トップ > メンバーリスト > メンバー情報

メンバー情報

ID9105
名前だいゆう
コメント名古屋市在住です。2019年8月12日に100名城、同年10月14日に続100名城を制覇し、合計200城を達成しました!(内5城はスタンプのみ)今後は、スタンプのみの5城とその他の城を登城します。有益な情報が提供出来れば。
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
根室半島チャシ跡群
2019年8月12日
100名城のオーラス。根室駅前の無料駐車場に止めて隣にある「根室市観光インフォメーションセンター」で最後のスタンプをゲット。100名城達成の感動の余韻を残しながらチャシ跡群へ。見学先として整備されているのは、「ノツカマフ1号・2号チャシ跡」と「ヲンネモトチャシ跡」の2ヶ所。「チャシ」とはアイヌ語で「柵囲い」を意味し、砦、祭祀の場、見張り場など多目的な用途で使われていたとされ、16世紀〜18世紀頃に築城された。ノツカマフ1号チャシ跡は半円形の土豪が2連結しているとのこと、イマイチ良く分からなかったというのが正直なところ。ノツカマフ2号チャシ跡もすぐ近くにある。ノツカマフ1・2号チャシ跡見学後ヲンネモトチャシ跡へ。入口からすぐにチャシ跡に到着。海岸に面した断崖に築かれているのが分かる。断崖に盛り土をして濠で区画して盛り土の頂上に平坦な面を2箇所作り出しているとのこと。頂上にいるよりは横から見た方がそれを確認することが出来る。こうして、「ノツカマフ1・2号チャシ跡→ヲンネモトチャシ跡」の見所を廻って1時間程度であった。
五稜郭
2019年8月9日
志苔館から30分間くらい。五稜郭タワーのチケット売り場でスタンプをゲット。最上階からは五稜郭の全体像、綺麗な星型の形状が確認出来る。五稜郭は日本初の欧州式の稜堡式城郭。1853年の黒船来航により、徳川幕府の鎖国政策が崩れ、伊豆の下田と蝦夷の箱館が開港、箱館の防御と蝦夷地の管理を目的に幕府の命で築城された。城郭内部に入れば、星型から繋がる半月堡が良く分かる。1857年に着工した築造工事は完成したのは1864年。その後、五稜郭は大政奉還の翌年1868年に勃発した戊辰戦争の最後の舞台となる。1869年の箱館総攻撃によって、旧幕府軍は土方歳三などを失い、最終的に榎本武揚らが降伏するに至った。登城した場所から、全く正反対の登城口にも城址碑があった。また、面白いものとしては、「見隠塁」がある。中を見られないようにする土塁で、城内に3か所ある。確かに、この土塁の向こうに奉行所があるが、虎口からは見えない構造になっていた。五稜郭は、タワーに昇り、城内の見所をほぼ全て廻って1時間半程度であった。非常に貴重な欧州式の城郭なので、ゆっくりとその構造、縄張りを見て廻るのが良いと思う。
松前城
2019年8月10日
函館から約100?で2時間弱で到着。大手門跡の駐車場から徒歩1分弱で着いた。1606年に初代藩主であった松前慶広が築城。1849年、松前崇広が外国船の出没に備えて津軽海峡の警備強化を図るため幕府から築城を命ぜられ、1854年に完成。天守閣内部は松前城資料館となっており、スタンプがある。江戸の末期の築城時に三重三階の天守があったため、日本で最後に築城された日本式城郭とのことで名高い。1949年に松前町役場から出火した飛び火により焼失。戦争を乗り越えて残っていただけに、残念。現天守は1961年に再建された復興天守。城内の残る遺物は国の重要文化財でもある本丸御門。復興天守と本丸御門が最大の見所であることは間違いないが、他にも多くの見るべき箇所がある。有料のエリアから外に出れば、二の丸には二重太鼓櫓の跡がある。外堀は二の丸と三の丸の間にあり、三の丸には7基の砲台があった。見逃せないのが本丸の内堀。城内の全ての見所、松前藩屋敷、墓所をセットで廻るなら、1時間半程度。日本最後の旧式城郭、その歴史を楽しめるなかなかの観光地と思う。この後は、松前市から北上し上ノ国勝山館へ向かう。
弘前城
2017年10月3日
秋の東北旅行にて。弘前城は桜で有名も、秋の紅葉も良いらしいが、少し、早かった。弘前城史料館にて、スタンプ。敷地は広大でしっかりと見るなら、時間に余裕を持つべき。現存している12天守のうちの一つだが、登城時は移設されていた。しかし、良く大きいこの天守を解体せずに、動かしたものだ、と感心せずにはいられなかった。
根城
2019年5月1日
浪岡城から昼食を挟んで約3時間弱で八戸市に到着。八戸市博物館でスタンプをゲットし登城開始。築城主の南部師行公の銅像が誇らしげに建っている。根城の築城年は1334年の南北朝時代で、その後、戦国末期までの約300年間、この地の中心であった。登城口には八戸城の東門が建つ。心地良い春風を浴びながら、本丸へ。大きな濠で囲われており有事の際にはこの復元された木橋を破壊して、攻め込まれないようにしていたとされる。本丸は広大で、廃城前の安土桃山時代の状況を再現していると言う。奥御殿も常御殿同様に、建物はない。本丸を30分程度で駆け足で廻り、終了。時間の都合もあり、40分程度の訪問となったが、十分に全体を見廻ることが出来た。城内は綺麗に整備され、説明板もちゃんとあり、忠実に遺物が復元されているので、中世の城を感じて楽しめる場所と思う。これで、100名城の東北地方を制覇し、計97城を踏破。残すは難関の北海道の3つとなった。
盛岡城
2017年10月6日
秋の東北旅行にて。平日の朝に登城とあって、人が居ないのが嬉しい。もりおか歴史文化館にてスタンプ。石垣の壮大さに圧倒される。鳥帽子岩(兜岩)は築城当時に出てきたと言われる大岩で、お守りの象徴とされているようだ。
多賀城
2017年10月10日
秋の東北旅行にて。まずは、国府多賀城駅にてスタンプ。特に遺跡物は残っていないが、歴史を感じる場所。国重文の多賀城碑は必見、762年に作られ、日本三大古碑とのことだ。
仙台城
2017年10月7日
秋の東北旅行も、生憎の雨。仙台城の別名は青葉城、青葉城恋歌の美しい歌声が甦る。仙台城見聞館にて、スタンプ。伊達政宗の居城であり、像が立っている。巽櫓跡から見下ろす仙台の風景に圧巻。公園内にある護国神社にて、空母飛龍の勇姿に感動を覚える。
久保田城
2019年4月30日
鶴岡市から3時間ほどで到着。久保田城は千秋公園として整備されている。久保田城は1603年に佐竹義宣が築城。階段を登って行くと、復元された表門に着く。本丸への玄関口で警備上も重要な門であったとのこと。又、周囲には石垣は無く、土で作り上げた城であると実感出来る。この門を過ぎると、唯一の現存物である御物頭御番所がある。本丸入り口には表門の礎石が展示されている。1880年の大火の前には本丸跡には御殿などの建物があったとされるが、ほぼ全ての建築物が消失してしまった。数分歩けば、御隅櫓に着く。元々、久保田城には8つの櫓があったとされ、北西隅の一番高い場所にあった櫓を復元したもの。正確には2階建てであったが、それに最上階に展望階を加えて3階建てにしたとのこと。1階にてスタンプをゲットし、佐竹氏の歴史を解説したパネル展示を見ながら、最上階へ。流石にその眺望はなかなかだった。御隅櫓を後にして、帯曲輪門跡や裏門跡を見て登城地点に戻り、広大な二の丸を雨の中、少し散策し、終了とした。久保田城は見所を廻って約30分程度であった。小雨だったのでやや駆け足であったが。
山形城
2019年4月29日
白石城から昼食を挟んで1時間半ほどで到着、城址は霞城公園で広大。スタートは二の丸東大手から。すぐに広大な水堀が見える。1356年に羽州探題の斯波兼頼が築城したのが山形城の始まり。1592年に最上義光が大規模に拡張した。東大手門櫓は内部に入れることが出来、発掘状況や復原工事などの資料、説明があるので、是非。スタンプはこの櫓門内部でもゲット出来る。二の丸から本丸へ向かう。途中、路上に石垣の実物や説明版があるのが面白い。本丸へ向かう大手橋と高麗門の一文字門は見事な隅石。本丸には天守は築かれなかった。本丸内部は、現在、発掘調査中である。本丸御殿と一文字櫓門を復元すべく、調査が進められている。一文字櫓の西側で、発掘調査により明らかになったもの。江戸後期の絵図に「御櫓崩れ」との表記があるとのこと、その歴史的事実を目の前にして感動を覚えた。最後に大手橋、一文字門、水堀、石垣、土塀、土塁がよくわかる1枚。非常に綺麗に整備されている。山形城の見所を全て廻る場合は1時間は必要。建築物の遺構はないが石垣や水堀、土塁などが良く残っており縄張りも分かり易かった。案内板があるので理解を深めながら楽しめる城址だ。
二本松城
2017年10月9日
秋の東北旅行で登城。別名は霞ヶ城。月曜日は二本松市歴史資料館が休み、二本松駅内観光案内所歴史資料館にてスタンプ。霞ヶ城公園となっており、駐車場から天守台までは結構、歩く。二本松少年隊の像は戊辰戦争での戦いに挑む姿とその親であり、悲哀を感じる。
会津若松城
2017年10月8日
秋の東北旅行にて。別名は鶴ヶ城と呼ばれ、白く美しい城。スタンプは天守閣内にある売店で。近年に復元された天守があり、石垣は壮大で立派。
白河小峰城
2018年8月26日
JR白河駅からは徒歩で5分程度、ラクチンに到着できる。スタンプは白河駅の観光案内所、城内にある白河集古苑、三重櫓の受付、城内の休憩所と珍しくいろんな場所に設置してあった。震災の影響で入場制限されていたようだが、現在では、一部の制限のみ。お目当ての三重櫓、前御門に加えて、石垣とお堀も必見。城内公園となっており、非常に綺麗に整備されている。暑くなければ、ゆっくり散策が良いだろう。
水戸城
2018年8月25日
水戸駅から徒歩約10分で到着するが、この酷暑ではそれでも厳しい。旧弘道館の受付でスタンプゲット。館内の各所を回る。所要15分程度。弘道館を出て、現在、復元工事中の大手門から、本丸方面へ向かう。教育が盛んだった徳川御三家の水戸家、現在は、ほとんど学校になっている。目的の医薬門は高校の中にある。現在、電車が通っている途中の深い堀は必見だ。これで、関東は全制覇だ。
足利氏館
2017年12月29日
栃木群馬登城の第1弾。東武伊勢崎線の足利市駅から15分くらい。鑁阿寺本堂というお寺でスタンプ。所謂、お城ではないが、周囲を堀で固められている点がそれなのか。
箕輪城
2018年2月16日
群馬埼玉登城の第2弾。鉢形城から向かった。真冬の平日でほとんど人がおらず、最高。スタンプの高崎市役所箕郷支所は少々、辿り着き難い場所のようなので時間注意。現存物はないので、散歩がてらに、という感じなのは、鉢形城と一緒か。
金山城
2017年12月29日
栃木群馬登城の第2弾。足利氏館から向かう。東武伊勢崎線の太田駅から気合の徒歩で約1時間。ガイダンス施設はまさかの年末でお休み。城内の中島記念公園にてスタンプ。山城だけあって、眺望も最高、城内も渋すぎる。苦労して登城した甲斐がある素晴らしい城。
鉢形城
2018年2月16日
群馬埼玉登城第1弾。鉢形城歴史館でスタンプ。真冬の平日とあって、ほとんど人がいなく、最高の登城。非常に整備が良い印象。建物の現存はないので、ゆっくりと散歩がてらが良い感じ。
川越城
2018年2月17日
真冬で強風の中の群馬埼玉登城の最後。川越城と言っても、本丸御殿のみ。御殿内でスタンプ。貴重な建物らしいが。
佐倉城
2017年11月25日
千葉の実家に帰省帰りに登城。佐倉城址公園となっており、広大。公園内にある佐倉城址公園管理センターにてスタンプ。残存物はないが、紅葉が綺麗だった。国立歴史民族博物館があり、時間あれば、丸一日は過ごせそうだ。
江戸城
2018年8月14日
丸の内に勤務経験があったが、当時は興味もなく、今回、初めての登城。お盆休み中とあり、都内も空いていた。北の丸駐車場に車を止めるが、3時間以内で400円とか、この首都東京のど真ん中で嬉しい限り。スタンプは駐車場から少し歩いての北の丸休憩場にてゲット。江戸城については特に語る必要もない。お盆中とあって外国人ばかり。天守台と富士見櫓が見もの。周囲の近代的ビルの中に佇む緑と歴史的建造物のコントラストを楽しみたい。
八王子城
2018年8月15日
小田原城を拠点とする北条氏の支城だが、秀吉軍により僅か1日で落城したと言う。登城した実感として、この広大な山城をたったの1日で!?という感じ。城址近くにある無料の駐車場に止め、まずは無料のガイダンス施設でスタンプし、ビデオや展示物を見てから登城するのが良いであろう。登城口にある管理棟でもスタンプあり。登城は2つあり、まずは御主殿跡がある道へ。最奥にある御主殿の滝まで見ても、往復で30分は掛からないであろう。大変なのは、本丸跡を目指すルート。徒歩40分とのことだが、ぴったり、その通りだった。さらにその奥の詰の城まで行けば、プラス20分だ。全てを見るなら、2時間30分くらいは必要であろう。本丸方面は、非常に厳しい登山道なので、それなりの覚悟と装備で。
小田原城
2018年8月11日
山中城から車で30分くらいで到着。北条早雲以来、北条氏の拠点であったが、秀吉の大軍に囲まれ、開場することになった。駐車場は城周辺に多くあり、苦労せずに登城できる。天守閣1階にてスタンプ。再建物が多く、つくづく、明治の廃城令が残念に思える。
武田氏館
2018年7月22日
猛暑の中、甲府城から武田氏館へ。別名は武田神社。駐車場は無料で2箇所あるが、神社内でスタンプしてもらわないとならない。つい、お守りなどを買わなくてはならない気分になる。スタンプは武田神社宝物殿にて。仕事を選ばないキティーちゃんが出迎えてくれる。宝物殿は武田家ゆかりの品々が展示されており、充実した内容だった。
甲府城
2018年7月22日
朝9時半でも35℃の猛暑の中、登城。舞鶴城公園として整備されている。スタンプは稲荷櫓にてゲット。特に目立つ遺物はないが、17mある石垣と補修のみで可能な限り、原型を留めた石垣類が見もの。天守台から甲府市内が一望。まさに、ここが甲府盆地であることが確認できた。暑いはずだ。
松代城
2018年9月23日
9月最後の3連休に有給休暇を2日取得し、長野新潟5日間11城制覇の旅。2日目は3城の予定の1城目。1560年頃に武田信玄が築城した海津城がその前身だと言われている。信玄はかの川中島の合戦の拠点とした。本丸の見所は、天守台跡(戌亥角櫓)とその石垣だ。北西の石垣は当時の状態を保っていると言う。他には、天守台跡近くの土塁、東不明門、東不明門前橋、復元された搦手口の北不明門などである。松代城自体は大きくはなく、見所各所を回っても20分程度。周辺の真田関連施設なども見れば、1時間くらいか。ただ、ここに来たら、必ず、行った方が良い場所がある。川中島古戦場だ。遠方から来たら、松代城だけだとちょっと物足りない気がするが、真田関連や川中島古戦場など充実した旅を楽しめるだろう。
上田城
2018年9月22日
9月最後の3連休に有給休暇を2日取得し、長野新潟5日間11城制覇の旅。初日は3城の予定で3城目最後。車で小諸城から向かい、40分程度で到着。アクセスは、電車なら長野新幹線 上田駅から徒歩約10分。車は付近に駐車場があるので楽チンだ。現存する櫓は3つ、うち、唯一、本丸西虎口にある西櫓がのみが寛永年間の姿を残している。残念ながら、中には入れない。残りの二つは南北の櫓。明治期に払い下げられたが、市民の努力により、昭和18年から現場所に復元された。その後、平成の世になり、櫓門で繋がれたのが現在の本丸東虎口の姿。有料だが、内部を見学できる。意外と見落とすかもしれないが、貴重なのは二の丸北虎口の石垣だ。陸上競技場が目の前にあるが、そこへ向かう西側の石垣は、築城当時の姿であるとのこと。上田城のある上田公園は結構、広く、博物館までじっくり見るのであれば、1時間半以上は必要だ。真田ブームが未だ残る中、来場者が多いようだが、それが去っても、継続することを願ってやまない。
小諸城
2018年9月22日
9月最後の3連休に有給休暇を2日取得し、長野新潟5日間11城制覇の旅。初日は3城の予定で2城目。龍岡城から向かい、30分程度で到着。アクセスは、電車なら、JR小海線・しなの鉄道 小諸駅から徒歩約3分。車は付近に駐車場があるので、問題は無い。1590年に仙石久秀が城主となって、近代城郭に改修した。現在は本丸跡は、懐古神社となっている。守台は初期の算木積が用いられ、信濃における最も古い石垣とのことだ。天守台跡からの見晴らしは良くないが、2箇所ほど展望台があるので、立ち寄った方が良い。距離も大したことは無い。富士見台からは富士山が見えると言うが、天気も良いのに、見えなかったが。その他に、黒門跡や荒神井戸、小諸領の境界跡、樹齢500年の大欅など見所はたくさんあり、廻っていて楽しい場所だ。懐古園を後にして、鉄道の下をくぐると言う珍しいパターンだが、大手門に向かう。小諸城、懐古園は見所も多いので、ゆっくりじっくり見るなら、1時間半程度、小諸そばを食べれば2時間は必要だ。
松本城
2018年9月25日
9月最後の3連休に有給休暇を2日取得し、長野新潟5日間11城制覇の旅。4日目は松本城のみ。黒色の美しい城。大天守は国宝の五重天守。あまりの美しさに感動。個人的にかなり好きな城。黒門を抜けると、目の前に松本城管理事務所があり、入り口にスタンプ台がある。松本城自体は広くは無いので、全てを隈なく見廻って1時間くらいか。この日は平日にも関わらず、外国人観光客を中心に来場者がまま多かったが、許せる範囲だった。やはり、名城は平日に訪問するに限ると思ったが、悲しいことに、サラリーマンがそうそう、平日に休暇が取れるわけもなく。周辺は駐車場が多いが、人気のある城なので、土日祝日に行く場合は、待ちも覚悟で。
高遠城
2018年7月22日
猛暑の中、最後の高遠城。伊那市立高遠町歴史博物館にてスタンプゲット。玄関外にあるので、入館せずともゲットできる。展示を楽しんだ後、絵島囲屋敷を見学。大奥の風紀の乱れの犠牲になった悲しい話だ。その後、高遠城へ。特に見るべきものもなく、寂れている。桜の名所とあって、夏はシーズンオフのようだ。
新発田城
2018年9月24日
9月最後の3連休に有給休暇を2日取得し、長野新潟5日間11城制覇の旅。3日目は3城の予定で2城目だ。アクセスは電車は、JR新発田駅から徒歩20分。車なら周辺に数か所の無料駐車場があるので気軽に行ける。旧二の丸跡の駐車場に行き着くと、早速、新発田城の見所の一つである三階櫓が目の前に見えてくる。再現ものであるが、当時は天守の扱いで、最上階の3つの鯱は全国的にも珍しいものだと言う。残念なことに、行けば分かるが、この三階櫓の場所は自衛隊の駐屯地となっており、中に入ることは出来ない。良い感じの外堀の周囲を歩きながら、登城口である本丸表門に到着する。1732年に再建されたもので国の重要文化財に指定されており、見所の一つだ。表門にスタンプがある。係りの方に聞けば、出してくれる。重要文化財である旧二の丸隅櫓を見学する。1668年の火災後に再建されたもので、二の丸北部にあったものを現在の位置に移設したものである。現存していると言う点で、その価値は表門とともに高い。明治期にほぼ破壊されてしまったので、城内は大きくはなく、登城して各所を廻っても20分程度で十分。堀や石垣も立派なので、是非、見て頂きたい。
春日山城
2018年9月24日
9月最後の3連休に有給休暇を2日取得し、長野新潟5日間11城制覇の旅。3日目は3城の予定で、朝一の1城目だ。春日山城跡ものがたり館にてスタンプをゲットし、展示物を見学。春日山城に関するビデオも鑑賞し、城主・上杉謙信が祀られている春日山神社に向かう。ここからの登城が一番、楽。もちろん、要所はほぼ見ることが出来る。春日山城は山城ではあるが、登城する道は緩やかであり、きつくはない。数多い見所を見て廻って、約1時間程度であろう。誰もが安全に分り易く、且つ、歩きやすくなるよう整備している点、当時の姿を結構残していると言う歴史的価値など、登城して良かったと思わしめる素晴らしい城と思う。
高岡城
2018年7月16日
酷暑の中での滋賀石川富山巡り。3日目最後の高岡城。無料だが、結構、中身が濃い展示がある高岡市立博物館でスタンプゲット。完全に市民の憩いの公園と化しているが、本丸と二の丸を繋ぐ橋に石垣だけ残っている。暑いので早々に切り上げ、近くにある日本3大大仏の高岡大仏、国宝の瑞龍寺、前田家墓所を見学するのがお勧め。特に、瑞龍寺は歴史を感じる素晴らしい寺だ。猛暑の中での3日で安土、観音寺、金沢、七尾、高岡の5城。疲労困憊で名古屋へ帰った。
七尾城
2018年7月15日
酷暑の中での滋賀石川富山巡り。2日目メインの七尾城。資料館でスタンプゲットし、気を十分に整える。本丸近くの駐車場まで車で行けば、だいぶ楽だが、折角の機会、猛暑ながらも大手道から登城することにした。資料館から本丸までは約40分で到着。途中、案内があるので迷うことはないだろう。苦難の先には、ご褒美としか思えないほどの整然とした石垣と絶景が待っている。
金沢城
2018年7月15日
酷暑の中での滋賀石川富山巡り。2日目は、金沢城から七尾城へ。金沢城は2回目。前日の疲労が抜けるわけもなく、石川門入口案内所でスタンプをゲットし、有料の櫓を見学。中も暑くてどうしょうもない状態に。観光客も多く、早々に七尾城へ。
丸岡城
2018年7月1日
梅雨明け前の猛暑での福井・滋賀巡り。現存天守12城のうちの一つ。駐車場からアクセス良く、猛暑でも大丈夫。霞ヶ城公園管理事務所(券売所)でスタンプ。何といっても木造の重文天守が見どころ。他には、日本一短い手紙の館があり、公募している。ユーモアもあれば、結構、心に滲みる手紙もあり、暑さをしのぐにはもってこいの場所だ。
一乗谷城
2018年7月1日
梅雨明け前の猛暑での福井・滋賀巡り。一乗谷城は数年ぶりの訪問。まずは、復原町並の入り口でスタンプ。武家屋敷跡などを散策し、朝倉義景氏の遺跡へ。広大な屋敷跡の上から眺めると、古の武家屋敷が甦るようだった。
岩村城
2018年7月21日
猛暑の中、名古屋から車で登城。日本三大山城の一つ。岩村歴史資料館からの登城以外に細い道で本丸近くまで行けるので、夏場はその方が良かろう。有名な六段壁に感動。スタンプは岩村歴史資料館にて。女城主ものがたりなど、豊富な展示だ。この後、一気に甲府に向かう。武田攻めだ。
岐阜城
2018年6月24日
梅雨の合間の好天日和も、気温が高く、汗だくの登城に。名古屋から車で1.5時間程度。暑さ厳しく、金華山ロープウェイで登城。岐阜城天守閣に入場しないと、資料館でのスタンプは貰えない。天守からの眺めは長良川が見え、壮大。岐阜公園には信長の居館跡があり、現在も発掘中、金装飾のド派手なものだったらしい。近くに、板垣退助遭難の場所もある。「板垣死すとも、自由は死せず。」だ。
山中城
2018年8月11日
後北条氏が豊臣の軍勢に半日で落とされた土盛の城。山中城を目指せば、案内もわかりやすく、無料の駐車場に到着できる。スタンプは山中城跡売店の外に設置されている。本丸や西の丸があるコースとすり鉢曲輪などがあるコースの2つに分かれる。城内は非常に綺麗に整備され、障子掘りなど、まるでトリッキーなゴルフ場のような雰囲気。石垣のない珍しい城、それはそれで登城の価値あり。
駿府城
2017年11月24日
静岡2城の第2弾。新幹線で静岡駅下車、徒歩10分程度。駿府城公園として整備されている。東御門券売所でスタンプ。残存物はないが、復元された櫓がある。天守台が発掘中でその様子がまじかで見れる。園内にある紅葉山庭園も必見。
掛川城
2017年11月23日
静岡2城の第1弾。名古屋から新幹線で向かう。過去、仕事で何回も来た掛川だが、登城は初めて。徒歩10分弱で到着。階段を登ると、天守御殿があり、そこでスタンプ。復元された天守に登ると、なかなかの景色が眺められる。
犬山城
2018年3月24日
約1年半ぶり、2回目の登城。名古屋から名鉄で犬山遊園下車、徒歩15分くらい。土曜日とあって天守登城は大渋滞、スタンプ押して、散策して帰る。言わずと知れた名城。
名古屋城
2017年11月15日
名古屋市のど真ん中と言って良い場所に聳え立つ名城。東門改札所でスタンプ。城内はたくさんの展示物あり、非常に勉強になる。どの方向から見ても美しく、天守からの眺めも良い。本丸御殿は幻想的な雰囲気。思うところは、空襲での消失が痛ましいことだ。
岡崎城
2017年11月19日
名古屋から名鉄岡崎駅下車、徒歩10分少々で到着。岡崎公園として地元民に愛されているようだ。天守1階にてスタンプ。復興天守は落下防止の網が張られており、少々、興ざめ。
長篠城
2018年6月2日
名古屋から名鉄豊橋駅下車、乗り換えでJR飯田線で長篠城駅下車。電車は面倒だが、無人駅の長篠城駅からは徒歩10分弱程度で到着。長篠城址史跡保存館にてスタンプ。城址自体は大したことないが、保存館は良かった。鳥居強右衛門の忠誠心に心打たれる。帰りの電車時間を要チェックの上、登城されたし。
伊賀上野城
2018年6月17日
梅雨の合間の絶好のお出掛け日和。名古屋から車にて向かう。復興された天守閣は川崎克氏による。城郭周辺は上野公園となっており、急な坂道もなく、登城しやすい。天守入り口にて500円払い、スタンプをゲット。城内は特に印象深いものはないが、城近くの日本有数の高石垣は必見。高所恐怖症の方は要注意だ。
松阪城
2018年3月25日
名古屋から近鉄で松坂駅下車、徒歩で10分ちょっとで到着。松坂市歴史民俗資料館にてスタンプ。松坂公園となっており、春風の心地よさの中、ぶらつく。建物はないが、本丸跡、天守閣跡などがある。石垣は立派。
小谷城
2018年7月1日
梅雨明け前の猛暑での福井・滋賀巡り。浅井長政で有名な山城だ。小谷城戦国歴史資料館で勉強し、スタンプ。自力で登城するか悩んだが、あまりの猛暑で断念。放送記念のでかい兜を撮影。次回、ぜひ、挑戦したい場所だ。
彦根城
2018年7月1日
梅雨明け前の猛暑での福井・滋賀巡りの最後。言わずと知れた現存天守12のうちの一つ。2回目の登城。スタンプは彦根城表門券売所と思っていたが、隣接する開国記念館とのこと。時間もなく、急ぎ、天守へ行き、4時40分くらいに開国記念館へ。まさかの4時30分クローズで焦ったが、エレベーターから中に入ることができ、スタンプゲット。訪問の際には、気を付けて頂きたい。それにしても、天守からの眺めは気持ち良い。
安土城
2018年7月14日
酷暑の中での滋賀石川富山巡り。1日目は、安土城から観音寺城。朝一で安土城郭資料館でスタンプ。安土城の復元ビデオは必見。その後、移動し、苛烈な暑さの中、登城開始。石段を登っていく途中、秀吉邸跡などがある。天守閣跡まではおよそ20分強、何もないがビデオでの復元天守を思い起こす。他に、信長公本廟などあり。とにかく、真夏の登城は厳しかった。この後の観音寺城でその厳しさは最高潮となった。
観音寺城
2018年7月14日
酷暑の中での滋賀石川富山巡り。1日目は、安土城から観音寺城へ。朝一、安土城郭資料館でスタンプ。有料の林道に入り、7、8台程度が止めれる駐車場までは確かに細い道だ。まずは、観音正寺まで石段を登り、約10分ちょっとで到着。すでに大量の汗でビショビショ。寺内にある出口から、まさに獣道を通り、10分弱で本丸跡到着。お目当ての大石垣はさらに、10分ほど険しい石段を下りる。苦難の末到着した大石垣は素晴らしく、景色も良い。ここまで苦労して来たなら、必ず、行くべき。土曜の昼間なのに、人と出会うことなし。少々、不安になるような場所だ。
二条城
2018年7月28日
夏休み9日間の城巡り旅行の初日、1城目。前日金曜日夜に名古屋から滋賀まで移動し、午前に京都入り。城近くの駐車場に止め、すぐに登城。家康の征夷大将軍の祝宴と、慶喜の大政奉還の舞台となった場所だ。スタンプは元離宮二条城事務所にて。見所は国宝の二の丸御殿、豪華絢爛だ。天守台などを散策し、明石城へ移動。京都だけあって、登城者の8割以上が外国人だった。
大阪城
2018年8月4日
夏休み9日間の城巡り旅行の8日目、14城目。猛暑でも土曜日なので、大阪城公園自体は観光客が多い。実際に大阪城への登城は、およそ7割くらいが外国人か。天守閣1階インフォメーションにてスタンプゲット。内部は近代的で平日の空いている時にじっくり学びたいところだ。各種の企画展もやっており、この時は当時の食についてで、面白い内容だった。混んでいるので、ほどほどにし、和歌山城へ向かう。
千早城
2018年8月5日
夏休み9日間の城巡り旅行の9日目の最終日、16城目は千早城だ。食堂の「まつまさ」を目指すが、看板小さくてわからずも、通り過ぎてすぐに駐車場があるので、そこに止め、徒歩数分で「まつまさ」に。スタンプをゲットし、カレーを食し出陣。登城口は2箇所ある。通り過ぎた先の駐車場近くからか、「まつまさ」から。明らかに後者の方が楽なのでそこから登城。まさに、楠木正成の聖地だ。千早神社を詣で、長い城巡りの最後、高取城へ向かう。
竹田城
2018年7月29日
夏休み9日間の城巡り旅行の2日目、4城目。楽しみにしていた竹田城だ。竹田駅近くの無料駐車場に車を止め、まずは、駅舎内の観光案内所にてスタンプをゲット。酷暑の中、登山口から登城開始。苦しみながらも約30分で途中にある料金所に到着、あと残り僅かだ。到達するとそこには、見事な石垣と最高の景色が待っている。現存する天守台からの眺望も素晴らしい。ゆっくりして下山しようと思ったが、雲行きが急変。突然の大雨で山頂は雨宿りできる場所もなく、走って下山することになった。ずぶぬれの服を着替え、鳥取へと向かった。
篠山城
2018年7月29日
夏休み9日間の城巡り旅行の2日目、3城目。前日、明石から篠山へ行き、宿泊。朝一は篠山城だ。市営駐車場に駐車し、徒歩わずかで登城。日曜日というのに、人影はまばらだ。再建された大書院館内でスタンプゲット。ここは何といっても、大迫力の高石垣が見もの。天守台からの見晴らしもまずまず。時間があれば、規模は小さいが周辺の武家屋敷も散策と、とろろご飯を食されたし。
明石城
2018年7月28日
夏休み9日間の城巡り旅行の初日、2城目。明石城は明石公園となっており、市営の駐車場からすぐだが、公園は広大なので、スタンプ場所近くを調べて駐車するのが良い。見所は巽櫓と坤櫓の2つ。元来は4隅に4つの櫓があったが、現存はこの2つのみ。石垣もかなり立派。土曜日の昼過ぎであったが、酷暑もあってか、人は少なかった。明石公園サービスセンター受付でスタンプゲットし、初日は終了となった。
姫路城
2018年8月2日
夏休み9日間の城巡り旅行の6日目、13城目。言わずと知れた世界遺産の日本一と言っても過言ではない名城。付近に広大な駐車場あり、登城は楽ちんだ。登城者は外国人率が高いが、多言語で、天守へきちんと案内されており、すんなりと登城できた。天守改札にてスタンプをゲット。広大な敷地にあるので、入城時間には要注意だ。豆知識としては、播州皿屋敷で有名なお菊の井戸があるので、見逃さないように。シマカに刺された個所からの腫れがひどくなってきており、予定変更。7日目は午前から再度、医者に行き、そのままホテルで過ごすことになった。
赤穂城
2018年8月2日
夏休み9日間の城巡り旅行の6日目、12城目。赤穂市市立博物館に駐車し、同館にてスタンプをゲット。すぐに登城できる。赤穂城自体は復元が多く、あまり見るべきところはないが、天守台跡や庭園、二の丸庭園などがある。だが、何と言っても、忠臣蔵の大石内蔵助であろう。博物館では赤穂浪士の討ち入りの詳細説明があり、城近くにある大石神社がある。赤穂浪士の悲劇を感じる場所であろう。
高取城
2018年8月5日
夏休み9日間の城巡り旅行の9日目の最終日、17城目の最後は高取城だ。スタンプは山麓にある高取町観光案内所「夢創舘」にてゲット。ここからは徒歩だと、往復3時間以上かかるとのこと、高取城道路の終点に数台駐車できるところがあるとのことで、そこを目指すも、最初に遭遇する細い二股の道がそこと思ったが違っており、そこから数Km進んだ簡易トイレがある場所が目印だ。本丸までは10分ちょっとで坂道を登るが、厳しくはない。岩村城・備中松山城とともに日本三大山城且つ日本最強の城といわれるだけの場所だ。到着すると、本丸付近には壮大な石垣が待っている。時間があれば、二の丸や猿岩など周囲を散策すると良かろう。また、道中に出会う「壺阪寺」も見ものだ。実質、8日で17城、全て天守台や本丸まで、しっかりと登城し、充実感はあるものの、この連日の猛暑、本当に厳しい城巡りとなった。
和歌山城
2018年8月4日
夏休み9日間の城巡り旅行の8日目、15城目。城近くの駐車場に止めて、徒歩数分で到着。この日はお祭りで公園は賑わっていたが、登城者はあまり多くなかった。和歌山城天守閣楠門受付にてスタンプゲット。紅葉や桜シーズンで有名な城だ。豆知識として、伏虎城とも言うらしく、伏虎像なるものがあった。どうも、海から見ると虎が伏せているように見えることから、そのように言われていたらしい。写真の1枚目、海からではないが、確かに虎が伏せているように見えるか?
鳥取城
2018年7月30日
夏休み9日間の城巡り旅行の3日目、5城目。鳥取市内にあるが、天守台までの道程は厳しい城だ。スタンプ設置場所である「仁風閣」は月曜休みだが、隣の県立博物館にあるので、心配無用。鳥取城は山麓の山下の丸と山上の丸に大きく分かれ、酷暑の中、山上を目指すなら、それなりの覚悟が必要なくらいしんどい。山下の丸でも天球丸などそれなりに見所はある。山上の丸へは登山道入り口から約30分で到着も、相当、急な遊歩道を登る。到着した時の達成感は天守台到達と鳥取砂丘などが一望できる素晴らしい眺望により満たされるであろう。
松江城
2018年7月30日
夏休み9日間の城巡り旅行の3日目、6城目。鳥取城山上の丸制覇後で少々、お疲れ気味の中での登城。城付近の駐車場に止め、登城開始。約10年ぶりだ。松江城天守内受付でスタンプ。現存12天守の一つで、国宝だけあって本当に素晴らしい。黒い天守は以降の城天守と異なり、実践的な作りとなっており、言うまでもなく格好良い。周囲のお堀も必見。何度も登城したい素晴らしい城だ。
月山富田城
2018年7月31日
夏休み9日間の城巡り旅行の4日目、7城目。連日、朝から35℃超えの中での登城。安来市立歴史資料館に駐車し、すぐに登城できる。スタンプは資料館にあり、休みだったが、玄関に設置されているので、ゲットできた。月山頂上の本丸までは整備された遊歩道にて約30〜40分くらい。途中、目標の頂上が見え、頑張る気になるかならないかは登城者次第。本丸からは登城してきた道がよくわかるのと素晴らしい眺望が楽しめる。また、周囲が山や川で囲まれた山城で、攻めにくいのがよくわかる。一方で、兵糧攻めにより開城せざるを得なかったのも地形によりわかる場所だ。
津和野城
2018年11月3日
100名城の34城目は島根県の津和野城。11月上旬の3日で鳥取島根山口の未踏の城を廻る。アクセスは、電車はJR津和野駅から石見交通バスで5分、徒歩10分でリフト乗り場に着く。車なら、リフト乗り場近くに無料駐車場有り、または、太鼓谷稲荷神社でも駐車可能。神社に駐車し、リフト乗り場に。ここで、スタンプはゲット出来る。津和野城の歴史は古く、元冠に対し、防備を命じられた吉見頼行が、1295年から築城にかかり、約30年の歳月で完成した山城と伝えられる。最高位置である三十間台からの眺望は有名、素晴らしいの一言。眼下の城下町は亀井氏が整備したと言う。今もその風情があるのが凄い。津和野城は山麓の駐車場からの往復で1時間ちょっとくらいで廻れる。その歴史の深さ、石垣の保存状態の良さ、リフトによる登城の便利さ、城下町の景観、そして、てっぺんからの眺望の素晴らしさなど、訪問の価値あり。
津山城
2018年7月31日
夏休み9日間の城巡り旅行の4日目、8城目。津山観光センター駐車場に止め、すぐに登城できるが、連日の疲れもあるのか、結構、きつかった。スタンプは備中櫓受付にて。実はあまり期待していなかったが、備中櫓や天守台も見どころだが、壮大な石垣の凄さに驚くことになる。ハート形の石垣など見ていて飽きない、石垣マニアにとっては良い城ではないだろうか。
備中松山城
2018年8月1日
夏休み9日間の城巡り旅行の5日目、9城目。この日は折り返しの備中松山城と鬼ノ城だ。崖がある狭い道を行くことになるが、係員の方がいて連絡しあって一方だけの通行にしてくれているので、心配は無用。ゆっくり、安全運転すれば問題なく、ふいご峠まで車で行ける。そこからは石段を約10分で到着、スタンプは城の目の前の備中松山城券売所にてゲット。現存する12天守では最も高い場所にある。天守は小さくて可愛いという印象。登山中にある人生の言葉のような札を見ながら登場すれば、厳しさも少しは和らぐかも。
鬼ノ城
2018年8月1日
夏休み9日間の城巡り旅行の5日目、10城目の鬼ノ城、そこまでの道中は確かに狭い道を通るが何とかすれ違うことはできるであろう。時代は一気に変わり、古代の謎の山城で、663年の白村江の戦い以降、唐・新羅に対する防衛のために築かれたとの説。取り敢えず、鬼城山ビジターセンターでスタンプをゲット。トレッキングコースがいくつかあり、何を狂ったか、酷暑の中、一番厳しい周囲約4.5?を2時間で踏破するコースを歩み始める。復元された西門や水門、途中、断崖絶壁をわざわざ見ながら散策。目的の屏風折れの石垣まで約1時間弱、折り返し地点だ。1300年以上も前にこのような山城を作った先人の知恵に驚愕する。コース自体は案内があるので、迷うことはまず無いと思うが、外周コースは2時間は掛かるであろう。ヘトヘトになりながら、再び、ビジターセンターに戻った。道中、すれ違う人はゼロ、休憩中に油断し、得体の知れないアディダス模様の蚊に刺され、残りの日程に支障が出るようなことになってしまった。
岡山城
2018年8月2日
夏休み9日間の城巡り旅行の6日目、11城目。前日、鬼ノ城にて刺されたアディダス模様の蚊はどうやら、ヒトスジシマカなるちょっとヤバい奴で腫れが始まり、朝一、医者に行くことになる。その後、とりあえずは、岡山城に。10年ぶりの登城。隣接の烏城公園駐車場に止め、スタンプは岡山城天守閣入口にて。見所は石垣と天守だが、 石垣は時代と城主の変遷により、積み方が違うのがまじかで見れるのが良い。他にも月見櫓やお堀などが見るべきところだ。痒くてしょうがないが、今日予定の赤穂城、姫路城へ向かう。
福山城
2018年11月10日
11月の3日で大阪岡山広島の未踏の城を廻る。2日目は備中高松城から、福山城へ。アクセスは楽だ。電車なら、JR福山駅から徒歩ですぐ、車なら美術館駐車場など少々高いが城のすぐそばにある。福山城は徳川幕府の譜代大名であった水野勝成が1619年に領主として入城、3年後の1622年に完成し、5重6階の天守閣であった。現在の天守は、昭和41年に鉄筋コンクリートで建造された。スタンプは有料の天守閣内に設置してある。資料は結構、豊富で中身も濃いし、特別展なども開催されている。1873年に廃城、城の建物の多くが取り壊され、1945年の空襲により、国宝であった天守閣と御湯殿も焼失する。他には、いずれも復元であるが、月見櫓、鏡櫓や湯殿などがある。福山城自体はさほど広くは無いので、見て廻っても40分程度。近隣には美術館や県立歴史博物館などもあるので、時間あれば立ち寄りたいところ。
郡山城
2018年11月11日
11月の3日で大阪岡山広島の未踏の城を廻る。最終日の3日目、郡山城だ。アクセスは、バスなら、広島バスセンターから吉田出張所行きで80分ほど、 安芸高田市役所前で下車し、徒歩数分。電車なら、JR芸備線の向原駅からタクシー15分。車は大通院谷公園の駐車場まで車で行けるので、そこからすぐに登城出来る。途中、かの有名な毛利元就公の「三矢の訓(みつやのおしえ)」がある。登城して数分で毛利氏のお墓が見えて来る。元就の孫の毛利輝元も城の整備を行ったが、1591年、広島城を築いてそちらに移った。関ヶ原後の毛利氏の衰退は激しく、領地を失い、広島城と郡山城は福島正則の所領となった。だが、毛利氏が残した曲輪は多く、本丸周辺だけを廻ったが、「厩之壇跡」、「釜屋の壇跡」、「姫の丸壇跡」、「釣井の壇跡」などがある。郡山城は駐車場からの往復でおよそ1時間ちょっとと思われる。毛利氏が築いた巨大山城、盛者必衰とは言え、何か、寂しさを感じる城であった。
広島城
2018年11月4日
11月上旬の3日で鳥取島根山口の未踏の城を廻る。最終日、大内氏館・高嶺城、岩国城と廻り、最後の広島城。アクセスは電車でも良さそうなものだが、若干、広島駅から距離があるので、歩くには少し厳しい。広島駅から電鉄市内線1・2・6番電車で約14分「紙谷町東」下車、北へ徒歩約15分、若しくは、バス「合同庁舎前」から徒歩8分。意外と、広島駅の新幹線口から出ている循環バス「めいぷるーぷ」が便利。広島城の目の前に停車してくれる。車なら、有料だが、広島市中央駐車場が良い。徒歩ですぐだ。1588年、毛利輝元は初めて上洛し、豊臣秀吉に謁見。大坂城、聚楽第を訪れ、その豪壮さを目の当たりにし、新しい城づくりを決意したと言われている。五重五階の大天守に、三重三階の小天守を渡り廊下でつなぐ連結式天守だった。その後、浅野長政が入り明治期まで続く。有料の天守内でスタンプを押印、内部の展示は非常に充実しているので、ゆっくりと時間をかけて廻りたい。最上階からは夕日に映えた眺望が素晴らしかった。
岩国城
2018年11月4日
11月上旬の3日で鳥取島根山口の未踏の城を廻る。最終日の2城目、大内氏館・高嶺城の後の岩国城。電車でのアクセスは、JR岩国駅、または山陽新幹線のJR新岩国駅からバスで約20分、「錦帯橋バスセンター」下車。そこから錦帯橋を渡って、徒歩10分でロープウェイ駅に着く。数分乗れば山上駅、徒歩5分で到着する。岩国城は1608年に初代岩国藩主の吉川広家が、錦川に囲まれた天然の要害の地である横山の山頂に築城した。その後、一国一城令により、7年で取り壊された。また、天守閣近くに発掘復元された天守台跡の石垣があるので、是非、見ておきたい。バスセンターから錦帯橋、ロープウェイ、岩国城の往復で混んでいなければ、1時間単位か。なお、ご参考までに、ロープウェイは通常、15分毎だが、混雑している時は時短運転している。
萩城
2018年11月3日
100名城の35城目は山口県の萩城。11月上旬の3日で鳥取島根山口の未踏の城を廻る。2日日最後の萩城。電車でアクセスは、JR東萩駅から徒歩で20分、または、萩循環まぁーるバスで「萩城跡・指月公園入口」バス停より徒歩3分。車なら、城址目の前に無料の駐車場がある。登城口からは今なお残る石垣と広大な水濠が見えるが、否が応でもスタンプのある料金所も目に入ってくる。萩城自体、ご存知の通り、世界遺産である「明治日本の産業革命遺産」の一つ。萩城は山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸には高さ14.5mの五層の天守閣があったとされるその他の見所としては、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などがあるが、二の丸の土塀跡(銃眼土塀)も見ておきたい。一部は昭和期に復元されたものであるが。また、潮入門跡からは海岸に出れる。夕方はかなりロマンチックなムードになりそうな景観だった。萩城は全体を見て回って30分程度。指月山に登れば、1時間30分くらいか。綺麗に整備された公園は桜の時期は相当美しいようで、ライトアップもされているとのことなので、混むとは思うが、その時期に訪問するのも良いかもしれない。
徳島城
2019年4月12日
徳島城は御殿が置かれた山麓部と本丸などの山城に分かれている平山城。丁度、この時期、夜桜が美しいということで21時過ぎに山麓部を散策。城の鬼門(北東)となる数寄屋橋もライトアップ。大手口の鷲之門もライトアップ。1945年の空襲にて消失、平成になって復元されたもの。水堀と石垣、ライトアップされた桜が美しかった。翌日は本丸がある山に登る。山とは言っても緩やかな整備された登城路を行くので、ツラさは全く無い。徳島城は1586年に蜂須賀家政が築城した。歴代の城主は蜂須賀氏であった。明治期と戦災で遺物は無くなってしまったが、江戸期に天守は東二の丸にあった。現在では天守跡のみが残っている。スタンプは山麓の徳島城博物館にて。徳島城は、山麓部と山頂部の見所を廻り、博物館や御殿庭園などを見れば、2時間程度は必要であろう。非常に良く整備されており、楽しく散策したい城址だ。
高松城
2019年1月14日
100名城の74城目。城址入口に無料の玉藻公園駐車場があり、旭橋と旭門からの登城。高松城は中堀、外堀、内掘に海水を引き込んでおり、日本三大水城の一つ。入城料を払い、スタンプをゲット、すぐに巨石で作られた桝形が確認出来る。豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が築城した。桝形の南側には、現存の艮櫓がある。桜の馬場、桜御門跡を進むと、重要文化財の披雲閣がある。元々は、藩の政庁や藩主の住居であったが、明治期に取り壊され、現在のものは1917年に作られたもの。ここの庭園は国の名勝にもなっている。庭園を抜けると右側に、月見櫓、水手御門、渡櫓の3点セットが現れる。現存している建築物で1676年に完成。水手御門は、この門から直接、海出て行く海城独自のもの。平成期に修復された天守台跡がある。生駒氏時代の天守は3重であったとされるが、松平氏が取り壊し、1670年に小倉城の天守を模したとされる3重5階(3重4階+地下1階)を築造した。高松城はさほど大きくは無いので、全ての見所を廻っても1時間あれば十分であろう。
丸亀城
2019年1月14日
100名城の73城目。車なら、城址周辺に有料駐車場があるし、満車でもコインパーキングがあるので安心だ。現存12天守のうちの1つ。1597年、標高66mの亀山に高松城を本拠地とする生駒親正が、支城として築城した。大手二の門から登城してすぐに、1670年頃に作られたとされる大手一の門がある。櫓門で非常に大きな桝形虎口。櫓内で太鼓を打ち、刻を知らせていたことから、太鼓門とも呼ばれていた。この一の門、二の門ともに、現存物で国の重要文化財。大手一の門からすぐに、見返り坂を登ることになる。見上げると首が痛くなるような高石垣が聳えている。中でも、算木積みの隅角部は美しく、「扇の勾配」と言われる曲線を描く。三の丸から広い二の丸から天守のある本丸へ向かう。現存の三重三階の天守は現存12天守の中では、最もこじんまりとしている。天守内に入り、まずはスタンプをゲット。撮影可なのが嬉しい。他にも、現存物の玄関先御門、番所長屋など見所は多い。丸亀城は広く、見所も多いので、最低でも1時間半から2時間は必要と思う。
今治城
2019年1月13日
100名城の72城目。車なら、城址目の前に有料駐車場がある。この日、河後森城、能島城の続く3城目。能島城からは30分程度で到着、城址前の駐車場に止め、少し周囲を廻る。平城ながら海城で、水堀には海水を引いて来ている。今治城は1602年に、関ヶ原の戦いでの戦功で伊予半国20万石を領した藤堂高虎が瀬戸内海に面した海岸に築いた平城で、1613年頃に完成したとされる。城内には日本初の層塔型の五重天守が存在したと言われるが、天守台が無いので、実在したかは定かでは無いとのことだ。天守閣内にてスタンプをゲット。展示物で勉強しながら、最上階へ。そこからの眺望は夕日に映え、良かった。水堀や縄張りも良く分かる。日本三大水城(今治城、高松城、中津城)とも言われており、水堀の外側に海水口がある。ここから満潮時には海水が堀に入って来る。今治城はゆっくり見廻り、1時間ちょっとであった。現存遺物がほぼ残っていないし、天守が本当にあったのか否かが確認されていないなど、少々残念ではあるが、やはり、この水堀は壮大で、この地域の水軍の基地であったことを感じることが出来た。
湯築城
2019年1月12日
100名城の69城目。電車でのアクセスは、JR松山駅から路面電車で道後公園駅まで約20分。車なら、城址に有料パーキングがある。朝一で松山城に登城、その後、車で数分で到着。スタンプは城址内にある湯築城資料館にて。館員の方の丁寧な説明やビデオを鑑賞し、散策開始。南北朝時代の14世紀中頃に、河野氏が築城したとされる。丘陵部と平地部からなる城郭で、平地には当時の武家屋敷が復元されている。戦国期の1535年、河野通直が二重の堀(内堀、外堀)と土塁を作り、現在の形を完成させる。内堀の土塁がしっかりと残っている。丘陵には展望台があり、そのあたりが本壇であったとされる。高くは無いので、簡単に登ることが出来る。登城から、平地部と丘陵部の散策で40分程度もあれば十分であろう。松山城を見ているがゆえに、物足りなさを感じざるを得ないが、綺麗に整備された公園、地元の方の熱心さは感じられる場所だ。
松山城
2019年1月12日
100名城の68城目。城下からは、ロープウェイ・リフトでの登城も可能だが、徒歩での登城を選択、東雲口登城道から。天守は姫路城などと同じく連立式天守。勿論、現存天守。現在のものは、1784年の落雷によって消失し、70年後の1852年に再建されたもの。天守内部の入口にてスタンプをゲット。帰りは県庁裏登城路がお勧めだ。現地でもあまりPRされていない気がしたが、山麓にある二の丸と山上の本丸を繋ぐ登り石垣はこの道で見れる。日本最大規模とのことなので、見逃さないで欲しい。見所は多過ぎて、書き切れない。大天守、小天守含む21個の重要文化財、壮大な石垣、井戸や土塀、水堀等、全て見るなら、急いでも往復2時間は必要であろう。是非、自分が「攻める」気になって、登城すると面白いと思う。名残惜しみつつ、次はすぐ近くの道後温泉にある湯築城に向かう。
大洲城
2019年1月12日
100名城の70城目。城址前に有料の市民会館駐車場がある。すぐ、高石垣と土塀の上に再建された天守が見えて来る。14世紀前半に伊予国の守護であった宇都宮豊房が築いた地蔵ヶ岳城が起源とされる。天守、高欄櫓、台所櫓が聳えている。秀吉の四国平定後、小早川隆景、藤堂高虎、脇坂安治などが城主となった。近代城郭にしてのは、高虎と言われており、脇坂安治に治世に4重4層の天守が建ったとされる。その天守に至るには、暗がり門という最後で城内最大の櫓門を抜けなくてはならない。天守は1888年まで現存していたが取り壊され、2004年に復元。資料に基づき、伝統工法で復元された初の四重天守。スタンプのある台所櫓は安政の大地震で大破し、その2年後に再建されたもので、国の重要文化財だ。左の高欄櫓も同様に、地震で崩壊し、1859年に再建されたもの、これも重文。忘れてはいけないのが、二の丸にある苧綿櫓(おわたやぐら)。この時は修理中であった。1843年に再建されたもので、国の重要文化財。その他の見所は、これまた、重要文化財である三の丸南隅櫓や下台所などがある。三の丸以外の全ての見所を廻って約40分程度。現存する櫓は貴重。
宇和島城
2019年1月12日
100名城の71城目。車なら、登城口の桑折氏武家長屋門の前に、有料駐車場がある。この日は午前中に松山城、湯築城の2城、午後は大洲城、宇和島城。1596年、築城の名手・藤堂高虎が自身初の居城として改修に着手、1601年に天守が完成した。本丸に侵入する際に通る三の門跡を過ぎると、高石垣の上に天守が見えて来る。高虎が作った天守は3重3階の望楼型。その後、入った伊達宗利が、1676年に現在残る3重3階の層塔型天守へと建替えた。スタンプは天守内にある。天守からの眺望は素晴らしいの一言。宇和島城は山城なので、緩やかな登り道を行くが厳しさは無い。山麓からの往復で1時間くらいだった。小さいが貴重な現存天守をしっかり保存しているのが印象的だった。
高知城
2019年4月14日
2016年の8月に一度、登城したので今回で2回目。高知公園駐車場から山内一豊像を見て追手門から。国宝の碑があるが、これは昭和9年に国宝に定められたもの後の昭和25年の法律で現在は重要文化財となっている。枡形の門から登城。重厚な追手門は1664年に再建されたもので城内に15ある重要文化財の一つだ。この地には、南北朝時代に大高山城という居城があったとされ、1601年に山内一豊が近世城郭に新しく築城した。三の丸には、雨が多いこの地方ならではの特徴的な石樋(いしどい)が見られる。溜まった雨水をここから排出するもので全国的にも珍しいもの。三の丸の高石垣は丸亀城の扇の勾配とまでにはいかないが、圧巻。本丸に木造で現存の天守が聳える。外観4重の望楼型天守、最上階には廻縁高欄がある。別名「咸臨閣」、国の重要文化財。手前がこれも重要文化財である本丸御殿。懐徳館とも言われる。スタンプはこの入口でゲット出来る。この日は雨であったので、やや急ぎながらの登城であったが、見所各所を廻って1時間少々であった。貴重な現存天守の他にも重要文化財が14個もあり、見ていても飽きさせない名城であった。
福岡城
2018年11月26日
100名城の56城目。まずは、国の重要文化財で、南丸に現存する多聞櫓。1607年建造のものを1853年に再建。平櫓は16の小部屋があり、隅には二層の隅櫓を備える。裏御門跡から入り、数分で本丸に到着、壮大な高石垣の天守台が視界に入って来る。福岡城は黒田長政が1601年から7年の歳月を掛けて築城。通説では、天守閣はなく、大中小の各天守台と47の櫓があった。天守閣の存在については、不明なるも、存在すれば、大天守台の規模から5層規模のものと推察されている。最上部からは、福岡市内が一望できる。他では必見は祈念櫓。東北の隅にあり、鬼門を封じるための櫓だと言う。鴻臚館は奈良平安期の外交や交易の施設。まだ見所はあって、まずは伝潮見櫓。城内にあった50近い櫓の一つであるが、近年の調査にて、潮見櫓ではなく、他の不詳の櫓であるとされる。あと二つほど。一つは、下之橋御門。明治期に上部を喪失、平成12年の不審火の後、復原されたもの。最後は黒田如水(官兵衛)隠居地跡。三の丸御鷹屋敷と呼ばれていたこの地で、隠居したと言う。
大野城
2018年11月23日
100名城の51城目。11月末の4日間11城の九州城巡り旅行、初日の1城目。大野城は663年の唐・新羅の連合軍に日本・百済が敗れたいわゆる白村江の戦いの後、連合軍の来襲に対する防御の為に築かれたもので、四王寺山の尾根線を土塁や石垣でで囲んだ古代朝鮮式の山城。百間石垣は地上にあるが、5分ばかり、急な道を行くと壮大な石垣群が見えて来る。また、百間石垣の向かいにある登山道から、北石垣などに向かう。急で足元も良くは無いので、慎重に登るが良い。その後、10分くらい、周囲を散策、北石垣城門跡た建物の楚石などがあった。あまり、案内が出ていない気がしたのと、体調の問題もあり、早々に下山することにした。本来であれば、もっと時間を掛けて歩くような山城だが、見所のみであれば、1時間程度であろう。
名護屋城
2018年11月25日
100名城の54城目。11月末の4日間11城の九州城巡り旅行、3日目の2城目。唐津城から車で約30分ほど。佐賀県立名護屋城博物館でスタンプと展示物を勉強。入館料は無料だが、かなりの規模で内容も充実している。主に、原始から近世の日本と朝鮮の関係、交流史がメインで、全部見るなら、1時間程度は掛かるであろう。登城は城の正面入口の大手口から。緩やかな登りの一直線の道。間もなく三の丸に到着。ここから本丸、二の丸に行くことが出来る。名護屋城は、豊臣秀吉の天下統一後、中国大陸進出の前線基地として、1591年、九州の諸大名に命じて築城された。その本丸は広大さに圧倒される。天守台と多聞櫓跡が必見だ。多聞櫓跡は全長55m、幅8mであったと言う。天守台には巨大な五重天守が建っていた。眺望も素晴らしかった。また、二の丸の西側にある110mの石垣と合坂も必見。(合坂=上り下りしやすくする石段)名護屋城は気軽に登城が出来る名城で、全てを廻るなら、2時間は必要。この後、この日最後の平戸城へ向かう。
吉野ヶ里
2018年11月24日
100名城の52城目。11月末の4日間11城の九州城巡り旅行、2日目の2城目。久留米城から向かい、30分程度で到着。東口の券売機付近にてスタンプをゲット。吉野ケ里は、紀元前5世紀から紀元後3世紀までの弥生時代の環濠集落。大陸から伝来した稲作が盛んになると、水や土地を奪い合う争いが始まり、集落周辺には逆茂木と言われる乱杭を作り、防御したとされる。また、大きな濠を掘り、その土で土塁を作り、土塁の上には木の柵を設けて防御をしていた。「土から成る」=「城」の語源となったとされる。環濠の出入り口や倉庫などの重要な場所、施設を監視する物見櫓の存在も発掘調査で確認されている。見所の一つとしては北内郭。柵に囲まれており、迷路みたいな通路を行く。重要な祭りごとを決める神聖な場所だ。北内郭の内部では重要事項を諮っている様子が、人形で表現されている。吉野ケ里は見所が多いので、施設等の見学もして、隈なく廻ると最低でも1.5時間くらいは必要か。広大な公園をゆっくりと散策しながら、弥生期に思いを馳せて見学するのが良いであろう。この後、この日最後の佐賀城へ向かう。
佐賀城
2018年11月24日
100名城の53城目。11月末の4日間11城の九州城巡り旅行、2日目の3城目。吉野ケ里から数十分で到着。すぐに、国の重要文化財である鯱の門、続櫓が見える。1835年の大火の後、本丸の門として建立されたもので、1838年に完成した。この門は鯱で有名であるが、明治期に入った1874年の佐賀の乱での銃弾痕が残っていることでも知られている。佐賀城は1608年、龍造寺氏の居城であった村中城を、家臣の鍋島直茂・勝茂親子が改修・拡張して築城した。当時は四重五階の天守も建てられた。残念にも消失、現在は天守台が残る。同じく、消失した本丸御殿は平成16年に再建された。十代藩主の鍋島直正が再建した天保期のそれを忠実に再現、現在は佐賀城本丸歴史館となっている。ここの受付にてスタンプをゲット。又、外堀は広大で、たまたま夕日に映えて美しかった。佐賀城は広くはないので、歴史館でじっくり勉強して見所を廻っても1時間程度で十分であろう。城の歴史の中で、江戸期よりも明治維新以降のことが中心になっている気がした。これで、4日間11城の九州城巡り旅行、2日目が終了、この日は佐賀市内に宿泊、翌日は佐賀から唐津、長崎向かう。
平戸城
2018年11月25日
100名城の55城目。11月末の4日間11城の九州城巡り旅行、3日目の最終3城目。名護屋城からは2時間弱と意外と時間が掛かった。緩やかな坂道を登るとすぐに、北虎口門に到着。1704年の築城時の現存遺物だ。当時は、大手門に次いで、堅固な門であったと言う。北虎口門を抜けると、すぐ左手に狸櫓(多聞櫓)がある。これも、当時から現存する遺物。平戸城は、平戸藩主の松浦氏の居城で、1599年に日の岳城として築城。関ヶ原から約90年後の1704年に松浦氏が普請を開始、1718年に完成。天守は無く、1層2階の物見櫓が作られた。現在は、1962年に作られた3層5階の模擬天守がある。スタンプは閣内でゲット出来る。天守閣内には、1707年の築城当時の北虎口門のくぐり戸が展示されているので、お見逃し無く。模擬天守と同時に多くの櫓が再建されている。北地蔵坂櫓、乾櫓、東櫓、懐柔櫓、見奏櫓だ。平戸城は登城も楽で見所は多くは無いので、長くて1時間、駆け足でなら30分程度。これで、4日間11城の九州城巡り旅行、3日目の3城目が終了。計9城を制覇し、予定通りの旅程。翌日、一気に福岡方面へ、福岡城と小倉城の2城だ。
島原城
2019年3月23日
鹿児島城を10時前に出発、12時前に熊本フェリーの乗り場に到着、13時発のオーシャンアローに乗り込んだ。30分後には島原港に到着し、14時から登城開始。城址入口から車で天守前まで行ける。歴史としては、1616年に有馬直純が転封になり、日野江城に松倉重政が入るが、手狭に感じて島原城の築城を開始、1624年に完成した。当時は層塔型の4重5階であったが、現在は5重5階の復元天守で鉄筋コンクリート造。天守の受付でスタンプを押印、5階まで上がると素晴らしい眺望が楽しめる。島原城の見所の一つに西望記念館がある。非常にユニークな作品が展示されているので、是非、訪れたし。松倉氏の2代目である勝家は4万石でも総石垣作りで天守と合計49の櫓を建てた。工事は難航したが、領民を駆り出し多くの死者が出たと言う。そんな中の1637年に、かの有名な島原の乱が起きる。そして、騒乱を招いたとのことで、勝家は斬首、松倉氏は改易され、以降、譜代大名が置かれることになった。島原城では天守、西望記念館、武家屋敷、城周囲の石垣と水堀など見所を廻って2時間掛かった。
熊本城
2019年3月21日
三の丸の駐車場に止め、登城開始。すぐさま、震災の影響に唖然とする。二の丸御門へ向かう登城路、加藤清正時代には大きな櫓門があった。元太鼓櫓の石垣も激しく崩落している。勿論、近くへは立ち入り禁止だ。熊本城は、1607年に加藤清正が築城した城で、本丸には大天守、小天守の2基を備え、多くの曲輪に5階の櫓を計5基も建造した。「第3の天守」と呼ばれる宇土櫓は、1877年の西南戦争でも残り、江戸期から唯一残っている5階櫓で国指定の重要文化財。震災では続櫓が倒壊、内部や石垣も損傷を受けた。この時点では
天守エリアには立ち入りは出来ず。天守を後にして、東側へ向かう。城の周囲を歩くと、その被害の甚大さを何度も感じる。川沿いにある重要文化財である長塀も80mに渡り、倒壊してしまった。この後、桜の馬場城彩苑の総合観光案内所にてスタンプを押印。ここの熊本城ミュージアムわくわく館で、被災映像やVR、被災・復旧プロジェクションマッピングなどを見て、城を後にすることとした。この時点では多くのエリアが立ち入り禁止の状態で、現状見れる箇所を巡り、城彩苑でミュージアムで勉強して約2時間だった。
人吉城
2019年3月22日
八代城から車で30分ほどで到着。人吉城歴史館でスタンプを押印、展示室と地下の遺構などを見学し登城開始。館の周辺は西外曲輪で武家屋敷など跡などがあり、広大。人吉城は鎌倉時代の1189年に源頼朝の命を受けて相良長頼が修築したとされる。大手口には復元された櫓や長塀などがある。本格的な山城として整備されたのは1470年頃。江戸期の相良内蔵助の屋敷から謎の巨大な地下室が発見され公開されている。三の丸には塩蔵や井戸、於津賀社などがあったとされる。二の丸はかつて、本城と言われていて城主の御殿があった。最も高台にある本丸には天守閣は建てられなかった。1862年の火災で城郭と城下の大半が焼失した。見所の一つとして、1862年の火災後に設置された武者返し。これは西洋の技術で、1853年に品川台場で初めて採用され、函館の五稜郭などの西洋式城郭のみで見られるもので旧来の城郭で採用されているのはここのみである。人吉城は歴史館を見学し、西外曲輪と本丸方面など、見所を廻って1時間半から2時間程度。遺物は残ってはいないが、謎の地下室や武者返しの石垣などここでなくてはなかなか見られないものがある貴重な城郭と思う。
大分府内城
2019年2月2日
100名城の76城目。車では、城址周辺の市役所等来庁者専用駐車場が便利。噂のライトアップされた期間限定の仮想天守が遠目に見えて来る。府内城は1597年に福原直高が築城し、竹中重利が改修した。西の丸と山里丸・北の丸を結ぶ屋根がある廊下橋は1995年の再建物。入城すると、左手に野面積の石垣が見えて来る。天守台の跡だ。竹中重利は四層の層塔型天守を作ったが、1743年の火災で焼失し、その後、再建はされなかった。現存建築物は宗門櫓(しゅうもんやぐら)と人質櫓のみ。江戸期の1861年に再建されたもの。スタンプは大手門で24時間可能だ。このくらいの時間だと、最初はスタンプ台が暗くて気が付かなかった。大分府内城は広くないので、30分もあれば十分。
岡城
2019年2月2日
100名城の75城目。車では観覧料徴収所に無料駐車場あり。徴収所でスタンプ、巻物の案内図兼掛け軸、しおりになる登城手形を入手。岡城は、1185年に緒方惟栄が築城したとの伝説がある。100年以上が過ぎ、後醍醐天皇の命で志賀貞朝が城を拡張した。志賀氏は17代、260年に渡り、ここを居城とした。三の丸北側の高石垣は凄過ぎる。危険防止の柵などは無いので、落ちでもしたら、ケガでは済まない。志賀氏の時代の1586年に、島津氏の侵攻を受けるが、ここを死守、それにより岡城は堅城としての名声を馳せることに。本丸の石垣を見ながら本丸へ登城。天守の代用であった三重櫓跡などがある。豊臣秀吉の九州平定後の1594年に中川秀成が入り、敷地内に本丸、二の丸、三の丸、西の丸を配置、高石垣を作り改修をした。岡城は元々、山城であるがゆえ、非常に広大で、全ての見所を廻れば1時間半は必要と思う。現存する建築物は残っていないが、何と言っても壮大な石垣、本丸などの曲輪跡、屋敷跡、門跡が残り、その説明版もちゃんとあること、登城路は楽チンでしっかり整備されていること、城内からの眺望はどこでも素晴らしい。是非、訪れたい名城と言いたい。
飫肥城
2019年2月4日
城址にある無料の駐車場に止め、登城開始。1978年に復元された大手門から。明治期の1870年に取り壊されたもの。飫肥城の建築年は明らかになっていない。1458年に九州制覇を目論む島津氏が力を付けつつある伊東氏の南下に備え、新納忠続を肥後城に入城させた。大手門は空堀で固められている。大手門を過ぎて、取り敢えず、飫肥城歴史資料館に向かい、スタンプをゲット。資料館のすぐそばにある本丸跡地は、現在は、小学校となっている。そこを過ぎ、旧本丸へ。北虎口の薬医門がある。旧本丸には、百年を超す飫肥杉林が凄い。城内にある面白いものとしては、「しあわせ杉」。4本の杉の対角線上の立つと、幸せパワーが貰えると言う。このような迷信みたいなものに興味は無いが、一応、やってはみた。飫肥城は資料館まで見て廻って、往復で45分程度と思う。あまり、遺物が残っていないのが、残念であった。ただ、今回は時間の都合で観光出来なかったが、周囲に城下町があるので、それとセットで見て廻るのが良いと思う。
鹿児島城
2019年3月23日
この日は島原への熊本フェリーに乗船するので、朝早めに登城開始。8時30分に黎明館の駐車場に止め、周囲を歩く。2020年3月に完成すると言う御楼門は工事の真っ最中。黎明館て受付にてスタンプ。外部も内部も立派な建物で、内容もとても充実したものだった。鹿児島城は18代当主の島津家久が1601年から約10年の歳月を掛けて築城した。背後の山城と麓の居館からなる。1696年に焼失、1707年に再建されたが、1873年に再び、本丸が焼失してしまう。そして、1877年の西南戦争の時に二の丸も炎上し、建物は全て焼失してしまった。残念ながら、今となっては、石垣と堀しか残っていない。水堀には草が生え捲っており、少々、残念。鹿児島城の見所は多くは無く、城址の見学だけであれば30分程度。黎明館をどのくらい見るかによってかかる時間は変わるであろう。遺物は無いが残念の一言、広大な水堀と石垣は見ごたえはあるが。
今帰仁城
2019年1月5日
100名城の67城目。100名城、続100名城の沖縄最後。座喜味城から車で1時間半くらいだった思う。城址にある今帰仁グスク交流センターの休憩所にてスタンプをゲットし、登城。今帰仁城は13世紀末に築城されたが、築城主は不明。この頃、琉球はいわゆる「三山鼎立の時代(現在の沖縄本島の北部地域を北山、中部を中山、南部を南山でそれぞれ支配していた。)」であった。登城してすぐに圧倒されるのが、大隅の城壁だ。平郎門と言ういわば正門を通り、このような緩やかな階段を登って行く。大庭と呼ばれる場所を抜けると、主郭に到着。蛇のような城壁を見ることが出来る。また、展望台からは、今帰仁城の城壁を見渡すことが出来る。アーチ状でとても美しかった。ここで雨が激しくなってきたので、名残惜しくも下りることにした。外郭の城壁は非常に長いので、是非、見廻って頂きたい。どしゃ降りの中での登城だったので、30分ほどであったが、くまなく見るのであれば、1時間弱程度であろうと思う。
中城城
2019年1月4日
66城目。管理事務所にて入城料とスタンプをゲット、係りの人がカートで正門近くまで送ってくれる。正門付近では、一ノ郭の高い城壁が見える。発掘物からの推定によれば、14世紀後半に先中城按司が築城したとされる。1400年、護佐丸が王の命により、三の郭と北の郭を増築し、完成させた。正門から入った場所は、西ノ郭。壮大な一ノ郭の石垣に圧倒される。中城城は6個の郭がある連郭式の城。西ノ郭から、一旦、南郭へ戻り、門跡から一ノ郭へ向かう。一ノ郭は郭で最も広い場所である。眺望も素晴らしいので、現地にて是非。一ノ郭を抜けると、二ノ郭。長い城壁の上にも登れる。その高さには驚愕。三ノ郭は相方積みで、護佐丸の時代に築いたとされる。この他にも、大井戸や南北の郭、裏門など見所は多く、逃したくない。時間が圧していたこともあり、少々、駆け足になったが、全ての見所を廻って40分程度だった。
首里城
2019年1月3日
100名城の65城目。登城口はいくつかあるが、壮大な石垣がある久慶門側から。石垣沿いに「園比屋武御獄石門」がある。世界遺産である琉球王国のグスク及び関連遺産群の一つで、勿論、首里城も世界遺産である。歓会門を抜け、瑞泉門へ。首里城は築城時期、築城主ともに定かでは無いが、現在の縄張り等は、尚真王、尚清王の時代とされ、1429年に成立した琉球王国の栄光を伝える。琉球王国明治維新により沖縄県となるまでの間、約450年間にわたり存在した王制国家だ。歓会門と久慶門はアーチ形の通用門で上部に櫓がある。城壁の湾曲が独特だ。瑞泉門から広福門へ。この通用門も本土のそれとはかなりの違いがある。ここを抜けると正殿。正殿は国王らが政治や儀式を行う重要な場所であった。現在のそれは1992年に再建されたものだ。外装、内部ともに煌びやかで、建築技法は、琉球独特のものであると言う。券売所で入場券を購入すれば、正殿内部や北殿等の建物も見学できる。尚、スタンプは複数個所あるが、北殿の売店で押印した。首里城は見所は多く、城内及びその周辺もの関連施設などじっくり全て廻れば、半日くらいは必要。
志苔館
2019年8月9日
北海道の100名城3城、続100名城2城の計5城を巡る旅の初日。ここは駐車場が無いのでまずは登城口を確認の上、駐車出来そうな場所を探してから徒歩で向かった。登城口の奥の方に城址碑と案内板があった。休憩用の小屋があり、スタンプがある。志苔館の正確な築城時期はわかっていないが、松前藩の史書で14世紀の後半〜15世紀の初頭と推定されている。登城口は二重の堀と橋、門があったとされる。志苔館は安東氏が作ったいわゆる「道南十二館」の最東端にある館で、1456年からのコシャマインの戦いにて陥落したとの記述があるとのこと。1512年には同じくアイヌのショヤコウジ兄弟の戦いでも再度、陥落する。主郭は発掘調査の結果、複数の建物跡や井戸跡、柵跡や虎口などが確認されている。主郭内は綺麗に整備されていた。古い城址碑もあるので、是非。城郭の東側にある土塁は、かなりの迫力がある高さ。土塁の上から周囲を見下ろすと縄張りが分り易かった。志苔館はさっと、廻れば最大でも20分ほどと思う。この後、100名城の五稜郭へ向かう。
上ノ国勝山館
2019年8月10日
松前城から国道228号線を50?ほど走って到着。勝山館跡ガイダンスでスタンプを押印し登城開始。勝山館は1470年頃に武田信廣が築城した。16世紀末頃まで武田氏の日本海側での一大拠点であった。発掘調査の結果、様々な発掘物や遺構などが発見された。搦手門を過ぎると、館神八幡宮跡がある。中央の大きな通りの左右に掘立建物跡が並び、その途中には櫓門跡が残る。遠方までを見渡せるベストの場所。両脇には、雨水などを流す溝が作られている。最終的に勝山館は1596年〜1615年頃に廃城なるまでこの地の中心地として栄えていた。実際に、客人をもてなす客殿跡は立派で、城主が使用していたとされる。隣に、城主の居住跡や馬屋、鍛冶場跡なども発掘されている。客殿からすぐのところに大手門があり、その外に出てみる。高い土塁と柵で厳重に守られているのが分かる。さらに、大手側にあるのが二重になっている堀。大手からの侵入はこの2重掘と高い土塁、柵と大手門、その目の前にある櫓門の防御やそれらからの攻撃を突破しなくてはならない。かなり大変であることがとても良く分かった。勝山館はガイダンス施設、城址の見所を往復して1時間30分と思う。
浪岡城
2019年5月1日
秋田県の大館市から向かい途中、青森市中世の館に立ち寄りスタンプをゲット、その後、浪岡城跡案内所の駐車場に止め登城開始。まずは東館に向かう。この時期、桜の名所でもあり非常に美しかった。浪岡城は1460年代、南北朝時代に後醍醐天皇についた北畠親房の子孫である浪岡北畠氏が築城した。1500年代前半には栄えたが、1562年に親族の争いが勃発、勢力が衰え、津軽為信に攻められ落城。北館には大きな建物と小さな建物が複数あった。館内エリアは結構、複雑で迷路のようである。落城後、城跡は畑や水田として使用されていたが、昭和期になり国の指定史跡となった。西館から内館に行く時にある堀は、幅広く長く、しっかりと残っている。内館は浪岡城の中心の場所、城址碑には「北畠古城跡碑」とある。浪岡城は各館跡や堀などを巡って約40分くらいで廻れると思う。非常に平たい場所にあるので簡単に登城できるし、桜の名所でもあるのでGWに訪れたい城址だ。
九戸城
2019年5月2日
二戸市の二戸市埋蔵文化財センターでスタンプを押印し九戸城へ。ガイドハウスで学習した後、登城。九戸城は1492年~1501年頃に九戸光政が築城したとされる。登城路に沿って少し歩き、二の丸大手から行く。築城後、九戸一族は勢力を拡大するも1590年から始まった秀吉の奥羽仕置で落城、これで豊臣秀吉の天下統一となった。本丸は二ノ丸より一段高く土を盛って築かれており、ここから焼けた生活用品や火縄銃の弾丸が出土、明らかに合戦後に整地されたと考えられている。本丸はほぼ100m四方の正方形。九戸城の最大の見所は本丸の石垣。奥州仕置後の1591年に蒲生氏郷が普請により築いたとされる。本丸の南東隅には、隅櫓跡が残る。土塁や堀などの中世の城郭と石垣と櫓跡の近世の城郭の2つを持ち合わせているのが、この城の最も面白いところ。九戸城は見所の全てと外館を廻って1時間弱くらいだった。城内は非常に綺麗に整備され、案内や説明もちゃんとあり、城址の歴史と縄張りや遺物などとても分かり易く好印象であった。これにて、東北地方の続100名城を制覇。
白石城
2019年4月29日
城址前駐車場からすぐに本丸外郭の石垣が見えて来る。ここには2種類の石垣があり、看板付近は石を加工していない野面積み。少し先に進むと、石を加工した打込み接ぎが見られる。これは元々、野面積みであったが、石垣が雨等で崩れ積み直したもの。この地は元々、白石氏が支配していたが、秀吉の奥羽仕置後、蒲生氏が入り城を築城。関ケ原後に伊達氏の所領となり、仙台城の支城とした。城内にある歴史探訪ミュージアムには復元された白石城やシアターなどがあり、勉強になるので是非。大手一の門を抜けると、復元された大手二の門がある。そこからすぐに見えて来るのが、木造の三重三階の天守。スタンプはこの天守内で押印。最上階からの景色も良かった。美しい緑と山々を見渡すことが出来る。天守を後にして、未申櫓跡、裏御門跡を見て、辰巳櫓跡も。最後は厩門跡へ。かつては、厳重に防御を固めていた門。その他、城周辺にある武家屋敷も見もの。白石城は石垣、シアターから、天守、本丸、武家屋敷などを見ておよそ1時間程度であった。
脇本城
2019年4月30日
秋田城から昼食を挟んで1時間半で到着。車で行く場合、交通量の多い道から急に脇道に入るのでご注意を。山麓の駐車場に止めて登城開始。中腹の駐車場まで行くことも出来るが道幅が狭い。緩やかな坂道をゆっくりと歩き、10分ほどで中腹の駐車場に到着。ここにプレハブの脇本城址案内所があるのでスタンプをゲット。内部には無人なれど、パンフや説明がある。脇本城の築城時期や築城者は明らかになってはいない。出土品等から15世紀にはその機能を果たしていたとされる。日本海に突き出るような丘陵にあるのでその眺望は絶景。この城は安東愛季が1577年に大規模な修復を行って居城としたと言われている。竪堀跡、曲輪跡などがハッキリと確認出来、当時の築城技術の高さを窺い知ることが出来る。家臣の居住地であった館群跡が残る。内館の西側には南北250mにも及ぶ土塁が続く。脇本城の見所の中で重要なのが、主郭部と大土塁。最大高さ6mの大土塁は圧巻であった。脇本城は山麓から上がり、内館跡を隅々まで廻って往復で1時間少々だった。非常に整備良く保存され、曲輪や堀、土塁など、山城ならではのものがかなり残っている点に感動した。
秋田城
2019年4月30日
久保田城から30分程度で到着。駐車場からは2方向に分かれる。東門や建物群などがある外郭方面と政庁を中心とした中核部。そして、政庁側にはスタンプや秋田城址についての解説などがある秋田市立秋田城址歴史資料館。見るべきところはこの3つ。秋田城は古代の城柵で、733年、「「出羽柵」が庄内地方から、秋田村高清水岡に遷された」との記載が「続日本紀」にあるのが初出と確認されている。その後は、760年の記録で「阿支太城」と記され、この頃から秋田城と呼ばれるようになったとのこと。門をくぐり、中に入ると、鵜ノ木地区と言うエリアで古代沼や建物跡、古代の水洗トイレなどがある。来た道を駐車場方向へ戻り、そのまま進むと東大路という道がある。ここから政庁へ向かうことになる。政庁入口手前には模型がある。政庁は大きく分けて6期の変遷があることが発掘調査によってわかっている。中に入ると、政庁に。一番大きな建物は正殿。政庁の奥の方から秋田市立秋田城址歴史資料館へ。スタンプをゲットし内部を観覧する。見所を見廻って1時間程度、資料館も隅々まで見るなら、更に1時間は必要。
鶴ヶ岡城
2019年4月29日
白石城、山形城と廻りこの日の最後。近隣の無料駐車場に止めて城址へ向かうと、二の丸の西門跡に。広大な水堀がある。鶴ヶ岡城の前身は、大宝寺城で鎌倉時代の初期にこの地の地頭であった大泉氏が築いたとされる。現在、ここは鶴岡公園となり整備されている。現存する水堀を見ながら、ゆっくりと歩いて行く。城址入口には、大正天皇即位を記念して作られた大寶館がある。1915年に完成したまま原型を留めている。戦国時代に入ると、1588年に上杉景勝が入るが、関ヶ原後に西軍についたが故、大きく減封、米沢城に入る。代わって、山形城を拠点とする最上義光の所領となり、この時に大宝寺城から鶴ヶ岡城に改称された。本丸跡には藩祖であった酒井忠勝を祀る荘内神社が設けられている。この神社の社務所にスタンプが設置されている。本丸御隅櫓跡が残っている。鶴ヶ岡城は城内の散策だけなら、30分もあれば可能。残念なことに、遺物、案内板や説明版はほぼ無いので、この地の歴史的背景などが感じることが出来なかった。
米沢城
2019年4月28日
向羽黒山城からは車で向かうこと2時間半で到着。この時季、桜が美しく、水堀に映える。米沢城は鎌倉時代の1238年頃に長井時広が居館を構えたことが起源とされる。その後、1548年に伊達氏が入る。市街地にある平城なので、平坦な道をゆっくりと桜を鑑賞しながら、登城。1591年に居城していた伊達政宗が岩出山城へ動くと、蒲生氏が入り、城を改修。1598年には上杉氏の重臣であった直江兼続が入城。だが、関ヶ原の戦いにて、上杉景勝は西軍についたため、大きく減封されここに入った。以降、明治維新になるまでの約270年間、上杉氏の居城とした。その中で、江戸中期の名君と言われる上杉鷹山の像も像内にある。かの有名な「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の碑もある。スタンプは城内にある観光案内所にてゲット。30分程度で登城終了。城好きにとっては、あまり見所が無いと言うのが正直なところ。近くにある舘山城はお勧め。
三春城
2019年4月28日
郡山から30分程度で三春市歴史民俗資料館に到着。スタンプをゲットし、城址前にある駐車場に止めて登城開始。秋田氏がここに入城した際の縄張りと現在の状態を重ねた案内図があった。登城路は綺麗に整備されているし、部分的に手摺りもあるのでしんどさはほとんど無いと思う。三春城は1504年に田村義顕が築城したとされる。1590年の豊臣秀吉の奥羽仕置によって改易され、蒲生氏、上杉氏、加藤氏などが一族や重臣を配置していた。蒲生氏の頃に修復されたとされる石垣が残っている。矢倉跡を過ぎれば、二の丸跡が近くなる。途中にあった城址碑と説明版。登城開始して、約3分ほどで二の丸跡に到着。ここの休憩所のバックス内にも、スタンプがあった。かつてはこのあたりに天守代用の三階櫓が建っていた。本丸に城主の居館があったとされる。本丸を後にして、三の門跡、揚土門跡などを見ながら、行きとは違う道を下って行く。三春城は登城路が整備されているので、気軽に登れる山城、早く廻れば20分少々でも可能であろう。もう少し、説明版があると比較的分かり易く登城できるのではないかと思う。
向羽黒山城
2019年4月28日
三春城から車で1時間も掛からずに向羽黒山城整備資料室に到着。入り口でスタンプを押印するが、そこには熊の出没情報の記載あり、重たい気分なるも、登城口に向かった。城址入口の目の前に駐車場が有るのは有り難いが、登城口には「熊出没中」とある。「出没注意」ではなく「出没中」なので「いるってことか!」と思い、リュックとズボンにダブルで鈴をつけてスタート。向羽黒山城は、1561年鎌倉期からこの地の有力大名であった蘆名氏の盛氏が隠居城として築城。登城開始後、急な道を行くが、基本的にちゃんと整備されているので問題は無かろう。10分も掛からずに一の曲輪虎口に到着。岩崎山の山頂であり、標高は408m。あの春日山城を凌ぐと言われる規模はここでも感じることが出来た。行きは古城の道からだったので、違う方向から下り、二の丸方面へ。途中、礎石建物跡が何か所かあった。舗装された道路に出て二の丸跡へ。眺望は素晴らしいの一言。この城は堀がいたるところに残っているのがポイント。山城が好きな方であれば満足できる。さすがは東北随一の山城と言われるだけある。向羽黒山城は一ノ曲輪、二ノ曲輪から三ノ曲輪、北ノ曲輪まで廻って1時間。
笠間城
2018年12月24日
続100名城の45城目。大変な山城ではないが、夏場は少々シンドイと思うので、それなりに対策を。山道を15分ほどで本丸に到着。笠間城の歴史は古く、1235年に完成した。抗争の末、この地を支配した宇都宮氏の一族はその後、笠間氏を名乗る。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、笠間綱家は宗家である宇都宮氏の命に逆らって、北条氏についたことで、後に宇都宮氏勢に攻め込まれ落城、笠間氏は滅亡。代わって宇都宮家家臣の玉生高宗が城主となった。その頃のものと思われる本丸には八幡台櫓跡が残る。その後の1598年に蒲生郷成が笠間城に入り、石垣を含む天守曲輪の造営を行った。登城路の整備や城下町もこの時代に行われ、近世城郭となった。本丸の奥にある天守台跡へ向かう。当時の石垣が辛うじて残っている。山頂には2重の天守があったと絵図にあるが、正式には確認されていない。忘れてはいけないのが、現存する八幡台櫓。笠間城は城址の駐車場からの往復と八幡台櫓までを見廻って、約1時間半くらいと思う。非常に急峻な場所に天守台があり、その周囲の石垣もあったり、登城道も整備されていた。
土浦城
2018年12月24日
続100名城の44城目。博物館の駐車場に止め、登城開始。現在は、亀城公園となり、市民の憩いの場になっているそうだ。1429年~1441年に若泉三郎が築城したとされる。その後の戦国時代に西尾忠照が西櫓を作った。昭和に入っても現存していたが、昭和24年のキティ台風とそもそもの老朽化もあり、翌年に解体、しばらく復元されなかったが、1992年にようやく、再建された。東櫓も西尾忠照が西櫓と同時期に築造した。東櫓の2階から外が見れる。江戸期に入り、1601年、松平信一とその子の信吉が、現在の城のおよその形を作ったとされる。その時に建て替えられたとされる現存する櫓門がこの城の最大の見所だ。1656年、朽木稙綱が城主の時に、現在の太鼓櫓門に改築した。他に現存する遺物としては、東櫓の隣にある城の搦手であった霞門。1684年に松平信興が作った。以降、明治に至るまでの約200年は土屋氏が歴代城主となった。他の見所としては、1862年に作られ現存する旧前川口門や復元された本丸の土塀。また、本丸の周囲を囲む水堀、15m幅で防御力を高めている。土浦城は非常にコンパクトなので、見所を廻って30分程度で十分であろう。
唐沢山城
2018年12月28日
続100名城の51城目。唐沢山の山頂が城址、神社となっている。駐車場からすぐに大手口へ。食違い虎口となっており、その先は升形で武者詰めがあったとされる。唐沢山城は平安時代に藤原秀郷が築城したとされるが、定かでは無い。室町時代に佐野氏の居城となり、16世紀の中頃に現在の状態になったとされる。虎口の先には、築城時から今でも湧き出ているという巨大な大炊の井や幅9mにもなる四ツ目掘りがある。緩やかな大手道をゆっくり登ること10分くらいで、本丸に到着する。現在は唐沢山神社の社殿があり、スタンプはここの社務所でゲット出来る。本丸の南には南城跡がある。そこからの眺望は絶景だった。本丸から二の丸へ向かう時に見えた本丸の高い石垣は織豊時代のものとされる。二の丸は本丸への防御を固めるための曲輪。二の丸の先には、金の丸、お花畑、杉曲輪がある。杉曲輪の堀切を見て、Uターンすることに。夕暮れ時だったので、足早に登城して奥にある杉曲輪までの往復で40分少々だった。城としての遺物は残っていないが、石垣や堀切、曲輪がまずまず残っている。また、城址からの眺めは、登城して後悔はしないであろうと思う。
名胡桃城
2018年12月27日
続100名城の46城目は名胡桃城。案内所のすぐ隣から登城開始。城の碑と解説版がある。城内は見所での解説が充実している。特にイラストは遺構が何も残っていない中でイメージが湧きやすい。名胡桃城は1492年に沼田氏が沼田城の支城として、名胡桃館を作ったのが最初。その後、1579年に武田勝頼の命で真田昌幸が現在の城址に築城した。郭が直線に並んだ「連郭式」の山城だ。馬出から入城すると、三郭があり、その先の二郭へは堀切があり、更に、虎口は食違い虎口と呼ばれる構造で高い防御力を備えている。二郭から本郭に行く。思った以上に小さく、二郭の方がはるかに大きい。本郭の先には搦手のささ郭がある。深い堀切の上の橋を渡る。名胡桃城は案内所に寄って、見所を全て廻って、30分少々くらい。TVの影響で来訪者もまずまずおり、真田を前面に出して、町おこしをしている印象。
沼田城
2018年12月27日
続100名城の47城目は沼田城。現在、沼田公園となっており、また、「天空の城下町 真田の里」と銘打っている。沼田城は1532年に沼田顕泰が築城した。戦国時代にこの地は上杉氏、北条氏、武田氏などの戦国大名が激しく争ったところである。見所の一つとしては、西櫓台の石垣。この時点では工事中であった。近くまで行けるので、是非。高くはないが、あまり遺物が残っていないこの城では貴重だ。本丸奥にある捨曲輪跡からの眺望は、日本100名山の谷川岳が見れる。すでに、雪に覆われていた。丘城の割には十分に良い景色。本丸にあった5層の天守は、1600年頃に真田信幸が作った。現在は神社の脇に天守台跡が残る。その他の見所としては、天狗堂、平八岩、本丸の堀跡、国指定重要文化財である旧生方家住宅などがある。沼田城は広くは無いので、観光案内所の見学から城内の見所を一周して約45分もあれば十分であろう。案内板は分かり易かったが、解説はもう少し充実してほしいと感じた。
岩櫃城
2018年12月27日
続100名城の48城目。冬季にスタンプ設置場所となっているJR群馬原町駅舎内にある東吾妻町観光協会にてスタンプと上州真田3名城のクリアファイルに、岩櫃城のシャープペンをゲット。そこから城址の駐車場へ移動、徒歩数分で岩櫃山の登山口に到着。この左側に建屋があり、冬季以外はそこでスタンプ台があるようで、この時期は無人でパンフレット等がある。岩櫃城は築城年代、築城主ともに定かではないが、南北朝時代に吾妻氏が築城したとも言われている。登城してすぐに見えて来るのが、中城跡。本丸、二の丸の手前にある広大な曲輪だ。5分ほど歩けば、本丸まで250mとの表示。ここまではかなり緩やかな登りであったが、ここからは急な道を行くことになる。道は整備されているので歩きやすかった。本丸跡の城址碑がある。ここからの眺望は周囲が木々に覆われており、あまり見渡せる箇所が無かったが、一望できる場所からのそれはとても良かった。岩櫃城は山麓の駐車場から、中城跡、二の丸、本丸までの往復で40分程度だった。少々、駆け足だったので、実際はもう少し時間が必要かもしれない。もう少し、説明版が丁寧であれば、この堅城を深く理解できると思う。
忍城
2018年11月14日
大宮で仕事があり、サラリーマンの制服であるスーツにワイシャツ、ネクタイ、革靴で登城出来そうな忍城に行くことにした。この日のアクセスは東京駅から熊谷まで新幹線、熊谷からは秩父鉄道の行田市駅で下車、徒歩で15分くらいで辿り着く。車なら、駐車場が2箇所あり、ラクチンに登城可能だ。駅から行くと、メインの模擬の御三階櫓が目に入って来る。忍城は室町時代の1478年頃に成田氏が築城したとされる。戦国末期に豊臣秀吉の関東平定の際、石田三成の水攻めに耐えた難攻不落の名城と言われたらしい。その後、小田原城の落城により開城となる。1639年、老中の阿部忠秋が改修し、その孫の正武が御三階櫓など作ったとされる。明治維新で破却となり、今では当時から残っているものはあまり無い。現在の本丸には、行田市郷土博物館となっており、忍城はもちろん、足袋のことや行田市の歴史が展示されている。この館の入口でスタンプはゲット出来る。入城しなくても大丈夫だが、かなり、勉強できるので、時間があれば入館すると良いと思う。
杉山城
2018年12月28日
続100名城の49城目。嵐山町役場庁舎の玄関ホールにてスタンプをゲット。杉山城は丘陵上に築かれた典型的な山城で、10個にも及ぶ郭が配置されている。大手口にあるのが出郭。本郭が見えるくらいの規模だ。戦国時代の初期に、関東では山内上杉氏と扇谷上杉氏の同族同士の激しい戦闘があったとされ、近年の発掘調査で、この戦いの少し後だということが分かり、山内上杉氏が扇谷上杉氏に抗するために作ったという説が有力になるつつあるとのこと。大手口から、馬出郭、南三の郭、南二の郭へ。途中、南二郭から南三郭へは食違い虎口になっている。左右の土塁が平行にずれている虎口で敵が侵入しにくくなっている。そして、南二郭から井戸廓へ。ここには井戸跡があり、石で塞がれている。井戸郭から東二郭と東三郭へ。ここも堀と郭跡が良く残っていた。本郭に到着。結構、広くて奥に城址碑が見える。各郭は勿論、虎口や土塁、堀切など見るべき箇所は多い。本郭の北には、北二の郭、北三の郭、そして、搦手口がある。杉山城は山城であるが、非常にコンパクトに纏まっているので、ゆっくり廻ったが所要時間は45分程度であった。
菅谷館
2018年12月28日
続100名城の50城目。埼玉県立嵐山史跡の博物館でスタンプと館内見学。博物館裏には館跡の模型があった。博物館は、搦手の方にあるので、三ノ郭から入城。ここに武士や騎馬が集合していたとされる。菅谷館の構築時期や築城主は明らかになっていない。古代からの多くの遺跡群があるとのことだが、鎌倉時代初期の畠山重忠の館であったとされる。三ノ郭から二の郭へは最大6mの土塁が残っている。現地でその迫力を是非、体感頂きたい。二ノ郭は本郭を囲むように配置されている。畠山重忠の館自体もここにあったものと考えられている。本郭は空堀と高い土塁で防御されている。土塁は桝形に配置され、堅い守りとなっている。菅谷館は広大ではあるが、道は綺麗に整備され、坂道もない公園のような感じなので、見所をゆっくり廻って30分程度。博物館をくまなく見て1時間程度だ。現存遺物は残っていないが、分かり易い縄張りと空堀、圧倒的な土塁などが楽しめる場所だ。
本佐倉城
2019年5月3日
スタンプは酒々井町中央公民館にあるが、祝日は休館、大佐倉駅の改札出たところにあるスタンプ台で押印。駅前には駐車スペースは無いがちょっと停車しスタンプを押すことは可能。ここから徒歩10分程度なので駅にある有料駐車場に止め、向かうことにした。途中、田んぼの中をゆっくりと歩き、10分程度で登城口に到着。本佐倉城は下総国の守護であった千葉輔胤が1469年〜1486年の間に築城したとされる。登城口からは城山と模擬の矢立が見える。関東有数の大名となった千葉氏は9代に渡り本拠地とした。城下町も整備し繁栄した。登城して行くと小高くなった場所がありビューポイントと紹介。一面の田んぼと線路、筑波山が望める。東山虎口などを見て戻り城山方面へ。途中にある城山と奥ノ山を隔てる大堀切は迫力あり。千葉氏の栄華は秀吉の小田原攻めにより終焉を迎える。この時、北条氏の配下であった千葉氏も北条氏同様に滅亡、本佐倉城は徳川家康の支配となった。城山は主郭にあたるとされ、調査では主殿と思われる掘立柱建物跡、櫓跡、門跡、塀跡などが見つかっている。本佐倉城の散策は約45分ほど。広大な平山城で山城好きなら楽しめる城址。
大多喜城
2019年5月4日
城址の駐車場に止め緩やかな坂道を歩く。大多喜城は1521年に真里谷信清が築城したとされる。少し歩くと二の丸公園がありその周辺には大きな空堀がある。1590年の小田原平定後に家康四天王であった本多忠勝がここ大多喜城に入り、近世城郭へと大改修した。本丸には復元された土塀がある。本多忠勝は突貫で工事を行い3層4階の天守を建造、城下町も整備した。現在の天守は1975年に作られた模擬天守で、現存する資料と江戸時代の一般的な天守を参考に推定されたもので、実際のところ、大多喜城に天守があったか否かはハッキリとしていない。尚、今は「千葉県立中央博物館 大多喜城分館」というのが正式名称ここでスタンプをゲット出来る。現天守内部は、展示物などの資料が豊富に展示してあり、最上階からは城下を眺めることが出来る。今となっては現存遺物は2つしか残っていない。二の丸に残る大井戸、「底知らずの井戸」と呼ばれ、周囲17m、深さ20mで日本一。もう一つが大多喜高校にある二の丸薬医門。大多喜城は天守内部の資料を見て、見所を廻って駐車場からの往復で1時間程度であった。登城路はほぼ全て舗装されているので、気楽に訪問出来る城址。
滝山城
2018年12月23日
続100名城の43城目。天野坂と言う大手口から。左手に堀が続いている。先に進むと、左に小宮曲輪、右手が三の丸。小宮曲輪を過ぎ、10分ほどで、最も奥にあると思われる山の神曲輪に。ここは民衆の避難場所であったとされる。滝山城は、1521年、大石定重が築城、1558年頃に北条氏照が城を大改修した。来た道をまた10分弱ほど掛けて戻る。千畳敷に到着。ここへの入口には馬出があり、防御を固めている様子が窺えた。1569年、甲斐の武田信玄軍が小田原城攻略の途中、2万の軍で滝山城を包囲し、周囲の民家を焼き払い、滝山城の三の丸まで攻め込まれた。2千の寡兵で凌いだものの、この戦いで滝山城の防御体制が不十分であることを痛感、八王子城を築城し移転するきっかけとなった。中の丸の奥から、腰曲輪方面の眺望も良かった。本丸には霞神社が建っている。その奥に城碑が建っているので、忘れずに行きたい。中の丸と本丸をつなぐ木橋も見所。この下から先に大堀切があるので、是非、現地にて。要した時間は1時間。道中はしっかりと整備されているし、案内板や解説版も充実、要所での眺望も良く、ゆっくり見たいと思わせる山城であった。
品川台場
2018年8月26日
1853年のペリー来航の際に江戸幕府が築いた砲台の跡地で、現在は台場公園(第三台場)となっている。新橋駅からゆりかもめにて台場公園駅で下車、いまいち、行き方がわからないが、レインボーブリッジを目指せば良いであろう。スタンプはマリンハウス1階にて。お目当ての台場まで行くには、レストハウスから見えるものの、非常に遠回りしなくてはならず、徒歩10分強くらい。猛暑の中では意外と要注意だ。なお、史跡記念碑はレストハウスから最も遠い場所にあり、かつ、立ち入り禁止の柵の向こう。確かに、この碑の近くは低いものの絶壁のすぐそば。足元に注意だ。ここからの夜のレインボーブリッジはさぞかし、美しかろうと思う。
小机城
2018年8月25日
新横浜駅から乗り換えですぐに小机駅に到着する。スタンプの区民センターも駅前にあり、簡単にゲットできる。小机城までは徒歩15分程度、民家の間を歩いて行く。城内は森の中で特に急な登りもないのできつくはないであろう。遺跡物は残っていないが、土塁や堀はある。それよりも、まさに竹林とはこのこと、そっちの方に感動した。
石垣山城
2018年12月23日
続100名城の42城目。登城口の奥左手に南曲輪の石垣がある。部分的に崩れているが、規模の大きさに驚く。1590年、時の関白豊臣秀吉は小田原北条氏を攻めることを決める。同年4月6日にここ笠懸山(石垣山)に築城を開始、わずか、80日後の6月26日に完成、秀吉は本陣を石垣山城に移したとされる。馬屋曲輪の石垣。野面積みで全長67m、高さは最大の場所で6mと言う。本丸には天守台跡が残っているが、実際に天守が築かれたかどうかはわかっていない。台の石垣は崩れつつある状態だった。最大の見所は、何と言っても、「井戸曲輪跡の石垣」と思う。二の丸から25m下にあり、その野面積の石垣は城内で最も当時の状態を保っていると言う。また、高い石垣で築城された東国で最初の城であり、石垣は西国から穴太衆(あのうしゅう)と言う石加工の職人衆を集めて、施工されたことが確認されている。その他に、櫓台跡、西曲輪跡、南曲輪跡など見所は多かった。
新府城
2019年5月6日
要害山城から韮崎市民俗資料館に寄りスタンプをゲット。内部を簡単に見廻り城址へ。東出構え方面にある駐車場に止めて登城開始。すぐに見えて来るのが広大な東出構。北部からの侵入者を迎撃する場所とか堀の水位を調節する施設とか言われているが、明確にはなっていない。新府城は1581年に武田勝頼が築城した平山城。城内に入って行くと、木橋橋台、井戸跡、二の丸などの見所があり説明版も随所にあるので楽しめる。登城路も綺麗に整備されておりあっという間に本丸に到着。当時、信長の甲信進出により勝頼は危機感を覚え築城したが、織田軍の攻撃に遭い、入城後わずか68日後にして城に火を放ったとのことだ。本丸からは八ヶ岳が見える。本丸をあとにして三の丸方面へ向かう。途中にある蔀の構は、本丸と本丸馬出にあり、本丸内部が見えなくなるよう施されている。登城開始が搦手口であったので帰りは大手口方面へ。途中、大手の桝形虎口へ。この城で最も大きな虎口。丸馬出の下にあるのが三日月掘。新府城はほぼすべての見所を廻って、駐車場までの往復で1時間くらい。
要害山城
2019年5月6日
甲府駅前にある「藤村(フジムラ)記念館」でスタンプ。内部を少々観覧し城址へ。車で10分程度で到着、登城口の駐車場に止めてスタート。登城と言うよりは要害山という770mの登山だ。山頂までは徒歩約30分、自販機があるはずもなく夏場などは水分を準備されたし。登城路は整備されているが、周囲は5月でも草が元気に生い茂っている状態、ケモノが出てきそう感じがしなくもない。要害山城は1520年に武田信虎が築いた。居館や政庁などがあった山麓の武田氏館に対して、緊急時に立てこもる詰の城として作られた。少し上がって行くと、大小多くの曲輪跡が残っている。説明板があるので場所は確認できる。主郭までは8つもの門跡があり、堅固な防御となっているのが分かる。30分ほどで山頂の主郭に到着。主郭部は土塁で囲まれ、庭園などに使用される石も残っている。眺望を楽しみにしていたが、残念ながらほとんど見えない。要害山城は山麓からの往復で1時間少々であった。登城路は整備されているので歩き易いと思う。ただ、もう少し、周囲の木々を伐採すれば、もっと、曲輪や土塁、竪堀などの遺構が良く分かると思う。
龍岡城
2018年9月22日
9月最後の3連休に有給休暇を2日取得し、長野新潟5日間11城制覇の旅。初日は3城の予定。アクセスは車が良いであろう。スタンプのある五稜郭であい館に無料駐車場がある。かの有名な函館の五稜郭の4年後に完成したと言う。規模は約半分とのことだが、珍しいと言えばその通り。残念ながら、明治以降、取り壊し等で遺物はほとんど残っておらず、現在は、小学校になっている。建物としては、御台所。結構、大きくてビックリしたが。気に入ったのは、濠。五角形の形自体はしっかりと残っている。西洋式城郭として日本で2つしかないものの一つなので、それなりに価値があるとは思うが、もう少し、何かが残っていればと思う。見廻って、であい館で全部見ても長くて、30分もあれば十分。
高島城
2018年9月26日
9月最後の3連休に有給休暇を2日取得し、長野新潟5日間11城制覇の旅。5日目は1城のみ、オーラスは高島城だ。アクセスは電車なら、JR上諏訪駅から徒歩10分、車なら無料駐車場が近くにあるので、容易だ。高島城は1590年、豊臣秀吉の家臣であった日根野高吉により設計され、1598年までに築城を完成させた。日根野高吉は安土城、大坂城の築城にも携わった名手であったとのこと。当時は諏訪湖の水が近くまで迫っており、湖上に浮いていたように見えたことで、別名、「諏訪の浮城」と呼ばれたらしい。関ヶ原で徳川方に付いた諏訪氏がその後、10代にまで270年もの間、居城としていた。しかし、明治に入った1875年に天守の撤去が終了、その約100年後の1970年に復興天守として蘇った。天守内部は有料で、入城して1階の奥にスタンプ台がある。豊富な資料が揃っており、展示内容は充実している。最上階は展望台となっており、決して高くは無いが、それなりの眺望が楽しめる。諏訪湖が一望とまでは言えないが、眺められる。高島城は本丸が公園となっているが、さほど大きくはなく、天守に入り他の見所を散策しても40分程度。
村上城
2018年9月24日
9月最後の3連休に有給休暇を2日取得し、長野新潟5日間11城制覇の旅。3日目は3城の予定で、最後の3城目だ。アクセスは電車はJR村上駅から徒歩25分でおしゃぎり会館到着、そこから城入口までは徒歩10分ほど。車なら、おしゃぎり会館に駐車場あり、城入口前にも大きくは無いが駐車場があるので便利だ。村上城は標高135mの臥牛山にあり、室町時代に築城されたと言われている。城主は本庄時長、江戸時代に入り、堀氏が大改修する。1649年に譜代の松平氏が入封すると、再び、改修が始まる。現存する石垣等はこの頃のものと推定されている。村上城は山城の割には、さほど厳しい山道ではなく、中世と近世の面影が残っている面白い城である。特に、石垣は圧巻だったので、石垣好きの方には、強く、お勧めしたい城だ。
高田城
2018年9月23日
9月最後の3連休に有給休暇を2日取得し、長野新潟5日間11城制覇の旅。2日目は3城の予定で、最後の3城目だ。幸い、駐車場も城の目の前に止めれたので、信号を渡って、僅か10秒で極楽橋に到着。復元されたものだが、徳川家康の六男である松平忠輝が高田城を築いた際に作ったものである。入念な発掘調査による再現ではあるが、安全面を考慮し、木造ではなく、重要な部分はコンクリート製とのこと。見所の一つ目は、再建された三重櫓である。本丸南西隅の土塁上に建設された。廃城後、1886年に取り壊されてしまった。スタンプが券売所にある。もう一つの見所は、広大な内堀と土塁である。ほぼ当時の面影を残してあるというものの、なかなか、城に興味にある人で無い限りは、その貴重さに気が付かないのではないか?現在の高田城内はさほど広くは無いので、外を見廻っても30分で十分。三重櫓の色合いの渋さと内堀が印象に残った。
鮫ケ尾城
2018年9月23日
9月最後の3連休に有給休暇を2日取得し、長野新潟5日間11城制覇の旅。2日目は3城の予定の2城目。鮫ヶ尾城は上杉景虎悲劇の城だ。1578年に春日山城にて上杉謙信が没した後、跡目争いが生じ、養子の景虎と景勝との争いとなる。これを御館(おたて)の乱と言うらしい。歴史の教科書には出ていなかった気がするが。その最終決戦の地が、ここ鮫ヶ尾城である。道中は夏で伸びた木々で少々、うっとおしい気もしたが、道は整備されているし、案内板もあるので、迷うことは無かろう。登城して15分弱で本丸に到着する。鮫ヶ尾城は上杉謙信の時代に完成したと言われ、前述した御館の乱で落城し、その使命を終えたと言う。従い、謙信築城時の状態を保っているという点で貴重なものであるとのこと。本丸跡は景虎が妻子とともに自害した場所との伝説がある。一気に登り、すぐに下ったので、往復で30分強だった。夏場は少々、厳しいだろうが、それ以外の季節であれば、山城の割には楽に登れると思う。決して、歴史の表舞台に派手に登場するわけではないが、続100名城に選定されたことで登城者も増えていると、管理人さんが笑顔で言っていたのが印象的だった。
富山城
2018年10月21日
続100名城の29城目は富山城。秋晴れの週末を利用した福井石川富山の続100名城2日間5城の旅、2日目は富山城から。アクセスは、電車なら、富山駅より徒歩約10分。車であれば、城址すぐそばに有料だが、市営駐車場が多くあるのでそれを利用するのが良いであろう。門から入り、すぐ左には1954年に現存天守である彦根城や犬山城を模した三重四階の天守、二重二階の小天守が見えて来る。戦時の空襲で甚大な被害を受けた富山市の復興事業完了を機に開催された博覧会の際に作られたもので、現在では富山市郷土博物館となっている。スタンプは入城料を支払って、この中で。富山城の石垣の多くは野面積みであるが、布積み(加工した石を水平に設置)も見られる。また、巨大な鏡石もあり、その権力を誇示するための象徴となっていたのかもしれない。鉄門に複数個、確認できる。富山城は博物館や石垣類等の見所を廻って、30分程度といったところか。石垣に関する解説が多くあるので、石垣が好きなら、結構、楽しめると思う。
増山城
2018年10月20日
続100名城の28城目は増山城。秋晴れの週末を利用した福井石川富山の続100名城2日間5城の旅、初日の最後は富山県の増山城。電車でのアクセスは、JR城端線・礪波駅から加越能バス・栴檀野線「増山」下車で徒歩30分 と大変。車なら、増山陣屋に無料駐車場があるが、そこまで辿り着くには、ナビで「和田川ダム管理事務所」と入力するのが良い。迷わずに行けるであろう。スタンプは「砺波市(となみし)埋蔵文化財センター」。スタンプを押すと、おまけのシールと登城認定証(二の丸への登城が条件)が貰える。また、記帳すると、来訪者の県にシールが貼られ、どの県から来訪したかが掲示されている。私が行った時は愛知県が一番多かった。ここから増山城へ車で移動、誰もいない増山陣屋に駐車し、登城開始。ダムを渡って行く。登城路、案内板もしっかりあるので、迷う心配は無いであろう。登城から20分ほどでメインの二の丸に到着。増山城は二の丸が本丸であったとされる。三の丸まで見るなら、所要時間は1時間以上、メインの二の丸までなら、1時間弱で往復できるであろう。
鳥越城
2018年10月20日
続100名城の27城目は鳥越城。秋晴れの週末を利用した福井石川富山の続100名城2日間5城の旅。電車でのアクセスは大変。車なら、城の登城口に駐車場有り、断然、車での訪問をお勧めしたい。越前大野城から向かうこと、1時間程度であったと思う。まずは、スタンプのある鳥越一向一揆歴史館へ。登城時のイメージもあるため、是非、先に立ち寄られたし。歴史館から、車で数分で鳥越城の駐車場に辿り着く。この地は、かの有名な「加賀一向一揆」の最後の砦となった場所。城内は道、遺物、説明版など、しっかりと整備されている。本丸跡には遺物、井戸、礎石跡などが発掘されている。一番高い所は、望楼台跡と思う。その眺望は素晴らしかった。追い詰められた一揆衆はこれを眺めて、何を感じていたのだろうか?鳥越城は駐車場からなら、簡単にアクセス出来、各種の見所を廻って往復で40分くらい。歴史的背景やその悲哀を感じる貴重な城址と感じた。また、整備状況も良いので、是非、訪れて頂きたいお勧めの城だ。
福井城
2018年9月10日
アクセスは名城の中でも抜きんでて楽。JR福井駅から徒歩数分だが、途中、フクイラプトルとフクイザウルスなど駅前には獰猛な恐竜がいるので、要注意だ。スタンプは県庁舎入り口の左側の無人の受付に設置してある。福井城は高石垣と広大なお堀、天守台の石垣、福井大地震により崩落した天守台の石垣など、意外と見所が多く、アクセスが簡単で時間も掛からないということもあり、お勧めしたい城址だ。滞在時間は恐竜に気づかれなければ、福井駅からの往復で30分単位だ。

blogを始めました。
http://daiyuu9224.livedoor.blog/
越前大野城
2018年10月20日
続100名城の26城目は越前大野城。秋晴れの週末を利用した福井石川富山の続100名城2日間5城の旅。アクセスは、JR越前大野駅で下車し、徒歩30分で城址到着。そこから天守まではさらに約20分、合計50分程度かかる。車であれば、城址周辺に無料駐車場が複数個所あるので、車をお勧めしたい。無料駐車場から西登り口(近くにゲートボール場あり)からの登城であったが、ルートは緩やかにゆっくり登るコースと、急な階段で一気に上がるコースの二つがあった。時間の遅れをとり戻すべく、急な階段を登る。少々、しんどかったが、5分程度で到着。復元だが、まずまずの天守が見えて来る。天守閣内にスタンプがあるので、入場料を払い展示物を閲覧し、しっかりと押印。見所の一つとしては、野面積の石垣類がある。武者登りと言われる石段も残っている。実際に登ってみると良い。大野城の散策は駐車場からの往復で、天守内部も観覧しても1時間もあれば十分であろう。天空の城とも呼ばれている。
佐柿国吉城
2019年5月25日
まずは若狭国吉城歴史資料館でスタンプを押印、資料館のすぐ脇に登城口がある。国吉城は1556年、若狭守護武田氏の重臣であった粟屋勝久が築城した。登城路を少し行くと、厳重っぽい獣侵入防止の柵がある。「熊出没注意」と言うことで、急にビビり、鈴をズボンとリュックに装着し登って行く。1563年から毎年のように越前朝倉氏の侵攻に合うが、撃退し続けた。故に、「難攻不落」と言われるようになった。ようやく、本丸下帯曲輪に到着。上下2段で構成されている段石垣を確認。朝倉氏は1573年に滅亡するが、その3年前の1570年4月、粟屋氏は朝倉攻めに向かう信長の軍勢に加わり、後に天下統一を果たす戦国の三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)が揃って入城、ここから出陣した。本丸上部へ向かう際にあった、土塁、堀切、石垣に感動を覚えた。本丸の北西虎口跡には、礎石や鏡石などの貴重なものが発掘された。ここからの眺望も素晴らしい。最終的に廃城となったのは江戸時代の初期とされ、恐らくは、僅か50年ほどしか存在しなかった城。佐柿国吉城は見所を全て廻って、山麓からの往復で1時間少々と思う。
玄蕃尾城
2018年10月21日
続100名城の30城目は玄蕃尾城。秋晴れの週末を利用した福井石川富山の続100名城2日間5城の旅のオーラス。アクセスは電車?果たして辿り着けるのであろうか?と言う感じ。車なら、城址目の前まで行けるが、柳ヶ瀬トンネルと細い林道を行かなくてはならない。まず、JR余呉駅でスタンプ、駐車場を目指す。柳ヶ瀬トンネルは一方通行の信号待ち有りの珍しいトンネルだが、交通量もあり、前の車と車間を取り普通に運転すれば問題はない。それよりも、トンネル出てすぐに右折する必要があるので、トンネルから出る直前は速度を落としておいた方が良い。その後は細い林道。対向車とすれ違うのは大変だが、ところどころ道幅が広くなっているので対向の有無を確認しつつ、安全運転で行けば大丈夫。ただ、倒木やこぶし大の石があったりするので、大きな車や車高の低い車は注意の必要はある。とにかく進んで行くと、7台くらいが駐車できるスペースがある。トイレもあるし、スタンプもある。一連の見所を廻って駐車場からの往復で45分から1時間と言ったところ。登城記録はblogにて。http://daiyuu9224.livedoor.blog/
郡上八幡城
2018年10月27日
続100名城の30城目は岐阜県の郡上八幡城。これで、続100名城の岐阜県は終了。山頂まで車で行く。道幅狭く、急なカーブも多い。道には登城する人もいるので、安全運転を心掛けたい。郡上八幡城は紅葉が有名であり、11月1日からは、「郡上八幡城下町もみじまつり2018」が開催されるとの由。ちょっと早かったが、少し、咲き始めていた。登城してすぐに、模擬天守と櫓が見えて来る。その姿は非常に美しい。4重5階の模擬天守は1933年に、当時の大垣城を参考に建てられた日本最古の木造天守である。有料の模擬天守の中にスタンプがある。簡単な展示物を見ながら、上がっていくが、さすがに、日本最古の木造天守、かなりギシギシと音が鳴る。天守最上階からの眺望は素晴らしいの一言だ。ちなみに、郡上八幡城も「天空の城」であり、気象条件によっては、朝霧に包まれると言う。山麓からの徒歩なら往復で1時間はかかるが、城目前からの登城であれば、30分単位であろう。秋の紅葉シーズン真っただ中の平日に訪れたい城だ。
苗木城
2018年9月8日
山城ベストランキングで1位になった岐阜の苗木城。車ならICからのアクセスも良く、山城だが、急な石段などは登らなくて済む。その割には、天守跡から絶景や、天然の巨石群と様々な石垣、門や倉の跡などの見所も豊富。ぜひ、訪れたい場所だ。スタンプは苗木遠山資料館受付にある。資料館に駐車して登城も可能、道は悪いが、少しだけ先にも駐車場あり。すぐに、登城出来る。
美濃金山城
2019年4月21日
「蘭丸ふるさとの森」の第1駐車場から登城。大手道から、緩やかな坂道を登って行く。5分少々で蘭丸広場に着き、スルーして出丸跡へ。ここまでは10分少々。ここまで車で来ることも出来る。出丸はここ金山城の第一線の防御を担っていた。金山城は、1537年に斎藤正義が築城したとされる。その後、1565年に織田信長の家臣であった森可成が城主となった時に金山城と改称された。本丸方面へ向かう。クマ出没注意とあるが、とても開けているのでその心配はまず無用と言っても良いであろう。関ヶ原後に破城となったが、その痕跡が残っているのがこの城址と特徴。野面積の石垣があるが、上部と算木積みの隅が壊されているのがこれ。破城の痕跡だ。二の丸を過ぎると、大手門の桝形虎口がある。現地では、その防御の堅さを体感することが出来ると思う。約30分程度で本丸に到着。現在は何も無いが、礎石跡や屋根瓦などが発掘されたことから、居住性のある空間であったと推定されている。登城開始後、約1時間程度で終了。その後、山麓にある40mに及ぶ石垣を見に行った。見逃しそうなので、現地にて注意したい。
大垣城
2018年8月18日
続100名城のスタートは名古屋から近い大垣城。大垣公園となっており、近くに普通のパーキングがあるので、そこに駐車し、すぐ、登城。スタンプは天守1階にて。関ケ原の戦いで西軍・石田三成が本拠地とした城だ。西軍は合戦直前の杭瀬川の戦いで勝利するのの、結局は、関ヶ原に打って出て、敗北を喫することになるわけだが。以降、戸田氏の居城となり、明治を迎える。結局は、空襲にて消失してしまう。関ケ原時、城内に残っていた「おあむ」が蔦って落ち延びたという松もある。
興国寺城
2018年9月15日
多少、迷うも何とか到着。駐車場らしきものが2箇所。城に向かって手前の駐車場は砂利、奥のは庭みたいなところだ。いずれにしても、車で来るのが最も良さそうだ。30秒程度歩くとすぐに穂見神社が見えてくるが、ここにスタンプがある。木箱に入っているものの、外に放置されたような感じだ。苦労して到達した割には、ちょっと、残念な感じもするが、スタンプして登城するのも簡単なのが唯一の救いか。駐車場から往復でも20分もあれば十分。こう言った苦労も続100名城の楽しみとして考えたい。
諏訪原城
2018年9月17日
アクセスは電車だとかなり不便だ。最寄りの東海道線の金谷駅から徒歩30分とのこと。車なら、城入り口に5台くらい止めれる駐車場あり、満車でも50mほど先に大きな駐車場有り、ただ、看板は無く、「見学者以外は駐車不可」との記載のみ、何の見学者かわからないが、多分、大丈夫。現在、ガイダンス施設を建設中で、2020年にはオープンすると言う。スタンプは入城してすぐの大手南外堀付近にあった。右の木箱に白黒のパンフ、左の古びた書類入れの中にスタンプが潜んでいる。雨でも降っていた日には、スタンプ帳がビショビショになり、最悪、折角登城した他の城のスタンプ印まで滲んでしまいそうだ。早くガイダンス施設が完成し、室内に設置してもらいたいものだ。城内は綺麗に整備されており、要所で案内や解説があるので非常に分り易い。全体は広いが、順路の案内板もあり、迷うこともなく効率的に見所が廻れる。夏場は草が生い茂っており、大量の蚊や蜘蛛の巣などに注意しての散策、やはり、山城は遺構も良く見える冬場が良い気もした。ガイダンス施設の開場が待ち遠しくなった。
高天神城
2018年9月15日
アクセスは電車なら掛川駅が最寄だが、そこからスタンプ設置場所の大東北公民館まではバスとなるし、公民館からは城まで徒歩20分というから、結構、大変。車なら、公民館に駐車場もあるし、城入り口近くにもあるので圧倒的に便利。浜松城から車で約1時間少々で大東北公民館に到着。受付の横にあり、スタンプゲット。そこから車で数分で城に到着。山城なので、そこそこ急な山道を行く。ただ、今まで登城経験ある八王子城や鳥取城などに比べれば、本丸までの距離、勾配ともに大したとこは無い。滞在時間はおおよその見所を見て廻って駐車場往復で1時間程度。真夏は厳しいかもしれないが、春や秋は散策にも向いている山城だ。
浜松城
2018年9月15日
アクセスは車なら城の目の前に広い無料の駐車場あり。電車は最寄りはJR浜松駅。駅からは少々、離れているのでバスやタクシーで行くのが良い。徒歩なら20分程度だ。天守内部は有料で、1階の奥にスタンプあり。見所は、現在でも400年以上の風雪に耐え、当時の状況が良く残っている野面積みと呼ばれる石垣類。駐車場から往復で40分程度もあれば十分。約10年ぶりの2回目の登城は、前回とは異なった視点で見れ新たな発見があった。
小牧山城
2018年8月18日
続100名城の大垣城から、小牧山城へ。スタンプ場所の歴史館は、この時期は18時30分まで開館している。周囲の無料駐車場に止め、登城開始。頂上にある歴史館までは緩やかな坂道で10分程度であろう。信長の美濃攻略のための居城であり、一度、廃城となるが、小牧長久手の戦いで家康が本拠地とし、整備される。石垣を使った城は、信長が始めたということだが、最近の発掘で小牧山城で石垣が確認できたことから、どうやら、日本最古の石垣がある城とのこと、その面影はないが、当時の石垣や転落岩などの見所あり。
古宮城
2018年9月17日
アクセスは電車ではJER飯田線の飯田駅からバス25分とのことだが、かなり、ローカル。車なら、スタンプ場所の作手歴史民俗博物館から、車で数分。ただ、駐車場のような箇所に数台止めれるスペースしかない。また、スタンプの博物館は管理人さんによるとほぼボランティアレベルでやっているので、15時まで。ただ、閉館後や閉館時は近くのコンビニで押印できる。古宮城は、かの武田信玄が徳川攻略のために、17571年に築城させたと言われている。その後、武田氏の凋落とともに廃城となったようである。武田氏の高度な築城術が残る貴重な城跡とのことだが、専門家でもないし、イマイチ、良く分からなかった。森の中だが、平地のにあるので、登城自体の体力的厳しさはない。ただ、案内が無いので、折角の武田氏の築城術の凄さを感じることが出来ないのが残念。やはり、あるレベルの知識を持ってからの登城、もしくは、学者先生に案内してもらうなどではないと、わからないと思う。だが、高地ではないし、意外と開けているので、クマさんなどの危険な動物とバッタリ出会うことはないと思う。早く整備され、城自体が理解できるような状態にして欲しいと願ってやまない。
吉田城
2018年9月17日
アクセスはJR豊橋駅から徒歩20分か、路面電車で10分ほどで豊橋公園前下車。車は公園周辺に市営駐車場が複数個所にある。吉田城に行くと、一見、天守と思えるが、実際は「本丸鉄櫓」である。とは言っても、天守と記載されている絵巻等もあり、実質は天守であったが、天守とは呼ばれなかった、というのが事実らしい。天守内部は有難いことに無料、スタンプは受付のところにある。中は展示物や説明のパネルなどがあり、勉強しやすい。吉田城の石垣は、この鉄櫓の周辺がメインであるが、野面積みで池田氏築城のもので手直しされていないと言われているから、結構、貴重だ。石垣の花崗岩に大名た家臣の刻印がされているのも確認されており、大坂城や名古屋城などにも見られる。この石垣は名古屋城築城に余った花崗岩を使用したのもわかっているらしい。築城時の石垣が残っている点と、豊川沿いに立ち、要害となっていることも簡単に確認が出来る、意外とお勧めの城だ。
津城
2018年10月6日
三重和歌山奈良の続100名城3日間7城の城旅行。この日は、津のお祭りの日で津城周辺は規制されており、駐車場も満車が多く、取り敢えず、5分くらい離れたパーキングに止め、東鉄門から登城。この門は桝形で外門の東黒門(高麗門)と内門の東鉄門(櫓門)から成っていた。すぐそばに丑寅櫓がある。本丸の東北隅にあり、三重三階、1958年に復元されているが、中に入ることは出来ない。津城を築城したのは、織田信長の弟の信包(のぶかね)。1580年に5層の天守が完成、城下町も作られた。その後の富田氏が1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦にて、西軍の攻撃により、津は荒廃したと言う。その後、1608年に藤堂高虎が入ると、石垣や櫓、堀、城下町などの整備に尽力したと言う。その栄誉を称え、本丸に像が設置されている。スタンプは、公園内にある高山神社にて。藤堂高虎を祀った神社で、その社務所に設置されている。
多気北畠氏城館
2018年10月6日
三重和歌山奈良の続100名城3日間7城の城旅行の初日の2城目。津城から車で30分程度、かなりの農村部の道を行く。ナビは「北畠神社」にセットするのが良かろう、特に迷わずにドンピシャで到着。神社入り口のあたりに案内がある。事前の調べをあまりしていなかったので、少々、驚く。多気北畠氏城館跡とは、北畠氏館跡(北畠神社)とその背後にある霧山城のセットだとのこと。確かに、神社のこの鳥居をくぐると、右が館跡、左が霧山城と書いてあった。小雨の中、取り敢えず、神社の社務所に向かい、無人の受付の横にあるスタンプをゲット。1521年頃の築造と推定される北畠氏庭園跡がある。入場料は無人の受付に300円を払う形だ。秋の紅葉は嘸かし、美しいだろうと思わせる。この後、霧山城の登山に向かうも天気が急変、大雨警報の発令もあり、登城は諦めざるを得なかったのが残念。多気北畠氏城館は神社のみなら、15分程度、霧山城は登場しなかったので、正確にはわからないが、案内板に1350mとあった。激しい雨が降り始め、早々に初日最後の田丸城へ向かうことにした。
田丸城
2018年10月6日
三重和歌山奈良の続100名城3日間7城の城旅行。初日の最後、3城目は田丸城だ。電車でのアクセスはJR参宮線の田丸駅から徒歩で約10分。車なら大手門跡にある玉城町役場の駐車場が利用できるので、便利だ。多気北畠氏城館跡から車で1時間弱で到着。時間ギリギリだったので、まずは、村山龍平記念館に駆け込み、受付前に置いてあるスタンプをゲット。1336年、北畠親房が南朝の拠点として築城したと言われている。その後、織田信長の次男の信雄が拠点として本格的に築いた。田丸城は信長による安土城築城の前年である1575年に完成したとされ、天守のある城として日本で一番古い城とのことだ。これって、意外と凄くない?って思うが。本丸虎口には他の野面積みとは違う打込の石垣が見られる。織田信雄が築いたとされる三層の天守の土台が天守跡。意外と小さい。天守跡からの眺望はさほど高い所ではないので、まあ、悪くは無かった。田丸城散策は見所を見廻って30分程度。急な坂道もなく、楽に登城できる。案内はそれなりにあるが、印字が薄くなっていたり、もう少し、解説を加えて頂ければ、と感じた。
赤木城
2018年10月7日
三重和歌山奈良の続100名城3日間7城の城旅行。スタンプのある紀和鉱山資料館に到着。ここで残念なことがあった。何と、先日、スタンプが盗難にあったとのこと。スタンプ場所を管理している人の苦労、我々のように遠方から苦労して来た人のことなどよくよく考えて欲しいと思う。たまたま、私が行った10月7日の午前に新しいスタンプが着いていて(2018年10月7日PM時点)、押すことが出来たが、それまでは代用をしていたとのことだ。紀和鉱山資料館では、館員の方が非常に親切だった。内容も非常に一生懸命やっている感じだ。赤木城の模型と見所の解説もあった。赤木城はさほど広くは無いので、30分程度でほぼ見ることが出来る。雰囲気としては、竹田城の小型版みたいで、実際、朝もやがかかれば、幻想的で天空の城とも呼ばれているそうだ。近くの見所として、藤堂高虎らの新領主に農民一揆で抵抗した北山の人々が処刑された刑場の跡である田平子峠刑場跡や丸山千枚田、もちろん、続100名城の新宮城もあり、少し、足を伸ばせば、那智の滝もある。
鎌刃城
2019年4月7日
思いもよらず、八幡山城で時間が掛かり、鎌刃城近くに着いた頃には、やや日が暮れ始めていた。取り敢えずは、Cafe&Gallery源右衛門で100円寄付し、スタンプをゲット、パンフレットなどの入手。43番と44番ゲートまで行ってみたが、とてもじゃないが、この時間から登城できるような雰囲気ではなく、無念ながらも次回とすることにした。噂のMapがこれ。名古屋から滋賀は遠くは無いので、そのうちにちゃんと登城したいと思う。
八幡山城
2019年4月7日
八幡城付近に到着も、桜祭りが開催されており周囲は渋滞、ロープウェイ前の駐車場は満車でようやく、この時期のみと思われる有料の臨時駐車場に止め、八幡山ロープウェイまで徒歩10分ほど歩く。ロープウェイは頻繁に出発しているのでほぼ待つことなく乗り込み、山上駅にてスタンプをゲット。八幡山城は1585年に羽柴秀吉の甥である秀次が築城した。山上と山麓に分かれた山城である。その山頂駅からすぐに西の丸址に到着、ここの景色は絶景で琵琶湖が一望出来る。主郭部は総石垣で現在、野面積の石垣が残っている。羽柴秀次が清州城に移ると、京極氏が入るが、1595年に廃城となった。現在、本丸は築城主である羽柴秀次の菩提寺の村雲御所瑞龍寺が建つ。八幡山城は山麓からロープウェイであがり、山上の見所を廻って往復で1時間程度。遺物はなく、野面積の石垣はそれなりではあったが、眺望の良さ以外、あまり見所が無いというのが正直なところであった。
福知山城
2019年5月25日
佐柿国吉城から車で1時間半ほどで。駐車場から見上げるとすぐに天守が見え、緩やかな登城路を行くとすぐに野面積みの石垣が目に入る。この城の見所の一つである転用石が使用されている石垣。転用石とは、当初は他の目的で使用されていた石を石垣に転用したもので、代表的なものとしては、墓石、石仏、燈籠、五輪塔などだ。築城に際して、石が不足した際に使用したとか、敵将の暮石を使用することで権威を誇示するためなどとされる。福知山城は、丹波の横山氏が築いた横山城が前身で1579年頃に明智光秀が築城を開始したとされる。すぐに、昭和期に復元された大天守に到着、3層4階の望楼型で再建物とはいえ、かなりの風格を感じる。天守閣は、大天守だけでなく、小天守と続櫓も復元されている。天守内部は福知山市郷土資料館となっており、入口にスタンプがある。最上階からの眺望はまずまずであった。地味に、本丸にある銅門は実は城内で残る唯一の現存遺物。豊磐の井なる井戸は直径2.5m、深さ50mで、本丸城郭の内部にある井戸としては日本一の深さ。今でも水が湧いている。福知山城は駐車場からの往復で約40分もあれば十分。
芥川山城
2019年4月12日
飯盛城から向かい塚脇バス停留所に行くも付近に駐車場が発見出来ず、致し方なくJR高槻駅のコインパーキングに止めた。駅構内にある観光案内所でスタンプをして、結局、バスで塚脇バス停まで向かう羽目に。芥川山城は、三好山に1516年頃までに築城されたとの記録が残る。以降、細川氏が城主となったが、1553年に細川晴元を追った三好長慶が入城。城内に唯一残る竪土塁があるので、お見逃しなく。約20分ほどで主郭に到着する。ここには御殿があったとされる。主郭からの眺望は非常に素晴らしかった。帰路は大手道へ向かう。そもそも、この芥川山城は個人所有とのこと、迷惑行為は避けて欲しいと日本城郭協会では宣伝している。芥川山城は登城口からの往復で約1時間で全ての見所は廻れる。また、山城であるが、比較的登城は楽、山麓は住宅街なので恐らくは獣類に出会うことはあまり無いと思う。石垣や土塁、各曲輪など、手作り案内を楽しみながら、気軽に登り、山頂からの絶景を楽しみたいところだ。
飯盛城
2019年4月12日
朝に野外活動センターを目指す。途中、細い道を行くが、対向車をしっかり見ながら行けば大丈夫と思う。野外活動センターに駐車し、スタンプを受付で押印し登城開始。ここからの登城ルートは2つある。馬場の楠公寺方面と池の奥から南丸を目指すルート。どちらから行っても同じだと思うので、行きと帰りで違うルートを取るのが良い。馬場を目指すルートを選択し、約10分ほど緩やかな山道を行くと、楠公寺がある。飯盛城の築城年は1334年頃に佐々目憲法なる人物により築城されたと言うが定かでは無い。また、戦国時代の1528年に木沢長政が築城若しくは改修したともされている。1560年、その後畿内を支配することになる三好長慶が入城。現在残る石垣などは長慶が大改修した時のものと考えられている。10分も掛からずに本郭に到着。展望台が設けられており、その眺望は素晴らしいの一言。その後、1575年に織田信長が畿内を平定すると、この一帯の城は破城となり、飯盛城も破却された。本曲輪の高櫓台跡には楠木正行像が建つ。飯盛城は野外活動センターまで車で行けば、登城自体はそう大変ではない。おそらく、往復で1時間もあれば十分だと思う。
岸和田城
2018年11月9日
11月の3日で大阪岡山広島の未踏の城を廻る。電車でのアクセスは、南海の岸和田駅から徒歩10分程度。車なら、城址に駐車場有り、いずれも苦労せずに到達出来る。岸和田城の築城時期、築城者は明らかになっていないが、建武新政期に楠木正成の一族、和田高家なるお方が築いたとの伝承があるとのことだ。1585年、豊臣秀吉は小出秀政を城主とし、城郭を整備、天守閣もこの時に築かれた。5層であったと言う。現天守閣は、昭和期に建造された3層3階の天守。この中で、スタンプをゲット出来る。天守閣は1827年に落雷で焼失、維新期には櫓・門など城郭施設が破壊されたため、近世以前の遺物は堀と石垣以外には残存していない。その他の見所としては、天守の目の前にある「八陣の庭」。1953年に作られたものだが、とても美しい。岸和田城は、堀の外側を1周廻って、天守内の見学等をして、だいたい45分程度か。台風等の影響で、未だ、立ち入れない箇所もあったが、石垣と堀、街中に聳える天守閣など、結構、楽しめる。
出石城・有子山城
2019年5月26日
城址に近い駐車場に車を止め、目の前にある「いずし観光センター」でスタンプを押印、出石城へ。歴史的には出石城よりも山上の有子山城の方が先に築城された。1604年に有子山城が廃城となり小出吉英が出石城を作った。当時は本丸東端、二の丸東西の合計3基、更に、本丸西に多聞櫓が建っていたとされる。本丸からは稲荷参道に入れ有子山城の登城口に繋がっている。有子山は標高321m。すぐ「これより先、熊が出没することがあります。入山者は注意して下さい。」との案内が有る。鈴を2個装着し進んで行く。有子山城は東西740m、南北780mもある巨大な城郭。山頂付近は詰の城とされ山麓に平時の住まいとする居館や郭が設けられた。登城路は尾根伝いで急坂。補助ロープを掴みながら登って行く。30分弱で井戸曲輪に到着。全国的に珍しい7段の石垣。数分で主郭部の下にある曲輪に到着。野面積みの石垣が広範囲で残る。山頂の主郭部の南側に天守台跡と土塁が残っている。眺望は素晴らしいので晴天の日に是非登城して欲しい。下山する際は急坂なのでかなり大変。安全にロープを利用して降りると良いと思う。結局、50分ほど掛かり山麓に到着。
黒井城
2019年5月26日
春日住民センターでスタンプ。城址は猪ノ口山の山頂にあり標高は約365m。登山なのでそれなりの靴や水分等の準備が必要。登城路は二つのルートがあり、「急坂コース」、「なだらかコース」。前者を選択。黒井城は1335年に赤松貞範が山頂に簡素な城を築いたことから始まる。登り始めて数分で猪よけの柵があり、鈴を装着。登城路自体は整備されているが、急な坂道で結構、シンドイ。道の脇は木々が覆い茂っており獣がいてもおかしくは無い。1554年、赤井直正が城主となり、城の大改修を行った。現在の黒井城の原型である。山麓から山上までは約800mくらいであるが、要所要所で残りの距離表示があるので励みになる。途中、太鼓の段、石踏みの段を通る。約30分後にようやく本城付近へ。本城で目に入って来るのが東曲輪跡の野面積みの石垣。道中は木々と土しかないので人工の遺物登場に感動する。東曲輪の上には三の丸があり、石垣有り、更には空堀があり、二の丸から本丸にかけては素晴らしい石垣が残る。最高位置にある本丸には城址碑。眺望は素晴らしいの一言。下山ルートは「ゆるやかコース」。急ぎ足でも15分ほどと思う。計約1時間30分弱だった。
洲本城
2019年4月14日
高知城、岡豊城と廻り、名古屋への帰路途中での登城。まず、洲本市立淡路文化資料館に寄り、スタンプをゲット。その後、車で大手門跡を過ぎ、馬屋にある駐車場に止めた。この日は雨であったが、晴れている日はここからかなりの絶景が楽しめるのではないかと思う。最初に築城したのは、淡路水軍の安宅治興で1526年とされる。登城路は普通に綺麗に整備されており緩やかな道を行く。右手に見えた石垣はなかなかのモノ。織田信長の淡路攻めで降伏した後は、仙石氏、脇坂氏が入った。総石垣に改修したのが脇坂氏とされる。本丸への大石段は大迫力でここの見所の一つだ。本丸からは模擬天守が見える。模擬天守としては日本最古のものだ。かつては、大手口であったと推定されている搦手口までを見て、登城完了とした。降雨と時間の都合で、駆け足での登城だったので、30分ほどで終了。他の見所も廻るとなると恐らく1時間ほどは必要であると思う。案内は随所にあったが、説明版はもう少し増やしてもらえれば良いと思う。
大和郡山城
2018年10月8日
三重和歌山奈良の続100名城3日間7城の城旅行。3日目最終日、オーラスの7城目だ。アクセスは電車は、近鉄橿原線の近鉄郡山駅から徒歩10分弱、若しくは、JR関西本線の郡山駅から徒歩15分程度。車なら、追手門に数台の駐車スペースがあるが。駐車場と言う感じでもない気がするので、自己責任で。スタンプ設置場所である柳沢文庫にて押印、登城開始。かなり、立派な石垣で期待が膨らむ。郡山城の天守は文献等の記録がなく、幻の天守とされていたが、平成26年の調査で礎石が発見され、その存在が確認された。それらは天守台に展示されている。天守台の野面積の石垣は圧巻の迫力。さかさ地蔵というものが祀られているので、お見逃し無く。大和郡山城は石垣類、堀の壮大さ、天守台の礎石、再建建造物など、見所は多く、楽しい。ゆっくり見て廻れば1時間弱程度だ。こうして、三重和歌山奈良の続100名城3日間7城の城旅行の終了。少々、運転疲れの状態であったが、安全運転で名古屋への帰路に着いた。
宇陀松山城
2018年10月8日
三重和歌山奈良の続100名城3日間7城の城旅行。3日目最終日、ラス前6城目で、新宮城の後のロングドライブ、途中、休憩を挟みながら3時間半を超える長さの山道を走る。当然の山あり谷あり、細いトンネルやすれ違えないほどの細い道など、同じ道を行かれる方は安全運転で。アクセスは、近鉄大阪線の榛原駅から「大宇陀」行きバスで「大宇陀」バス停下車、徒歩約20分、車なら、「道の駅 宇陀路大宇陀」に駐車出来る。そこから、スタンプのある松山地区まちづくりセンター「千軒舎」までは徒歩で数分だ。裏口からすぐに登城開始。山林の中の舗装された緩やかな登り坂を進んで行く。登城して約10分強で本丸に到着。本丸には御殿や書院、台所などの5棟から成り立っていたとされる。天守閣跡からの眺望は10分程度で登った割には、なかなか、良かった。宇陀松山城は2018年10月現在、まだ整備中であり、また、台風の影響と思うが、立ち入り禁止区域や倒木が結構あったりして、これからの発展を願って止まない。道の駅の駐車場から行って帰って、1時間弱くらいは必要と思う。
新宮城
2018年10月8日
三重和歌山奈良の続100名城3日間7城の城旅行。3日目最終日は、新宮城から、奈良県の宇陀松山城、大和郡山城を目指す、ハードな日程。アクセスはJR紀勢本線の新宮駅から徒歩10分、車なら、ちょっとわかりにくいが駐車場が完備されているので、そこに止めれば、目の前が新宮城だ。スタンプのある新宮市立歴史民俗資料館に向かう。210円を支払い、2階にある設置台でゲット。新宮市立歴史民俗資料館から車で10分程度で無料の駐車場新宮城に到着、そこが登城口だ。階段を登ると、すぐに本丸への入り口へ。建物は残っていないが、当時の石垣が往時を偲ばせる。本丸からは熊野川が一望できる。高くは無い場所にあるが、爽快な眺望だった。見所の多くは石垣で、小規模ながらも、武者返しの石垣や本丸の搦手口の石垣も立派。見たかった水の手は、崖崩れで立ち入り禁止で残念。新宮城は大きくは無いので、見所を廻って30分単位といったところ。この後、奈良への気の遠くなる山道のロングドライブが待っていた。168号線、160?を3時間30分に渡る厳しいドライブだ。
若桜鬼ケ城
2018年11月2日
続100名城の31城目は鳥取県の若桜鬼ヶ城。11月上旬の3日で鳥取島根山口の未踏の城を廻る。電車でのアクセスは、鳥取駅から若桜鉄道で約50分、若桜駅下車。車なら、城址まで約10分ほどの駐車場まで上がれるが、2018年11月初旬時点では、土砂崩れにより通行止めとなっているので、要注意。若桜駅の無料観光用駐車場に止めるしかない。そこから、城頂上までは徒歩で40分とのことだ。まずは、若桜町観光案内所にて、スタンプをゲット。徒歩での登城を開始、約10分で山腹遺構に到着、更にそこから15分程度で、あと一息のところに到着。道中は、それなりに急な登山道を行くことになるので、準備はしっかりとされたし。所々に鳥獣侵入防止用の電気柵がある。実際、微量に通電されていたのを確認したが、感電するようなレベルではないのでご安心を。石垣や山城好きな方には非常に楽しめる城だと思う。若桜鬼ヶ城は駅前からの往復で約1時間30分程度は掛かると思う。出来れば、頂上まで10分程度の駐車場までの道が再度、開通することを願う。
米子城
2018年11月2日
続100名城の32城目は鳥取県の米子城。11月上旬の3日で鳥取島根山口の未踏の城を廻る。若桜鬼ヶ城から車で向かうが、3時間以上、掛かった。無料の湊山公園駐車場があるので、そこからすぐに登城。山頂までは約15分程度。5分ほど行くと、「登り石垣」が見えて来る。これは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に朝鮮半島南部に築いた倭城に多く用いられた構造物で、城域の遮断や山上と山麓の一体化、港湾防御などが目的とされる。天守台跡にちょっとした休憩所がある。そこでスタンプが押せる。天守台跡に五重の天守閣と四重の櫓があったとされる。米子城は、今に残る石垣の壮大さと天守台からの眺望が素晴らしい。是非、行って頂きたいお勧めの城だ。時間的にも駐車場からなら往復で30分もあれば、見所をカバー出来るであろう。
浜田城
2018年11月3日
続100名城の33城目は島根県の浜田城。11月上旬の3日で鳥取島根山口の未踏の城を廻る。2日日の最初は浜田城。電車でのアクセスは、JR浜田駅から徒歩20分程度。車なら、浜田護国神社まで上がれ、無料駐車場あり、すぐに登城可能。2018年11月初旬の段階では、登城路の整備工事が行わている。入り口には立ち入り禁止の看板があるが、工事の方に確認したところ、入城可能とのことだった。1620年に古田大膳が築城を開始し、1623年に築城を完了させたと言う。その後、松平氏、本多氏などが居城とするが、幕末の1866年に幕長戦争の際に、長州軍の攻撃で落城。浜田城は平山城ではあるが、海城とも呼ばれ、海上交通を重視した城であったとのこと。本丸からは外の浦の湊が見える。浜田城は護国神社からの登城であれば、往復で15分程度であろう。登城道はしっかりと整備されているので、問題は無い。特に、これっといったものは無いのが残念であるが、天守からの眺望は素晴らしかった。
備中高松城
2018年11月10日
11月の3日で大阪岡山広島の未踏の城を廻る。電車でのアクセスは、JR桃太郎線の備中高松駅から徒歩10分程度。車なら、城址に2箇所ほど、駐車場有り、いずれも簡単に到達出来る。スタンプは城址公園資料館にて押印出来る。資料館には各種の貴重な資料があるので、是非、立ち寄られたし。高松城は広大ではあるが、見所はさほど多くは無いので、全ての関連の場所を見ても、1時間くらいであろう。本能寺の変という歴史的場面の裏で埋もれてしまった清水宗治の忠義心、秀吉軍の築堤の技術の高さなどを感じられる場所。天気が良かったので、ゆっくり散策して、非常に気持ちが良かった。
三原城
2018年11月10日
11月の3日で大阪岡山広島の未踏の城を廻る。2日目は備中高松城から福山城、最後の三原城へ。車では、三原駅近くにコインパーキングなど有り、簡単に到達出来る。電車でのアクセスは、多分、未来永劫、一番楽であろう。何と言っても、駅構内から登城できるのだから。三原駅前のペアシティー三原にある「みはら歴史館」でスタンプをゲット。無料が嬉しいし、中身も小規模ながら、短時間で簡単に学習できる。現地の説明版によれば、三原城のこの天守台は日本一の規模であり、広島城の天守閣が6つも入る大きさだと言う。築城されたのは1567年で安土城よりも10年前であり、従い、まだ「天守閣」を建造すると言う発想がなかった時のものだ。三原城は、海に向かって舟入を開いていたので、満潮時には海に浮かんでいるように見えたそうだ。それが、「浮城」とも呼ばれていた理由だ。三原駅の逆側から徒歩数分で、その船入櫓跡が残っている。三原城は天守台とその堀の周囲を一周して、天守台跡に登って、その他の箇所を見て廻って、30分程度。途中下車でも気楽に立ち寄れる。
新高山城
2018年11月10日
11月の3日で大阪岡山広島の未踏の城を廻る。2日目は備中高松城から福山城、三原城へ。三原城のスタンプ場所である「みはら歴史館」で新高山城について聞くと、豪雨の影響で云々とのことで、登城は中止し、パンフレットだけとなった。だが、ちゃんと調べてみると、既に、登城している方々もいるようで、少々、後悔。ただ、登山道の一部が崩れているのは事実のようなので、致し方なし。また、三原市のホームページによると、新高山城の臨時スタンプ設置場所となっている「みはら歴史館」が11月末をもって、臨時スタンプを終了とのこと。正式に登城できるのは11月末からか。ご訪問の際には、良くご確認されたし。
大内氏館・高嶺城
2018年11月4日
続100名城の34城目は山口県の大内氏館・高嶺城。11月上旬の3日で鳥取島根山口の未踏の城を廻る。最終日は、大内氏館・高嶺城、岩国城、広島城と忙しない。まず、大内氏館への電車でのアクセスは、JR山口駅から徒歩で30分、車なら館跡(現在、龍福寺)前に無料駐車場有り。さて、高嶺城は大変、電車ならJR山口駅から徒歩90分、バスは、バス停「県庁前」から徒歩で70分。車なら、おとどいやま森林公園駐車場から徒歩45分、もしくは、主郭まで徒歩10分で行ける場所もあるが、詳しくはblogで。http://daiyuu9224.livedoor.blog/
龍福寺に駐車し、大路ロビーでスタンプゲット。大内氏館・高嶺城は両方を廻って、1.5時間強くらいか。もちろん、高嶺城をどこから登るかでだいぶ違うが。恐らく、遠方から来て、大内氏館のみではその甲斐がなく、物足りない感じがするので、是非、高嶺城にトライ頂きたいと思う。
勝瑞城
2019年4月13日
徳島城、一宮城と訪問後、徳島ラーメンの昼食を挟んで車で1時間半ほどで到着。まずは城址近くにある武田石油さんで満タン給油に、スタンプをゲット。館跡の駐車場から登城開始。ここは勝瑞館跡と勝瑞城跡の2箇所に分かれている。第一印象は、街中にあるだだっ広い空き地みたいで、ここに大きなスーパーでも作るのではないか?とも思わせる。現地では親切な説明版や、こういったアニメものもあり、頑張っている点に感心。勝瑞館の建設時期は定かでは無い。ここには室町時代に阿波守護の細川氏の守護所が置かれていたとされ、戦国時代に阿波を支配した三好氏の居館跡と推定されている。館跡としては、結構、広大な敷地。だが、あまり、復元物がないので今後に期待と言ったところ。大きな通りを渡った方に、勝瑞城跡があるが、現在は見性寺の境内になっている。境内には、三好氏の盛衰を記した勝瑞義家の碑がある。勝瑞城は正直なところ、15分程度もあれば十分かと思うが、発掘場所には丁寧な説明版もあるので、それをじっくりと読むのが良いと思う。
一宮城
2019年4月13日
徳島城から車で約30分ほどで到着。近くの大日寺に駐車し登城開始。登城口には案内板、パンフレットに加えてスタンプがある。一宮城址登山口」とあり、簡単な登山、夏場などは水分等の準備をしてからの登城が必要と思う。道自体は整備されているので登り易いが、最初はまま急な階段を行くことになる。築城主は小笠原長宗で、南北朝時代の1338年とされる。途中、倉庫跡や畑跡を見て約15分弱で才蔵丸跡の虎口に到着。ここまで来ると比較的平らな道を行くのでツラさは無いと思う。才蔵丸から明神丸へは数分で着く。ここからの眺望は絶景だった。明神丸を後にして、楽しみにしていた本丸へ。いきなり、石垣の虎口が現れる。本丸に残る石垣は蜂須賀氏が作った。本丸を後にして、小倉丸へ。土塁と櫓台跡が残っている。最後の水の手丸に到着。土塁が良く残っていたし、眺望も良かった。本丸から先は人もおらず、やや獣が出そうな雰囲気が有るが、開けているので心配は無いと思う。一宮城は、登城口から北の才蔵丸・明神丸・本丸の3つの曲輪、南の小倉丸・椎の丸・水の手丸を見廻って下山まで、1時間半程度は必要。
引田城
2019年1月14日
続100名城の56城目。城址入口に駐車場とは思えないが、3台くらいが駐車出来るスペースがある。引田城は文献史上、「南海通記」なるものに、1467年から1469年に寒川氏が領したとの記述があるのが初見である。その後、四宮氏、矢野氏が居城とするが、1582年に土佐の長曾我部元親の侵攻を受けることになる。その翌年、羽柴秀吉は仙石秀久を派遣するも、撤退。だが、1587年に生駒親正が秀吉から讃岐国を与えられ城主となる。発掘調査により、生駒氏の代に、土作りの本城を石垣などで改築したと言う。本丸跡は非常にこじんまりとしている。生駒氏はその後、高松城に移るが、引田城は重要な支城としていた。天守台跡から5分ほど行くと、引田鼻灯台がある。この後、見逃せない2箇所に向かう。東の丸と北二の丸の石垣。ここまで来た甲斐があったと思わせる高石垣に感動。引田城は山麓から見所を全て廻って、往復で1時間弱だった。本丸などにしっかりと残っている石垣と絶景の眺望などとても楽しめる城であると思う。
能島城
2019年1月13日
続100名城の55城目。事前の調べで、この時点では能島への上陸は不可とわかっていたが、スタンプのある村上水軍博物館へ。博物館にてスタンプをゲットし、館内を見て廻る。築城時の様子が人形を使って再現されている。能島は所謂、無人島で14世紀中期以降に能島村上氏が築城したとされる。村上氏は、村上海賊」と呼ばれるが、俗に言う略奪のような不法行為をしいていたわけではなく、この地域を通行する水先案内人のようなことをし、通行料を徴収していた。博物館には展望台があるが、何も見えないので、カレイ山展望台に向かった。現地での案内図に寄れば、確かに、この地域が要害であったことが確認できる。この展望台からの眺望は晴天であったこともあり、圧巻だった。瀬戸内海の島々が良く見える。廃城以降、無人島になったので、遺構等が良く保存されていると言う。携帯電話のカメラでも登城路や本丸、本丸を囲む二の丸がちゃんと見える。残念ながら、2019年1月時点では、西日本豪雨の影響で能島への上陸は出来ず。是非とも、復旧して、激しいと言われる潮の流れを体験し、登城してみたい城だ。
河後森城
2019年1月13日
続100名城の54城目。車なら、風呂ヶ谷口に無料の駐車場がある。整備されている緩やかな山道を歩いて行く。河後森城の築城時期は明らかになっていない。1500年代後半に川原淵殿と呼ばれていた渡辺氏の居城となっていたとされる。10分弱で虎口に到着する。復元された門がある。スタンプは西第十曲輪の馬屋。勿論、再建物であるが、もう少し、お馬さんの出来が良ければ。。。この城には、多くの曲輪があるが、それを分断する堀切が凄かった。登城口から20分少々で到着した本郭には、建物や門跡、主殿舎と言われる城主の居住跡が残っている。さらに奥に行くと、東第四曲輪と古城第二曲輪の間に、堀切があり、掘立柱の門があった。再現された門がある。その先にあるのが、古城と呼ばれる場所、建物や櫓の跡が発掘調査で発見されている。古城があれば、新城があるので、現地で是非。進路通りに進んで行けば、見所を全て見ることが出来る。往復で1時間程度であろう。城内の整備状況は非常に良く、案内板は子供達の研究の成果?が出ており、それが楽しかった。
岡豊城
2019年4月14日
高知城から向かい40分ほどで高知県歴史民俗資料館に到着。2階にてスタンプゲットし、常設展の長曾我部氏と戦国時代の資料等を見てか登城開始。入り口には今時っぽい長曾我部元親公の飛翔之像がある。岡豊城は南北朝期に長曾我部氏が築城したとされる。長曾我部氏はここ土佐の有力者で土佐七雄の一つであったが、国親が出るまでは最弱であった。三の段には礎石建物跡が確認されている。周囲には土塁、石積みも発掘された。
長曾我部氏が飛躍するのは国親の子である元親が登場してからである。ここを拠点に土佐と四国をほぼ制圧したのは1585年のことだ。三の段からこの城の本丸にあたる詰の段へ。建物の礎石跡が調査によって明らかになっている。詰には近世城郭の天守の前身とされる二層以上の建物があったと推定されている。詰には土塁が残っているので、地味ながら見ておきたい。詰から二の段に向かい城を後にする。途中、二の段にある堀切や井戸跡などが見所だ。駆け足で廻って、約20分であった。山城であるが、急な坂道などは無く楽に登れる。小ぶりな城で、曲輪など縄張りが非常に良く分かり易い。これで四国の100名城、続100名城が終了。
小倉城
2018年11月26日
続100名城の41城目。街中に突如、現れる城址、案内に従って、地下駐車場に止め、槻門(けやきもん)から登城。藩主、役人の他、家老や主な寺の住職のみが通行を許された門だ。1569年、毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まり、1602年、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興が築城、約7年で完成した。細川氏の後、小笠原氏が代々の居城となるが、幕末の長州戦争で敗れ、自ら火を放ち、城内の建物等は消失してしまった。鉄門は、中老以下の一般武士が通行した門で、左半分は当時のものである。良く見ると、落城時の炎で石垣が赤く変色しているのがわかる。正面玄関である大手門は巨石を用いて作られている。周辺にある小倉城庭園は、小笠原氏の別邸であった下屋敷(御遊所)跡を復元した大名の庭園と、当時の武家書院を再現したもの。この時期は紅葉が素晴らしかった。小倉城周囲も散策するのが良いと思う。庭園は勿論、八坂神社など。だが、意外と歩いてわかった水堀が印象的だった。
水城
2018年11月23日
続100名城の37城目。11月末の4日間11城の城巡り旅行、初日の大野城からの2城目。大野城から30分くらいで到着。第2駐車場に止め、登城。城と言うよりは、「土塁、防御壁」であることを念頭に行かれると良い。「水城館」という土塁の下に作られたガイダンス施設に行き、スタンプを押印、ビデオを視聴するのが良いであろう。バッジもくれるので記念になって有難い。663年の白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に日本が敗れた後、侵攻に備えて、664年に大和朝廷が大野城や基肄城とともに築いたもの。多分、ガイダンス施設でもらったパンフレットの配置図が分かり易い。水城は長さ1.2Km、幅80m、高さ10mの土塁とその内外に水濠があったとされる。又、大宰府への入口の関所としての役割もあった。往来の場所としても有名で、万葉集にある大伴旅人と児島の離別の歌は水城館の広場に歌碑となっている。水城は館でビデオを見て、周囲を散策しても30分程度。若しくは、もっと短時間でも可能と思う。まあ、こんな続100名城もあっても良いのではないか?といったところ。この後、この日最後の基肄城(きいじょう)へ向かう。災害で大変だった場所だ。
久留米城
2018年11月24日
続100名城の39城目。11月末の4日間11城の城巡り旅行の2日目。1504年頃に笹原城として築いたのがその前身とされ、1587年、秀吉の九州平定で毛利氏が入り、本格的な近世城郭に修繕した。だが、毛利氏は関ヶ原の戦いで西軍についたため、その後、田中氏が入ることになる。1621年に有馬豊氏が城主となり、幕末まで治世の中心となった。残念ながら、現存している建築物は無いが、当時は7つの櫓があったとされる。本丸は、現在、有馬氏ら歴代の城主を祀った篠山神社となっている。この社務所にスタンプがある。また、有馬氏のゆかりの資料が展示されている有馬記念館も傍にある。有馬氏の歴史のビデオが3編あり、勉強になるのも良い。何と言っても、15代当主の有馬頼寧氏が、かの年末の風物詩「有馬記念」の創設者であることが最も印象に残ってしまった。(有馬記念のビデオは、あの歴史的圧勝したディープインパクト。)久留米城は、さほど広くもないし、見る場期箇所も多くは無い。有馬記念館でじっくり鑑賞しても45分もあれば十分ではないかと。この後は、100名城の吉野ケ里へ向かう。
基肄城
2018年11月23日
続100名城の38城目。11月末の4日間11城の城巡り旅行、初日の大野城、水城からの3城目。水城から、まずはスタンプのある基山町民会館の事務所へ。職員の方から、「草スキー場から登城できる。」とのこと、親切に道を教えてくれ、資料もたくさん貰った。町民会館から10分弱ほどと思うが、やや細い道を行き、無事、草スキー場の駐車場へ到着。
見所は色々とあるようだが、この時点では、草スキー場から山頂を目指すことしかできない。残念。10分も掛からなかったと思うが、山頂に到着。基肄城は、665年に大和朝廷が大宰府防御の為に築いた日本最古の朝鮮式山城。663年の白村江の戦い後、664年に作られた水城に続き、大野城ととも作られた。基山の山頂、展望台からのその眺望は素晴らしいの一言。まだ多くが被災によって見れないので、今回の草スキー場(山麓)から、基山頂上の往復で40分程度だった。1300年以上前の貴重な山城、もっと、隅から隅まで見てみたいと思う。これで、4日間11城の城巡り旅行、初日は終了。久留米のホテルに宿泊。翌日は、久留米城、吉野ケ里、佐賀城の3城に挑む。
唐津城
2018年11月25日
続100名城の40城目。続100名城では佐賀県で唯一の城。11月末の4日間11城の城巡り旅行、3日目のスタート。2008年に登城したことがあり、約10年ぶり。有料の駐車場に止め、地下道を歩いて行けば、すぐに到着する。また、有料エレベーターで天守までラクチンにがあがれるので、興味のある方は是非。唐津城は、豊臣秀吉の家臣の寺沢広高が、1602年から7年の歳月を費やして完成した。築城にあたっては、名護屋城の資材と転用したとされる。天守の石垣等は、最近、修復された。寺沢氏の後は、目まぐるしく、有力な譜代大名が入り、明治になって廃城となる。当時の絵図から、5層5階の天守で、現在は模擬天守、内部は歴史館となっており、スタンプはここの1階に設置されている。最上階からは唐津市や海が一望でき、なかなかの眺望。唐津城は大きくは無く、さほど見所もないので、30分ちょっとあれば十分であろう。この後は、この旅行のメインとも言える名護屋城だ。急ぎ、現地へ向かう。
金田城
2019年10月14日
対馬空港から車で15分ほどの「観光情報館ふれいあい処つしま」へ。すぐに館内にある観光案内所に行き、続100名城最後のスタンプをゲット。登山口の駐車スペースから登城開始。厳しい山城なので登山の準備を。金田城は667年に大和政権が築城した。その4年前の663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した倭国は、唐の日本列島への侵攻に備えて西日本各地に古代山城を築いた。その中で、朝鮮との最前線である国境の島の対馬に築城されたのが、ここ金田城だ。約10分ほどで東南角石塁が出現する。圧巻だ。二ノ城戸門跡の石垣はかなり良好に当時の姿を残していると言う。再び、進み、散策の最終地点である一ノ城戸に到着。およそ6.4mの城壁石垣を目の前で眺める。よくぞ、ここまでとどめているものだ、と感動を覚えざるを得ない。この後、城山頂上を目指す。15分弱で、南西部石塁に到着。ここは下の方へは行けないが、圧巻の城壁。標高276mの城山山頂に到着すれば、達成感に満たされること間違いなしだ。ここからの眺望は絶景の一言。全ての見所を廻って、下山して2時間15分であった。これで感動の200名城達成となった。
福江城
2019年10月5日
いよいよラス前となる199城目。福岡空港からは40分も掛からずに五島福江空港に到着、すぐに、迎えのレンタカー会社の送迎者に乗り福江市内へ向かった。福江城は1863年に五島家11代目の五島盛徳が築城した海城で日本で最も新しい日本式城郭であり、江戸幕府最後の城。現存物は多くは残っていないが、石垣は当時のままだ。登城の際には必ず行くことになる五島庭園は往時の姿を留めており、国指定の名勝。受付にて続100名城99城目となるスタンプをゲット、内覧させてもらう。ここは二の丸跡であり、奥の方には野面積みの石垣を眺めることが出来るので、スタンプのみではなく庭園を歩くことをお勧めしたい。庭園の案内の方が非常に親切で、五島家と城の歴史を知る良い勉強になった。城の搦手である蹴出門は修復を重ねながら現存している門。福江城は全体を見て庭園散策して1時間。五島市に行くなら、福江城のみではなく他の観光地を回るのも楽しいと思う。
原城
2019年3月24日
スタンプのある有馬キリシタン記念館に立ち寄る。館から数分の原城温泉真砂の駐車場に車を止め、登城開始。美しい景色の中を歩く。10分ほどで本丸付近に到着、壮大な空堀跡は本丸の守備のため。原城は1599年から5年を掛けて有馬晴信が築城。有馬氏が日向の延岡城に転封されると松倉氏が入るが、原城を廃城、島原城を築城。松倉氏の治世は厳しく、徹底したキリシタン弾圧を行った。これにより1637年に島原・天草一揆が勃発する。徹底抗戦した天草一揆勢であったが幕府軍によって鎮圧されてしまう。本丸に入って2つ目の門となる埋門は幕府軍によって破壊。本丸には櫓台跡が残る。3層の天守相当の櫓であったと言う。ここからの眺望は本当に素晴らしいの是非、現地にて。島原・天草一揆の時に盟主となったのが齢15歳の天草四郎時貞。ここで88日間、籠城するも幕府軍の総攻撃で落城、時貞は本丸で斬首。原城は駐車場から見所を全て廻りやや遠方にある天草丸跡まで行って、往復で1時間少々だった。道は整備されており、登城の案内や説明も十分。城ともども有馬キリシタン記念館の素晴らしさ、爽快な眺望、世界遺産の構成にもなっていることもあり印象に残った。
鞠智城
2019年3月21日
車なら歴史公園に無料の広い駐車場があるので便利だ。温故創生館にてスタンプを押し、シアターや展示物を見廻る。特にシアターはとても分かり易いので、登城前に是非。鞠智城は、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷が日本への侵攻に備えるために築城したとされる。展望所から少し行くと灰塚なる見晴らしの良い場所がある。数分で土塁や涼みヶ御所といういかにも当時の偉い人がここで涼んでいたと思わせる高台、このようなワクド石と言う巨石に出会える。鞠智城は、唐の日本列島への侵攻に備えて築いた城の一つであるが、その目的は大宰府やそれを守る大野城・基肄城・水城に武器・食糧を補給する支援基地であったとされる。倉庫の跡が多く発掘されていることからそのように推定されているそうだ。シンボルである八角形の建物跡は4基が確認されており、古代山城では類を見ないと言う。実際に復元された八角形鼓楼は一際目立つ。特殊な形状であることから、何か特別なものであり、見張りや時を知らすためのものではないか、と考えられているとのこと。鞠智城は温故創生館で学習し、ほぼ見所の全てを廻って最低でも1時間半くらいは必要。
八代城
2019年3月22日
八代城目の前のホテルに宿泊。朝一で登城開始。すぐに広大な水堀が見えて来る。ここ肥後国は、1615年の一国一城令にも関わらず、熊本城と麦島城の二城体制が特別に認められていた。だが、1620年の大地震で麦島城は崩壊、藩主の加藤忠広は幕府の許可を得て、城代の加藤正方に命じ、2年後に八代城の築城を開始した。当時は5つほどの櫓があった。本丸の北西隅に5層6階の大天守、渡り廊下を通して2層2階の小天守があったとされる。だが、1672年に落雷によって消失、その後は再建されなかった。その石垣の高さは約12mあると言う。水堀と石垣はかなり立派であった。スタンプは歩いて10分弱にある未来の森ミュージアムにあるが、2019年3月末までは休館、守衛室で押印し、駐車場へ帰った。八代城はそう広くは無いので、見所を廻って40分程度であった。城内の本丸だったと思うが、粗大ゴミと思われるモノが散乱している点は何とかして欲しいと思う。
中津城
2019年2月2日
続100名城の57城目。車なら、城址入口に広い無料駐車場あり。模擬天守のある本丸と二の丸の間にある薬研掘りを見ながら、登城。1588年に黒田孝高(官兵衛)が着手するが、完成せずに時が経ち、関ヶ原後に細川忠興が入り、改修を行った。本丸に入るとすぐに、模擬天守があり、奥平家歴史資料館となっている。スタンプはこの中。天守最上階からは中津川が良く見える。中津城は水門から海水が入っており、潮も干満で堀の水量が増減する。ゆえに、今治城、高松城とともに、日本三大水城となっている。中津城の最大の見所は堀の石垣だと思う。当時、石垣作りの高度な技術を持った集団、穴太衆(あのうしゅう)が作ったたされる石垣が残る。自然石を加工せず利用した「穴太積み」。また、川沿いの方へ向かえば、鉄門跡が残る。ここには黒田氏が古代山城から持ち込んだ石で作られた石垣が残る。本丸の石垣には、黒田氏時代と細川氏のそれがくっきりと継ぎ目のように残っている。中津城は大きくは無いので、2つの資料館、石垣などを見廻って1時間程度だった。建築物の遺構が無いのは残念であるが、周囲の石垣や水堀は歴史を感じることが出来、良かったと思う。
角牟礼城
2019年2月2日
続100名城の58城目。車なら、城址入口に広い無料駐車場あり。スタンプのある豊後森藩資料館へ。ここに行くにはナビで「玖珠町立わらべの館」にするのが良い。わらべの館の2階が資料館となっている。スタンプをし、登城口へ向かう。角牟礼城の築城時期について確たる史料はないが、1278年~88年に森三郎朝通との伝承がある。1532年〜1555年頃は大友氏の支配下にあり、1586年、薩摩の島津氏から侵攻を受ける。この大友・島津氏の戦いでは島津方6000人に対し、僅か1000名で追い返したことから、難攻不落と呼ばれた。秀吉の九州平定後、1593年に大友氏は改易され、毛利高政が入り、織豊時代の城郭に改築する。その頃に作られたとされる二の丸西曲輪には礎石建物の跡が残る。本丸周囲は土塁で固められている。櫓の跡も調査委により、発掘されている。本丸北側には石垣の跡も見られる。本丸周辺の石垣は、かの穴太積みが確認されている。つまり、土塁などの中世山城の特徴と、近世城郭の石垣が残っているというわけだ。角牟礼城は山城であるが、三の丸までアクセス出来るので、往復で1時間も掛からないと思う。
臼杵城
2019年2月3日
車なら、城址目の前にある臼杵市観光交流プラザに無料駐車場あり。ここでスタンプをゲット、登城可能、現存する古橋から。臼杵城は1556年に大友義鎮(宗麟)が臼杵湾に浮かぶ丹生島に築城。鐙坂と呼ばれる登城路を上がって行くと、現存する畳櫓がある。江戸の天保期に再築されたもので、内部に「隠し狭間」があることがわかっている。大友氏が改易された1593年以降は、豊臣秀吉の武将、福原氏、太田氏の居城となる。関ヶ原後は稲葉氏が城主となり、以降、廃藩置県まで15代に渡ってこの地を支配した。二の丸には各種の櫓跡や庭園跡などがあり、一部や野球場になっている。二の丸から本丸へ向かう本丸塁線石垣が残る。また、二の丸と本丸を区切る壮大な空堀もある。高くはないが、本丸の天守台跡が残る。四重の天守があった。天守も含め、城内には合計25個の櫓が建っていた。鉄門の石垣は、巨石の組み合わせて積んであった。角石は算木積み、17世紀後半のものとされる。城内最大の高さ7mの石垣が西の丸居館北側に現存しているので、お見逃しなく。
臼杵城は駐車場からの往復で全ての見所を廻って1時間程度。
佐伯城
2019年2月3日
臼杵城の後に臼杵石仏に立ち寄り、そこから車で30分で佐伯市歴史資料館に到着。受付にてスタンプをゲット。登城ルートはA.独歩碑の道、B.登城の道、C.翠明の道、D.若宮の道と4つある。効率を考えてCの黎明の道から行くことにした。ここからなら、西出丸→二の丸→北出丸→本丸と廻り、Aの独歩碑の道から降りれる。ただ、山城なので、結構、傾斜もあるので夏場は水分の準備をして向かわれたし。佐伯城は1602年に毛利高政が4年のの歳月を掛けて完成させた山城である。登城して10分少々で西出丸に到着。西の丸から二の丸、本丸方面へ。連郭式の縄張りが良く分かる構造になっている。二の丸から本丸へは狭い廊下橋が残る。廊下橋からは本丸の石垣が見れる。そして、本丸の天守台跡へ。当時は三重の天守が建っていたが、1617年の火災で焼失、その後、再建はされなかった。本丸からの眺望は佐伯市内、佐伯湾が一望できる素晴らしさであった。佐伯城は資料館を見物と、山上までの往復で1時間半は必要と思う。山城なので、少々、厳しい道を行くが、石垣や櫓跡、眺望や縄張りなど非常に楽しい城であった。
延岡城
2019年2月3日
無料だったか有料だったか忘れたが、城址北側の駐車場に止め、北大手道から登城。その向こうには最大の見所である「千人殺しの石垣」が聳える。最長は22mで、礎石を崩すと、全て崩落し、千人を殺せるとしてそう呼ばれる。真下から見上げると、かなりの迫力、感動も覚えるくらいだった。北大手門からは広い二の丸広場に着く。管理事務所がありスタンプを押印。延岡城は、関ヶ原合戦で東軍へ寝返った高橋元種が1603年に築城した。その後は、三浦氏、牧野氏と変わり、1747年に内藤氏が福島県のいわき市から延岡へ入封、明治まで城主となった。本丸から天守台も数分で到着する。有馬氏の時代には天守代用の三重櫓が作られたが、1683年の火災により焼失、再建はされなかった。城は標高53mの丘の上にある。天守台跡からの眺望は市街地が多いが、なかなかの清清しさだった。延岡城はほぼ全ての見所を廻って、往復で40分くらいであった。登城路は整備されており、緩やかな道を行くので楽。もう少し、天守台跡に見るべきものがあれば良い城では無いかと思う。やはりここは、千人殺しの石垣を真下で見るのが最高に楽しかった。
佐土原城
2019年2月3日
臼杵城、佐伯城、延岡城と廻り、向かう。この時点で登城禁止であることはわかっていたので、スタンプのみを目指し、宮崎市佐土原歴史資料館に行くも営業時間外で入れず、対面にある佐土原いろは館でスタンプはゲット出来た。国の指定史跡でもあり、早期に復旧し、山城の人気が落ちないうちに開城していただければと切に思う。
志布志城
2019年2月4日
午前中に訪問した飫肥城から1時間で志布志市埋蔵文化財センターに到着もこの日は月曜日で休み。センターが休館の時は、志布志市志布志町志布志の志布志市役所志布志支所にてスタンプがゲット出来るらしいが、ご確認の上行って頂きたい。センターから観光駐車場へ向かい、徒歩数分で登城口に。志布志城は、「内城」、「松尾城」、「高城」、「新城」の4つの城郭で構成された巨大な城。今回は時間の都合もあり、最も規模が大きい内城のみ登城。築城年代は不明であるが、1336年にはその存在が記録されている。1357年からは新納氏が城主となり、以降、180年間も続いた。登城開始して10分程度で本丸に到着。この城の見所は、深く切り立った堀切。多く存在しているので現地にて是非。圧倒されること間違いなし。本丸から10分ほど奥へ進むと、中野久尾と言う区域に到着。さらに奥に大野久尾という曲輪があるが、ここまでとした。道中、所々、倒木があるので、注意しながら進みたい。整備された部分の見所を急いで廻って45分程度であった。縄張りは分かり易く、土塁や堀切が残っている点は良いと思うが、もう少し、案内や説明版等が整備されると尚、良いと思う。
知覧城
2019年3月22日
人吉城を13時に出発し、昼食を挟んで、知覧特攻平和会館に到着したのが15時30分頃だった。まずは、会館の隣にあるミュージアム知覧で城址の勉強とスタンプをゲット、そこから5分程度で駐車場に到着、登城開始。築城時期は15世紀頃と言われているが、定かでは無い。この地は鎌倉時代には知覧氏が治めていたが、南北朝時代には島津氏の庶流である佐多氏が統治している。知覧城は、本丸・蔵之城・今城・弓場城の4つの曲輪からなる。途中、防空壕があったりする山道を5分程度行くと、本丸への入口がある。本丸は綺麗に整備されており、桜はまだであったのが少々、残念。結局、1600年頃に知覧城は火災で焼失してしまい、事実上、これにより廃城となったとされる。本丸を後にして蔵之城へ。蔵之城では発掘調査の結果、虎口や掘立柱の建物跡や中国やタイからの器類などが見つかっているとのことだ。知覧城の4つの曲輪を廻って、駐車場の往復で急げば45分程度。曲輪間は深い堀で独立的になっているが、さほど広くはなくこじんまりとした山城なので意外と所要時間が掛からない城址だ。遺構が残っていないのが残念だ。
座喜味城
2019年1月5日
続100名城の53城目。城址近くの駐車場に止め、スタンプ設置場所のミュージアムへ。城の学習をした後、登城開始。座喜味城も世界遺産の一つ。すぐに二の郭への石門が見えて来る。座喜味城は一の郭と二の郭の連郭式で、15世紀初頭に琉球の有名な築城家であった護佐丸が築城した。二の郭から一の郭へはたった一つの石門を通るしか無く、その城壁はかなり高く、上から弓矢を打っていたとされる。また、左に逃げても、このように行き止まりになっていて、集中的に攻撃出来るとのことだ。一の郭(本丸)への唯一の入城門の中央には楔石が打ち込めれているのが特徴。一の郭は広大で、2棟の建物の楚石跡が残っている。部分的だったと思うが、城壁上に登ることが出来る。その眺望は素晴らしかった。座喜味城は郭が2つのみで中規模の城址なので、駆け足なら15分もあれば廻ることが出来る。登城路は綺麗に整備され、ミュージアムも城址の歴史は勿論、琉球の歴史も分かり易く学習できるが良い。
勝連城
2019年1月4日
続100名城の52城目。駐車場に止め、まずは休憩所でスタンプ。横断歩道を渡り、すぐに登城。世界遺産に登録されたグスクの中では最も築城年代が古い、とのことだ。勝連城は12世紀から13世紀頃に2代目の琉球国王・大成王の五男が築城し、初代の城主となったとされる。緩やかな階段の登城路を行くと、三ノ曲輪の城門に到着する。三ノ曲輪から、二ノ曲輪に建っていたとされる首里城正殿のような建物跡を見て、想像を逞しくする。二ノ曲輪から一ノ曲輪への階段へ上がって行く。左側は城壁の断崖だ。一ノ曲輪が最も高い場所にあり、その眺望は絶景。やや雲がかっていたが、夕方は綺麗だった。勝連城は登城路もちゃんと整備され、案内板もあり、急な階段でもはないので、30分ちょっとで回ることが出来るであろう。休憩所は18時までなので、スタンプに注意すれば、城址自体への入場時間の制限はないとのことだ。