トップ > メンバーリスト > メンバー情報

メンバー情報

ID6093
名前城みしる
コメントこんにちは。
私は司馬遼太郎さんの文庫本を片手に、鉄路に揺られながら全国のお城や城下町、または史跡を訪ねています。

日本100名城のスタンプラリーへは2014年です。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に縁の福岡城を訪ねた時から参加しています。

その時、福岡城のスタンプのデザイン(図柄)が表通りに面した「下の橋御門」や、多くの方が足を運ぶ「天守台」ではなく、奥まった南丸に建つ「多聞櫓・南隅櫓」であったことに
大変興味を持ちました。
以来、訪ねるお城の云わば「顔」ともなるスタンプのデザイン(図柄)の場所に立つことを楽しみのひとつとしています。

最後に、同好会のハンドルネームの「城みしる」は、「城」を「み」て「しる」が語源です。
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
福岡城
2014年5月31日
◆福岡城(1城目)
・2014年5月31日◇所要時間:1時間25分
・2015年1月16日◇所要時間:1時間10分
・2023年4月27日◇所要時間:1時間10分
◆左の写真(2014年5月31日撮影):
南側にある追廻門跡から入城し、最初に目に飛び込んで来たのがこの南丸の高石垣と南隅櫓です。日本100名城の記念すべきファーストショットです。
◆中央の写真(2015年1月16日撮影):
スタンプがデザインされているのは南丸の南隅櫓と多聞櫓です。現存する唯一の建造物となります。
◆右の写真(2023年4月27日撮影):
鉄御門と埋門が合流する天守台の下段から天守上段を撮影しました。現地の説明板によると、ここに天守が建っていたか否かは諸説あるそうですが、もし建っていたとすれば、5層の天守だったと推定されるとのこと。確かに大きくて立派な天守台でした。
熊本城
2014年5月31日
◆熊本城(2城目)
・2014年5月31日◇所要時間:55分
・2015年1月18日◇所要時間:1時間40分
・2023年4月24日◇所要時間:3時間40分
◆左の写真(2014年5月31日撮影):
大天守からの眺望です。奥の二の丸跡(駐車場周辺)の先には平地が広がります。この地形的な弱点を西大手櫓門を中央に、左に奉行丸、右に西出丸が配され、本丸を防御する様が確認できました。
◆中央の写真(2015年1月18日撮影):
この、東竹の丸から見上げる飯田丸五階櫓は圧巻です。奇跡の一本石垣と呼ばれるのは、この写真を撮影した1年3か月後です。
◆右の写真(2023年4月25日撮影):
北大手門を守る櫨方三階櫓跡の石垣です。向って右には棒庵坂、石垣の上には加藤神社が鎮座しています。見上げる高石垣、反り返る武者返し。実に均整の取れた櫓台です。そして二段構えの石垣は、もしかしたらこれも石垣の積み増しの痕跡(二様の石垣)ではないでしょうか?
名護屋城
2014年11月22日
◆名護屋城(3城目)
・2014年11月22日◇所要時間:55分
・2015年01月17日◇所要時間:40分
・2023年04月26日◇所要時間:2時間20分
◆左の写真(2014年11月22日撮影):
天守台からの眺望です。玄界灘に浮かぶのは松島(左)と加唐島に加え、この日は天気に恵まれ松島の先に壱岐の島が横たわっているのが見えました。
◆中央の写真(2015年1月17日撮影):
スタンプでは山里口を鳥瞰し、複雑な喰い違い虎口が見事にデザインされています。この写真は同じ東の方角から全体像を撮影してみました。城内で唯一保存整備された石垣は見事でした。
◆右の写真(2023年04月26日撮影):
遊撃丸から高く聳える天守台を撮影しました。後に破却されてしまった石垣の石材が散在する様子が実に痛々しかったです。
平戸城
2014年11月22日
◆平戸城(4城目)
・2014年11月22日◇所要時間:1時間
・2023年04月26日◇所要時間:2時間35分
◆左の写真(2014年11月22日撮影):
天守からの眺望です。昭和37年(1962)に復元された見奏櫓(左)と懐柔櫓が、城の海岸沿いの守りを固めている様子が表現されています。そして美しい海に映える赤い平戸大橋が印象的な写真です。
◆中央の写真(2014年11月22日撮影):
真っ青の空に聳える天守を撮影しました。平戸城には天守はありませんでしたが、昭和37年(1962)に本丸に模擬天守が建てられ、今では平戸城のシンボルになっています。
◆右の写真(2023年04月26日撮影):
スタンプにデザインされている北虎口門です。狸櫓と共に現存する貴重な遺構です。
島原城
2014年11月23日
◆島原城(5城目)
・2014年11月23日◇所要時間:45分
・2023年04月24日◇所要時間:1時間
・2023年04月25日◇所要時間:1時間30分
◆左の写真(2014年11月23日撮影):
本丸から天守を撮影しました。破風のないシンプルなフォルムが深く印象に残りました。
◆中央の写真(2014年11月23日撮影):
天守西側の眉山と奥の普賢岳(平成新山)を撮影しました。反対の東側は有明海が開けており、360度の大パノラマが楽しめました。
◆右の写真(2023年04月25日撮影):
スタンプのデザインと同じく、本丸南東隅から堀越しの天守と巽櫓に撮影しました。
佐賀城
2014年11月24日
◆佐賀城(6城目)
・2014年11月24日◇所要時間:50分
・2015年01月17日◇所要時間:50分
◆中央の写真(2015年1月17日撮影):
スタンプがデザインされているのは本丸御殿(御玄関)と鯱の門です。現在の本丸御殿は、10代藩主鍋島直正が再建(1838年に完成)した当時の御殿の一部を復元(平成16年(2004)完成)したものです。御玄関前には佐賀藩を象徴するアームストロング砲のレプリカが展示されています。
◆右の写真(2014年11月24日撮影):
オススメの1枚は鯱の門と続き櫓です。これらは天保9年(1838)より本丸の表門に現存する城内唯一の建築物です。門扉には佐賀の乱の弾痕が残り、その凄まじさを今に伝えています。
吉野ヶ里
2014年11月24日
◆吉野ヶ里遺跡(7城目)
・2014年11月24日◇所要時間:1時間45分
◆中央の写真(2014年11月24日撮影):
スタンプがデザインされているのは北郭の主祭殿と物見やぐらです。北郭は吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所です。主祭殿はその中心の建物と考えられており、正に吉野ケ里を象徴する場所となります。
◆右の写真(2014年11月24日撮影):
オススメの1枚は南郭の物見やぐらからの公園の全景です。ここからは敵の攻撃を防ぐために南郭が環濠、土塁、柵で囲まれていている様子が表現されています。吉野ヶ里が城郭として位置付けられ、100名城に選定されたことが理解できる1枚です。
竹田城
2014年12月6日
◆竹田城(8城目)
・2014年12月06日◇所要時間:2時間35分
・2018年11月25日◇所要時間:2時間55分
◆中央の写真(2014年12月6日撮影):
竹田城は保護のため本丸(天守台周辺)は立入禁止のため、天守台より標高差20m下の二の丸から南千畳方面を撮影しました。当日は竹田駅からの天空バスは運休、雪の登山道を悪戦苦闘して登城して撮影した雪景色の竹田城となります。
◆右の写真(2018年11月25日撮影):
スタンプのデザインとなる本丸(平殿側の虎口)からの南千畳方面です。実際に撮影してみると右手に石垣が迫り出しているので、デザインは予想していた天守台ではないことが分かりました。この場所に立つと、大河ドラマ「軍師官兵衛」の第一話の冒頭で、秀吉が石垣山城(一夜城)から小田原城を見下ろすシーン(ロケ地)が蘇ります
大阪城
2014年12月7日
◆大坂城(9城目)
・2014年12月07日◇所要時間:1時間10分
・2015年03月15日◇所要時間:2時間
・2022年04月01日◇所要時間:3時間20分
◆中央の写真(2015年3月15日撮影):
スタンプがデザインされているのは青屋門からの天守です。昭和6年(1931)に徳川の天守台の上に再建されました。今では人通りが途絶えないここ青屋門ですが、往時は搦手にあたり、堀に架けられていた算盤橋は繋がっておらず、非常時のみ台車によって橋板を押し出して通路としていたため、周辺は閑散としていたそうです。
◆右の写真(2015年3月15日撮影):
オススメの1枚は乾櫓と千貫櫓です。両櫓は元和6年(1620)より現存する城内最古の建造物で、手前の乾櫓は大手口から京橋口までを見渡せる重要な櫓でした。ただし堀の外側は高麗橋から京街道へ至る道筋だったこともあり、市民にとっては身近な存在だったようです。
鉢形城
2014年12月21日
鉢形城(10城目)
・2014年12月21日◇所要時間:55分
・2015年12月27日◇所要時間:1時間30分
◆中央の写真(2014年12月21日撮影):
スタンプがデザインされているのは四脚門です。平成9〜14年(1997〜2001)の発掘調査により三の曲輪の北側に礎石と石階段が検出され、その場所に復元さたのがこの四脚門となります。復元に際しては、近隣に戦国時代の武家屋敷等の建造物は皆無なことから、洛中洛外図屏風に描かれている細川管領邸の板屋根の意匠を採用しています。
◆右の写真(2015年12月27日撮影):
オススメの1枚は樹齢150年のエドヒガンです。二の曲輪の南側に一際目立つ樹木が構えています。桜の花が咲いていない季節でも他を圧倒する存在感は抜群だと思います。
川越城
2014年12月21日
◆川越城(11城目)
・2014年12月21日◇所要時間:1時間25分
・2017年01月26日◇所要時間:1時間20分
・2017年12月14日◇所要時間:2時間40分
・2018年12月19日◇所要時間:2時間25分
◆中央の写真(2014年12月21日撮影):
スタンプのデザインは本丸御殿です。往時は16棟(1025坪)の規模を誇っていたと伝わっています。今に残る御殿は、嘉永元年(1848)に松平斉典が建てた御殿(一部は消失)で、高知城(本丸)、二条城(二の丸)、掛川城(二の丸)とともに、現存御殿として全国でも貴重な遺構の一つに数えられています。御殿に足を踏み入れると空気が一変するほどの重厚感漂う建物です。
◆右の写真(2017年12月14日撮影):
写真は蓮池門です。現在は川越市内にある栄林寺(山門)に移築されていますが、遺構が少ない川越城にとっては貴重な現存建造物となります。尚、往時の蓮池門は現在川越市立博物館の敷地に位置し、今はその場所に石碑が立っています。また栄林寺は城主酒井忠利が祖母の玉室榮琳のために建立された寺院です。
八王子城
2014年12月21日
◆八王子城(18城目)
・2014年12月21日◇所要時間:50分
・2014年12月31日◇所要時間:2時間30分
・2017年12月28日◇所要時間:2時間30分
◆中央の写真(2017年12月28日撮影):
スタンプのデザインは曳橋です。スタンプには平成2年(1990)に架けられた初代曳橋が描かれています。木造であった初代は腐食が激しく、今は平成28年(2013)に完成した2代目曳橋が架かっています。写真は2代目ですが、木造に見える橋は鉄骨に木と樹脂を原料とした再生木材を表面に覆っており、耐久性を高めた造りになっているそうです。
◆右の写真(2014年12月31日撮影):
写真は八王子城山(本丸近くの松木曲輪)から撮影した眺望です。麓の御主殿は見えませんが、100名城スタンプの設置場所であるガイダンス施設がハッキリと見えます。かつて華厳菩薩妙行が修行とされるこの山、修行中に牛頭天王と8人の王子が現れたことから、北条氏照が八王子権現を祀ったとされています。「八王子」と言う名の由来ともなっています。
駿府城
2014年12月28日
◆駿府城(13城目)
・2014年12月28日◇所要時間:2時間10分
◆中央の写真(2014年12月28日撮影):
スタンプがデザインされているのは東御門と巽櫓です。スタンプは空撮のため同じアングルの撮影は出来ませんが、大阪城の乾櫓と同じL字型平面と言う珍しい巽櫓のフォルムは表現出来ていると思います。
◆右の写真(2014年12月28日撮影):
オススメの1枚は二の丸水路です。僅かに残る本丸掘(内堀)から延びるこのクランク状の水路は、往時は水御門(舟入)より二の丸堀(中堀)に通じ、さらには遠く清水湊まで通じていたそうです。駿府城内の遺構は少なく、このように家康が拘った水路がそのまま残っているのはとても貴重だと思います。
掛川城
2014年12月28日
◆掛川城(14城目)
・2014年12月28日◇所要時間:1時間25分
・2016年01月28日◇所要時間:1時間
・2022年01月09日◇所要時間:30分
◆中央の写真(2016年1月28日撮影):
スタンプがデザインされているのは天守です。ここ掛川城は小山評定で、山内一豊が「わが城をお使いくだされ」と徳川家康に差し出したことで有名なお城です。今の天守は平成5年(1993)に、当時としては珍しい木造により復元されたものです。この写真の天守は、本丸広場からではスタンプよりもアングルが鋭角となってしまうため、城下の緑橋に場所を移して撮影したものです。
◆右の写真(2014年12月28日撮影):
オススメの1枚は二の丸御殿です。天守から御殿の全景を撮影しました。掛川城の二の丸御殿は文久元年(1861)より現存し、全国でも御殿が現存するのは他に二条城、高知城、川越城しかなく、全国的にも貴重な遺構のひとつに数えられています。
山中城
2015年1月4日
◆山中城(15城目)
・2015年01月04日◇所要時間:1時間50分
・2021年11月13日◇所要時間:1時間35分
◆中央の写真(2021年11月13日撮影):
スタンプのデザインは西の丸障子堀です。撮影場所の西の丸北側にある休憩所ですが、前回訪れた時は立入禁止(工事中)のため、今回ようやくスタンプと同じデザインの写真を撮影することが出来ました。約7年越しとなりましたが、天気に恵まれてホッとしています。脱出困難と言われる北条の障子堀は、何度見ても迫力満点です。
◆右の写真(2015年1月4日撮影):
写真は岱崎出丸にある一の堀です。ここは東海道を進軍する豊臣秀吉軍を迎撃するための
北条軍の最前線となります。写真右手の旧東海道(正面が三島市街)に沿って、深い障子堀と高い土塁が長く真っ直ぐ築かれています。側面を突いて進軍を阻止する狙いがあったようですが、無勢に多勢、しかも急ごしらえ(未完成)であったこととも加わり、山中城は僅か半日で落城。秀吉軍は箱根の山を越え小田原へ進軍、天下統一をほぼ手中に収めることとなりました。
小田原城
2015年1月4日
◆小田原城(16城目)
・2015年1月4日◇所要時間:1時間30分
◆中央の写真(2015年1月4日撮影):
スタンプがデザインされているのは銅門と天守です。スタンプは空撮のため、実際に銅門の前から撮影すると、写真のように辛うじて天守の最上層が確認出来る程度でした。二の丸の表門となる銅門は平成9年(1997)に復元されたものです。
◆右の写真(2015年1月4日撮影):
オススメの1枚は天守です。北条氏のイメージが強い小田原城ですが、北条氏は八幡山に詰め城を構えていたため、ここ本丸に天守を建てたのは北条氏直(5代目)でした。この天守は江戸時代に小田原城を治めていた大久保氏が宝永3年(1706)に建てた天守を、昭和35年(1960)に復元したものです。
佐倉城
2015年1月11日
◆佐倉城(17城目)
・2015年1月11日◇所要時間:1時間30分
◆中央の写真(2015年1月11日撮影):
スタンプには馬出し空掘と出丸が合成されてデザインされています。この写真は、二の丸椎木門跡の前に復元された馬出しの空掘りで、スタンプの上段に描かれています。復元された空掘の深さは3mですが、実際の深さは倍の5.6mあり、一度落ちてしまったら、這い上がってくるのは容易ではなかったと思います。
◆右の写真(2015年1月11日撮影):
この写真は本丸南側にある出丸で、スタンプの下段に描かれています。本丸は鹿島山の西端部に築かれ、急峻な断崖と水堀で囲まれた守り堅固な城郭です。水掘の西と南には出丸をが設けられ、敵の侵入を許さない鉄壁な防御を誇ります。
江戸城
2015年1月11日
◆江戸城(18城目)
・2015年01月11日◇所要時間:1時間05分
・2016年12月28日◇所要時間:2時間20分
・2017年12月20日◇所要時間:4時間25分
・2018年12月20日◇所要時間:2時間25分
・2018年12月28日◇所要時間:1時間40分
◆中央の写真(2016年12月28日撮影):
スタンプのデザインは二重橋と伏見櫓です。手前の正門石橋と奥の正門鉄橋の総称が二重橋です。築城当初、奥の鉄橋は橋桁を支えるための台が途中にある「二重構造」となっていたことから、二重橋と呼ばれていました。
◆右の写真(2017年12月20日撮影):
写真は富士見櫓です。江戸城の天守は明暦の大火(1657年)で焼失し、その後再建されることがなかたったため、この富士見櫓が天守の代用として江戸城を象徴する存在であり続けました。石垣の高さは14.5m、櫓の高さは15.5m。どの角度から見ても同じような形に見えることから、別名を「八方正面の櫓」と呼ばれていました。待望の皇居一般参観にて、その美しい姿を撮影することが出来ました。
大野城
2015年1月17日
◆大野城(19城目)
・2015年1月17日◇所要時間:35分
◆中央の写真(2015年1月17日撮影):
スタンプにデザインされているのは百?石垣です。大野城は四天王寺山の尾根を取り巻くように総延長8Kmの土塁で囲まれており、谷部など大雨で土塁が崩壊する可能性がある箇所を石垣で強化しています。百間石垣は四王寺川の流れが直交する最も険しい場所に築かれ、写真の石垣は長さ180mのごく一部となります。
◆右の写真(2015年1月11日撮影):
スタンプが設置されている県立四天王寺県民の森センターの写真です。スタンプ押印後、舞い落ちていた雪が激しさを増し、城内散策を断念し下山しました。
岡城
2015年1月18日
◆岡城(20城目)
・2015年1月18日◇所要時間:1時間10分
◆中央の写真(2015年1月18日撮影):
スタンプがデザインされているのは三の丸北側の高石垣です。撮影場所は西中仕切門跡付近からですが、皆さんが訪れる名物撮影スポットのためか足場が崩れ修理中。それでもギリギリまで身を乗り出して撮影するほど、地獄谷の呼ばれる谷底から高く聳える三の丸の高石垣は圧巻でした。
◆右の写真(2015年1月18日撮影):
オススメの1枚は大手門跡です。大手道から見上げる岡城の大手門跡の石垣は、どこか異空間を漂わせています。この大手門、築城の名手藤堂高虎が岡城を訪れた際に、朝日が当たると戦いが不利になるとの助言を受け、実際にの向きを変えた門跡です。すぐ近くには、その朝日が当たっていたかつての大手門跡も残されています。
大分府内城
2015年1月18日
◆大分府内城(21城目)
・2015年1月18日◇所要時間:45分
◆中央の写真(2015年1月18日撮影):
スタンプがデザインされているのは西南隅櫓と宗門櫓です。撮影場所は市役所前。写真の手前には昭和40年(1965)に復元された西南隅櫓、そして奥には宗門櫓が並びます。宗門櫓は一見平櫓に見えますが実は二重櫓です。城内から見ると石垣に下層が食い込んでいる様子が分かるのですが、他に類を見ない珍しい構造の宗門櫓は、安政6年(1859)より現存している貴重な遺構です。
◆右の写真(2015年1月18日撮影):
オススメの1枚は人質櫓です。文久元年(1861)により現存し、宗門櫓とともに往時の府内城の息吹を伝えてくれる貴重な遺構です。何やら物騒な名前ですが、その名の通り人質をかくまっていたことから、こう呼ばれるようになったそうです。
和歌山城
2015年2月13日
◆和歌山城(22城目)
・2015年2月13日◇所要時間:3時間
◆中央の写真(2015年2月13日撮影):
スタンプがデザインされているのは岡口門と天守です。和歌山城の大手門はけやき大通り沿いにある一の橋大手門ですが、初代紀州藩主浅野幸長が入封した際は、ここ岡口門が大手門でした。この岡口門は元和7年(1621)に改修されたものが現存し、門の先から一直線上に繋がる天守がとても印象的です。
◆右の写真(2015年2月13日撮影):
オススメの1枚は南の丸高石垣です。高さ23.4mは城内で最大の高さを誇ります。場所は不開門跡、三年坂に面しており、この辺りは岡山の砂丘があって堀ができず、高石垣で防御を固めたたそうです。ところがあまりの大工事だったことが災いし、幕府に嫌疑をかけられてしまいまい、その対応に難義したと伝わってます。
千早城
2015年2月14日
◆千早城(23城目)
・2015年2月14日◇所要時間:1時間10分
◆中央の写真(2015年2月14日撮影):
スタンプがデザインされているのは金剛山全景と千早城の石碑の合成です。スタンプの金剛山はどこから眺めたのか見当がつかず、写真は撮影出来ませんでした。個人の見解ですが、楠木正成を祀る湊川神社所蔵の「河内千早城図」(富岡鉄斎筆)に描かれている金剛山ではないかと思っています。と言う事で、スタンプのもうひとつである「石碑」の写真を掲載しました。石碑は千早神社のある二の丸に建ってます。
◆右の写真(2015年2月14日撮影):
オススメの1枚は千早神社です。とにかく本丸を目指してひたすら登ったのですが、本丸は神社の私有地(立入禁止)のため、その手前の二の丸に鎮座する千早神社をゴールとしました。写真は明治7年(1874)に再建され現存する千早神社の社殿です。今では、難攻不落の千早城に因んで「落ちない神社」として多くの受験生が参拝に来るそうです。
高取城
2015年2月14日
◆高取城(24城目)
・2015年2月14日◇所要時間:4時間45分
◆中央の写真(2015年1月11日撮影):
スタンプには高石垣と石碑が合成?されてデザインされています。写真は高取城を象徴する天守台(高石垣)ですが、標高584mの高取山の山頂によくぞこれだけの石垣を運んだものかと関心させられます。実際、城下から自分の足でこの天守台まで登ってきましたが、途中石材を運ぶ人夫に一升を加増したと伝わる「一升坂」と言う難所もあり、相当の難工事だったことは身をもって体感しました。
◆右の写真(2015年1月11日撮影):
もう1枚の写真はスタンプにデザインされている七曲りに建つ石碑?です。まずスタンプを合成?としたのは、高石垣の前に建つ石碑と重ねて撮影することが出来なかったことと、石碑に刻まれている文字が一致しなかったためです。七曲りの石碑としたのは私見ですので、実際にどうなのかは分からず終いです。
中城城
2015年2月15日
◆中城城(25城目)
・2015年2月15日◇所要時間:1時間30分
◆中央の写真(2015年2月15日撮影):
スタンプがデザインされているのは一の郭の拱門です。撮影場所は二の郭。ここから拱門を潜り、かつて主殿があった城の中心である一の郭に入ります。後に間切番所が建てられるなど、厳重なチェックがなされていた門ですが、「拱(こまね)く門」と読まれる拱門のは、客人を歓迎する意味も含まれているようです。
◆右の写真(2015年2月15日撮影):
オススメの1枚は三の郭の石垣。AKB48の「#好きなんだ」のMVでもお馴染みの、中城城のランドマークです。琉球石灰岩を加工した曲線の石垣に、来たぞ沖縄!と思わずシャッターを切った1枚です。三の郭は護佐丸が増築した郭で、相方積み石を多角形に加工し、互いに噛み合うように積む石積み技法のため、布積みの一の郭や二の郭に比べ強度と耐久性に優れています。そして琉球石灰岩の石垣が美しい曲線を描き、何よりも見た目がとても綺麗です。
首里城
2015年2月15日
◆首里城(26城目)
・2015年2月15日◇所要時間:1時間30分
◆中央の写真(2015年2月15日撮影):
スタンプがデザインされているのは御庭と正殿です。御庭の磚(せん)と呼ばれる色違いの列は、儀式の際に諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていたそうです。中央の道は浮道(うきみち)といい、国王などの限られた人だけが通ることが許された道です。そして、全国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物である正殿。琉球独特の色使いに目を奪われますが、彩色塗装は桐油だそうですが、何と下地の一部には漆が使われているとは意外でした。
◆右の写真(2015年2月15日撮影):
オススメの1枚は守礼門です。2000年の九州・沖縄サミットを記念して発行された2,000円札の絵柄にもなっており、誰もが知る沖縄の顔です。現在の門は昭和33年(1958)に復元されたものですが、扁額に「守礼之邦」と書かれているように、礼節を重んずる琉球の象徴として、昔も今もここで訪れる人を温かく出迎え続けています。
今帰仁城
2015年2月16日
◆今帰仁城(27城目)
・2015年2月16日◇所要時間:1時間30分
◆中央の写真(2015年2月16日撮影):
スタンプがデザインされているのは大隅の石垣(武者走り)と石碑の合成です。一つ目の石垣がどこか皆目見当が付かず、平郎門にある料金所の方に聞くと「確かではないがそこでは?」と指した先が門の脇に広がる大隅の石垣でした。石垣の上は立入禁止のため確認することが出来ず、結局どこかは分からず今も迷宮入りしたままです。この写真は二つ目の「史跡今帰仁城跡」の石碑です。平郎門の前で撮影しました。
◆右の写真(2015年2月16日撮影):
オススメの1枚は御内原からの眺望です。ここは北殿跡の北側になる一番高いところに位置し、今帰仁の城壁のほぼすべてを望むことができます。スタンプのアングルとは違いますが、大隅の石垣が綺麗な曲線を描いています。その先には今泊集落、谷間を流れる志慶真川、そして美ら海と、絶景を満喫することが出来ました。
飫肥城
2015年2月21日
◆飫肥城(28城目)
・2015年2月21日◇所要時間:2時間
◆中央の写真(2015年2月21日撮影):
スタンプがデザインされているのは大手門です。大手門と言っても内枡形をスタンプにしたところが実に渋いです。写真にある通り、敵兵の侵入に備え築地塀を控え柱で支えている様子が分かります。これは塀の強化の他、ここに板渡して塀の上から攻撃出来る仕掛けでもあります。二度と島津に奪われまいぞ、との伊東氏の思いが伝わってきます。この大手門は、三ッ岩学術保護林から樹齢100年の飫肥杉4本の提供を受け、昭和52年(1978)に復元されたものです。
◆右の写真(2015年2月21日撮影):
オススメの1枚は旧本丸の虎口です。写真のように現在の旧本丸には飫肥杉が林立し、朝ドラ「わかば」のロケ地でも有名です。この飫肥杉は樹脂を多く含んでいるため吸水性が低く、軽量で強度が高いことから造船用として盛んに利用され、逼迫していた飫肥藩の財政建て直しを担いました。今ではフェニックス、ヤマザクラと共に県の木に指定されているほど、宮崎県の貴重な財産となっています。
鹿児島城
2015年2月21日
◆鹿児島城(29城目)
・2015年2月21日◇所要時間:1時間10分
◆中央の写真(2015年2月21日撮影):
スタンプがデザインされているのは丑寅の石垣と石碑の合成です。撮影場所は本丸の北東(丑寅)で、鬼門とされる方位にあたります。ここ丑寅の石垣は写真のように、角落とし(角を凹ませる形状)になっており、これは鬼門除けとされています。他の城郭では鬼門に神社を建立する例は多く見られますが、算木積み(石垣の強化)をすべき石垣の角をあえて落としたここは、鹿児島城を象徴する場所なのかも知れません。
◆右の写真(2015年2月21日撮影):
スタンプのもう一つの「史跡鶴丸城跡」の石碑です。撮影場所は楼門(大手門)前です。
写真の背景に見える石橋は、文化7年(1810)にそれまでの木橋から石橋に架け替えられたものが現存しています。朝廷や幕府など権威の象徴であった擬宝珠が石橋の欄干に見えますが、これは島津家の権威を象徴する貴重な遺構でもあります。
人吉城
2015年2月22日
◆人吉城(30城目)
・2015年2月22日◇所要時間:1時間25分
◆中央の写真(2015年2月22日撮影):
スタンプがデザインされているのは角櫓です。撮影は城の西北に位置する大橋からです。
ここは球磨川と胸川が交差し、両河川を巧みに利用して縄張りとした人吉城の特徴が表れている場所です。写真は左から角櫓・長塀・多聞櫓と続き、天然の堀と連携して大手門(右奥)の脇を固めている様子が伝わるかと思います。
◆右の写真(2015年2月22日撮影):
オススメの1枚は武者返しの石垣です。撮影は藩主の居館である御館の北側で、上端に突出部(武者返し)を付けるはねだし工法は西洋の築城技術です。他に品川台場、五稜郭、龍岡城(長野県)では確認されていますが、江戸初期〜中期に築城された城郭で確認されているのは人吉城のみです。もっとも、石垣の上は櫓で防御されていたが、櫓が焼失したため、石垣を高くし武者返しで防御を固めた、言わば苦肉の策であったようです。
武田氏館
2015年2月28日
◆武田氏館(31城目)
・2015年02月28日◇所要時間:1時間30分
・2021年12月19日◇所要時間:1時間15分
◆中央の写真(2015年2月28日撮影):
スタンプがデザインされているのは武田氏館の全景です。写真はスタンプのように空撮とは行きませんので、スタンプと同じ南西から全景を撮影しました。背景に薄っすらと要害山が見えます。この辺りは武田神社の参拝者を見掛けることはなく、閑静な場所に映える水掘りや土塁が、かつての館の面影を残す場所だと思います。
◆右の写真(2021年12月19日撮影):
オススメの1枚は武者返しの武田神社の拝殿です。この場所は武田氏館の正殿跡になります。実は信玄は父親の信虎を甲斐から追放した親不孝な人物とされており、その評価が見直されたのは、何と大正4年(1915)になります。この年、大正天皇の即位を記念して信玄に従三位が追贈され、これを機に武田神社が建立されました。大正8年(1919)の4月12日(信玄の命日)に初の例祭が盛大に行われ、今に至ります。
甲府城
2015年2月28日
◆甲府城(32城目)
・2015年02月28日◇所要時間:1時間40分
・2022年12月19日◇所要時間:30分
◆中央の写真(2015年2月28日撮影):
スタンプがデザインされているのは稲荷櫓です。平成15年(2003)に復元された櫓で、甲府の駅からとても目立つ位置にあり、甲府城跡のある舞鶴城公園を象徴する存在になっています。元来この場所は、天守の鬼門(北東=丑寅)に位置していたことから、丑寅櫓とも呼ばれ武具を格納していたそうですが、鬼門封じの役割も担っていたのかも知れません。
◆右の写真(2015年2月28日撮影):
オススメの1枚は山手御門です。写真にある通り、現在は山手御門と天守台・稲荷櫓は線路を挟んでいますが、この日は富士山が顔を出してくれました。平成19年(2007)に復元され、歴史公園として整備され解放されています。復元された櫓門、高麗門、そして枡形に足を踏み入れると、圧迫感が半端ありません。これは将軍を輩出した甲府徳川家の威厳が漂ってくるからでしょうか。
明石城
2015年3月13日
◆明石城(33城目)
・2015年3月13日◇所要時間:2時間
◆中央の写真(2015年3月13日撮影):
スタンプがデザインされているのは坤櫓と巽櫓です。明石の駅のホームから、左に坤櫓、右に巽櫓が目線と並行に、実にバランス良く見えます。焦る気持ちを抑えながら、明石城跡のある明石公園に向かい、何の迷いもなく西芝生広場から撮影したのがこの写真です。
後日自宅に戻ると、櫓を見上げるような写真だったため、スタンプと雰囲気が違うのが気になりました。そうか、これは新幹線のホームから見た景色そのものだ。気がつけど、これが後の祭りと言うヤツです。お城はゆっくり落ち着いて歩きましょう!
◆右の写真(3月13日撮影):
オススメの1枚は北の丸の桜堀です。明石城のある明石公園の正面は広大な芝生が整備された市民の憩いの場となっています。一方公園の裏側は満々と水を溜めた水掘り、そして長く続く石垣と言ったかつての明石城の面影が随所に残っています。この写真は、その城の裏側にある北の丸の桜堀から撮影しました。堀と並行して築かれた本丸の石垣がお見事です。
伊賀上野城
2015年3月14日
◆伊賀上野城(34城目)
・2015年3月14日◇所要時間:2時間
◆中央の写真(2015年3月14日撮影):
スタンプがデザインされているのは高石垣です。根石より天端石までの高さが29.7m。これは日本一高い大阪城の高石垣(32m)に匹敵する高さを誇ります。しかし、スタンプにある本丸の西側の石垣は木々に覆われてしまいブラインドだらけ。最も近くから石垣を見ることができるはずの南側は、上野高校の敷地のため入れません。藤堂高虎が築いた日本屈指の高石垣が、こんな悪条件に阻まれるのは実にもったいないと思います。写真はなるべくスタンプの石垣と天守の角度に近づくように、木々の隙間から撮影した苦心の1枚です。
◆右の写真(3月14日撮影):
オススメの1枚は天守です。伊賀上野城は秀吉の命で筒井定次が大阪城を守るために築城しました。関ヶ原の後は築城の名手藤堂高虎が入封し、家康の命により大阪城を攻めるための城として改築、その際天守を西側(今の場所)に移しました。写真は高虎の天守台に建てられた模擬天守です。
松阪城
2015年3月14日
◆松阪城(35城目)
・2015年3月14日◇所要時間:1時間50分
◆中央の写真(2015年3月14日撮影):
スタンプがデザインされているのは本丸の高石垣と石碑の合成です。高石垣の場所は、表門から二の丸(土戸御門)に向かう途中の右側。本丸下段の月見櫓跡周辺の石垣に相当します。写真の石垣は、築城当時としては珍しく、表面が綺麗に整えられています。これは、安土城の築城に関わった蒲生氏郷が、ここ松阪城の築城に際し近江の穴太衆に石垣を築かせたところによると考えられます。氏郷の拘りの石垣が、松阪城のスタンプとしたことろが、松阪市の粋な演出だと思います。
◆右の写真(3月14日撮影):
スタンプのもう一つは「蒲生氏郷公開府 松阪城跡」の石碑です。石碑は表門にあり、高石垣と目と鼻の先にありますが、スタンプのように1ショットでカメラに収めることは出来ず、合成したものと思われます。松阪城を築き、伊勢神宮の参道古道も松阪を経由させ城下町を形成する等、松阪の基礎を築いた蒲生氏郷。石碑の隣には、その氏郷のことが綴った松阪市長の撰文の碑もあり、松阪と氏郷の信頼関係が至る所から伝わってきました。
篠山城
2015年3月15日
◆篠山城(36城目)
・2015年3月15日◇所要時間:2時間
◆中央の写真(2015年3月15日撮影):
スタンプがデザインされているのは大書院です。京都二条城の二の丸御殿にある 遠侍を彷彿とさせる篠山城の大書院は、平成12年(2000)に復元されました。写真はスタンプと同じ大書院の正面です。正面とは冠木門のある北側(妻側)で、中央に車寄せがあるのが目印です。立入禁止区域が多く、撮影場所が制約されていますので注意して下さい。尚、平面表示の工法で、平成14年(2002)に整備した二の丸御殿跡(南側)は裏向きとなり表情が異なりますので、ここは拘ったことろです。
◆右の写真(3月15日撮影):
オススメの1枚は天守台です。天守台は本丸(殿主丸)南東部の城内で最も高く、奥まったところに位置するため人も疎らでしたが、高さは約17mの石垣は一見の価値ありです。幕府の指示によりここに天守が建つことはなかったのですが、築城技術の成熟期に築かれた天下普請の篠山城の天守を、私は見てみたかったと思っています。
白河小峰城
2015年3月19日
◆白河小峰城(37城目)
・2015年3月19日◇所要時間:1時間50分
◆中央の写真(2015年3月19日撮影):
スタンプにデザインされている三重櫓です。三重櫓は慶応4年(1868)戊辰戦争白河口の戦いで焼失しましたが、平成3年(1991)に江戸時代の絵図に基づき忠実に木造で復元されました。
◆右の写真(2015年3月19日撮影):
もう1枚は清水門跡周辺です。白河小峰城を訪問した日は平成23年3月11日の震災から数えて丸4年。未だに修復作業が続いている本丸(立入禁止)の様子を撮影しました。この本丸を囲む石垣も懸命の修復作業が行われていました。
会津若松城
2015年3月20日
◆会津若松城(38城目)
・2015年3月20日◇所要時間:2時間30分
◆中央の写真(2015年3月20日撮影):
スタンプにデザインされているのは太鼓門跡のある天守の北西側のアングルです。本丸から眺める天守は南走長屋が連結され破風も異なり、表情が全く異なります。撮影場所には制約がありますが、この写真は太鼓門跡の石垣の上(多聞櫓跡)から撮影しました。
◆中央の写真(2015年3月20日撮影):
帯曲輪(西中門跡の前)には2013年の大河ドラマ「八重の桜」で新島(山本)八重を演じた綾瀬はるかさんの直筆のメッセージボード(達筆)があります。メッセージにある「復興」を願い、はるかさんは大河ドラマ撮影後も何度も福島県に足を運び続けているそうです。
二本松城
2015年3月20日
◆二本松城(39城目)
・2015年3月20日◇所要時間:1時間45分
◆中央の写真(2015年3月20日撮影)
スタンプにデザインされている箕輪門(昭和57年再建)で、城下箕輪村山中にあった樫の大木を主材としたのがその名の由来と言われています。
◆右の写真(2015年3月20日撮影)
オススメの1枚は天守台の石垣です。本丸周囲の石垣は、江戸時代の初期(慶長年間)から後半期にわたる、各時期の特徴ある城郭石積み技法により構築されていて、二本松城ならではの見所満載のスポットです。現在の石垣は平成5年より3ヵ年掛けて修築復元を行ったものですが、この天守台の石垣は穴太積みが見事に蘇っています。
名古屋城
2015年3月27日
◆名古屋城(40城目)
・2015年3月27日◇所要時間:3時間
◆中央の写真(2015年3月27日撮影):
スタンプにデザインされているのは大天守です。撮影場所は本丸東一の門跡からですが、
隣接する本丸御殿の工事が小天守までせり出しているので、現在の景観はあまりよろしくありません。名古屋城天守は昭和20年(1945)まで現存しましたが戦災にて焼失。現在の天守は、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート構造の外観で復元されたものとなりますが、検討されている木造による復元が期待されます。
◆右の写真(2015年3月27日撮影):
オススメの1枚は西北隅櫓です。慶長16年(1611)に清洲城の天守(または小天守)を移築したものと伝えられており、清須櫓とも呼ばれています。正門の裏手にあるため閑散としていましたが、平面規模では現存する宇和島城や高知城の天守を上回る堂々とした西北隅櫓を素通りするのはもったいないと思います。
彦根城
2015年3月28日
◆彦根城(41城目)
・2015年3月28日◇所要時間:2時間50分
・2022年3月29日◇所要時間:1時間25分
◆中央の写真(2015年3月28日撮影):
スタンプがデザインされているのは国宝天守です。慶長12年(1607)より現存する天守ですが、見る角度(方向)により実に多彩な表情を見せてくれます。その中で、スタンプには本丸からの優美な表情の天守が描かれています。
◆右の写真(2015年3月28日撮影):
オススメの1枚はひこにゃんの出陣式です。ゆるキャラの元祖ひこにゃんは、平成19年(2007)の築城400年祭のイメージキャラクターとして登場しましたが、どうして白猫なのでしょうか?それは、江戸住まいの2代目藩主直井伊孝が、にわか雨にあって大木の下で雨宿りをしていた際に、手招きをする白猫を見て近寄ったところ、直後に大木に雷が落ち、直孝は難を逃れることが出来ました。この後、豪徳寺は井伊家の菩提寺となり、そして招き猫で有名になります。その招き猫(白猫)がひこにゃんのモデルになった訳です。思わず「なるほど」と唸ったことが今でも思い出されます。
安土城
2015年3月28日
◆安土城(42城目)
・2015年3月28日◇所要時間:2時間30分
◆中央の写真(2015年3月28日撮影):
スタンプがデザインされているのは大手道と石碑の合成です。石垣の感じから大手道のスタンプは左に秀吉邸、右に利家邸がある場所ではないかと想像して写真を撮影しました。結局、実際にどこかは分かりませんでした。往時は石垣の両側に建物が並び、石段の正面には天主が聳え立っていたそうです。天下布武を掲げる織田信長の演出は、訪れる者の度肝を抜かしたのではないでしょうか。
◆右の写真(3月28日撮影):
スタンプのもう一つは「安土城阯」の石碑です。まずこの石碑と大手道を一緒に撮影出来る場所はありませんでしたので、スタンプを合成としています。そして百々橋口にこの文字と一致する石碑が建っていましたので、撮影したのがこの写真です。ここ百々橋口は元々の大手口だったされており、ここを中心に城下町が広がっていました。諸説ありますが、現在の大手口(大手道)は、京より帝を招く際にお通しするために造ったとも言われておりますが、それにしても凄いお城であることに間違いはありません。
観音寺城
2015年3月28日
◆観音寺城(43城目)
・2015年3月28日◇所要時間:2時間30分
◆中央の写真(2015年3月28日撮影):
スタンプがデザインされているのは平井丸の虎口です。観音寺城と言えばこの写真と言われるほどの有名な場所ですが、標高395mに位置する本丸を中心に、国内最大と言われる総石垣の山城の一端を垣間見ることが出来ます。今でも立派な石垣に囲まれているここ平井丸は、観音城主佐々木六角氏の重臣で6家老と呼ばれた中のひとり平井加賀守定武の屋敷があったことからこう呼ばれています。
◆右の写真(2015年3月28日撮影):
オススメの1枚は西の湖から眺める安土山(安土城)と繖山(観音寺城)です。この地は、陸路の要衝であった上、往時は琵琶湖の湖面が安土山と繖山の麓まで達しており、水運にも便利でした。今では田畑に囲まれていますが、この写真は、湖面に浮かぶ往時の安土山(安土城)と繖山(観音寺城)の面影が残る、私は好きな場所になります。
岐阜城
2015年3月29日
◆岐阜城(44城目)
・2015年3月29日◇所要時間:3時間30分
◆中央の写真(2015年3月29日撮影):
スタンプがデザインされているのは天守です。スタンプに描かれている天守はどこからの姿なのか確証はないのですが、山頂からロープウェイ乗り場に向かって少し下がった場所にある気象台分室前(上台所跡)からの天守だと思います。岐阜城天守は、明治43年(1910)に初代復興天守が建てられましたが、その際に石垣をひと回り小さく積み直したため、往時よりも小振りの天守になっています。現在の天守は昭和31年(1956)に完成した2代目復興天守です。
◆右の写真(2015年3月29日撮影):
オススメの1枚は天守からの眺望です。織田信長はここから「天下布武」の朱印を用い、天下統一へ踏み出していきますが、この眺めを見てそう言う持ちが湧き上がってきたのかもしれませんね。写真は標高329mからの眺望で、眼下に見える長良橋は現在は鵜飼の船が出る岐阜の観光名所となっています。
犬山城
2015年3月29日
◆犬山城(45城目)
・2015年3月29日◇所要時間:1時間45分
◆中央の写真(2015年3月29日撮影):
スタンプがデザインされているのは国宝天守です。木曽川の崖の上、標高約85メートルに聳える天守が描かれています。写真は名鉄犬山ホテル前から撮影しましたが、スタンプよりも天守が鈍角でした。恐らく川向うから撮影すればジャスフィットだったのですが、土砂降りの中、犬山橋に戻る気持ちも沸き起こらず、ここで断念しました。
◆右の写真(2015年3月29日撮影):
オススメの1枚は天守からの眺望です。写真には犬山橋や名鉄犬山ホテルが見えます。比較的小振りと言われる天守ですが、実際に天守の上にあがってみると、想像以上の高低差を感じます。これは木曽川の断崖の上に立っているからだと思いますが、天守にいると敵兵を寄せ付けない鉄壁さを誇る城であることが体感できます。
姫路城
2015年5月29日
◆姫路城(46城目)
・2015年5月29日◇所要時間:3時間
◆中央の写真(2015年5月29日撮影):
スタンプがデザインされているのは国宝天守です。姫路城と言えば、ここ西の丸からの天守だと思います。スタンプに描かれているだけではなく、時代劇のロケ地の定番でもあります。大奥では江戸城として登場していましたが、江戸城の天守(富士見櫓)はこんな大きくありません。まあここは御愛嬌。平成の大修理を終え、多くの方で賑わっていた姫路城ですが、眩いばかりに白く輝く天守は、やはり世界遺産の風格が漂っています。
◆右の写真(2015年5月29日撮影):
オススメの1枚は黒田官兵衛ゆかりの石垣です。姫路城の散策ルートは天守に向かって左にある菱の門からスタートしますが、反対に右に折れると豊臣秀吉時代の姫路城の痕跡を見ることが出来ます。ここ上山里(下段)の石垣は、秀吉が中国攻めの拠点として築いたもので、普請を担当した官兵衛の遺構と言われています。官兵衛好きの私には、外せないビューポイントです。
赤穂城
2015年5月29日
◆赤穂城(47城目)
・2015年5月29日◇所要時間:2時間20分
◆中央の写真(2015年5月29日撮影):
スタンプがデザインされているのは本丸門です。スタンプは空撮のため高麗門、内枡形、櫓門が見事に描かれていますが、撮影した写真でも高麗門と奥に構える櫓門が本丸に立ちはだかる様子が伝わっていると思います。武具を身に着けずとも、実際に大手門を潜り、海を背にしたここ本丸門に辿り着くだけでも一苦労。これは以前訪れた平戸城も同じで、大手門から本丸までのアプローチの難儀さこそが、敵兵の戦意を削ぐ山鹿流の大きな特徴かも知れません。
◆右の写真(2015年5月29日撮影):
オススメの1枚は大石神社です。大石神社は大正元年(1912)に、三の丸にあった大石内蔵助と藤井又左衛門の屋敷跡に建立されました。藩主浅野内匠頭の無念を晴らした大石内蔵助以下23体の「四十七士義士石造表門隊」が鳥居を潜ると参道の両脇に並んでいます。ご利益は勿論「大願成就」。
鬼ノ城
2015年5月30日
◆鬼ノ城(48城目)
・2015年5月30日◇所要時間:1時間45分
◆中央の写真(2015年5月30日撮影):
スタンプがデザインされているのは西門と屏風折れの石垣の合成です。この写真はスタンプ下段の西門です。この西門は良好な状態で発掘され、土塁や石垣などから4ヶ所ある城門の中でも、大きな規模であったことが確認されています。この城門は発掘された礎石をもとに復元されたもので、今では城内を周回する起点・終点となるランドマークとなっています。
◆右の写真(2015年5月30日撮影):
もう1枚の写真はスタンプ上段の屏風折れの石垣です。1300年もの前に築かれた石垣は一見の価値ありでした。加えて、その石垣の上から眺める絶景は「岡山懸十五景地」にも選定されているだけあります。この場所は西門からは離れているものの、その疲れも吹き飛ばしてくれます。
備中松山城
2015年5月30日
◆備中松山城(49城目)
・2015年5月30日◇所要時間:1時間30分
◆中央の写真(2015年5月30日撮影):
スタンプがデザインされている天守で、天和3年(1683)に水谷勝宗が改修した姿が今に残っています。また国内の現存12の天守の中で、唯一山城に残る貴重な遺構でもあります。写真にも現れているように、天然の岩盤の上に石垣を築き、その上に天守が築かれている様は、備中松山城の特徴でもあり魅力でもあります。
◆右の写真(2015年5月30日撮影):
ここは二の丸から見る本丸の石垣と天守です。撮影から7ヶ月後、大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像として使われたのがここ備中松山城で、この写真はその1コマ(TVでは石垣がCGで加工されている)となります。他にも大手門の石垣や石段(TVでは滝が流れていた)等が登場しておりますが、この場で他の写真を紹介できないのが残念です。その後、現地では案内板が設置され、真田丸のロケ場所等が紹介されているようです。
福山城
2015年5月30日
◆福山城(50城目)
・2015年5月30日◇所要時間:1時間
◆中央の写真(2015年5月30日撮影):
スタンプがデザインされているのは南東からの天守と月見櫓です。少し高い位置からのデザインなので、福山駅の新幹線ホームが、丁度スタンプと同じ目線になるかも?と思いつつ、今回は車移動のため撮影は断念しました。この写真はオーソドックスに本丸から天守(南面)を撮影しました。尚、天守と月見櫓は1945年の福山大空襲で焼失しましたが、1966年の福山市制50周年記念事業として外観復元されたものです。
◆右の写真(2015年5月30日撮影):
写真は城内に建つ阿部正弘像です。
ここ福山は瀬戸内海と西国街道の要衝の地であり、徳川幕府は豊臣恩顧の西国武将に睨みを利かす重要拠点と位置づけていました。これらから藩主は徳川譜代の大名が入封し、同時に藩主は幕府の要職をを務め、江戸住まいを余儀なくされました。ここ福山藩主でした。
岡山城
2015年5月31日
◆岡山城(51城目)
・2015年5月31日◇所要時間:2時間30分
◆中央の写真(2015年5月31日撮影):
スタンプがデザインされているのは、後楽園の「沢の池」と築山「唯心山」越しに眺める天守です。元禄13年(1700)に完成した後楽園は藩主の静養の場、賓客接待の場として使用されたばかりか、日を定めて藩内の人々にも観覧が許されていました。300年以上もの時を超えてその姿を残す後楽園。今も昔も、正に岡山を代表する場所だと思います。
◆右の写真(2015年5月31日撮影):
岡山城の石垣は、宇喜多秀家が築き、小早川秀秋、池田利隆らが改修した痕跡を、現在に継承しており、自身では「石垣のデパート」と位置づけています。写真は本丸上段の南東面の石垣です。この辺りは宇喜多秀家が築いた石垣で、石垣の基底が3m近くも埋まっており本来の高さは15.6mもありました。関ヶ原合戦以前の石垣としては全国屈指の高さを誇っていました。
津山城
2015年5月31日
◆津山城(52城目)
・2015年5月31日◇所要時間:2時間10分
◆中央の写真(2015年5月31日撮影):
スタンプには天守台と備中櫓(平成17年(2005)復元)を鳥瞰したものがデザインされています。この写真はそのスタンプと同じ南西から見た備中櫓となりますが、津山城の特徴である高石垣の上に聳えるその勇姿は、空撮以上の迫力です。
◆右の写真(2015年5月31日撮影):
写真は城内に建つ森忠政公(初代藩主)像です。森家は可成(忠政の祖父)の代では織田信長の側近として名を馳せ、本能寺で命を落とした蘭丸は忠政の叔父(父長可の兄)にあたります。同じく信長の側近であった池田家と森家の関係は深く、忠政の娘は池田長幸(祖父は恒興)に嫁いでいます。先に紹介した備中櫓の名の由来は、その長幸(備中守)に起因していると伝わります。
新発田城
2015年6月21日
◆新発田城(53城目)
・2015年6月21日◇所要時間:1時間45分
◆中央の写真(2015年6月21日撮影):
スタンプのデザインは三匹の鯱で有名な三階櫓です。新発田城の櫓の海鼠壁は金沢城とともに見た目の美しさを演出しています。この三階櫓は平成16年(2004)に築城当時の工法を忠実に再現し木造で復元されました。本体は見どころ満載なのですが、陸上自衛隊の敷地内に建つため内部は非公開となっています。残念。
◆右の写真(2015年6月21日撮影):
この写真は、手の込んだ切込み接ぎの石垣が一直線に築かれている様子を表現しています。石垣の上は、手前から辰巳櫓(復元)、本丸表門(現存)、鉄砲櫓(旧二の丸の隅櫓を移築現存)が本丸を固めています。奥の鉄砲櫓が近く見えるのは目の錯覚ではなく、石垣が30度ほど角度を付けて表門側に向けて構えているためです。その名の通り鉄砲櫓は、表門から侵入する敵を鉄砲で一斉射撃するための仕掛けで、死角が出来ない工夫を凝らした造りとなっています。
春日山城
2015年6月22日
◆春日山城(54城目)
・2015年6月22日◇所要時間:2時間50分
◆中央の写真(2015年6月22日撮影):
スタンプのデザインは監物堀と土塁です。春日山城の遺構は約2Km四方に分布しており、中世城郭として全国で最大と呼ばれるに相応しい規模を誇っています。春日山の東裾野には「監物堀」と呼ばれる総構が築かれいるのが特徴で、その一部が春日山城史跡広場の中に復元されています。尚、この場所からは本丸は全く見えないことからも、改めて壮大な規模の城郭であったことを体感することが出来ました。
◆右の写真(2015年6月22日撮影):
春日山城と言えば上杉謙信。写真は春日山城の馬場跡に建つ謙信像です。この場所に立つと、ようやく春日山城(本丸を含む城の全景)の姿を目にすることが出来ます。この謙信像は昭和44年(1969)に放映された大河ドラマ「天と地と」を機に建てられましたが、私の中では「天地人」の阿部寛さん、妻夫木聡さん、北村一輝さんのイメージが強く記憶に残っています。
水戸城
2015年7月18日
◆水戸城(55城目)
・2015年7月18日◇所要時間:1時間30分
・2017年1月10日◇所要時間:1時間20分
・2023年1月09日◇所要時間:1時間10分
◆中央の写真(2017年1月10日撮影):
スタンプは薬医門(伝橋詰御門)と空堀の合成です。水戸城の櫓、城門は破却されたり、戦災で焼失したりする中で、唯一現存する貴重な遺構である薬医門が、スタンプ上段にデザインされています。この城門は橋詰御門(本丸の表門)と考えられており、城外に移築された後、今の水戸一高(本丸跡)に移築されました。初回訪問時には高校敷地内のためスルーしてしまいましたが、後にこの門が建つ場所までは一般開放されていることを知り、二度目の訪問でようやく撮影したのがこの写真です。
◆右の写真(2017年1月10日撮影):
スタンプの下段は、三の丸西側の土塁と空堀跡がデザインされています。先の薬医門同様に、水戸城築城当所の姿を今に伝える貴重な遺構となります。城内と町屋地区とを区画するこの空堀は、規模から推測するに、かなり重要な役割を持っていたことが伺えます。
高松城
2015年9月16日
◆高松城(56城目)
・2015年9月16日◇所要時間:1時間25分
◆中央の写真(2015年9月16日撮影):
スタンプは海面に面した月見櫓・続櫓・水手御門・渡櫓がデザインされています。往時は海に面していたこの御門が藩主の参勤交替に用いられていたとされ、正に三大海城のひとつである高松城に相応しいロケーションとなっています。
◆右の写真(2015年9月16日撮影):
写真は内堀と天守台です。高松城の水堀には海水が引き込まれていることは有名ですが、この水門が海の満干に応じて堀の水位調整をしていることは、実際に城に行って知ることとなりました。ガチャガチャで餌を購入して堀に浮かべると、驚くなかれ鯉ではなく鯛が餌に群がって来ました。これを「鯛願成就」と言い、鯛の願いを叶えた人の願いも叶うするそうです。そして、写真でも分かる通り対岸に見える天守台に天守を再建するのは地元の悲願になぞって「対岸成就」と言う願いも込められているようです。
丸亀城
2015年9月17日
◆丸亀城(57城目)
・2015年9月17日◇所要時間:2時間10分
◆中央の写真(2015年9月17日撮影):
スタンプのデザインは芝生広場(御殿跡)から見上げる天守です。ここ御殿跡を囲む水掘りから天守までの総高は日本で最も高い60mを誇り、天守を包み込むように取り囲む本丸、二の丸、三の丸の高石垣の全容が良く分かる場所です。現存12天守で最も小振りな丸亀城天守が不思議と大きく見えますね。
◆右の写真(2015年9月17日撮影):
写真は「扇の勾配」と呼ばれる石垣で、成熟期を迎えた石積みの技術の真骨頂とされています。現存する大手門(一の門、二の門)を潜り、思わず振り返ってしまうことから名付けられた急坂(見返り坂)を上った先に、その姿を現します。高々と積まれた丸亀城の美しい石垣を代表するロケーションのひとつとなっています。
今治城
2015年9月17日
◆今治城(58城目)
・2015年9月17日◇所要時間:1時間25分
◆中央の写真(2015年9月17日撮影):
スタンプのデザインは武具櫓です。黒田官兵衛が築城した中津城、高松城と並び、藤堂高虎が築城したここ今治城は日本三大海城と呼ばれる名城です。平成19年(2007)に建てられたこの武具櫓は忠実に復元されており、今治城の往時の面影を今に伝える城のシンボルとなっています。
◆右の写真(2015年9月17日撮影):
写真は本丸の南隅櫓跡と奥に天守です。海水が引き込まれた今治城の広大な水堀、そしてその奥を取り囲む高石垣を称して「水に浮かぶ城」と称されました。まさにここ南隅櫓跡から眺める今治城は水に浮かんでいるように見えます。そ奥には天守の姿が見えますが、実はこの天守は当時の北隅櫓跡に再建(破風が装飾)された模擬天守です。ここ南隅櫓から遠巻きに見る天守は、史上初と言われた当時の層塔型天守を想像出来るため、個人的にはオススメのアングルです。
湯築城
2015年9月17日
◆湯築城(59城目)
・2015年9月17日◇所要時間:1時間05分
・2015年9月18日◇所要時間:25分
◆中央の写真(2015年9月17日撮影):
スタンプには上段に武家屋敷、下段に湯築城の全景がデザインされています。全景(空撮)と同じ写真を撮影することは出来ないため、上段の武家屋敷だけを撮影しました。この武家屋敷は発掘の成果をもとに間取りを推定し、当時の工法で復元されました。
◆右の写真(2015年9月18日撮影):
写真は湯築城跡の丘陵部から眺める松山市街(奥に松山城)です。ここ丘陵部は築城当初(14世紀前半)城の中核を担っていましたが、16世紀に麓に城の中核を移したこともあり城の面影は残っていません。今では展望台が作られ、そこから眺める松山市街、三津浜、道後温泉街等は絶景ポイントとなっています。そして対面には松山城の天守がはっきりと確認できました。天気も良く素晴らしい景色を堪能することが出来ました。
松山城
2015年9月18日
◆松山城(60城目)
・2015年9月18日◇所要時間:2時間5分
◆中央の写真(2015年9月18日撮影):
スタンプは本壇全景を南隅櫓の方から空撮しており、大天守・小天守・櫓を四方に配置した連立式天守が見事にデザインされています。勿論空撮は無理ですので、オーソドックスに本丸から撮影した写真を選びました。雲ひとつない青空に映える小天守と大天守のツーショットが圧巻です。そしてその手前に構える一ノ門南櫓(現存)が天守を防御している様が、守り堅固な松山城の特徴を表している一枚だと思います。
◆右の写真(2015年9月18日撮影):
これは堀之内(三ノ丸)から撮影した写真で、手前に二ノ丸の多聞櫓、奥の山上に本壇南隅櫓と小天守、少し離れて馬具櫓が写っています。松山城の全景が一望できるオススメの1枚です。加えて二ノ丸の右上、中腹の開けた場所に石垣が見えますが、山の斜面を上に向かって真っ直ぐ伸びるこの「登り石垣」は、彦根城と松山城にしか残っていない貴重な遺構です。
大洲城
2015年9月18日
◆大洲城(61城目)
・2015年9月18日◇所要時間:1時間40分
◆中央の写真(2015年9月18日撮影):
大洲城の木造天守は、往時の姿を忠実に再現することで保存建築物(建築基準法の適用除外)として復元し全国的に注目され、名古屋城の木造復元の参考にもされています。スタンプは平成16年(2004)に復元した天守と、両脇を固める現存櫓(台所櫓、高欄櫓)を北西隅から眺めた姿がデザインされています。この3ショットですが、北の菱御門(二の丸搦手門)跡から撮影したため、スタンプとは角度に若干の違いが出てしまいました。少し残念です。
◆右の写真(2015年9月18日撮影):
写真は三の丸南隅櫓です。大洲城には4つの櫓が現存しますが、1766年に建てられたこの櫓は城内最古の櫓です。現在お殿様公園として藩主の加藤氏の居住跡と並んで整備されていますが、本丸から離れたこの場所まで、往時は外堀が張り巡らされていたそうで、大洲城の縄張りの大きさも同時に体感できるオススメのスポットです。
宇和島城
2015年9月19日
◆宇和島城(62城目)
・2015年9月19日◇所要時間:1時間40分
◆中央の写真(2015年9月19日撮影):
スタンプは天守がデザインされています。寛文6年(1666)に2代目藩主伊達宗利が建てたものが現存しており唐破風屋根で開放的な造りの間口の大きな玄関は、如何にも防御が甘く、時は既に天下泰平の世になったことを今に伝えています。
◆右の写真(2015年9月19日撮影):
写真は天守から宇和島港(西側)を眺めたものです。今でこそ城から海まではかなりの距離がありますが、築城当初は城の西側半分が海に接していたい海城で、この方角には幕末に築造された領内3台場の一つ・樺崎台場(砲台)や潮見櫓など往時の名残が今に伝わります。城の東側は海水を引き込んだ水堀を巡らせ、防御と水運を兼ねた縄張りは同じく藤堂高虎が築城した今治城と共通するところが多々あります。
高知城
2015年9月19日
◆高知城(63城目)
・2015年9月19日◇所要時間:1時間30分
・2015年9月20日◇所要時間:50分
◆中央の写真(2015年9月20日撮影):
スタンプのデザインは追手門と天守です。享和元年(1801)から現存する追手門と、寛文6年(1666)から現存する天守の2ショットは実に贅沢です。と言うのも、現存12天守の中で天守とともに大手門(追手門)が現存するのは、丸亀城、弘前城、そしてここ高知城の僅か3箇所だけです。宇和島城から移動して高知城に入ったのが15時頃。運悪く逆光の憂き目に遭ってしまい、翌朝仕切り直して撮影した拘りの1枚がこの写真になります。
◆右の写真(2015年9月19日撮影):
写真は天守と本丸御殿の贅沢な2ショットです。御殿が現存するのは川越城、掛川城、二条城、高知城の4箇所、中でも天守と御殿が揃って現存するのはここだけです。御殿の表玄関からそのまま天守の最上階へ。正に高知城でしか味わえない貴重な体験となりました。
徳島城
2015年9月21日
◆徳島城(64城目)
・2015年9月21日◇所要時間:1時間35分
◆中央の写真(2015年9月21日撮影):
スタンプのデザインは下乗橋(小見付橋)です。帰宅して写真の整理をしていたら、何と橋に向かって右からデザインされたスタンプが、左からにデザイン変更されていることに気が付きました。盗難にでもあったのでしょうか。それにしてもデザインまで変更するのはどうかなと思います。と言うことで、この写真はデザイン変更前の「橋に向かって右から」撮影しています。
◆右の写真(2015年9月21日撮影):
写真は表御殿庭園です。この庭園は1600年頃に造られた桃山様式の庭園で、400年の時を超えて現存する貴重な遺構です。そして隣接する博物館は、その表御殿をイメージして建てられ、庭園とともに新旧がシンクロしながら当時の表御殿の空間を見事に再現しています。また、全国でも珍しく名前に「城」が付くこの「徳島城博物館」は、正に徳島城に寄り添った筋金入りの博物館と言うことになります。
金山城
2015年12月26日
◆金山城(65城目)
・2015年12月26日◇所要時間:2時間
◆中央の写真(2015年12月26日撮影):
スタンプのデザインは大手虎口と日ノ池の合成です。この写真はスタンプ上段の大手虎口です。金山城は関東では珍しく石垣で築かれた山城で、特にこの場所は谷地形を利用して両側に壇状の曲輪を配し、石垣が取り囲むように築かれています。実際にここに立ってみると、上から覆いかぶさるような威圧感を感じました。迫力満点でした。
◆右の写真(2015年12月26日撮影):
この写真はスタンプ下段の日ノ池です。池の整備にまで石垣と石敷きとは、石垣の山城の徹底ぶりには驚かされます。この日ノ池ですが、単に生活用水を確保した場所ではなく、戦勝や雨乞いなどの祈願を行った儀式の場所であったと考えられます。また大手虎口の脇にも月ノ池を有し、水量の豊富さも難攻不落の山城と呼ばれた理由のひとつなのかも知れません。
足利氏館
2015年12月26日
◆足利氏館(66城目)
・2015年12月26日◇所要時間:55分
・2015年12月27日◇所要時間:10分
◆中央の写真(2015年12月27日撮影):
スタンプのデザインは鑁阿寺の楼門です。建久7年(1196)、足利義兼(かの足利尊氏より7代前)によって建立された鑁阿寺は、周囲を土塁と堀がめぐらせ、この楼門を含め四方に門を設けており、平安時代後期に足利氏の館であった面影を今に伝えています。
◆右の写真(2015年12月27日撮影):
鑁阿寺の山号は金剛山。大日如来(源氏、足利氏の守り本尊)を祀っており、真言宗大日派の本山と言う格式高い寺院となります。この写真の奥に構えるのが、鎌倉時代から現存する本堂(国宝)。その左には高さ31.8m、県の天然記念物の大銀杏(樹齢550年超)が目を惹きます。前日は鑁阿寺を散策し、その足で森高千里さんで有名な渡良瀬橋の夕日を見て、鑁阿寺近くに宿泊。この写真は、日を改めて早朝の鑁阿寺を訪ねて撮影した写真(楼門を含む)です。人も疎らな境内は、昨日とはまた違った表情で出迎えてくれました。
箕輪城
2015年12月27日
◆箕輪城(67城目)
・2015年12月27日◇所要時間:1時間35分
◆中央の写真(2015年12月27日撮影):
スタンプのデザインは「箕輪城」の石碑と土塁が合成されています。この写真はスタンプのメインとなっている石碑で、本丸南虎口門跡の前から本丸を背景にしてドーンと構えています。
◆右の写真(2015年12月27日撮影):
この写真は本丸の東側の土塁です。本丸は外から見えないほどの高さの土塁に囲まれており、特にこの東側は最も高く築かれている、箕輪城の特徴が現れている場所となります。ここからから約100m、御前曲輪まで真っ直ぐ伸びる土塁は圧巻です。実際の石碑は本丸を背景として建っているため、スタンプの石碑の背景の土塁は、何れの土塁が合成されてデザインされているのはほぼ間違いないと思います。実際にこの場所なのか否かは定かではありませんが、こうして予想しながら想像力を膨らませながらお城を散策するのも、楽しみのひとつだと思います。
岩村城
2016年1月27日
◆岩村城(68城目)
・2016年1月27日◇所要時間:2時間40分
◆中央の写真(2016年1月27日撮影):
スタンプのデザインは本丸の北東面の六段壁です。この雛壇状に積み重なった六段の石垣、築城当初は最上部のみの高石垣だけだったのですが、崩落を防ぐため石垣の補強を繰り返した結果、このような個性的な姿となったそうです。築城とともに城の維持にも大変な労力が掛かったと思いますが、それにしてもこれだけの石垣を標高は717mのここまで持ち上げるのは想像を絶します。
◆右の写真(2016年1月27日撮影):
写真は本丸から見た出丸です。数日前まで大雪に見舞われ、写真でも分かる通り見たとおり通常は駐車場になっている出丸も深い雪で覆われてしまい、クローズとなっていました。よって、今回は万全の雪対策をして藩主邸から急峻な坂を登って来ましたが、そのお蔭で日本三大山城のひとつ岩村城をしっかりと堪能することが出来ました。
岡崎城
2016年1月27日
◆岡崎城(69城目)
・2016年1月27日◇所要時間:1時間35分
◆中央の写真(2016年1月27日撮影):
スタンプのデザインは天守(東面)です。スタンプは天守の最上層と同じ目線(空撮)のため、本丸より少し高い位置に建つ巽閣から撮影してみました。この天守と北に位置する大樹寺(徳川家の菩提寺)との間は、ビスタラインと呼ばれる直線約3Kmの眺望ラインで結ばれています。歴代城主が天守から大樹寺に向かって毎日拝礼をしていたと伝わり、復興天守となった今でも岡崎市民の手によって、建築物で遮ることもなく、ビスタラインが守れれていると聞き、感心させられました。
◆右の写真(2016年1月27日撮影):
写真は広重の東海道五十三次(岡崎宿)に描かれている矢作橋(奥に天守)を再現してみました。当時の矢作橋は北に移動してしまいましたので、近くの名鉄の鉄橋越しに眺める天守で、広重気分を味わうことにしました。
長篠城
2016年1月28日
◆長篠城(70城目)
・2016年1月28日◇所要時間:2時間40分
◆中央の写真(2016年1月28日撮影):
スタンプは長篠城遠景と石碑が合成されたデザインです。この写真は城の南方にある牛淵橋から眺める長篠城遠景です。向かって左に流れる豊川本流(寒狭川)と、右に流れる宇連川の合流点の断崖上に位置する、守り堅固な城構えが凝縮されている場所だと思います。岡崎城に援軍を求めるため城を脱出した鳥居強右衛門が、再び城に戻る途中で武田軍に捕まり磔になった場所が向かって左。近くにはその名の通りJR線の「鳥居」駅があります。
◆右の写真(2016年1月28日撮影):
もう一つスタンプに描かれている「長篠城」の石碑は、長篠城址史跡保存館を出て本丸に入った左横にあります。ここ本丸に立つと、長篠城が武田軍が陣を張る大通寺山や医王寺山等の山々に囲まれ、城主奥平貞昌が武田勢の猛攻に晒されながら耐え忍んだ様子が想像出来ます。歴史を大きく動かした「長篠」は面白い。
高遠城
2016年9月17日
◆高遠城(71城目)
・2016年9月17日◇所要時間:1時間50分
◆中央の写真(2016年1月28日撮影):
スタンプのデザインは桜雲橋と問屋門です。桜と雲と橋。桜の名所高遠城にピッタリの名前と言うこともあり、今ではこの場所が城内で最も人気のある撮影スポットです。分かっていたことですが、桜が咲いていないのはやはり残念でした。
◆右の写真(2016年1月28日撮影):
写真は絵島囲い屋敷です。直近では仲間由紀恵さんが映画「大奥」で絵島を演じましたが、この絵島生島事件は古くから浄瑠璃や歌舞伎でも多く取り上げられ、世に広く知られています。その絵島が高遠藩に流された時の屋敷が、当時とほぼ同じ場所(歴史資料館の横)に復元されています。写真にある通り屋敷はハメコロシ格子戸で囲まれ、塀は忍び返しで厳重に防御されています。また屋敷内には、老中阿部豊後守から高遠藩主内藤駿河守に渡された文書なども紹介されており、絵島の厳しい生活振りを伝えています。一見の価値ありです。
小諸城
2016年9月18日
◆小諸城(72城目)
・2016年9月18日◇所要時間:2時間05分
◆中央の写真(2016年9月18日撮影):
スタンプのデザインは懐古園でお馴染みの三の門です。スタンプにはその懐古園が位置するの門の城内(裏)側が描かれていますが、日本百名城のスタンプともなると、城外側にある「懐古園」と掲げられたデザインを避けたのかも知れませんね。個人的には城外(表)側の方が、袖塀を設け矢狭間、鉄砲狭間等、戦国の城郭の面影を残しているので迫力があって好きです。
◆右の写真(2016年9月18日撮影):
この写真は弘前城の大手門と双璧とされる小諸城の大手門です。平成20年(2008年)に往時の大手門の場所に移築復元されました。大手門は明治維新後に民間に払い下げられたため、手が加わってしまった箇所を復元するのには大変な労力が掛かったそうです。個人的にも、35年前に小諸城(懐古園)を訪れた際にはお目にかかることが出来なかった大手門だけに、今回は大満足の訪問となりました。
上田城
2016年9月18日
◆上田城(73城目)
・2016年9月18日◇所要時間:1時間50分

◆中央の写真(2016年9月18日撮影):
スタンプのデザインは本丸東虎口で、中央の櫓門とその両脇を固める南櫓と北櫓が空撮されています。写真はスタンプのような空撮とは行きませんので櫓門前から撮影しました。ご覧のように多くの人で溢れていました。大河ドラマ「真田丸」人気は凄かった。
◆右の写真(2016年9月18日撮影):
写真は尼ヶ淵の岸壁に建つ南櫓と西櫓(奥)です。真田氏が築城した上田城ですが、城内を歩いてみると意外にもその痕跡は少なく、後に修築した仙石氏の痕跡が色濃く残っていることが分かりました。ただし、ここ尼ヶ淵には築城当時から千曲川の支流が流れており、その地形(天然の水堀と急峻な崖)を選んだことそのものは、難攻不落と呼ばれた「真田氏の上田城」の最大の痕跡ではないでしょうか。
松代城
2016年9月19日
◆松代城(74城目)
・2016年9月19日◇所要時間:2時間50分
◆中央の写真(2016年9月19日撮影):
スタンプのデザインは太鼓門と戌亥櫓台の合成です。スタンプ上段の太鼓門は、外門にあたる橋詰門(高麗門)と内門にあたる櫓門と、その間の巨大な枡形で構成されています。その太鼓門全体を門の前に架かる太鼓門前橋から描いています。
◆右の写真(2016年9月19日撮影):
スタンプ下段は戌亥櫓の石垣で、城内(本丸)側の面が描かれています。松代城の前進である海津城は、武田信玄が上杉謙信と戦った川中島の軍事拠点として築いた城で、武田氏の特徴である丸馬出し等、綺麗な曲線の土塁が印象的です。その後、大河ドラマ「真田丸」でも知られる真田信之が入封し、本丸の周囲や出入口などの重要な部分に石垣を用いて城を整備しました。この戌亥櫓の石垣は自然石を巧みに積み上げており、その勾配の美しさは見る目を惹きつけます
松本城
2016年9月20日
◆松本城(75城目)
・2016年9月17日◇所要時間:2時間10分
・2016年9月20日◇所要時間:2時間(スタンプ押印日)
◆中央の写真(2016年9月17日撮影):
スタンプのデザインは埋橋越しの天守です。松本城の天守は見る角度によって色々な表情をしますが、この場所から見る天守は、赤く映えた埋橋と背景の天守が美しく調和し、松本城を代表する撮影スポットの一つとなっています。この埋橋は昭和30年(1955)に本丸へ通行する目的(観光用)として架けられたものですが、強度不足により今では通行止めとなっています。
◆右の写真(2016年9月20日撮影):
この写真は天守から埋橋を撮影したものです。この埋橋が架かっている場所にはかつて足駄塀があり、敵の船が外堀から内堀に水平移動出来ないように遮断されていました。加えて火縄銃の有効射程距離を考え、内堀の幅は最大で60mとなっています。これら松本城の防御システムの一端が、ここ天守からの写真で確認することが出来ます。
一乗谷城
2017年5月1日
◆一乗谷城(76城目)
・2017年5月1日◇所要時間:1時間35分
◆中央の写真(2017年5月1日撮影):
スタンプがデザインされているのは朝倉義景館跡の入口にある唐門です。この唐門は松雲院の山門で、豊臣秀吉が朝倉義景の善提を弔うために寄進し、後に現在地に移築されました。現在の唐門は江戸時代中頃に建て替えられたものが現存しています。
◆右の写真(2017年5月1日撮影):
オススメの1枚は復原町並です。この復原町並は、朝倉氏が栄華を極めた時代の城下町の町並みをほぼ完全な姿で立体的に復原しています。そしてソフトバンクモバイルのCMの撮影(2010年1月16〜18日)に使われた場所でもあります。このアングルに雪景色を重ねると、あの「ホワイト割引」のCMが目に浮かんでくるはずです。
丸岡城
2017年5月1日
◆丸岡城(77城目)
・2017年5月1日◇所要時間:1時間15分
◆中央の写真(2017年5月1日撮影):
スタンプがデザインされているのは現存天守です。そしてここ丸岡城の天守は、全国に現存する12の天守の中で最古となります。天正4年(1576)に柴田勝家の甥である勝豊が築いた丸岡城は、天守の屋根に笏谷石製の瓦が使われていること、そして天守台が糸巻き形状となっている等、個性溢れる点も見逃せません。
◆右の写真(2017年5月1日撮影):
オススメの1枚は天守の前にある一筆啓上の石碑です。石碑には「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」と刻まれています。これは本多重次が陣中から妻に宛てた日本一短い手紙のことを指し、嫡子仙千代(初代丸岡藩主の本多成重の幼名)への思いが綴られており、用件を簡潔明瞭に伝えた手紙の手本とされています。
七尾城
2017年5月2日
◆七尾城(78城目)
・2017年5月2日◇所要時間:1時間40分
◆中央の写真(2017年5月2日撮影):
スタンプがデザインされているのは桜馬場の石垣です。五段に組まれた桜馬場北側の石垣は城内で最大規模を誇り、その様は調度丸から撮影しました。とくに最上部に積まれた石は、大型の石を選び積んでいることが確認でき、威容を示すため大型石材を使用する織田、豊臣時代の城郭の特徴であることから、畠山氏ではなく前田利家が天正9年(1581)に改修した可能性が指摘されています。
◆右の写真(2017年5月2日撮影):
オススメの1枚は標高380mに位置する百間馬場跡(城山展望台)からの大パノラマです。写真は標高差75mの本丸といなりますが、その奥には七尾城下と七尾湾の眺望が開けます。
また反対側の富山湾越しには雪化粧した後立山連峰がクッキリと浮かび、360度の絶景は素通りするのはもったいないスポットです。
高岡城
2017年5月3日
◆高岡城(79城目)
・2017年5月3日◇所要時間:1時間45分
◆中央の写真(2017年5月3日撮影):
スタンプがデザインされているのは、二の丸の全景を空撮したものと石垣の合成です。
流石に空撮は再現できませんので、ここでは石垣の写真を載せています。石垣はスタンプで空撮されている二の丸と、本丸(奥)に架かる土橋の両側にありますが、スタンプにデザインされたのは西内濠(西)側の石垣となります。場内で石垣が現存するのはこの土橋の石垣のみで、大変貴重な遺構です。
◆右の写真(2017年5月3日撮影):
オススメの1枚は本丸北側です。高岡城は南に大手、東に搦手を構え、その南と西に曲輪を配置し、その先に城下町を形成しています。これは本丸の西は崖の縁、北は広大な湿地帯であったため、その地形を活かした守り堅固な縄張りを実現しており、私の好きな福岡城(築城も同時期)に似ています。写真は本丸北側と朝陽橋を撮影したものですが、満々とした水が往時の湿地帯の面影が残る場所です。
金沢城
2017年5月3日
◆金沢城(80城目)
・2017年5月3日◇所要時間:4時間50分(兼六園含む)
◆中央の写真(2017年5月3日撮影):
スタンプがデザインされているのは橋爪門です。写真の続櫓の高さが14.69mもあり、侵入者を常に見張っています。さらに内枡形は城内最大規模を誇ります。二の丸御殿へ至る最後の関門。それが橋爪門です。
◆右の写真(2017年5月3日撮影):
オススメの1枚は色紙短冊積石垣です。場所は3代藩主前田利常の遊び心がぎっしり詰まった玉泉丸庭園です。強度は度外視、見た目の追求。石垣の常識ではご法度な造りですが、これが前田家が演じた花鳥風月の一端だと思います。したたかに幕府からの警戒心を和らげることに成功した前田家。加賀百万石の伝統文化の原点である玉泉丸庭園。そう思います。
盛岡城
2017年7月28日
◆盛岡城(81城目)
・2017年7月28日◇所要時間:2時間25分
◆中央の写真(2017年7月28日撮影):
スタンプのデザインは渡雲橋です。古絵図を見ると往時は廊下橋だったこの場所に、今は印象的な朱色の橋が架かっています。実は盛岡城の本丸(写真左)は狭く、藩政は二の丸(写真右)にある中の丸御殿も使用して運営したそうです。そのため本丸と二の丸を直結する廊下橋は、特に重要な役割を担っていました。
◆右の写真(2017年7月28日撮影):
オススメの写真は二の丸の石垣です。このような総石垣の盛岡城が築かれた背景は、九戸一揆(九戸政実の乱)を制圧した豊臣配下の浅野長吉が、南部信直に築城を勧めたといわれています。写真の二の丸西面の石垣は、貞享三年(1686年)の普請奉行銘を残す石垣で、石積み技術の成熟期に築かれたものらしく、城内で最も高く、急勾配と石垣表面が綺麗に整形されているのが特徴です。
東北の地で、これほどまでの石垣を見ることが出来るとは、
とにかく驚きの連続でした。
根城
2017年7月29日
◆根城(82城目)
・2017年7月29日◇所要時間:1時間35分
◆中央の写真(2017年7月29日撮影):
スタンプは本丸南側からの主殿が描かれています。根城はここ本丸に加え、中館、東善寺館など合わせて8つの郭からなる平城で、その郭全体が復原されています。中でも本丸内の建物はスタンプにある主殿(正面奥)を中心に、工房(左手前)などの建物がが忠実に復原されている他、常御殿(右手前)のようにいくつかが平面復原されています。根城が最も充実していた安土桃山時代の姿が蘇って来るようです。
◆右の写真(2017年7月29日撮影):
写真は八戸市博物館前に建つ南部師行像です。時は南北朝時代、南朝方の武将・南部師行が建武元年(1334)に築城したのがここ根城です。それから約300年間、根城が八戸地方の中心地として栄えました。
弘前城
2017年7月29日
◆弘前城(83城目)
・2017年7月29日◇所要時間:2時間50分
◆中央の写真(2017年7月29日撮影):
スタンプのデザインは下乗橋から見る天守です。この場所は弘前城を代表する撮影スポットですが、訪問した時は写真の通り天守台を含む本丸東面の石垣修復工事が行われていました。本来であれば古風な切妻破風で装飾された天守が、下乗橋を渡る我々を出迎えてくれる場所なので、残念でした。
◆右の写真(2017年7月29日撮影):
写真は文化7年(1810年)より現存する天守です。この時は本丸石垣の修復工事のため、天守は曳屋にて70mほど本丸内側に移動されていました。スタンプにある天守台に聳える天守とはイメージが違いますね。天守をひと回りすると天守を再建した時の藩の叡智が手に取るように伝わって来ます。豪華な南・東面、そして質素な北・西面の仕掛けに感心させられました。
久保田城
2017年7月30日
◆久保田城(84城目)
・2017年7月30日◇所要時間:2時間35分
◆中央の写真(2017年7月30日撮影):
スタンプのデザインは本丸の御隅櫓です。城内で最も高い標高45mに建つ櫓は城下の物見の他に、武具を格納していたことから、正式には本丸新兵具隅櫓と呼ばれていました。往時は二階だった櫓ですが、物見に相応しく市街地が展望できるようにと、市制100周年を記念して平成元年に上層階を設けて復原されました。今ではそのフォルムから御三階櫓とも呼ばれ、天守のなかった久保田城のシンボル的存在になっています。
◆右の写真(2017年7月30日撮影):
写真は御物頭御番所の内部です。往時は長坂門(二の門)の開閉の管理と城下の警備、火災の消火等を担当していた物頭(足軽の組頭)がここに詰めており、写真の奥は七畳半の休息所や台所・便所がありました。建築年代は18世紀後半と言われており、城内に唯一残っている藩政時代の建物で、中に足を踏み入れると、往時の息吹を肌で感じ取ることが出来ます。
土浦城
2018年8月23日
◆土浦城(1/続100城、計85/200城)
・2017年01月10日◇所要時間:40分
・2018年08月23日◇所要時間:1時間25分(スタンプ押印日)
◆左の写真(2017年01月10日撮影):
写真は手前に東櫓、奥に霞門を撮影したものです。撮影した後に土浦城は続100名城に選定され、そのスタンプが選定前に撮影したこの写真とほぼ同じデザインだったのには驚きました。東櫓を中心に、本丸を囲む土塁の上を土塀が巡らすの様は、いかにも東国の城郭の表情を醸し出しており、土浦城のスタンプに採用されたのは納得です。
◆右の写真(2018年08月23日撮影):
写真は本丸の表門となる櫓門です。土浦城の中で、往時の場所にそのまま建物が現存するのはこの櫓門と霞門(本丸裏門)のみで、貴重な遺構と言えます。当初は単層の城門だったのですが、その後改築が繰り返され、今に残る櫓門になったようです。
月山富田城
2018年11月21日
◆月山富田城(85/100城、計86/200城)
・2018年11月21日◇所要時間:3時間25分
◆中央の写真(2018年11月21日撮影):
スタンプのデザインは月山を背景とした花の壇(復原建物)です。御子守口から千畳平、太鼓壇と徐々に標高を上げていくと月山全容が目の前に広がります。この曲輪が花の壇で、奥の山中御殿、そして月山山頂部に構える城の中核部(本丸)を防御する拠点であったとされています。そんな花の壇ですが、名の通りかつては多くの花が植えられていたそうですが、今はその華やかな面影はありませんでした。
◆右の写真(2018年11月21日撮影):
写真は七曲りからの眺望です。まず眼下の山中御殿跡を見て、七曲りの急登を克服した実感を味わえます。そして遠く見える中海絶景は頑張ったご褒美でした。中海の左に構える山が京羅木山で、かつて5万の大内義隆軍が本陣を構えた所です。時を経て、袂の飯梨川(富田川)周辺には毛利元就軍が侵攻し、富田城を取り囲みました。奇しくも私が訪城した11月21日は、その毛利軍に尼子軍が敗れ、富田城が陥落した日でした。
松江城
2018年11月22日
◆松江城(86/100城、計87/200城)
・2018年11月22日◇所要時間:3時間20分
◆中央の写真(2018年11月22日撮影):
スタンプのデザインは国宝天守です。オーソドックスに一の門から本丸に登城して目の前に広がる姿は圧巻です。厚い板で覆われた下見板張りの黒色を目の当たりにすると、86城目にしてようやく松江城に来れたことを実感します。そして2階の床面に設けてある天守の石落が、なるほど屋根の軒に隠れていて外部から見つけにくい構造であることが良く分かります。
◆右の写真(2018年11月22日撮影):
写真は水の手門跡です。多くのお城ファンが絶賛するこの巨大な食い違い虎口の実物は、耳で聞いたり写真で見るよりも迫力満点でした。ある意味天守以上の満足感を得ることが出来ました。大手口の賑わいに比べ、搦手口となるここは人も疎らでひっそりとしてました。でも苔むした石垣とそのゆったりとした空間がマッチし、自分だけの特別な松江城を楽しむことが出来ました。
米子城
2018年11月23日
◆米子城(2/続100城、計88/200城)
・2018年11月23日◇所要時間:3時間10分
◆左の写真(2018年11月23日撮影):
スタンプのデザインが何処なのかが判明していません。写真は背後に大山が望める天守台の西北隅から撮影したものを掲載しましたが、算木積みで組まれた石垣のパターンがスタンプとは一致していないのでここも微妙ですが…。
◆右の写真(2018年11月23日撮影):
写真は内膳丸を背に、本丸に延びる登り石垣を撮影したものです。奥に見える石垣は遠見櫓跡です。登り石垣は朝鮮半島南岸の倭城に用いられた築城技術で、豊臣秀吉の朝鮮出兵を機に国内にも用いられるようになり、出兵に参加した吉川広家が米子城築城の際に取り入れたとされています。国内では他に竹田城、淡路洲本城、彦根城、伊予松山城でも確認することが出来ますが、米子城の登り石垣ほど、そ全容を間近に見ることが出来る城郭は他にないと思います。城域の遮断線や山上と山麓の一体化感などの魅力が直に伝わって来るのは、本当に素晴らしいと思います。
鳥取城
2018年11月23日
◆鳥取城(87/100城、計89/200城)
・2018年11月23日◇所要時間:1時間25分(スタンプ押印日)
・2018年11月24日◇所要時間:2時間40分
◆中央の写真(2018年11月24日撮影):
スタンプのデザインは二ノ丸裏御門に向かう石段です。江戸時代には久松山麓(山下ノ丸)に城の中枢を移した鳥取城。そのシンボル(実質的な天守)である三階櫓は写真の最上段、二ノ丸裏御門脇に構えていました。保存整備計画(2006〜2035年)の真っ只中にある鳥取城。また夏の西日本豪雨の影響で、二ノ丸裏御門から二ノ丸への通り抜けはできず、ようやく辿り着いて撮影することが出来た苦心のショットです。
◆右の写真(2018年11月24日撮影):
写真は久松山頂(山上ノ丸)の天守櫓跡からの眺望(鳥取砂丘)です。日を改めて久松山頂(山上ノ丸)へ登城しました。この写真(北方面)から視線を右に90度移すと、鳥取の渇え殺しとして知られる秀吉の本陣跡(本陣山・太閤ヶ平)が、僅か1.5km先に迫っている様が目に飛び込んで来ます。
若桜鬼ケ城
2018年11月24日
◆若桜鬼ヶ城(3/続100城、計90/200城)
・2018年11月24日◇所要時間:2時間35分
◆左の写真(2018年11月24日撮影):
スタンプがデザインされているのは、二の丸からの廊下橋虎口跡と「史跡若桜鬼ヶ城跡」の石碑です。写真はスタンプとなっている廊下橋虎口跡です。二の丸(手前)から本丸(上段奥)への侵入を阻止するため、門前は横矢掛り(写真の左端)が仕掛けられ、門の先は食い違い虎口となっており本丸への行く手を阻んでいます。
◆右の写真(2018年11月24日撮影):
写真は築城の名手と呼ばれた山崎家治が築いたとされる本丸(虎口周辺)の石垣を撮影したものです。廃城の際に人為的に崩された石垣ですが、その縄張りは往時の状態を止めており、打ち込み接ぎの技法によって美しく積み上がった石垣の一端を垣間見ることが出来ました。写真の通り、若桜鬼ヶ城が築かれている鶴尾山(標高446m)は色鮮やかな赤、黄、橙、緑が目の前に広がっていて、正に紅葉真っ盛りでした。
二条城
2018年11月25日
◆二条城(88/100城、計91/200城)
・2018年11月25日◇所要時間:3時間35分
◆中央の写真(2018年11月25日撮影):
スタンプのデザインは二の丸御殿(車寄せと遠侍)です。『洛中洛外図』で描かれている二条城は、秀忠の娘和子(後水尾天皇の后)が入内する様子だと言われています。実際にそのルート(東大手門→唐門)を辿ってみると、目の前に訪れる者を圧倒する二の丸御殿が現れます。これぞ徳川幕府の威厳を示す仕掛けの一つではないでしょうか。
◆右の写真(2018年11月25日撮影):
写真は二条城の西門(埋門)です。慶応3年(1867)12月、大政奉還、王政復古と言う大きな節目の主役となった徳川慶喜が、京都を退去し大阪城に向かった際に使用したのがこの西門と言われています。今でも当時土橋が架かっていた痕跡が残りますが、東大手門や北大手門に比べ寂しげな雰囲気が漂います。ここから二条城を後にした慶喜が、苦しい立場に置かれていたことを肌で感じる場所。それがこの西門です。
品川台場
2018年12月20日
◆品川台場(4/続100城、計92/200城)
・2018年12月20日◇所要時間:2時間10分
・2019年05月31日◇所要時間:1時間45分
◆左の写真(2018年12月20日撮影):
スタンプのデザインは第三台場の北端(波止場跡)から鳥瞰した全景です。写真はレインボーブリッジのサウスルートのP29橋桁(海抜31m)からの必殺技で、スタンプと同じアングル(空撮)で撮影したものです。因みにレインボーブリッジの最高地点の海抜は60m。台場から芝浦への所要時間は約40分。立入禁止の第六台場も間近に見ることが出来ますし、何よりも目の前には障害物が一切ない絶景が楽しめました。
◆右の写真(2019年05月31日撮影):
写真は「はねだし工法」と呼ばれる第三台場跡の石垣で、東隅から撮影したものです。これは石垣の上端に突出部を付けた西洋の築城技術となり、国内では五稜郭、龍岡城(長野県)、人吉城、そしてここ品川台場でしか見ることが出来ない珍しい石垣です。
萩城
2019年10月30日
◆萩城(89/100城、計93/200城)
・2019年10月30日◇所要時間:1時間50分
◆中央の写真(2019年10月30日撮影)
スタンプは指月山(詰めの城)を背景とした本丸(天守台)が空撮でデザインされています。この写真はスタンプとほぼ同じ方角にある本丸門の前から撮影しました。海岸線の弱い地盤を考慮されて設計された天守台は、安定感のある横広がりが、逆に見事な扇の勾配として見るものを圧倒しています。
◆右の写真(2019年10月30日撮影)
萩城は日本海に面して築かれており、東側には海岸に直結していた城門を構えていました。この写真はその潮入門跡で、土塁の上の城壁に築かれた銃眼(鉄砲狭間)は大河ドラマ「花燃ゆ」のロケ地としても知られています。海岸線に施されたこの銃眼は、海と深く関わる長州藩ならではの防御施設であり、海からの外敵を一切寄せ付けない迫力で城を守る決意のようなものを感じ取ることが出来ます。一方で大陸近い長州藩は、国外との交易(海運)が活発であり藩に莫大な益をもたらしました。その一部が、幕末の長州藩の軍備増強を支えていくことになります。
浜田城
2019年10月31日
◆浜田城(5/続100城、計94/200城)
・2019年10月31日◇所要時間:2時間00分
◆左の写真(2019年10月31日撮影):
護国神社から本丸に向かう途中にある城門跡(石垣)です。場所は移築された県庁門(その昔の津和野藩庁門)と二ノ門跡の間、二の丸の最深部に位置します。ここからは高石垣に囲まれながら幾度となく右に左に折れ曲がりる食い違い虎口は圧巻です。そして本丸から望む外ノ浦(日本遺産)や、コバルトブルーに染まった美しい日本海の絶景は最高です。
◆右の写真(2019年10月31日撮影):
写真は護国神社の境内にある司馬遼太郎さんの碑文です。小説『花神』には、長州軍を率いる大村益次郎が、山口から北上しながら幕府軍を撃破し、最後にはこの浜田城を落とし石州口の戦いに勝利する様が描かれています。取材のため浜田の地に長期間滞在した司馬遼太郎さん。「石見人は・・」と記された碑文から、敗者(幕府軍・浜田藩兵)へ寄り添う「らしさ」が伝わって来ました。
津和野城
2019年10月31日
◆津和野城(90/100城、計95/200城)
・2019年10月31日◇所要時間:2時間00分
◆中央の写真(2019年10月31日撮影):
スタンプのデザインは三の丸(南御門側)から見る本丸の高石垣です。手前が人質櫓、奥が津和野城の山頂部(標高362m)に位置する三十間丸。天守台は、(写真の左側に隠れた)これらよりも低い場所に位置しています。
◆右の写真(2019年10月31日撮影):
写真は三十間丸からの絶景です。
JR西日本『BlueSignal』では表紙の写真と共に「急峻な地形で足元を蛇行して流れるのは津和野川、対岸の丸い山容が青野山。赤い屋根が周囲の緑に映えて鮮やかだ。」と紹介されています。
また朝日新聞では「蛇行する津和野川沿いに連なる赤茶色した石州瓦の屋根。SLも走るJR山口線の線路が通り、造り酒屋の煉瓦煙突が立つ。その風景は、さだまさしさんの名曲「案山子」の歌詞そのものだ。」とも紹介されています。
大内氏館・高嶺城
2019年11月1日
◆大内氏館・高嶺城(6/続100城、計96/200城)
・2019年11月01日◇所要時間:1時間15分
◆左の写真(2019年11月01日撮影):
スタンプは大内氏館跡南東隅からの鳥瞰がデザインされています。写真は同じ南東隅から、土塁や堀に囲まれた館跡を撮影したものですが、スタンプのように空撮ではないので全体像が表現できず、特に手前にある池泉庭園が土塁の裏に隠れてしまっているのが残念です。奥に聳える山は、高嶺城が築かれていた鴻ノ峰(標高338m)です。
◆右の写真(2019年11月01日撮影):
写真は龍福寺の本堂です。後にこの地を治めた毛利隆元が、西日本七ヵ国に君臨していた大内義隆の菩提を弔うために大内氏館跡に再興した寺社です。明治時代にその建物の大半は火災により焼失してしまったため、県内の興隆寺の釈迦堂(1479年建立)をこの地に移築し、龍福寺の本堂として改造したものが今に残ります。そのため室町時代の建築の特徴をよく表している建物です。
岩国城
2019年11月1日
◆岩国城(91/100城、計97/200城)
・2019年11月01日◇所要時間:2時間15分
◆中央の写真(2019年11月01日撮影):
スタンプは錦帯橋と岩国城天守です。多少天守がデフォルメされてはいますが、お城好きに限らず誰が見ても岩国城をイメージ出来るこのデザインは、日本100名城の中でも屈指のスタンプではないでしょうか。築城当初、錦川には錦帯橋は架かっておらず、またこの位置からは天守も見えなかったそうです。それを昭和37年(1962)に天守の位置を南にずらして復元し、今目にする錦帯橋と天守とのコラボが実現されたそうです。
◆右の写真(2019年11月01日撮影):
写真は横山山頂(標高約200m)の天守からの眺望です。往時の天守は北側の山陽道を見下ろす位置にありましたが、復元天守からは南側に広がる山麓の御土居(藩主居館)、錦帯橋、
城下町、そして瀬戸内海を一望できる絶景が楽しめます。遠くに第二次長州征討の激戦地である周防大島(大島口)を確認することが出来ました。
広島城
2019年11月2日
◆広島城(92/100城、計98/200城)
・2019年11月02日◇所要時間:2時間35分
◆中央の写真(2019年11月02日撮影):
スタンプがデザインされているのは基町小学校の前(西南隅)から、あるいは白島小学校前(北東隅)からか?良く見ると天守の右下に屋根(天守への出入口)が見えることから、西南隅からの天守だと結論付けました。会津若松のスタンプデザイン(天守の方角)と同様に、
広島城のスタンプ(天守の方角)も簡単そうで難しかったです。
さてこの広島城の天守の中で、前日の岩国城で広島城の場所にスタンプを押す痛恨のミスが発覚。結局広島城のスタンプを岩国城の場所に押すことにしましたが、何とも収まりが悪いスタンプ帳には、同時に落胆の色が刻印されてしまいました。
◆右の写真(2019年11月02日撮影):
写真は二の丸表御門の前から撮影した二の丸の全景です。本丸から迫り出した二の丸全体が、絵に書いたような角馬出しとなっている様は、広島城でしか見ることの出来ない唯一無二の縄張りだと思います。
郡山城
2019年11月3日
◆郡山城(93/100城、計99/200城)
・2019年11月03日◇所要時間:3時間25分
◆中央の写真(2019年11月03日撮影):
スタンプは郡山全景と「百万一心」の石碑を合成してデザインしています。これは郡山全景を、スタンプと同じアングルだろう位置から撮影してみました。実際にはその場所が良く分からなかったため、安芸高田歴史民俗博物館の前から撮影した写真を掲載しました。
理由は、青光井尼子陣所跡と同じ方角だからです。吉田郡山城の戦いで、連日尼子詮久(晴久)が眺めたであろう郡山城。今でこそ樹木に覆われていますが、かつては山頂にある本丸まで、連続する曲輪、堀切、土塁、石塁(石垣)が遠くから見える、守り堅固な山城であったことが想像できます。
◆右の写真(2019年11月03日撮影):
写真はもうひとつのスタンプデザインの「百万一心」の石碑です。元就の墓所の近のこの石碑からは、一百一力一心(日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする)との
元就の力強い心意気を感じることが出来ました。
菅谷館
2019年12月18日
◆菅谷館(7/続100城、計100/200城)
・2019年12月18日◇所要時間:1時間50分
◆左の写真(2019年12月18日撮影):
スタンプは、本郭の土塁と「埼玉県指定史跡 菅谷館跡」の石碑を合成したデザインとなります。この写真は本郭の正面の城門(正門)脇から撮影したもので、本郭内の様子が全く見えないほどの高い土塁と深い堀で囲まれている様子が表れていると思います。
◆右の写真(2019年12月18日撮影):
ここ菅谷館は畠山重忠の居館でした。写真は二ノ郭に建つ重忠像です。鎌倉幕府の有力御家人だった重忠は忠義者として知られ、北条義時とは深く関わった人物です。両名は源頼朝の下で共に戦った親しい間柄だったのですが、頼朝の死後、実権を握る北条勢から追討軍が仕向けられ、無念の死を遂げる事となります。世に伝わる「二俣川の戦い」ですが、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿13人』の中ではどのように描かれるか、見所のひとつではないでしょうか。
杉山城
2019年12月18日
◆杉山城(8/続100城、計101/200城)
・2019年12月18日◇所要時間:2時間00分(町役場を含む)
◆右の写真(2019年12月18日撮影):
スタンプは杉山城の全景で、大手に向かって右、艮(北東隅)上空からの空撮がデザインされています。縄張り全体が素晴らしい杉山城ですが、中でもスタンプの中心にある南二の郭から南三の郭を結ぶ屏風折れと呼ばれる塁線は、特に目を見張る箇所だと思います。この写真はスタンプと同じ艮に位置する東三の郭から屏風折れを撮影しましたが、屏風折れを見上げるアングルからは迫力不足が否めずです。
◆左の写真(2019年12月18日撮影):
写真は本郭東虎口から大手方面を撮影したものです。ここは城の全体が見渡せる場所で、写真でも分かる通り、右から左に南二の郭、外郭、出郭と大手に向かって郭が一段ずつ下がっている様子が分かるかと思います。このように大手から本郭までは高低差があり、その間をいくつもの郭、深い空堀、そして複雑な虎口が連続する難攻不落の名城と呼ばれる杉山城の一端が伝われば幸いです。
本佐倉城
2019年12月27日
◆本佐倉城(9/続100城、計102/200城)
・2019年12月27日◇所要時間:2時間25分
◆左の写真(2019年12月27日撮影):
スタンプは本佐倉城の南東上空からの鳥瞰がデザインされています。空撮になるため同じ写真を撮影することが出来ないため、南に位置する根古谷の館前から撮影した写真をアップしました。ここは左からセッテイ、奥ノ山、城山が並んで見渡せる場所です。また、手前の田畑には当時中池があったとされ、さらに左(写真の枠外)には根上と呼ばれる外郭が続きます。カメラの背面にも向根古谷と呼ばれる外郭が広がり、この場所に立つと古の広大な本佐倉城の息吹を感じることが出来ます。
◆右の写真(2019年12月27日撮影):
お目当てのセッテイ空堀へと歩を進めましたが、写真の通り、この年の台風15号、19号によって倒木、土砂崩れにより、無残な姿に変わり果てていて、城内の多くが立ち入り禁止となっていました。一日も早く復旧し、元の美しい竹林が蘇って欲しいと祈念し、帰路に着きました。
忍城
2020年12月23日
◆忍城(10/続100城、計103/200城)
・2020年12月23日◇所要時間:2時間40分(石田堤、丸墓山古墳含む)
◆左の写真(2020年12月23日撮影):
スタンプは御三階櫓と本丸東門前に架かる木橋がデザインされています。御三階櫓は天守に相当する忍城のランドマークでしたが、明治時代に破却されてしまいます。今の櫓は1988年に再建されたもので、内部は行田市の郷土博物館として貴重な遺構が展示されています。
◆右の写真(2020年12月23日撮影):
写真は忍城を水攻めした際に石田三成が構えた本陣跡から城下を撮影したものです。左奥、頂に雪が被った山のやや右側の手前に御三階櫓が確認できます。この地は関東平野のため、この通り見渡す限り平地です。このため三成は城下の眺望を求め、丸墓山古墳にその陣を構えましたが、これだけ壮大な平地を水没させるのは容易ではなかったでしょう。
ここは、豊臣秀吉の小田原攻めで唯一の敗北となった忍城の水攻めの難しさを体感することが出来る場所だと思います。
小机城
2020年12月27日
◆小机城(11/続100城、計104/200城)
・2020年12月27日◇所要時間:1時間15分
◆左の写真(2020年12月27日撮影):
スタンプは本丸東側の階段下(空堀の底)から見た本丸がデザインされています。深い空堀の底に立って高く聳える本丸を見上げていると、敵方を寄せ付けない往時の小机城の面影が鮮明に蘇ってきます。
◆右の写真(2020年12月27日撮影):
写真は小机城の西側、小机富士と呼ばれる富士塚(富士仙元大菩薩)から撮影したものです。左の丘陵が小机城、正面奥は日産スタジアム(新横浜方面)の眺望です。往時はここを出城としていたそうですが、今は第三京浜を挟んだ飛び地となってしまい、ここまで足を運ぶ人は少ないようです。
滝山城
2020年12月29日
◆滝山城(12/続100城、計105/200城)
・2020年12月29日◇所要時間:2時間00分
◆左の写真(2020年12月29日撮影):
スタンプは深い大堀切の堀底から、本丸(写真左)と中の丸に架かる曳橋を見上げる構図がデザインされています。迫力満点のスタンプだと思います。城主北条氏照は天正15年(1587)に居城を滝山城から八王子城に移しますが、八王子城の御主殿にもここ滝山城と同じく見事な曳橋が架けられました。有事の際には橋を落として主郭を防御する考えが踏襲されたようです。
◆右の写真(2020年12月29日撮影):
写真は二の丸の南側を撮影したものです。このように、二の丸は多摩川の断崖を背にする本丸の前衛として配され、曲輪を深い空堀で囲い、三方に馬出を構える攻守に優れた曲輪でした。実際に武田軍との戦いの舞台となった滝山城。その猛攻を耐えることが出来た仕掛けが、二の丸を中心にして至る所に見え隠れしています。
興国寺城
2021年11月13日
◆興国寺城(13/続100城、計106/200城)
・2021年11月13日◇所要時間:1時間35分
◆左の写真(2021年11月13日撮影):
スタンプのデザインは大堀切と石碑(初代城主北条早雲碑)が合成されています。興国寺城と言えば本丸を取り囲む高い土塁とその外側の深い大堀切が有名ですが、その堀を歩いて散策できるのが魅力です。写真はスタンプにデザインされている大堀切を撮影したものです。堀底から見上げる本丸土塁は迫力満点でした。スタンプには「初代城主北条早雲碑」が合成されてデザインされています。石碑は高尾山穂見神社の脇、続100名城のスタンプ台の前にあります。
◆右の写真(2021年11月13日撮影):
本丸土塁の西櫓台から撮影した写真です。手前から本丸、二の丸、三の丸。その先には駿河湾が一望でき、城下を横断する東海道の動きが手に取るように分かります。戦国時代に関東一円を支配した北条氏の祖である伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、旗揚げの城として最適な立地条件だと思います。
石垣山城
2021年11月20日
◆石垣山城(14/続100城、計107/200城)
・2021年11月20日◇所要時間:2時間25分
◆左の写真(2021年11月20日撮影):
スタンプにデザインされている井戸曲輪です。この写真は馬屋曲輪(二の丸)を背に北に向かって撮影したものです。向こう側が谷側で、そこに高さ約10mの石垣を築いて湧水を堰き止めています。そして手前の山側にも石垣を巡らせている巨大な井戸です。構造は井戸と言うよりもダムのようです。同じような井戸が安土城にもあることから、秀吉はそれを参考にしたのかも知れません。
◆右の写真(2021年11月20日撮影):
本丸(本曲輪)の物見櫓(展望台)から撮影した写真です。小田原城下と相模湾が一望出来る絶景ポイントです。ここから小田原城へは直線距離にして僅かに3Km。天守が肉眼でハッキリと確認できます(鮮明ではありませんが写真にも天守が映っています)。秀吉はここから自軍が小田原城を取り囲む様を見て、間もなく天下統一が成就することを確信したのではないでしょうか。
要害山城
2021年12月19日
◆要害山城(15/続100城、計108/200城)
・2021年12月19日◇所要時間:2時間05分
◆左の写真(2021年12月19日撮影):
スタンプのデザインは積翠寺と主郭に建つ「武田信玄公誕生之地」碑が合成されています。写真は積翠寺と背後に聳える要害山を撮影したものです。急峻な山道のため大井夫人(武田信虎の正室)が入城を断念し、山腹にあったこの積翠寺で信玄を生んだと伝わりますが、実際に山道を歩いてみると「成程!」と納得してしまいます。積翠寺の境内には産湯の井戸や産湯天神がありあり、その面影が色濃く残っています。
◆右の写真(2021年12月19日撮影):
要害山の登山口に建つ「史跡要害山」の石碑(モニュメント)です。ここから山頂(標高775m)までは40?50分、武田氏館まで40?50分。ここが双方の中間地点となります。
新府城
2021年12月19日
◆新府城(16/続100城、計109/200城)
・2021年12月19日◇所要時間:1時間15分
◆左の写真(2021年12月19日撮影):
写真は城の南側に構える大手桝形虎口とその先に望む富士山を撮影したものです。虎口の前面(下段)には丸馬出と三日月堀を配し、眼下には釜無川が韮崎市街地を流れる様子が伺えます。城内最大規模であるこの大手桝形虎口は綺麗に整備されており、武田氏の特徴である丸馬出が往時の姿を鮮明に伝える貴重な遺構です。
◆右の写真(2021年12月19日撮影):
写真は本丸の北側の眺望とです。奥に聳える山並みは八ヶ岳です。新府城は高低差130mの断崖(七里岩)の上に築かれていますが、今は樹木に覆われているため、眺望が開けているのは南側とここ北側だけです。余談ですが、韮崎と地名の由来は七里岩の先端の形が韮の葉に似ているからだそうです(観光パンフレットより)。
大多喜城
2021年12月26日
◆大多喜城(17/続100城、計110/200城)
・2021年12月26日◇所要時間:2時間
◆左の写真(2021年12月26日撮影):
スタンプにデザインされているのは天守です。大多喜城の天守は本多忠勝が最初に建てたと伝わる実在説があるの一方で、非実在説もあることから1975年に再建されたこの天守の呼び方は復元、復興、模擬の何れにも該当しない宙に浮いた状態になっています。
◆右の写真(2021年12月26日撮影):
写真は御禁止川(おとめがわ)と大多喜橋梁(いすみ鉄道)です。本丸直下のメキシコ通りから撮影しました。何故メキシコかと言えば、サン・フランシスコ号(1609年に御宿沖で座礁)の船員を地元民が救助したのがキッカケです。後に御宿町とメキシコのテカマチャルコ市(船長ドン・ロドリゴの生誕地)は姉妹都市となり、1978年にメキシコのポルティーヨ大統領が訪問したのを記念して整備された遊歩道が、ここメキシコ通りです。
高天神城
2022年1月9日
◆高天神城(18/続100城、計111/200城)
・2022年01月09日◇所要時間:1時間05分
◆左の写真(2022年01月09日撮影):
スタンプにデザインされているのは、谷間を真直ぐ延びる登り坂と、右端に建つ「史跡高天神城跡」の石碑から搦手口だと思います。ここは現代風に言えば裏口に相当しますし、樹木が生い茂っているため昼間でも薄暗く地味な印象があるので確信が持てないので「思います」としておきます。
◆右の写真(2022年01月09日撮影):
写真は本丸から撮影した北東方の眺望です。手前右端の丸い山容が高天神城六砦のひとつ火ヶ峰砦、そして奥には富士山を望むことが出来ました。徳川家康の包囲網の高天神城六砦。本丸からは地図を見て想像していた以上に至近距離で圧迫感があり、城に立て籠もった岡部元信(武田勝頼軍)の心境を体感することができました。
諏訪原城
2022年1月9日
◆諏訪原城(19/続100城、計112/200城)
・2022年01月09日◇所要時間:1時間25分
◆左の写真(2022年01月09日撮影):
スタンプのデザインは二の曲輪中馬出を空撮(鳥瞰)したものです。この写真はスタンプと同じ目線(平面)からではその規模が伝わらないので、丸馬出の曲線と堀の深さが表現できる角度から撮影しました。近年の諏訪原城は生い茂った樹木を取り払ったり、堀や曲輪を復元したりして整備が進んでいます。この場所に限らず深い堀に囲まれた曲輪で構成される縄張りは圧巻です。
◆右の写真(2022年01月09日撮影):
写真はビジターセンターの目と鼻の先にある旧東海道(菊川坂)の石畳を撮影したものです。有名な旧東海道(金谷坂)の石畳には規模こそ劣りますが、実際に石畳の上を歩いて往時の旅路を体感することが出来ます。靴を履いていても滑るし歩き難いのですが、古の旅人はここを草鞋で歩いたのですから驚きです。
芥川山城
2022年3月29日
◆芥川山城(20/続100城、計113/200城)
・2022年03月29日◇所要時間:--分
◆左の写真:続100名城スタンプ
◆右の写真(2022年03月29日撮影):
続100名城スタンプ設置場所の高槻市観光協会の観光案内所です。JR高槻駅の改札口の真ん前にあります。今回はこちらでスタンプを押印するに止め登城は別途としました。「三好長慶を大河ドラマに」という幟旗が印象的でした。
八幡山城
2022年3月29日
◆八幡山城(21/続100城、計114/200城)
・2022年03月29日◇所要時間:1時間30分
◆左の写真:(2022年03月29日撮影)
続100名城スタンプのデザインとなっている場所の写真を載せたかったのですが特定できませんでした。当初は石段が右に折れる形状から見て本丸虎口だとは思いましたが、実際には右に折れた先に瑞龍寺門があり、スタンプのように空が抜けていないのでマッチしませんでした。という事で、ここでは空に開放感がある二の丸虎口の写真を掲載しました。
◆右の写真(2022年03月29日撮影):
八幡山裾には八幡堀や城下町の一部が往時の姿のまま残っています。八幡堀は時代劇で見たことのある光景が次から次へと目に飛び込んでくるのでとても楽しめました。堀沿いを端まで歩くと視界が開け、目の前には八幡山の全景が目に飛び込んで来ます。この写真はそこで撮影した八幡堀と八幡山の全景です。天気が良ければ・・・。少し残念でした。
玄蕃尾城
2022年3月30日
◆玄蕃尾城(22/続100城、計115/200城)
・2022年03月30日◇所要時間:40分
◆左の写真(2022年03月30日撮影):
今回は賤ケ岳の戦いで柴田勝家が本陣を構えた玄蕃尾城ではなく、豊臣秀吉が勝利し、信長の後継者争いにケリを付けた余呉湖を訪ねました。写真は続100名城スタンプの設置場所の余呉湖観光館です。館内には玄蕃尾城や賤ケ岳の戦いの資料が展示されています。観光館の左奥に見える山は堀秀政が陣取った東野山です。この山裾が北国街道を遮断した秀吉軍の最前線です。
◆右の写真(2022年03月30日撮影):
柴田勝家軍(佐久間盛政)は、余呉湖を回り込んで湖畔の尾野呂浜で中川清秀軍に戦を仕掛け、賤ケ岳の戦いの口火を切られました。佐久間盛政は写真の左に見える大岩山砦(中川清秀)と岩崎山(高山右近)を撃破し、豊臣秀吉軍との初戦に勝利しました。写真の右奥に見えるの山が七本槍で有名な賤ケ岳です。ここから形勢が逆転していきます。
小谷城
2022年3月30日
◆小谷城(94/100城、計116/200城)
・2022年03月30日◇所要時間:1時間50分
◆中央の写真(2022年03月30日撮影):
ガイドバスが運行していないので今回は小谷山への山行は断念し、山麓(郡上近辺)を散策しました。ガイドステーション前では大きな兜を発見。2011年のNHK大河ドラマ「江?姫たちの戦国」の放映を記念して建てられたとの説明がありました。あれから10年経つんですね。
◆右の写真(2022年03月30日撮影):
JR河毛駅前は浅井長政公・お市の方像が建っていました。像の後ろには小谷山(大嶽?出丸)が望めます。
黒井城
2022年3月31日
◆黒井城(23/続100城、計117/200城)
・2022年03月31日◇所要時間:1時間25分
◆左の写真(2022年03月31日撮影):土砂降りの雨のため今回は猪ノ口山への山行は見送り、山麓(黒井城下)を散策しました。丹波を制した明智光秀の家臣の斎藤利三は下館であったここに陣屋を構え、またお福(後の春日局)もここで誕生しました。今は下館跡に興禅寺が建ちますが、この見事な七間堀と石垣は往時の遺構です。そして写真の左上には黒井城主郭部の石垣が映っています。
◆右の写真(2022年03月31日撮影):
写真は興禅寺の惣門です。興禅寺がこの地に移って来たのが1626年。その時に黒井城の門材を使用して建てたと伝わる惣門で、往時の黒井城を偲ぶ唯一の建築物とされています。
福知山城
2022年3月31日
◆福知山城(24/続100城、計118/200城)
・2022年03月31日◇所要時間:1時間25分
◆左の写真(2022年03月31日撮影):
スタンプのデザインは言うまでもなく福知山城天守です。大天守、続櫓、小天守が連結された形は近世初期の望楼型で、外観は忠実に再現されているそうです。天守最上階からの眺望は抜群で、特に、城下に向かって流れている由良川を堰き止めている明智藪の様が、手に取るように伝わって来るところが印象的でした。
◆右の写真(2022年03月31日撮影):
2018年の11月24、25日の両日、第31期竜王戦七番勝負第4局開催された場所が福知山城天守です。今でもその部屋が公開されているので撮影しました。個人的に、当日は早朝に竹田城、午後から福知山城を訪れる計画でしたが、この福知山決戦があり入場規制等もあり行先を二条城に変更したので、鮮明に覚えています。今回、その部屋の前に立ってみると、熱戦を制して広瀬八段が羽生竜王に勝利した対局が伝わってくるようでした。
岸和田城
2022年4月1日
◆岸和田城(25/続100城、計119/200城)
・2022年04月01日◇所要時間:1時間05分
◆左の写真(2022年04月01日撮影):
写真はスタンプと同じく天守の南側、五風荘前(新御茶屋跡)から撮影した天守です。幅の広い水堀に天守が浮かんでいるかのごとく、実に素晴らしいデザインです。この三層天守は1954年に再建されたものですが、往時は何と五層の天守が建っていたそうです。徳川幕府から伏見櫓を下賜された岸和田城が、江戸幕府にとって重要な地であったことが窺えるエピソードです。
◆右の写真(2022年04月01日撮影):
写真は大手櫓門を撮影したものです。二の丸から本丸に架かる土橋に構えるこの大手門。残された資料が少なく、実はこのような立派な櫓門が建っていたかどうかは定かではないようです。それでも、満開の桜と調和した櫓門が綺麗だったので、この写真を選びました。
笠間城
2022年4月9日
◆笠間城(26/続100城、計120/200城)
・2022年04月09日◇所要時間:2時間40分
◆左の写真(2022年04月09日撮影):
スタンプのデザインは天守曲輪の石垣です。石段を上った先には天守櫓跡があり、佐志能神社が鎮座しています。ただし、この付近は東日本大震災の影響により石垣の崩落、社殿の倒壊の可能性が高く、今でも石垣にシートが被せられ、また石段にはロープが張られ、立入禁止区域となっていました。
◆右の写真(2022年04月09日撮影):
写真は城下の真浄寺で撮影した笠間城八幡台櫓です。往時の笠間城のある佐白山山頂には3つの櫓(他に天守櫓、宍ヶ崎櫓)があり、その中のひとつがこの八幡台櫓です。廃城後(明治13年)、当地に移築され七面大明神、鬼子母神、三十番神の三尊神が奉祀される通称七面堂として現在に至っています。今では県内の城郭建造物で唯一残存する貴重な遺構(茨城県指定文化財)です。
浜松城
2022年4月10日
◆浜松城(27/続100城、計121/200城)
・2014年12月28日◇所要時間:45分
・2016年01月28日◇所要時間:35分
・2022年04月10日◇所要時間:1時間50分(スタンプ押印日)
◆左の写真(2022年04月10日撮影):
スタンプは天守と天守門がバードビュー(鳥瞰)でデザインされています。空撮と言う訳には行きませんので、天守と天守門が並ぶ角度から雰囲気だけでも醸し出せればいいなと思いながら撮影しました。真っ青な空をバックにした天守が印象的です。
◆右の写真(2022年04月10日撮影):
写真は見どころ満載の天守曲輪の石垣です。先ずは天守曲輪を配しているお城が珍しいこと。そして鉢巻石垣の折れ曲がる角度が様々で、複雑な多角形をしている点です。これは自然の地形をそのまま反映したためとのこと。他に類を見ないこのユニークな「屏風折れ」の石垣を見るだけでも、浜松城を訪れる価値はあると思います。
山形城
2022年10月25日
◆山形城(95/100城、計122/200城)
・2022年10月25日◇所要時間:1時間20分
◆中央の写真:
スタンプは二の丸東大手門がデザインされています。手前の堀跡にはJR線が横切っているため、撮影場所に苦労しながら撮った1枚です。百聞は一見に如かず。この城門は江戸中期(堀田氏時代)の姿が復原されたそうですが、実物は写真で見るよりもスケールが大きく立派でした。ここ二の丸東大手門の内部は展示スペースとして無料で開放されており、そこで頂いたパンフレットによれば、山形城は江戸城、豊臣大坂城、小田原城、名古屋城に続く全国5番目の広さを誇っていたそうです(恥ずかしながら初めて知りました)。なるほど、立派な城門を構えていた訳ですね。
◆右の写真:
二の丸東大手門を潜ると出迎えてくれるのは最上義光公は、関ヶ原の合戦では東軍に属し、この東北の地で直江兼続が率いる上杉軍を退け、徳川家康からその功績が認められました。そしてここ山形藩の初代藩主に任ぜられました。まるで青天を衝くかのごとく勇猛果敢な勇姿がとても印象的でした。
米沢城
2022年10月25日
◆米沢城(28/続100城、計123/200城)
・2022年10月25日◇所要時間:40分
◆左の写真:
スタンプは、本丸北東隅の御三階櫓跡前から舞鶴橋方面を水堀沿いに眺めたアングルがデザインされています。スタンプでは舞鶴橋の袂に靡く「毘」の軍旗が大きくデフォルメされていますが、実際はこの場所から舞鶴橋までは相応の距離はがあり、写真のように辛うじて確認できる程度でした。
◆右の写真:
写真は本丸跡に鎮座する上杉神社の本殿です。質素ではありますが重厚で厳かな空気が伝わる場所でした。上杉神社の建物のほとんどは大正8年(1919)の米沢大火で焼失したため、大正12年に明治神宮や平安神宮の設計者として知られる米沢市出身の伊東忠太(文化勲章受章者)らによって再建されたとのこと。
仙台城
2022年10月26日
◆仙台城(96/100城、計124/200城)
・2022年10月26日◇所要時間:1時間25分
◆中央の写真:
スタンプのデザインは大手門脇櫓です。建築物の遺構がない仙台城ですが、その中で唯一復元された貴重な建築物となります。今でこそ大手門を一般道が貫通していますが、往時の大手門は名護屋城の大手門を移した(移築した)とも、写した(模した)とも言われる櫓門を構え、この脇櫓も含めた大規模な桝形城門を形成していたことが容易に想像できました。
◆右の写真:
大手門から進み、見附塀跡(石組側溝)を過ぎると思わず見上げてしまうほどの高石垣(本丸北壁石垣)が目の前を遮ります。高さは最大で17mを誇り、本丸を攻める敵兵を寄せ付けない圧巻の仕掛けとなっています。そして手前(北東隅)の凹んだ石垣ですが、これは艮(丑寅=北東)の鬼門除けだと思われます。築城当時はこの上には艮櫓と呼ばれる三重櫓が建っていたそうです。
多賀城
2022年10月26日
◆多賀城(97/100城、計125/200城)
・2022年10月26日◇所要時間:1時間20分
◆中央の写真:
スタンプは政庁正殿跡です。正殿前に建つ「多賀城趾」の石碑を並べるには、やや斜め右から撮影する必要がありました。ややアレンジを加えてデザインされているようです。この正殿跡に見える礎石の一部(11個)、そして正殿跡前の石敷の広場の石の一部は1300年前の実物とのこと。礎石を地下に埋めて保存し、レプリカを使って平面復元する他の城跡と違い、実物を使って復元している多賀城跡は大変珍しく、貴重な場所だと思います。感謝感激です。
◆右の写真:
写真は復元整備されたばかりの城前官衙群(左奥)と政庁南大路、そして奥のシートに覆われた建物は復元工事中の外郭南門です。再来年(2024年)は多賀城創1300年を迎えます。その記念事業のメインイベント会場となるのがこの一帯です。
九戸城
2022年10月27日
◆九戸城(29/続100城、計126/200城)
・2022年10月27日◇所要時間:1時間30分
◆左の写真:
スタンプは本丸を囲む堀と土橋がデザインされていますが、訪問した時は大規模な発掘調査のため本丸、二の丸へは立入禁止となっていました(残念)。この写真は二の丸南側、大手門前に架かる土橋を撮影したものです。往時、この周囲の堀幅は最大で40m、深さは12mもあったそうです。今でも高く盛られた土塁に阻まれ、その先に構える広大な二の丸、その奥の本丸は全く見えず、敵方を一切寄せ付けない城郭であることを体感することが出来ました。
◆右の写真:
この写真は下段の三の丸に位置するガイドハウスから、上段に位置する本丸(西面)を撮影しました。ここはスタンプ設置場所であり多くの方が訪れる場所ですが、馬淵川の右岸に形成された2段の河岸段丘を巧みに利用した一端が垣間見える場所でもありました。
高島城
2022年12月18日
◆高島城(30/続100城、計127/200城)
・2016年09月18日◇所要時間:25分
・2022年12月18日◇所要時間:1時間30分(続100名城スタンプ押印)
◆左の写真:
スタンプは天守がデザインされています。写真は本丸大手(北側)に架かる冠木橋から撮影したものです。ご覧の通り水堀が凍結していますので、寒冷地はむしろ深い空堀の方が防御に適しているかも?? 現地の説明板によると、かつては「諏訪の浮城」と呼ばれ、諏訪湖に突き出した水城だったそうです。日本三大湖城の一つ数えられた見事な水城も、江戸時代初めの諏訪湖の干拓により様変わりし、今はその面影を感じることは出来ませんでした。
◆右の写真:
天守からの眺望です。撮影した時間帯は雲に覆われてしまいましたが、天気が良ければこの東南方面には富士山を眺めることが出来るそうです。そう言えば、昨年放映されたブラタモリでも諏訪湖と富士山は一直線に結ばれていると説明されていました。なるほど。
吉田城
2022年12月25日
◆吉田城(31/続100城、計128/200城)
・2022年12月25日◇所要時間:1時間10分
◆左の写真:
スタンプは豊川越しの北御多門跡と鉄櫓がデザインされていますが、豊川向こう岸への渡り方が分からなかったので、北御多門跡前から鉄櫓を撮影しました。見事な高石垣の上に聳える鉄櫓。こちらからのアングルは迫力満点です。
◆右の写真:
手前の二の丸側に冠木門跡、堀に架かる橋を渡った奥の本丸側に南御多門跡。そして向って左側には千貫櫓跡と指標が建っていました。石垣の高さや堀の深さなどから、かなり大規模な城門であったものと思われます。
八代城
2023年4月23日
◆八代城(32/続100城、計129/200城)
・2023年04月23日◇所要時間:1時間00分
◆左の写真:
スタンプのデザインと同じく、本丸西北隅から水堀越しに大天守台を撮影しました。奥の小天守台も含め、ここは大小天守が連なっている往時の様子が想像できる場所です。
◆右の写真:
本丸御殿跡に鎮座する八代宮を本丸南側から撮影しました。現地の説明板によると、この場所に城門は存在していませんでしたが、維新後に八代宮が建てられた際に、社の正門として神橋が架けられ整備されたとのことです。
原城
2023年4月25日
◆原城(33/続100城、計130/200城)
・2023年04月25日◇所要時間:2時間00分
◆左の写真:
スタンプにデザインされている海を見つめる三体の石像を撮影しました。想像していたよりも小さな石像で、しかも本丸を囲む策の外側に建っていたので、見つけるのに苦労しました。場所は天草四郎の墓の裏側になります。
◆右の写真:
本丸門跡から北側を撮影しました。手前から蓮池跡、二の丸跡、三の丸跡と広大な縄張りが延びていることが確認できる場所です。当日は雨模様でしたが、辛うじて普賢岳を望むことが出来ました。
唐津城
2023年4月27日
◆唐津城(34/続100城、計131/200城)
・2014年11月22日◇所要時間:30分
・2023年04月27日◇所要時間:1時間25分
◆左の写真(2014年11月22日撮影):
二の曲輪から撮影した天守です。天守が独立して建っていた頃の懐かしい写真です。
◆右の写真(2023年04月27日撮影):
前回と同じく二の曲輪から撮影した天守です。本丸の櫓門(一ノ門)などが復元され、大きく様変わりした天守がとても印象的でした。
根室半島チャシ跡群
2023年6月25日
◆根室半島チャシ跡群(98/100城、計132/200城)
・2023年6月25日◇所要時間:50分
◆左の写真(2023年6月25日撮影):
スタンプはヲンネモトチャシ跡を東側から鳥瞰したものがデザインされています。この写真も同じ東側から、ヲンネモトチャシ跡の全景を撮影しました。海岸の突端部に配され、東と北側がその急峻な崖に囲まれた守り堅固の環濠です。
◆中央の写真(2023年6月25日撮影):
ヲンネモトチャシ跡からはオホーツク海の大パノラマが広がります。この写真は東側の眺望で、納沙布岬のオーロラタワーが見えます。方角的にはその先が歯舞諸島となります。
◆右の写真(2023年6月25日撮影):
北西方向を撮影したものです。写真の画質を落としているのですが、実際には正面奥に国後島(羅臼山)が肉眼ではっきりと確認できました。
志苔館
2023年6月28日
◆志苔館(35/続100城、計133/200城)
・2023年6月28日◇所要時間:1時間
◆左の写真(2023年6月25日撮影):
この写真は西北隅の土塁の上から郭内の全景を撮影してみました。南側は海(津軽海峡)の崖を利用し、他の三方は土塁と空堀で囲まれた守り堅固な環濠です。
◆右の写真(2023年6月25日撮影):
この写真は西側の土塁の上から函館山を撮影したものです。天候には恵まれませんでしたが、御覧の通り郭内は綺麗な花が咲き誇る天然のお花畑を楽しむことが出来ました。
松前城
2023年6月28日
◆松前城(99/100城、計134/200城)
・2023年6月28日◇所要時間:1時間25分
◆左の写真(2023年6月28日撮影):
スタンプは津軽海峡を一望するように建てられた天守がデザインされています。この写真は本丸表御門前から天守を撮影したものです。
◆中央の写真(2023年6月28日撮影):
本丸の南東隅の二重太鼓櫓跡から撮影しました。写真左奥は第五台場跡です。松前城は海防強化の一環として7つの台場を配している中のひとつです。海に向かって土塁を積み上げ、その内側に砲台を構えている様が伝わって来ました。
◆右の写真(2023年6月28日撮影):
本丸を囲む内堀と天守です。堀幅が狭い印象を持ちました。
上ノ国勝山館
2023年6月28日
◆上ノ国勝山館(36/続100城、計135/200城)
・2023年6月28日◇所要時間:1時間15分
◆左の写真(2023年6月28日撮影):
館神八幡宮を頂点に、中央の通路の両側には住居が整然と配され、見事に平面復元されている様子を撮影しました。当日は天候に恵まれず、眼下の日本海もやや霞んでいて、青い海と空が開ける絶景はお預けとなりました。残念。
◆右の写真(2023年6月28日撮影):
この写真は二重に掘られた大手空堀です。全体的に自然の地形を巧みに使った縄張りですが、ここ大手口と搦手口には人工的な空堀、土塁、柵列などで防御を強化しているのが印象的でした。
五稜郭
2023年6月29日
◆五稜郭(100/100城、計136/200城)
・2023年6月29日◇所要時間:2時間35分 →日本100名城登城達成!
◆左の写真(2023年6月29日撮影):
スタンプは空撮した五稜郭がデザインされています。この写真は五稜郭タワーから撮影ましたが、星形の城郭がハッキリと鳥瞰することが出来ました。
◆中央の写真(2023年6月29日撮影):
この写真は半月堡の石垣です。石垣の上部が迫り出す「刎ね出し」と呼ばれ、国内では五稜郭を含め品川台場、龍岡城、人吉城の4か所でしか見ることの出来きない珍しい工法です。
◆右の写真(2023年6月29日撮影):
平成12年(2010)に復元された箱館奉行所庁舎です。建物の北側と東側は平面復元されており、その敷地面積を含めると、往時はかなり大きな建物だったことが伝わって来ました。