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メンバー情報

ID6212
名前お城はなぜ人を惹きつけるのか?研究会長崎本部
コメント「わたくしはお城が好きである。人に聞かれるとわたしはまったく興味がありませんという顔をするほど好きである。」BY司馬遼
「今はただうらみもあらじ諸人の命に代わるわが身と思えば」
BY長治
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」BY鹿之助
「戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず。」「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵略すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し」「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」BY信玄
「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず。」「勝算があれば戦い、なければ戦わない。」BY孫子
「明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月かげ」BY八重

これからボチボチと制覇して行く予定です。
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
宇和島城
2014年12月23日
大州を後にし途中、宿場である宇和町にある卯之町を散策、昔の宿場町の風情がよく保存されている、しばらく散策し宇和島へ向かう、幕末の名君伊達宗城の居城、伊予伊達家の名城宇和島城は海につきだした海城で藤堂高虎の代表作、今となっては周りは埋め立てられ、街の中に山上に天守のみがそびえておりちょっと寂しい感じがする、さすがに名城と言われるお城で石垣なども昔の状態でよく保存されている、城郭検定問題にもよく出てくる隠れ五角形の縄張りはたぶん堀のあとと思われる周辺の車道などのイビツなカーブのしかたなどから推察される、城下町はほとんどその姿を留めておらず残念であるが、天釈園や伊達博物館でゆかりの品を見学してから高知方面に向かう、
大洲城
2014年12月23日
大分からフェリーで四国へ、肱川を天然の堀として縄張りされた大洲城は鎌倉時代末期に宇都宮豊房によって建てられ、藤堂高虎が修築した城、明治になり建物は解体されたが、豊富な資料をもとに木造天守として日本一の高さを誇る四層四階の天守が正確に復元された、江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓などは重要文化財になっているが内部の公開は無し、昔の街並みがよく残る城下町を散策し臥龍山荘へ向かう、肱川一の景勝地「臥龍淵」に建つ山荘は3つの建物が有り、臥龍院・不老庵・知止庵はそれぞれ数寄をこらした作りで秀逸、何といっても今治城築城を指揮した、藤堂高虎の重臣、渡辺勘兵衛による建築である、今治城の枡形虎口には勘兵衛石と言われる鏡石が今も残る、
丸亀城
2014年12月23日
丸亀市内に入りお城の見える大通りを正面からお城に向かうと圧倒的な高石垣が目の前に迫ってきた、石垣下の駐車場に車を止め、改めて見上げるとその重厚感、威圧感はハンパない、このお城は石垣に尽きる、石垣沿いにを本丸下を一周し、さまざまな角度から高石垣を眺めるといろんな景色が見え見ごたえがある、上から見下ろすとちょっと怖い、高所恐怖症の人は無理かもしれないと思いつつ天守に登城、上からの眺望は素晴らしく讃岐平野が一望できた、観光案内所でゆるキャラ「骨付きじゅうじゅう」グッズを発見、微妙な感じだが今からヒットするかも・・・、高速で愛媛松山市内へ向かう
高知城
2014年12月24日
宇和島から竜馬の脱藩ルートである檮原町で温泉に入り、雪が残る津野町経由で峠越えをしていよいよ高知城へ、現存である上、天守と本丸御殿がひと続きとなっている城は珍しい、天守だけでなく石垣や堀も含め城郭としての威容は圧巻である、幕末維新で多くの有名人を排出した、まさに土佐の国のシンボルである、ガイドさんの話によると山内家の入国で長宗我部を慕う住民はかなり混乱し、かなりの弾圧もあったらしい、今でも子孫同士は仲が悪いらしい、とにかく見るべきものが多いお城のひとつである、見学後長宗我部氏の岡豊城跡へ、典型的な中世の城跡で遺構がよく保存されている、本丸から眺めると広く高知平野が見渡せここに立地した理由がよくわかる、残念ながら隣接する博物館の長宗我部氏資料コーナーが閉館中だった、近くにある松尾寺、国分寺を見て再度高知市内へ戻り、竜馬の記念館とはりまやばし商店街を散策、市電でごめんまで往復乗鉄し、マーケードの明神丸めっちゃうまいカツオを食べ、後ろ髪を引かれつつ北上、高松城を目指す、
高松城
2014年12月24日
高知から四国山脈を越え高松へ、途中で食べた讃岐うどんは格安で美味い、毎回うどん県を実感、無料駐車場に車を止め高松城入城、すぐに海岸線がありいかにも海城感がすごい、堀の水も当然海水を引き入れている、現在でも埋め立てた範囲は少なく昔の遺構がよく残っていると思う、城内は工事中で掘を一部埋めてクレーンとダンプが働いていた、天守台跡からは瀬戸内海が綺麗に一望できた、城内に史料館があり見学後、源平合戦で有名な屋島へ、屋島寺からの素晴らしい眺めを堪能した後、丸亀城に向う、
湯築城
2014年12月25日
今回四国めぐり最後の城、松山についたのが夕方になったため、時間がかかりそうな松山城は次回に回すことにして湯築城へ、もともと動物園があったりした関係で、発掘及び復元の途中のよう、今から徐々に整備されていくと思う、城内は土塁に囲まれていて、中央に小高い丘が有り本丸があったことが想像できる、土塁の遺構や中世の屋敷などがよく復元されており、資料館では河野氏の経歴について詳しく解説してありその経歴はとても面白い、暗くなったので松山を後にし、九州へ帰るため三崎港フェリー乗り場へ向かう、近いうちに四国の残り3城でる、徳島城、今治城、松山城にも行きたいと思う、
掛川城
2014年12月30日
大井川鉄道を井川線まで含め充分に堪能し、掛川泊。早朝より登城し一番乗り。まずは天守閣こ登ってみる。霞のため残念ながら富士山は見えず。その後待望の現存本丸御殿へ。割と小振りながら現存の御殿だけあって素晴らしい。高知城と違い天守と続いているわけではないため、独立したお屋敷の感じが強い。昔の遺構は周辺にも残っており、城下町もゆっくり散策したい。掛川駅まで戻り、在来線と愛知環状鉄道、リニモを乗り継ぎ長久手古戦場跡へ、公園が整備されており池田恒興親子の慰霊碑がある。残念ながら資料館は休館。再びリニモ、地下鉄名城線を乗り継ぎ名古屋、近鉄アーバンで大阪へ、寺田町の鉄の店で早めの夕食を食べ、息子が店主からいろんな鉄本をプレゼントされていた。移転開業をするらしい。新大阪から新幹線で帰路に着き、車を駐車している二日市へ。
福岡城
2015年1月12日
さすがに九州でも大大名である黒田の城という感じで広大、昔を偲ぶものは石垣と堀や櫓の一部しかないが、福岡市の中心部にありながら大濠公園を含め広々とした土地が残っている、城跡は鴻臚館跡でもあり、古代から海外に向けて開けていた場所であることがわかる、資料館もあり福岡城の模型などで昔の縄張りと堀の様子、街並みの様子がわかるようになっている、筆頭家老の栗山家や井上家、母里家で1万5千石の石高があるということで、家臣でありながら大名に匹敵する力を持っていたことが想像できる、また敵である荒木村重の子孫や櫛橋家の子孫なども黒田家が面倒を見ていたという話も聞くことができた、博多と福岡は隣同士でありながら成り立ちが全く別で山笠に特徴が現れているということも初めて知ることができた、
大野城
2015年1月17日
中世の山城で広大なエリアにまたがっており、全容を把握することは難しい。
吉野ヶ里
2015年1月17日
古代のテーマパークみたいになっており入場料が必要、他に駐車場も有料である、土地は広大で見学するのは大変である、だだっ広いので駐車料くらいは無料にしてほしい、敷地が広すぎて園内にバスも走っている、有料施設のためか人はまばら、もうちょっと活用法を考える必要があるのでは、
佐賀城
2015年1月17日
佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城を鍋島氏が改修・拡張したものである、龍造寺隆信が島津に敗れて戦死し鍋島直茂が実権を握り村中城を改修した、内堀の幅は80mもあり、4層5階の天守あったが焼失した、天守台石垣は残っている、現存する鯱の門・続櫓は江戸時代にの再建された、本丸御殿の一部がきれいに復元されている、鯱の門には江藤新平を中心とした佐賀の乱時の弾痕が残っている、現在も天守台の発掘調査、文献調査が行われており、小倉城天守と共通する部分が多いらしい、地元から近いので頻繁に訪れるが初めてスタンプを押した、
名護屋城
2015年1月18日
いまでは田舎の港町に戦国時代、秀吉の号令のもとこの名護屋城に日本中の大名が集まったということがすごい。当時はすごく賑わっていたことが想像できる。名護屋城博物館は入館料は無料なのに内容はすごく充実している。時々興味のある内容の講演会も開催されているので、個人的には結構頻繁に訪れている。城跡もよく保存されているが町全体に各大名の陣跡が散在しているので町全体が要塞化しているような感じである。前田家や徳川家の陣跡にも行って見たがその規模はさすがにすごい。前田家の場合は虎口の石垣なども残っている。すべての大名の陣屋跡を訪ねて回るのは大変だがぜひ挑戦してみたい。本丸跡からは天気がよければ壱岐対馬の島々が広がり空気が澄んでいたであろう戦国時代であればもしかしたら朝鮮半島が見えたのかも・・・
篠山城
2015年1月24日
福知山線丹波路快速を篠山口で降車、神姫バスに乗り篠山の市街地へ向かう、昔ながらの街並みと建物などの景観がよく残っていてとても素晴らしい、特に今回は霧に包まれており、堀端の景色などはより幻想的な感じがした、綺麗な正方形の石垣に囲まれた城内には一部本丸書院が復元されており、石垣や堀も天下普請の城だけあって重厚感が有りとても見ごたえがある、堀端を石垣を見ながら一周して武家屋敷に向かったが残念ながら屋根の葺き替え工事中で外観のみ見学、郷土資料館での説明では藩主である青山氏と東京の青山とは深い関連があるとのこと、美術館になっている裁判所跡の建物では昔の法廷を見る事ができた、バスの時間まで春日神社を見て駅に戻った。
明石城
2015年1月24日
篠山城の後、篠山口からJRで三田駅、三田から神戸電鉄に乗り、途中鈴蘭台で乗り換え、秀吉の干し殺しで有名な別所氏の三木城へ向かった、上の丸駅で降車してすぐの裏山にある三木城後へ登る、本丸跡には三木合戦の説明と別所長治の有名な辞世の句である「今はただ恨みもあらじ諸人の命に代はる我が身と思えば」の碑文と合戦時の武将配置図があり、当時を偲ぶことができる、向かい側には秀吉本陣の平井山、左方には櫛橋氏の志方城が霞んで見えていた、古戦場巡りに後ろ髪を引かれつつ再び神戸電鉄から加古川線を乗り継ぎ明石城へ向かう、明石駅のホームに下りると目の前に立派な高石垣と櫓が見える、明石藩は後に小倉藩主となる家康の曾孫、小笠原忠真が明石、三木、加古、加東の四郡10万石を治めるため将軍家と姫路藩本多家の強い支援をうけて築いた城であり、高石垣の景観は見事なもの、案内板などがなくちょっとがっかり、広大な城跡は市民の憩いの公園となっていて、多くの人で賑わっている、山陽電鉄で大阪へ向かう、
高取城
2015年1月25日
東大阪の新石切駅近くでレンタカーを借り、途中大阪名物コナモンを堪能してからひたすら南下し、大和高取城の麓で一泊、早朝登城、一目見てこんな山の中に素晴らしい高石垣があることにびっくりと同時に感動、城ファンならこの城は外せない、日の出とともにしばらく城郭と縄張りを堪能し下山、途中壷阪寺に立ち寄った土佐街道にある観光案内所でスタンプをゲット、街道の最上部にある藩主植村氏の墓所がある宗泉寺に立ち寄り話を聞いたら、昭和になってからも、山上の家老屋敷には子孫が住んでいて、毎日、山を登り降りして学校などに通っていたらしい、昔の人はすごい、その後長屋門や町並みを見てから、近くにある世界遺産吉野へ、吉野神社、金峯山寺、桜本坊、竹林院など神社仏閣を駆け足で拝観してから千早城へ向かう、もっとゆっくり散策しなければ、柿の葉ずしは大好き、
千早城
2015年1月25日
予定が遅れ14:00頃到着、売店でスタンプを押し山の中へ分け入る。売店横の登城ルートは金剛山の登山ルートで登山客でとても賑わっていた。登山道から途中右折し崖を急登すると本丸跡である千早神社境内へ出た。詰の城である千早城は特に遺構らしきものは見当たらず、本丸跡には神社が鎮座していた周りは樹木に覆われており眺望は開けない。地形的に尾根沿いに開けた場所であることは理解できた。帰りは神社の参道である石段を下った。その後も尊敬する楠木正成の本拠地ということで、生誕地後や同じ場所にある資料館、産湯井戸、楠木城跡、赤坂城跡の城跡群を巡った。暗くなってきたので早々に下山し、五條市、和歌山の橋本市、九度山町の真田庵を経由して和歌山ラーメン目指し和歌山市へ。3店目でようやく開店している店に入店。めっちゃうまし、早ずしも最高、ついつい食べ過ぎてしまった。根来寺近くの道の駅で車中泊。
和歌山城
2015年1月26日
早朝より粉河寺と根来寺を拝観、昨晩の柿の葉ずしと和歌山ラーメンを消化、どちらも重要文化財と国宝の建物ばかり、根来寺は秀吉の雑賀攻めの時の銃弾の跡が多く残る、鉄砲衆=雑賀衆ということを実感した、よく燃えなかったものだと思う、大塔は通し柱がなく、現在の技術でも建立は困難とのこと、先人の技術は城の石垣技術もそうだが、すごいものがあると改めて思う、和歌山城はさすが御三家の城というべき規模で城域がとても広い、城郭全体を高石垣が取り囲み見上げる側を圧倒する威圧感がある、本丸内は復元された連立式櫓が取り囲み、当時の様子が良く分かるようになっている、赤門である搦手の追い廻し門と復元された二の丸への廊下橋も見に回ったが、城内が広いので点在している感じがする、
大阪城
2015年1月26日
和歌山城見学の後、阪神高速湾岸線で北上、迷いながらも何とか堀端の駐車場に到着。駐車場はツアーバスだらけ。しかも雨が結構強く降っている。残念ながら傘は持っていない。濡れながら外堀と内堀を周り、小走りで城内へ向かう。周りは韓国語と中国語が飛び交っている。やはり大阪を代表する観光地であると再認識させられた。日本人観光客より外国人が多い感じ。天守閣は今回で5回目だがスタンプは中でしか押せないので、しょうがなく入場料を払い天守閣内へ入った。今更何か言うこともないメジャーな城で、充分見学しているつもりだったが、改めて資料を観だしてしまうとやはり見ハマってしまう。結局、1時間くらいは天守閣内に留まってしまった。前回はボランティアガイドさんに案内をお願いして、石垣と堀を中心に外まわりを見て回った。天守閣を見るだけでは得られない知識をもらった。機会があれば再度お願いをしたい。真田の抜け穴がある三光神社にもいってみた。確かに洞窟みたいなのがあったが雨が強く早々に車に戻った。
平戸城
2015年2月8日
耐震工事中で登城できず、城内を散策し、観光協会でスタンプを押印した、海につきだした岬の尾根沿いに築城されていて、さすがに海賊の棟梁出身の城だと思わせる、石垣の遺構はよく残っていて、大手の虎口の形状などもわかりやすい、政務は海を挟んで向かい側にある館で行っていたたとのことで城下町も向かい形成されている、城跡からの眺望は最高で花粉症のないことで知られる、的山大島、度島が間近に見え、天気が良ければ遠くは壱岐対馬が望める、向かいの港の上にはザビエル協会、オランダ商館跡、松浦館など平戸独特の景色が見られる、平戸を後にし、同じ松浦党の本拠地である梶谷城を目指す、中世の典型的な山城で土塁や石垣が保存されている、次に同じく波多氏の岸岳城にもいってみた、こちらも山の頂上にあり、旗竿石や空堀、堀切の跡が樹木の中に埋もれている、海上はるか遠くまで見通しは利くもののどちらも海賊なのに山の頂上に城を作っているのが面白い、岸岳城は唐津や伊万里のほうまで見渡すことができ、頂上の尾根沿いに遺構がたくさん残っている、今度時間を掛けてゆっくり見てみたい、
島原城
2015年2月11日
午後より出発、途中、吾妻より島鉄に久しぶりに乗る。島原駅に14:30頃到着、大手側より城内へ入ると天守閣の入口で女子武将隊がお出迎え、城は立派で石高にしては分不相応の感がある、実際に説明書きにもあったが、有馬氏の統治は好評だったが、松倉氏に代わってから領民に不満が募り、島原の乱を引き起こしたとあった。有馬氏の資料が乏しく、天守閣内の博物館は少々寂しい感じ、キリシタン関連の資料が多い。石垣と堀の景観、天守閣から眺める有明海は最高。武家屋敷や町を散策し老舗旅館南風楼で温泉(露天風呂の温度が高すぎると何度も言ったのに対応してもらえず残念)に入り島鉄で帰路に着く。
岩国城
2015年2月14日
早朝、ロープウェイ前駐車場に到着、朝1便のロープウェイに乗りお城へ登る、とても高いところにある典型的な山城、この場所に1600年以降に作られたのが珍しい、しかも数年で取り壊したという潔さ、さすが豪将を多く輩出した吉川の意気込みを感じる、関ヶ原の後、実際に本領安堵できなかったので、毛利本家からだいぶ責められたらしい、もしかしたら毛利本家と敵対する気があったのかもしれない。天守台跡の石垣や井戸跡、空堀跡、錦帯橋を見下ろす景観もとても素晴らしい。降りは徒歩で下山、城下と館跡である吉香神社、吉川史料館、徴古館を回り広島城へ向かった。
広島城
2015年2月14日
岩国城の後訪問、市電(1日乗車券600円)を使い縮景園前から城内へ至る、入口には池田勇人首相の銅像がお出迎え、日清戦争時の大本営跡でもあることもあり、基礎がたくさん残っている、城郭を含め、建物全て原爆で倒壊したとのことで、同じ被爆都市長崎からきた者として、改めて戦争の怖さを思う。天守閣は復元されており、展示に関しては毛利氏のことが多い、城内にある護国神社と堀と石垣を見学し、いざお好み焼きへ向かう。宮島の夜景を楽しんだ後備中松山城へ向かうが、途中力尽き芳井町で宿泊
備中松山城
2015年2月15日
早朝に到着、ふいご峠の駐車場に一番乗り、でもすぐ後に続々と登城者が、やはり最近は城めぐりブームなのかなと感じる、たどり着くと石垣や土塀に圧倒される、岩の上に立つ天守もシンプルで素晴らしい、実戦を意識したお城だと感じた、よくこんな山の上に材料を運んだものだと思う。当然景色も素晴らしい、城下に流れる高梁川が蛇行し、綺麗な町並みが残っている。城下にある頼久寺の小堀遠州作庭園も見事で、小規模ながらイキイキとした庭園美を感じることができる、共通券で武家屋敷と資料館も見学、山中鹿之助の墓にお参りをして福山場に向かう。
福山城
2015年2月15日
備中松山より引き返し、途中備後国分寺跡に立ち寄り福山城へ、城内の三蔵稲荷へ参拝し登城、天守閣の大きさに圧倒される、備後国の国府でありながら現代においては広島県に属している特殊な地勢を感じる、水野家や安倍家など譜代の中でも老中を務めるほどの家が治めた地方で、外様である安芸の浅野家、防長の毛利家へのくさびの役割だったのかもしれない、月見櫓の本丸内からの見た目と外から見た目との違いがイイ、城郭検定によく登場する伏見城から移築された筋金門もなかなか良い、駅が近すぎるのでホームのメロディーと新幹線の通過音がしょっちゅう聞こえてくる、近隣の歴史博物館は中世の町並みを復元してあり面白かった、明王院の五重塔や草戸稲荷、流星ワゴンのロケ地にもなっている鞆の浦を散策してから尾道ラーメンを食すべく尾道に向かう、千光寺ライトアップや港湾の明かりに照らされた尾道水道が幻想的な風景を醸し出している、ラーメンでお腹いっぱいになったあと、尾道からしまなみ海道で今治城へ向かう
今治城
2015年2月16日
しまなみ海道を通り今治城へ、櫓や大手門の復元がほぼ完成し、過去の威容を偲ぶことができる、海城で堀の中に海水が出入りしており、干満によって水位が変化している、天守は主に築城した、藤堂高虎についての資料が多く、本丸内の銅像は築城を指揮する平服の高虎像である、津城にある甲冑姿の高虎像と比較するのも面白いと思った、典型的な層塔型天守からの瀬戸内海の景観はとても素晴らしい、櫓門と多聞櫓が復元されており、内部を一周することで、虎口をぐるっと囲んだ、初期の枡形虎口の状態が実感できる、天守の直下は吹揚神社が鎮座しており、本丸内は非常に引き締まった感じである、前に来た時には夜のライトアップも綺麗だった、名物である焼き鳥も食べたかったが時間の都合で諦め松山市に向かう、
松山城
2015年2月16日
今治城から1時間、二の丸庭園駐車場から続く黒門口より登城、20分程度で本丸台地へ到着、天守を始め、江戸後期築城の櫓や門が数多く現存し見所が多い、大地に上に立つ天守台に入る前に石垣の周りを1周、各櫓や門、坂の上の雲のロケ現場などを見て天守閣へ、代表的な連立式天守でとても見ごたえがある、続き櫓を一周してから天守閣の上階へ登る、江戸末期の落雷がなければほとんどの建物は残っていたということで感心しきり、帰りは東雲口から下山、築城主である加藤嘉明の像を見た、加藤時代は5層の天守閣があったらしいが、その後松平氏の時代に地盤の弱さから3層に改築したらしい、こんな建物が街のシンボルとして残っているなんて松山市民が羨ましい、松山には他にも河野氏の湯築城跡や道後温泉本館など由緒ある史跡が多いことに関心した、二の丸庭園を見てから、九州に帰るべく三崎港フェリー乗り場を目指す、
大分府内城
2015年2月16日
松山城の後、四国よりフェリーで大分上陸、時間も21:30となり真っ暗な中、大分城大手門へ、情報通りスタンプは門の中に置いてあった、場内は前に何度も訪れているので、早々に退散、九州を横断し帰路に着く、
人吉城
2015年2月27日
15年ぶりに懐かしい人吉市を訪れた。城跡もきれいになり、歴史資料館なども整備されていて、前来た時と比べると見学しやすくなっていた。城跡の石垣や武者返しはとても見ごたえがあり、本丸跡や二の丸跡からは、球磨川をはさんで風情ある市街地が広がっているのが一望できた。逆に市街地側からは城跡の石垣が一望でき、復元された多聞櫓などがとてもいい雰囲気を創っている。現在では資料館が建っている場所にあった、人吉藩家老の相良清兵衛屋敷の地下から最近発見された地下室は、立派な石垣を組んだ地下室の中に地下水が湧き出している不思議な空間で、何に使われていたかは謎に包まれており、古文書や絵図等にも全然記載がない空間だということだった。考えられるのはキリシタンの礼拝場所など宗教儀式が行われていた場所ではないかということで、清兵衛の息子の屋敷跡地下からも発見されているとのことでした。城跡近くにある公衆温泉「堤温泉」で相変わらずの人吉温泉の高泉質を堪能し、鉄道ファン必見の大畑駅(スイッチバックとループ線が連続する駅)と梅林を見て、人吉名物ループ道路橋を通り、加久藤峠を越え宮崎県えびの市を抜け鹿児島に向かう。
鹿児島城
2015年2月27日
霧島市方面から錦江湾沿いに鹿児島市を目指す。目の前には白黒の煙を交互にもくもくと噴き上げる桜島が目の前にそびえている。雄大で不思議なエネルギーを感じながら鹿児島市へ入る。過去に土砂崩れのニュースで見た竜ヶ水を通り鹿児島市に入った。鹿児島城跡は黎明館という歴史博物館になっており早速入館。解説を受けながら島津家の歴史を学んだ。島津氏も薩摩大隅を統一するのにはかなり苦労したようで、初代島津忠久が鎌倉時代に地頭に任じられて以来、鹿児島を統一するまでに400年近くかかっているとのこと。義久の時代に秀吉の九州征伐に降伏しているが当時は九州全土を統一しており相当な力を持っていたと思われる。幕末にもその力が発揮され、西郷・大久保を始め、維新の原動力となったはじめ人物をたくさん輩出している。博物館に閉館まで滞在し、外は暗くなっていたので城山には登らず、加治屋町や天文館付近を散策してから黒豚を食し大隅半島鹿屋を目指す。
飫肥城
2015年2月28日
垂水方面は火山灰が多かったが桜島が間近に見え、大正噴火で大隅半島と繋がった部分は自然の圧倒的な力を感じた。朝から鹿屋航空史料館を見て海軍航空隊の歴史を勉強し志布志駅に向かった。航空史料館で思いのほか見はまってしまったので、肝付氏が支配した100名廃城の志布志城の見学は次回にすることにして飫肥城に向かう。飫肥城は幕末まで伊東氏の居城で、わずかに石垣と堀跡が残っている。大きくはないが美しい城下町がそのまま残っており、城内松尾の丸には武家屋敷が再現されている。飫肥は外務卿小村寿太郎の出身地であり、小村記念館には関連史料が多く残されている。4館共通券で豫章館とともに見学した。
岡城
2015年3月1日
飫肥城から宮崎で絶品チキン南蛮を食し北上、東九州道が整備され延岡までだいぶ時間短縮。早朝原尻の滝を見た後登城。このお城はやはり石垣に尽きると思う。とてもきれいな高石垣が随所に見られ見事に保存されている。信長の家臣で知られる中川清秀の弟秀成が別所氏の三木城から移動してきたとのこと。特に先だって三木城を訪ねたばかりだったので感慨深かった。中央の有力大名が地方のかなり山深い岡藩の初代になったというのが面白い。また、中川清秀と古田織部は義理の兄弟であり、古田の家系が中川家の家老「中川覚左衛門」として血脈をつないでいたというのも興味深かった。城跡にも広大な覚左衛門屋敷の跡が残っていた。中央でも活躍した武将の家系ということで竹田市内の歴史資料館も興味深く見学することができた。旅順港閉塞作戦で有名な広瀬中佐を祀る広瀬神社を訪問し、古い銭湯を改造した大蔵清水場で最近売り出し中の竹田ちゃんぽんを食し阿蘇外輪山を越え九州塗りつぶし最後の城熊本城に向かう。
熊本城
2015年3月1日
天下の名城熊本城へ到着。縄張り・石垣・建物いずれをとってもすばらしい。本当に秀頼を迎えていれば豊臣は生き延びたかもしれないと思わせるほど加藤清正の意気込みを感じる。西南戦争でも落城しなかったことがそれを物語る。そのことを考えるとなぜ谷干城司令官は城に火をつけたのか?残念でならない。特別に公開されていた櫓群もくまなく見学した。現存の宇土櫓は天守といってもいい大きさで、この櫓から見る天守もまたいい感じ。城内加藤神社の境内から見る建物群は連立しているようにも見え、石垣の上に聳える宇土櫓が良く映えている。二の丸駐車場の反対側の飯田五重櫓と梅園側から見る石垣とその石垣越しに見える小天守と天守と本丸御殿がまた絶品。復元された本丸御殿の昭君の間は必見、8000万かけて復元された襖絵や天井絵は岩絵の具を使い描かれており感嘆。今回はかつての大名屋敷細川刑部邸も見学、この日から3月ということで18時まで延長された閉館時間ぎりぎりまであちこちを堪能した。東京の永青文庫細川コレクションもいつか見てみたい。九州の13城制覇!!!
萩城
2015年3月14日
金曜の夜に直方SAで宿泊。早朝下関まで走り下関駅近のコインPに車を停め、今回はJRに乗車。山陽線で厚狭・美祢線で長門市・山陰線経由で萩駅で下車。萩駅は重要文化財の建物でレトロで渋い。駅前の観光協会でレンタサイクルを調達し市内散策。湯川屋敷、桂太郎邸、藍場川から伊藤博文邸、玉木文ノ進邸、吉田松陰生誕地杉家跡(日本海に張り出した指月山と城跡が遠望できる)杉家、高杉家、吉田家、久坂家墓地、毛利氏菩提寺の東光寺、松下村塾、松陰神社宝物館をめぐりようやく萩城に到着。古地図では三角州で海に囲まれているので海城の感があるが実際は平山城らしい。指月山には詰の城もあり中世の形態を再現している。現在は石垣とわずかな堀を残すのみで本丸跡には志都岐神社が建っている。城下町がそのまま残っているのに城は残っていないのが残念。夕方まで城下町を散策し萩駅へ戻る。見所が多く行く先々でビッグネームと出会う。博物館と大河ドラマ館が時間切れで行けなかったので再訪したい。
津和野城
2015年4月11日
萩・津和野強行軍、1泊2日で行って来ました。5ヶ月前にスタンプ帳を持たずに来ていたので再度の登城です。リフトでのぼり城跡にはりっぱな石垣が残っていました。規模の大きい城跡ではありませんが、さだまさしの案山子に歌われたとおりの景色を望むことができ、情緒にあふれています。「城跡から見下ろせば蒼く細い川、橋のたもとに造り酒屋のレンガ煙突」です。城主の坂崎出羽守の説明を見るとちょっとかわいそうでした。帰りは駅まで徒歩で帰り、歌詞2番に出てくる、SL津和野号に乗り、山口湯田温泉へ引き返しました。C57の汽笛の響きは最高でした。翌日、萩で大河ドラマ館を見た後、再度津和野を訪れ鷲原八幡宮伝統の流鏑馬と石見神楽を堪能し帰途に着きました。
川越城
2015年5月15日
東京から足を伸ばし川越に、東京プリンスホテルから地下鉄で池袋まで、池袋からは東武東上線一本で30分程度で到着、思いのほか東京から近かった、でも西武線で本川越経由でくると時間がかかるらしい。駅前からバスに乗り、川越城本丸御殿へ、現存する御殿の重厚さに圧倒された。御殿の一部しか残っていないらしいが、それでも充分重みがある。せっかくなので喜多院にも立ち寄り内陣を拝観した。家光誕生の間や春日局化粧の間などがあり、由緒ある寺院であることが実感できる。近くにある東照宮と太田道灌の像、小江戸と呼ばれる由縁の蔵づくりの街並みが良く残っていて、伝統的建造物が数多く残っている。何ぶん平日にもかかわらず観光客でごったがえしていたので、名物のいもがしを購入し早々に東京に戻った。
江戸城
2015年5月17日
新しくなった東京駅から歩いて、坂下門、2重橋、楠正成像を見て、楠公レストランでスタンプ押しました。東京駅まで戻り、浜松町を経由し羽田空港から帰途に着きました。
さすがに江戸城。広くて大きいです。前日に国会から半蔵門、千鳥ガ淵を経由して靖国神社まで堀端を歩きましたが、大手側の広さを見ると改めて徳川の城という感じでした。楠木正成像は何が起こってもすぐ駆けつけられるようにと皇居の方を向いて建てられています。まさしく忠臣。幕末以降の崇拝ぶりがよくわかります。
竹田城
2015年6月6日
前日夜遅く姫路に到着し、姫路の歓楽街、塩町・魚町で食事して、駅中のマックで夜明かししたため、体が痛いですが、決意の早朝行動。朝一の電車で姫路を出発。播但線の電車に揺られ、寺前で気動車に乗り換え、1時間半ほどで竹田に到着。早速、駅裏の登山道をひたすら登り、8:00頃、天空の城に到着しました。雨交じりで雲が多く、少しだけ天空気分でした。早朝なのにお客さんもたくさんいて、さすが売り出し中の山城だと感じました。石垣と縄張りがよくわかり、奈良の高取城を思い出しましたが、周りの木立もきちんと伐採してあるので、城下の景色も良く見え、より観光地っぽかったです。津和野城にも似ているかもしれません。入山料も500円払い、きちんと管理されているようで、保存状態は大変良好のようでした。帰りは別のルートから下山し、竹田駅から姫路に戻り、山陽線で播州赤穂へ向かいました。
赤穂城
2015年6月6日
天空の竹田城から姫路に戻り、播州赤穂へ向かう。さすがに赤穂浪士のふるさとだけあって、駅から赤穂城大手門にいたる途中にある花岳寺、城内にある大石神社などほぼ赤穂浪士一色。お城は堀と石垣、大手門と天守台、本丸御殿の礎石が復元されている。赤穂浪士時代の城主である浅野家改易後、鬼武蔵の家系の森家が幕末まで続いたというのが興味深かった。赤穂城を見た後、時間があったので龍野城を見学に行こうと山陽線のたつの駅で下車したら、お城があるのは本竜野駅の方ということで失敗。結局、姫路から姫新線に乗り換えて龍野城に向かった。こちらは復元された本丸御殿と蔵作りの商家が立ち並ぶ城下町がよく保存されていてなかなか見ごたえがあったが、夕方遅かったため施設には入れずじまいだった。早朝から竹田城と赤穂城、龍野城の三箇所も見ることができすごく有意義な一日だったがすごく疲れた。明日の試験は大丈夫なのか・・・
姫路城
2015年6月7日
城郭検定1級を受験するため姫路へ行って来ました。試験はお昼からだったので午前中を利用して、大修理後の姫路城へ行きました。8:00頃到着したにもかかわらず既に行列が・・・説明を聞いていたら日曜には平均15000人が訪れるとのことでした。朝一できてよかったと実感。40分程度列に並び入場。人の波に流されながらも各門や土塀石垣を見漏らさぬよう気をつけながら天守と西の丸を見学。やっぱり姫路城はすごいですね。連立式の天守とその高さと美しさはベストオブキャッスルです。試験を受けた後は秀吉が本陣を置いたことで有名な書写山にも駆け足で登ってきました。山城並みの伽藍配置で本陣を置いた理由も分かりました。ただ、お寺側としては秀吉の行いはかなりの迷惑だったようですが・・・それにしても1級の試験は難しかった・・・惨敗でした。でも、姫路城と前日の竹田城・赤穂城も見れたので良しとしましょう。
津山城
2015年6月26日
どしゃぶりの中3回目の訪問。以前にはなかった備中3階櫓が復元されており、石崖の上に櫓がある姿はやはり良い。津山城は織田家臣、森可成の家系である、森家が納めた地方であり、天守があった場所からは津山市街が一望できる。惜しくも明治に取り壊されたらしい。築かれた年代の違う立派な石垣が残っており、見ごたえ充分。市内のはしの食堂さんで名物ホルモンうどんを食べ鳥取へ向かう。途中、三徳山投入堂を通ったが閉山しており下から見上げるのみで残念。亀井氏が治めた鹿野城下町にも立ち寄ったところ、城下のたたずまいが良く残っており、また、本丸跡を取り囲むように野趣あふれる内堀も現存していてとても良い雰囲気。鹿野温泉に入り鳥取市内へ向かう。
鬼ノ城
2015年6月26日
どしゃぶりの雨の中、倉敷駅に到着。レンタカーを借り、備中高松城へ、蛙の鼻築堤後と高松城本丸跡に立ち寄った。まさに湿地帯でまわりは池と田んぼだった。水攻めよろしく、横殴りの雨のため、ずぶぬれになってしまった。雨脚が少し落ち着いてから最上稲荷の上にある秀吉の本陣跡へ。見下ろすと水攻めの時の布陣と堤防がどこからどこまで築かれたのかがよくわかり、ちょうどこの季節に行われた、高松城水攻めの様子がよく想像できた。最上稲荷を後にし、30分ほどで鬼の城へ到着。ビジターセンターでスタンプを押し、悪天候だったがせっかく来たので城跡へ向かった。復元された西門に着くやいなや強風と強雨で景色も何も見えず。再度ずぶぬれになってしまった。城跡で強風と強雨と濃霧の中、りっぱに復元された版築土塁と敷石と石垣が聳えていて、良くこんな場所に築城したものだと感心した。中央政権から一方的に攻められ、悪者にされた、温羅族がかわいそうだなとおもいつつ、また、晴れていればと思いつつ城跡を後にし、津山城へ向かう。
鳥取城
2015年6月27日
鳥取砂丘で一泊し早朝7:30には城跡へ到着。雨は何とか小康状態、壮大な石垣群である、二の丸、三の丸、天球丸を堪能。天球丸の崖下には、復元された珍しい巻石垣も見ることができた。いよいよ、本丸である山ノ上丸へ登り始めたが、何とかもっていた天気が5合目付近の祠を越えるころから荒れ始めどしゃぶりに。かっぱもそのほかの装備もないので登城は断念。せっかく半分まできたのに残念。後ろ髪を引かれながら途中から下山した。ふもとに建つ仁風閣は大正天皇行幸に際しての宿泊所として、池田家が巨費を投じて建設したもの。現在もその威容はすばらしい。ちなみに鳥取池田家は東京原宿に広大な原宿屋敷を持っていたとのことで、超金持ちだったことがわかる。現在財産は池田協議会が管理しているらしい。この後、鳥取歴史館やまびこ館と鳥取東照宮を経由して月山富田城へと向かった。
松江城
2015年6月27日
16:00頃に松江城へ到着。月山富田城で時間をとったので閉館ぎりぎりかと思いきや夏期間は18:30までとのこと。なんとすばらしい配慮。おかげでゆっくりと見ることができた。松江城は5回目くらいだがいつきてもこのたたずまいが良い。いつ来てもこのお城は美しく猛々しい。松江のまち全体も情緒を感じるいいまちだと思う。現存天守5つ目の国宝に認定される予定。松江城が国宝に選ばれた理由は地下から2階までの通し柱、隣に立地する松江神社の倉庫から発見された棟札と天守の棟札掛けがぴったりと一致したこと、棟札に記載された慶長16年の文字により築城年が特定されたこと、住民の熱意と署名活動によるものらしい。内部は特徴的な天守閣地下の井戸をはじめ、築城のこだわりが随所に見られる。外部では年代の違う石垣や天守閣の優れた意匠が目を引く。ずっと見ていても飽きないお城だとつくづく感じる。歴史館とホーランエンヤ伝承館も見学。夕食でフラッと入ったカレーショップがおいしかった。日没後、小泉八雲ゴーストツアーにも参加し松江を充分に堪能することができた。ライトアップされたお城と堀尾吉晴の像を後にして山陽岡山へ向かう。
月山富田城
2015年6月27日
鳥取から一路島根の安来へ。途中、倉吉も見てみたいと思っていたが、時間がなく断念。山陰道がだいぶ完成していて結構スムーズについた。月山富田城は安来市広瀬という山深い場所にあるが、尼子氏が出雲支配を行った本城であり、その立地はやはり考えられている。尼子経久と山中鹿之助の像を見て、山中御殿跡地へ登ってみた。以前よりも整備が行き届いており、復元建築された花の壇屋敷も建っていた。ここでも雨にたたられ、月山山上の本丸登城はあきらめ、麓の資料館と広瀬の城下町なみ、尼子経久の墓所を見学して松江市内へ向かった。
岡山城
2015年6月28日
松江から米子へ向かう途中、黄泉比良坂の看板を発見、立ち寄ろうとしたが、闇夜であり、ただならぬ雰囲気に無理と判断、道中、岡山の真庭あたりで1泊し、早朝岡山市内へ入る。まずは池田家の菩提寺国清寺に立ち寄った後、後楽園駐車場に車を停め、岡山城へ向かった。9:00開門と同時に入場。池田家の数奇な運命と関が原後に築いた、姫路、鳥取、岡山を含む中国地方での圧倒的勢力と維新後も華麗なる一族として名をはせる池田一族に感心した。恒興の精神が脈々と続いているのを感じた。空襲ですべて焼けており、城自体は鉄筋コンクリート、本丸内の月見櫓が唯一現存するのみ。宇喜多時代の石垣が発掘中であり一部展示してあった。途中、吉備津彦神社と吉備津神社に立ち寄ってから倉敷へ。倉敷駅より電車で広島へ。お好み焼きを食しバスで福岡へ帰路に着く。
郡山城
2015年7月11日
今回は自車を利用、前の晩地元を出発、途中、鹿野SAで宿泊して、8:30頃、安芸高田歴史館到着。会館までの時間を利用して、城跡に登りました。今回で3回目の登城となります。資料館や元就公の墓所周辺では、生誕700年祭の準備で地元の方々がたくさん働いていました。7/16が元就公の命日ということで、東京から当代のお殿様も来られるとのことでした。幕末の名君毛利敬親さんの曾孫くらいになる方らしいです。城跡はよく保存されており、登山道も登りやすく、見学もしやすいです。下山して博物館を見学し、岡山の備前長船刀剣博物館に向かいました。次回は近くにある猿掛城跡にも行って見たいと思います。
徳島城
2015年7月12日
郡山城から備前市に移動、備前長船刀剣資料館、閑谷学校跡を見て、加古川の鶴林寺を訪ね名物「かつめし」を食べ明石海峡大橋を渡り淡路SAで宿泊。翌日鳴門の渦潮を堪能してから中世阿波の中心であった勝瑞城跡へ。城跡には少しの堀と土塁の跡が残り昔を偲ばせます。中世には珍しい平城で近くに発掘中の館跡も存在。戦国時代に一世を風靡した三好氏の本拠地でありました。その後徳島城跡へ。駅の裏側が徳島城跡で蜂須賀家政公が建てたこのお城は阿波淡路の太守らしく広大な面積の平山城です。天守閣はなかったものの明治の廃城令以降も昭和の空襲を受けるまでは建物が残っていたそうです。徳島城博物館と本丸跡を見学してから徳島ラーメンを食べ淡路島の洲本城に向かいました。脇坂安治時代に完成した洲本城は典型的な山城で遺構も良く残り景色もすばらしかったです。蜂須賀家の家臣同士でありながら本城と洲本城代稲田氏との仲が悪く最初徳島県だった淡路島が兵庫県に編入されたという話を聞きとても興味深いものがありました。淡路島を後にし、敦盛の青葉の笛で有名な神戸の須磨寺に立ち寄ったあと夜行フェリーで九州への帰途に着きました。
岡崎城
2015年11月23日
早朝6時の列車で長崎を出発。新幹線とJRを乗り継ぎ岡崎駅から愛知環状鉄道で中岡崎に着きました。隣は名鉄の岡崎公園前駅だったので帰りの時刻をチェック。歩いて10分程で岡崎城に着きました。「♪見よや徳川家康の起こりし土地の岡崎を♪」と鉄道唱歌にも歌われている岡崎城。天守閣や三河武士の館には家康やその家臣団にちなんだ資料が展示してありました。本丸の跡には龍城神社が建っていて、七五三の家族連れで賑わっていました。天守の脇に有名な家康の言葉である「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし、急ぐべからず」の石碑があり、外では武将隊がお客さんを集めて、これまた有名な「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」をもじった「♪堪忍ダンス♪」を踊っていて、結構盛り上がっていました。五平餅を食べながら空堀の跡や家康産湯の井戸などもあり、約1時間半程見学して名古屋城に向かいました。
名古屋城
2015年11月23日
岡崎城から名古屋城へ名鉄・地下鉄で移動。言うまでも無く家康が天下統一の最後の布石として築いた城です。城域も広大で市役所側入口から天守まで15分くらい歩かないといけませんでした。延床面積4424.5平方メートルは城の中では最大規模。北寄り中央の本丸を取り囲んで、御深井丸、西之丸、二之丸、堀をはさんで三の丸があり、藩主義直の居館及び政務のため使用された本丸御殿は立派な書院造りの大建築で復元中でした。戦災により焼失してしまったのがとても惜しいです。とにかく広く16:30の閉城とのことで急ぎ足で歩き回り、正門で無事スタンプをゲットできました。観光ループバスで栄にでるとイルミネーションがとても鮮やかでした。
松本城
2015年11月24日
名古屋を7時に出発。特急しなの号で一路信濃路へ向かいます。中央本線西ルートは木曽路を通るため山がちですが、ほとんどが複線なのでスピードは結構速く感じます。今回はグリーン料金を分奮発し、くつろぐこと約2時間ほどで松本に到着しました。駅前からバスで早速松本城へ向かいます。第一印象は「さすが国宝」です。周りを囲んだ水掘りに天守を写し、うっすらと冠雪したアルプスをバックに聳える姿は、貫禄・風格・品格を兼ね備えたまさに名城です。城域はそんなに広くはありませんが、黙って見ていても一向に見飽きない美しいお城です。天守建物の漆喰の白と漆塗りの黒の対比の絶妙な美しさや、構造は望楼型でありながら外見は層塔型のようにすっきり見えるということ。また、内部は要塞としての機能も備えつつ、このお城の最大の特徴である月見櫓は江戸時代に増設され、三方を開放し、朱塗りの刎高欄がまわりをめぐるという優雅な建築物があること。これには日本人の文化的な美に対する素養の高さを感じることができます。午前中いっぱいはしっかりと見て、後ろ髪をひかれつつ茅野に向かいました。
高遠城
2015年11月26日
茅野での仕事が終わりレンタカーで杖突峠を越え高遠へ向かいます。40分ほどで高遠城へ到着。山深い伊那谷のさらに奥にある街に山本勘助や秋山信友が城代を務めた由緒ある城跡があることに驚きです。信長の甲州攻めの時に武田軍として500名余りの家臣と共に若い命を散らした仁科盛信に思いをはせながら城跡を見学。桜の名所ということでたくさんの桜の木がありました。城跡には深く切り込んだ堀切や断崖、土塁のあとがはっきり残っておりきちんと整備されていました。織田信忠も攻めあぐねたであろうことが想像できます。近くの資料館では江戸時代に入り一時高遠藩主を務めた保科正之を大河に内藤時代に江島生島事件で有名な江島の遠投地となったり、ということがあったようです。資料館でスタンプを押して城下町に向かいます。情緒ある城下町では伊那名物のソースカツどんを食べたあと来た道を戻り杖突峠で休憩。真っ白に冠雪した八ヶ岳連峰と諏訪湖の水面が良く見えその美しさに感動しました。茅野市内の諏訪大社前宮と本宮、諏訪市内の秋宮と春宮をそれぞれ訪ね、片倉館の温泉に入り夜の諏訪湖を散策した後、塩尻に向かいました。
松代城
2015年11月27日
前日は話題の山賊焼を食べ塩尻で車中泊。この日は早朝より善光寺参拝をはじめ川中島戦場跡探索や博物館を見学。川中島の戦いへ思いを馳せ、みぞれ混じりの雨の中松代城へ。15年ほど前に来た時と比べきれいに整備されており、周辺の藩校跡や武家屋敷跡も見やすくなっていました。もともと武田軍の高坂弾正が治める海津城ですが、城跡は小規模なもので千曲川の流れも変わっておりあまり当時を偲ぶものはありませんでした。関が原以後明治までは真田家の治める土地で、真田宝物館などは次回の大河ドラマ「真田丸」効果で盛り上がっているようです。大東亜戦争時代に大本営や宮内庁、天皇陛下の疎開地に選ばれ地下トンネルがたくさん掘られた象山地下壕や幕末の偉人佐久間象山の祀られた神社や記念館も見学したあと真田家の本拠である上田城に向けて出発。途中立ち寄った別所温泉はいいお湯でした。
上田城
2015年11月28日
松代城下町を雨に降られながら見学、周辺の象山神社、象山記念館、大本営地下壕、今は地震観測所となっている皇室専用地下壕を見学し、日も暮れてきたので上田市の別所温泉へ向かいました。大湯の良い泉質で充分体を温めてから上田城の石垣下の駐車場で睡眠。翌朝念願の上田城へ、大河ドラマ放送が間近とあって真田十勇士の幟旗がたくさん翻っていて観光客も多く賑わっていました。真田家当時の面影は石垣の一部に残る程度ですが築城場所にこの場所を選んだことは縄張りを見ると納得でした。池波正太郎記念館を見て真田町の真田庄へ向かいました。真田本城跡や真田館跡からは見事な雲海がきれいに見え上田の町をすっぽり覆っていました。これぞ信州という感じでしょうか、はじめて野生の狐にも遭遇。上田城前で信州そばを食して一路、小諸城へ向かいました。
小諸城
2015年11月28日
上田城から小諸城へ、アニメ「SENGOKU」の仙石秀久が上田城の前に治めたのが小諸です。入口の立派な三の門には徳川家達の筆による「懐古園」の大額が掛かっています。城跡は小諸城址懐古園になっています。小諸城は、全国的にも珍しい城下町より低い穴城で、駅前広場から地下道を下がって城内に向かいます。浅間山の火山灰で出来ている谷と丘を利用して造られ、地形は当時のまま良く残っていて、郭と郭のあいだには急峻な崖があり、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっています。本丸跡には若干の石垣もありましたが、地形自体が攻めにくい城であることを物語っていました。島崎藤村の千曲川旅情の歌「小諸なる古城のほとり」でも有名です。入口にあった資料館は建物も展示資料も結構ぼろぼろでした。城外には学校として使用されていた小諸義塾の建物と重文である大手門があり当時を偲ぶことができます。小諸は日本最高地点を走る鉄道のJR小海線の始発駅でもあり鉄道に乗りたい気持ちを抑えつつ、龍岡城へ向かいました。
武田氏館
2015年11月29日
龍岡城に着いたらすでに真っ暗でしたが、夜の外灯でも五角形であることはよくわかりました。城跡は学校で堀と土塁など縄張り以外はこれといって残っているものはなさそうでした。でも日本では珍しい西洋型城郭を体感することができました。佐久地方を後に日本最高地点駅野辺山駅を見、清里高原を越え中山道側山梨県に入りました。峠道を下りたところ周辺が韮崎市ということだったので、勝頼の新府城跡はこの辺なのかなと思いつつ、甲府市内で名物ほうとうを食べて1泊し、早朝より武田館跡武田神社を見てまわりました。周辺はいわゆる二十四将の屋敷跡が取り囲み、まさに人は石垣人は堀を実践しているという感じでした。近くにある信玄の墓を見てから甲府城跡へ向かいました。
甲府城
2015年11月29日
朝から天気良く、甲府城跡の天守台の上から富士山が間近に良く見え感動しました。やはり日本人のDNAなのでしょうか。城跡は堅牢で壮大な石垣の城というイメージでさすが徳川家の城という感じです。駅の横にあるので中央線の電車が行き来するのも良く見えます。2時間も列車で行けば新宿というのも感慨深いなと思いつつ、甲斐五山の甲斐善光寺・義信菩提寺の東光寺を見学。間近に見える富士山に別れを告げ、昼過ぎに長野県茅野市へ戻りJRで塩尻へ、再び伊那路を走る特急しなので名古屋へ出て帰路に着きました。とても思い出深い信濃路への旅となりました。