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メンバー情報

ID7896
名前鈴木哲朗
コメント2016年夏に城めぐりを始めました! 探険しながら、城に関する知識も増やしていきたいです!
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
根室半島チャシ跡群
2024年2月3日
97城目。根室駅を降りてから、納沙布岬行きのバスに乗車。納沙布岬のバス停から、温根元漁港の隣に位置するヲンネモトチャシ跡までは徒歩で約30分かかり、極寒かつオホーツク海からの強風で挫けそうになるもなんとか踏破。二度と経験したくないくらいの過酷さだった。「チャシ」はアイヌ語で「柵囲い」という意味で、砦、祭祀の場など多目的な用途で使われていたという。根室市内には32ヶ所あり、そのうち24ヶ所が国指定史跡。根室市のチャシは、海を臨む岬や丘の一端を溝で区切って作られた「面崖式」が一般的で、その眺望は他の城郭には見られないほど壮大。納沙布岬の灯台付近にあるポンモイチャシも訪れたが、整備されていないため、土壌のぬかるみにはまりそうだった。海を挟んだ先には国後島や歯舞群島の一部である貝殻島などが見え、日本人として本土復帰の思いがより一層強まった。
五稜郭
2023年6月17日
94城目。函館空港に降り立ち、久々の北海道旅行へ。本州と比べて涼しかったが、終始曇天だった。言わずと知れた星型(稜堡式)土塁で、五稜郭タワーの展望台から見下ろすとその端正な形が実感できる。1864年、箱館奉行所の防備を固めるため、江戸幕府が完成させた。西洋軍学や築城術に長けた蘭学者武田斐三郎が設計した。日本最大の西洋式土塁を持つ五稜郭だが、外国との戦いの舞台となることはなく、新政府軍と旧幕府軍との間で繰り広げられた「箱館戦争」の舞台となった。1869年5月に新政府軍の総攻撃を受け、旧幕府軍の「蝦夷共和国」陸軍奉行並・土方歳三は箱館の奪回に向かうが、銃弾を受けて戦死する。対して総裁だった榎本武揚は戦争に敗れて投降するも、語学等の才能を買われ、後に明治政府の要職に就いている。幕末の動乱の歴史を復元された箱館奉行所で学び、時が経つのを忘れた。
松前城
2023年6月18日
95城目。函館から車で白神岬を経由して松前へ向かった。道内初のドライブで、海と山の雄大な景色を堪能した。展示資料を通して、松前藩とアイヌとの交易の様子も探ることができた。津軽海峡を目の前にして建つ天守と本丸御門が美しい。門は国の重要文化財に指定されており、門の側には本丸表御殿の玄関が移築されている。外国船の脅威に備えるため、1849年に江戸幕府が松前藩に築城を許可した。元は、松前氏に改称した蠣崎慶広が1606年に築いた福山館という陣屋であり、福山城という呼び名がある。兵学者の市川一学が設計した最後の日本式城郭。幾つもの砲台や大砲を海に向けて備えていたが、背後は手薄になっていたため、戊辰戦争の際に、土方歳三らの旧幕府軍に攻められて落城した。この時、藩主だった松前徳広(のりひろ)は弘前に逃れ、その地で生涯を終える。
弘前城
2020年1月4日
77城目。東北地方唯一の現存天守は、石垣修復のため本丸に移転されていた。天守の屋根は大雪が降っても割れることのない銅瓦葺きを使用している。凍てつくほど寒かったが雪を纏った弘前城の姿を見ると、不思議と心が温まった。津軽地方を平定した津軽為信の子・信牧(のぶひら)が1611年に築城。廃藩に至るまで津軽藩政の中心地となった。五重の天守は1627年の落雷で焼失。1810年、蝦夷地警備の功績を認められた九代藩主寧親(やすちか)が、本丸の辰巳櫓を三重に改築して天守代用とした。北の廓は西方から北方にかけて崖に面しており、籾蔵などの跡が確認されている。堀は3重に巡らされており、その中に残る3棟の櫓と5棟の城門も現存している。明治時代に弘前公園として解放され、さらに市民による桜の寄贈が盛んになり、桜の名所として知られるようになった。
根城
2023年11月12日
96城目。北風が非常に冷たい日だったが、イチョウの黄葉が見頃を迎えており、綺麗だった。本丸の主殿や工房、馬屋などの建物は復元とはいえ、中世の城館の様子が脳裏に浮かぶ。常御殿や奥御殿の平面表示も分かりやすい。本丸の東に六つの曲輪と、その南に沢里館があり、これらの曲輪は薬研堀によって区切られている。創築は鎌倉時代にまで遡る。南北朝時代に国司代に任じられた南部師行が修築し、陸奥の南朝方の拠点の一つとなった。師行は1338年、北畠顕家と共に泉州石津で討死するが、その後は師行の子孫によって城が守られた。秀吉の時代になると、根城南部氏は盛岡南部氏の家臣となり、1627年には遠野へ領地替えとなって城としての役割を終えた。登城後、海岸沿いに進んで蕪島や葦毛崎展望台を訪れ、八戸の町を満喫した。
盛岡城
2016年12月23日
26城目。仙台を巡った後も在来線でひたすら北上し、途中中尊寺に寄ってから盛岡の地へ。南部信直が三戸から不来方の地に居城の移転を決定し、1597年にその嫡男利直を総奉行とし、築城を始めた。豊臣家家臣の浅野長政の助言で、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵上に幾つもの曲輪を配し、それぞれ石垣を構築して内曲輪(御城内)とした。築城工事は洪水により困難を極めたが、36年かけて3代重直の代でようやく完成を見た。東北地方には珍しい総石垣造の城で、盛岡産の花崗岩が使われている。建物はほぼ残されていないが、腰曲輪の石垣をはじめ、保存状態は良い。渡雲橋という空堀上の橋はかつて屋根のある廊下橋だった。石川啄木もこの城跡をしばしば訪れたという。
多賀城
2022年1月3日
90城目。724年に創建された東北地方を治めるための古代律令国家の城。整備された政庁跡に立つと巨大な築地跡などを眺められる。奈良・平安時代に陸奥国の国府が置かれ、古代東北の政治・文化・軍事の中心地となった。約900m四方に築地塀や材木塀がめぐり、中央に政務や儀式を行う政庁があった。政庁は創建されてから11世紀までに3回建て替えられた。現在は勿論建物は残ってないが、当時は正殿や後殿、脇殿など相当立派であったと推定される。その周囲には行政実務を担う役所や兵舎、工房などが配置されていた。平安時代になると城外に道路で区画された町並みが形成され、国史の邸宅までも発見されている。この日は体調が芳しくなく、この後の会津若松行きは諦めた。
仙台城
2016年12月22日
25城目。鎌倉時代創築といわれる千代城があった青葉山に伊達政宗が1600年に築城開始し、そこから2年あまりで完成させた。62万石の大名にふさわしく、当時天守は築かれなかったものの豪華な本丸御殿が建ち並んでいた。天守を築かなかったのは家康に敵意を示さないためといわれている。政宗の死後、二の丸御殿も設け藩政の中心に。しかし、桃山文化を凝縮した数々の貴重な建造物は明治時代に破却され、さらに1945年の空襲で焼失。現在、大手付近は大手門脇櫓のみが再建されている。本丸からは仙台の街並みを一望でき、そこに立つ伊達政宗像の雄姿も印象的だった。登城後、伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿を訪問した。
久保田城
2020年12月19日
85城目。佐竹史料館に閉館間近のタイミングで入館。堀の水は一面真っ白に凍りついていた。その後、雪深い千秋公園を散策。大雪の影響で視界が遮られ、極寒の中なんとか御隅櫓までたどり着く。長坂を登っていくと見える表門は本丸の玄関口にあたり、とても格式が高い。またその門付近にある、出入者の監視を担う御物頭御番所は秋田藩の時代から唯一残っている。関ヶ原の戦い後、常陸から出羽秋田に転封された佐竹義宣が1604年に築いた。佐竹氏自身は石垣普請に精通せず、かわりに土塁普請を得意としたため、石垣がほとんど使用されなかった。城全体としては質素な造りで、天守や三重の櫓はないが、各曲輪の周囲や櫓台の土塁はよく残っている。
山形城
2016年12月21日
24城目。松本から新潟経由で在来線を乗り継いで行き、初めて山形の地へ。最上氏の祖先にあたる斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、1357年に創築した。その後、戦国時代末期に最上義光が幾多の櫓を備え、大規模な平城に拡張した。その後に入った鳥居忠政も大幅な改修を行い、城の形が定まった。三重の堀が巡らされた典型的な輪郭式で、本丸に天守はなく、二の丸を中心に防御体制をしいていた。二の丸東大手門は1991年に木造で再建され、また本丸一文字門も石垣、大手橋、高麗門、及び桝形土塀にいたるまで2015年までに完全復元された。北の関ヶ原合戦といわれる「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れたことから、「霞ヶ城」という異名を持つ。
二本松城
2020年12月21日
86城目。今冬、東北の城巡りは二本松城で締めくくり。この日も風が非常に冷たかったが、秋田や米沢の銀世界とは違い晴天に恵まれた。天守台から西に目をやると、安達太良山がそびえていた。現存してはいないが、1982年に再建された二階櫓や箕輪門、多聞櫓の姿が立派だった。1414年畠山満泰が築いたが、伊達政宗に攻められ畠山氏は滅亡。蒲生氏が入ると、石垣を用いた城郭に改修され、さらに1627年に入った加藤氏により近世城郭の姿に大改修された。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍に攻められ落城。二本松少年隊14名も命を落とすという悲話が残る。霞ヶ城公園より東に向かうと、詩人高村光太郎の妻智恵子の生家があり、二本松は自然と歴史・文化が豊かな町だと実感した。
白河小峰城
2022年4月30日
91城目。東日本大震災により石垣など倒壊したが、訪れた時には完全に復旧していた。江戸時代の工法も用いたそうで、復興工事に携わった方には感謝しきれない。1627年に初代白河藩主となった丹羽長重が、10万石の居城にふさわしい城郭に大改修した。新幹線の駅からも見える威風堂々とした梯郭式の山城で、奥州の押さえとしての役割を果たした。その後松平氏、本多氏、阿部氏と城主が転々とする。幕末の戊辰戦争では、白河小峰城は奥羽越列藩同盟軍と新政府軍の激戦地となり、重要な櫓や門などを焼失してしまう。しかし、平成に入り三重櫓や前御門が完成し、「平成の城復元ブーム」の先駆けとなった。前御門が本丸の大手口に、桜之門が搦手口にあたる。
水戸城
2017年2月18日
35城目。茨城県の代表的名勝、偕楽園と合わせて訪ねた。日本最大級の土造りの城で、石垣構築の跡すら見当たらない。元々は平安時代末から鎌倉時代初期にかけて馬場氏が館を構えていたという。1609年、徳川頼房が水戸に封じられ、水戸徳川家の居城に。2代藩主光圀は国史『大日本史』の編纂事業に着手し、これにより幕末に巻き起こる尊王攘夷思想の原点ともいえる「水戸学」が形成された。水戸の象徴的存在だった三階櫓は昭和の戦災で焼失。現在は、土塁や堀、三の丸に作られた藩校弘道館や本丸薬医門(橋詰門)が残る。薬医門は明治期に水戸市内の祇園寺に払い下げられたが、1981年に本丸にある県立水戸第一高校に再移築した。偕楽園は梅の名所として名高く、9代藩主斉昭が1842年に領民の憩いの場として作らせた。
足利氏館
2017年2月18日
36城目。平安時代後期に陸奥判官として活躍した源善康が最初の築城とされる。父の義国から足利荘を受け継ぎ、足利義康とも称して足利の祖となった。方形居館を守る土塁と水堀が館の四周を巡っており、中世地方武士の住まいを実感できる。現在、足利氏宅跡に鑁阿寺(ばんなじ)があるが、1196年に足利義廉が敷地内に持仏堂・堀内御堂を建立したのが始まり。真言宗大日派の本山でもある。さらに、1234年に足利義氏が伽藍を整備して足利氏の氏寺となった。それほど広くない敷地に本堂・多宝塔・経堂・鐘楼など、これだけの国宝や重要文化財を有している点は、関東では珍しくとりわけ貴重な建造物といえる。
箕輪城
2020年10月24日
83城目。群馬県内初の登城。雲一つない秋晴れで気分爽快だった。榛名山の東南麓に広がる独立丘陵上の中心部に位置する。遅くとも1524年までには長野氏により築城されていたと見られる。長野氏は武田信玄の西上野侵攻に際し、箕輪城を本拠にして抵抗したが、1566年に落とされてしまう。その後、武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏といった名だたる戦国大名の拠点として、それぞれの有力家臣が配置された。最後の城主井伊直政が、城を近世城郭に改築したと伝えられており、1598年に城を高崎に移すと廃城となった。郭馬出西虎口に復元された櫓門が一際目に付いた。残存している石垣は少ないが、三の丸の石垣は特に状態が良い。
金山城
2020年10月24日
84城目。太田駅から無料レンタサイクルで大光院に向かい、そこからハイキングコースで城跡まで向かった。大光院は、家康が徳川家の祖とされる新田義重を追善するために創建した寺院だが、金山城はその新田の一族である岩松家純によって1469年に築城された。その後、下剋上を遂げて城主となった由良氏の時代に全盛期を迎え、上杉や武田の猛攻を受けながらも一度も落城しなかった。1584年、北条氏に降伏し城を明け渡すが、後に秀吉の小田原征伐で北条氏の滅亡とともに廃城となった。大堀切や日ノ池・月ノ池のほか、大手虎口の石積みがまさに要塞で、威圧感満載だった。日ノ池は戦勝祈願や雨乞いの儀式が行われた神聖な池と考えられている。
鉢形城
2017年2月16日
32城目。北武蔵を代表する戦国時代の平山城。荒川と深沢川の間に切り立った崖の上に作られ、「鳥も窺い難し」と謳われたほど遠方から見ると確かに攻めづらさを感じる。1476年、山内上杉氏の家臣長尾景春の築城と伝えられる。1558年から1570年にかけて北条氏康の四男氏邦が大規模な修築を加えた。甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。しかし、1590年の秀吉による小田原攻めの際に当城は豊臣方の大軍に囲まれ、氏邦は城兵の助命を条件に城を明け渡すことになる。その後、間もなく廃城。四脚門、四阿(あずまや)などが復元整備されている。二の曲輪・三の曲輪の間の空堀は特に大きい。
川越城
2017年2月16日
33城目。1457年、扇谷上杉持朝の命で家臣の太田道真・道灌親子が築いたといわれる。江戸時代には江戸の北の守りとして重要視され、幕府の重臣が代々城主となった。現存する建物は、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残っている。しかも、東日本唯一の本丸御殿で歴史的価値は大きい。屋根は銅板葺の大唐破風となっている。家光が鷹狩りの際に休憩所として利用した「御成御殿」だったという説がある。知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が藩主となると、数年かけて城を拡張した。町並みも古く、土蔵や商家が立ち並び、「小江戸」の風格を帯びていた。他に富士見櫓跡、中ノ門掘跡などの遺構も見所。
佐倉城
2016年8月30日
4城目。国立歴史民俗博物館の近くにあり、普通の公園の中に溶け込んでいるという印象。鹿島台地西端の川や急崖に囲まれた要害の地に、地元豪族の千葉氏が中世城郭を築いたとされる。1610年、土井利勝が入封し修築して以来、城下町が形成され、有力譜代大名が城主となった。石垣を使わず全て土塁で曲輪・堀割が築造されているのが特徴。土塁の深さは意外とあり、落ちると危険な箇所も。その他壮大な角馬出なども保存状態が良い。本丸にはかつて三重の天守が建っていたという。幕末に日本を開国に導いた堀田正睦も佐倉城主であり、老中として幕府の要職についている。日米修好通商条約を締結した堀田とハリスの銅像がある。
江戸城
2016年8月27日
2城目。1457年扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いたのが始まり。現在あるのは日本最大の規模を誇る徳川家の城。秀吉が関東平定後、江戸入りした家康は1603年に征夷大将軍になると江戸城の大改築に着手。1638年、家光の代で壮大な近世城郭が誕生した。しかし天守閣は明暦の大火で消失して以降再建されなかった。その天守の代わりとして機能したのが三重の富士見櫓である。1868年4月江戸城は無血開城し、10月の明治天皇の入城をもって、東京城と改められた。明治期になっても新政府により21の城門や石垣などを破却され、また西の丸御殿が焼失したことで明治宮殿が竣工されたりと、激動の歴史を刻んだ。数ある建造物の中でも伏見櫓や三の丸巽櫓はなんと東京大空襲でも焼失を免れた。天守台からは丸の内のオフィスが一望でき、都市と緑の共存ぶりが素晴らしい。中でも二重橋が定番の撮影地で外国人が沢山いた。
八王子城
2017年2月17日
34城目。京王線の高尾駅北口から、バスで霊園正門まで行き、そこから徒歩で向かった。深沢山山頂に位置する。心霊現象が起こる場所としてよく取り沙汰されるが、特にそういう雰囲気は感じなかった。1582年以降、北条氏康の三男氏照により支城として築かれた。秀吉の関東制圧により上杉景勝軍、前田利家軍に攻撃され、わずか一日で落城。八王子城の主力のほとんどが小田原城に向かってしまい、兵力が手薄だったところを狙われた。城は本丸を中心とした要害地区とその麓にある居館地区、外郭の防御施設からなる。城主の居館とされる御主殿跡からは池泉庭園があったと考えられ、その背後の曲輪には当時の石垣が残っている。
小田原城
2016年8月28日
3城目。北条早雲はじめ5代の歴史が延々と展示されてあり、非常に興味深かった。堂々たる銅門(あかがねもん)が印象的。天守閣の最上階からは海・山を含め、小田原の町が一望できる。1500年頃、伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原に進出し、以後5代に渡って関東で勢力を拡大した。難攻不落の城として知られ上杉や武田の侵攻を何度も退けてきた。天下統一を狙う秀吉の来襲に備え全周9kmにおよぶ総構を築くも、包囲され開城することとなり、北条氏は滅亡してしまう。その後、徳川譜代大名の大久保氏や稲葉氏が城郭の整備を行った。1686年に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末まで至る。1870年に廃城となり、その2年後までに多くの建物が解体された。
武田氏館
2018年6月9日
66城目。甲府城を登城してからすかさず北上し武田氏館へ。天気は良かったが、日照りが強く段々と暑さが増してきた。1519年に武田信玄が築いた武田氏の本拠で、「躑躅ヶ崎館」の呼び名で親しまれている。1919年に武田神社が創建された場所は、信虎、信玄、勝頼の三代が居住していた所で、政務の中枢を担っていた。一辺200mの正方形の主郭(現武田神社)を中心にいくつかの付属の曲輪で構成されている。かつては館の南側に家臣の屋敷や寺社など城下町が展開されていた。館は勝頼が新府城へ移転する際に一時破却されたが、武田氏滅亡後に甲斐国の統治拠点として織田・徳川・豊臣氏の家臣団により再利用された。
甲府城
2018年6月9日
65城目。古くは甲斐府中城、舞鶴城などとも呼ばれていた。武田氏滅亡後、豊臣政権の重臣浅野長政らによって築城された。関ヶ原の戦い後は、徳川一門によって支配され、幕末まで存続した。江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城だったが、1704年、当時の城主・徳川綱豊が綱吉の養嗣子となり、江戸城西の丸へ移ると、側用人の柳沢吉保が城主となり、城の拡張と修築が行われ、城下町も整備された。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山へ転封された後は、甲斐は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下に置かれた。現在の城地は江戸期と比べ、3分の1以下になったが、主要部の高石垣や天守台など往時の面影が残っている。運良く天守台からは富士山が見えた。
松代城
2019年1月6日
70城目。久々に特急「しなの」に乗り長野市へ。千曲川の自然堤防上にある城。1560年頃、武田信玄が北信濃を支配するため築城した。当初は海津城とも呼ばれ、武田・上杉の合戦で知られる川中島の戦いの舞台となった。信玄の死後、信長の家臣や上杉景勝の武将が入城するなど、城主は目まぐるしく変転する。1622年、真田信之が城主となり、真田氏3代目幸道の時に松代城と改名したとされる。近年、本丸大手の太鼓門や搦手の北不明門さらには二の丸周囲の長大な土塁も復元整備され、往時の姿がよみがえった。城の南側に位置する真田邸は、9代藩主幸教が義母・貞松院の住まいとして、1864年に建築した城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていた。
上田城
2019年6月1日
73城目。尼ヶ淵一帯から見る西櫓・南櫓の姿が雄大だった。かつて城の南側の崖下には千曲川の分流があり、天然の堀となっていたが、崖面がもろく崩れやすかったことから、築城以来保護対策が行われ、大規模な石垣が設置された。本丸に建てられた7基の櫓のうち、南・北・西の3基が現存する。1583年、真田昌幸が築城。家康が北条氏と和睦を結んだ際、真田氏の所領である沼田領を北条氏に引き渡すとしたため、昌幸はこれを拒否し、家康との関係が悪化。1585年、家康が攻めるも城は落とせなかった。さらに1600年、関ヶ原に向かう徳川秀忠軍を上田城で迎え撃ち、結果的に秀忠の参軍を遅らせた。二度の上田合戦を経ても落城しなかったことで、真田武士の気概を天下に知らしめた。関ヶ原の戦い後、城は破却されるも、1622年に仙谷忠政が復興し、本丸や二の丸が改修されたが、忠政の死で未完に終わった。
小諸城
2019年6月1日
74城目。上田城登城後、小諸城に向かって東進。1487年、信濃守護小笠原氏の流れをくむ大井光忠が、現在の大手門北側に最初に築いたとされる。1554年、佐久地方を制圧した武田信玄は城を拡張整備し、1591年に入城した仙谷秀久による大改造を経て、現在の姿となった。元禄期から明治維新を迎えるまで牧野氏の居城となるが、維新後は廃城。旧小諸藩士達は荒廃していく城の姿を憂い、資金を集めて本丸跡に神社を祀り、公園にして「懐古園」と命名した。徳川家達が筆した「懐古園」の大額が飾られている三の門や正門にあたる大手門の姿が勇ましい。大手門より本丸が低い位置にある「穴城」という珍しい構造で、軍師山本勘助が考案したという説がある。島崎藤村が小諸の町を愛していたようで、随所に詩碑が見られる。
松本城
2016年12月20日
23城目。個人的に国宝としては4城目。1504年に小笠原氏一族の島立貞永が築いた深志城が前身とされ、1582年に小笠原貞慶が入城して松本城へ改称された。家康の関東移封によって、小笠原氏に代わり石川数正が松本城に入り、近世城郭の普請と城下町作りを開始。子の康長に改修工事は受け継がれ、大天守と乾小天守を渡櫓によって連結し、辰巳附櫓と月見櫓が複合された連結複合式の天守が完成した。松本城の城主は石川氏を含めて6家が入り、石川氏と水野氏は改易となっている。また、水野氏改易後戸田氏が入るまでの間には幕府が直接管理をする時期があり、その任には松代藩の真田氏がついた。五重天守で現存するのは姫路城とこの松本城のみ。この日は天気に恵まれ、烏城といわれるほどの漆黒さがより照り映えたが、遠方にそびえる北アルプスは雲に隠れてしまった。周辺には擬洋風建築の旧開智学校がある。
高遠城
2017年6月24日
52城目。車で伊那インターから国道に沿って東進した。高遠城址公園として整備されており、園内には国の登録有形文化財に指定されてある高遠閣や城下から移築された問屋門、太鼓櫓等、歴史的建造物が豊富。日照りが強く草木の緑が一面を覆い、本格的な夏が近づいているように感じた。元々高遠氏が拠点としていたそうだが、築城年代は不明。武田信玄に滅ぼされてから、1547年に大改修が行われ、以後武田氏の南信濃支配の重要拠点となった。1582年、信長嫡男の信忠に攻められ、時の城主で武田勝頼の実弟である仁科盛信が迎撃するも城は陥落。この高遠城の戦いで武田氏の支配が終わるきっかけとなった。春はタカトオコヒガンザクラの花が城内を埋め尽くし、非常に美しい。
新発田城
2019年4月7日
72城目。冷涼な空気に包まれているせいか、上越とは違い桜はまだ蕾の状態だった。戦国時代に新発田重家が本拠地とした旧新発田館跡に、1598年加賀国大聖寺から入封した溝口秀勝が築城した。以来廃藩置県に至るまで溝口氏のみが城主を引き継いだ。周囲を沼沢地に囲まれ、また本丸を二の丸が取り囲み、三の丸が南方に突き出すという瓢箪形の特異な縄張をもつ。3代宣直の時に完成し、本丸には実質上の天守として、屋根が丁字型の三階櫓が築かれた。現在、三階櫓は木造再建されているが、本丸表門と旧二の丸隅櫓は現存しており、歴史的価値が大きい。本丸と二の丸の半分は、廃藩置県後、陸軍省の管轄となり、第二次大戦まで兵営として使われたが、1953年からは陸上自衛隊が駐屯し、現在に至る。
春日山城
2019年4月6日
71城目。この日は鮫ヶ尾城、高田城に続き、春日山城まで電車と徒歩で移動したため、終盤かなり足が痺れた。本丸からは頸城平野やそれを取り巻く山並みが一望できた。中腹には上杉謙信の銅像が勇ましく立っている。初期の築城者は不明だが、戦国時代に越後守護代長尾為景とその子景虎(上杉謙信)らが本格的に城を大規模に整備強化した。石垣は用いられなかったが、監物堀と呼ばれる長大な堀と土塁の総構の一部が今でも残る。謙信が出陣前に戦勝を祈願した所である毘沙門堂も見所の一つ。1579年に養子の景勝に、1598年には景勝の会津移封に伴って堀秀治に引き継がれるが、堀氏が1607年に直江津港付近にて福島城を新築して移ると、城としての使命を終えた。
高岡城
2017年7月16日
54城目。現在は城跡だが、高岡古城公園として整備され、国指定史跡や日本遺産にも選出されている。朝雨が止んでから登城。蒸し暑さが園内を満たした。加賀藩前田家二代の利長が、隠居していた富山城が1609年の大火で焼失したため、当時関野と呼ばれていた地に新しく高岡城を築いた。縄張は築城の名手でキリシタン大名である高山右近という伝承があるが、最近の研究では疑問視されている。入城して5年、利長は亡くなり、1615年の一国一城令で廃城。しかし、城跡は残り、町民から「古御城」として親しまれた。伏流水を利用した水濠は城域面積の三分の一を占め、そのほとんどが築城当時のまま残されている。
七尾城
2018年2月3日
57城目。頂上へ登るにつれて積雪量が増し、身の危険を感じつつもなんとか本丸までたどり着いた。積雪時の山城登城は油断禁物。本丸からの七尾湾の眺めは、雪と青空を交えとても綺麗だった。能登国の守護・畠山氏が戦国時代に築いた城館跡。高石垣はないが、背の低い石垣を何段にも築く技法が使われ、高石垣の役目を果たせている。七つの尾根筋を中心に多数の曲輪を連ねたことが名前の由来となった。1577年、上杉謙信の攻撃に合い落城し、169年にわたる畠山氏の領国支配が終わった。その後は上杉氏が入り、1581年には信長から能登一国を与えられた前田利家が入城。港に近い小丸山で新たに築城することにより、七尾城は城としての機能を失った。
金沢城
2017年7月15日
53城目。夏の日差しが強く暑かったが、名勝兼六園も含め隈なく散策し満喫。1583年、賤ヶ岳の戦いの後に前田利家が入城し、本格的な城づくりを開始。高山右近を招き、築城の指導を仰いだとされる。1602年、落雷により天守が焼失し、さらに1759年の火災で城のほとんどが焼失した。その後も幾度か火災があったが、平成に入って菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が復元され、安政の頃の景観が再現された。城内のあらゆる壁に貼られた『なまこ壁』が一際目を引く。玉泉院丸庭園は、加賀藩三代藩主前田利常によって作庭を始められ、その後歴代の藩主により手を加えられた。饗応の場として活用された「兼六園」に比べ、藩主の内庭としての性格が強い。
丸岡城
2017年6月3日
51城目。6月といえど冷涼な空気に包まれ、気持ちよく登城できた。北陸唯一の現存天守であり、その現存天守の中でも最古の建築様式を誇る。別名「霞ヶ城」という名の通り、桜の名所としても知られる。1576年、一向一揆の備えとして、信長の命で柴田勝家が甥の勝豊に築かせた。二層三階の天守の屋根に葺かれているのは、笏谷石という石を加工した石製の瓦。福井市内の足羽山で採れるもので、雨に濡れるとより美しく映える特性があるという。家康の重臣である本多重次が、陣中から家族に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」の手紙が有名で、本丸への登り口にその碑がある。重次の長男、成重が越前丸岡藩の初代藩主。1948年の福井地震で倒壊するが、可能な限り倒壊前の建材を活用し、再建された。
一乗谷城
2016年12月12日
21城目。朝方冷え込みが厳しい中、JR一乗谷駅から30分ほど歩いた。足羽川の支流一乗谷川に沿って広がっている。朝倉氏遺跡は、戦国時代に朝倉氏が五代にわたり約百年間越前の国を支配した下町の跡。武家屋敷・寺院・町屋などほぼ完全な姿で発掘された。信長が西進するにあたり朝倉義景は交戦状態に入り、姉川の戦いにおいて敗北を喫する。さらに戦況が悪化すると義景は一乗谷を放棄し、自害を余儀なくされ越前朝倉氏は滅亡。その後、信長は越前の一向一揆を平定。1575年、柴田勝家が北ノ庄城を築城して、越前の首都機能が移転したことにより、一乗谷城は廃城となった。一乗山に築かれた山城にも登り、熊との遭遇が怖かったが無事下山。
岩村城
2016年9月27日
9城目。日本三大山城の一つ。明知鉄道の車窓の風景を楽しみながら最寄りの岩村駅に向かった。本丸までは勾配が急な所もあるが、道は整備されてて登りやすい。幸運なことに野うさぎにも遭遇。1185年、源頼朝の家臣加藤景廉が遠山荘の地頭となり、その長男景朝が築城したとされる。戦国時代においては信長の叔母にあたるおつやの方が岩村城主であった遠山景任に嫁いだが、後継ぎがいないまま景任が病没。その後養子としてむかえた信長の五男御坊丸のかわりに「おんな城主」として君臨した。武田方の秋山虎繁の軍勢に攻められた際、おつやの方は領民を守るため虎繁と結婚することを決意し開城するが、このことで信長を怒らせ、後に織田軍が岩村に攻め入った際に夫妻は磔刑に処せられてしまう。
岐阜城
2017年1月5日
28城目。金華山頂上までロープウェイで移動。長良川や濃尾平野の景色が綺麗だった。戦国時代斎藤道三が稲葉山城と城下町を作り上げたが、そこに信長が美濃を攻略し、1567年に稲葉山城を岐阜城と改め居城として整備した。このとき稲葉山城の城主だった斎藤龍興は北伊勢の長島に敗走している。最終的には滋賀北部の刀根坂の戦いで戦死した。天下布武の印判を押した地としても有名。信長が安土城に移ってからは信長子息や一門が入る。しかし、関ヶ原の戦いで城主織田秀信が西軍につき、その後池田輝政に攻められ開城し、廃城となった。明治期に国内初の観光目的の天守が再建されたが、1943年に焼失。現在の天守は1956年に再建されたもの。信長居館入口の復興冠木門や巨大な岩石郡等、当時の信長の権威を感じ取れる。
山中城
2017年4月23日
49城目。三島駅からバスで30分ほどで着く。日が暮れる前に急いで登城。石垣はなく土塁と空堀でできた土造の城だが、岱崎出丸や西櫓・西ノ丸間の障子堀が美しく、他の城では見られない景観だった。現在では芝生が埋められているが、これは型崩れ防止のためで、本来は赤土が露出し滑りやすくなっている。1560年代、小田原北条氏が西方に対する防備の要塞として箱根外輪山の西側斜面に築いた。さらに、尾根筋を利用して曲輪を配置し、街道も城域に取り込んだ。しかし、天下統一を進める秀吉の大軍に攻められわずか半日で陥落。この時の城将松田康長、副将間宮康俊などの武将たちの墓が、三ノ丸にある宗閑寺境内にある。
駿府城
2017年4月23日
48城目。武田氏が滅亡したのをきっかけに、家康が甲斐・駿河の武田遺領を領有した。1585年、安倍川の扇状地につくられた今川氏の居館があった場所に築城を開始。浜松城からここに居城を移した。その後、秀吉が天下統一すると、秀吉の命により関東へ国替え。かわりに豊臣系大名の中村氏が入城した。江戸時代に入ると、家康が隠居のため再び入城し、大改修が行われた。現在の3重の堀を持つ輪郭式縄張りは、この時出来上がった。家康は大御所として実権を掌握し、駿府は江戸と並び政治・経済の中心地に。東御門から入り、巽櫓・紅葉山庭園・坤櫓などを散策。春霞のせいで富士山はほとんど見えなかった。
掛川城
2017年4月23日
47城目。室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出の足がかりとして、家臣の朝比奈氏に命じ築城した。秀吉が天下統一した1590年、山内一豊が入城し、それから10年間在城。城郭を大規模修築し、天守閣や大手門を建設するとともに、城下町の整備や治水工事に尽力した。安政の大地震で天守閣など大半が損壊したが、完全な姿で再建されることなく明治期に廃城。1994年、日本初の「本格木造天守閣」として往時の姿が蘇った。黒塗りの廻縁・高欄は大坂城天守閣にならったと考えられている。また、一豊の転封した高知城と同じであったという記録を参考に築かれているため、高知城とかなり似ている。二の丸御殿は書院造という様式で、城主の居館と政庁の要素を兼ね備えていた。
犬山城
2017年1月5日
27城目。この城で国宝5城を制覇。木曽川の畔から眺める城の美しさは、漢詩にちなんで「白帝城」の雅称を生んだ。天気に恵まれ四階の高欄の間から愛知と岐阜を分ける木曽川を一望できた。1537年、信長の叔父である信康によって築かれた。川沿いの丘陵上にある、いわゆる「後堅固」の城で、中山道と木曽街道に通じ、交易や政治、経済の要衝にある。縄張は本丸から南に向かってほぼ連郭式に並べてある。織田家家臣の池田恒興、中川定成、豊臣家家臣の石川光吉、徳川家陣営の小笠原吉次など城主はめまぐるしく交替した。最終的に1617年、尾張徳川家の付家老成瀬正成が拝領した。この時改良が加えられ、現在ある付櫓付きの望楼型天守ができたとされる。以後成瀬家が幕末まで城主を務めた。明治になって政府が成瀬氏に、城の修理・整備を条件に譲渡。個人所有という珍しい形態が2004年3月まで続いた。
名古屋城
2016年8月23日
1城目。記念すべき最初の登城は地元の名古屋城へ。元々今川氏一族が『柳之丸』を築き、一帯を領有していたが、1532年、信長の父・信秀が『柳之丸』を奪い、『那古屋城』と称した。これが名古屋城の前身とされる。1610年、家康が天下普請で大規模な城門や櫓の築城を開始。この築城は大坂城にいる豊臣秀頼を牽制する意図がある。家康の九男・義直が尾張徳川家の祖となり、明治維新まで代々続く。隅櫓や五層五階の大天守閣は全体的に美しく雄大。国宝第1号なのに戦災で燃えてしまったのは非常に残念だが、本丸御殿は復元が進み、在りし日の姿が戻りつつある。かつて尾張藩主の住居や藩の政庁として機能していた。障壁画や装飾金具など絢爛豪華。大天守の上にきらめく金の鯱が評判となり、「尾張名古屋は城で持つ」と謳われるまでになった。
岡崎城
2017年2月2日
30城目。家康生誕の城であり、かつて徳川家の聖地として重視された。現在ある三層五階の復興天守は1959年に建てられた。家康は幼少の頃、今川家の人質となり他国で過ごしていたが、桶狭間の戦いで今川義元が敗死したことにより、再び岡崎城に拠点を移した。1570年、家康は本拠を浜松に移すと嫡男信康を岡崎城主にしたが、信康は後に信長に謀反の疑いをかけられ、家康は致し方なく信長の命に従い、1579年二俣城に幽閉して信康を自刃させた。その後石川数正、本多重次を城代とし、さらに江戸幕府を開いてからは譜代大名が城主となった。本多康紀の時は井戸櫓や附櫓を持つ複合天守閣が出来上がる。城郭の拡張により東海道が城下に引き入れられ、岡崎は宿場町として繁栄するようになった。東照公産湯の井戸などから家康生誕の雰囲気を味わえる。
長篠城
2017年2月2日
31城目。豊川と宇連川の合流した断崖上に本丸は位置し、まさに天然の要塞。一時的に武田氏に服属されていたが、信玄の重篤化により武田軍は西上を取りやめ撤退。その隙をついて家康は長篠城を奪還した。武田軍の再侵攻に備え、家康は奥平貞昌を城主に任命し守備に当たらせた。1575年、武田勝頼の軍が攻め入って当城を包囲。貞昌は鳥居強右衛門をして家康に援軍を要請した。求めに応じて、信長・家康連合軍は連吾川で勝頼軍と対峙。この長篠の戦いで、鉄砲という新兵器になす術なく武田軍は大敗する。城の損傷が激しかったことから、翌年貞昌は新城城に移転し、廃城となった。昔激戦が繰り広げられた地にしてはどことなく侘しさを感じる。
伊賀上野城
2016年12月19日
22城目。現在の復興天守閣は、地元選出の代議士川崎克が多くの支援者の協力を得ながら私財を投じ、1935年に竣工した。さらに、松尾芭蕉の歴史にも精通していた川崎は、芭蕉翁顕彰のため、城内に俳聖殿も建てている。1585年、筒井定次が始めて近世城郭建設に着手し、三層の初代天守閣を設けた。現在、初代天守があった場所には「筒井天守跡」の石碑がある。1608年に定次は改易となり、その後宇和島からの国替えで入封した藤堂高虎は、豊臣家がいる大坂に対峙するため新たに築城に取りかかる。高虎が得意とした高さ約30mにもなる高石垣を巡らせたが、1612年の暴風雨で建築中だった天守は倒壊。大坂の陣で家康が勝利するとますます天守は不要となる。さらに江戸幕府が普請を禁じたため建築途中のまま時は過ぎ、1871年に廃城となった。
松阪城
2017年2月28日
37城目。石垣がかなり高く作られているが、柵がないためより恐怖感が増した。快晴に恵まれ、町や海を見張らすことができた。独立丘陵上の四五百森(よいほのもり)に築かれた平山城。1588年、秀吉によって南伊勢12万石を拝領し移封された蒲生氏郷が、3年かけて完成させた。本丸を中心に渦巻き状に曲輪を巡らせた渦郭式という縄張を持つ。かつては天守の他、それに隣り合うように多聞をつなげて敵見櫓・金の間櫓などが配置されていた。裏門跡を出ると、石畳の両側に並んだ武家屋敷が一際目を引く。現存する江戸時代の武家屋敷の中では最大規模。氏郷は信長の寵愛を受けていたこともあり、信長に倣って松坂に楽市楽座を設けるなど商人達の拠点として繁栄させた。
小谷城
2016年9月21日
7城目。登り途中、木が開けた所が何ヵ所かあり、そこから琵琶湖や竹生島が見えた。台風一過でぬかるみもあったが、曇っていたおかげで涼しく、気持ちよく登れた。浅井氏三代(亮政・久政・長政)の居城で初代亮政が1522年に築いたとされる。1567年、長政は信長の妹お市を妻に迎え、勢力の拡大をはかるが、1570年、朝倉攻めに出陣した信長に反旗を翻す。朝倉軍と連携し姉川で信長軍と戦うも敗北。その3年後秀吉に攻めこまれ陥落し、長政は自刃した。小谷山山頂には、小谷城より築城時代の古い大嶽(おおづく)城の跡、さらに清水谷北側の尾根上には福寿丸・山崎丸などの砦があり、城域は広大。
彦根城
2016年9月21日
8城目。国宝の天守であるだけに、外観だけでなく、内部の土塀や床から築城当時の面影を感じる。現存天守の中では小柄だが、多様な破風を配しており、装飾性に富んでいる。本丸・天秤櫓だけでなく、黒門付近の玄宮楽々園も美しい。国宝の割には敷地がそれほど広くないだけに、1日で数々の重要文化財を巡れた。関ヶ原の戦いで戦功をあげた井伊直政に対し家康は佐和山城を与えた。その後も豊臣家や西国大名監視のため新しい城の築城を家康が命令。直政の子である直継が移築計画を家康に申し出、1622年頃ようやく完成した。明治維新に至るまで井伊家が譜代大名筆頭として君臨した。幕末に大老になった直弼は特に有名。昭和の大戦の時、8月15日夜に連合国軍は彦根も襲撃する予定だったが、その前にポツダム宣言を受け入れたため戦災を免れたという奇跡的なエピソードがある。
安土城
2016年9月12日
5城目。天下統一に向けて猛進する信長の城。国内において本格的天主の建築がここで始まったとされる。京に近い上に中山道、東海道、北国街道が合流する交通の要衝で、信長が重視した土地柄であることはうなずける。1579年に完成してからわずか3年で、本能寺の変直後に焼失したものの、当時の家臣団屋敷の他、最上層の豪壮な外壁など、信長の強大な権力を伺いしれる。大手道には石段が続き、脇に伝羽柴秀吉の屋敷跡などがある。山頂には天主台礎石群があり、その近くから琵琶湖を見渡せる。かつては五層七階の煌びやかな天主があった。甲賀の長寿寺より移築された信長自身の菩提寺も訪れ、その中にある室町時代から現存する三重塔や二王門も素晴らしかった。
観音寺城
2016年9月12日
6城目。桑實寺を経由して本丸を目指した。山中、倒木だらけの悪路を通ったため、息切れしてしまった。日本の城で初めて本格的な高石垣が築かれた所で、井戸等の遺構はあるが、どことなく侘しさを感じる。繖山山頂部は本丸の他、平井丸・落合丸・池田丸の3つの城郭跡がある。近江の守護佐々木六角氏の居城。連歌師の谷宗牧が書いた「東国紀行」によると、城内の座敷に茶器の名品が数多く並べられていたとあり、軍事要塞でもあるが守護の居館としての性格も帯びていたとみられる。1568年、信長が義昭を擁して上洛する際に、次々と近隣の支城が落とされたため、六角義賢・義治父子は城を捨てて逃げ出し、やがて廃城となった。
二条城
2016年11月28日
20城目。国宝の二の丸御殿、重要文化財の東大手門・東南隅櫓・唐門など建築物の一つ一つがとても荘厳だった。二の丸御殿は遠侍、式台、大広間、黒書院、白書院などからなる武家風の書院建築であり、御殿と庭園との調和も美しい。1603年家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍が上洛した際の宿泊所とするため築城。同じ年に家康自身の征夷大将軍拝賀の儀式も行っている。3代家光の時代、後水尾天皇行幸のため大規模な改修が行われ、本丸御殿と総塗籠の白亜の五重天守が築かれた。二の丸御殿にも狩野探幽の絢爛豪華な障壁画などが付け加えられた。しかし、天守は1750年の落雷で、本丸御殿は1788年の天明の大火で焼失。明治期になって本丸御殿跡地に、京都御苑内の旧桂宮邸が移築されている。1867年、日本史上空前の出来事として、徳川慶喜がこの大広間で大政奉還を表明したことを考えると鳥肌が立つ。
大阪城
2016年11月28日
19城目。堀の深さ、敷地の広さ、天守の高さに至るまで圧倒的。日本人より外国人観光客の方が多く、大阪を代表する観光地であると実感した。大坂冬・夏の陣における真田幸村の戦功や秀吉に関する年表等の資料が豊富。信長に対抗していた石山本願寺の跡地を手に入れた秀吉は、全国統一の本拠地として大坂に定め、1583年に築城に着手。その約15年後、金色に輝く天守を含め城郭全体を完成させた。しかし、大坂夏の陣により焼失。1620年に徳川幕府が再建に踏み込んだ。全域にわたり盛り土や石垣の積み増し、堀の掘り下げが行われ、さらに天守閣が15mも高くなるなど、秀吉時代とは全く異質の城が出来上がった。その徳川の城も1665年の落雷で焼失。1931年に再建するが、またしても太平洋戦争の空襲で焼失した。「平成の大改修」によって往時の姿が蘇った。
千早城
2017年5月1日
50城目。金剛山への登山ルートの途上にある山城。最寄りのバス停「金剛登山口」から徒歩約20分で本丸跡に着く。登山口からは石段が延々と続いており、千早城を攻めるのに容易でないことを体感できる。尾根上にある曲輪群を一つの城としてとらえると、下赤坂城が出丸、上赤坂城が本丸、千早城が詰の城にあたる。室町時代の軍記物『太平記』によると、楠木正成が鎌倉幕府に対して1332年に挙兵した際、正成軍は千早城に籠城し、城を囲む鎌倉幕府の大軍に大石や大木を落としたり火攻めにするなどして善戦。そこで幕府軍が足止めされている間、新田義貞が東国で挙兵し、鎌倉幕府は滅亡した。その後、南北朝時代に畠山氏に攻められ落城。二の丸跡には千早神社がある。
竹田城
2019年12月15日
76城目。念願の「天空の城」竹田城へ。竹田駅から城の周囲を大回りし、西登山道を経由して向かった。1441から44年頃、山名宗全が赤松氏に対抗するため、家臣太田垣氏に基地の一つとして造らせたと伝えられている。代々太田垣氏が城主を継いできたが、秀吉の但馬攻めで落城した後は赤松広秀が入り、数年かけて現在見られるような総石垣の城に修築した。しかし、広秀は鳥取城攻めの際、城下町に火を放ったとの罪で家康から切腹を命じられ、城も廃城となった。縄張は、標高354mの古城山山頂部に、羽を広げた鳥のような形で曲輪が配されている。本丸や二の丸、北千畳・南千畳などどの曲輪に立っても壮大な景色に圧倒された。11月頃をピークに周囲に霧が立ちこみやすくなり、立雲峡などから運良ければ雲海の上に佇む城の美しい姿が見られる。
篠山城
2016年11月6日
17城目。冷たい風が吹きしきるなか登城。本丸にそびえたつ高石垣は勿論、平成に再建された大書院の装いも立派だった。大書院は一大名の書院としては非常に規模が大きく、古式の建築様式を備えている。1609年、家康が豊臣家の大坂城包囲と西日本の諸大名監視のため、山陰や山陽に通じる交通の要衝に築城。天下普請により工事が進められ、普請総奉行は池田輝政、縄張は藤堂高虎が担った。完成後、松平康重が丹波の八上城から移り、以後松平氏、青山氏と有力譜代大名に引き継がれた。中心に本丸(現二の丸)と殿守丸(現本丸)を梯郭式に置き、それを二の丸(現三の丸)が輪郭式に取り囲む縄張となっている。
明石城
2016年10月10日
12城目。明石駅の目の前に広がる威風堂々たる城。公園として整備されており、賑わいをみせている。門番のようにそびえている巽櫓と坤櫓はいずれも現存で、国内の現存三重櫓12基のうちの2基にあたる。晴天に恵まれ明石海峡大橋が綺麗に見えた。1619年徳川秀忠の命で、外様大名の多い西国への防備として、初代明石藩主小笠原忠政が築いた。忠政は信長と家康を曽祖父に持つ。その後、戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家と続き、最後は越前大野の松平直明が入封し、以降10代継いで明治を迎え、1873年廃城となった。造築当初から天守が建てられなかったのは、鉄砲や大砲の標的にならないようにするためなどの説があるが未だ定かではない。
姫路城
2016年10月10日
10城目。国宝8件、重要文化財74件を誇る世界遺産の城。幾重にも重なる破風や白漆喰総塗籠造の外装といい、その優美な姿から白鷺城とも呼ばれる。国宝天守の中でもやはり壮大で、ずば抜けて城内は広かった。五重六階の大天守に輪状に連なる3つの小天守(乾小天守、西小天守、東小天守)や櫓一つ一つがとても素晴らしかった。1333年、姫山に赤松氏が築き、それ以来13氏に渡り城主を受け継いできた。西国統治のための拠点として置かれ、羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政が拡張していった。関ヶ原の戦いを終え、天守を現在の姿に大改修したのは輝政で、さらに忠政の時に三の丸や西の丸などを増築した。菱の門、「は」の門、備前丸、井戸曲輪、西の丸などから見た天守群の姿は全て異なり、景観の変化を楽しめた。四百年の歴史の中で戦禍にまみえることがなかったのは奇跡としかいいようがない。
赤穂城
2016年10月10日
11城目。播州赤穂駅から南に直進すると雄大な三の丸隅櫓と大手門が出迎えてくれる。築城当時は二の丸と三の丸が海に面した「海城」だった。1645年、常陸国笠間から入封した浅野長直が築城命令し、1661年に完成。縄張は非常に珍しいことに、本丸と二の丸が輪郭式、二の丸と三の丸が梯郭式を兼ね備えた変形型。三代藩主長矩が江戸城にて刃傷事件をおこしたことで即日切腹、浅野家は断絶となった。刀傷を起こした長矩の動機は未だ謎に包まれている。後に大石内蔵助をはじめ46人の赤穂義士が吉良邸に討ち入りし、主君の仇をとった。歌舞伎や浄瑠璃の演目にある「忠臣蔵」はこの事件を題材にしている。その後、赤穂城は脇坂安照の預かりとなり、永井氏、森氏と継いで明治を迎えた。
高取城
2017年1月25日
29城目。日本三大山城の一つで、そのうち最も比高が高い。近鉄壺阪山駅から徒歩で高取山に向かった。国見櫓跡からの大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)を含む町の眺めが良かった。高取に初めて城が築かれたのは南北朝期と言われ、地元の土豪越智氏が拠点としていた。1580年、信長が「城割」の命を発し、大和国は郡山城以外全て破却となったが、その4年後には筒井順慶が郡山城の詰めの城として高取城を定め、改修が施された。以来城主はよく代わり、羽柴秀長家臣の本多利久の時は大改修を行い、江戸期になって本多氏が断絶すると、徳川家譜代の家臣であった植村家政が高取藩初代藩主となった。以後、明治維新まで14代に渡り続く。
和歌山城
2016年11月6日
18城目。虎伏山山頂に建てられたことから別名虎伏城ともいう。徳川御三家の一つ紀伊藩の城ということで非常に格式が高い。1585年、羽柴秀長が紀ノ川と和歌川にはさまれたこの小山に城郭を築いたのが始まり。その後、関ヶ原の戦いで戦功をあげた浅野幸長が改築した。さらに、1619年に入城した家康の10男頼宣が二の丸の拡張、砂の丸・南の丸の造成などを行い、今見られる姿に仕立て上げた。三重三階の大天守と小天守・乾櫓・二の門櫓などが多聞で結ばれた連立式天守である。惜しくも昭和の和歌山大空襲で焼失してしまい、現在は鉄筋コンクリート製。名勝の西之丸庭園や御橋廊下も合わせて訪問。本格的な紅葉は11月下旬頃から期待できそう。
鳥取城
2016年10月19日
13城目。戦国期から江戸時代を通して増改築がなされた城で、広大な城域に各時代の遺構が残ることから「城郭の博物館」と称される。石垣を補強するために作られた国内唯一の球面石垣「天球丸」が見もの。戦国時代に久松山山頂に築かれたのが始まり。1581年、秀吉が大軍で兵糧攻めした際、吉川経家が将兵の助命を条件に自害したことで世に知られるようになった。その後宮部氏、池田氏が入り、麓の近世城郭も整備された。池田家32万石の居城となった江戸前期までには、山頂に二重天守、山麓には三階櫓が建てられた。1943年、鳥取大地震で天守台など崩壊したが、昭和半ば頃から復元整備された。仁風閣は、鳥取池田家14代当主池田仲博の願いで、片山東熊が設計し別邸として建てられた。
松江城
2016年10月20日
14城目。駅から徒歩で宍道湖経由で登城。快晴だったがこの時期にしては少し暑かった。宍道湖に臨む水運の要衝に築かれた山陰地方唯一の現存天守。四重五階、地下一階の複合式望楼型という構造。黒漆の下見板張で覆われている外観がこの城の威厳さを表している。1607年に初代藩主堀尾吉晴と孫の忠晴(二代藩主)が築城開始し、1611年に完成した。1633年、忠晴は死去し嗣子がいないため改易。その後移封された京極忠高も死去した際、嗣子がなく改易となる。親藩雲州松平氏が入った後は明治初期まで支配した。江戸時代初期に建てられたとはいえ極めて実戦重視の城であり、石落や狭間などたくさん設けている。縄張も本丸周囲を多聞櫓で囲み、石垣や土塀も屈曲や折れを多用していることから防御性が高い。松江神社にて築城時期を証明する祈祷札の発見が決め手となり、2015年に国宝に返り咲いた。
月山富田城
2018年11月17日
69城目。安来駅からイエローバスに乗り、市立病院前で降車。息を切らしながら山中御殿・七曲りを通り本丸へ。周辺の紅葉はかなり進み、季節感満載。中世、出雲国を統一し、戦国大名となった尼子氏が、出雲支配を拠点とした城。1565年、毛利元就に攻め込まれると、籠城の末開城し、尼子氏は滅亡した。それから吉川氏や毛利氏一族が入り、関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れた後は、吉川氏に替わって堀尾氏が移封された。1608年、堀尾吉晴が松江に居城を移し、廃城となった。尼子家再興のため主家への忠義を貫いた武将・山中鹿介ゆかりの地でもあり、出雲における尼子氏の権勢を復活させるべく毛利氏に対抗するなど、数々の逸話が伝承されている。
津和野城
2021年11月27日
87城目。前日に新山口駅近辺で宿泊し、翌朝レンタカーで津和野まで向かう。新山口から約50分かけてリフト前の駐車場へ到着。現地に近づくにつれ冷たい雨が強まり、霧がかってしまったが、三十間台から見る城下町の景色がかえって情趣が増した。石見地方独特の赤瓦も目に見えた。創建は古く、1295年頃吉見頼行が築城したと伝えられる。高石垣を有する近世城郭へと大改築が行われたのは、1601年関ヶ原の戦いの行賞で入城した坂崎直盛による。山頂を削平し三重天守を設けたが、1686年の落雷で焼失。坂崎氏断絶後は亀井氏が入って城下町を整備し、そのまま明治に至る。津和野は「山陰の小京都」らしく、歴代藩主の菩提寺である永明寺や、森鴎外や西周などを輩出した藩校養老館などの建造物があり、歴史に富んだ町だった。
津山城
2016年10月21日
15城目。松江を訪れてからJR伯備線・姫新線と乗り継いで津山の町へ。さすがに山間とあって段々肌寒くなってきた。次の目的地岡山へ行く電車に間に合わせるため、駆け足で登城。関ヶ原の戦いで戦功をあげた森忠政が入封し、1616年に完成させた。津山盆地の中央に位置する鶴山に、総石垣でもって雛壇状に3、4段曲輪を重ねて築いた。いわゆる「一二三段」と呼ばれる構えである。城内の櫓の中で最大級だった備中櫓は2005年に再建。かつて本丸には五重の層塔型天守があり、それを取り囲むように六十くらいの門や櫓を配して防御を固めていた。現在は鶴山公園という形で整備され桜の名所として知られている。
備中松山城
2017年9月30日
56城目。臥牛山頂上付近に建っており、現存天守の中で最も高い所にある。鎌倉時代、地頭秋庭重信が築いたのを起源とし、1683年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の姿となった。この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地だったため、戦国時代は激しい争奪戦が起き、城主交代が度々繰り返された。1575年、三村氏に代わり毛利輝元が城主となり、東方進出の拠点となった。毛利氏が関ヶ原の戦いで敗れて防長二国に退くと、江戸時代になってからは備中国奉行として赴任していた小堀正次、政一(遠州)父子により修築が行われた。幕末、徳川慶喜を補佐したのは備中松山藩主・板倉勝静。その勝静に仕えた漢学者・山田方谷は藩政改革を断行し、財政破綻しそうだった藩を立て直した。二重櫓や土塀だけでなく、峻険な岩肌の上に積まれた石垣は、他の城には見当たらないくらい荘厳。
鬼ノ城
2017年9月30日
55城目。服部駅からタクシーで鬼城山ビジターセンターへ向かった。古代の文献資料がなく、謎の多い朝鮮式山城。岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼、温羅(うら)が築いたとされ、この城に住んで貢物や婦女子を略奪し、人々に恐れられたと言い伝えられている。「桃太郎」のモチーフといわれる伝説では、吉備津彦命(きびつひこのみこと)がこの温羅を退治したと言う。鬼城山はすり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦になっている。城壁は2.8kmにも及び、4箇所の門、6つの水門、角楼、高石垣など大々的に備えた。中でも木造三階建ての西門の姿が立派。水門の設備などを見るに、先人の知恵の深さを改めて実感した。
岡山城
2016年10月21日
16城目。旭川の西方の丘陵に位置し、後楽園と向かい合っている。1、2階部分が大きく、どっしりと構えた漆黒の望楼型天守は「烏城」の名にふさわしい。屋根には金箔瓦が葺かれている。元々金光氏の居城だったが、1570年宇喜多直家に奪われた。その子秀家は1597年に大改修を行い、現在の姿のような複雑な構造をもつ五重六階の天守を築いた。関ヶ原の戦いで西軍に与した秀家は、死罪は免れたものの子息と近侍とともに八丈島に配流された。その後、小早川秀秋や池田氏が入り、城を拡張して縄張を完成させた。昭和の空襲で焼失したが、1966年に鉄筋コンクリートで復元。回遊式大名庭園である後楽園から仰ぎ見る岡山城も美しい。
福山城
2019年7月28日
75城目。福山駅を降りて早々天守閣がそびえるが、実態は1966年に建てられた博物館。昭和の空襲でそれまで現存していた天守閣や御湯殿など、多くの文化財が焼失しており、無念極まりないが、伏見櫓や筋鉄御門は幸い焼失を免れ現在に至る。元々は砲撃に備え、全国の天守で唯一北面に鉄板張りがなされていた。また、伏見櫓は古式の望楼型の三重櫓であり、極めて貴重な遺構。1619年、徳川譜代の家臣水野勝成が備後10万石の領主となり、1622年に城を築いた。江戸幕府の西国経営の拠点となる。勝成は吉備津神社などの復興、治水整備、藩札の発行など、福山の町づくりに取り組んだ。7代藩主は幕末動乱期に老中首座として開国問題を指揮し、安政の改革を断行した阿部正弘であり、天守閣広場の西側に銅像が建てられている。
郡山城
2018年10月21日
68城目。広島城登城後、広島バスセンターから1時間半かけて安芸高田へ移動。谷が複雑に入り組んだ山全体を城域とした西日本最大級の戦国山城。吉田盆地を見渡す可愛川と多治比川の合流点の北側に位置する。14世紀中頃から地頭として吉田荘に土着した毛利氏が築いたとされるが、築城期は不明。その後、16世紀中期に毛利元就が城の拡大強化を図った。元就の孫輝元は広島城の建築に着工し、1591年に広島へ本拠を移した。郡山城は関ヶ原の戦い後に廃城となる。元就の菩提寺洞春寺は1572年に建立され、境内に元就やその一族の墓がある。墓は苔むしており、厳かな雰囲気が漂っていた。また、本丸跡は上下段に分かれ、後世の俗説によるとこの上段の北側に天守閣があったとされる。
広島城
2018年10月21日
67城目。この日は天気も気温も心地よく、雲一つない行楽日和に。内堀から望む天守や二の丸の櫓群はこの城ならではの景色で、非常に雄大。元々安芸高田に毛利家の居城があったが、経済的利便性等を考え広島へ移ることを決意。1589年、毛利輝元が瀬戸内の交通の要衝太田川の三角州に、城下町も含めて築城に着手した。このデルタ地帯の築城工事は「島普請」ともいわれ、10年を要したが、五重五階の大天守に小天守を連ねた連立式天守をはじめ、数多くの櫓群が120万石の大名たる威厳を誇った。1600年、輝元は萩へ移され、代わって福島正則が入ったが、幕府に無断で石垣を修築し改易される。その後、入封した浅野氏が明治まで続いた。天守は原爆により倒壊し、1958年に鉄筋コンクリート製で再建される。戦争がいかに悲惨かを改めて思い知った。
岩国城
2021年11月28日
89城目。新山口駅からバスで錦川沿いを進み、錦帯橋付近で降車。1673年に建設された他に例を見ないアーチ型五連の木橋「錦帯橋」とその背後の山にそびえる天守閣がとても美しい。ロープウェイから眺める城下町や瀬戸内海の島々の景色も最高だった。本丸にあった四重六階の天守は「南蛮造」という特異な形式で、完成からわずか7年で一国一城令により破却された。現在は本来の場所から約50mずらしたところに再建されている。関ヶ原の戦い後、岩国に転封された吉川広家が築いた。山頂の城郭と山麓の居館(御土居)で構成されている。日が暮れる前に吉香公園や吉川家墓所、紅葉谷公園も散策。楓もほとんど落葉し晩秋らしい風景だった。錦雲閣は1885年吉香神社の絵馬堂として旧南櫓の位置に建てられた。
萩城
2021年11月27日
88城目。津和野城を登城後、西進して萩の町へ。冬型の気圧配置ということもあり冷たい風が身に沁みた。松下村塾や東光寺、幕末志士の旧宅や萩・明倫学舎などの観光地も合わせて訪問。萩から吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文など名だたる志士を輩出したのは感慨深い。関ヶ原の敗戦で西の総大将だった毛利輝元は長門・周防の2国に移封される。1604年築城を開始し、指月山の山頂に要害、山麓に本丸・二の丸・三の丸を築いた。天守台は本丸南西隅に突き出す形で設けており、「扇の勾配」をもつ石垣が美しい。古写真にもあるとおり、かつて五層の白亜天守が築かれていたが、明治初期に解体。山頂は石切場が見受けられ、またイチョウ落葉の時期と重なり、黄色い絨毯が綺麗だった。それ以前に1863年、藩庁が山口に移されてからは萩城の重要性そのものが薄れていた。
徳島城
2017年3月11日
39城目。1385年に細川頼之が築城したが、その後、三好氏・長宗我部氏を経て1585年に蜂須賀家政が入り修築を施した。家政の嫡男至鎮は家康に従って会津討伐に向かい、戦功を挙げたことから、阿波一国が与えられ徳島藩主となった。初代天守は取り壊されたと言われ、その後天守は極めて珍しいことに山頂の本丸ではなく、一段下がった東二の丸に建てられた。復元されたものとして、鷲の門や木橋に架け替えられた数奇屋橋がある。鷲の門は明治期の解体後も唯一残っていたが、昭和の戦災で焼失していた。旧徳島城表御殿庭園、徳島城博物館、バラ園と園内は見所が多い。城内を巡る石垣は「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩によって築かれており、徳島城の特色の一つ。登城後、徳島線と土讃線を経由して高知に向かった。
高松城
2017年3月11日
38城目。岡山からマリンライナーに乗車し、香川県へ。人生初の四国観光を満喫。またの名を玉藻城という。万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因む。1587年、秀吉から讃岐一国を与えられ、生駒親正が国主として入府。その翌年から築城に着手し、数年かけて完成。以降、4代54年間に渡り生駒氏の治世が続く。1640年、生駒氏の中で御家騒動が生じ、讃岐一国から出羽の国矢島に移された後は、常陸国下館藩主だった松平氏が移って新たに居城を構え、江戸時代の終わりまで続いた。瀬戸内海に面し、堀に海水が満ちる「海城」としての景観が綺麗だった。月見櫓と水門、移築された艮櫓が現存している。
丸亀城
2017年3月15日
46城目。四国城巡りの最後は丸亀城へ。季節外れの寒さに我慢しながら登城した。現存12天守のうち最も小さい天守閣だが、高さ日本一を有する「石垣の名城」として知られ、麓から見るとその高さに圧倒される。石垣は扇の勾配という特長的な曲線を描く。特に大手一の門・二の門越しに仰ぎ見る天守は風格がある。1597年、生駒親正・一正による亀山への築城が始まり。安土城や大坂城を手本に、城郭だけでなく武家屋敷や城下町までも濠や土塁で囲んだ「総構」の手法を取っている。一国一城令により、生駒氏は高松城を残し丸亀城を廃城としたが、その後、数々の戦功や良政を評価され、丸亀に大幅加増、転封された山崎家治が1642年から丸亀城の再築を開始。山崎氏は跡継ぎがなく改易となるもその後に入った京極氏が城を完成させた。
今治城
2017年3月14日
45城目。松山市を去るのを惜しみつつ、松山駅から乗車し再び電車で移動。夕方、今治駅に着き徒歩で向かった。伊予半国20万石を領した藤堂高虎が海岸に築いた平城で、またしても築城の名手高虎の名前が出た。1608年頃、建造物含め全体が完成したとされる。 3重の堀には海水を引き込んでおり、本丸には日本初の層塔型の五重天守が建てられた。内堀は現在も残っており、鯛などの海水魚がよく泳いでいる。また、当時は船入(城の港)を完備しており、交通の要所としても機能していた。しかし、天守は高虎転封の際に解体され、その後徳川家に献上されて丹波亀山城天守となる。現在の天守は本丸北隅櫓跡に建てられた模擬天守。
湯築城
2017年3月14日
43城目。道後公園として整備され、道後温泉の手前に位置する。地形はほぼ円形で、中央部は30mほどの高さの丘陵地となっている。公園全域が、中世の守護河野氏の居城として、14世紀前半から約250年存続した。その長い歴史の中で、有力守護細川氏の介入や河野氏一族の内紛があったが、足利将軍家と結びつき、さらに大内・大友・毛利氏などと同盟や縁戚関係を結び、伊予の守護としての地位を堅持した。最後の当主通直は四国攻めの際、小早川隆景に城を明け渡し、1585年伊予支配に終止符を打った。丘陵頂部の曲輪にある展望台からは広大な松山平野を一望でき、松山城天守も望むことができた。
松山城
2017年3月14日
44城目。湯築城から早足で松山城へ。松山市の中心部、標高132mの勝山にそびえ立つ。賤ヶ岳の戦いで有名な七本槍の一人、加藤嘉明が築き始めた。関ヶ原の戦いで家康に従軍し、その戦功により20万石与えられた。1603年、嘉明は城下に新居を移すと、初めて「松山」という名称が公にされた。現在ある連立式天守は1852年に再建されたものだが、昭和に入り、小天守やその他の櫓が放火や戦災等で焼失。1966年から総木造による復元が進められた。松山城は天守を含め、門や櫓など21もの重要文化財があり、見所が盛り沢山であるにも関わらず、不思議と国宝に指定されていない。天守から見る松山の街の眺めといい、情緒あふれておりとても素晴らしかった。松山市全体として「坊っちゃん」や「坂の上の雲」など名作の舞台となっているので、歴史や温泉だけでなく文学的にも秀でた町であると肌で感じた。
大洲城
2017年3月13日
42城目。雨足が強まるなか、早足で登城した。肱川の河畔に望む木造復元天守で、すべて国産材を使用。脇にある高欄櫓と台所櫓は現存。鎌倉時代末期に守護として国入りした宇都宮豊房により築城されたといわれる。その後、宇和島城と同様藤堂高虎によって修築され、伊予大洲藩の中心地として城下町は繁栄した。高虎の後は脇坂安治が城主となり、1617年加藤貞泰の入封後は、加藤氏の世襲となって明治を迎えた。明治期に入り城内のほとんどが破却され、1888年には老朽化に伴い天守も解体された。四層四階の天守の再構築に当たり、明治時代の古写真や「天守雛形」という江戸期の木組み模型など、資料が豊富にあったため正確に復元できた。庭園で有名な臥龍山荘は時間の都合上入館できず、外見だけ観るにとどめた。
宇和島城
2017年3月13日
41城目。早朝、窪川駅から出発し予土線をたどった。車窓からの四万十川の眺めは秘境感満載。宇和島駅に着く頃、生憎の雨だったが城の風景と重なり、それなりに風情があった。1596年頃に藤堂高虎が創建し、リアス式海岸の宇和海に面する地形を活かした縄張とした。いわゆる「海城」で、当時は総曲輪の約半分が海に面していた。1615年には伊達政宗の長男秀宗が宇和郡10万石を拝領して入城、宇和島伊達家が誕生した。さらに2代宗利の時に城を大改修し、多くの石垣や櫓を修築。高虎創建の天守は望楼型であったが、1666年に建てられた現存の層塔型天守は、この宗利の手によるもの。様々な破風が見られ装飾性に富んでいる。城山南麓、登山口にたたずむ「上り立ち門」は国内現存の薬医門では最大規模を誇る。
高知城
2017年3月12日
40城目。徳島から在来線で乗り継ぎ、高知県へ。時間がかかったが、四国の急峻な谷の景色をじっくり味わうことができた。関ヶ原の戦いにより戦功を挙げた山内一豊は、1601年に大高坂山に築城工事を開始し、その2年後に本丸・二の丸が完成、入城した。その優美な姿から「鷹城」の異名をもつ。1727年、大火により追手門以外の城郭ほとんどが焼失したが、1753年までに創建当時の姿で再建された。追手門は一段と古い1664年に再建されたもので、下見板張の重厚な外観を誇る。現存天守閣12城の一つであり、全国で唯一本丸全体の建造物が、江戸時代から完全な形で残っている。「懐徳館」という本丸御殿は来客との正式な対面所として使われた。幕末に活躍した坂本龍馬、中岡慎太郎などの志士たちに関する展示が数多く、とても興味深い。登城後名勝桂浜へ向かい、土佐の雰囲気を存分に味わった。
福岡城
2018年5月1日
58城目。5月の大型連休にて九州城攻めの第一歩は福岡城へ。大濠公園も合わせて訪ね、池に浮かぶ「中の島」の景色に感動。豊前国中津から筑前国福岡52万石に移封された初代藩主黒田長政が1601年に築城開始し、7年程かけて完成した。西は糸島を経て唐津、南は太宰府にも連なる要衝の地であった。平山城で、天守閣はなく過去建てられた時期があったかどうかも不明。大中小の各天守台と47の櫓があったという。多聞櫓・(伝)潮見櫓・下之橋御門など多くの文化財を有する。また、本丸表御門は黒田家菩提寺である崇福寺の山門として移築されている。関ヶ原の戦いを終え、藩祖の長政が入って以降、他氏に替わることなく黒田氏12代で明治を迎えた。
大野城
2018年5月1日
59城目。大規模な古代朝鮮式山城で、百済からの渡来人の指導で造られたとされる。全周約8kmあり、健脚の人でも1日で隅々まで巡るのは厳しいかもしれない。百済支援のため、663年に大和朝廷は白村江の戦いに臨んだが、新羅・唐連合軍に敗戦。日本に来襲するのを恐れ、大和朝廷は九州を中心に防御施設を整えた。そのうち、太宰府の北側の守りとして四王寺山(大野山)に築かれたのが大野城。土塁や石塁、礎石群もいいが、全長約180mにわたる百間石垣がやはり見所。礎石建物跡も70棟以上見つかっている。この日、観光客は見当たらず侘しさもあったが、山城全体を独り占めした気分になれた。
名護屋城
2018年5月2日
61城目。西唐津駅からバスで30分ほど。東松浦半島北端に位置する。雨や霧のせいで期待していた玄界灘の景色が全く見えず、残念。大陸への出兵を目論んだ秀吉が、1591年に築城開始し、翌年完成。台地の頂上を本丸とし、二の丸、三の丸、山里丸、水の手曲輪などを備え、九州諸大名に普請を命じた。戦のための陣城とはいいながら城域は当時の大坂城に次ぐ約17万平方メートルにも及び、金箔瓦を使用した五重天守も建てられた。城の周囲には大名たちの陣屋がおかれ、一時はかなりの賑わいを見せたという。秀吉の病没後、戦いは終結し名護屋城は廃城。用材は近くの唐津城が築かれる際に転用された。またその後石垣も破壊された。
吉野ヶ里
2018年5月4日
64城目。前日に続き五月晴れで、心地よい風が吹き快適に登城できた。言わずと知れた弥生時代の環濠集落。家族連れが多く非常に賑やかだった。脊振山地南麓から平野部へ伸びた帯状の段丘に位置する。城柵や環濠、主祭殿や物見櫓などが復元・整備されており、「ムラ」から「クニ」へ発展していく過程を知るための重要な史跡として注目されている。吉野ヶ里では、弥生後期の環濠において突出部が作られ、そこから物見櫓を思わせる掘立柱建物跡が発見されたことから、『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国を彷彿させた。「北内郭」は「クニ」の中心と考えられ、物見櫓・高床住居・竪穴住居等を配し、城柵と環濠で囲まれている。また、「南内郭」は王や支配階級の人々が暮らしていた場所と考えられ、建物は竪穴住居が主体となっている。
佐賀城
2018年5月2日
60城目。生憎の大雨のため、落ち着いて散策出来なかった。鯱の門は天保期の現存建物。1608年、龍造寺氏の居城であった村中城を鍋島直茂・勝茂父子が拡張して築造した。享保年間の火災で天守を始め建物の多くを焼失。さらに、1835年にも火災が起き、藩政の中心だった二の丸御殿が焼失したため、10代藩主鍋島直正が再建に着手し、本丸御殿を建設した。本丸御殿は、明治以降も学校など様々な施設として利用されたが、1957年までに鯱の門を除いて全て解体された。直正は藩政改革を行った名君として知られ、反射炉を築いたり国産初の蒸気機関開発などを行ったことで、幕末佐賀藩の軍事力は日本近代化の原動力となった。2004年に本丸御殿の一部が木造復元され、佐賀城本丸歴史館として開館した。
平戸城
2018年5月3日
62城目。日本最西端の駅「たびら平戸口」からバスで向かい、平戸大橋を渡った後に下車して登城。前日とは違いよく晴れ、海と城の景色が素晴らしかった。鎌倉・室町時代にかけて、この地は水軍として名を馳せた松浦党の本拠地であった。1599年、松浦家26代鎮信(しげのぶ)は亀岡に「日の岳城」築いたが、当時豊臣家と親交が深かったことから家康に嫌疑をかけられ、その疑いを晴らすべく城を焼却。松浦家は以来、約90年間「御館(おたち)」で過ごし、藩庁かつ藩主の私邸として使った。30代棟(たかし)の時、幕府の許可がおりて、1704年に再築を開始。これが現在の平戸城にあたる。全国的にも珍しく山鹿流の縄張を採用。明治になって廃城したが、1962年、本丸に三重五階の模擬天守などが復興されている。城内には江戸期に通商を行っていた国々に関する資料や松浦家の遺品が展示されている。
島原城
2018年5月3日
63城目。松浦鉄道・JR大村線・島原鉄道と乗り継いで、ようやく島原の地へ。天守からは西側背後にそびえる雲仙普賢岳、対する東側の有明海と爽快な景色を味わえた。五重五階の天守は最上重を除いて破風が全くない典型的な層塔型天守。それを中心に3基の櫓が建ち、平櫓は33基あった。1618年、松倉重政が築城開始。しかし築城のための課役、キリシタンへの弾圧、過酷な年貢などが原因で、農民たちが天草・島原の一揆を起こした。一揆勢は原城に立てこもり鎮圧されたが、松倉氏は一揆を抑えられなかった責任を取り断絶。その後、高力氏、松平氏などが入った。天守の他、巽三重櫓・丑寅三重櫓も再建されており、高石垣上に立ち並ぶ姿が美しい。
人吉城
2023年1月28日
92城目。九州自動車道を南下していくと、山間部で雪が強まり、久々に恐怖を感じたが、人吉盆地へ抜けると止んで晴れ間もでてきたので安堵した。非常に強い寒波が流れてきた分、九州南部といえど寒かった。鎌倉時代初期、遠江国相良庄から人吉庄の地頭として着任した相良長頼による築城と伝えられる。本格的な山城としての築城は1470年頃で、12代当主為続の時。秀吉の九州統一後、20代長毎(ながつね)が豊後から石工を招き、石垣造りの城としてさらに改修した。また、球磨川を外堀として船着場を設け、川の水運を取り入れていた。この城の魅力の一つでもある石垣の「はね出し」技法は、1862年の寅助火事を契機に防火のため造られた。令和2年の豪雨災害もあって北外曲輪など崩れている箇所があるが、着実に復旧が進められているようだ。二の丸から眺める風流に富んだ町並みが印象的。
大分府内城
2023年1月29日
93城目。播磨赤松氏の一族の出身とされる福原直高が、早川氏にかわって府内に入封した後、築城開始した。1599年に望楼型の三重天守が完成する。江戸時代に入ると、竹中重利が増改築を施し、天守を新式の層塔型にした。北方は海、東方は大分川に面しており、本丸、二の丸、山里丸、北の丸が梯郭式に配された。1743年の出火で天守を含む多くの建物が焼失。その時焼失を免れた着到櫓なども昭和の大分空襲で失われた。現在、櫓や門、廊下橋など再建されているが、現存の建物は宗門櫓と人質櫓のみ。城内には元々内々堀があったが、埋め立てられ駐車場にもなっている。規模は大きくないが、内堀を一周しながら府内城の風格を味わえた。
岡城
2020年8月11日
82城目。奥豊後の山あいにて、広大な敷地を囲った断崖絶壁とその壁上に累々と築かれている石垣群から「難攻不落の堅城」と謳われ、山城の中でも最高級の壮大な景観を誇る。1185年、緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるため築城したという伝説がある。1331年、志賀貞朝が入り城を拡張。16世紀末、当時豊後を治めていた大友義統は、秀吉に所領を没収され、それに伴い大友氏重臣の志賀親次も岡城から撤退。その後、播磨国三木城から入部した中川秀成により、現在残る高石垣を多用した近世城郭となった。本丸には天守代わりの御三階櫓が、西の丸には御殿が作られ政務を行う中心となった。廃藩置県により、13代続いた中川家の岡藩は終焉を迎え、さらに廃城令で建造物は全て破却。当時の荒廃した古城の様子から、瀧廉太郎は名曲「荒城の月」を生み出した。
飫肥城
2020年8月9日
81城目。飫肥駅から歩いて向かい、途中酒谷川にかかる橋を渡った。飫肥城目当てで来たが、「九州の小京都」と呼ばれるだけあって、想像以上に武家屋敷や商人通りが整備されており、城下町としての雰囲気に満たされていた。1452年、島津季久が入城したのが史料上の初出。後に島津氏と伊東氏が長年争うことになる。九州平定に乗り出した秀吉にいち早く味方した伊東氏は飫肥を与えられ、関ヶ原の戦い後は徳川家に領地を安堵される。1686年、伊東祐実により大改修が始まり、近世城郭に仕立て上げた。飫肥杉で作られた大手門や旧本丸に残る苔むした石垣など、風情が良い。帰り際、小村寿太郎の生家も立ち寄った。
鹿児島城
2020年8月8日
80城目。島津家久が1601年ころに築城開始。背後の城山(上ノ山)にあった山城と、麓の居館からなり、当初は山頂の曲輪が本丸、二の丸と呼ばれた。麓の藩主の居館(後の本丸)は、中世以来の館造りを踏襲。三方を堀と高石垣で区画し、御楼門を中心に多聞櫓、御角櫓が配されていた。1873年、本丸が火災で焼失。西南戦争最終戦の舞台としても有名で、1877年には二の丸も焼失した。復元された御楼門をくぐった先の石垣には、弾痕が生々しく残っており、日本最後の内戦の凄まじさを感じた。西郷隆盛は熊本・宮崎における戦いで新政府軍に敗れ、鹿児島の地に戻って、城山を中心に布陣することになる。そこで、立て籠もっていたとされる洞窟もあわせて訪問。別府晋介の介錯で隆盛は最期を迎えたという。城山展望台から見る桜島も、夏空に映え非常に雄大で素晴らしかった。
今帰仁城
2020年7月25日
79城目。前日まわったグスクとは一味違ってやんばるの森に程近く、また志慶真川に沿った断崖上にあるため、かなり迫力があった。14世紀の沖縄本島は北山・中山・南山の「三山鼎立の時代」であり、北山王は今帰仁城を拠点に、本島北部を支配下とし、中国と貿易していた。しかし、1416年中山の尚巴志に滅ぼされ、北山としての歴史を終える。その後、中山は北部地域の管理のために監守を今帰仁城に設置するが、1609年に薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上したとされる。兵馬の訓練所である大隅(ウーシミ)、正殿等の建物があったとされる大庭(ウーミャ)、女官の生活場所とされる御内原(ウーチバル)など隈なく散策。西にある石灰岩からなる丘陵は「クバの御嶽」といわれ、聖域として地元の人々から崇められている。
中城城
2020年7月24日
78城目。数年ぶりに沖縄の地へ。那覇空港から出た瞬間、強い日差しと蒸し暑さが身に沁みた。300余もある沖縄のグスクの中で最も遺構がよく残っている。城は六つの郭からなり、雨乞いの御嶽など八つの拝所がある。石垣は琉球石灰岩で積まれ、その白さと海の青さでより美しく映えた。14世紀後半に先中城按司が数世代に渡って築き、1440年頃に座喜味城主「読谷山按司:護佐丸」が王府の命令により移ってきて、北の郭・三の郭などを増築したとされる。護佐丸は琉球統一に尽力したが、勝連城主の阿麻和利に攻められ、1458年に自刃。伝承では、阿麻和利が護佐丸を除くため、護佐丸が謀反を企んでいると尚泰久王に讒言をし、阿麻和利に討伐を命じたとされる。沖縄のグスクは本土より古い時代からあいかた積みなどの石積技術が発達しており、その石造建築は1853年に来島したペリー探検隊も讃えている。
志苔館
2023年6月19日
続96城目。今夏最後の北海道城攻め。函館空港から歩いて行ける距離にある。14世紀末頃、北海道へ進出した津軽安東氏が渡島半島の海岸線沿いに「道南十二館」と呼ばれる拠点を築いた。志苔館はその最東端に位置し、安東氏の家臣小林氏の築城とされる。1457年のコシャマインの戦いや1512年のショヤコウジ兄弟の戦いなどでアイヌと和人は抗争し、その際志苔館もアイヌ方の攻撃にさらされ二度にわたり陥落。後に、安東氏の家臣蠣崎氏が松前氏を名乗って蝦夷地を支配するようになると、道南十二館はその役割を終えた。四方に土塁と空堀を巡らせた台形の縄張で非常に簡素で、時期的にも草がかなり生い茂っていた。前日と同様、天気がよく函館山や下北半島がはっきり見えた。
上ノ国勝山館
2023年6月18日
続95城目。松前城をあとにして、沿岸沿いの国道を北上。天気もすこぶる良く、海や丘・風車など北海道らしい絶景に感動した。日本最北の中世城館で、1457年にコシャマイン父子を討った武田信広が本拠地とした。武田氏によって築かれた館としては、他に花沢館、洲崎館が周辺にある。本曲輪南端に位置する館神八幡宮が1473年に創建されたことから、この頃築城されたと推定される。信広は蠣崎季繁の婿養子となり、蠣崎氏を継承。慶長年間頃に廃城となるが、それまでは蠣崎氏の北方日本海ルートの軍事・交易の中心地として栄えた。館内部では200棟を超える建物跡、神社跡、鍛冶鋳造跡、アイヌ墓などの遺構が確認され、和人とアイヌが共生していたとされる。夷王山の鳥居越しに見る景色が圧巻だった。登城後、開陽丸が座礁した地である江差の鴎島に向かった。
浪岡城
2020年1月4日
続40城目。続百名城シリーズ本州最北の城へ。「浪岡御所」と尊称された中世城館。積雪でかなり進入しづらく、堀と土塁で区画された「内館」「北館」など計八つの縄張の形状がはっきり分からなかった。城の南側の急峻な崖下には浪岡川と正平津川が流れていて、天然の堀と水源を兼ねていた。1460年代、後醍醐天皇を助けた北畠親房の子孫と伝えられる浪岡北畠氏によって築城された。城主居館のある内館西側には曲輪を登って入る坂虎口が設けられていた。1562年、浪岡氏の親族間で争い(川原御所の乱)が生じて勢力が衰え、1578年に津軽為信に攻められ落城。以後、約400年に渡り城跡は畑や水田として使われてきた。
九戸城
2023年11月12日
続97城目。前日に花巻空港に着陸してから二戸市まで北上。15世紀末頃、九戸氏が築いたと推定される。祖先は南部氏始祖である光行の六男行連という説がある。1582年、当主の九戸政実は南部氏の後継争いを機に南部信直と対立。さらに1590年、秀吉の奥州仕置で信直が秀吉方についたことで決定的となり、翌年政実は乱を起こした。南部氏の頼みで秀吉は豊臣秀次を総大将とする再仕置軍を編成して城を攻略し、落城。その後、城は蒲生氏郷の手で改修され、信直が「福岡城」と改め一時期居城したが、1636年に廃城となった。日本中世終焉の場としての歴史的評価がある。本丸は整備が完了していたが、二ノ丸が一部工事中で立入不可だった。外から見る二ノ丸断崖が迫力満点。
白石城
2022年1月3日
続81城目。先日の雪の影響で道路が凍結し、白石駅からの道中幾度か転倒しかけた。正月三ヶ日ということもあり、城の隣にある神明社に参拝者が多数いた。1591年、秀吉は伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣の蒲生郷成は白石城を築城し城主となった。その後、上杉氏の支配となるが、関ヶ原の戦いの直前に伊達政宗が城を攻略し、再びこの地方は伊達領となる。政宗は白石城を仙台城の支城と位置づけ、重臣片倉景綱を城主に置いた。景綱により城の大改修が行われる。江戸時代に一国一城令が出された後も、仙台城がありながら特別に存続が許された。本丸にある建物が天守ではなく、「大櫓」と称したのも幕府を憚ったからである。平成になって木造復元されておりとても目新しい。幕末にはここで奥羽越列藩会議が行われていた。
脇本城
2022年11月19日
続85城目。秋田空港から秋田駅へバス、そこから車を借りて風車が並ぶ道沿いを走り、男鹿方面へ。男鹿半島の付け根にある生鼻崎丘陵に築かれている。城域は内館・馬乗り場・兜ヶ崎の三区分で構成されているが、想定以上に広大でまわりきるのに時間を要し、入道崎へ行くのは諦めた。空堀、竪堀、大土塁などどの遺構も保存状態が良い。16世紀後半頃には、戦国大名の安東愛季(ちかすえ)がこの地に本拠を構えたという。愛季の二男実季は現在の秋田市内にある湊城を居城とし、秋田城介を称して秋田氏を名乗り、関ヶ原の戦い後に常陸宍戸へ国替となった。内館地区から眺める海岸線はまさしく絶景。現地で地元の方に会い、寒風山の位置や男鹿の風土について説明していただいた。
秋田城
2020年12月19日
続56城目。東北新幹線と秋田新幹線を利用し、秋田駅を降りてからはバスで向かった。強い寒波の影響で吹雪が舞う中、地方行政の一拠点となった最北の古代城柵を堪能。733年、秋田村高清水岡に遷された当初は「出羽柵(いではのき)」と呼ばれ、760年頃に秋田城と呼ばれるようになる。蝦夷の支配や総括が目的だった。奈良時代は出羽国の政治を行う国府が置かれ、津軽や渡嶋(北海道)のほか、大陸の渤海など、行政・軍事だけでなく対北方交易の拠点としても重要な役割を果たした。中心部は正殿・脇殿などの建物がある。また、全国的にも類例を見ない奈良時代の水洗トイレ遺構が発見され、古代沼の近くに復元されている。
鶴ヶ岡城
2020年12月20日
続57城目。大泉長盛は1463年に大宝寺城を築き、子孫は大宝寺氏を名乗った。大宝寺氏は戦国時代に上杉氏と結んで勢力を伸ばしたが、上杉氏と最上氏の争いの中で衰退し、上杉方の支城となる。関ヶ原の戦い後、最上義光(よしあき)の所領となると、鶴ヶ岡城に改称される。1622年、最上氏が改易されると酒井氏が入り、大改修される。酒井氏は代々善政を施いたことでも知られ、国替えの幕命が下った時は領民の嘆願で撤回となったほどで、明治維新まで城主を務めた。東は内川、西・南・北の三方は堀と土塁を巡らした「回字」形状の典型的な輪郭式縄張。本丸跡地には荘内神社が建てられ、初代忠次や藩校致道館を創建した忠徳(ただあり)など酒井家4名が御祭神として祀られている。
米沢城
2020年12月21日
続58城目。鶴岡から米沢へ移動するにつれ、積雪量がさらに増え、歩道ですら歩行困難だったが、必死に雪をかき分けなんとかたどり着いた。雪国の過酷さをあらためて思いしる。最上川西岸の松川扇状地の中央部に位置する、土塁と水堀で築かれた典型的な平城。鎌倉時代から長井氏が支配してきたが、南北町時代から伊達氏に追われることになる。1548年、伊達氏は米沢に本拠を移し、後に伊達政宗もこの城で生まれたという。政宗は秀吉の命で岩出山城に移ると、蒲生氏の改修を経て、1598年に上杉氏重臣の直江兼続の城となった。関ヶ原の戦い後、敗れた上杉景勝は会津120万石から米沢30万石へ大減封されて、米沢城に移り、以降上杉氏の居城として明治維新まで存続。明治期に本丸跡に上杉神社が創建された。
三春城
2022年4月30日
続83城目。明徳門から入り、坂をひたすら登って入城した。枝垂れ桜の名所であるが、4月末で既に木々は青々としていた。かわりに山桜が本丸付近で所々綺麗に咲いていた。戦国大名の田村義顕が築いたと伝えられているが、南北朝時代には城館が構えられていたという。1586年、3代清顕が死去すると一人娘の夫である伊達政宗が後見として清顕の甥宗顕が城主となり、政宗の南奥羽制覇を支えた。1590年、秀吉の奥州仕置きにより田村氏は改易され、三春は一旦伊達領になるが、翌年会津に入った蒲生氏郷の領地に組み入れられ、会津若松城の支城となる。1628年松下長綱が入ると、近世城郭に改修される。長綱の改易後は秋田氏が入り、秋田氏の居城として明治維新まで存続した。
向羽黒山城
2023年5月1日
続94城目。東北最大級の山城跡。会津若松駅から会津バスに乗り、上米塚で降車。そこから城の入り口まで向かった。熊出没注意を喚起する看板が所々あり、不安が増す中、夕暮れになる前に早足で登城した。あまりにも広大で北曲輪や三日町大手口など回りきれなかったのが心残り。1561年、戦国大名の蘆名盛氏が築城を開始し、1568年に完成。盛氏は度重なる戦いの結果、新潟や会津地方の大部分を従え、蘆名氏の全盛期を築いていたが、嫡男の盛興は世継ぎを残さず若くして亡くなる。その後の養子問題でも家中が乱れて弱体化する中、1589年の磨上原の合戦で伊達政宗の軍に大敗し、20代義広は常陸へ落ちる。これにより、蘆名氏による四百年の会津支配は幕を閉じた。その後、伊達氏、蒲生氏、上杉氏と封ぜられ、1601年に上杉景勝が米沢へ移封されて廃城となった。
笠間城
2019年5月3日
続21城目。縄張は標高207mの佐伯山山頂周辺に展開しており、天守曲輪までの登りは少々きつかった。岩山の巨石を利用した天守曲輪では残存状況の良い石垣が見られ、櫓を転用した佐志能神社が鎮座している。元々鎌倉時代より笠間氏が本拠としていたが、小田原平定後に宇都宮氏に攻め滅ぼされ、城を奪われる。1598年、代わって蒲生秀行の所領となる。秀行は重臣蒲生郷成を城代に配し、郷成の手で中世城郭から近世城郭に改修された。江戸時代になり、浅野氏が藩主の時に山麓に下屋敷を造営したが、近世においては珍しく山上の城も幕末まで存続。本丸の八幡台にあった二重櫓は明治期に真浄寺に移築され、七面堂として使用されている。
土浦城
2019年5月3日
続20城目。室町時代中期に小田氏の家臣菅谷氏が築いたといわれ、後に佐竹氏に追われた小田氏治が入城した。1590年の小田原平定後、家康の二男結城秀康の所領となり、関ヶ原の戦い後は主に譜代小藩の藩庁となった。江戸中期以降は土屋氏が代々城主となる。1685年、松平信興の時に甲州流軍学による築城術で大改修され、現在の縄張が完成。本丸は小規模ながら周囲には水堀がめぐり、水に浮かぶ亀の姿にたとえられ、「亀城」という呼び名がある。本丸正面の大手門となる櫓門(太鼓門)は1656年に改築され、関東地方で唯一現存する櫓門。現在は亀城公園として整備され、土塁は改変されて石垣になっている。
唐沢山城
2019年5月2日
続19城目。評判通りたくさんの猫が戯れており、とても癒された。940年に東国で反乱を起こした平将門を成敗し、下野守と武蔵守を拝命した藤原秀郷が築いたとされるが定かではない。平安時代の末からこの地の領主を務めてきた佐野氏が、15世紀に本格的に造り始めた説がある。唐沢山一帯は明治時代になると新政府の管轄下に置かれたが、佐野家ゆかりの人々は唐沢山古城跡に秀郷公を祀る神社を創建することを決議し、国や県に働きかけた。その結果、神社設立と官有林払い下げが許可され、1883年10月に大祭を施工し神社創建が実現された。本丸跡に残る高石垣は勿論、神社拝殿や本殿も威厳を感じた。
名胡桃城
2021年11月6日
続77城目。外観で分かるとおり郭が直線的に配されてある典型的な連郭式の城。それほど大きくはないが、戦国時代が終わるきっかけとなった山城と考えると奥が深い。最先端のささ郭から赤や黄で彩られた秋の三峰山を臨む。城内の紅葉も艶やかだった。沼田地方は古くから上杉、武田、北条が領有争いした場所で、戦国時代末期になると北条氏と真田氏の争いとなる。1579年、武田氏から沼田攻略を命じられた真田氏は名胡桃城を築城。ここを足掛かりに沼田城を占拠した。その後、惣無事令を出した秀吉が仲裁役として領土の境界線を利根川と裁定したが、それに反し沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃したため、秀吉が小田原を討伐するきっかけとなった。
沼田城
2021年11月6日
続78城目。夕闇が迫る中、早足で登城。沼田盆地を中心として、三方に利根川・薄根川・片品川が流れ、特に片品川周辺において河岸段丘が発達している。1532年、この段丘の先端部に最初に築いたのが沼田顕泰といわれる。当初は沼田氏が一帯を支配していたが、北関東の軍事上の要衝であることから、上杉氏や北条氏、武田氏の争奪戦が繰り広げられ、最終的には武田臣下の真田氏の居城となる。真田氏は松代へ移封されるまで城を維持した。後に真田氏の分家が沼田藩として独立するが、1681年に改易される。その後、代官支配となったり譜代小大名が交替で入封した。最盛時には本丸に五重天守と三重櫓を持っていたが、改易時に破却され、本多氏以降の藩主は三の丸に簡素な居館を構えるのみだった。西櫓台の石垣上に名物の御殿桜がある。
岩櫃城
2021年11月6日
続76城目。群馬原町駅から徒歩30分ほどで平沢登山口、そこから本丸までは徒歩10分くらい。朝方は霜が下りるほど冷え込んだが、昼間は快適な陽気だった。山々の紅葉も着々と進んでおりとても綺麗だった。登城後、真田道を歩いて古谷登山口まで行き、岩櫃山の峻険な岩肌を拝めた。城主として最初吾妻太郎行盛がいたが、里見氏に攻められて自害。大永年間(1521〜28年)に斎藤憲行が北朝方の上野守護上杉憲顕の支援により、城を奪回して城主となり、吾妻郡一帯を支配したという。しかし、武田信玄が真田幸隆に岩櫃城攻撃を命じ、1565年に陥落された。以後、真田氏の拠点となり、上田城や沼田城の支城として存続。山城の本丸は山頂にあるのが一般的だが、この城の本丸は中腹にある。さすがに山頂まで登らなかったが、山頂付近は滑落が起こりうる危険箇所があり、なかでも「天狗のかけ橋」が有名。
忍城
2019年5月2日
続18城目。令和最初の城めぐりは『のぼうの城』で有名な忍城へ。五月晴れに恵まれ、御三階櫓が美しかった。成田氏が1470年頃に築城したとされるが諸説ある。戦国時代には上杉氏や北条氏の侵攻を何度も退け、難攻不落の城として名を馳せた。1590年の小田原平定の際、石田三成の軍勢に水攻めされるも、当時の城代だった成田泰季が多数の兵や領民を城の要所に配置したことで、小田原城開城まで持ちこたえ、「浮き城」の別名がついた。その後、家康が関東入りすると、譜代の有力大名が入れ替わり入封した。かつて行田の町では足袋の生産が盛んで、それにまつわる多数の用具や関係資料が重要有形民俗文化財に指定されている。
杉山城
2021年6月27日
続71城目。徒歩だとかなりの距離なので武蔵嵐山駅からレンタサイクルを使用。次第に暑さが増す中、丘を登るのも一苦労だった。近接する菅谷館跡・松山城跡・小倉城跡とともに国指定史跡「比企城館跡群」となっている。鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に作られ、また切岸・横堀・折れ・枡形虎口や馬出などかなり高度な築城技術が集約されていることから、「戦国期城郭の最高傑作」の一つと高い評価を得ている。これほど保存状態がいいのにも関わらず、築城年代や築城者は不明。1487年から1505年まで続いた長享の乱の頃に、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したという説が有力視されている。
菅谷館
2021年6月27日
続70城目。武蔵嵐山駅から徒歩で15分ほど。比企城館跡群の一つで、本郭を取り囲むように二ノ郭、三ノ郭、西ノ郭、南郭が配置されている。鎌倉時代に宇治川の戦い、一ノ谷の戦いなどで功績をあげた有力御家人である畠山重忠の居館と伝えられているが、現在残っているのは戦国時代の城跡。重忠自身は1205年、北条時政の策謀により謀反の嫌疑をかけられ、義時の軍に討たれ滅亡する。1487年から勃発した山内上杉氏と扇谷上杉氏の争い(長享の乱)の中で再整備されたと考えられている。後に相模北条氏の拠点となったという説があるが定かではない。雑草が一面に生い茂る中、アジサイの花が所々綺麗に咲いていた。
本佐倉城
2019年5月4日
続22城目。汗ばむ陽気の中でも時折風が吹いて気持ちよかった。東山馬場に設置された千葉氏の家紋月星紋の盾が綺麗だった。1454年、古河公方と関東管領上杉氏が対立した享徳の乱が関東全域に広がり、下総の千葉氏もこの戦乱の中で内紛が起こる。これにより、本宗家が滅亡し、一族の岩橋輔胤が継承。本拠を千葉から佐倉(現酒々井町)へ移し、新たに築城した。秀吉の小田原征伐において、千葉氏は北条氏に味方し敗れ滅亡し、廃城となった。城域は大きく内郭と外郭に分かれており、現在周辺は田んぼだらけだが、かつては印旛沼と湿地帯に囲まれた要害だった。外郭である向根古谷には大規模な枡形虎口も残る。
大多喜城
2019年5月4日
続23城目。中世の頃の地名は、史料に『小多喜』とあることから、小多喜城と呼ばれていたとみられる。16世紀の前半代に武田氏が入城したと言われるが、その後安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、上総正木総家の居城として発展する。小田原平定後は本多忠勝が入城。忠勝は近世城郭に仕立て上げ、夷隅川に囲まれた山麓に城下町を開いた。1609年、スペインのサン・フランシスコ号が難破し、大多喜で保護されることとなった。そこに乗船していた一行のひとりであるドン・ロドリゴは『日本見聞録』に大多喜城の壮麗さを書き記し、海外でも高い評価を受けている。県立大多喜高校の敷地内には二の丸大井戸や昭和期に移築復元された薬医門があり、特異な風景だった。
滝山城
2020年10月25日
続55城目。快晴に恵まれたが、木陰で薄暗くかつ草が生い茂り曲輪の形がよく分からなかった。現在は滝山自然公園として整備され、都内有数の桜の名所でもある。本丸と中の丸の間は堀切で遮断されているが、そこに目印となる木橋が架けられている。1521年、武蔵守護代大石氏が築いて高月城から本拠を移したという。その後、1546年の河越の戦いの勝利で武蔵の国人領主を従えた北条氏康が、三男氏照を大石氏の婿養子として家督と城を相続させた。氏照は大改修を施し、1569年に武田信玄の大軍に攻められるが、少人数ながらも見事に持ちこたえた。後に八王子城を築いて本拠を移したため、廃城となった。
品川台場
2022年2月23日
続82城目。レインボーブリッジが間近で都会の景色を堪能できた。 1853年6月アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に突如来航したことが発端となり、ペリー退帆後幕府はすぐに海防強化に着手した。勘定吟味役の江川太郎左衛門らによる江戸湾巡視が行われ、内海防備のため御台場11基の築造を決定。その年の8月末には着工し、第一・第二・第三台場は翌年7月に、第五・第六台場と途中追加された御殿山下台場は12月に竣工した。第四・第七台場は工事半ばで中止し、第八以降の台場は未着手に終わる。最終的に六基完成した御台場は、親藩・譜代大名らにより、1868年の幕府崩壊直前まで江戸湾防備の拠点として警備が行われた。大正期には国指定史跡となるが、現在は二基しか残らず、それ以外は埋め立てもしくは撤去された。
小机城
2019年8月10日
続31城目。竹やぶが隅々まで生えており、地図なしだと縄張が分かりにくい。2,30分ほど散策すれば城全体を踏破できるくらいの広さだった。城域は高速道路で分断されるも、主要な遺構がほぼ原型のまま残されている。鶴見川に突き出た丘陵上の要害で、15世紀半ばまでには築城されていたと伝わる。1476年に始まる長尾景春の乱の中で、小机城の矢野兵庫助が景春勢に属したため、扇谷上杉氏の重臣・太田道灌が攻め落とした。戦国時代には、北条氏が関東進出するための軍事拠点となり、城も改修される。北条氏重臣・笠原氏が城代となった後、北条氏が城主となった。やがて、家康の関東入り後に廃城。
石垣山城
2019年8月10日
続30城目。小田原駅からバスで石垣山へ。ミンミンゼミやヒグラシの鳴き声が城内をこだました。陣城とはいえ、その名のとおり石垣を多用した曲輪は、大城郭の威容を感じさせる。石垣が豪快に崩れている箇所もあり、かえって風格があった。1590年、秀吉が北条家の小田原城を攻めるために、笠懸山山頂に築いた城で、約80日間という短期間で完成させた。完成後、周囲の木を伐採し、北条氏方にとってわずか一夜にして出現したように見えたことから「一夜城」という異名がある。石積は野面積で、近江の穴太衆(あのうしゅう)によるもの。天守台跡は残っているが、天守が実際に建てられたかは不明。本丸展望台から眼下に見下ろす小田原の町並みや相模湾が美しかった。
新府城
2019年10月27日
続36城目。天気に恵まれ、北にそびえる八ヶ岳が雄大だった。八ヶ岳から伸びる七里岩の断崖を巧みに利用している。1581年、信長の軍が迫りつつある中、武田勝頼が領国の防衛体制を強化するため築城。築城から入城まで1年にも満たない短期間で造られた。しかし、すぐさま織田軍の侵攻を受け、在城わずか68日で自ら火を放ち敗走。再起をはかる途中で謀反にあい、ついには天目山で勝頼は妻子とともに自害した。新府という名前は、武田領国の新しい府中(首都)を示し、政庁機能を甲府の躑躅ヶ先館から移したことを意味する。武田流築城術の特徴とされる丸馬出や三日月堀が見られ、また北の帯曲輪にある突出した出構も興味深い。
要害山城
2019年10月27日
続37城目。1520年に武田信虎が築いた山城。居館と政庁を兼ねた武田氏館に対して、緊急時に立てこもる詰の城としての役割を担った。信虎・信玄・勝頼と三代にわたって使用され、武田氏滅亡後も修築・再整備されたが、やがて甲府城が築城されると廃城となった。西麓の登山口から主郭に至るまでの尾根伝いに堀切と曲輪の出入口となる八つの門跡がある。頂上の主郭に着くと堀切付近に石垣が確認でき、さらにそこから富士山を拝むことができた。要害山南麓には名刹積翠寺があり、その寺伝によると、1521年に駿河の今川氏が甲府近郊まで攻め入った時、信虎が懐妊中だった正室を要害山城に避難させ、正室はこの寺で信玄を出産したという。
龍岡城
2021年2月27日
続60城目。日本に二つしかない星形稜堡の洋式城郭で、龍岡城五稜郭はその内の一つ。函館のそれと比較すればさすがに規模や知名度は劣るが、国指定史跡の隣に小学校があったり石垣が未完成だったりとなにかと異質で、それがかえって味わい深かった。三河奥殿に領地を持つ大給松平氏が、1704年に信州佐久にも陣地を置き、以来160年間にわたり統治を続けた。11代乗謨(のりかた)の代となり、幕末の情勢に応じて信州に本拠を移すことを決意。1864年、陣屋を置いていた田野口の地に新陣屋建設を着工。それから3年かけて完成した。乗謨は学才・識見ともにすぐれ、幕府の陸軍奉行や老中などの要職を歴任している。明治になり、大給恒(ゆずる)という呼称に変わってからは、日本赤十字社の前身「博愛社」を設立した。
高島城
2018年12月8日
続9城目。模擬天守だが、石垣や堀・冠木門も含め全体的に壮麗だった。諏訪社の神職だった諏訪氏が家康の関東入りに伴ってこの地を離れると、代わって築城名手と名高い日根野高吉が諏訪に入り、1592年から7年かけて諏訪湖畔に高島城を築いた。その後、諏訪氏は諏訪頼水の時に高島藩3万石の藩主として、父祖の地を回復し、明治維新まで城を守り抜いた。築城当時は主要な郭をほぼ一直線上に配置した連郭式で、諏訪湖と数条の河川に囲まれた、難攻不落の水城だった。城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから「諏訪の浮城」と呼ばれた。明治期に廃城となり、天守閣の撤去が終了すると、本丸跡が高島公園として一般に開放された。
高田城
2019年4月6日
続16城目。花見客が大勢いるなか、水堀の中心に建てられた三重櫓が一際異彩を放っていた。1610年、御家取り潰しとなった堀氏にかわって、家康の六男松平忠輝が信濃国川中島から入封。1614年に天下普請として伊達政宗や上杉景勝ら13大名に命じ、高田城築城に着手した。高田平野の中央よりやや西に寄った地点で、当時は菩提ヶ原と呼ばれていた。天守閣は建築されず、石垣もないのが特徴的だが、その理由は当時豊臣家との抗争に控え、完成を急ぐ必要があったからだと考えられている。忠輝は大坂夏の陣への遅参などを咎められ、1616年に改易。その後、稲葉氏や戸田氏など親藩・譜代の藩主が入れ替わり幕末を迎えた。高田城は春は日本三大夜桜、夏は東洋一といわれる蓮を楽しむことができる。
鮫ケ尾城
2019年4月6日
続15城目。長野県側から『しなの鉄道』、『えちごトキめき鉄道』を乗り継いで新潟県へ。北新井駅から徒歩で向かった。雪を纏った妙高山がはっきり見えるくらいの青空で、かつ春の風物詩として名高いカタクリの花がよく咲いており気分爽快。1578年に上杉謙信が死去すると、長尾氏から養子になった景勝と、北条氏から養子になった景虎による後継者争いである御館の乱が勃発した。追い詰められた景虎は翌年にこの城に逃れ、数日の攻防の末、自刃したと伝えられる。主郭の北には堀切を挟んで米蔵と呼ばれる曲輪があり、現在でも表面を観察すると焼米などを見つけることができる。北東麓には、上杉氏が城の鬼門鎮守として置いた斐太神社がある。
富山城
2023年4月2日
続93城目。桜満開で申し分なく城と似合っていた。堀の水面に映る天守の姿やそこに漂う桜の花びらも美しい。登城前日に松川沿いの夜桜も堪能。1543年頃、越中西部の守護代神保長職(ながもと)が築いたとされる。1559年、長職は越中東部に勢力を構えていた椎名康胤を攻めると、康胤は春日山にいた上杉謙信に救援を依頼したため、翌年富山城は攻撃を受けることになる。長職は富山を出て増山城に入り、畠山氏の仲介で一旦謙信に降伏した。この地の争奪戦はさらに一向一揆勢や信長が加わり、複雑な様相を呈するが、終いには信長家臣佐々成政が城を得た。信長死後、成政は秀吉と対立し大軍に囲まれ降伏。富山城は破却された。江戸時代には加賀藩前田氏の分家が独立して富山藩を立藩。前田利長が改修して隠居城とした。千歳御門は元々東出丸に営まれていたが、所有者の寄付で城址公園内に修復移築された。
増山城
2021年10月23日
続75城目。増山陣屋にある駐車場に車を止め、和田川を渡り冠木門から入城。外観は鬱蒼とした杉林で、中に入ると規模は想像以上に広く、時間の都合で池ノ平等屋敷は行けなかった。越中三大山城の一つ。南北朝時代には桃井氏や斯波氏らが、戦国時代には畠山氏の家臣神保氏が守護代として越中の実質的支配者となる。神保氏は上杉謙信に城を三度も攻撃され、籠城して抵抗するも1576年に落城。謙信没後は織田勢によって攻められ、越中平定を果たした佐々成政の支配下となる。成政の時に整備拡充され、最終的には前田利家の重臣、中川光重が城を守った。麓にはかつて侍屋敷と称される区画や城下町があったが、ダム建設により水没してしまった。
鳥越城
2021年10月23日
続74城目。朝、一時的に雨足が強まったが、少し晴れ間が出たところを狙って登城した。雨に加えて空気はひんやりしており、余計体が冷えた。手取川と大日川に囲まれた鳥越山にその城跡がある。1573年、信長は浅井・朝倉の両軍を滅ぼすと、一揆衆は織田軍団と対峙することになる。信長は1576年までに越前を平定するが、一揆衆は能登に侵攻してきた上杉謙信と結んで徹底抗戦する。しかし、謙信の病没や石山本願寺の降伏を経て、1580年に落城。その2年後には最後の抵抗も鎮圧され、「百姓の持ちたる国」の終焉をむかえた。守護の冨樫政親を滅ばしてからおよそ100年間自治を繰り広げた。復元された本丸枡形門がこの城の目玉。蓮如の布教活動の様子も歴史館で学習した。
福井城
2021年10月22日
続73城目。福井駅に程近いが、今回は車で向かった。戦国期に柴田勝家が北庄城を築城したが、賤ヶ岳の戦いで敗死すると、北庄城も焼失する。1600年、家康の二男結城秀康がこの地に入り、翌年から6年がかりで北庄城を拡張し、天下普請による新たな城が築かれた。秀康は越前松平氏を名乗り、3代忠昌の時、城名は「福居城」と改名された。松平春嶽などの歴代藩主が住んでいたとされる西三ノ丸(御座所跡)を経由し、山里口御門を通過後、天守台と福の井を見学。本丸北西隅にあるこの天守台にはかつて四重五階の天守が築かれていた。天守台上面の歪みは1948年の福井地震によるもの。高石垣は壮大で、青緑色の笏谷石が使用されている。
越前大野城
2022年10月8日
続84城目。岐阜県側から中部縦貫自動車道を通り、九頭竜湖を経由して大野市へ。秋風が吹き、心地よかった。越前大野城の西には戌山城址があり、気象条件が揃えば、そこから雲海に浮かぶ「天空の城」を見ることができる。1574年に起こった越前の内乱を鎮めた信長の家臣金森長近は、その功により越前大野郡の3分の2を与えられた。亀山山頂を平らにして、大野城を築き領国支配の本拠とする。江戸時代に入ると、越前松平氏の支城となるが、後に大野藩として独立。1682年譜代の土井利房が城主となり、以後幕末まで土井氏が藩主を受け継いだ。大野藩7代藩主の土井利忠は、藩校明倫館と洋学館の開設、済生病院の新築、西洋式軍制の採用、蝦夷地の開拓などの藩政改革に取り組み、当時大赤字だった藩財政を黒字化させた名君として名高い。
佐柿国吉城
2019年12月28日
続39城目。曇りの予報だったが、本丸に近づくにつれ晴れ間ができ日本海を一望できた。平時は山麓の居館で領国経営し、戦時には山上の詰城に籠もって戦うという、典型的な中世山城。居館跡は段上になっており、その下部は石垣を備えている。1556年、若狭守護武田氏の重臣粟屋勝久が築城したと伝わる。1563年以降、朝倉氏は若狭侵攻を繰り返したが、国境に位置する佐柿国吉城は毎回これを撃退し、難攻不落を誇った。粟屋氏は、越前へ出陣してきた信長と家康の連合軍を城に迎え入れたりもした。その後、1583年には秀吉の家臣木村定光が城主となり城下町などを整備するが、江戸時代初期に廃城。
玄蕃尾城
2021年10月22日
続72城目。車で行く場合、薄暗くて狭い旧柳ケ瀬トンネル付近の脇道に入ってから駐車場まで細い道を通らなければならないが、所々に待避スペースは確保されている。柳ケ瀬山尾根上に位置する。主郭の前方・後方に馬出を配置する縄張であった。起源は一説によると15世紀に豪族の柳ケ瀬秀行が築城したという。 1583年の賤ヶ岳の戦いに際し、越前北ノ庄城主の柴田勝家がここに本陣を置き、周辺一帯には行市山砦などの陣城を築かせた。この戦いでは、勝家は戦わずして玄蕃尾城から撤退し、その後手つかずで残されたことから、土塁の保存状態は非常に良好。典型的な織豊期の臨戦の城の実態を見ることができる。
郡上八幡城
2021年11月13日
続79城目。1933年に木造の模擬天守が建てられたが、木造の再建城としては日本最古。このところの冷え込みにより楓も順調に赤く染まり、「天守炎上」の名にふさわしい出で立ちだった。1559年、東常慶と遠藤盛数との間で赤谷山城の戦いがおこり、その盛数が陣取った場所がこの城の起源。その子慶隆が1566年に郡上を統一し、城や城下町を建設していった。慶隆は秀吉に左遷されるも、関ヶ原の戦いで東軍に与し、勝利したため八幡城主に復帰した。江戸時代には遠藤氏や井上氏、金森氏が入封。その後、1758年に丹後宮津藩主であった青山幸道が封ぜられ、以後明治に至るまで青山氏により治められた。城内では、郡上一揆や水の町『郡上』ならではの用水路整備、山内一豊の妻千代にまつわる資料など展示されてある。千代は遠藤盛数の娘という説があり、本丸跡に山内一豊とともに像が建立されている。
苗木城
2018年12月16日
続10城目。中津川市内を流れる木曽川の右岸にそびえる高森山に築かれた。岩山の上にあり、敷地確保が困難であることから、懸造りという建築手法が用いられている。最大の魅力は巨岩を取り込んだ石垣で、それを取り巻く恵那山や木曽川の景色も素晴らしい。天守台から見える大矢倉は城内最大の建物であった。1520年代に遠山氏が築き、その後は豊臣氏に城を追われることになるが、関ヶ原の戦い前に家康の指示で苗木城奪還に成功し、苗木領の大名となる。以来明治に至るまで、苗木領主として初代友政から十二代友禄にわたりこの地を治めた。一万石という小規模の大名だったが、幕末期の一万石大名のうち苗木遠山氏のみが城を保有していた。
美濃金山城
2018年12月1日
続8城目。城がある古城山の北側を木曽川が流れ、南側を中山道が通る。1537年、美濃の守護代一族斎藤妙春(正義)が築城した烏峰城がルーツとされる。妙春が1548年に久々利氏に謀殺されると、長井道利が城主となったが、やがて道三の娘婿でもある織田信長が美濃を支配したのに伴い、家臣の森可成が城主となり、「金山城」に改称。以降、長可・乱丸・忠政へと継がれる。1600年、忠政が川中島へ転封となると、石川氏の預かりとなり、翌年建物は解体されて犬山城の改修に使われた。天守も移築されたとの説があるが、今日では否定されている。自然岩盤を利用した三の丸虎口と本丸の石垣には破城の痕跡が見られる。
大垣城
2019年9月21日
続35城目。名古屋城や広島城と同じく、戦前は国宝に指定されていたが空襲により焼失。かつては四重天守を筆頭に櫓を合わせて13基が建ち並ぶ大城郭であった。天守は現在鉄筋コンクリート製の資料館となっている。土岐氏の家臣が16世紀に築いた牛屋城が前身とされる。1559年、当時城主の氏家卜全が堀や土塁を築いて大規模な大垣城が誕生し、1596年には伊藤祐盛によって天守が造営された。関ヶ原の戦いでは、西軍の陣が置かれ、一時石田三成が入城。しかし、東軍に包囲され、籠城戦の末開城した。1635年から明治維新にかけては、戸田氏が藩主を務めた。摂津国尼崎から移封された初代藩主戸田氏鉄は治山治水事業を手がけ、城下町の整備に加え、藩財政を強固にした名君として名高い。
興国寺城
2021年1月5日
続59城目。JR東海道本線原駅から徒歩で40分ほど。愛鷹山麓の裾を通る根方街道に接し、南方に浮島沼が広がる天然の要地に築かれた。天守台から眺める富士山や駿河湾が美しい。1487年、伊勢盛時(北条早雲)は興国寺城に入ってここを拠点とし、伊豆の堀越御所討ち入りをしたと伝わる。早雲が韮山城へ本拠を移した後は北条氏、今川氏、武田氏が東駿河を奪い合うことになる。江戸時代には家康の家臣となっていた天野康景が興国寺藩を立藩するが、1607年に改易される。城全体の規模は他の城郭と比べると小さいと思われるが、伝天守台の北側にある空堀の深さは圧巻。二の丸から本丸周辺の土塁は江戸時代初期に造成されたと考えられる。
諏訪原城
2019年9月7日
続34城目。金谷駅から徒歩で向かう途中、旧東海道の金谷坂石畳を経由した。1573年、武田勝頼が遠江侵攻の拠点とするため、家臣の馬場信春に命じて牧之原台地に築城。諏訪原城の名の由来は、城内に諏訪大明神を祀ったことから。高天神城攻略のための陣城として、攻略後は兵站基地の役割を担った。しかし、家康の勢力が盛り返すと、武田勢は劣勢に立たされ、攻め落とされてしまう。その後、牧野城と改名され、今川氏真や松平家忠らが城番となる。武田氏滅亡後は城の必要性がなくなり、1590年頃に廃城となった。攻撃のために備えられた三日月堀と曲輪が組み合わさった広大な「丸馬出」が残っており、武田流築城術の集大成が垣間見える。
高天神城
2019年9月7日
続33城目。本丸がある東峰と西の丸がある西峰が独立し、尾根でつながった一城別郭式の構造。杉や檜に覆われて薄暗い中、木漏れ日を求めながら本丸や井戸曲輪など隈なく散策した。馬場平から田園地帯とその先の遠州灘までの眺望がとても映えた。室町時代に、今川氏が遠江侵攻の拠点として築いたとされ、戦国時代には武田氏と徳川氏の攻防の舞台となる。1574年に武田勝頼が攻め寄せ、当時の徳川方の城主・小笠原長忠は激しい戦闘の末、開城した。その後、城は武田方となったが、今度は家康の攻撃を度々受けることとなる。1575年の長篠の戦いの敗戦により、武田氏はさらに勢力を落とし、1581年についに落城した。
浜松城
2019年9月7日
続32城目。元々は今川氏の支城。信長の命を受け、1570年に家康は岡崎城から本拠を移した。家康は地名を浜松と改め、城も改修。家康自身はその後、駿府、江戸へと移り、浜松城はその間、堀尾吉晴が入ったほかは、幕末まで譜代大名が次々に入れ替わった。「出世城」という別名があり、歴代城主の中には、老中や大坂城代、京都所司代など幕府の要職に就いた者がいた。特に有名な城主は、天保の改革を行った水野忠邦。最高所は天守曲輪を置き、そこから一段ずつ下がって本丸、二の丸、さらに二の丸の南側から東側を囲んで広大な三の丸を配した。天守曲輪周囲の屏風折の石垣が、この城の特徴。
小牧山城
2019年6月8日
続24城目。桶狭間の戦いに勝利した信長は家康と協力し、美濃の斎藤氏を攻めるための準備をはじめる。1563年、頂上から美濃地方を一望できる小牧山に城を築き、清須から移り住んだ。1567年、美濃を攻略すると、稲葉山城(今の岐阜城)に住まいを移し、城や城下町は一旦廃れていく。信長が亡くなると、秀吉の勢力が強くなり、それに警戒した信長の次男信雄は家康と同盟を組み、秀吉に対抗した。1584年、家康は小牧山を本陣とし、小牧・長久手の戦いが起こるも、小牧付近では大きな戦いは行われず、秀吉と信雄は戦いを終えて、家康も秀吉と和解。その後小牧山城は再び使われなくなった。江戸時代に入ると、家康ゆかりの地として尾張徳川家により手厚い保護を受けたため、現在でも当時の堀や土塁の保存状態が良い。
古宮城
2019年6月16日
続26城目。百名城・続百名城シリーズをあわせて節目の百城目。杉林が鬱蒼と茂り、正直殺風景だった。白鳥神社の鳥居の奥に堀切で分割された東西の二城があり、東側が主郭で、西側が二の丸という一城別郭式。現地は看板が全くないので作手歴史民俗資料館から縄張図をもらうとわかりやすい。丘陵地全体に張り巡らされた縄張はほぼ完全な形で残存している。江戸時代の文献では、1571年、武田信玄が家臣の馬場信春に命じて築城させたとある。武田氏が奥三河の徳川領に侵攻する際の攻略拠点だったと考えられるが、謎は多い。1573年の信玄の病没や、1575年の長篠の戦いの敗戦によって、武田氏の勢力は衰え、やがて廃城となったと推定される。
吉田城
2019年6月16日
続25城目。豊川と朝倉川を背に本丸を基点として二の丸・三の丸を前面と側面に配した「後堅固」と呼ばれる梯郭式の城。1505年、牧野古白により今橋城が築かれたことに始まる。その後、周辺勢力により争奪戦が繰り返され、城主はしばしば交替。今川義元の代の時に吉田城と呼ばれた。やがて、家康が奪うと、酒井忠次を城主に配した。徳川氏の関東移封後は池田輝政により改修される。本丸南側の石垣のほとんどは輝政の改修時のものだが、その他の部分の石垣は名古屋城天下普請で余った石材を転用したとされ、石に刻印が確認できる。豊川対岸に面する鉄櫓は城内最大規模の三重櫓で、1954年に模擬再建された。
津城
2018年8月25日
続3城目。信長の弟信包が1580年に創築。以後、津は城下町として栄える。その後、藤堂高虎が今治から移封し、1611年に大改修を行う。北側の石塁を高く積み増し、その東北と西北の両隅に三重櫓を築いた。高虎は参宮街道を城下に引き入れるなどして町の基礎を作り上げ、2代高次はそれをもとに城下を整備した。現存遺構は石垣ほどしかないが、その直線的な高石垣から高虎の築城技術の凄さを感じた。津城で唯一存在する建築物は、戦後建てられた「模擬櫓」で、櫓の下にそびえる石垣は当時から崩れず残っている。また、現在西之丸にある入徳門は10代高兌(たかきわ)が開設した藩校有造館の講堂の正門で昭和期に移築された。
多気北畠氏城館
2019年4月27日
続17城目。4月後半とは言え、冷たい風が吹きかなり寒かった。平時の居館(多気御所)と西に構えられた詰城、さらに戦時の詰城(霧山城)からなる典型的な中世山城。霧山城は尾根に堀切を設け、南北の曲輪群に分かれている。館跡は上中下段の三段構造になっており、苔むした庭園は国名勝史跡に指定されるほど立派だった。南北朝時代、南朝方の重臣北畠親房の三男で伊勢国司に任じられた顕能(あきよし)を祖とする。北朝方に田丸城を攻められ、多気へ逃れた際に顕能が築いたとされる。その後、多気北畠氏が本拠としていたが、1569年に8代具教(とものり)が信長に降伏し、さらに1576年に具教は謀殺され、廃城となった。
田丸城
2018年8月25日
続4城目。夏空が映える中、セミの合唱が凄まじかった。近くにある村山龍平記念館も帰りに訪問。本丸の北側に天守台を配し、その手前に付櫓があり、穴蔵が存在する。1336年、北畠親房が南朝側の拠点として築いたことに始まる。15世紀後半は愛洲氏が城主となり、後に田丸氏に改名。1569年、信長は伊勢侵攻を始め、次男信雄に北畠氏の家督を継がせ、伊勢一国を支配下に置いた。その後、一時田丸氏が城主に復帰するも、稲葉氏を経て、1619年に紀伊徳川家付家老の久野氏が城主となり、以後幕末まで続いた。かつては、四周を水堀で囲っていたが、一部が空堀となり、東側と南東部が水堀として残っている。
赤木城
2019年7月13日
続27城目。連日雨の中、降らなさそうな日時を狙って登城。熊野市の山の奥地にあり、公共交通機関でたどり着くのは非常に難しいため車で向かった。秘境感満載だが、途中道幅が狭い箇所があり、丸山千枚田に行く際も要注意。1586年、奥熊野の地侍たちによる「天正の北山一揆」が発生。一揆の原因は、太閤検地への抵抗という説がある。この一揆の鎮圧のため、当時の紀伊国主豊臣秀長の家臣であった藤堂高虎が築城したという。一揆で抵抗した北山の人々が処刑された刑場が、田平子峠にある。曲輪には高石垣が築かれ枡形虎口も設けられ、織豊系城郭の特色を示している。石垣周囲の木は伐採されており、城跡からの山々の展望がよかった。
鎌刃城
2019年11月16日
続38城目。米原駅からレンタサイクルを借りて鎌刃城へ。名神高速道路下の彦根43番ゲートをくぐった時、より冒険感が増した。念のため熊に出くわさないよう、早足で奥地へと向かった。築城年代は不明。戦国時代より江北の佐々木京極氏や浅井氏、江南の佐々木六角氏が争い、そのおおよそ境目に位置する城として、城主・城代が入れ替わった。1538年は六角氏の城に、1559年には浅井氏に属した堀氏が入城し、浅井方の城になった。1570年に浅井長政が信長に反旗を翻した時には、城主堀秀村は織田方に付き、やがて信長に湖北支配をまかされ、鎌刃城がその拠点となった。1574年、堀氏は突然改易され廃城。山城としては整備されてある方で、登城も苦にならなかった。最奥地にある青竜滝まで見に行ったが、途中の西郭群は急な坂があって進みづらく断念した。
八幡山城
2018年9月8日
続5城目。久々にロープウェーに乗り、八幡山山上駅へ。秋雨のせいで琵琶湖や比良山系は全く見れなかった。近江など43万石領主となった秀吉の甥・秀次の居城として1585年に築城され、宿老田中吉政が入城した。秀次は後に秀吉の養子になり関白に昇ったが、秀頼の誕生で失脚。秀次の移封後、京極高次が八幡山城に入城するも、1595年に廃城となる。城は主に山上と山麓に分かれ、ともに総石垣で構成される。本丸の虎口は外枡形で、秀吉の時代の城と推定されるが、天守台は明確になっていない。本丸跡には秀次菩提寺の村雲御所瑞龍寺が京都から移築されている。また秀次館跡からは金箔瓦が多数出土し、当時の豪華さが伺える。
福知山城
2021年4月10日
続63城目。春うららかで登城には最適の気候だったが、桜は既に散っていた。現在の天守は昭和期の復元だが、小天守と続櫓を従えた望楼型天守は非常に風格がある。銅門番所は城内唯一の現存建物。また、天守台東側にある「豊磐の井」は驚くことに深さ約50mもある。丹波の国人横山氏が築いた横山城が前身。1579年に丹波を平定した明智光秀が、この地を福知山と命名し、横山城跡地に築城開始した。築城後は光秀の娘婿の明智秀満が城代として統治を任せられる。しかし、1582年の山崎の戦いで光秀が討たれると、秀吉臣下が城主となり、江戸時代には有馬氏、岡部氏、稲葉氏、松平氏がそれぞれ1代で交代し、朽木氏が13代続いて明治を迎えた。
芥川山城
2019年3月2日
続11城目。倒木・倒竹があり、進入しづらい箇所が多かった。三好山自体が民有地ということもあり、致し方ない部分はある。山城としての規模は大きいが、高低差はそれほどない。摂津・丹波の守護・細川高国によって、1516年までに築城された。この後、高国を自害に追い込んだ細川晴元が滞在するが、三好長慶が晴元を追放し、1553年に入城。畿内を支配し、天下人との評価を受けるも、1568年に信長の軍勢に城を追われ、信長に擁されて上洛した足利義昭の重臣・和田惟政が城主となる。高山右近父子に城を預け、その後高槻城へ惟政が移動すると、芥川山城は徐々に城としての機能を失っていった。主郭には三好長慶を祀る祠がある。
飯盛城
2019年3月2日
続12城目。登城の際、四条畷方面からだと急な坂なので、野崎駅方面から行くことにした。飯盛山の山頂に四條畷市と大東市にまたがって存在する中世最大級の山城。織豊期の城に先立つ石垣を多用している。三好長慶が居城とした所で、1560年に芥川山城から拠点をこの城に移した。長慶は将軍足利義輝を京都から追放し、信長より先駆けて政権を樹立させた「天下人」として名を馳せるようになる。やがて、長慶が没すると、三好三人衆は長慶の養子義継とともに高屋城へ移る。その後、信長の勢力が伸びて高屋城は攻め落とされ、河内が平定されると、信長は河内諸城の破却を命じ、この時飯盛城も破却されたとみられる。
岸和田城
2018年8月15日
続1城目。記念すべき続100名城シリーズ最初の登城。蛸地蔵駅から徒歩で向かった。地理的に紀州街道と大坂湾の水上交通を押さえている。楠木正成の一族・和田高家が現在の城より東側の野田町に築いたのが始まりとされる。1585年、秀吉の根来討滅により、秀吉の伯父小出秀政が城主になり、本丸を五層の天守に仕立て上げた。以降、岸和田城主は、小出氏3代、松平氏2代と続き、1640年からは岡部氏が務めた。岡部宣勝はさらに城を近世城郭へと大改築し、明治維新に至るまで岡部氏13代が居城。1827年、天守閣は落雷で焼失。「八陣の庭」は、1953年に重森三玲が設計・作庭を行った独創的な回遊式枯山水庭園で、国指定名勝でもある。
出石城・有子山城
2021年4月10日
続64城目。信長の但馬侵攻を受けて1569年に此隅山城を失った山名氏は南に下り、1574年有子山城を築いた。だが、「獅子の山城」と呼ばれた堅固な山城も1580年の豊臣秀長の攻撃で落城する。その後、前野氏や小出氏らが入り、小出氏は関ヶ原の戦い後も旧領を安堵された。1604年、小出吉英(よしふさ)が有子山城を廃し、山麓の居館と曲輪のみを出石城として改修して政治機関を移した。この時、三の丸が新しく造成され、また「但馬の小京都」と呼ばれる町並みも形成された。1706年、信州上田から仙石氏が入部。仙石氏の時は城内でこうのとりが飼育されていたという逸話が残っている。辰鼓楼や登城門・橋といい情緒あふれる景色が素晴らしい。ただ、有子山城に繋ぐ登城路が想像以上に急勾配で、個人的に今まで登った山城の中でいちばん疲労が激しかった。
黒井城
2021年4月3日
続61城目。別名保月城。秋の雲海も見どころの一つ。勾配が急なところがあり、頂上手前は少し注意が必要。猪ノ口山頂上から眺める黒井の町並みは最高。強い風が吹く中でもなんとか散らずに桜の花が出迎えてくれた。1335年、春日部荘を領した赤松貞範が山頂に砦を築いたのが起源とされる。その後、約200年間数代にわたって城主の変遷があったが、1554年に荻野氏の養子赤井直正が養父を暗殺して城を奪った。これにより号を悪右衛門と称し、黒井城の改修に着手する。1575年、明智光秀による丹波平定が始まり、抵抗するも落城。その後、光秀の重臣斎藤利三、秀吉の家臣堀尾吉晴らが一時入った。小牧長久手の戦いの際は、家康に呼応して赤井氏残党が立て籠もるが、戦後廃城となった。
洲本城
2021年4月3日
続62城目。舞子駅から高速バスに乗り淡路島へ。快晴での海の景色を期待するも曇ってしまい残念。それでも桜の花が咲き誇る様子は非常に風情があった。三熊山に初めて城が築かれたのは室町時代後期で、熊野水軍出身の安宅(あたぎ)氏が土塁や柵等で「土の城」を造ったとされる。1582年、仙石秀久が城主の時に四国攻めの前進基地として石垣が築かれた。その3年後には脇坂安治が城主となり、1609年までの在城中、現在見られる洲本城が完成。大阪湾や紀淡海峡を防衛する役割を担った。天守は大天守と小天守の間を櫓で結んだ連結式の構造をしていた。現在の天守は1928年に建造されたもので、模擬天守としては日本最古。山頂と北山麓を、東西2条の「登石垣」で繋いで防御力を高めている。
大和郡山城
2019年3月16日
続13城目。1580年、信長は大和一国の検地と新たに築かれる郡山城以外の城郭の破却を命じ、筒井順慶を城主とした。1585年に秀吉の弟秀長が100万石で入封すると、その石高にふさわしく整備された。その後秀長の養子秀保、増田長盛、さらには譜代大名数家が継いで、最後は柳澤氏6代が城主を務めて明治を迎えた。奈良盆地では良質な石材が乏しかったことから、付近一帯から「転用石」として墓石や石地蔵が集められた。その代表である「さかさ地蔵」は現在でも親しまれており「大永三年」の銘がある。内堀から望む追手向櫓や追手門の景観が素晴らしかった。天守台からは平城京大極殿・薬師寺なども望むことができる。
宇陀松山城
2019年3月16日
続14城目。辺りに杉が鬱蒼と繁る坂をひたすら登り天守郭へ。頂上部(本丸)の木々はほぼ切られており、開放的になっていた。本丸にはかつて本丸御殿をはじめとする複数の礎石建物があった。南北朝期から戦国時代、宇陀郡の国人秋山氏の居城であった秋山城が前身とされる。1585年に秀吉の弟秀長が大和一国を支配。豊臣政権下においては、大和郡山城・高取城とともに大和国支配の要をなした。やがて、徳川家大名の城となり、城主が福島高晴の時に「松山城」と改名されるが、大坂夏の陣で豊臣方と通じていた疑いで改易され、1615年に城は破却された。城山北西麓の春日神社には、宇陀松山城大手筋にあった春日門の櫓台が残っている。
新宮城
2018年8月18日
続2城目。城跡からは緑と海・川があわさり、とても綺麗な夏の景色だった。珍しいことに城址の地下は紀勢本線が走り、熊野川を渡る列車もこれまた風情がある。1600年、和歌山城主であった浅野幸長は、家老の浅野忠吉に新宮の地を分け与え、翌年から築城開始。一時、一国一城令で廃城となるも、1618年に築城許可が下り、再び築城に着手する。しかし、工事半ばで主家の長晟(ながあきら)や家老の忠吉が移封され、代わって入封した水野重央(しげなか)が引き継ぎ、2代重良が1633年に完成させた。本丸入口の石垣は整った切込接で、3代重上(しげたか)によって増築されたと見られる。熊野川沿いの水の手曲輪では、炭納屋跡や船着場跡が発掘調査で確認され、ここに集められた木炭を江戸へ運んでいたとのこと。
若桜鬼ケ城
2022年12月17日
続86城目。若桜鉄道の若桜駅を降り、八幡広場登山口へ向かった。そこから山頂まで40分程。今冬、鳥取県内の山間で熊の目撃情報があったらしく、念のため観光案内所で熊鈴を借りた。草木も枯れ果てた上に積雪がなければ、やはり冬の山城は登りやすい。山中鹿介が尼子氏再興のため、1575年に入城し、毛利氏と激戦を繰り広げるも翌年に敗走。毛利氏の城となるが、秀吉の中国攻めの結果、その家臣木下重堅が1581年に封ぜられた。重堅が関ヶ原の戦いに敗れ、自刃した後は山崎家盛が入る。1617年、家盛が転封されてから破却されたと見られる。山頂部は大規模な総石垣造の縄張で、石垣は破却された状態で残ってあり、かえっていかめしい雰囲気があった。
米子城
2018年11月16日
続6城目。湊山公園の湊山山頂に本丸を置く広大な城。二の丸虎口の枡形から進入。本丸手前の並立する天守台の姿が圧巻で、さらに頂上部へ登りつめると山々や中海の眺望が最高だった。応仁・文明の乱の頃、山名氏が飯山(いいのやま)に築いたと伝わる。戦国期には尼子氏が支配し、その後毛利氏が山陰を平定すると吉川広家が入り、1591から隣接する湊山に近世城郭の築城を開始した。広家が周防岩国へ移封されると、中村一忠が入り五重天守を建造。その後、加藤氏、池田氏、荒尾氏と城主が交代し明治を迎えた。建物こそないが、本丸・二の丸・三の丸、それに内膳丸や采女丸といった出丸など、当時の縄張の形態をとどめている。
浜田城
2018年11月17日
続7城目。夕日が沈む前に浜田駅から急ぎ足で城跡へ向かった。浜田市市街地中央部に位置する丘陵上にあり、別名亀山城という。昔、港として栄えた外ノ浦湾の風景に情趣を感じた。1619年に初代浜田藩主となった古田重治によって築城されてから、1866年に第2次幕長戦争(石州口の戦い)で大村益次郎率いる長州軍によって落城するまでの247年間、浜田藩主の本拠地だった。城の北側は断崖で日本海にのぞみ、南から西にかけて浜田川が堀の役割を果たした。古田氏は2代重恒に嗣子がいなかっため改易となり、その後は譜代大名の松平氏や本多氏等が藩主となった。かつては三層の天守があったが、1872年の浜田地震により倒壊し、現在石垣を残すのみ。
備中高松城
2019年7月28日
続28城目。「土城」という異名のとおり石垣はなく土壇や沼からなる。ハスの花が咲いており、綺麗だった。秀吉が中国攻めに際し、1580年に三木城、その翌年に鳥取城を兵糧攻めして落城させると、山陽を西進し、備中高松城を最前線に毛利軍と対峙した。黒田官兵衛の進言といわれる「水攻め」にとりかかり、堤防を築いて、足守川の水を引き入れ、孤城にした。秀吉は城主の清水宗治に対し、城兵の助命と引き換えに切腹し講和を結ぶように説いた。宗治はこれに応じ、湖上で切腹する。実はこの切腹の日の前日、秀吉は主君の信長が明智光秀の謀反で討たれたことを察知しており、毛利氏との和睦成立後、「弔い合戦」を大義にかかげ、京都までの道のりを急いだ。「中国大返し」の起点がこの高松の地と考えると、非常に興味深い。本丸には宗治の首塚がある。
三原城
2019年7月29日
続29城目。三原駅構内と連結しており、すぐに天主台に上がれる。城と駅が合体しているという特異な外観だった。各曲輪はかつて瀬戸内海の海水を取り入れた水堀で囲まれていた。1567年、毛利元就の三男・小早川隆景によって、沼田川(ぬたがわ)河口の三角州である大島と小島を削平し、周辺を埋めたてて築かれたと伝わる。1577年には信長の中国攻めを受けて、毛利輝元が本陣を置いた。後に、隆景は城を改修し、一旦筑前へ移るも、三原に戻って城と城下町を完成させた。関ヶ原の戦い後、広島城の支城となり、福島氏・浅野氏へと城主は引き継がれる。天主台の石垣は西面は小早川時代、その他は福島時代に築かれ、石積の違いも明確である。市街地には舟入櫓跡の石垣が一部残っている。
新高山城
2022年12月18日
続87城目。鎌倉時代、安芸沼田荘の地頭であった小早川氏は高山城を代々居城としていた。時代が進んで1552年、沼田小早川家の養子に入った毛利元就の三男小早川隆景が高山城西の沼田川対岸に築いたのが新高山城。本拠を移転したのは、沼田川流域や河口の展望がよくきき、水運の便もよく、また家臣の人心を一新させるためといわれる。隆景は次兄の吉川元春とともに毛利両川体制を敷き、長兄隆元の遺児輝元を支えて毛利氏の全盛期を築き上げた。1596年、隆景は新高山城を破壊し、その石で三原城を修築して隠居所とした。詰の丸では見晴らしもいいが、矢穴跡の見える巨石がたくさんあり迫力があった。シンゾウス郭は藪の中なのか、道を探したが分からず結局断念した。
大内氏館・高嶺城
2021年11月28日
続80城目。山口大神宮内にある登山口から高嶺城を目指した。息切れしながらも約40分で主郭に到着。木々に隠れてしまい、特に山口の町を一望できるわけでもないが、石垣は良好に残っていた。下山してから池泉庭園で有名な大内氏館跡を訪問。京の将軍邸を模したような方形居館で、曹洞宗の龍福寺が敷地の中央に居座り、その東方に庭園が位置する。まさに大内氏の栄華が凝縮されていた。最後の当主大内義長は1556年に詰城である高嶺城の築城を開始。しかし、毛利氏に攻め込まれ、未完成のまま逃亡し自害し果てる。代わりに毛利氏が完成させた。関ヶ原の戦い後、毛利氏は本拠地を山口から萩へ移転。最終的に一国一城令により、廃城となった。岩国に移る前に瑠璃光寺五重塔にも足を運んだ。
勝瑞城
2020年3月16日
続44城目。国史跡に指定されており、城跡と城館跡からなる。現在も発掘調査を行っており、史跡の雰囲気を醸し出している。水堀と土塁は一部が現存する。ほかに庭園跡や会所跡などが発見されている。室町時代後半に阿波国守護の細川氏が守護所を置いた地で、阿波の政治・経済・文化の中心地として栄えた。戦国時代には、細川氏の家臣である三好実休が謀反を起こして実権を握り、引き続き勝瑞を本拠として城館を構えた。1582年、長宗我部氏の攻略を受けて焼亡し、江戸時代に徳島に城下町が営まれると急速に衰退した。三好氏の墓所は見性寺にあり、境内には三好氏の歴史を記した「勝瑞義冢碑」も建つ。
一宮城
2020年3月16日
続43城目。早朝、徳島駅からバスで40分程乗車し、一の宮札所前で降車。山城の規模としてはさほど大きくなく、倉庫跡から水の手丸に至るまで一時間くらいだった。陰滝にある鎖場はそこそこ落差があり要注意。1338年、小笠原長宗による築城とされる。その後、一宮氏と称し、一宮城を代々居城とした。1582年に長宗我部氏が阿波を支配すると、一宮氏は滅ぼされて城は家臣に与えられた。1585年、秀吉の四国平定後、蜂須賀氏が阿波国主となり入城するが、翌年に徳島城を築いて移り、支城の一つとなった。全体として土造りの山城だが、本丸のみに蜂須賀氏の築造とされる石垣がある。本丸からは雪をかぶった讃岐山脈が見れた。
引田城
2020年3月16日
続45城目。山城ではあるが、三方を海に囲まれた海城ともいうべき立地。引田港を挟んで南西から望むと、尾根上を削平したなだらかな地形であることが分かる。16世紀初めころに、大内氏の家臣寒川氏に属する四宮氏が引田城主となった。その後、1571年に阿波の三好氏が城を奪い、家臣の矢野氏に与えた。1583年には長宗我部氏の讃岐侵攻を受けて、秀吉が仙石秀久を引田城に派遣するも撤退。1587年には代わって生駒親正が讃岐18万石の領主として入城した。聖通寺城に本拠を移した後も、国境守備の城として重視された。石垣は随所に見られ、特に北二の丸の高石垣が圧巻。心地よい海風が吹く中、本丸から眺める引田の町並みや瀬戸内海も素晴らしかった。
河後森城
2020年3月15日
続42城目。松丸駅から松野西小学校を経由して風呂ヶ谷へ。そこを起点として西から順にU字型の曲輪群を踏破した。広見川、鰯川、堀切川の3本の川に囲まれた丘陵上にある。16世紀、この一帯は土佐一条氏と長宗我部氏の戦闘が度々繰り広げられた。元々、一条氏から養子に入った河原淵教忠が城主だったが、1584年頃までにこの地は長宗我部氏の配下になったと見られる。秀吉による四国平定後、宇和郡一帯は小早川氏、戸田氏、藤堂氏、冨田氏の所領となり、それぞれの時代に城代が置かれた。江戸時代には宇和島藩の伊達氏付家老桑折氏も居住したといわれる。帰り際、予想外に風が冷たかったので、松丸駅の足湯で暖をとった。
岡豊城
2020年3月14日
続41城目。コロナの影響で歴史民俗資料館は閉まっており残念。国分川沿いの岡豊山に位置する長宗我部氏の本城。南北朝時代初期頃の築城と推定される。土佐七雄と呼ばれた有力国人の一家である長宗我部氏は、七雄中では最弱勢力だったが、国親の代で実力を蓄え成長する。幼少期に城を追われていたが、1518年頃に城を回復。さらに、その子元親が土佐のみならず四国を統一するも、秀吉の四国平定で所領を土佐一国に減じられた。最終的に元親は本拠を浦戸城に移し廃城となった。城山各所に畝状竪堀群が造成されている。また山頂部を中心に曲輪を階段状に配しており、その奥にある伝厩跡曲輪からの眺めが良かった。
小倉城
2021年5月5日
続69城目。関門海峡に面した小倉は、古来より陸海の交通の要衝として重視され、様々な攻防が繰り広げられた。1569年、毛利氏が築城したのが始まりで、その後高橋鑑種(あきたね)や毛利勝信が居城。さらに関ヶ原の戦いで功をあげた細川忠興により、大規模化や城下町建設が行われた。細川家が肥後国に転封されてからは、譜代大名の小笠原忠真が入国。将軍家光より九州諸大名を監視する特命を受けた。1837年の火災により本丸が全焼し、2年後に再建されたが、天守は建てられなかった。幕末、長州征討の時に長州藩に攻めこまれ、自ら城に火を放ったという悲しい歴史を持つ。天守は昭和期に復興され、多くの破風を持つ望楼型で再建されたが、本来は最上階以外は破風がない層塔型である。
水城
2023年1月27日
続88城目。真冬の九州城巡りは水城から開始。水城館の上にある展望所や水城跡広場駐車場から眺めると、土塁が東西一直線で築造されているのが分かる。東堤と違って、御笠川や高速道路を挟んだ向かいの西堤は付近に駐車場がなく、しかも途中線路で分断されているため、仕方なく歩いて西門跡まで向かった。663年白村江の戦いで大敗した日本は唐・新羅の進攻に備え、翌年防備を固めるため築いた。博多湾側から大宰府へ抜ける平野が最も狭くなるところで、守りに適していると判断され、平坦部を塞ぐように築造された。土塁造りには真砂土と粘土を交互につき固める版築工法と、生木の枝葉を敷き詰める敷粗朶(しきそだ)工法が採用されている。当時東西の門からは官道が延び、東門からは博多、西門からは鴻臚館へ繋がっていた。
久留米城
2021年5月3日
続68城目。16世紀始めころには、この地に在郷勢力が城を築いていたとされる。1587年、秀吉が九州を平定すると、毛利秀包(ひでかね)が入封し修築した。関ヶ原の戦いで西軍に与したことで改易され、城は柳川城の田中吉政の支城となる。田中氏が無嗣断絶すると、元々福知山を治めていた有馬豊氏が入り、大規模な改修を実施。以来、11代続いて明治を迎える。筑後川中流の丘陵上に位置し、本丸から直線的に南に二の丸、三の丸、外郭を配した連郭式の縄張を持つ。本丸御殿跡に建つ篠山神社には有馬家歴代藩主が祀られている。有馬記念館では有馬家の略歴を学習。有馬家の墓所である梅林寺もついでに訪問した。
基肄城
2023年1月27日
続89城目。日本書紀に記載された日本最古の朝鮮式山城。前年の水城と同じく国土防衛の一環で、665年に築かれた。百済の高官である憶礼福留や四比福夫が築城を指揮。続日本紀には698年に城の修復があったという記載がある。基山とその東峰にかけて、大小の谷を囲み、約3.9kmの土塁・石塁を巡らせている。谷部には石塁を築いて塞ぐ構造で、途中推定を含み4箇所の城門を置いている。また、南側の石塁には排水のための水門を設けている。山頂駐車場から草スキー場の坂を登り、いものがんぎを見てから史跡めぐりのコースに入った。北帝門跡は断念したが、結局礎石群、東北門跡、つつみ跡を経て南下し、水門まで到達。山頂から水門まで約1時間半だった。雪が次第に強まってきたので積雪を懸念し、水門からさらに駆け足で駐車場へ引き返した。
唐津城
2021年5月1日
続65城目。博多駅に到着後、地下鉄に入りそのまま直通で唐津駅まで。唐津湾や松浦川、「虹の松原」の景色に風情を感じた。秀吉の家臣、寺沢広高が1602年から7年の歳月をかけて完成した。築城にあたり名護屋城の解体資材を用いたと伝えられる。腰曲輪は高石垣で固め、二重三重に本丸を防御している。「虹の松原」も広高が慶長年間から植林したもので、黒松の大群生によって潮風を防ぎ、唐津に肥沃な農地をもたらすことになった。しかし、2代堅高は島原・天草一揆の責任を問われて減封され、死去すると寺沢氏は無嗣断絶となった。その後、譜代大名がめまぐるしく入れ替わる。唐津湾に突き出した城の姿はまさしく浮城のようだった。
福江城
2021年5月2日
続66城目。江戸時代最後に完成した城郭。長崎港からフェリーに乗船し、約3時間かけて福江港へ。甲板に立つと強烈な海風が体にあたり凄まじかったが、島々の景色が美しかった。福江城は港から程近く歩いていける。五島の歴史は古く、8世紀の肥前風土記には五島の関連記事がある。福江藩主五島氏は城主大名の家格であったが、1614年に居城の江川城が火災で焼け、1638年以降は江戸時代を通じて石田陣屋を藩庁とした。歴代藩主は幕府に再三築城許可を願い出たが、許されないまま幕末を迎え、盛成(もりあきら)の時ようやく許可が下りた。この背景には相次ぐ外国船の来航により海防強化の世論の高まりがあった。そのため、二の丸や北の丸には台場を設けている。藩主の隠殿屋敷や心字が池を中心に作られた庭園は閑静で、独特な雰囲気を醸し出している。
原城
2021年5月3日
続67城目。諫早から島鉄バスに乗って向かった。島原湾や普賢岳が一望でき、さらにウグイスの声が響き渡ったりと抜群の状況だった。有馬氏の支城として1604年に有馬晴信が築き上げた。全体的には土造りの曲輪が並立する中世的な構造だが、本丸のみ総石垣造りで、櫓台や門を伴う巨大な虎口が設けられていた。1612年に晴信が失脚し、その2年後の直純の日向転封を経て、松倉氏の支配となるが、1618年に島原城築城開始に伴い廃城。1637年、松倉氏治世下のキリシタン弾圧や拷問に堪えかね、領民は島原・天草一揆を起こす。そこで廃城となっていた原城に一揆勢が籠り、拠点とした。穏やかな景色とは裏腹に、当時大勢のキリシタンがこの地で命を落としたのを考えると心が痛まれる。有馬キリシタン遺産記念館では一揆の様相の他、ヴァリニャーニの巡察等を含む国内のキリスト教の展開を紹介している。
鞠智城
2023年1月28日
続91城目。山鹿市の米原台地上にあり、歴史公園として整備されている。八角形鼓楼、兵舎、米倉など古代建築物が復元されており、当時の古代山城の状況が分かりやすい。温故創生館で城の歴史を学んだ後、東回りで遺構を巡った。建物だけでなく灰塚から見る景観やワクド石など楽しめた。貯水池跡では銅造菩薩立像が発掘されており、7世紀後半に百済で造られたものとされる。大野城・基肄城とほぼ同時期の築城で、これらの城に食糧や武器・兵士を補給する基地としての役割をもったと推定される。9世紀中頃までは管理用の建物や米倉が建ち並んでいたようだが、次第に建物数は減少し、10世紀後半頃に完全に城としての役割を終える。一通り見学し終えてから、次の目的地大分市へ向かった。
八代城
2023年1月28日
続90城目。八代は戦国時代に小西行長が支配していたが、関ヶ原の戦いで行長が敗死すると、支配は加藤家に移った。加藤家筆頭家老の加藤正方は麦島城の城主となり、一国一城令が出された後も特例として存続が認められていたが、1619年の地震で倒壊。かわって、麦島対岸に位置する松江村に新たに「松江城」が築かれた。これが現在の八代城にあたる。1632年に加藤氏が改易されると、細川忠興が入城。1646年には細川家筆頭家老の松井興長が城代となり、以降明治に至るまで松井氏が代々在城した。本丸大天守台の他、月見櫓、宝形櫓、三十間櫓、磨櫓など櫓群が塁線を固めており、どの櫓の上に立っても石垣の高さに驚かされる。
中津城
2020年8月12日
続54城目。今夏の九州城めぐりは中津城で締めくくり。天守最上階からは周防灘まで一望できた。中津川沿いに佇む黒塗りの五重天守が美しいが、1964年に建てられた模擬天守で、「奥平家歴史資料館」となっている。黒田孝高(如水)が秀吉の命で九州を平定し、中津16万石を拝領して、1588年に建てた。関ヶ原の戦い後、黒田氏に代わり細川忠興が入封し、小倉城と並行して中津城の修築を開始。完成後は家督と小倉城を三男忠利に譲り、自らは中津城へ移り、隠居の場とした。細川氏が熊本へ転封すると中津藩として独立し、小笠原氏・奥平氏と譜代大名が城主を継いだ。時間の都合で福沢諭吉の旧居に辿り着けず残念。
角牟礼城
2023年1月29日
続92城目。大分自動車道を西進し、玖珠インターで降りて三島公園へ。前日に現地で降雪があり、道中路面凍結を心配していたが、ほぼ乾いていて安心した。ただ、旧久留島氏庭園周辺から角埋山山頂までは雪に覆われていた。雪景色も良かったが、清水御門前の階段で足を滑らせ転倒してしまった。角埋山はピュートという地形で、傾斜がゆるい南側以外は三方を切り立った崖が囲んでいる。そのためこの地を利用し、山頂から南に向かって曲輪群が作られている。豊後の大友氏の支配下にある中、1586年からの島津氏の侵攻に耐えた難攻不落の要害。1593年、秀吉の朝鮮出兵で失態した大友義統が改易されると、翌年毛利高政が入国し、織豊系城郭に改修される。関ヶ原の戦い後、高政の佐伯転封に伴い、廃城となった。これにて今冬の九州城巡りは終了。
臼杵城
2020年8月12日
続53城目。卯寅口から入り卯寅稲荷神社を経て、本丸、二の丸と続き、古橋口から出た。古橋口から見上げる鐙坂や大門櫓・畳櫓が美しい。天守台石垣は九州では名護屋城に次いで2番目に古い。1556年、大友義鎮(宗麟)が臼杵湾に浮かぶ小島(丹生嶋)に築城。かつては臼杵川河口の島を利用した天然の要害であった。キリシタン大名であった宗麟の城下らしく、キリスト教の施設が多く建てられ、城内には礼拝堂もあった。当時のイエズス会宣教師たちはローマに「臼杵の城」として報告している。秀吉の九州平定後、大友氏は改易され、福原氏・太田氏・稲葉氏と城主を変えつつ改修を重ねる。明治維新後に西南戦争の戦場となり落城した。
佐伯城
2020年8月11日
続52城目。早朝延岡駅から出発。佐伯駅で降りて徒歩で向かったが、なかなかの暑さで汗が吹き出た。最高所に着いてからようやく一息つき、水分を補給して海や山の景色を堪能した。1601年、日田から佐伯へ入部した佐伯藩初代藩主・毛利高政が、番匠川沿いの水上交通に便利で攻め難い八幡山に、築城開始から4年がかりで完成した。当初、本丸に三重天守を築き、さらに二重櫓5基などを建ち並べていたが、1617年の火災で本丸と天守は焼失。その後、天守は再建されなかった。江戸時代、毛利高慶(たかやす)が藩主の時、天守以外の建物が修復・再建された。天守台の石垣もいいが、麓の三の丸櫓門がとても雄大で感動した。
延岡城
2020年8月10日
続51城目。五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた山丘に位置する。日向松尾城主だった高橋元種は、関ヶ原の戦いの途中、東軍に寝返ったことで所領を安堵される。元種は1601年、延岡城の前身である縣城を築いて居城を移したが、1613年に改易され、代わって有馬氏が入封。2代康純の時に、天守代用の三階櫓、本丸二階門、二階櫓などが建てられた。この頃、地名も「延岡」に変わったとされる。その後、延岡藩には三浦氏、牧野氏、内藤氏と譜代大名が配された。城内には築城期や有馬期の石垣が多く残るが、中でも高さ約19mもある「千人殺しの石垣」が圧巻。礎石を外すと石垣が崩れ、一度に千人も敵を撃退することができるという伝承から名付けられた。
佐土原城
2020年8月10日
続50城目。室町時代、伊東氏庶流の田嶋休祐によって築かれたという。しかし、勢力拡大を目指す本家の日向伊東氏が城を乗っ取り、佐土原氏と称した。1537年、城は焼失するが、後に伊東義祐が再建。義祐は城下町の整備も行うが、その後は大大名として驕り政治を省みなくなったことで、島津義久に本拠を奪われ、豊後に逃亡した。江戸時代には薩摩藩の支藩として佐土原藩が成立。明治維新まで島津氏一族が支配した。日本最南端の天守台が本丸にあるが、2018年の台風で崩落がおこり、登城路の途中までしか行けなかった。途中雨が降ってきたこともあり、「佐土原いろは館」で休憩。店員の方の宮崎訛りが印象的だった。
志布志城
2020年8月9日
続49城目。内城、松尾城、高城、新城の4つの山城をあわせて「志布志城」と呼ぶ。この内、中心的役割を果たしたのが内城で規模も最大。高城と新城のあった場所は中学校や私有地になっているため立ち入り不可。また、松尾城は雑草等繁茂しており、登城を断念した。南九州特有の白色砂質であるシラス台地上にあり、その地形や山崩れしづらい性質を利用して、深く切り立った長い空堀が造られている。正確な築城年は不明だが、「救仁院志布志城」なる城名が南北町時代の記録にあり、古くとも1336年には存在していたと見られる。城は奪い合いの歴史で、肝付氏や楡井氏、また島津氏一族の新納(にいろ)氏など目まぐるしく城主が代わるが、秀吉の九州平定後に廃城となった。登城後、志布志湾付近を散策してから志布志駅で日南線に乗り、北上して宮崎県へ。
知覧城
2020年8月8日
続48城目。真夏の城巡りは知覧城から開始。鹿児島駅から鹿児島交通バスに乗り、南九州市へ。酷暑に加えてヤブ蚊に追われながらもなんとか四つの曲輪(本丸、蔵之城、弓場城、今城)を踏破。シラス台地の浸食谷が天然の空堀となっている。鎌倉時代、一帯は知覧氏が郡司として統治していた。南北朝時代は佐多氏に与えられ、その後1417年には今給黎久俊が城を押領したが、3年後に島津久豊と佐多親久が城を奪取し、再び佐多氏の居城となった。佐多氏は江戸初期にかけて隣村に左遷されたり、再び知覧の地頭として戻ったりと目まぐるしく移るが、最終的には島津姓を名乗り、明治維新まで存続した。ついでに付近にある特攻隊の資料館にも寄り、沖縄戦に向かい戦死された兵士の方々を追悼。
座喜味城
2020年7月24日
続47城目。赤褐色土の名護層を基盤とする標高約120mの丘陵に立地。一の郭と二の郭それぞれにアーチの門が造られているが、アーチ石のかみ合う部分にくさび石がはめられており、他のグスクには類例が見られないことから、現存する県内のアーチ門のうち最古と考えられている。読谷山按司護佐丸は、当初座喜味の北東に位置する山田城に居城していたが、1416年尚巴志がいる今帰仁城攻略に参戦し、その直後、地の利を考慮し座喜味へ築城したといわれる。1944年、旧日本軍によって高射砲陣地となり、戦後琉球政府の重要文化財に指定されるが、1960年には米軍のレーダー基地に使われたりと、激動の時代を目の当たりにした。城内に4ヶ所の拝所があり、現在二の郭アーチ門前に移設されている。他のグスクと同様、海の絶景が素晴らしかった。
勝連城
2020年7月24日
続46城目。沖縄の世界遺産の中で最古のグスク。丘陵上にそびえる姿がとても雄大だった。また、一の曲輪に上がると、北は金武湾やヤンバルの山々、南は知念半島や中城湾が一望できた。琉球統一を目指した勝連城主の阿麻和利は、1458年に護佐丸を倒し、王府打倒へ動き出したが、妻の百度踏揚(ももとふみあがり)とその付き人の大城賢雄(うふぐしくけんゆう)に知られてしまい、賢雄率いる王府軍により滅ぼされてしまう。百度踏揚は夫の阿麻和利を殺した賢雄と再婚するも、その賢雄も王府の陰謀で殺され、二度も夫を失ったことから悲劇の王女と言える。神が祀られている場所である御嶽もやはり数多く存在し、按司の守り神を祀った玉ノミウヂ御嶽や、「火の神」を祀った台所とされるウミチムンなどを見学。神人(カミンチュ)という神職者が執り行う宗教儀礼に触れ、沖縄の崇拝文化により興味がわいた。