ID | 10117 |
名前 | 勝頼の名誉を回復する会 |
コメント | 好きな武将:武田勝頼 東京在住 日本全国ゆっくり巡る |
登城マップ |
能島城 2018年11月14日 | 記念すべき続100名城1城め 続100の中でもかなり特異と思われる城。 今治から尾道までしまなみ海道自転車走破の途中に寄り道。 村上水軍博物館の展示は面白かったが、肝心な城は、博物館の展望室のほか、サイクリングロードや伯方島に渡る橋上から遠望したのみ。 |
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河後森城 2019年1月22日 | 松丸駅で縄張り図を入手し眺めていると、駅の職員の方がすかさず話しかけてくれる。 道順の説明をしてくれた上に、荷物を預かってもらえた。とても親切。 東第三曲輪⇒本郭⇒西第十曲輪(スタンプGET)⇒新城⇒古城 の順に攻城。 遺構は良く残っていて、整備もされている。眺望もすばらしい。 広い城内のどこかに落とし物をしてしまい、翌日再攻城したら奇跡的に発見できた。 |
水城 2019年4月7日 | JR水城駅で降り、駅員に水城館への行き方尋ねると、まさかの「知りません」 「スタンプならここにある」と言われたが、押さずに水城館へ。google先生に道順聞いて、徒歩20分ほど。 水城館は小さな施設だが、大野城、基肄城を含めた城の歴史的背景が良く理解できた。 水城館の脇から展望台に登ると、城?の全貌が見渡せる。 1300年以上前の遺構が現代に残っていることに感心。 |
勝瑞城 2019年10月11日 | 特段の見どころも無く、がっかり100名城ベスト3には入りそうな城。 城主、細川・三好もマイナーな感じで、自分もあまり知識が無い。 ほとんどの攻城者はスタンプだけ押して早々に退出するであろう小さな資料館(発掘現場事務所)に、三好氏の歴史マンガがあるが、これにすっかり見入った。 資料館発足以来、最長滞在時間を記録!? 知識の空白地帯=室町時代のことをもっと知りたくなった。 後日、三好長慶を中心とした三好の歴史を詳しく調べた。とても興味深い内容だった。 これを知らず、歴史通を自認していたとは恥ずかしいかぎり。 以下蛇足 長慶は、勢力絶頂期に3人の弟と嫡男を相次いで失い、後を追うように本人も亡くなる。 長慶亡き後、三好は分裂・弱体化し、信長に取って代わられる。 長慶・弟・嫡男が健在であれば、信長の台頭など許さず、三好による天下統一が実現していたのではないか、と思う。 |
引田城 2019年10月28日 | 讃州井筒屋敷でスタンプGET後、攻城ルートを親切に教えていただく。 手荷物も預かっていただけた。 教わったルートで、引田港側登山口から本丸、天守台、北二の丸を攻略し、大手門経由大手道から下山を試みるも道を失う。 道かどうかもわからない、蜘蛛の巣だらけのひどいルートを苦難の末なんとか下山。 大手道は要注意! 城の遺構もイマイチ。虎口や堀切などの遺構もよくわからず。 |
洲本城 2020年2月11日 | つい先日くぐったばかりの明石海峡大橋を、今度は久々に渡って淡路入り。 淡路文化史料館でスタンプGET、返却式コインロッカーに荷物を預け身軽になっていざ攻城。西の丸⇒本丸とゆっくり2時間弱で攻略。石垣や天守については皆さんのコメントどおり。 淡路文化史料館に戻り館内も見学。洲本城の模型があり、竹田城を彷彿させる。館内は3階まであってそこそこ広いが、個人的に見どころは少ない印象。 その後ここでオススメのあった旧益習館庭園を見学し、夕方の最終バスで徳島へ移動。 100名城選定委員の方が、「各県5城以内」という条件のためやむなくはずした城がある。続100名城でその城を救済した、とコメントしている。 当該城はどこだ?と気にしていたが、それはここ洲本城である、と確信した。 明治初期の稲田騒動により淡路は兵庫県となったが、歴史的には明らかに徳島県。もし稲田騒動が無ければ洲本城は文句なし100名城に選定されていたことだろう。 |
一宮城 2020年3月28日 | いかにも山城らしい遺構が残っており、見応えがあった。 城の攻防を想像しながら、本丸を往復。 第一防御ライン:倉庫跡曲輪 防御力小。偵察防衛レベル 第二防御ライン:才蔵丸・明神丸に挟まれた隘路 防御力大。主たる防衛ライン 第三防御ライン:本丸・明神丸に挟まれた門 防御力中。最終防衛ライン 第四防御ライン:本丸の石垣 防御力中。ここまで寄せられたらもう落城 あいにく午前中の雨で足元が悪く、本丸から先は回避。 徳島からレンタサイクルで往復。片道50分程。ほぼ平坦。バス移動予定で日頃運動不足の方、ご一考を。 |
上ノ国勝山館 2020年10月14日 | まずガイダンス施設で、ビデオやジオラマで城について学習。 次いで夷王山へ。山といってもものの1,2分で山頂へ。絶景が待っている。 そして城跡へ。大手空堀までを往復。 自然の中の良いハイキング。 帰りに開陽丸に寄るが、ギリ閉館時間後。土方歳三 嘆きの松を見て江差を後に。 俄虫温泉泊。 |
高島城 2020年11月16日 | 武田により滅ぼされた諏訪氏が、武田滅亡後、傍系により再興した城。 もちろん我がハンドルネーム諏訪勝頼とも無縁。 車ですぐの場所に、嫡系諏訪氏の本拠上原城と、最後となった桑原城がある。 遺構もそこそこ残っており、歴史好きの方は是非。 ここは、家康6男、松平忠輝改易後の配流所。 弟達は徳川御三家として栄達したのに対し、徳川すら名乗れなかった不遇の身。 この後、忠輝ゆかりの越後高田へ。 |
小倉城 2021年3月21日 | 4年ぶりの攻城。 天守内の展示は4年前も充実していたが、今回一新されており、更に充実したものとなっていた。 ここは幕末、第二次長州征討で歴史の舞台になった城。 九州諸藩を集め圧倒的兵力の幕府軍の拠点となったが、少数の長州軍に惨敗している。 この兵力差で何故負ける? との疑問は、ここの展示内容を見ればだいたいわかる。 小倉藩以外の幕府側諸藩に戦意無く、ろくに戦わず撤兵してしまう。 唯一懸命に戦った小倉藩の装備は旧式で、最新装備の長州に歯が立たず。 といったところか。 |
土浦城 2021年3月31日 | 桜満開の土浦城へ。 土浦市立博物館は、東櫓の入場、駐車料金を兼ねてわずか105円。 来るまで知らなかったが、 ここの城主土屋氏とは、武田家滅亡時、多くの家臣が離反・逃亡する中、勝頼に最後まで付き従い殉じた忠臣「片手千人斬り」土屋昌恒の子孫。 後に家康が忠臣の遺児を見出して取り立てたという。冥府の勝頼も喜んでいることだろう。 前日100名山筑波山登頂。攻城前に予科練平和記念館見学。日頃の悩みがいかに小さいことか思い知らされる展示内容。 零戦21型や最新10式戦車が見れた。 |
中津城 2021年6月5日 | 約5年ぶり再訪。 5年前には無かった新施設、中津市歴史博物館で石垣シアターなど見学後天守へ。 ここは2014年大河ドラマ以降、官兵衛の城として有名になったと思うが、展示内容は江戸中期から城主となった奥平関係が多い。そもそも天守施設の名称は奥平家歴史資料館。 官兵衛関係の展示は、天守横にある小さな施設、黒田官兵衛資料館へ。 勝頼痛恨の一事、長篠合戦の原因と結果に大きく関与し、結果として武田を滅亡させたと言える奥平氏。 天守内にその長篠合戦屏風が展示されている。 勝頼にまつわる城は意外に多い。 |
基肄城 2022年5月17日 | 基山駅から徒歩で町民会館へ。 城マップが欲しかったが、頂けたのは水門までの道順のみ。 職員の方に城マップの有無を聞いても、ない、の一言で終わり。残念な塩対応。 水門到着し、まずは山頂を目指そうにも、行き方がわからずしばし立ち往生。 そこへ人が通りかかり声をかけると、なんとボランティアガイドの方だった。 そのままボランティアガイドの方の案内で2時間ほどゆっくり城内を巡った。 町民会館での塩対応の話をすると、今度町長に改善するよう言っておく、との力強いお言葉。最後は水門から最寄り駅まで車で送っていただいた。感謝。 日頃はツアー客の対応が多いが、個人客の対応も歓迎とのこと。 「基肄かたろう会」で検索。 翌日、同じ朝鮮式城郭の対馬金田城へ。 |
金田城 2022年5月18日 | 正続200名城のラスボス、金田城へ。 博多港から夜行フェリーで上陸。 0時発5時着だが、 出港前23時までは博多港の温泉でまったり。 到着後は7時まで船内で休める。 厳原でレンタサイクルを借りて出発。 途中美津島文化会館に立ち寄り、2種類の城マップをGET。 まだ営業時間前だったが、入り口付近をうろついていたら開けてくれた神対応に感謝。 約2時間で登山口へ。 緊急速報! 登山口にトイレあり! まずは軍道で山頂へ。絶景を堪能。 城内一周ルートは難路かつ単独行動であったため自重し、東屋分岐点まで戻り、ビングシ門、二ノ城戸、一ノ城戸、三ノ城戸と巡る。 途中休憩含め4時間弱。 コース・標識はよく整備され、マップも分かり易く、迷うことは無い。 大野城など他の朝鮮式城郭はほぼ土塁で囲んでいるのに対し、ここはほぼ石塁で囲んでおり、まさにミニ「万里の長城」と言える素晴らしい遺構。 厳原に戻り、ふれあい処つしまでスタンプと御城印をGET。 翌日、清水山城へ連日の登山。こちらの遺構も見事。 夕刻のフェリーで博多港へ。ラスボス退治の旅、無事帰還。 |
品川台場 2022年7月12日 | JR田町駅よりレインボーブリッジを徒歩で渡り攻略。第3台場まで約40分ほどのウォーキング。 台場は幕末に11基計画され、6基完成。うち2基現存(第3、第6台場)。 行けるのは第3のみ。第6はレインボーブリッジ(南ルート)から良く見える。 第3台場は結構広く、東京ドームが1つそのまま入りそうな大きさ。 時代背景や構造、大きさなど五稜郭に近い印象も、知名度は天地の差。 スタンプはマリンハウス1F。公園管理事務所から移転しているので注意。 奮発してそのままヒルトンお台場のクラブフロアに宿泊。 というか、ヒルトンが先で、台場が後付け。 部屋の窓から台場とレインボーブリッジが良く見えた。 |
大和郡山城 2022年9月4日 | JR郡山駅から最短ルートで徒歩10分少々。以外に近い。 柳沢文庫では各種展示をしているようだが、攻城日は休館日。要事前確認。 天守台からの景色は良かったが、とても暑い日で早々に番屋カフェに避難、抹茶かき氷をいただき涼む。 追手門を通り攻城終了。 大阪滞在中、暇を持て余し奈良遠征。大阪に戻り、あいりん地区の星野リゾートへ。 |
岸和田城 2022年9月7日 | 6年ぶりの攻城。 前回は、ボランティアガイドの方に、城・五風荘・だんじり会館とマンツーマンで案内していただいた。 今回はスタンプ目当てで城のみ。 模擬天守ではあるが、写真映え良し。 南海岸和田駅から徒歩。駅前の観光案内所が親切。 帰りは蛸地蔵駅より関空経由で帰京。 城主の岡部氏とは、駿河時代に我が勝頼の家臣。 勝頼滅亡まで家康と戦った後の臣従だが、徳川譜代扱い。 |
沼田城 2022年9月14日 | 遺構は大して残っていないが、数々の歴史の舞台となったことで選定されたと思われる城。 しかも天守跡部分などが工事中で立ち入れない状態。生方記念資料館は定休日。 勝頼は長篠で大敗北したものの、ここ上州で攻勢を強め、天正8年、勝頼配下の真田昌幸が沼田城を奪取。 勝頼は上州の大半を支配、甲斐・信濃・駿河・上野4か国の太守となり、長篠の敗北から見事な復活を遂げたかにみえたのだが、、このわずか2年も経たずに滅亡する。。 この前後にも数々の攻防があるが、詳しくは観光案内所の展示へ。 |
座喜味城 2022年9月29日 | 沖縄世界遺産5城の中、規模は最小。城域は10分ほどで見学可能。 忠臣護佐丸の城。 続100もう一方の勝連城・阿麻和利は逆臣とされているが、真相は不明。 勝連での展示に興味があったが、1週間の沖縄旅行にもかかわらず、何故か勝連攻城は次回訪沖へ持越し。 沖縄の城を見て感じるのは、沖縄(琉球)は歴史的に日本ではない、ということ。 明治政府の力による併合の結果で、現代なら大問題も当時はそれが普通。 沖縄が日本で良かった。 |
興国寺城 2023年3月14日 | 1時間ほどの攻城を予想して向かったが、攻城開始ものの5分ほどで終わってしまった。 たったこれだけ? 帰宅後皆さまのコメント見直すと「天守台から大空堀に降りる階段」があるとのこと。 気づかなかったのか、閉鎖されたのか。発掘調査とおぼしき関係者が陣取って立ち入れない個所があったので、そこに階段があったのだろうか。。 翌日、北条早雲こと伊勢新九郎の伊豆乱入後の韮山城へ。どっちが百名城?と疑うほど、はるかに見応えがあった。 後日、付近にある戸倉城も攻略。勝頼滅亡直前に北条から武田に鞍替えした謎の城。 修善寺温泉泊。 |
大内氏館・高嶺城 2023年4月24日 | まずは高嶺城へ。 攻城口は、山口大神宮側と木戸神社側の2カ所。 口コミより、山口大神宮側は避けて木戸神社側とし、木戸神社の先の公園駐車場に車を止め、徒歩で攻城。 公園駐車場は複数個所あり、一番奥の林道直前の駐車場が一番近いが、知らずに手前の駐車場から歩いた。 離合困難な林道を電波塔まで1.5km、その先登山道を0.5km。山頂(主郭)まで全部で約30分強。 翌雨の火曜日、歴史民俗資料館でスタンプ押印も、施設は展示替えで休館。 大路ロビー、十朋亭維新館、菜香亭など軒並み火曜日定休。 やむなく近くの山口博物館見学後、秋芳洞へ。 後日、大内氏館付近を散策し、攻城終了。 大内氏は室町中期、応仁の乱や将軍義稙の時代に中央で活躍。 その後も中国地方の雄として強勢を誇るが、陶のクーデターで事実上終焉。 陶が厳島で敗死後、その傀儡・大内義長が高嶺城築城着手も完成せず毛利へ。 |
鮫ケ尾城 2023年9月26日 | 斐太歴史の里で教わったとおりのルート約1時間で1周。 曲輪、堀切の遺構が良く残っている。 登頂ルートがちょうど草刈り直後で歩き易かったが、暑い日で蚊も多かった。 前日妙高山登頂したが、それ以上に汗をかいた。 謙信死後、養子の景虎と景勝が争った御館の乱。 この内乱で敗れた景虎最後の地だが、この内乱は勝頼滅亡の主要因と言える。 内乱勃発直後に勝頼は両者調停に努めたが、不調に終わる。 内乱で上杉はすっかり弱体化、信長は上杉の脅威が消えやりたい放題。 景虎は北条出身だったことから、武田=北条同盟が手切れ、北条が敵対。 信長、家康、北条の3方面から同時に攻められ勝頼は滅ぶ。 謙信が跡目を定めなかったことが悔やまれる。 |
古宮城 2024年4月22日 | 小ぶりだが見事な縄張りが残存。 城内をぐるぐると2周ほど巡る。 近辺の、川尻城、亀山城も合わせて攻略。 地元奥平氏の元城が川尻城、その後亀山城に移転。 この付近は、元亀・天正年間に武田・徳川争奪の最前線に。 古宮城は、「当代記」に「元亀四年四月、長篠在陣中、作手へも人数を遣有普請」とあり、武田による1573年築城説が有力。(現地看板は1572年築城と記載) 奥平氏はその前年ごろ武田に従属しており、すぐそばに古宮築城の経緯は不明だが、武田は奥平をあまり信用しておらず、亀山城支援のため、という名目で実質監視目的で築城した可能性が考えられる。 結局奥平氏は当主貞能と嫡男貞昌は徳川へ離反(亀山城から脱走)、父と弟は城と共に武田に残り一族の存続を図ったと思われる。 徳川に走った貞昌はその後長篠城主となり、1575年長篠役で籠城を全う。 貞昌は勝頼を滅ぼした張本人とも言え、江戸時代に家名を残す。 一方の父と弟は・・・ 長篠役で勝頼大敗により、付近一帯は徳川領となり戦略価値は低下したよう。 |
高天神城 2024年4月25日 | 搦手門から攻め、まず本丸など東峰を攻略、次いで西峰各曲輪を攻略。 各所に要害感ある。特に西峰堂の尾曲輪の横堀は優れモノ。 西峰見晴台への道は標識無くわかりずらい。かつ行っても空堀はあるが見晴らしは無い。 勝頼の栄光と挫折の詰まった城。 1574年勝頼が攻め奪取。父信玄を越えた城、といわれていたが、近年の研究で1571年の信玄の高天神攻めは無かった、1572年に高天神は一旦信玄が奪取(城主が降伏)とされている。 個人的には、1572年の城主降伏は過大解釈で、城下の通行を見過ごした、程度ではないかと推察する。(その後すぐ徳川に再帰属しているため) 最終的に1581年家康が奪還するが、その際勝頼は後詰めを出せず城兵を見殺しにしたような形となり、信望を失い翌年の滅亡に繋がったと言われている。 勝頼が後詰を出さなかったのは、当時信長と和睦交渉中で強い衝突を避けたため。 元々信長に和睦の意思は無く、真っすぐな人柄の勝頼は信長の謀略に屈した、と言える。 新婚時代以来の再訪。 当時は付き合ってくれた新妻も今は・・ |
臼杵城 2024年5月11日 | NHK日本最強の城に登場直後の訪問。 元々は海上に浮かぶ島だったとのこと。 上臼杵駅から徒歩で、二王座歴史の道など史跡散策しながら観光交流プラザ経由で攻城。 このルートはオススメ。 |
角牟礼城 2024年5月12日 | 由布岳登山+城攻めの旅行計画だったが、天候の関係で両立成らず、由布岳登山優先したため、お城の方はなんとスタンプのみとなってしまった。 要再訪! |
秋田城 2024年6月19日 | 続100選定前、9年ぶりの訪問 前回は地元の人も知らない地味な史跡で、東門付近のみの整備だったと記憶。 今回は立派な歴史資料館、政庁付近など整備が進んでいて、地元の人も知っていた(笑) 古代水洗トイレは、たまたま行き会った方がえらく感心していた。 ダイヤモンドプリンセス号で秋田寄港の際に訪問 |