岩村城 2012年1月17日 | 1城目 100名城訪問記念すべき第1城目。天気は晴れであったが、 前日に降った雪で天守石垣は雪景色一色だ。見事な城址跡石垣は 一見に値する。 自然の川「天竜川」に守られ、景観が素晴らしい場所だ。 再建された麓の太鼓櫓、城主館の造りもなかなか風情があり 良かった。 別の日にゆっくりと岩村の古街並木を散策したいものだ。 スタンプは麓の「歴史資料館」にあり、良好な状態でした。 |
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岡崎城 2012年1月19日 | 2城目 神君家康公生誕地の歴史あるお城だ。岡崎公園内には家康公 の銅像が3ケ所あった。晩年の家康公銅像は公園中心の位置 に久能山、日光東照宮を臨む位置にある。 二の丸跡には若き元康が馬に跨り、凛々しい姿で鎮座していた。 面白いのは三方ヶ原で武田信玄に完膚なきまで叩きのめされた 時の「しかみ像」がある点だ。 岡崎城は3層5階の昭和34年復元のお城で、5階展望台は、 東西南北の城下が見渡される景色が広がる。 お城のスタッスの方は親切で、お城を訪れる人達を気持ちよく 迎えてくれる。心から岡崎を愛し、岡崎城を誇りに思っている ように見受けられました。 帰りに「有難う御座いました」と丁重にお礼をの言葉を掛けて 頂いた。楽しく見学させて頂き、感謝します。 |
駿府城 2012年3月9日 | 3城目 家康公大御所時代の居城として名高い駿府城二の丸東御門 と巽櫓を見学した。復元された東御門は日本の伝統的な木 造工法による威風堂々とした重さを感じさせる造りであった。 お城の周りは静岡市の中心にあり、今川時代、徳川時代の 城下町として栄えた痕跡を偲ぶことができる。この城址跡の 見所の一つは見事なお濠であろう。二の丸施設管理人は親切 で、色々な質問にも丁寧に答えて頂き、感謝しつつ帰路に 着きました。 江戸幕府260年余の礎を築いた家康公が75歳で亡くなる まで居城した歴史上でも貴重な駿府城址としては、残念なが ら見所が少ないと感じました。 |
山中城 2012年3月10日 | 4城目 前日は丸子の宿「丁子屋」で名物「とろろご飯」を戴き、 駿府城跡を回り、箱根強羅で一泊。翌朝は雪交じりの寒 い日であった。「箱根神社」に参拝。「小田原城」に登 城後、三島市の「山中城址」へ到着。数週間前にNHK TV で紹介されていたが、茶店のおかみさんによれば、TV放 映後、沢山の方が訪れて、急に賑やかになったとのこと。 前から楽しみにしていた城址の一つだ。雨のせいか他の 来場者は、「歴女?」らしき一人を除いて誰もいない。 前評判通り期待を裏切らない城址だった。「畝堀」「障子堀」 は当時の状態を良く保存いただいていて、三島市の手入れ の良さに貴重な文化財を自然なまま保護する姿勢を強く感じて 嬉しく思った。今日はここへ来て本当に良かったと喜ぶ。 皆さんにもお勧めする名城跡です。どうかお出掛けしてご覧 下さいませ。スタンプは売店にあったが、不注意で逆に押した ことは不覚であった。 |
小田原城 2012年3月10日 | 5城目 30年以上前に登城した経験があるが、当時の記憶はすっかり 消えていた。 堂々たるお城の構え、内堀の見事さなど流石に後北条家の繁栄 の跡を偲ばせて呉れる名城だ。秀吉軍の大軍に攻められ、落城 を余儀なくさせられた北条家の悔しい想いはいかほどのモノだ ったのだろうか。家康譜代の大久保忠世が城主で入った時代は、 北条の善政が長く続き、庶民は北条様と崇めていたと聞くが、 さぞかし大久保城主はやり難かったことだろう。 それでもいつかは小田原城は大久保家が栄えたお城として名声 を得たことを伝え聞くと、人望を得たお殿様であったと得心し た。威風堂々とした名城の眺めは本当に素晴らしいものだ。 |
江戸城 2012年3月28日 | 6城目 何度も皇居近くには来ているが、100名城として「江戸城」 が登録されているとは知らなかった。和田倉門にスタンプが あると思い、出掛けて行ったが、警備の人にスタンプは近く の噴水公園の無料休憩所にあると教えられ、雨の中をスタンプ 設置場所に急いだ。16:30頃に閉まるようだ。ギリギリに間に 合う。スタンプは二重橋が前面に出ていた。普段から見ている せいか感慨は特にない。ある特定の場所には入場できそうだ。 折角の江戸城跡なのだから、年に1回でも良いので一般公開を して多くの人が見られないかと思った。 |
八王子城 2012年3月29日 | 7城目 当日は東京駅中央線大月行に乗車。高尾駅下車。バスで霊園前下車。 徒歩で城址跡まで20分。八王子城址跡へ到着。45分掛けて山頂 本丸跡に到着。結構、険しい山道を登る。山頂に「八王子神社」が ある。なぜ、このような険しい地に城を築いたのか痕跡が少なく理 解出来なかった。下山して反対側の山に行き、真新しい「曳橋」 「虎口」「御主殿跡」を具に見て回る。今でも発掘調査を続けている ようだ。北条氏照が築いた堅固な石垣とお堀跡を見て、前田利家軍と 上杉景虎軍が攻め入った難航不落なお城も一日で落城に至った戦国時 代の不幸な歴史を垣間見た。一度は訪れたい城址でもある。 |
岐阜城 2012年5月10日 | 8城目 以前から登城を目指していた「岐阜城(稲葉山城)」へ出掛た。 金華山ロープウェーで4分程度で山頂に到着。15分程度で到着。 標高329mの典型的な山城だ。斎藤龍興を滅ぼし、小牧山城から 織田信長が城主の時代に城下町は「楽市楽座」が更に発展した ようだ。 戦国の世を下剋上が当たり前の大名同士が争い、肉親を殺し殺さ れた凄まじい歴史が詰まった岐阜城は歴史の宝庫でもある。天守 から観る四方の景観は素晴らしい眺めを醸し出していた。 眼下の長良川も悠然と大河を成していた。 公園内「織田信長公居城跡」は素晴らしい大きな石垣が残されて いて、後に信長が安土城を築城した下を思わせるほどだ。現在の 城は平成9年に大改修された新しい綺麗なお城で、麓から観る 山頂に聳える堂々たるお城は他に例を見ない美しくも華麗なお城だ。 スタンプは隣の建物の「岐阜城資料館」で用意されていた。 今日は念願の岐阜城へ登城出来、満足な気持ちで次なる「犬山城」 へ向かった。 |
犬山城 2012年5月10日 | 9城目 犬山城は今回で3回目だ。今回は登城は止めて、100名城 スタンプのみの訪問だ。流石に国宝だけあり、平日にも関らず 登城のお客が多い。スタンプは発券所にもあり、登城しない 人にも入口でスタンプを用意されていた。ところがハプニング です。本来のスタンプはお城内にあるのですが、入口で用意さ れたスタンプは判が擦り切れていて、試し押しをしたが、綺麗 に出なく、本番のスタンプ帳に押してもボヤケテ終い、折角の 貴重なスタンプが見るも無残な記となって終った。残念至極の 思いだ。どうか関係の方は直ぐにスタンプを新しく変えて頂く ことを切にお願いいたします。 近くの丸の内緑地は立ち寄る価値がありました。石垣に犬山城 が描かれ、小牧・長久手の合戦時の犬山城・小牧城・岐阜城の 位置関係が昔字の時刻に刻まれ、楽しく眺めました。 |
長篠城 2012年5月13日 | 10城目 寒狭川(豊川)と宇連川の合流点の断崖上にあった長篠城は、今も 本丸の土塁と堀の一部を残し、当時の頑強な砦跡を思わせる古戦場 跡だ。今回で二回目訪問。前回観られなかった再現された「馬防柵」 を見学。織田信長隊の3000丁の火縄銃が3段に構えた馬防柵から 一斉に火を噴いた戦いは、さぞや壮絶な合戦だっただろう。この地で 武田勝頼軍15000人、織田・徳川連合軍38000人が戦い、 武田の敗北で多くの武田の名武将が亡くなっている。武田勝頼30歳 織田信長42歳、家康34歳、羽柴秀吉39歳とあった。 次回は徒歩で点在する古戦場跡をじっくりと歩いて見たい。静かで 素晴らしい地であった。 |
伊賀上野城 2012年5月24日 | 11城目 以前から行きたかった伊賀上野城への登城でした。 篤志家が熊野から木を運び、私財を擲って再建した 模擬天守閣とのこと。三階建ての木の香りが匂う とても綺麗な白亜のお城でした。 何と言っても見所はお城の周りの高さ30mもある 高石垣でした。お見事という他はありません。 お城の係りの方は親切で、藤堂家の蔦紋の由来、 近くの名物お昼ご飯屋「伊賀路とろろ庵」の紹介 などをして頂きました。 お城はやはり「木の造りが良いなぁ」と痛感した 伊賀上野城巡りでした。 |
松阪城 2012年5月24日 | 12城目 何と言っても松阪城の魅力は「石垣」だろう。 安土城の築城に係った蒲生氏郷が築いた「野面 積み」の石垣が随所にあった。 天守台〜本丸〜二の丸の石垣をじっくりと眺め 改めて蒲生氏郷の美意識の高さを感じた。 スタンプは城址入口近くの「松阪市立歴史民俗 資料館=入場料100円」にあった。 今日は「伊賀上野城」〜「松阪城址」〜「津城 址」の三ヶ所を回り、ほぼ一日を費やした。 |
掛川城 2012年6月14日 | 13城目 2回目の登城だ。前回はスタンプ帳を持たずに来たので 今回改めて登城。到着した午後2:30頃に、お城の 訪問客がお城で倒れて、救急車で運ばれる最中だった。 暑い日で、お城の階段が急なこともあり、天守閣まで 登ることを躊躇う人が出るかも知れない。確かに入口 から天守閣に登る階段は急でお歳を召した方にはキツイ と思う。 古い建造物の太鼓櫓、大手門、土塁、石垣、濠など 見所は多い。内部は青森シバで再建されており、訪れる 人を思わず和やかにしてくれる。霧吹き井戸、石落とし、 狭間など敵の攻撃をかわす仕掛けも沢山見ることができる。 スタンプは二の丸御殿入口にあった。スタンプは良好。 天守閣、二の丸御殿共に懇切丁寧なボランティアガイド さんが居て、色々なことを教わった。御礼申し上げます。 |
高遠城 2012年7月25日 | 14城目 以前から来たかった100名城の一つでした。真夏に行ったせいか 緑の深い森の高遠城址公園は人がいなく、殆ど貸切状態でした。 春にはタカトオコヒガンザクラの名所で多くの桜見物の人で賑わう ようです。移築された大手門、問屋門、桜雲橋、本丸跡太鼓門、深 い空濠、土塁などが残されていて、武田信玄の軍師である山本勘助 が設計したといわれる堅固で自然の川などを利用した見事な城郭跡 が伺い知れます。 スタンプは高遠町歴史博物館内にあり、良好な状態でした。 信濃国保科家が産んだ名君「保科正之」の生誕400年のイベント として町を挙げてNHK大河ドラマ化実現に向けて町興し活動を 行っていることを知りました。この公園の一角に「絵島囲み屋敷」 があることも新しい発見でした。来て良かったと好印象の城址で した。 |
松本城 2012年7月25日 | 15城目 遂に天下の国宝「松本城(深志城)」を訪れることが出来た。 入口でボランティアの方に40分コースの案内をお願いした。 以前から疑問に思っていた3つの質問をした。 ?なぜ、明治政府の廃城令でお城は壊されなかったのか ⇒篤志家2名が保存活動に奔走して、保存実現を果たした ?400年以上前に築城した木造のお城が自然災害(台風・ 地震・火災など)、老朽化に耐えて今も現存できたのか ⇒天守保存会(前記篤志家の一人)及び国が何回も修理 ?松本城は別名「鴉城」と呼ばれているがなぜか ⇒黒い下見板と白壁が調和した様を鴉に例えたようだが、 「鴉城」とは呼んでいない。寧ろ迷惑な誹謗です・・と。 それにしても素晴らしい。観ていて全く飽きない。嫌味も なく、威風堂々とした姿はどこから観ても完璧なお城だ。 埋橋近くの露店観光写真屋さんにお願いして、ワイフと共 に内堀から観たお城をバックに記念写真(3枚1000円) を撮り、良い思い出にした。 |
小諸城 2012年7月26日 | 16城目 武田信玄が山本勘助と馬場信房に命じて築城した通称「穴城」 とも云われていたようだ。今日では信じられないが、お城は 城下町より低い位置に建っていたとある。近世城郭としては 仙石秀久・忠政親子が小諸初代小諸藩主としてつくり直した とある。国重要文化財三の門が「懐古館」の入口になってい た。しなの鉄道「小諸駅」を挟んで、大手門と懐古園(三の 門)が少し離れた位置にあった。 500円の5館共通券を買い市営小諸城址懐古園内を散策。 スタンプは徴古館隣の懐古園事務所で良好な状態で保管され ていた。新しい発見は園内に「島崎藤村記念館」、春は桜、 秋は紅葉の名所でもあるそうだ。 今はないが、本丸(天守台)・二の丸跡の見事な石垣跡、 千曲川に面した川岸段丘の深い空堀、水の手御門(展望台) 跡から観る千曲川の眺めは絶景だ。 今回は時間がなく、スケッチ文化都市信州小諸は「歴史と 文学と坂のある高原の城下町」と名打ち周辺観光に力を入 れていた。次回は余裕をもって街を散策したいと思った。 |
上田城 2012年7月26日 | 17城目 かの真田昌幸・信之・信繁(幸村)親子が上田盆地に 築いた平城だ。真田親子の上田城主時代は高々40年 なれど、上田市及び市民はこよなく真田家を誇りに想 い、上田・城下町活性会が町並み・遺跡・寺院などを 大切に保存して多くの観光客を誘致していました。 櫓門前には「信州上田 おもてなし武将隊」が出迎え て真田幸村と十勇士の派手な看板と幟旗及び六連銭の 旗が聳えていました。いざ、上田城へ登城へと心時め き入場した。東虎口櫓門から観覧料250円を払い、 南櫓、北櫓内を見学。真田神社を通り、西櫓を外から 眺める。巨石の真田石、隅櫓跡の堀と土塁など見所は 多い。スタンプを上田市立博物館でゲット。良好なり。 明日は、信之が移封された松代城へと移動して、信州 100名城5城巡り熟年夫婦旅は終わろうとしている。 |
松代城 2012年7月27日 | 18城目 長野市の南東の地に松代市はあり、お城は千曲川の自然堤防上 にあった。この地がその昔、武田信玄と上杉謙信が数回に亘り 「川中島の合戦」の舞台になったとは感慨深いモノを感じた。 1622年に上田からここ松代城へ国替えされた真田信之は、 以降、10代、250年にわたって松代を治め、10万石の城 下町を築いた真田家の拠点でもあるのだ。 お城跡は、大変整備されていて、本丸跡の庭は綺麗に保存され ていて気持ち良く散策出来た。復元された建物は比較的新しく 昔の面影は薄く感じたが、本丸戌亥隅櫓台の石垣、二の丸南側 の長大な土塁などは見応えがあった。 スタンプは松代城管理棟横の無人保管所にあったが、良好な状 態でした。 上田市の上田城周辺ほど派手さはないが、静かなおっとりと 落ち着いた松代城周辺は観光地化されていなく、真田邸他沢山の 見所があった。この静けさを今後とも町の関係者の方は是非共 大切にして頂き、沢山の訪ねて来た人に良かったと気持ちを和や かにして頂ければ幸いです。先ずは、関係者に感謝、感謝です。 |
名古屋城 2012年8月25日 | 19城目 今回で4回目の登城だ。今回スタンプをゲットした。 本日は丁度、本丸御殿復元工事の現場見学会のイベント があったのでワイフと共に参加。本丸御殿玄関と表書院 は2013年5月23日に一般公開されるようだ。 35℃を超える猛暑日にもかかわらず、名古屋城は大入 り満員で、冷房が効いて快適に見学できました。 面白い展示例として?啄木威五枚胴具足(きつつきが木を 啄んでいる様)?お殿様の一日のご膳献立の再現があり ましたョ。 残念なのは御三家尾張藩61万石の天守閣最上階一等地で のお土産売り場はいかがなもんでしょうか。折角の名城が 泣きますが・・・。(皆さんはどう思いますか?) いつ訪れても名古屋城は雄大で金の鯱と銅板を引きつめた 鮮やかな屋根、見事な破風は圧倒される光景です。 スタンプも良好です。ボランテアの皆様も親切で何回来て もお城を取り巻く環境は綺麗で気持ちよく見学できます。 関係の皆様に感謝、感謝です! |
彦根城 2012年9月5日 | 20城目 暑い熱い日に記念すべき国宝「彦根城」に登城。年間80万人 の多くの人達が来場されるとのこと。400年を経て、 今なお訪れる人を感動させてくれる天下の名城だ。こぶり なれど外観に重きを置いた輝ける古天守だ。幾重にも多様な 破風が見られ、2,3階の花頭窓が独特の風情を見せている。 天守最上階は高欄つきの「廻縁」が見事だ。残念ながら廻縁 には出られないが。この城は色々な新しい築城技術を学ぶこ とが出来、嬉しさが満載だ。「登り石垣」「廊下橋の構造」 「牛蒡積み石垣」「天秤櫓」「馬屋」など時間の経つのを 忘れるほどの沢山の見所がある。つくづくお城は木造のお城 が良いと思う。彦根城の関係者に見事な保守・保全に改めて 感謝します。 残念なことは管理事務所脇のスタンプだ。擦り切れていて 見るも無残なスタンプだ。折角のスタンプ帳は汚くて泣いて いた。是非、交換をお願いします。 |
川越城 2012年10月12日 | 21城目 川越駅からタクシーで小江戸川越城下町を通って約15分 で「川越越本丸御殿」に到着。17万石の大名御殿に相応 しい、巨大な唐破風屋根に間口13間の広い開口部と8寸 角の太い柱が、威容さを感じさせます。残念ながら城址は 殆ど現存していなく、僅かに「富士見櫓跡」と「中ノ門堀 跡」と本丸御殿裏「家老詰所」が残されていた。 本丸御殿でスタンプをゲットして御殿内を見学。続いて 家老詰所も見学。多くの団体客、歴女達が平日にも関らず 訪れていた。入場券300円で「市立博物館」「酒造り資料館」 が観られるのはお得でした。 本丸御殿の案内人は親切で、御殿撮影の最適ロケーション を案内していただいた。扇谷上杉持朝〜後北条家〜豊臣家 〜徳川家と明治まで続いた大きな城郭が残されていないの は残念至極だ。 |
鉢形城 2012年10月12日 | 22城目 川越城址から更に北の「寄居駅」を目指し「鉢形城」へ 向かう。東武東上線の小川町を過ぎ、山また山を電車は は走り、終点「寄居駅」へ到着。駅前からタクシーで凡 そ15分でスタンプ設置場所の「鉢形城歴史館」へ到着。 受付でスタンプをゲット。スタンプは良好。 歴史館から徒歩10分で八高線踏切を渡り、大手門跡か ら三の曲輪へ向かう。ここ鉢形城址は天守・櫓などの 建造物はなく、広大な城郭跡が見もののようだ。 「復元四脚門」「復元四阿(あづまや)」を見て、 「二の曲輪」の壕と畝、土塁跡を速足で見学。時間に 余裕がないので、広い城郭は周り切れない。史跡に認定 されているようで保存状態は極めて良好。荒川、深沢川 に囲まれた断崖絶壁の上に建つ自然の要塞はきっと難航 不落のお城だっただろうと感ずる。後北条家の支城とし て川越城などと同様、秀吉の小田原攻めで激しい合戦の 跡が偲ばれる鉢形城であった。 |
武田氏館 2013年3月19日 | 23城目 武田神社となっていた「武田氏館」は甲府盆地の三方を山に 囲まれた要塞の地に築かれた平城だ。街中には武田通りなど 信玄公ゆかりの地名が多くあった。甲斐の国武田信玄公は 万民に愛された戦国時代の英雄だったのだろう。 周りを散策すると、水掘り、土塁、石垣などの遺構が残り、 今なお、大手門曲輪跡などは発掘調査が続いていた。惜しくも 53歳の若さで亡くなっているが、もう少し長生きすれば、信長 以降の天下の形勢も変わっていたことだろう。 「人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は敵なり」の名 言は信玄公の報恩感謝の念を忘れず、善政を施した名将の地に 立ち、徳川家康がこよなく尊敬した信玄公の偉大さを改めて 感じた有意義な旅であった。スタンプは宝物殿でゲット。 その後、信玄公の菩提寺「恵林寺」に向かった。臨済宗の古刹で 大変見応えがあるお寺でした。 |
甲府城 2013年3月19日 | 24城目 山梨県庁の隣、甲府市内の中心部に位置していた。城址一帯は 「舞鶴城公園」になっており、園内は丁度、ヒガンザクラが 満開に咲き乱れ、多くの人で賑わっていた。このお城の最大の 見所は「高石垣」だろう。1603年に秀吉の武将浅野長政・幸長 親子が本格築城したとあった。本丸・天守台址の野面積みの石 垣は観る人を圧倒する雄大な高さだ。一際目立つ「鉄門」は 本年1月に140年振りに復元されていた。沢山の櫓・曲輪跡は どうも平成に復元された新しい建物が多いのも特長かも。 車で出掛けたので、周りに駐車場が少ないことも要注意です。 スタンプ置場は、平日は園内恩謝林記念館にありましたが、 残念ながら印の手入れが悪く、インクが滲み哀れな姿でした。 富士山の雄姿、甲斐善光寺、昇仙峡など甲州の1泊2日の旅は 満足の行く、思いで深い有意義な旅でした。 |
小谷城 2013年5月21日 | 25城目 今日から1泊2泊の近江3城(小谷城・安土城・観音寺城)巡りだ。 何れも典型的な山城であり、特に、小谷城は日本五大山城の一つと 言われている。想像通り小谷城址は過酷な険しい「登山」だった。 番所跡から山王丸(標高395m)を目指す。何と番所入口には「熊出 没注意!」とある。何人かが熊と遭遇して怖い目に遭っているのだ ろうか。遺構の見所は沢山あった。黒金御門跡、大広間、本丸跡、 中丸跡、長政が自刃した小丸跡、大石垣、そして山王丸へ。時間と 体力があれば、更に、六坊跡、大嶽城址に至るが、自分は体力的に 山王丸止まりとした。不思議なことに今回の登城では、平日で晴天 にも関らず、往復誰にも遭遇しなかった。勿論、クマにもシカにも 遭遇しなかった。兎も角、姉川合戦の歴史と浅井家三代のお家滅亡 の悲哀を感じさせる有意義な登城だった。登城上のご忠告です?厳 しい過酷な山登りです。体力が必要?クマと遭遇する危険な場所で す。杖と鈴は必須の持ち物です。出来るだけ複数人で登るのもいい ですネ! |
安土城 2013年5月22日 | 26城目 城址入口の「大手道」前に立つ。幅6m、長さ180mの真っ 直ぐな石段が続く光景は圧巻な眺めだ。感動さえ覚える。 天下布武を象徴する「安土城址」が目前にある。安土山 (199m)の位置は東海道と北国街道の交叉する要所にあり、 京にも近い。天主跡からは琵琶湖も眺められ風光明媚な 場所だ。430年前に建物等は焼失。滋賀県の関係者が平成 元年から20年以上掛けて発掘整備したことは称賛に値する。 見所は随所に残る穴太積石垣、そう見寺、黒金門跡、二の 丸跡、本丸御殿跡、天主跡だ。現存する三重の塔、仁王門 も見事だ。 登城に当たっては、入口に木の枝でこしらえた杖を利用する と良いでしょう。天主までの坂道は結構キツイ。 50分掛けて天主跡に到着。礎石、石垣の遺構が残っています。 名城スタンプの場所を通り過ぎ下山して終ったが、近くの 「安土城郭資料館」にもありますので寄ってみると良いです。 資料館は200円で入場でき、安土城1/20の綺麗な模型が置いて あり、15分間程度のお城再現のVideoもあり、結構楽しめます。 |
観音寺城 2013年5月22日 | 27城目 繖山(432.9m)一帯に1000以上の曲輪があり、多くが石垣で囲まれ た日本屈指の大規模な山城といわれているが、今は建物も付帯物 もなく、荒れ果てた城址になっていた。本丸の石垣、大手石階段、 平井丸虎口、淡路丸跡など当時の痕跡を残すが、全くの自然なま まの遺構であり、構わないのが却っていいのかも・・・・。 登城口が分からず、観音正寺境内を探したが見つからない。裏参 道下山途中の「ねずみ岩」の脇に入口らしき小道を見つけ、半信 半疑で登り始めた。険しい急な上り坂が続く、40分位歩き、漸く 本丸跡の方向看板を見つける。兎も角、表示らしきものは一切 ない。合計60分位掛けて本丸跡に到着。息絶え絶えで本当に疲れ た。後で分かったことだが、観音正寺「濡佛(ぬれぶつ)」横に 正規の登城口があった。分かり難いこと夥しい観音寺城巡りだ った。苦労して登城した分だけご利益があると思い、605年に 聖徳太子が建立した名刹「観音正寺」本堂で参拝して、帰路に ついた。無事近江山城3城を制覇したが、本当にれた旅であっ た。 |
水戸城 2013年9月29日 | 28城目 水戸駅で黄門様銅像のお出迎えを受ける。駅から徒歩10分で 三の丸城址に到着。見事な土塁と堀切りに出逢う。元々、天守 閣はなかったようだ。殿館は焼失してない。見所は「弘道館」 「土塁及び堀跡」「薬医門」と少し足を延し「偕楽園・好文亭」 位だ。肝心の水戸城址の遺構は殆どないのが少し物足らない。 スタンプは弘道館料金所窓口にあり、良好だった。 '13.3.11の東日本大震災の被災の影響は大きく、「弘道館」は 地震直後から大きく被災して中に入ることは出来なかった。 ボランティアから丁寧なる説明を受け、庭園を案内いただいた。 正庁の往時の写真が沢山貼ってあり、改修後に改めて見学 したいと思う。驚いたのは土塁・空堀の中を「水郡線」の電車 が走っていたのには吃驚!バスを乗り継ぎ、日本三大公園 「偕楽園」にも出掛けた。園内「好文亭」は地震から復元して なかなか見応えがあった。190円で3階まであり、園内が一望 でき、お勧めの見所です。季節には梅が綺麗に咲き見事な眺め だろう。地元の人の暖かいおもてなしに気持の良い今回の水戸の 旅でした。感謝、感謝! |
大阪城 2013年11月20日 | 29城目 やっと「太閤さんのお城」を訪ねることが出来た。時間が許す限り、 歩き回り遺構を巡った。最初に豊國神社横の大阪城公園観光ガイド 詰所でボランティアガイドをお願いして、お城周辺の遺構を案内し ていただいた。 1Hコースで大手門〜多門櫓〜桜門〜空堀〜内堀〜巨石の石垣〜 本丸御殿跡〜金蔵〜天守閣石垣〜隠れ曲輪刻印石垣〜山里丸曲輪跡 秀頼・淀殿自刃の跡地などを具に案内いただいた。親切なガイドさん に別れ際、「西の丸庭園」「極楽橋」を周るよう勧められたのでので 天守閣登城後に寄ってみた。天守閣は一言でいえば「豪華絢爛、巨大 な威容と石垣とお濠の美しいお城」だと感じた。天守8階の眺めは 圧巻だ。天守8階の黒漆に金箔で虎と鶴の見事な絵には驚きだ。 スタンプは1階受付にあり、良好でした。15Km近く歩き疲れたが、 見応えのあるお城で大満足でした。 |
二条城 2014年3月6日 | 30城目 1601年徳川家康公が築城。世界遺産登録の京の名所の一つ。多くの 外国人が訪れていた。徳川家の栄枯盛衰と日本の歴史の移り変わり を見せてくれるお城というよりも豪華絢爛の御殿との印象を受けた。 発券所で「音声ガイド」を500円を出して借りた。二の丸御殿を順路 に従い見学。数々の障壁画が見事だ。 うぐいす張り廊下は期待して歩いたが、大勢の人の往来で鳴声は聞こ えず。将軍拝謁の部屋が外様と譜代で異なることを知った。二の丸 庭園を観てから本丸御殿跡、本丸庭園、天守閣址を回り、休憩所横の テントにてスタンプをゲット。テント内で一口城主募金があったので 200円を寄付。本格修理のお金として活用されるようだ。東大手門横の 番所の遺構は珍しいので一見をお勧めします。 帰路、近くに「南禅寺」があるので寄り道することにしました。 |
和歌山城 2014年3月7日 | 31城目 前から登城したいお城、徳川御三家紀州藩の和歌山城に遂に登城。 期待に違わぬ立派な天守と濠を残した大城郭だった。古くは豊臣 秀長が藤堂高虎に命じて築城。その後、浅野幸長から家康公10 男の頼宜へと歴史が遷る名城だ。楠門を潜り天守〜台所〜乾櫓〜 二門櫓などが連結、それを多門櫓でつなげる立派な天守だ。 標高49mの虎伏山に地上から74.6mの天に聳える天守閣の眺めは 絶景かな、絶景かな! 驚きの発見?3種類の石垣が見られる?別名「伏虎城」の謂れ と像?二の丸跡〜西の丸へ渡る御橋廊下はとても渡り辛い (足が痛い)?突然黒装束のくノ一忍者が音もなく寄って来る (写真撮影有難う様でした) 見所の多いお城で濠も石垣も本当に見応え十分な名城でした。 スタンプは天守閣入口の発券所にありました。良好でした。 全てに満足な2.5Hのお城巡りの旅でした。 |
徳島城 2014年4月1日 | 32城目 絶好の桜見物日和の徳島中央公園に到着。多くの花見客で園内は溢れて いた。いざ徳島城登城へ。吉野川河口の標高62mの渭山(いのやま) に築城したのが蜂須賀家家祖小六正勝の二代目藩祖の家政のようだ。 三代目の名君至鎮公は表御殿庭園を築庭。天守などの建物は明治8年に 総て解体されていて、今は観るべくもない。見所は?平成元年に再建さ れた「鷲の門」?大手門・月見櫓跡などの石垣?表御殿庭園だろうか。 城内を巡る石垣は「阿波の青石」呼ばれる緑色片岩が沢山用いられて いるのが特色でもある。 阿波徳島藩祖家政以降284年間を蜂須賀家がずっと居城としてきた のも珍しいお城だ。庭園の枯池に架かる自然石橋(別名地団太橋)と 切石橋及び東部築山の陰陽石は見応え充分でお勧めします。 桜満開の綺麗な城跡として印象深い徳島城跡訪問の旅であった。 スタンプは徳島城博物館にあり、良好でした。 |
高知城 2014年4月2日 | 33城目 今年日本で最初に桜が開花した高知公園。訪れた時の桜は 散り始めであった。掛川5万石から土佐24万石へ大飛躍 した山内一豊が大高坂山(おおたかさやま)に築城した現 存天守へいざ登城。?追手門〜?杉ノ段への登り〜?打ち 込みハギの堅牢な石垣を登り鉄門跡と詰門へ〜?三ノ丸・ 二ノ丸跡〜?本丸廊下門へ〜?本丸御殿〜?天守閣へ登り つめる。雨の多い土佐の気候を巧みに工夫した石垣は穴太 衆が築いた野面積を多用。敵からの防御の工夫も随所に観 られる。「横矢掛り」「矢狭間」「石落とし」「忍び返し」 「堀」なども面白く見学した。外観四重高さ18.5mの望楼型 天守は大入母屋とその上の唐破風、黒漆で塗られた高欄が 見事な眺めだ。現存の本丸御殿も興味深々だった。 スタンプは本丸御殿入口にあり良好でした。 |
宇和島城 2014年4月2日 | 34城目 四国名城巡り3城目は藤堂高虎築城の現存天守宇和島城だ。 城山約80m上に築かれた五角形の平山城であり、昔は周りを 海で囲まれた堅固なお城のようであったが、現在は一部の堀 を残すのみであった。残念なことに立ち上げ門から登城した が途中は石垣工事のため、仮設の階段を上り本丸まで登城。 藤堂高虎が7万石の初の城持ち大名として宇和島藩主として 居城したのは1596年とのこと。その後、仙台藩伊達正宗庶長 子伊達秀宗が10万石で入り、明治まで「伊達十万石の城下町」 とし存続。現在の天守は伊達家二代秀宗利が築城したようだ。 三重三階の総塗籠式層塔型で各階装飾性の高い破風や懸魚等 から太平の世を象徴する御殿建築が随所に見られ、格式を重 んじた造りになっている。御台所跡から天守までは綺麗な桜 が咲き誇り、小振りながら見事な天守閣が聳えていた。 スタンプは天守入口にあり、良好でした。 |
大洲城 2014年4月2日 | 35城目 四国名城巡り4城目の大洲城だ。市制50周年記念で平成16年に 市民の寄付などで天守の復元が成った真新しい木造層塔型四層 四階の綺麗なお城だ。昔からある台所櫓、高欄櫓、苧綿(おわた) 櫓、三の丸南隅櫓などの遺構が残存している。天守内部は総て国 産材で造られている。1、2階は他の城にない吹き抜けの構造が 施されていて面白い。1617年に加藤貞泰の入封後は、加藤氏の世 襲で明治迄存続。明治16年に城は取り壊された。 城は肘川に突き出す標高20mの地蔵ヶ嶽に築かれ、肘川の水を利用 した広大な内堀と外堀を備えていたことが城郭図から伺い知れる 。天守最上階天井に「木のねずみ」がいた。おしゃれなユーモア 溢れるお城でもあった。スタンプは台所櫓入口にあり、良好でし た。天守石垣も見ものですよ。 |
湯築城 2014年4月3日 | 36城目 四国名城巡り5城目。昨晩は松山市道後温泉のホテルで旅の疲れ を温泉でしっかり癒して熟睡。ホテルから車で5分で湯築城へ到 着。観光ボランティアさんに丁寧な説明を受けながら道後公園内 湯築城遺構を見学。1585年に豊臣秀吉軍の四国攻めで小早川隆景 軍に滅ぼされて、時の城主河野通道は伊予支配に終りを遂げた。 湯築城主河野家の歴史は古く、1180年源頼朝挙兵の時から始まる 名家だったようだ。現在は天守も櫓も総て存在しない。見所は ?内堀・外堀と土塁?上級武家屋敷(復元)?湯築城資料館程度 で30分で巡回出来た。今なお復元整備を続けているとのこと。 スタンプは資料館にあり、良好でした。 |
松山城 2014年4月3日 | 37城目 四国名城巡り6城目。行きはロープウェイー、帰りはリフトで下山 しました。あの賤ケ岳7本槍の加藤嘉明が関ヶ原戦功で伊予20万石 で勝山(標高132m)山頂に築城開始した連立式天守の立派な城郭で ある。天守、小天守、南隅櫓、北櫓が天守四隅に配され、これを多 門櫓、渡櫓で結び堅固な現存天守であった。加藤家〜蒲生家〜松平 (久松)家で明治まで存続。しかし天守は落雷・放火・戦火などで 何度も焼失の危機に見舞われ、現在の天守は明治維新14年前の 1854年松平12代藩主勝善氏の時代に完成したものが残っている ようだ。石垣、各種櫓は堅牢な防御を前提にした美しく頑丈に造り 込まれているのが良く分かる。天守閣内部も剥き出しの木が荒々し く且つ繊細な造りになっていて現存天守の本来の姿を学ぶことが できた。天守前にマスコットキャラクターの「よしあきくん」が 笑顔でお迎えをしていましたよ。 スタンプは天守入口にありました。四国9城巡りで唯一スタンプ の状態が悪かったのは痛恨の極みでした。 |
今治城 2014年4月3日 | 38城目 四国名城巡り7城目。関ヶ原戦功で加藤嘉明と共に伊予の国 半石の20万石で宇和島から入封したのが城造りの名人と云 われる藤堂高虎氏だ。瀬戸内海に面した海城で日本3大海城 で別名、吹揚城とも云われている。残念ながら高虎氏が伊勢 の国津に転封時に彼が築いた層塔型五重天守は丹波亀山城へ 移築されてしまったようだ。現在の天守は昭和55年造られ た模擬天守だ。平成19年には鉄(くろがね)御門と多門櫓が 枡形構造でがっちりと造られ、敵を三方向から攻める様が良 く理解できた。この城の最大の見所は、築城の名手の高虎氏 が苦心、工夫した?幅60mに及ぶ海水が引き込まれた水堀? 舟入跡?石垣と犬走りであろうか。ボランティアの方が懇切 丁寧にご案内頂き感謝申し上げます。スタンプは天守入口に あり、良好でした。天守前で満開の桜を背に地元の方達がお 酒を召し上がりカラオケで盛り上がり、散りゆく桜を惜しん でいたのが印象的でした。平和な日が続きますように! |
丸亀城 2014年4月3日 | 39城目 四国名城巡り8城目。いよいよ讃岐の国入りだ。丸亀城に到着。 標高66mの山頂を眺めると「石の城」がそびえ立っていた。 1587年生駒親正が16万7千石で入封して築城に着手。1615年一国 一城令で廃城に。その後、山崎家治氏を経て、1658年に京極高和 氏が6万67石で丸亀藩主となる。石垣は山崎氏、本丸は京極氏時 代に築城して今日に至ったようだ。日本一小さい現存天守でも あるが見応えは十分。初重目の下見板張り、二重目の唐破風、三 重目の格子窓が天守としての格式を高めている。三の丸北側の 石垣は20m以上の石壁が続く。表示板に「見返り坂」と記されて いた。隅角部の算木積み石垣は「扇の勾配」とも呼ばれ、際立っ た美しさを醸し出していた。石垣の三種類が見られ、打ち込みハギ が多用されていた。天守北面は飾られた装飾が施されているのに、 西側は飾りが一切なく別のお城のようなのが奇妙でもある。 スタンプは天守入口にあり、良好でした。 |
高松城 2014年4月3日 | 40城目 四国名城巡り9城目。いよいよ2泊3日お城巡り最後の城である 高松城へ到着。満開の桜を観ながらお城ツアーも初めて小雨に見 舞われた。生駒親正氏から4代54年続いた後、水戸藩光圀公兄 の松平頼重氏が12万石で入封。元来この地は戦略的な拠点であり 、日本三大海城の一つとして海水を取り入れた幅の広い水堀が本 丸、二の丸、三の丸を巡る典型的な海城であったようだ。明治17 年に取り壊されて、今は復元された天守台がお堀の中に存在して いた。今年から参観が可能になり、三重四階地下一階のお城の面 影を残していた。城跡には月見櫓、艮櫓が残存。堀の水門などの 遺構を見ることが出来た。地元では復興天守建設の悲願があると 聞いたが・・・・。スタンプは高松城西入口にて。極めて良好。 |
高岡城 2014年7月2日 | 41城目 富山県唯一の100名城選定のお城。加賀藩2代目藩主前田利長公の 隠居所として、当時前田家の客将だった後のキリシタン大名高山右 近に縄張を任せて築城したといわれているが、定かではない。 1615年一国一城令により廃城。現在、古城公園として中心市街地に 21万?の規模を持ち、春には桜の名所として賑わっているようだ。 お城の遺構は公園の全体の1/3を占める「水壕」がほぼ、当時のまま 残っており、外濠をゆっくり1H掛けて散策。内壕も整備された歩道 を森林浴よろしく散策。途中の土橋に架かる「石垣」も規模は小さい が当時の面影を垣間見ることができる。本丸広場には「前田利長公銅 像」が佇んでいた。大手口出口付近には「高山右近像」もあった。 スタンプは「高岡市立博物館」にあり、良好でした。近くに「高岡 大仏」と国宝「瑞龍寺」があったので立ち寄りました。 歴史公園を満喫した北陸5城巡り初日のまったりした一日でした。 |
七尾城 2014年7月3日 | 42城目 日本五大山城に数えられるほどの険しい標高300m上に、今から 580年前に築城された典型的な山城址だった。能登畠山氏がこの 地に七尾城を築き、以降150年間にわたって領国支配の拠点とな った戦国時代初期に栄えた歴史的に価値ある遺構でもある。 山頂本丸址へのアクセスは麓の「城史資料館」から徒歩と自動車 道があり、自分は車で「本丸北駐車場」から本丸址登城を目指し た。朝早いせいか往復で1.5Hほど掛けて険しい山道を歩き、途中 「熊注意」の看板も見かけたが、無事に登頂。調度丸〜遊佐屋敷 〜桜馬場〜本丸址に続き、二の丸、三の丸址を散策。 ここの見所は?本丸址から観る眼下の景色?土塁?石垣?空堀だ ろうか。スタンプは麓の「七尾城史資料館」入口にあり、若干痛 んでいたのか今一の状態でした。資料館の開館前にも関らず、 親切な係員さんに城址に行くまでの地図を頂きました 。城址の道の整備、案内板、城址跡保全状況、トイレなどは七尾 市の関係者の努力で綺麗に整っていました。嬉しい限りです。 |
金沢城 2014年7月3日 | 43城目 石川門からイザ金沢城へ登城。ボランティアガイド案内所で1Hコース の案内をお願いした。上品な叔母様ガイドの案内で金沢城公園内を散策。 定番の菱櫓〜五十間櫓〜橋爪門続櫓は有料なので後回しして先ずは本丸 址へ向かう丑寅櫓、辰巳櫓跡の見事な石垣を眺めながら鶴の丸土塀、鶴 丸倉庫を観る。鉛瓦が珍しい。随所に海鼠壁が太陽に反射して美しい景 観を醸し出していた。ガイドさんからは金沢城址の石垣を楽しんで観る ことを勧められたが、本当にここの石垣は見事で美しい眺めだ。大手門 にも大石の石垣が聳えていた。三十間長屋を裏も含めてじっくり見学。 二重の唐風出窓が映えていた。定番の菱櫓、五十間櫓、橋爪門続櫓に 入場。2001年に復元された新しい建造物のせいか檜、ヒバなどの木の香 りが心地よい。3H位掛けてゆったりと見学。総合案内所でスタンプを捺 した。スタンプは良好。兼六園を急いで回り、次のお城巡り地丸岡へ向 かった。 |
丸岡城 2014年7月4日 | 44城目 今回の北陸5城巡りで最も楽しみにしていた日本で最古の現存 天守である丸岡城に到着。開門の8:30に一番乗り。天守入口に 展示されていた石の鯱が微笑ましい。お城の関係者らしき3人 が床、柱、側面の板塀を懸命に清掃していた。ご苦労様と挨拶 してイザ天守へ。先ず面食らったのは2階〜3階への板張りの 急な階段。半端な角度ではない。階段備え付けの紐を握り、必 死の形相で登る。年配のご婦人、スカートの女性はまず登城を 諦めた方が良いでしょう。1948年福井大地震で倒壊。1955年に 修復。明治の廃城令にも屈せず、本丸天守のみの裸の城なれど 今なお小振りながら輝いている姿は痛々しくもあるが、健気で もある。歴代の城主は数奇な運命を辿ったようだが、雪深い 丸岡で風雪に耐えうる石瓦を用いた先人の知恵には思わず唸っ てしまった。スタンプは券売所にあり、良好でした。麓の「一 筆啓上茶屋」は名前がユニークで思わず微笑んで終った。 |
一乗谷城 2014年7月4日 | 45城目 北陸5城巡り最後の地、一乗谷城・朝倉氏遺跡へ到着。復原 町並〜朝倉氏庭園〜義景館跡をゆっくりと散策。九頭竜川水 系足羽川支流である一乗川下流沿いの細長い谷あいに築かれた 戦国時代の城下町と館跡及び背後の山城が一乗谷朝倉氏遺跡の ようだ。4代朝倉孝景氏の時代に、一乗谷は飛躍的に発展。 華やかな京文化が開花したという。最盛期には1万人を超え、 越前の中心地として栄えたともいう。 1573年織田信長との刀禰坂の戦いで敗れた朝倉義景は一乗谷を 放棄。その後、信長軍勢に火を放たれ一乗谷は総て灰燼に帰し たようだ。昭和42,43年頃から本格的な発掘調査が始まり、現 在の遺構が蘇ったことは素晴らしい。一乗山城跡への登城は 登山道を1H以上歩いた標高400m以上の場所にあることが判明。 今回は時間の都合で登頂を断念した。朝倉氏5代103年の栄華を 誇った朝倉氏遺構を散策し、昔を偲ぶ貴重な空間を存分に楽し めた一時であった。スタンプは復原町並入口にあり良好でした。 |
姫路城 2015年4月23日 | 46城目 晴天でお城巡りには絶好の季節だ。姫路城が最初の今回の山陰・山陽の 7名城巡りだ。2H位待つ覚悟で訪れた平成の大修理を終えた「白亜の 城」は堂々と光輝いて聳え立っていた。幸運にも殆ど並ばずに整理券を 受け取り、大天守から入場。ガイドさんと共に2Hかけて回る。 自分なりの興味深い見所は?東西の大芯柱?特徴ある瓦と歴代藩主の家 紋つき軒丸瓦?秀吉時代の油塀?千姫が過ごした百間廊下内化粧櫓?敵 襲攻略用の三国堀の造りなど存分に見て回ることが出来、大満足だった。 スタンプは大手改札横にあり、良好でした。時間があったので隣にある 「好古園」の庭園を散策。庭から見る姫路城も景観良く素敵でした。 |
鳥取城 2015年4月23日 | 47城目 羽柴秀吉軍が城を囲み、兵糧攻めで攻略し、吉川経家が自害で果てた 「呪いの城」として有名な鳥取城。内堀と高石垣及び天守台のみが残 っている。昭和の鳥取大震災で崩れた石垣が痛々しい。それでも復元 した「天珠丸」の石垣はどこにもない独特の形と機能を備えているよ うだ。新しく発見された天守礎石は時代が異なる造りを明確に表して いて見て面白い。スタンプは入口横「仁風閣」に保管されていた。 16:30には閉館ですので、気をつけて下さい。スタンプは極めて良好 でした。 |
松江城 2015年4月24日 | 48城目 売りは「宍道湖に臨む水運の要衝に築かれた実践重視の城」とある。 別名「千鳥城」、一、二重目は大入母屋屋根で全面下見板張り、望楼 部と附櫓も一部白漆喰であるが、窓廻りの木部は全て黒塗りで、黒を 基調とした天守だ。落ち着いて威厳があり、荘厳でもある。見ていて 全く飽きない。犬山城と同様、天守入口に取り付けた附櫓は防御性が 高く、敵の侵入を難しくしている。二之丸上の段に平成13年に復元 された太鼓櫓、中櫓、南櫓が高石垣と良く合っており、更に防御性を 高くしている。天守内部は現存天守よろしく、武具、甲冑展示など余 計なモノが一切なく、石落とし、狭間、石打棚など防御の設備がこれ でもかというほど備わっていた。素晴らしいお城だ。最後の城主が家 康次男秀康の子孫の越前松平家とは新しい発見だった。 |
月山富田城 2015年4月24日 | 49城目 冨田川に面した標高197mの月山を利用した典型的な山城。戦国 大名尼子氏代々の居城だった。1565年毛利元就に攻められ1年 半にわたる籠城の末開城し、尼子氏は滅亡。尼子家再興を願い 孤軍奮闘したのが有名な「山中鹿介」だ。その後、1600年に堀 尾吉晴が入城、総石垣造で御殿も構えた近世城郭に大改修した が、場所が不便で合戦もなくなったので、1611年に松江城へ移 り、その後、廃城となった。現在は曲輪群、石垣、堀切が遺構 として残っている。天気は晴れ、ガイドさんと共に険しい山道 ?山中御殿跡?三の丸跡?二の丸跡?本丸跡を目指していざ ”登山”開始。合計で45分程度で山頂到達かな。スタンプは麓 の歴史資料館にあり、鮮明で良好でした。 |
津山城 2015年4月25日 | 50城目 3年の登城歴で記念すべき中間点の50城目は備中の地「津山城」 森蘭丸の弟、森忠政が1616に完成させた。標高50mに建つ復元さ れた「備中櫓」を支える大石垣が見事なこと。いきなりのお出 迎えである。この城跡の特徴は雛壇のように3段もしくは4段 重ねに曲輪を築いた「一二三段」と呼ばれる構えの平山城だ。 本丸小天守跡の石垣、天守台石垣は見応えある高石垣だ。現在 はお城周辺が「鶴山公園」となっており、春は桜の名所として も有名のようだ。スタンプは「備中櫓内受付」にありました。 自分はうっかりして備中櫓撮影ポイントまで下山して終い、慌 てて天守跡まで戻りスタンプをゲットしました。印影は良好です。 |
備中松山城 2015年4月25日 | 51城目 高梁市観光協会の若き熱血漢のガイドさんの案内で城見橋公園駐車場 から貸切シャトルバスに乗車。臥牛山8合目の「ふいご峠」で下車。 そこから20分程度険しい山道を登り、大手門跡へ到着。ここの石垣 が見事だ。自然の大岩も石垣に利用しているには驚きだ。三の丸〜 二の丸跡を経て標高430mの臥牛山山頂にある現存天守に到着。現存天 守がある山城では備中松山城が最も高いところにあり、関係者の誇り が感じられる。天守閣は小振りで層塔型二重二階。宇和島城、丸亀城 に近い大きさだ。平成に再建された五の平櫓と六の平櫓が天守と良い 調和を保ち、美しい絵模様を醸し出している。1600年に徳川家臣小堀 遠州親子の時代に本格的に修築。以降〜明治まで三河譜代の大名板倉 家が代々藩主をつとめた。スタンプは天守1階渡廊下で。大変良好で した。 |
岡山城 2015年4月25日 | 52城目 2泊3日の山陰・山陽7名城巡りも最後の「岡山城」に達した。 「不明門」を通り、本丸へ着くと正面にドーンと黒く光り輝く 巨大な天守閣が聳えていた。五重六階のコンクリート造りで昭 和41年に再建された別名「烏城」とも呼ばれている旭川畔に天 守と櫓群が林立した西国の要塞として相応しい大天守だ。古く は1570年に宇喜多直家が時の城主金光氏から奪い取った歴史が ある。嫡男秀家の時代に豊臣政権の有力大名に相応しいように 大改修したようだ。その後、小早川、池田氏の有力大名が支配 するようになり、城郭の縄張は拡大の途を辿って、昭和20年の 空襲で焼失するまで現存した。僅かに天守の北西隅に建つ「月 見櫓」が当時のまま残っている。平成8年に大修理を施す。鯱 に金箔を施してあり、見栄え充分のお城だ。スタンプは天守閣 一階に保管されている。印影は良好でした。 |
高取城 2015年10月6日 | 53城目 見事な天守台の高石垣だ。感動した。こんな山奥に よくも築いたものだ。典型的な「掻き揚げ城」と いわれている。即ち、自然の地形に多少の工作を加 えて敵を防ぐ形態の山城である。近世城郭として現 在の高取城を築城したのは豊臣秀長の重臣本多太郎 左衛門が郡山城の詰城として築城されたようだ。 江戸時代に入り、徳川家大番頭の植村家政が高取藩 主になり、以降、明治まで14代228年まで植村家が 続いたようだ。 世が泰平になるにつれ、奥深い山城の生活は不便に なり、麓の土佐町に生活の拠点は移ったようだ。 今でも高取町では武家屋敷が残っている。 因みに植村家は徳川三代に仕えた三河譜代で松平 清康、広忠が賊に打たれた時、賊を成敗したのが家政 の父である植村新六郎であるのだ。手柄を立てた植村 家に高禄は出せない代わりに植村家は代々に亘り 「家康」の「家」を名前に付けることを許された とのことだ。スタンプは麓の観光案内所「夢創館」 にあり、良好でした。厳しい山登りの登城でした! |
大分府内城 2016年3月22日 | 54番目の登城 現存の遺構「宗門櫓」「人質櫓」「天守台」を観て周る。再建された 「大手門」「廊下橋」も見応えがあった。1597年播磨福原則高の子、 福原直高が秀吉の命で築城。当時は「荷落とし城」とよばれていた ようだが、縁起が悪いとの理由で「荷揚げ城」と改名。現在の「府内城」 とはここが街の真ん中であるという地名から付いた名前とのこと。 内堀と石垣が続く眺めは、歩いていて大変気持ちが良い。 関ヶ原合戦後、1602年秀吉の軍師竹中半兵衛の従弟竹中重利が家康の 許可を得て近世城郭を築城。以降、大給松平家が明治まで統治した 10万石相当の要となる拠点だったようだ。スタンプは西の丸入口の無人の 小屋に置いてあったが良好でした。 |
岡城 2016年3月22日 | 55城登城目 大分竹田市郊外に聳え立つ典型的な山城。標高325m。古くは1185年に 大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が源義経を迎い入れるために築城。 その後、豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀貞朝が城を修理して 住み、大友義統が領地を没収されるまで志賀氏が居住。1594年三木城 から中川秀成が入部。戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備と 城下の町割り等を行う。1596に本丸、以降二の丸、三の丸を構築。 1663年に西の丸御殿が完成。城の中心部となる。高取城のように巨大 な高石垣が随所に残り、ここは石垣好きにはたまらない城址だ。 親切なボランティアガイドさんに心行くまでに遺構を案内していただ き有難う御座いました。滝廉太郎が1900年にこの城址をイメージして 作曲した「荒城の月」のメロディーが城址に響き渡っていました。 スタンプは観覧料徴収所にあり、良好でした。 |
熊本城 2016年3月23日 | 56番目の登城 加藤清正公が7年の歳月を掛けて完成した天下の名城である熊本城。 一昨年までは年間221万人が訪れるとは驚きだ。半分位は外国人のよ うだ。天守閣前に立つと大きさに圧倒される。大天守は地上6階地下 1階で石垣上から30m、小天守は地上4階、地下1階の19m。一番目に付 くのはそそり立つ天守台の石垣だ。1607年築城時は傾斜が緩やかで あったようだが、その後継ぎ足されて現在のような急で高い石垣に なったようだ。今回は時間が2Hしかなかったので「天守閣」「本丸 御殿」とどうしても外せない築400年の現存「宇土櫓」への見学だ。 素晴らしい当時の建築が随所に見られ、お勧めの場所です。別の機会 に改めて半日は掛けて現存の12の櫓、長塀、石垣、壕などを観て周る ことにした。スタンプは「頬当御門」入口にあり、良好でした。 |
福岡城 2016年3月23日 | 57番目の登城 大中小天守閣の見事な石垣の遺構が見所だった。 関ヶ原の合戦で武勲のあった黒田家二代目黒田長政52万3千石 が1601年に築城。折しも加藤清正公とほぼ同時期に築城・完成 した、こちらも熊本城に劣らない大きな城郭だったようだ。 上空からみた天守閣復元CGが展示されていたが、高い石垣と 多門櫓で繋がった連立式の天守閣だったようだ。時間がなくて 復元された「南丸多門櫓」「西隅櫓」はみることが出来ずに残念。 隣の大壕公園と並び桜の名所らしく、間もなく始まる桜まつりの 準備で多くの人が忙しそうに働いていた、スタンプは鴻臚館跡 展示館にあり良好でした。 |
白河小峰城 2016年10月23日 | 58城目 ボランティアガイドさんの力の入った説明『本丸急勾配の石垣。地震で崩落 した多くの石垣をつい2年前に史実に基づき忠実に復元』東日本大震災から 5年半余。自治体の復旧・復興を優先したため、小峰城の復旧は最後に廻さ れ、今なお、城跡の復元は続いていた。この城の歴史は古く、1189年結城家 祖の結城朝光が奥州藤原氏攻めの功で源頼朝から白河を領地として与えら れ、以降400年にわたり統治。その後、秀吉の時代に蒲生・上杉・蒲生家が 会津支城として支配。江戸時代に初代藩主の丹羽長重が10万石で入封。小峰 城を大きく改修。現在残る城郭や城下町の基礎を築く。その後は徳川幕府 重臣の7家が藩主をつとめる。残念ながら1868年戊申戦争で大半が焼失。 現在のこの城跡の見所は?三重櫓(H3年木造で再建)?前御門(H6年木造で 再建)?本丸石垣?清水門跡だろうか。小振りなれど石垣の美しさと端正な 三重櫓の佇まいは伝統の技が息づく造形の美の織りなす名城の輝きを見せて いた。スタンプは三重櫓受付にあり、良好でした。 |
二本松城 2016年10月23日 | 59城目 別名「霞ヶ城」「霧ヶ城」と呼ばれる。現在城跡は霞ヶ城公園になっている。 当日は「菊まつり」の最中で多くの見物客で賑わっていた。昭和57年(1982)に 再建された二階櫓、箕輪門、多門櫓が正面入り口に聳え立つ。ボランティア ガイドさんは入口前にある戊辰戦争で亡くなった若き戦士二本松少年隊の 群像を前に滔々と悲劇の出来事を説明していただいた後、いざ入場。その昔、 二本松城は1441年畠山満泰が標高345mの白旗ヶ峰に築いた山城だ。伊達政宗に 滅ぼされ滅亡。以降、伊達・蒲生氏郷・上杉・蒲生秀行・加藤義明と城主が 続き、明治迄丹羽家が統治。1627年に入封した加藤義明氏が藩主の時、現在 の近世城郭の姿に大改修されたようだ。見所は先に挙げた再建建造物の他は ?本丸の石垣?天守台を含む本丸跡(H7年復元)?搦手門跡だろうか。他には 庭園、藤棚、秋の紅葉も見事だ。スタンプは入口近くの観光売店に置かれて いた。良好。 |
会津若松城 2016年10月24日 | 60城目 東北6城巡りで唯一天守閣がある会津若松城にやっと登城できた。 別名「鶴ヶ城」1384年葦名直盛が黒川城として築城。その後、伊達政宗が 入る。蒲生氏郷の城主時代に七層の天守が完成。黒川を若松に改め町割り をつくる。以降、上杉家・蒲生秀行・加藤義明・保科正之と続き、松平と 改名した保科家代々が藩主をつとめた。 最後の藩主松平容保は幕府方京都守護職を受け持つ。1868年戊辰戦争勃発。 1ヶ月の籠城の末、鶴ヶ城落城して大部分が焼失。現在の五重五階の天守は 昭和40年(1965年)再建された。晴れた日に映える赤色の瓦は白見壁と調和し た美しい姿だ。 見所は?天守石垣(野面積)?走長屋・南走長屋と千飯櫓?本丸東側高石 垣だ。明治初めの「廃城令」で全てが取り壊されたのは残念至極だ。 スタンプは分かり難いが天守閣内売店にあった。まずまず良好。 |
山形城 2016年10月25日 | 61城目 別名「霞ヶ城」。最上氏の祖、斯波兼頼が1357年創築。その後、戦国時代末期 に57万石で最上義光が入封。大規模な拡張整備をする。本丸に天守はつくらず。 江戸時代に徳川幕府重臣の鳥居忠政・忠恒親子が藩主をつとめ、大幅な改修 を行い、近世城郭のもとになっていった。鳥居家後の歴代の城主は徳川幕府 譜代の大名(保科・松平・奥平・堀田・松平・水野家)が続いた。当時の遺 構は殆ど残っていなく、僅かに北門、西門、南門跡の堀と石垣が見られるだ けだ。平成3年二の丸東大手門が当時の建築様式で台湾から運んだ桧木で見 事な復元をしている。周りも櫓門、多門櫓を復元。更に、平成15年〜26年に 本丸一文字石垣、大手橋、高麗門、枡形土塀を当時の絵図面で復元している。 何といっても目立つのは中央に位置する最上義光の勇ましい姿で決戦の場に 向かう騎馬像だ。スタンプは入口櫓門内二階に置かれていた。良好です。 丁度、二の丸東大手門付近の建物は瓦の修理で足場が組まれ写真が殆ど撮れ なかったことが残念でした。 、 |
多賀城 2016年10月25日 | 62城目 東北地方を治めた古代律令国家の城跡。多賀城碑には神亀元年(724年)に 創建され、天平宝字6年(762年)に修造されたことが刻まれているので、遥か 昔から陸奥の国府及び鎮守府として置かれ、約200年もの間、東北地方の政治 ・軍事の中心として栄えたようだ。広い城址跡には?政庁地区建物跡(政庁 跡含む)?多賀城廃寺跡?多賀城南門復元図?多賀城政庁復元模型?多賀城 碑などが見られる。100名城には根室半島チャシ跡群、今帰仁城など古い由緒 ある城が選ばれているというが、本当に多彩だ。だから訪ねて行く楽しさが あるのだろう。多賀城は多賀城市の東西に長い町で砂押川が真ん中を流れて いる。仙台からJRで15分と近い。あの東日本大震災では仙台湾に近い西側地 区で津波で219名が犠牲になったという。今回の登城の旅で図らずも震災の 爪痕を見た。まだ、復興の途上にある。頑張れ!甦れ!と祈る。 スタンプは何とJR東北本線国府多賀城駅構内にあった。インク薄く強く押す と良い。ギリギリセーフ。 |
仙台城 2016年10月25日 | 63城目 あの伊達政宗が築城した62万石の名城。残念ながら期待に反して当時の 遺構は殆ど残らず。鎌倉時代に創築と伝えられる千代城があった青葉山 に1600年伊達政宗が2年を費やし築城。城の四方が広瀬川の渓谷や断崖 などで囲まれた天然の要塞だ。仙台城見聞館展示コーナーに本丸御殿の 屏風が展示されていたが、明らかに桃山文化を多く採り入れた様式が 沢山あり、本丸御殿は数多くの美術品で飾られていたという。見所は ?本丸大広間の礎石?大手門跡と脇櫓?本丸の石垣?中央に建つ政宗公 銅像などか。広瀬川向かいの山々には伊達家代々の菩提寺が多くある ようだ。スタンプは見聞館に保管され、良好でした。 今回秋のみちのく6名城めぐりの旅をを無事に終了。天気も良好。紅葉 も最高。同行の伴侶も「素晴らしい旅だった」との印象ですべて良し。 |
佐倉城 2017年7月10日 | 64城目 鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流 する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がる平山城だ。1610年 家康の命で土井勝利が初代佐倉藩主として入封。江戸の東を守る要として、 既存の佐倉城の大改修を行った。地の利を活かし、水堀、空堀、土塁を築い て守りを固め、東の台地に武家屋敷と町屋、仏閣を配して城下町を形成。 天守台跡、堀、土塁、角馬出、出丸跡などがほど良く残り、時間を掛けて 城跡を巡れば、想像力が膨らみ楽しいひと時でした。石垣はいっさい使われ ていないのもこの城跡の特徴かも。歴代の佐倉藩主は徳川譜代大名の中でも 名門の家柄で、9名が老中となっているので、別名「老中の城」とも呼ばれ ていたようだ。 スタンプは自由広場内「佐倉城址公園管理センター」に保管され、良好でし た。係員、おもてなし武将さんの親切な応対が温かく感じました。 |
足利氏館 2017年7月11日 | 65城目 東武伊勢崎線「足利市駅」下車、レンタル自転車で途中、渡良瀬川を渡り 10分弱で「足利氏館跡=鑁阿寺」と隣接する「足利学校」に到着。 足利氏の居館跡の「鑁阿寺(ばんなじ)」は足利の街の中心にあり、大日 如来を本尊としている。約4000?の敷地には、四方に堀と土塁が張り巡ら されていて、鎌倉時代の武家屋敷の面影を今に伝えている。太鼓橋を渡り 、桜門をくぐると正面に大御堂(本堂)が見える。室町幕府初代将軍の 足利尊氏氏の父貞氏が1299年に再建された。平成25年8月に国宝に認定。 スタンプは境内の「無料休憩所」とあったが、閉鎖されていたので、別の 売店で置き場を訊ねた。何と本堂の入り口の台上に無造作に置いてあった ので驚く。スタンプは良好。時間があったので、近くの日本最古と言われ る「足利学校」を見学。420円の参観料を支払い「入学証」を受け取り参拝 した。 |
金山城 2017年7月11日 | 66城目 1469年新田一族の岩松家純により築城。下剋上によって城主の由良氏の 時代に全盛期を迎える。上杉謙信、武田勝頼などの有力戦国大名から数 10回に及ぶ攻撃を受けたが、一度も落城しないで堅固さを誇った城だ。 北条氏の謀略に落ちて、北条支配下時に、秀吉の北条攻めで落城。廃城 となる。関東七名城の一つとして有名のようだ。標高236mの山頂に実城 (みじょう=本丸)跡があり、馬場曲輪、西城どの曲輪跡、土塁、堀切 、石垣が残っている。城のほぼ全てが石垣造であるという、関東でも 稀有な山城だ。問題は城跡への一般交通機関がなく、伊勢崎線「太田駅」 から徒歩約1Hを要する難所だ。自分はタクシーで往復した。片道約10分 で往復4,080円した。スタンプは無人の南曲輪休憩所内にありました。 |
箕輪城 2017年7月11日 | 67城目 関東4城目(佐倉城〜足利氏館〜金山城〜箕輪城)。11日3城目は徳川四天王 井伊直政が家康公から12万石を与えられ、関東の守りの要として近世城郭造 りをした由緒ある城址だ。利便性が悪いという理由で築城後、僅か8年で廃 城。高崎へ移転した。榛名山東南麓に広がる独立丘陵上の中心部に位置する 。城の西側を流れる榛名白川や南側に存在した椿名沼と呼ばれた湿地帯など 自然の地形を利用した構造になっている。標高280mの霊置山から御前曲輪、 本丸、二の丸、郭馬出という尾根上の曲輪を城の中心に配置している。 門跡、石垣、土塁、堀など見所は多い。スタンプの場所が皆さんから指摘 されているように、城跡から離れた随分離れた高崎市役所箕郷支所受付に あると事前に情報を得ていたので、迷わず支所でスタンプゲット。やや不鮮 明で残念。夕方15:45からの登城で、時間がなく、片道タクシーを利用。料 金4,600円は痛い出費だった。(笑い!) |
新発田城 2017年7月12日 | 68城目 JR日新線「新発田駅」下車、駅でレンタル自転車を借りて、約7分で 「新発田城跡」へ到着。尾張国生まれの豊臣臣下の溝口秀勝が初代 藩主。(6万石)。上杉景勝と戦い滅びた新田氏の館跡に築城を開始。 入封から56年後の1654年三代宣直の時に完成。 現存する「表門」「旧二の丸隅櫓」は、新潟県で唯一現存する城郭 建造物だ。腰壁は瓦張りで、白と黒が美しい海鼠壁で仕上げられて いる。平成16年には三階櫓と巽櫓が復元されている。三階櫓は事実 上の天守に相当する櫓だが、幕府や親藩に遠慮して「御三階櫓」と 呼ばれた。外様大名でありながら移封も改易もされず、明治まで 新発田藩主を続けた稀有な溝口家である。三階櫓のT字型屋根には 全国でも珍しい三匹の鯱が載る特徴のある櫓だ。表門入口で丁寧な る説明をいただいたボランティアガイドさんに感謝します。 スタンプは表門受付にあります。極めて良好です。 |
春日山城 2017年7月13日 | 69城目 トキ鉄・妙高はねうまライン「春日山駅」下車、徒歩でスタンプ置き場の 「春日山城跡ものがたり館」へ、春日山巡り謙信公コースの「春日神社」 「林泉寺」「春日山神社」「千貫門「直江屋敷」「毘沙門堂」「本丸」へ と進む。駅から凡そ1.5Hの苦行・難行・地獄の標高180mの山頂にある春日 山城跡制覇だ。春日山城は天然の要害を持つ難攻不落の城とされ、為景、 晴景、上杉謙信、景勝の四代の居城となった。石垣がなく、自然の地形と 土木工事により巡らせた空堀や土塁などによって多くの郭を守っていた。 天守閣を持たず、周囲の山々に砦を築いて、より大きな城としての機能 を持たせていたようだ。戦国時代の山城の特徴をよく表している。 1598年に会津移封に伴い、堀秀治に引き継がれたが、1607年に廃城となる 。暑い盛りの春日山城跡巡りだったが、徒歩での城巡りは、事前に交通機 関、下車駅、レンタルサイクルなど効率的な回り方を調べて難行になら ないような備えをお勧めします!思い出深い名城春日山城跡巡りになった。 |
今帰仁城 2018年1月23日 | 70城目 ■那覇市から車で約1時間30分の北部地域に立地 ■歴史は古く、13世紀までさかのぼる ■この頃の琉球は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山が支配 ■北山王は中国と貿易をしていた ■1416年中山の尚巴志によって滅びる。その後、中山は北部管理のために監守 を今帰仁グスクに設置。1422以降監守の居城として利用。1609年薩摩軍の 琉球侵攻にあい、城は炎上。その後の城跡は聖域・拝所して存続した ■南北350m、東西800m、面積37,000?、県内最大級の城(ダスク)として 名高い ■見所は「大曲りの石垣」「大隅の石垣」「北の郭の石造拱門」など 見所満載でした。標高は100m位で見て回るのは1時間半程度かと ■門から中心部へと向かう階段の左右にはカンヒザクラの並木があり、丁度、 訪れた時は4分咲きでピンクの可憐な花をつけていた ■スタンプは今帰仁グスク交流センター休憩所で出して頂きます。良好でした |
中城城 2018年1月24日 | 71城目 ■城はかって、貿易が行われていた屋宜の港から2Km離れた標高約150m の丘陵上にある。中城村の西北から北中城村の南側に伸びて行く天然 の東崖縁を天然の要塞としている ■石垣の上に立つと、西に東シナ海、東に太平洋が見られるのが珍しい ■14世紀後半までに先中城按司が数世紀にわたり、西の郭、南の郭、一の 郭、二の郭の主な部分を築いた ■1440年に読谷の座喜味グスクから移ってきた護佐丸によって北の郭、 三の郭が増築され、現在の形がほぼ整ったようだ ■見所:「石造拱門(アーチ門)」「三の郭東側の城壁(相方積み)」 「両側にせり出した正門と狭間」「一の郭、二の郭の曲線の石積み」 ■18年にわたり善政を敷いた護佐丸は、1458年勝連城主阿麻和利の策略 によって滅びる。享年72歳。 ■ガイドさんの説明で1853年ペリー探検隊一行がここを見学。エジプト式 と絶賛した精巧なアーチ門が素晴らしい。 ■スタンプは管理事務所の窓口。少し薄目のスタンプで残念! |
首里城 2018年1月24日 | 72城目 ■琉球王国は、1429年〜1879年までの450年間にわたり存在した王政の国 首里城は政治・文化・外交の中心地として威容を誇った城 ■城の基本的な縄張りは1477年〜1555年で、尚真王〜尚清王の時代に完成 をみた。首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で囲まれている ■城は東西約400m、南北200mの規模を誇り、内郭と外郭で構成されている ■有名な「守礼門」は今から60年間前の1958に復元されている。守礼とは 「礼節を重んじる」意で、門扉の上には「守禮之邦」と書かれている ■見所:正殿などの基壇、石垣、石敷き道跡、歓会門などか ■1945年の沖縄大戦でアメリカ軍の猛攻に遭い、首里城は全焼した ■平日にもかかわらず、多くの外国人観光客で賑わい、活況を呈していた ■スタンプは北殿券売所で押した。鮮明で良好でした! |
福山城 2018年7月10日 | 73城目 JR山陽新幹線「福山」から徒歩5分の福山城公園内にある。 幕府の西国監視の最前線を担う重要なお城。家康公母方で ある刈谷水野家の出の水野勝成が大和郡山から10万石で 福山藩初代藩主として入封。時は元和5年(1619年)、勝成 56歳であった。普請を急いだようで、伏見城、神辺城の櫓 や城門を移築することで僅か1年半で五重天守、7基の三重 櫓、16基の二重櫓、櫓門10基を有する大城郭を完成している 。明治初期の廃城令、昭和20年の戦争で大半の施設は焼失し た。僅かに残る現存施設は「筋金御門」と「伏見櫓」と「石 垣」だけだ。昭和41年に復元された天守閣、月見櫓、湯殿等 は忠実に当時の姿が復元されていて見所は多い。石類を含め た高さ33.64mの白塗りの天守最上階には廻縁と赤い高欄が 華麗な姿で聳え立っている。 スタンプは天守閣内にあり、良好でした。 |
郡山城 2018年7月10日 | 74城目 訪問日前週の西日本豪雨で果たして山城なので、登城出来る ものなのか心配して訪ねたが、山頂は危険なので登れないが、 麓の遺構は観られるようで一安心。それでも道は狭く苔が生え, ボランティアガイドさんの案内で用心しいしい「三本の矢訓跡 碑」から「百万一心碑」まで当時を偲びながら遺構を巡った。 恥ずかしながら、「吉田郡山城」が毛利元就発祥の地とは知ら ずにいた。 「三本の矢の結束」伝説は理解していたが「百万一心」は初め て知った。後の桂小五郎などが長州藩結束時の訓えを元就公の 「唐傘連合」→カラ傘連判状に署名した者はどんな小さな土豪で も公平に扱い、領土の面積、そこに住む人々の数、武士の数な ど問題にせず、全て平等に扱う」という人格者毛利元就の神髄 を表す訓えである「原点復帰」を唱えて藩の分裂を防いだとい う逸話も思い出した。元就は桁外れの優れた戦国大名だったこ とが郡山城に来て良く理解できた。山頂見学は断念。麓の隆元 墓所、一族墓所などを観て、約1.5Hで下山。 スタンプは歴史民俗資料館にあり、良好でした。 |
広島城 2018年7月11日 | 75城目 『西国の覇者毛利輝元が「島普請」で築いた巨城」』と日本 100名城ガイドブックの広島城紹介文だ。38歳の輝元は郡山 城の不便さを解消するために1589年に広島太田川河口の三 角洲に城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能 する城郭づくりに着手。10年間掛けて120万石に相応しい 巨大な城を築城。しかし、関ケ原合戦での敗退で僅か9年 で城を福島正則に明け渡し、一族郎党で萩の辺地に移封さ れた不運な歴史を持つ。更に、福島家は無断で城の普請を 理由に改易。浅野氏に受け継ぐ。浅野家は凡そ250年間、 12代にわたり、明治まで存続。 昭和20年8月の原子爆弾投下で天守他全ての建物は焼失し た。現在のお城は昭和33年に復元。5重5階の26.6mの内堀を 備えた立派なお城であった。平成6年には二の丸跡に平櫓・ 多門櫓・太鼓櫓などが復元されていて見所は多い。 スタンプはお城入口にあり、良好でした。 |
岩国城 2018年7月11日 | 76城目 西日本豪雨でロープウェイの運転が危ぶまれたが、運よく 私達が訪れた日に運転が再開された。1608年この地に吉川 広家が月山富田城(12万石)から岩国(3万石 後に6万石)に 転封された。横山(城山)山頂本丸に4重6階の白亜の桃山 風南蛮造りの天守を構築。山麓には居館(御土居)と城下 町が形成され、居館と城下はアーチ型5連の木橋である錦帯 橋で結ばれていた。しかし、完成から僅か7年で一国一城令 で破却。現在の城は昭和37年に復元された。最上階物見から は眼下の錦川、錦帯橋、瀬戸内海の島々の展望が素晴らしい 。他に見所は旧天守台、石垣、堀、大釣井などがある。初めて 訪れた錦帯橋の素晴らしき造りと眺めには感動さえ覚えた。 約340年もの永きにわたり地元岩国の人の手で護り伝えられ ている錦帯橋を「世界遺産に!」と働きかけていた。 スタンプはお城入口付近にあり、良好でした。 |
萩城 2018年7月12日 | 77城目 関ケ原合戦西軍総大将として敗軍した毛利輝元は安芸国他 8か国(112万石)の大大名から、一転、防長2か国29万8千 石に減封され、広島城から日本海に面した僻地の萩に築城 を許された。1604年、藩主秀就の後見役として日本海に張 り出した指月山山頂の詰丸(見張り所)とその山麓に本丸 ・二の丸・三の丸を配し、三重の堀を巡らした平山城に着 手。4年の歳月をかけて完成。これ以降、毛利家は代々終の 棲家として明治維新まで萩城を居住とした。明治7年に廃城 令で全ての遺構は破壊された。現在は昭和40年に復元された 菊が浜東側の「潮入門跡と銃眼土塀」と現存の「天守台」及 び指月公園に隣接する「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」などが 見所だ。スタンプは本丸入口料金所にあり、良好でした。 時間があったので、近くの「松陰神社」「松下村塾」を訪れ ました。是非ともお勧めします。 |
津和野城 2018年7月12日 | 78城目 中世と近世の城が一体となった全国でも数少ない山城だ。 自然そのままの「津和野城(別名:蕗城)」を攻略する のは一人ではムリ。ボランティアガイドさんの助けを借り 酷暑の中、2H余りで制覇した。 鎌倉時代、1282年、西石見地頭の吉見氏が沿岸警備のため、 この地に赴任。1295霊亀山に築城開始。以来、吉見氏14代 の居城となる。 毛利傘下に入った吉見氏は、毛利家が関ケ原の戦いで敗戦、 防長に押し込められた時、一緒に萩に移住した。 その後は、宇喜多家親戚の坂崎直盛氏が3万石で入城。近世 城郭を築く。山頂本丸を中心に石垣で囲み、塀、曲輪など を繋ぎ、出丸をも築き、鉄砲にも備えた鉄壁な守りの城を 構築。「千姫事件」に連座して自刃。僅か16年で藩主を終え る。その後は因幡国より亀井直盛氏が3万石で入城。 明治まで11代にわたり亀井家の居城となる。 スタンプはリフト茶屋にあり、良好でした。 |
五稜郭 2019年5月8日 | 79城目 江戸幕府が函館奉行所の防備を固める目的で、1857年に築城 を始め、1864年に完成した星形(稜堡式)をした西洋式の 土塁(城郭)であることで知られている。 五稜郭タワーから眼下を眺めると五角形の星形をした全景を 見ることができた。五稜郭の歴史は函館戦争終結から150年し か経っていないので、歴史的には極めて新しいことが分かる。 異国船の襲来に備えて築かれた城郭は、奇しくも旧幕府軍と 新政府軍の戦いの場となってしまったことは皮肉な結果だ。 建物は明治5年に取り壊されているので、当時の函館奉行所な どの遺構はみることができない。しかし、堀、土塁、石垣、 井戸跡などは当時のままの遺構を見ることができる。 幾何学的な縄張りは、一見、死角がないと思われるが、真ん 中にお城のような高い奉行所を建てたことが、函館港から撃つ 艦砲射撃の格好の的になり、守りに弱いことが判明した。 スタンプは五稜郭タワーチケット売り場でゲット。五角形の お城姿が綺麗なスタンプでした。 |
松前城 2019年5月9日 | 80城目 お城は松前公園入口にある。公園自体は250種1万本の桜が満開で 多くの人で賑わっていた。周辺は風光明媚でとても綺麗な景色だ 松前家の始祖は武田信広。1606年福山館(後の松前城)を竣工。 相次ぐ外国船の出没により、北方防備に対して不安を抱いていた 幕府は、1849年(嘉永2年)松前崇広に福山館改築を命じた。 海側からの艦砲射撃に備えて砲台を築いたり、城壁中に鉄板を 仕込んだりして堅固な城つくりを行う。石垣も付近の山で採れる 加工しやすい緑色凝灰石が使用され、甲羅積みとも言わている。 1868年(明治元年)幕末の函館戦争で旧幕府軍土方歳三に攻撃され、 僅か数時間で落城。翌年、榎本武揚らは降伏。城は再び松前氏領有。 明治の廃城令で本丸の施設の一部を残し、取り壊された。 北海道唯一の日本式城郭。スタンプはお城入口にあり、極めて良好 でした。 |
根室半島チャシ跡群 2019年5月11日 | 81城目 日本最東端の根室半島納沙布岬を眺めてから、日本100名城 1番目の根室半島チャシ跡群のオンネモト(温根元)と少し 離れたノツカマフ1・2号チャシ跡に行く。「チャシ」とは アイヌ語で砦や柵による囲いを意味することを知る。 16〜18世紀につくられ、戦闘、祭事、集会、見張場、聖地 など多目的に使われたようだ。根室市には32ヵ所のチャシ跡 が確認されている。チャシ跡は海を臨む断崖上にあり、大変 危険な場所でもある。ノツカマフチャシ跡に立つと良く理解 できた。一見すると大昔の古墳跡のようにも見える。珍しい 場所にきた。近くにある「根室市歴史と自然の資料館」で スタンプはゲット。時間があればこの資料館を見学すること をお勧めします。 |
佐賀城 2019年10月25日 | 83城目 鍋島直茂が龍造寺氏から引き継ぎ拡張して築城。再建された本丸御殿は 昭和まで現存したが、昭和32年までに「鯱の門」を除いて総て解体され た。平成16年に本丸御殿の一部が木造で復元された。見所は天守台石垣 、広大な水堀だろうか。スタンプは本丸歴史館受付。綺麗な印でした。 |
吉野ヶ里 2019年10月25日 | 82城目 700年も続いた弥生時代の文化と遺産に触れた。北内郭は神聖な場所の ようで、集落の権力者達が集まり、環濠集落内の取り決めなどを行って いたようだ。巨大な祭殿をはじめ9棟の建物が復元されていた。北墳丘墓 は約2100前の歴代の王やそれに近い身分の人が埋葬された特別の墓。 建物は竪穴住居が主体で、竹や藁でつくられた住居は狭いが当時は雨露を 防ぐ快適な家であったのだろう。外敵から集落を守る柵、見張櫓、堀など も忠実に当時を再現している。 集落が最盛期を迎える「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を復元整備 対象時期として、これまで発掘調査結果をもとに復元整備を進めている とのこと。ガイドさんの説明では「草木一本生えない不毛の地に復元では 場所ごとに当時の植わっていた草木を想定しながら一本一本丁寧に移植 した」と説明を受ける。 多くの学生たちが修学旅行に訪れるという。 スタンプは歴史公園東口にある。丸い綺麗な判古でした。 |
名護屋城 2019年10月26日 | 84城目 訪れるのを楽しみにしていたお城の一つ。懇切丁寧なガイドさんに 案内を乞ったが、実際に城址を観て回ると、秀吉の大物振りが良く 理解できた。黄金の茶室、能楽堂などもあったと聞く。僅か5ヶ月で 本格的な築城をして、本丸も含めて130の大名の陣屋が建てられ、約 20万人を超える人で城下町も築いたといわれる。 建物などの遺構は殆ど現存しないが、石垣、二の丸址、三の丸址、本丸 の天守台址など当時の凄さを思い起こせられる壮大な城跡を観て回った。 歴史博物館も見応えのある内容の展示物が多くあった。 スタンプは名護屋城博物館内受付にある。強く押すと陰影が濃く鮮明さ を欠くのでご注意を! |
平戸城 2019年10月26日 | 85城目 松浦家800年の歴史をもつ山鹿素行の叡智を誇る平戸城。当日は改修 工事中で模擬天守、懐柔櫓、見奏櫓には近づくことも出来ず残念。 第26代藩主の鎮信は1599年三方を平戸瀬戸に囲まれた亀岡山に日之嶽 城を築いたが、幕府の改易を恐れて、1617年に鎮信自身自ら城を焼き 捨てた。以降、城は築かれず。1704年に新規築城を開始。1718年に 平戸城が完成。明治に廃城。現存する遺構は北虎口門、狸櫓がある。 眼下には平戸瀬戸の急潮、黒子島、壱岐の島を一望できる眺めの良い 場所だ。因みに平戸藩は61,700石で明治まで統治が続いた由緒ある家 柄でもある。スタンプの場所は忘れたが、状態は良好。 |
島原城 2019年10月26日 | 86城目 この地は森岳といい、有馬晴信が佐賀・龍造寺隆信を撃破したところ。 この地に、五条(奈良県)から入封してきた松倉重政が島原城を築い た。1618年の着工、7年の歳月を経て完成。同時に城下町も整備した ようだ。4万石の小禄の藩主には過分の大きなお城を造った。 禁止されていた検地、刀狩りを実施。治世が乱れ、農民が決起して 大掛かりな一揆が発生。責任を取らされ打ち首となる。以来、高力氏 、松平氏、戸田氏、再び松平氏と4氏19代の居城として輝いた。 明治維新で廃城となり、払い下げられ解体される。島原市民の夢であ るお城復元への取り組みが長年続き、1964年(昭和39年)天守閣が 復元された。五層の天守が聳える。最上階を除き、破風のない天守が 特徴。天守の下まで車が乗りつけられる驚きの城でもあった。 石垣、堀は見所がある。スタンプは島原城受付。印影は良好。 |
人吉城 2019年10月27日 | 87城目 鎌倉時代の初め、源頼朝の命を受け、人吉庄の地頭として着任した 遠江国相良庄(現在の静岡県牧之原市相良)を出身とする相良長瀬 により修築されたという。山城として本格的な築城は1470年頃、12 代当主為続の時のようだ。1589年、20代当主相良長毎が豊後から石 工を招き、人吉城を石垣つくりの城として改修。1601〜1607年に近 世人吉城はほぼ完成。人吉城は二度の火事に見舞われ、ほぼ城内建 物が殆ど焼失されたという。特徴は五つあるようだ。?中世から明 治維新迄相良氏の居城?45万?の広大な城郭?急流球磨川を外堀、 水運に利用?「はね出し石垣」を採用?全国初の「井戸のある地下 室」を二つ発見。現存する建物の遺構はない。石垣が見応えある。 スタンプは人吉城歴史館にある。極めて良好。 |
鹿児島城 2019年10月27日 | 88城目。 今回の城巡りで一番楽しみにしていた鹿児島城。しかし、「鶴丸城 御桜門再建工事中」で遺構の敷地内は立ち入り禁止になっていた。 残念だ。城山近くに西郷隆盛翁が自決した場所があった。仕方なく 外堀と石垣の一部を見学。鹿児島城は島津家久が107mの城山東麓に 築いた平城。1601年に築城開始、その10年後に完成した城山を背後 に置き、中世以来の館造りを踏襲した城構えであった。御桜門以外 に天守も櫓もなかった。これは戦国期に領内に設置された外城(支 城)が外敵の侵入を防ぐことで、本城を要塞化する必要がなかった ためとされる。1696に焼失。1707年に再建されたが、明治6年再び 焼失。現存する石垣や水堀が往時の姿を伝えていた。敷地内黎明館 総合案内にスタンプはあった。良好でした。 |
盛岡城 2020年11月7日 | 89城目 40年をかけて南部信直・利直親子が築いた東北では珍しい総石垣の城で、 盛岡産の花崗岩が特徴だ。東北の石垣造りの名城として会津若松城、白川 小峰城と共に三大名城の一つに数えられマニアは堪らない お城址だ。紅葉を楽しみながら城跡と石垣を心行くまで堪能した。 |
根城 2020年11月8日 | 90城目 復元された主殿、鍛冶工房、板蔵、上・中馬屋などは正確に復元され ていて観て面白い。根城は、中世の城が復原された初の事例として 脚光を浴びる。多賀城、吉野ヶ里など100名城の中には戦国時代前に 築かれたユニークなお城があり、観る人を楽しませる工夫がある。 |
弘前城 2020年11月9日 | 91城目 1611年に津軽信枚が五重の天守築城。落雷で焼失後、1810年に本丸の 辰巳櫓を三重に改築して天守代用とした。関東・東北で唯一の現存天守 として貴重である。雪対策で天守を銅板で覆われている。天守の階段は 急な階段で怖い。紅葉が美しいお城であった。 |
久保田城 2020年11月9日 | 92城目 清和源氏の流れを組む由緒ある大名の城にしては、久保田城は質素 なつくりで、天守や三重の櫓がないのは偏に徳川家の反感を買わな いよう配慮しためという俗説がある。石垣が殆ど用いられないのは、 佐竹氏が石垣普請に精通せず、代わりに土塁普請を得意としていた ことによる。紅葉が綺麗なお城でもある。 |
明石城 2022年11月19日 | 93城目 二代将軍秀忠が西側諸大名に対する監視と備えのために、小笠原忠政に築城を 命じ、一国一城令で廃城になった用材、伏見城から移築した櫓などを流用して 僅か一年で完成したという。 見どころは(1)坤櫓(2)巽櫓(3)両櫓を結ぶ土塀(4)天守台でしょう か。スタンプは明石公園サービスセンターにあり良好でした。 帰りに近くの「魚の棚商店街」で明石名物「明石焼き」を美味しくいただき ました。 |
竹田城 2022年11月20日 | 94城目 規模は南北400m、東西約100m、標高353mの強固な山城だ。90分かけて すべてをハイキングで走破。山頂に巡らされた壮大な石垣群は圧巻だ。 最高所に備えられた天守台は360度見晴らしがきき、素晴らしい眺だった。 春は桜の名所でもあるようだ。「天空の城」で有名な竹田城を雲海が覆う 光景を観るため、6時に立雲峡で日の出と共に雲海に覆われる竹田城を 待っていたが、完全とは言えないが、半分は雲海に浮かぶお城を観ること が出来ました。スタンプは売店脇にあり良好でした。 |
篠山城 2022年11月20日 | 95城目 1609年徳川家康が西国諸大名の監視と備えのため、池田輝政と藤堂高虎に 総普請奉行、縄張り奉行に命じ、西日本の15ヵ国20諸侯の大名に命じた 天下普請のお城だ。明石城と同様、天守台は造ったが天守閣は設けなか った。明治維新で大書院、石垣、堀、馬出をなど除いて総て取り壊された。 1944年に火事で焼失された大書院は2000年に復元された。外観は二条城に 似ているようだ。スタンプは大書院館内にあり良好でした。 |