島津」さん(女性)でした。 |
熊本城 2014年9月20日 | 82城目 南九州の名城めぐりの3日間の旅、最終日 約20年ぶりの登城です。 昼食場所の「城見櫓」5階から、そしてその後ご案内 頂いた6階からの熊本城の眺望は最高でした。 勿論、馬刺しも美味しかったですよ。 従業員さんの親切な対応に感謝です。 復元された本丸御殿も見学しました。 大広間の最も奥にあるひときわ格式高い部屋が「昭君の間」 でした。前漢の時代、紀元前1世紀頃、匈奴へ送られた 絶世の美女・王昭君の物語が描かれていました。 この間は、「将軍=豊臣秀頼の間」の隠語とも言われ、秀頼が 万が一の場合はこの間に匿うために清正が用意したという説が あります。 王昭君については、私の通うAカルチャースクール「シルク ロードのロマンと仏陀の道」・シルクロードの開拓と民族攻防で、 数年前にK先生から教わった事を思い出しました。 是非撮影したいと思っていた二様の石垣も、地元ガイド さんが撮影ポイントを教えて頂きまずうまく撮れました。 さすが、三大名城(名古屋・熊本・姫路)の一つ、再び登城 しても壮大で見応えのある堅固な城でした。 |
吉野ヶ里 2014年9月26日 | 83城目 まず吉野ヶ里公園管理センターで、公園内遺構の概要 を説明した映像を観て、南内郭、北内郭、北墳丘慕を 見学しました。 南内郭は、王や権力者の人々が暮らしていた場所と 考えられ、外敵から集落を守ために、周囲に二重三重に 柵列が巡り、物見櫓も構えられた防御性の高い弥生時代の 環濠集落が復元されていました。 集落を外敵から守るための防御設備、まさに城の先祖とも 思われる姿でした。 高さ12mの物見櫓に上ると、復元された巨大集落の全容が 見渡されお勧めです。 北内郭には、環濠集落内最大規模の建物で祭祀の中心となる 主祭殿がありました。 「魏志倭人伝」の記述に合う物見櫓、城柵、主祭殿、これらの 復元遺構を私も実際に目にして、一時期「邪馬台国か?」と 騒がれたのも無理もないと思いました。 吉野ヶ里遺跡が邪馬台国であったかどうか。 江戸時代から続く、北九州説と畿内説の論争の行方。 今もって邪馬台国の所在地をめぐる論争には決着がついて いませんが、吉野ケ里遺跡は日本の古代史を考える上で極めて 重要な処であると思いました。 |
名護屋城 2014年9月26日 | 84城目 秀吉の朝鮮出兵における軍事拠点。 戦国大名140名が集結、大名の布陣図をみるとまるで戦国 大名オールスターのキャンプ地のようでした。 名護屋城手前、車で5分程の交差点名も伊達正宗陣跡交差点 となっていました。 秀吉の逝去とともに、朝鮮出兵が終結すると名護屋城は 無用の城になり、わずか7年で歴史から姿を消しました。 今は、破壊された石垣群が累々と残り、草むした石垣が歴史を 語っていました。 天守台跡に立つと、玄海灘の絶景が眼下に広がっていました。 前方遥か朝鮮半島に繋がり、晴れた日には壱岐の島影が 見えるという。壱岐も遠望できる眺望は素晴らしいでした。 秀吉も日夜、この風景を目にしていたのです。 本丸跡に建つ「太閤が 睨みし海の 霞かな 月斗」の句碑を 眺めていると、この城が天下人・秀吉の夢の跡である事を一層強く 感じました。 朝鮮出兵は結局大失敗、しかもこの名護屋城在城中に、大名の 武断派と文治派の対立はもはや修復出来ない所まできました。 この城は、豊臣政権崩壊の序曲が始まった城でもあるのです。 |
津和野城 2014年10月15日 | 85城目 津和野は以前観光で訪れ事がありますが、津和野城跡迄 の登城は初めて。 太鼓谷稲荷に参拝の後、山麓の登山リフト乗場から5分で 山上、ここから徒歩15分で城跡へ到着でした。 城山の最高所を本丸(三十間台)として、そこから一段下がって 天守台が築かれていました。 関ケ原の軍功で入城した坂崎成正は、三重天守を建て総石垣 の山城に大改築したものの、幕府に遠慮したのか天守は城下 からは見えない場所に、一段低くして築いたという。 しかし、成正は元和2年(1616)千姫事件で自害、坂崎氏は 改易となり、その天守も貞享3年(1686)大地震によって崩壊し、 以降天守は再建されずという。 三の丸跡から見る人質櫓台の高石垣の光景は圧巻でした。 三十間台に立つと、正面に青野山、眼下には赤瓦の町並み、 津和野川の流れ、山口線を走る列車が望め、それは素晴らしい 城下町の景観が拡がっていました。 「天空の城」として人気のある竹田城にも匹敵する景観でした。 最後、森鴎外旧宅と記念館を見学して、次の訪問地 萩に向かい ました。 |
萩城 2014年10月15日 | 86城目 萩焼会館で昼食後、福原家屋敷門・毛利輝元墓所等 萩城下を散策後、指月公園に入り毛利家萩長屋、萩城跡、 指月山詰丸跡の順で巡りました。 途中、萩高校正面の北門屋敷(ホテル)前を通りました。 10年程前、三の丸毛利屋敷跡に建つこのホテルに泊まり、 翌日、維新の原動力となった人材を多く輩出したその歴史を 語る町並みを散策した記憶が甦りました。 山麓から指月山(標高143m)へは、急斜面の道を登り 約20分で到着、山頂には要害である詰丸跡が残っていました。 中央には大きな貯水槽が残っており、籠城施設であった事が 解ります。 詰丸跡は、眺望は残念ながらありませんが、石垣が多く残って おり見応えがありました。 下山の折に気がついたのですが、登り口に「指月山は天然記念 物に指定されており、むやみに樹木の伐採が出来ず、山頂に おいても樹木が繁茂しており、眺望が遮られています」との 看板があり納得でした。 2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」、「文と萩物語」の旗竿が多く 見られ、すっかり萩は大河モード入りになっていました。 |
島原城 2014年10月29日 | 87城目 西九州の名城巡り3日間の旅 1日目 熊本港からフェリーに乗り、島原外港へ向いました。 島原に近づくにつれ、寛政4年(1792)、雲仙岳の大噴火 により「島原大変肥後迷惑」を引き起こした眉山の山体 崩壊の跡が今も生々しく残っているのがわかりました。 天守の横に駐車場があり、登城には大変便利なのですが こうも簡単に天守に入場できては、少し興ざめでした。 外郭に出ると、再建された五重天守、巽三重櫓、丑寅 三重櫓が幾重にも折れをともなった高石垣に建ち並ぶ 姿を堀越に見る事ができます。 白亜の天守が高石垣の上に、三重の丑寅櫓・巽櫓・西の櫓 を従えて、その中心にそびえ建つ姿は圧巻でした。 この後、島原の乱最後の決戦地となった原城跡に向かいました。 原城では、籠城軍3万7千人余りの殆どが死亡したといわれ、 日本史上まれに見る悲惨な戦いが繰り広げられたのです。 島原城は五重五階の層塔型天守で白が映える端正な城 ですが、しかしそんな悲惨な結末に終わった島原の乱の 引き金になった城なのです。 |
平戸城 2014年10月30日 | 88城目 西九州の名城巡り3日間の旅 2日目 佐世保から、平戸島の玄関口・真紅の平戸大橋を渡って 登城、平戸大橋から見えるお城の遠望に期待が高まる。 現地ガイドの方から、古代は遣唐使船の寄港地として、 江戸時代は日本で最初の海外貿易港として栄えた歴史と ロマンの島・平戸の説明がありました。 初代藩主・松浦鎮信は、平戸瀬戸に突き出た亀岡の地に 「日の岳城」を築いたが、慶長18年(1613)、家康が 秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしを向けた ため自ら城を焼き捨てたという。 その後、同じ亀岡の地に享保3年(1718)に再建された 平戸城も、現存は北虎口門と狸櫓のみですが、その北 虎口門をくぐって登城しました。 現在、三重の天守と共に、乾櫓、見奏櫓、地蔵坂櫓、懐柔 櫓が復元されていますが、天守閣からの見奏櫓と平戸瀬戸や 懐柔櫓と平戸大橋の組合せ、平戸オランダ商館(復元)の眺望 は素晴らしく、平戸城が玄海灘を自然の堀とした海の要害 であった事がわかります。 |
佐賀城 2014年10月31日 | 89城目 西九州の名城巡り3日間の最終目 天保9年(1838)の現存建物である、本丸正面の鯱の門を くぐって登城。 城門の名の由来となった巨大な鯱が乗る堂々たる構の 櫓門が見事でした。 復元された本丸御殿の御玄関ではアームストロング砲(模型) が迎えてくれました。 本丸御殿の復元としては日本初で、木造復元物としても日本 最大規模(2500?)の広大な御殿を、貴重な資料や発掘調査に 基づいてリアルに復元されています。 佐賀城の天守は、黒田如水から提供された小倉城の設計図 に基づいて築かれといいます。 しかし、享保11年(1726)の火災で焼失し、以来再建される事 はなく現在は天守台のみが残っています。 当時から天守台への登り口は北側のみで、本丸から登城出来ず 今も同じく、一度本丸の外に出る必要があります。 天守台の高石垣、天守台から望む見事な枡形虎口など高度な築城 技術が窺われ壮大な天守がそびえていたと偲ばれました。 整備事業が進められ、鍋島36万石のありし日の姿をとり戻しつつ ある佐賀城、また何年間後の再登城が楽しみです。 |
高松城 2014年11月14日 | 90城目 大阪駅JR高速バスターミナル午前6時40分発の高速バス を使っての登城。今季一番に寒い朝でしたが、90城目という 事で気合を入れて早朝起床して出発しました。 高松駅バスターミナルからは、西入口の方が近いですが、 先ず見たいと思っていた百名城スタンプのデザインになって いる堀越の月見櫓・続櫓・水手御門・渡櫓の連なりの方へ向い ました。(写真は、城内三の丸石垣の上から。堀越より全容が 撮れてこちらの方がベターです。) 水手御門は、江戸時代この石垣の側まで海で、藩主の参勤交代 時の船出の門であったという。 その先を進むと、東の丸跡にアルファあなぶきホールが建って います。復元された石垣をかわして建物が建っており、遺構を 残す心配りを見て大変うれしく思いました。 艮櫓、旭門、桜御門跡,被雲閣庭園、水門、タイやチヌの餌 やりの後は、二の丸から鞘橋を渡って本丸と復元された天守跡 に登りました。 展望デッキを独り占めにして、そこからの海の魚の泳ぐ堀と石垣 の眺望は素晴らしいでした。 海城の解放感に溢れた見所の多い城でした。 |
徳島城 2014年11月14日 | 91城目 JR高松駅から、特急うずしお号に乗り徳島駅へ移動、駅から 線路際を10分程歩き、線路を渡る橋を通って城跡に到着しま した。 一度、右手の方に回り、城の大手門にあたる鷲の門を潜り、 下乗橋から入城しました。 鷲の門は、一旦戦災で焼失、復元された門ですが、なかなか 風格の漂う門でした。 スタンプの設置場所・徳島城博物館は、表御殿があった場所に、 旧徳島城表御殿庭園と隣接して建っています。 国の名勝庭園に指定されている、表御殿庭園の散策を楽しんだ 後は、蜂須賀家正像、SL展示場、竜王さんのクスを見て西二の丸 跡から、本丸跡に登りました。 本丸石垣は、野面積みながら高石垣を築き堅固ぶりが窺われる 石垣でした。 堀川に沿って築かれた石垣は、阿波特産である結晶片岩で築かれ ており、美しくこの城の特徴です。 壮麗な石垣と桃山様式の名園が残る徳島城、城主蜂須賀家の 栄華を偲ぶ城でした。 眉山山頂からは、眼下の市街地の中に徳島城の濃い緑の森が 望め、吉野川、その向こうに紀伊水道が広がり見事な景色を 楽しめました。 |
丸亀城 2014年11月21日 | 92城目 四国の中、香川県は観光旅行で来ていても、栗林公園 や金刀比羅宮のみで、何故か丸亀城は車窓から見上げる ばかりで今回初登城。 急な見返り坂をようやく上り、そこに現われる三の丸 石垣の見事さに感動しました。 山上に立つ小柄な天守を囲む勇壮なる高石垣の城、見事 でした。 しかし、この石垣には、悲しい伝説が伝わっている事を知り ました。それは見事な石垣を築いた名人石工・羽坂重三郎の 石垣伝説です。 石垣完成時に殿様よりその立派さを「鳥でなければ越えられ まい」と褒められた時、重三郎は「私ならばこのようにして」 と石垣の間に鉄棒を差し込んで登って見せたという。 殿様は、この方法が万一敵に漏れた場合を懸念して重三郎に、 二の丸の深井戸の点検を命じました。 そして、この井戸の底に入っている間に石を落されて殺されたと いう。 この伝説の井戸が二の丸井戸で、現在も水を湛えて二の丸に 残っています。 自分の技術に有頂天になった者への教訓か、見事な石垣には このような話が伝わっているのです。 |
高知城 2014年11月22日 | 93城目 4度目の登城。 前回は、平成20年、坂本龍馬の命日(11月15日 ・誕生日も同じ)に桂浜の龍馬像、龍馬記念館等を 訪れた折に登城しました。 二の丸から、詰門・2階廊下を渡ると、いよいよ本丸。 わくわくしながら廊下橋を渡りました。 ここは、家老・中老等の詰所としても用いられ、現在の 詰門というのはここからきているとの事でした。。 前回、写真に撮れなかった、天守北面の「忍返し」も 撮れました。 天守正面は、優雅な姿ですが北面の戦闘モードとの対比 が面白いでした。 忍返しの鉄剣とその上にある「石落し」からの攻撃を かわして天守に取り付くのは至難の技だと思いました。 尚、忍返しは現存するものとしては全国唯一のもの。 忍返しの見れる場所を本丸御殿入口のお姉さまに尋ねた ところ、わざわざ外に出て親切に教えて頂き、有難うござい ました。 高知城登城で、中国四国地区 22城登城達成。 百名城登城も、後、千葉県・佐倉城、茨城県・水戸城、福岡県・ 福岡城、大野城、沖縄県・今帰仁城、中城城、首里城の4県7城 となりました。 |
佐倉城 2014年12月3日 | 94城目 江戸時代、佐倉城主はめまぐるしく変わりますが、親藩、 譜代が城主をつとめ幕府中枢を占めた者が多かったのです。 幕末に老中筆頭の座に就いた堀田正睦(まさよし)もその一人 です。 彼は、鎖国の維持か開国か、幕末最大の難題に決断を下し、 安政5年(1858)、アメリカ総領事ハリスと日米修好通商条約 を締結し、日本を開国に導いたのでした。 そんな彼の銅像が、二の門跡付近に交渉相手のハリス像と 向い合って建てられていました。 城の建物は、全て取り壊されていますが、スタンプのデザ インになっている「角馬出し空堀」は、壮大で見ものです。 巨大な空堀や土塁がよく残り、江戸城東方の防御の要として、 かっての威容を伝える土の城でした。 三の丸には、日本の歴史と文化について、古代から現代 迄を研究・展示する国立歴史民俗博物館がありました。 ゆっくりと見て回るには一日かかるとのことでした。 当日の予定は、鹿島神宮に参拝して、その後に水戸城へ 登城でしたので、今回は残念ながら入場しませんでした。 ゆっくりと改めて訪問したいと思いました。 |
水戸城 2014年12月3日 | 95城目 佐倉城から水戸城への途中に鹿島神宮にお参りしました。 巨大な照葉樹林の生茂る奥参道は、まさに神の森と言える 荘厳な雰囲気でした。 水戸城は、まず三の丸にある藩校「弘道館」に入りスタンプ をゲットしました。 ここにある至善堂で、徳川家「最後の将軍」慶喜は幼い頃に 学び大政奉還後に謹慎の日々を送ったのでした。 敷地内の売店には「黄門グッズ」がたくさんあり、例の印籠を 記念に購入しました。 隣接の小学校の名前が、立地場所そのもの水戸市立「三の丸 小学校」でした。本丸跡に立つ「水戸第一高校」を始め、城跡 は学校用地が多く、文教の地となっています。 二の丸と本丸をへだてる深い堀底には、JR水群線が走って います。水群線をまたぐ本城橋からこれを見て水戸城の防御力 の高さを実感しました。 今に伝わる遺構は少ないですが、部分的に残る巨大な堀と土塁に さすがは徳川御三家の一つ、北関東要衝の城であると思いました。 翌朝、出発まで少し時間がありましたのでJR水戸駅北口にある 黄門一行の銅像や水戸東照宮辺りを散策しました。 |
大野城 2014年12月18日 | 96城目 今季一番の寒さ、東海地方の積雪の影響で、のぞみ、 みずほ等大阪到着の新幹線は軒並み1時間以上の遅れ でしたが、大阪始発のさくらを予約していたお蔭でダイヤ 通りに出発、途中の遅れも10分程度で博多に到着出来ました。 西鉄太宰府駅からは徒歩50分以上かかり、しかも四王寺山 (大野山)の一山全体を城としているため、見学先を大宰府 政庁跡、太宰府口城門、百間石垣に絞って駅からタクシーを 利用しました。(往復約4,500円) 大和朝廷は白村江での敗北後、西日本の各所に防御施設を築き ましたが、大野城は天智4年(665)に九州の玄関口である大宰府を 守るために築かれたという。 急峻な山の斜面に沿って、一山全体にぐるりと積み上げた土塁と 石塁、こんな遺構が今から1350年に築かれた事に驚くと共に 国を守るために、どれだけ多くの人々が築城に携わったのだろうと 思いを馳せました。 大宰府政庁跡、大野城の後は、太宰府天満宮にお参りをして、 後わずかになった百名城巡りが、無事終了出来るようにお願い しました。 |
福岡城 2014年12月19日 | 97城目 城内のそこここに美しい石垣が残り、戦国を生きぬいた名将、 黒田如水・長政父子の築城にかけた情熱を感じました。 3つの天守台を誇り、かっては47基もの櫓が連なったという。 52万石にふさわしい壮大な城郭の面影が偲ばれました。 天守台が、柵と階段の修理工事のため立入禁止(小天守台は 可です)、また海鼠壁が美しく「黒田節」の旧母里太兵衛邸 長屋門が老朽化でその保存修理工事のためシートで覆われて いました。何れも27年3月までとの事でしたが、楽しみにして いただけに残念でした。 博多の後は、新幹線を途中下車して小倉に立寄りました。 小倉城は、百名城の番外ですが、12月に耐震補強工事を終え、 再開館しており、城内の一画にある松本清張記念館を一度 是非訪問したかったからです。 展示室2には、平成4年に清張が逝ったその時の形で、書斎、 書庫、応接室が東京・杉並区から生誕の地・小倉に移され ガラス越しに見る事ができました。 この書斎からあの数々の名作が生まれたのです。清張が今も ここで執筆活動を続けているようにも思え感動しました。 |
中城城 2015年1月15日 | 98城目 K社のツアー「琉球王国の名城と歴史を歩く二泊三日の旅」 の二日目にて登城。 一日目は、那覇空港到着後、知念の世界遺産・斎場御嶽 (せーふぁうたき)、神話で語られる最古の城の一つ玉城 (たまぐすく)城を見学、那覇に戻り国際通りを歩き牧志公設 市場を見学しました。市場は沖縄の食材が溢れ、見て歩くだけ でも楽しい場所でした。 国際通りのステーキハウスで夕食をとり、ホテルにチェクイン しましたが、移動中の車中で、同行のS講師から琉球の「三山時代」 からの統一戦争を中心に琉球王国の歴史を説明して頂き、翌日 からの歴史歩きに大変参考になりました。 中城城は幕末に訪れたペリー艦隊の島内探検隊がその美しさや 堅固さを絶賛した遺構がよく保存されており、名城の面影を 伝える城でした。 白い琉球石灰岩の石垣が青い空と海をバックに映え、裏門の アーチ門も美しく、正に優美と堅固さを合わせ持つ城だと思い ました。 ここで知った、中城最後の城主・悲劇のヒーロー護佐丸(ごさまる)の 話も印象的で心に残りました。 |
今帰仁城 2015年1月15日 | 99城目 K社のツアー「琉球王国の名城と歴史を歩く二泊三日の旅」 の二日目にて登城。 二日目、中城城跡の後は城下の中村家住宅を訪れました。 奇跡的に沖縄戦の戦災を逃れたこの住宅は、琉球王朝時代 の豪農屋敷の姿を伝えており、黒糖とお茶の接待も有難い でした。 その後、世界遺産の勝連城跡と座喜連城跡(読谷村歴史民俗 資料館)を訪ねた後、今帰仁城に登城しました。 今帰仁城は、渓谷を天然の堀として「百曲(ももまが)り」と 呼ばれる、くねる城壁が見事でした。 沖縄の城は、必ず神を祀る聖域・御嶽(うたき)を兼ねており、 地形に沿って独特のカーブを描く石垣があり、郭の石垣も材料 の石灰岩が柔らかく加工しやすいので角を落として丸くしている のが特徴です。 前夜、ホテルでオリオンビールや泡盛をしっかり飲み、自分の 身体へは充分に充電したのですが、肝心のデジカメのバッテリー 充電を忘れてしまい、今帰仁城ではバッテリー不足で、スマホ カメラも併用して休み休み撮る状態でした。 デジカメで心ゆくまで撮れなかったのが残念でした。 |
首里城 2015年1月16日 | 100城目 K社のツアー「琉球王国の名城と歴史を歩く二泊三日の旅」 の最終日にて登城。 計画通り、百名城登城達成をNo.100の首里城で出来ました。 登城完了認定印を頂くため、1月17日スタンプ帳を日本城郭 協会へ送付し、全国版 登録第625番の完了認定印を頂きま した。 最終日は、ホテル出発前に波上宮にお参りした後、首里城に 向かいました。 首里城では、王家の陵墓・玉陵(たまうどぅん)を拝観し、金城町 石畳道、園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)、弁財 天堂、円覚寺を回り、歓会門をくぐり首里城城内に入りました。 赤瓦葺きの正殿がきらびやかにそびえ建つ様子、屏風を立てた ように緩やかなカーブを描く北面の城壁等が印象的でした。 昼食後は、琉球王国の別邸・識名園を見学して、帰途につきました。 このツアーに参加して、世界遺産に登録された「琉球王国のグスク 及び関連遺産群」、首里城跡・中城城跡・勝連城跡・座喜味城跡・ 今帰仁城跡・斎場御嶽・玉陵・園比屋武御嶽石門・識名園の九つの 遺産全てを巡れて良い思い出になりました。 |