ID | 11128 |
名前 | TAKU |
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登城マップ |
小田原城 2017年10月30日 | 23小田原市 信仰は自由なり。 信仰の勧誘活発なところで四度も声かけられた。(勧誘デーだったのかも) 小田原藩での百姓一揆はあまりなかったのでは。北条五代は農民に悪政行わなかったか。 「御用米曲輪」も発掘された。 二宮金次郎の出身地はここだった。天保大飢餓に大久保公藩主命で尊徳翁が城内の米蔵開き 小田原11万石城内から餓死者出さなかったという。その時の米蔵の礎石が 報徳二宮神社の拝殿礎石。 横浜「三渓園」にも足延ばす。個人が 殿さまの別荘「臨春閣」など保存 観光可。秀吉好みの唐破風の門も。 ![]() ![]() ![]() |
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掛川城 2018年4月6日 | 42掛川市 「天守への階段が急なので足元が危ない方はお控えください」いえいえ可愛い階段 城巡りはこれくらい何てこと無いのです。 城主代表は山内一豊。何といっても天守創造。 豊臣秀吉の全国平定後 天正18年1590年秀吉配下の大名一豊は黒塗りの廻縁高欄天守造る(お手本は大坂城か)。しかし 安政元年1854年東海大地震で取壊された。 平成6年 一豊の移封先高知城参考に 木造三重四階の望楼天守よみがえる。市民の熱意と努力で再建 たいそう懐深き女性がいた。 これで城郭御殿の値打ちがぐんと上がる。京都二条城と並ぶ現存御殿です。 ![]() ![]() ![]() |
郡上八幡城 2019年3月11日 | 141郡上市![]() ![]() |
津山城 2019年4月6日 | 67 どっしりとした森忠政公座像(織田信長の側小姓森蘭丸の弟)。 六男兄弟の末っ子。やはりいつの時代も末っ子は生き延びる。 応仁の乱後 山名氏の城廃城 その跡へ築。 豪壮な城郭で幕府に睨まれなかったでしょうか。森家は跡継ぎなく四代まで 松平家は九代 明治維新迎える。日本さくら名所百選の観光地。桜に浮かれ一二三石段踏み外さないように。 ![]() ![]() ![]() |
松前城 2019年4月29日 | 3松前町![]() ![]() ![]() |
新府城 2019年12月18日 | 127 ガイドブックではJR中央本線「新府駅」徒歩5分だがそうでもない。韋駄天なら5分。 我々凡人は左右の風景楽しみながら15分かな。 武田勝頼の新御館 集体制の砦は無念残る。 地元小学校の児童が遠足で訪れるとのこと。 次世代が未来に繋げてくれる。 スタンプは「韮崎市民俗資料館」(ここ新府城跡からは出直すことになります) 大河ドラマ「真田丸」関連。 民俗資料館内に御朱印駕篭(将軍よりの朱印状運ぶ)土偶など展示 無料入場。 ![]() ![]() |
松山城 2020年5月21日 | 81松山市 「登り石垣」のつもりがロープウェイになってしまった。 城内曲がるたびに方向音痴 本丸は遠いよ。天守の原型野原(騎馬)櫓も現存。 鉄壁の城は 関ヶ原の功 20万石で加藤嘉明が道後平野の勝山に初代藩主として築。 五重天守完成直前 会津40万石に転封。 その後天守は三重に。8代将軍徳川吉宗の孫の頃(天明4年1784年)元旦に落雷で天守焼失。幕府に遠慮して再建せずかと思いきや 安政元年1854年再建。これが後に現存12天守の冠となる。松平家強し。なるほど瓦も三つ葉の葵紋入り。 関ヶ原の功は世界遺産姫路城と肩並べる(賤ヶ岳の功もあり 秀吉七本槍の名手でもある)。秀吉・家康に仕えこれだけの名城残せた あっぱれ加藤嘉明。国宝だめかな。 ![]() ![]() ![]() |
根室半島チャシ跡群 2020年9月15日 | 1 根室市 ガイドの方に先導いただく。 「ノッカマフ」は自然な地形 アイヌ集落あったかも。「クナシリ・メナシの戦」終焉の地(供養が今でも行われているそう 今年はコロナでダメかな)。ここでも戦あった。 「ヲンネモト」は人工的で大きい湾。今は漁港で生活の場。 北見市「ところ遺跡の森」にも小さく可愛いチャシあった。教えてもらわないと見逃してしまう。 ![]() ![]() ![]() |
会津若松城 2020年10月23日 | 12会津若松市 蒲生氏郷の堅固な石垣迫る 松坂城でも似たような石垣あったっけ。 秀吉家臣の加藤嘉明(賤ケ岳七本槍)なら親子で後世に残る天守も城下町もつくろう。武士の世界終焉し 平和な時代に全国から観光客訪れ 喜んでくれるとは思いもしなかっただろう。そして「日本百名城巡り」。 命と財産守るための砦。 伊予松山城も名城です。 築城名手の武将たちが歴代城主。そりゃ 戊辰戦争に屈しても城は落城せず。 保科氏 高遠城でもお見かけした。 ![]() ![]() ![]() |
熊本城 2020年11月2日 | 92 桜の馬場城彩苑に駐車。 二の丸広場・戌亥櫓・加藤神社(宇土櫓と天守遠望)・二の丸広場より帰る。 あまり見学できなかったが 歴史に触れる楽しみが大。 加藤清正公・忠広公親子で二代 細川家が十一代。 加藤神社に文禄の役記念「清正公旗立石」(名護屋城跡から) そして嫡男「忠広公ゆかりの松」。忠広公は清正公亡くなられ その後 出羽庄内丸岡藩酒井忠勝お預かりの身 それも54万石から1万石で丸岡館へ。親には長生きしてほしいもの。しかし海外遠征などで苦労したのかも。 宿へ帰り 再度 坪井川・行幸橋から貴重な長塀(242m) 備前堀へ。清正公像の後ろに見えるは馬具櫓か。戸袋型の田子櫓見えない。部屋からはライトアップされた城見える。 翌朝は厩橋から城稲荷神社へ。難攻不落の城は朝昼夕と廻ろう。 竹の丸から飯田丸へは 6度も枡形折れの洗礼受ける。リーダーは清正公(せいしょこ)だが当時の裏方エンジニアや民たちの気持も伝わる。今は天下の名城を復興へと繋げるリレー やがて城内見学もできる。 ![]() ![]() ![]() |
白河小峰城 2020年11月4日 | 13白河市![]() ![]() |
多賀城 2020年11月21日 | ![]() 「むつのくの おくゆかしくそ おもほゆる つほのいしふみ そとのはまかせ」山家集・西行法師。 桜法師だと思いきや 宮城漫遊されていました。 多賀城碑(壷碑) 南門近く 覆屋に守られている。日本遺産としても守る。 |
佐柿国吉城 2021年2月25日 | 139 美浜町 若狭国吉城歴史資料館へ問い合わせたら各種パンフ送付頂いた。行かねばなるまい。 この時期は明智光秀公 雌伏の地・飛躍の地のキャッチフレーズ。(福井には一乗谷朝倉氏遺跡・丸岡城・越前大野城・国吉城址・金ケ崎城址・北の庄城址など) 登城口付近で下城する女性たちをお見掛けした。地元の方?散策かな。 城主居館跡だけでなく 段々に 家臣も居住していた。石垣残る。 伝二の丸跡・本丸・郭群。季節にはシャガも群生する。 五つの曲輪が串団子状の連郭曲輪群。本丸虎口の鏡石。門礎石大石。若狭湾や佐柿城下町遠望できる。 「敦賀」駅乗り換えタイム。金ケ崎城址幟もあったが 生徒さん達が先輩に贈るカラフルな傘展示。何かこういう映画あったのでは?電車の中で想い出せた。「シェルブールの雨傘」カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作品。フランスの港町シェルブール。城郭と懐かしき映画の一日。 ![]() ![]() |
千早城 2021年3月13日 | ![]() アクセスは南海電車(難波駅)とバスで。気楽に行くがバス内は殆ど登山姿の男女。 パンフ無く スタンプ置き場に案内図があった。天守石垣櫓の楽しみに出会えなさそう。 2022.9月 今 詳しいパンフに巡り合えた。 朝日新聞連載小説 今村翔吾「人よ、花よ、」楠木正成(まさしげ)の子 多聞丸が登場。 正成公の妻が 子に 父親や千早城の戦を語っている。 少年から若者 大人へどのように成長していくか。新たな「太平記」。 物語はわかりやすく明日の朝刊が楽しみ。 |
小倉城 2021年3月26日 | 181北九州市 エレベーターで登り地上眺める。ここからが落ち着く。 大阪城もエレベーターがあった。天守階段が苦になる年齢層もあり最近リニューアルにはつきもの。観光にも力いれている。 陸海の交通要衝 九州各地への街道起点で戦に巻き込まれた。当然被害受ける。 幕末期 長州攻めの幕府拠点 1866年自ら城に火を放ち戦線後退。1877年西南戦争乃木希典が出征。 小倉迄来ると さあ帰りの支度 博多駅の新幹線乗り遅れないように。博多駅までが混雑するのです 天守階段に息切れしなかったが交通停滞に心臓ドキドキ。座席に座り一息 土産は日本製鉄缶ネジチョコ。 ![]() ![]() |
久保田城 2021年5月13日 | 9秋田市 源氏の名門佐竹義宣公から始まり 銅像は第12代最後の藩主義堯(よしたか)公 戊辰戦争では新政府軍側へ。この地まで戦があった。 寄贈された茶室「宣庵」うっかり見逃した。心残り。舟形の「手水鉢」石田三成の計らいで佐竹東家に贈られた(なんでも 加藤清正が文禄の役で日本に持ち帰り 大阪城にあったとか) 石垣もありました。全て土塁城ではなかった。 秋田の「秋」長久の「千」組み合わせた千秋公園 やはり地元のネーミングも欠かせませんね。 ![]() ![]() ![]() |
五稜郭 2021年5月16日 | 2函館市 船にはなるべく乗りたくないが。 桜散りかけ 北海道は標準語と聞いていたがガイドさんは訛りあり言葉わかりづらい。ガイドさんの説明で大きく印象かわる 大事なのですよ。江戸幕府が函館奉行所防備のために 西洋式土塁城築 地元スター武将の熱弁も揮えない。石垣の跳ねだし 水堀 伊予の武田像なでる。 この時代明治(元年)に戦があった。旧幕府脱走軍と新政府軍「函館戦争」。異国防衛のための城が内戦の乱舞台 奉行所鐘楼が艦砲の的(天守がわりになったのか) 戊辰戦争終焉の地。 ![]() ![]() ![]() |
徳島城 2021年6月1日 | 76徳島市 天守なくとも「美の石」がある。 緑泥片岩 雨に濡れれば更に美しさ増す。梅雨にもよく似合う。 (2022.4/13.この緑泥片岩が忍者の手裏剣だったそう 八王子城で発見とテレビで知る。美だけでなく実戦にも威力発揮。寺の墓石を利用したとか。) 阿波踊りも楽しい 今年の踊りが終わったら直ぐ予約しないと宿がとれない。 ![]() ![]() ![]() |
備中高松城 2021年6月2日 | 171岡山市 梅雨のころ 低湿地の沼城に羽柴秀吉方の軍師が類まれな奇策。 秀吉3万の備中攻めに清水宗治公が必死にもちこたえていたが。 急いだ秀吉に 毛利方の同じく軍師 安国寺の恵瓊(えけい)が講和に応じた。幕引きとして戦には外交僧がいるようだ。 最上稲荷に秀吉が本陣おいた。 こういう時たいていはご本尊を避難させる。おかげで 今 日本三大稲荷(伏見・豊川・最上)に参拝者訪れる 仏教の流れくんだ最上さま。 無性にコンコン寿司が食べたくなった 今日は格別美味だろう。 ![]() ![]() |
高知城 2021年6月7日 | 84高知市 日曜市にもと訪れたが 平日でタイミング悪し。 追手門は下見板張り もうここから天守姿現す。望楼四重六階 現存なのも貴重。 掛川5万石から 土佐24万石の山内一豊が入国。一豊は天守高欄(廻廊)にこだわり 令和の今も現存12天守として古式の美を見せてくれる。 一豊は高欄から城下町見渡したが その城下町からある若者も天守見上げたことだろう。そう 坂本龍馬。城内から龍馬出てこず。 せっかくだから 京都伏見・船宿寺田屋の龍馬写真を。 (土佐藩の5土居 山城麓。地域は地域なりに支城体制がある。) ![]() ![]() ![]() |
根城 2021年6月18日 | 5八戸市![]() ![]() ![]() |
新発田城 2021年9月28日 | 31新発田市 雪がとければ気軽に訪れやすい地形。 自衛隊の駐屯地もあった 災害や防犯の点で心強い。 特養二の丸も隣地に。次回訪れても特養はあるだろうか。 ![]() ![]() ![]() |
黒井城 2021年10月16日 | 163丹波市 廃城後 手を加えられていず良好な状態で残る山城。 手のつけられない強者達もいた。 「丹波三大山城」 黒井城(赤井) 八上城(波多野) 八木城(内藤如安 小西行長家臣) 元亀元年1570年織田信長に丹波奥三郡安堵されたが(武田勝頼 石山本願寺 毛利と意を通じ)反旗ひるがえす。 信長命で明智光秀が二度の丹波攻め。 赤松 萩野 赤井直義 堀尾吉春 赤井時直。 山崎の戦後 天正10年1582年 羽柴秀吉軍代で堀尾吉春(豊臣三老中)が入っていた。 ![]() ![]() |
盛岡城 2021年11月5日 | 6![]() ![]() ![]() |
弘前城 2021年11月12日 | 4 弘前市![]() ![]() ![]() |
春日山城 2021年11月18日 | 32上越市 世を治めるには鬼にも蛇にもならなければ が 上杉謙信公は人道的な武将。 この地で生まれ居住し 出陣もお山から お骨もここに埋めた 春日山のビッグボス。 悩みは後継ぎ 生前に決められず。後には妙高市の鮫ヶ尾城まで物語は続きます。 (謙信公のお骨は後に 会津若松城 米沢城 山形米沢藩の「国史跡・上杉家廟所」) 右端の写真は十日町の「星峠の棚田」。大河ドラマ「天地人2009年」のオープニングに出てきましたね。 ![]() ![]() ![]() |
鶴ヶ岡城 2022年4月7日 | 108鶴岡市 今年は酒井家荘内藩400年(1622年初代藩主酒井家三代忠勝公入部) その間お国替えがなかったとか。国替え命がでても領民の猛烈な阻止運動で動かず。 昨年は「国史跡.松ケ岡開墾場」150年。 月山(1984m)ふもとに旧藩士3000忍 いや3000人が刀を鍬に持ち替え桑畑を開墾した。 江戸時代も永遠ならず「戊辰戦争」で大きく世の中変わり 家老菅実秀の開墾プランは大成功。藩士家族共々地元で生き残ら得た。みちのくシルクロード作戦。 本丸跡には主だった遺構残らないが家臣の戦後処理がお見事。 (右の立札写真は鶴岡市庄内映画村を訪れた時のもの。「るろうに剣心」「おくりびと」の撮影地) ![]() ![]() |
八代城 2022年5月11日 | 190八代市 築城400年です。 秀吉も古麓城滞在し ルイスフロイスもその天下人を訪れた。 山城の古麓城→海城の麦島城・小西行長→八代城・細川家。 山あり 海あり 平地あり 何でもこいの「八代城跡群」。 土塁の北条系 馬出の武田系でもなく 天守の織豊系だから400年たっても石垣楽しめた 大天守は落雷焼失ですって。 今は外国から100台の観光バスが一度に押し寄せてくる(城巡りではないです)大型船が港に着くのですね。さあこちらは駐車場確保が大変。(かつて薩摩街道と球磨川水運交わる交易の拠点)。 よく自宅近隣のランチに行くが「八代のトマトです」と出てくる 最近小ぶりにチェンジ。石垣は白い石灰岩 お堀の石垣は柵なく よく足滑らせなかったものだと熊本思い出しながら赤い果実いただく。 ![]() ![]() |
和歌山城 2022年5月15日 | 62和歌山市 ようこそ 紀州へ 昨日のNHK「関西三名城」(姫路城・大阪城・和歌山城)の放送で訪れてみた。 まず県立近代美術館前「徳川吉宗公之像」にご挨拶。朱塗りの追廻門より登城。 西の丸へ 人多い 人群れかき分け覗き込む。 下ぁに 下ぁにと大名行列か 馬上豊かな「八代将軍徳川吉宗公」現る。 (お籠から抜け出て愛馬に跨る表情が実に魅力的) 「和歌祭・400年式年大祭」(初代徳川藩主頼宣が父・家康祀った「紀州東照宮」)の先導 「松平健さん」だ。 江戸時代より武士と庶民が城下町盛り上げた「和歌祭」。 この日のために選び抜かれた見事な白馬 千両役者の松平健さんに夢を見た。沿道5万人も夢見た。お祭りで天守入城は無料。帰途も吉宗公之像にお礼のご挨拶欠かせぬ。 (2023.9.14ニュースで知る。和歌祭保存会が 生ける伝統芸能の博物館として サントリー地域文化賞に選ばれた。貴重な400年式年大祭だった。それにしてもあのグッドタイミングな写真 白馬の松平健さんが目の前) ![]() ![]() ![]() |