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メンバー情報

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コメント姫路城に関しては「昭和の大修理」以来のファンですが、定年退職を機に心機一転、日本百名城巡りに挑戦いたします。
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
大阪城
2014年3月11日
記念すべき第一城目は大阪城です。
JR環状線大阪城公園駅から極楽橋を通って入城、山里曲輪を経由して天守に登りました。帰りは桜門、大手門をくぐって西の丸庭園にも回るつもりでしたが、天守内の展示参観に時間を取りすぎて、西の丸だけはスキップしました。
大手門から地下鉄谷町線天満橋駅へは徒歩5分ぐらいで、お城へはJR大阪城公園駅からよりはこちらのほうが近いですね。

写真左は極楽橋から見た天守。
写真右は山里曲輪にひっそりたたずむ「秀頼・淀殿自刃の地」の碑。
松山城
2014年5月26日
100名城めぐりの第2城目、そして2014年5月26日から31日まで敢行した四国9城完全制覇の旅の1城目です。
激しい雨の中、事前に予約していたボランティアガイドの方に約3時間にもわたって丁寧にご案内いただきました。とくに石垣について、美しい場所、また修復の結果などによって生じた残念な場所などをご説明いただき、興味深かったです。さまざまな時代の石垣を実際に見ることができ、石垣フェチにはたまりませんね。
石垣に見とれて、ロープウェイ、リフトの営業が午後5時までであることを忘れてちょっと焦りました。

写真左は、歌舞伎役者坂東三津五郎丈の著書「三津五郎 城めぐり」(三月書房)の表紙にもなった、三津五郎さんお気に入りのスポットです。
写真右の土塀の控え柱は、松山城では貫を省略して柱が直接斜めに立って塀を内側から支えています。
今治城
2014年5月27日
100名城めぐりの第3城目、そして2014年5月26日から31日まで敢行した四国9城完全制覇の旅の2城目です。
藤堂高虎が編み出し、のちに天守のスタイルのデフォルト・スタンダードとなる「層塔型天守」のはしりとなったのが今治城天守。実際の天守は完成の翌年には丹波亀山に移築され永らく天守不在の城だったわけですが、近年の再建にあたってはその歴史的な意義を無視して、「いかにもありそうな」インチキ天守を建ててしまったこと、非常に残念です。
事前に申し込んでいたボランティアガイドの方に詳しくご案内いただき助かりました。
ガイドの方との待ち合わせは「今治城観光案内所」とのことだったので、大手門を入り一目散に天守入口まで行きついてしまいましたがそれらしいものがありません。天守受付でお聞きしたところ、お堀の外側、大手門に向かって左の駐車場の一角とのこと。受付の方がわざわざ連れていってくださいました。

写真左は復興された「なんちゃって天守」
写真右は、天守最上階から北をのぞんだところです。今でも瀬戸内海が目の前で、お堀には海の魚が直接入ってきます。
丸亀城
2014年5月27日
100名城めぐりの第4城目、そして2014年5月26日から31日まで敢行した四国9城完全制覇の旅の3城目です。
坂道の連続で天守までの道のりは厳しいものがありました。事前にお願いしていたボランティアガイドの方に長時間にわたってご案内いただきました。お供の「マルちゃん」(ガイドさんの飼い犬)もおりこうさんで可愛かったです。腰曲輪も含めてじっくり見るのなら、3時間はほしいですね。
山崎家治は、遅れてきた作事名人、と言えるでしょう。もう少し早く生まれてきていたら藤堂高虎と並んで築城家としてもっとメジャーな存在になっていたのではないでしょうか? 泰平の世になおこれだけの石垣を作ってしまった家治は、今見ればちょっとイタい存在です。

写真左は丸亀城の現存天守です。梁方向の長さが桁方向より長いというめずらしい設計の建物です。
写真右はご案内いただいたボランティアガイドのGさんと愛犬のマルちゃんです。
高松城
2014年5月28日
100名城めぐりの第5城目、そして2014年5月26日から31日まで敢行した四国9城完全制覇の旅の4城目です。
前夜高松市内に宿泊し、駅前で讃岐うどんの朝食のあと朝一番で登城しました。
昭和40年に、艮(うしとら)櫓が艮(東北)の方角ではない元の太鼓櫓の跡地に、しかも右回りに90度回転させた位置に再建され、今も建っています。荒っぽいことやるなぁ、高松市教育委員会。
三重五階の南蛮造りといわれる頭でっかちの天守が明治時代に老朽化を理由に取り壊されてしまったのは残念。天守再建の計画はあるそうですが、今度はぜひ史実に基づいた姿を再現させていただきたいものです。

写真左が艮櫓。旧太鼓櫓跡の石垣に、90度回転させて乗っけた強引な移築再建です。何となく石垣の高さと櫓の高さのバランスが不自然だと思いませんか?
写真右は水手御門。この門を通じて堀から直接海へと出られます。このような機能の門で現存のものはここ一か所です。
徳島城
2014年5月28日
100名城めぐりの第6城目、そして2014年5月26日から31日まで敢行した四国9城完全制覇の旅の5城目です。
まずは徳島城博物館でスタンプをいただいてから展示物を観覧。蜂須賀水軍が実際に使っていた船の実物が展示されていて驚きました。
博物館を出る前に、たまたま居合わせたボランティアガイドの方に声をかけていただき、予定外に城内と庭園をご案内いただけることになりました。事前に調べた博物館のホームページではボランティアガイドの説明はなかったのですが、お会いできたのはラッキーでした。
本丸までは、丸亀城などに比べるとたいした高さではないとたかをくくっていましたが、その急な角度の石段の連続には心臓が破裂するかと思いました。

写真左は「舌石」という珍しいもの。この石垣の上に長い土塀がめぐらされていましたが、ところどころに突き出ているこの舌石の上に柱が立って土塀が内側から外に向かって三角形に突き出ていました。要するに土塀に対して横矢が掛けられる、という超小型の屏風折れということでしょうか。ここ徳島城にしか残っていません。
写真右は、徳島城博物館に隣接する見事な表御殿のお庭です。
高知城
2014年5月29日
100名城めぐりの第7城目、そして2014年5月26日から31日まで敢行した四国9城完全制覇の旅の6城目です。
朝一番で、事前予約していたボランティアガイドの方にご案内いただきながら城内を回りました。天守だけでなく多くの建物、石垣がよく保存されていること、姫路城に次ぐ有数の文化財価値のあるお城です。とくに、天守に隣接する本丸御殿がすばらしく、本格的な書院づくりのこの座敷の上座にあの幕末の山内容堂公も着座されたのかと思うと、感慨もひとしおです。
NHK大河ドラマ「功名が辻」で仲間由紀恵が実際に着用した打掛の展示はいらないでしょう。

写真左は、城内あちこちに見られる「石どい」です。日本有数の多雨地域である高知では、石垣内部に溜まる雨水をどのように排水するかは大きな問題だったのでしょう。
写真右は、三の丸の一角で発掘された長宗我部元親時代の石垣です。
宇和島城
2014年5月29日
100名城めぐりの第8城目、そして2014年5月26日から31日まで敢行した四国9城完全制覇の旅の7城目です。
高知から窪川乗り換え、しまんとグリーンラインの「ホビートレイン」で15時28分宇和島着。開放時間が城山郷土館は16時まで、天守は17時まで、と知っていたので、城山郷土館はあきらめて、とりあえず天守に向かってふもとから猛ダッシュで駆け上がりました。
幸いほかに見学者もほとんどいなくて、天守とその周りの曲輪をゆっくりと見ることができました。
天守内部は、規模は小さいのに現存天守の迫力が半端ないです。ほかの城には見られない装飾的な内部は、城と言うよりお寺の庫裏のような印象さえ受けます。

写真左は、現存する上ぼり立ち門です。堂々たる薬医門の形です。
写真右は天守内部一階です。障子を建て回し、階段は踊り場によって傾斜を緩くするなど、戦闘空間というより居住空間としての内装を備えています。迎賓館的な位置づけだったのでしょうか?
大洲城
2014年5月30日
100名城めぐりの第9城目、そして2014年5月26日から31日まで敢行した四国9城完全制覇の旅の8城目です。
大洲駅から歩くとかなりの距離がありそうなので、タクシーで行きました。帰りも列車の時刻から逆算してお城の下まで迎えに来てくれるようタクシーの予約をしました。
このお城の天守が復興なったのはちょうど10年前ですが、復興の話が持ち上がった当初、役所はよくあるコンクリート製の「なんちゃって」天守を建てる考えだったようです。それを広島大学の三浦正幸先生ら有識者が強く反対され、失われた元の天守に極力忠実に、工法も当時のやり方を取り入れて木造で再建することにしたとのこと。そのための資料がたくさん残っていたことも幸いしました。
古来のものが現存していることはもちろん大切なことですが、再建でも大洲城のようにまじめな態度で建てていただけると、オリジナルでは見えなかったものがかえって見えてきたりして興味深いです。例えば釘を一切使わない、木組みによる柱と梁の接合などは、目のあたりにすると圧倒されます。ほとんど知恵の輪ですね。
湯築城
2014年5月30日
100名城めぐりの第10城目、そして2014年5月26日から31日まで敢行した四国9城完全制覇の旅の最終9城目です。
ここは城山の一角が戦後「道後動物園」として使われていたものを、動物園の移転を機に発掘すると遺跡が出てきて、南北朝時代以来の城跡であることが判明した、とのこと。
資料館の方に詳細に歴史をご説明いただき、たいへん面白かったです。とくに城主河野氏にまつわる人間関係で登場する人物がいずれも歴史上のスターたちで、いかに人脈が張り巡らされていたのかがよくわかります。
現在、城跡として整備されているのは元動物園があったというほんの一角だけで、当時の武家屋敷の復元などがなされていますが、ほかの敷地は市民グラウンドであったり展望台であったり、まったく調査の手が入っていないようです。掘ればまだまだいろいろなものが出てくると思うのですが。
なにせ道後温泉の旅館街に隣接する絶好のロケーション。もっと一般の方にアピールしてもよいのでは? と思いました。

これで四国は制覇しました。
名古屋城
2014年6月29日
通算11城目は天下普請の名古屋城です。
日曜日とあって、外国人を含めたくさんのお客様が見えられていました。
土・日曜の1日何回か時間を決めてやっておられるボランティアガイドさんに、修復途中の本丸御殿の公開部分(表書院)と天守内部を詳しく案内していただきました。
本丸御殿は、すべての修復が成るのは2018年3月とのことで、現在修復工事をしている部分は見学コースから見下ろすことができます。

知恵を絞って敵の攻勢をそぎ、味方の攻撃、守備能力を極大にするように工夫をこらしたほかの城と違って、天下普請のこの巨大な城は、ほとんどそういうことに心を砕いているようには見えません。普請が各大名の石高に比例して公平に分担させやすいように直線的な縄張りとし、狭間なども外観的にはさほど目立ちません。
名古屋城が完成した慶長17年と言えば、大坂城にはまだ豊臣秀頼も健在であり、最終決戦はまだ行われていません。そんな時代に、もしかしたらこの城を攻める側になるかもわからない豊臣恩顧の外様大名たちに敢えて普請をさせてしまうとは、彼らの力をそぐためとはいえ、家康のこの余裕はどこから来るのでしょうか?
犬山城
2014年6月29日
通算12城目は犬山城です。
数々の焼失、廃却の危機を乗り越えて奇跡的に今日まで残った天守は、もっとも初期の望楼型の形をとどめる現存12天守最古のものです。(丸岡城との間で最古争いがあるようですが、望楼を乗せる前の二重櫓を創建と見るなら、犬山城は天文6年(1537年)と丸岡城の天正4年(1576年)より圧倒的に古いと言えるでしょう。望楼が乗ったのは元和6年(1620年)とぐっと時代が下がります)
古武士のような風格を見せるこの天守は、もっとも城らしい城のひとつでしょう。

驚いたことに、犬山城は平成16年まで成瀬家という個人が所有する全国でも唯一のお城でした。成瀬と言えば、元和年間に徳川家康から犬山城を拝領して以来、幕末まで一貫して犬山城主(尾張徳川家付け家老)の家柄です。現在は公益財団法人(白帝文庫)の所有になっているようですが、現在もこの団体の理事長は成瀬家のお嬢様が務めておられます。そして、成瀬家のお住まいは今も犬山城内にあります。(写真右側) お殿様が今日もお城の中に住んでいらっしゃるのですね。
岐阜城
2014年6月30日
通算13城目は岐阜城です。
稲葉山城、岐阜城の歴史には、キラ星のごとく戦国のスーパースターたちが登場します。中でもそのトップはもちろん織田信長公。斎藤龍興を追い出してこの城を手に入れた時点で、彼は完全に天下が自分のものになることを現実として感じたでしょう。
復興天守の中に、天下布武の印章のレプリカが展示されています。(写真右) これを見るだけでテンションが上がりますね。
ふもとの居館の跡地も、往時をしのぶにはいい場所だと思います。

山麓からロープウェイで一気に登りますが、実はロープウェイの山上駅から天守までも約700メートルの険しい石段道です。高齢の方はかなり息があがると思いますのでお気をつけください。
岡崎城
2014年6月30日
通算14城目は神君家康誕生の地、岡崎城です。
平坦な公園に復興天守が建っているだけかと思いきや、けっこう深い濠跡があったり野面積みの石垣が残されていたり、期待以上に見どころ満載でした。
また二の丸にある「三河武士のやかた 家康館」も、ジオラマやビデオが充実していてつい時間を忘れて見入ってしまいました。

おもしろいことに、同じ二の丸の公園内に家康の有名な「しかみ像」の石像バージョンがあります。(写真右) 三方原の合戦で武田信玄に大敗北を喫した家康が、逃げ帰った浜松城で死を覚悟して城門を開け放っていた、というその夜の自らの様子を絵師に描かせ、戒めとして終生そばに置いたというあの「しかみ像」が、3Dで飛び出してきたかというような石像で、元の絵の通りなかなか表情豊かです。
直接の舞台であった浜松城でなく、こちらに置かれているのが少し奇妙な感じもしますが、有名な絵を立体造形する、というのはありそうで今まであまりお目にかかったことがなく、興味深かったです。
根室半島チャシ跡群
2014年7月7日
通算15城目は、100名城中もっともハードルが高いと言われている根室半島チャシ群です。
マイカー、レンタカーなら根室市街から行くのにそんなに難しくはないでしょうが、公共交通機関を利用しようとすると、いったん納沙布岬の先端まで東海岸をバスで行き、バス終点から徒歩で西海岸のオンネモトチャシまで行ってもたぶん片道30分はかかるでしょう。同じ道を徒歩で戻って根室行きの帰りのバスに乗るのは、かなり至難の技ではないでしょうか。
というわけで、わたしは根室駅からハイヤー2時間コースを利用しました。小型車で1万1,100円でした。根室駅前の観光インフォメーションセンターの方がわざわざ外まで出てきてハイヤーの運転手さんにてきぱきと行き先を伝えてくださいました。
わたしとしては、オンネモトチャシさえ見られれば満足だったのですが、オンネモト、ノツカマフ(1号、2号)両チャシのほかに納沙布岬の展望所、天然記念物の車石(海岸の奇景)などなど、根室の観光名所を余すところなく回っていただき、時間は既定の2時間を軽くオーバーしました。(料金は2時間分のみ^^) 楽しかったです。
松前城
2014年7月9日
通算16城目は、我が国最後の「和式築城」のお城、松前城に登城。
元はアイヌ攻略、蝦夷地支配の拠点として慶長年間から松前氏が居館を構えていましたが、幕末の嘉永二年(1849年)に至ってオロシャなど北方からの侵略に備えて、幕府の命によって本格的な近世城郭が整備されました。
ところが、実戦経験のない江戸末期の軍学者によって縄張りされた松前城は、明治元年(1868年)京都で修羅場を潜り抜けてきた土方歳三を隊長とする旧幕府軍に攻められ、たったの1日であっさりと落城しました。
津軽海峡に向かって砲台を7門も備えていたといいますから、遠く洋上に浮かぶ敵艦を砲撃することは考えていたのかもしれませんが、「鬼の副長」土方歳三が抜刀して城内まで斬り込んでくるようなことは最初から想定していなかったのかも知れません。
五稜郭
2014年7月10日
通算17城目は、我が国では数少ない稜堡式城郭の代表、五稜郭です。
わたしは特段「土方歳三ファン」ではないですが、やはり土方の箱館に来てから最期の半年の心情を思うと胸に迫るものがあります。早く近藤局長のところに行きたかったんでしょうね。
土方の遺骸を旧幕府軍の兵士が密かに埋めたのではないか、と伝わる五稜郭内の一角も見てきました。まぁ、これは「都市伝説」の類なんでしょうが。
箱館奉行所はきれいに復元されていて、展示も見ごたえがありました。

写真右の大きな松の木の根元、こんもりとしたところが土方歳三の遺骸を埋めたところ、と伝わっています。
江戸城
2014年7月17日
通算18城目、江戸城登城です。
皇居東御苑をゆっくりと回りました。
名古屋城と同様の感想ですが、権力誇示を目的とした江戸時代の天下普請の城は、お城ファンの目にはあまりおもしろくありません。
一応戦国時代を通じて蓄積された防備のノウハウが詰め込まれてはいますが、何か「真剣味」に欠けます。作業をやらされているのは発注主(徳川宗家)から仮想的と見なされている当の大名たちであり、いかにも「攻めてこれるもんなら攻めてこんかい!」と言われながら、仕方なく築城に加担しているようなところがあります。
モザイクタイルのような幾何学的な石垣も野趣がありません。
佐倉城
2014年7月18日
通算19城目、佐倉城登城です。
歴代ここの藩主が老中になる、というぐらい徳川幕府にとっては大切な拠点です。実際、江戸城が西国大名に攻められて将軍が避難しなければいけないような事態になったときには、ここに退いて臨時幕府を設営する、といった考えがあったようです。
それにしても、明治時代になって陸軍がここに歩兵連隊の兵営地をおいたために、構築物がことごとく破却されてしまいました。もともと石垣はなく土塁で固められた城なので、建築物がなくなると城の概要はかなりわかりにくくなってしまいます。でも妙な復元整備をやられるよりはこのほうが、往時をしのぶことができるよい城跡だと思います。
城址公園を平面図で見ているとわからないのですが、園内はけっこうアップダウンがあって、ちょっとしたトレッキングでした。きつかった・・・。
お城には直接関係ありませんが、敷地内にある国立歴史民俗博物館も充実していて必見です。
八王子城
2014年7月19日
通算20城目、八王子城登城です。
八王子城は要害堅固の北条家の支城ですが、天正18年豊臣秀吉軍に攻められてたった半日で落城しました。北条側守備隊は戦闘要員のみならず女子供に至るまで、見せしめのために秀吉軍に皆殺しにされたとのことです。
写真の滝は、当時の居館のすぐ脇を流れる城山川に今も残る小さな滝ですが、落城当日、もはやこれまで、と武将や婦女子が競ってこの滝の上で自刃して滝つぼに身投げをしました。その日から三日三晩、城山川は血染めの川となり、下流の城下町でこの川の水でご飯を炊いたところまるで赤飯のようになった、と伝えられています。それで、八王子のこのあたりでは今日でも赤飯はお祝いではなく供養のときに振舞われる、とのこと。まことに鬼気迫るエピソードです。
なお、本日はなんと旧暦でこの落城当日にあたるとのことで、近隣のお寺で切腹した城主北条氏照をはじめ八王子城の将兵の菩提を弔う法事が行われることになっていたらしく、関係者と思しき人が何人もお城に登ってこられました。
鉢形城
2014年7月20日
通算21城目、鉢形城登城です。
八王子城と同じく小田原の後北条氏の支城で、八王子城主北条氏照の弟、氏邦が城主を務めていました。
天正18年(1590年)6月、前田、上杉の豊臣軍が八王子城の直前に攻略したのがこの鉢形城でした。さして大きくもなく、また急峻な山城というわけでもないこの鉢形城が、なんと約1か月にわたり持ちこたえ、最後は結局城主、将兵の命を助けることを条件に開城しています。この決着に秀吉は「やり方が生ぬるい」と激怒し、次の八王子攻めでは女子供に至るまで皆殺しにして、籠城の構えを見せる小田原本城への見せしめにしました。
ここ鉢形城には八王子城のような凄惨なエピソードはなく、堀の底に畝を持つ「障子堀」や四角い馬出しを持つ虎口など、後北条氏の城つくりの特徴がよく残る城跡が静かに佇んでいます。

公共交通機関で行かれる方は、東武東上線、JR八高線の寄居駅が最寄り駅ですが、そこから歩くと30分はかかります。
川越城
2014年7月20日
通算22城目、川越城登城です。
江戸時代を通じて関東の北の守りとして譜代大名が歴代の城主を務めた由緒を誇る川越城ですが、現在、城の遺構として往時の面影を残すのは本丸御殿のみで、ほかはほとんど市街地に呑みこまれてしまっています。
竣工が幕末の嘉永元年(1848年)と城の遺構としては古いものではなく、また明治維新以後はたばこ工場に使われたり、驚くべきことに戦後も中学校の体育館に使われたりしていたそうです。ずいぶんぜいたくな体育館ですね。
2枚目の写真は現在、本丸御殿大広間の天井に点々と残る黒いシミですが、これは中学校の体育館だったころに子供たちがボールを投げつけて遊んだ跡だということです。最近の保存修理工事のときにこれらのシミは消そう、との話もあったようですが、「これもひとつの歴史」と、敢えて残す決断をしたそうです。
「落書きも100年経ったら歴史遺産」と言いますからね。

本丸御殿だけでなく川越市内の観光スポットを回るのであれば「小江戸巡回バス」というバスが便利です。1日乗り放題チケットが500円です。
弘前城
2014年8月27日
通算23城目、現存天守を有する最北の城、弘前城に登城です。

石垣やいくつか残る門、櫓などは慶長年間の古い遺構ですが、天守は江戸時代を通じて長らく建てていなかったものを、幕末近くになって既存の三重櫓の改築という名目でやっと幕府の許可を得て建てたもの。したがって天守としての機能はもはや平和な時代の発想しかなく、何となく緊張感が欠けているようにも見えます。(窓かと見まごうばかりの大きな矢狭間など)
近年、天守台の石垣が外側に大きく膨らんできており、崩落の危険があるので今年度後半から大規模な修復作業に着手します。工事中は天守そのものを70m横に移動させて内部公開は続ける、とのことですが、完工まで10年を要するので、定番の堀越しに見た天守の外観はその間見ることができません。
天守最上階から雄大なお岩木山がきれいに望めました。
根城
2014年8月28日
通算24城目、八戸市内の根城(ねじょう)に登城。

ここは14世紀、南北朝時代に南朝側に与した南部師行が根拠地、文字通り「ねじろ」にした城です。
戦国、安土・桃山時代の有名武将は誰も登場しないし、時代背景もいまいち馴染みのない地味な印象のお城ですが、たいへん興味深く拝見しました。
当時の居館跡地をていねいに発掘調査して、主要部分がしっかりと復元されています。14世紀という中世の遺構をここまで学術的にも真面目に復元した施設は国内でも珍しいのではないでしょうか。
盛岡城
2014年8月28日
通算25城目、盛岡城に登城。
東北には珍しい美しい石垣が魅力的です。東国には石垣積みに精通した職人集団は多くはなかったでしょうに、財を投じて穴太からでも引っ張ってきたのでしょうか。
関ヶ原直前のころの縄張り、築城だそうですが、本丸が異常に狭いです。実際、居館は本丸にぎっしり建てられていましたがそれでもスペースが足りず、二の丸にはみ出していたようです。
まだまだ世の中が安定していなかったこの時代、近世城郭にありがちな「威風堂々」のこけおどしではなく、コンパクトで守りやすい築城を狙ったのかもわかりません。
そう言えば、天守代用とされた三階櫓も今日は土台の石垣を残すのみですが(写真右)、これも小さすぎ! 築城ラッシュの江戸初期のころの畿内の城なら、天守どころか櫓としても小ぶりな方でしょう。
もちろん、幕藩体制が磐石なものとなったあとの時代では、外様の南部氏が立派な天守の建設を言い出すという選択肢はなかったでしょう。
久保田城
2014年8月29日
通算26城目、久保田城に登城。
常陸の国で54万石という大大名だった佐竹義宣が、石田三成から受けた交誼に報いるために関ヶ原では関東方に味方しなかったために、戦後の論功行賞で2年間も放っておかれた挙げ句この北の厳しい土地への転封を命ぜられたのでした。しかも領地が確定して石高が20万石となるのはそれからさらに30年もあとのこと。その間に大阪冬・夏の陣への参陣も命じられているのですから、さぞ苦しく、また悔しい思いをしたことでしょう。時代は下って戊辰の役のときにいち早く奥羽越列藩同盟から離脱して新政府軍側に走った気持ちも分かります。
お城はもともと高石垣も天守もなく静かな風情を保っていますが、平成の時代になって元の隅櫓の場所に真っ赤な高欄を持つチンケな「天守閣風」の建物が「新築」されて今日に至っています。せっかくのお城が台無しになった、と感じるのはわたしだけでしょうか?
写真右は加藤清正が唐入りのときに朝鮮から持ち帰ったという船形手水鉢。その後回り回ってここに置かれることになったエピソードがすごい!
新発田城
2014年8月30日
通算27城目、新発田城に登城です。

天守代用の「御三階櫓」(現在のものは10年前に復元された建物)「3つの鯱を持つ屋根」で超有名ですね。
新発田と言えば、人生二度の有名仇討ち事件参加の堀部(旧姓中山)安兵衛の出身地としても有名です。彼のお母さんはなんと藩祖溝口秀勝の曾孫ということで、お殿様の血族なんですね。単なる暴れん坊ではなかったのです。
そして、もうひとつの特徴はお城の敷地の大部分を今も陸上自衛隊新発田駐屯地が占めている、ということ。御三階櫓も実は自衛隊の敷地内に建っており、堀越しに外観を眺めるだけで近寄ることはできません。わたしが訪問したときも、塀越しに訓練の勇ましいかけ声が聞こえてきました。「国を守る!」という強い意思の象徴であるお城の敷地内での国防のための訓練、まことにけっこう。(城ファンとしてはちょっぴり残念だけどね)

写真右は、城主の下屋敷であった清水園の書院です。お庭、史料館の展示ともになかなか見ごたえがあります。
大野城
2014年9月10日
通算28城目。
大野城そのものを踏破したかったのですが時間と体力の不足のためにこの急峻な山城に挑むことは断念し、代わりに大野城が守る役目を担った大宰府都府楼跡を訪れました。
大宰府といえば天満宮ばかりが有名で、わたしも天満宮には過去にお参りしたことがあったのですが、今回初めて都府楼跡に行き堪能してきました。
奈良の都が築かれるより半世紀も前に、この九州の地に外交拠点として都の規模をしのぐこのような都市が整備されていたことに驚かされます。
この時代、(朝鮮半島を経由した)中国からの侵攻に脅威を感じた日本人が、ここまで周到に都市計画、防衛計画を整え、一朝ことあるときには水際で撃退するべく遠く東国から防人を集めて警備に当たらせた、というのは、まことに周辺事態を冷静に分析し、打つべき手を打ったみごとな国家運営の手腕だと感嘆しました。
日本の安全保障上の頭痛の種が朝鮮半島と中国大陸であることは7世紀の昔から変わらないことをあらためて実感しました。
写真左は都府楼跡から望んだ四王子山(大野城が築かれている山)、写真右は100名城スタンプを置いている大宰府展示館です。
福岡城
2014年9月11日
通算29城目。
福岡城をめぐっては、天守は建てられたことはあったのか、もともとなかったのか、について学者先生の間でも未だに統一見解がありません。従来の定説では「黒田長政はじめ歴代の藩主は幕府に遠慮して最初から一貫して天守を建てなかった。」ということになっていましたが、近年、細川幽斎が「長政は幕府に遠慮して天守を壊すと言っている。」という書簡を残していることが発見され、実は短い期間天守は建てられていたのではないか、という疑問が出てきました。そんな基本的なところで意見が分かれているなんて、面白いですね。
もうひとつ、福岡城内には鴻臚館(こうろかん)という忘れてはならない大事な史跡があります。福岡城の時代を遡ること約1000年の7世紀、鴻臚館は外交の拠点として、渡来した外交団の受け入れ窓口や遣唐使の出発地点としての役割を果たしてきました。発掘された当時の遺跡が部分的に復元され、遺跡の上に「鴻臚館展示館」という施設が建てられて見学できるようになってます。実に見ごたえのある史跡です。
写真左は現存の南の丸多門櫓、写真右は鴻臚館展示館の内部です。
吉野ヶ里
2014年9月11日
通算30城目。
JR吉野ヶ里公園駅1階の案内所で無料のレンタサイクルを借り、気持ちのいい舗装道路を走ること約10分、吉野ヶ里歴史公園の東ゲートに到着です。
この公園は素晴らしい! こんなに大規模でかつ見どころが大量に散らばっているとは知りませんでした。とくに「墳丘墓」と呼ばれる王族の埋葬群跡は実際の発掘されたお墓が保存展示されており、見ごたえがあります。また復元建築物などは非常に学術的にまじめな復元がされていることがよくわかりました。
また祭祀エリア(近世城郭で言えば本丸)への入り口が、枡形門と非常によく似た形をとっています。虎口の防御に関して、弥生時代も近世も人間が考えることはたいして変わっていないんだな、と興味深く見学しました。
弥生人は、現代人が考えているよりは案外クレバーで、おしゃれで、グルメで、そして悩んでいることもたいして変わらなかったんだろうなぁ、と思わされました。
広い敷地を歩き回っているうちに、あっという間に4時間が経過!
写真左は墳丘墓の展示館内部。写真右は枡形門状の出入り口。
佐賀城
2014年9月12日
通算31城目。
往時には五重の天守もあがっていたようですか、なにせ慶長16年になってからの築城なので、実に直線的でシンプルな縄張りで、横矢掛かり(石垣や塀を折れ曲がらせて、敵を側面から射かける平面設計上の工夫)もほとんど見られません。
明治になってから佐賀の乱(不平士族の乱)で士族方の江藤新平らがここを攻城し、一時占拠しますが、いったん退却した明治政府側は態勢を立て直して、ほどなく奪還しています。つまり守備側がいつも敗れてるんですね。
復元された本丸御殿である佐賀城本丸歴史館では、ボランティアガイドの方に展示品や建物について詳しく説明いただきました。
写真左は佐賀城本丸歴史館(本丸御殿)の玄関、写真右は鯱の門の扉に生々しく残る佐賀の乱のときの銃弾痕。
平戸城
2014年9月12日
通算32城目。
松浦鉄道たびら平戸口駅から西肥バスに乗り換えて行きました。
たびら平戸口の駅前でバスに乗れるのかと思ったら、バス停(平戸口駅前)は駅から坂道を少し下ったところにあり、徒歩でほんの2〜3分の距離ではありますが事前に知らなかったので焦りました。
市役所前でバスを降りて登城口を登って行きましたが、短い距離ですが案外急な坂道で息が切れました。
石垣などは保存状態もよく楽しめるのですが、昭和30年代に「復興」されたという三重四階の天守が見るからに「なんちゃって」です。それもそのはず、もともと二重櫓が建っていた櫓台の上に三重の天守風のものを建てたとのこと。この場所が海のほうから見上げたときに一番見栄えがしたんでしょう。頭でっかちで外観上のバランスの悪いこと。
平戸は美しい街だけに、残念な「シンボル」でした。
写真左は海側から見た天守。バランスがヘンですよね。(^^;)
写真右は現存の北虎口門。
名護屋城
2014年9月13日
通算33城目。
言わずと知れた秀吉の唐入り前線基地です。いっさい「守る」ことを念頭に置いていないのですから、通常の城づくりの常識からははずれた特異な軍事施設です。たとえば通常は最も気を遣って防御の工夫をするべき虎口(曲輪への出入口)が実に開放的です。
また、天守は玄界灘に向かってこれ見よがしに建てられていたようです。ここに五重七階の巨大な天守が建っていたのかと想像するだけで、ぞくぞくします。
要するに、これから海を渡って厳しい戦いに臨む諸将を鼓舞し、また傷ついて戻ってきた者を癒すための施設だったのでしょう。
城址に隣接する「佐賀県立名護屋城博物館」は、歴史的事実、常識からは乖離した「秀吉は耄碌した加害者、朝鮮は可哀そう」というゆがめられた史観に彩られた博物館(?)です。この博物館内の解説の「どこがヘンか?」を探して歩くツアーは歴史の勉強になるかもしれません。韓国からの観光客や学者におもねっているのかもわかりませんが、双方で正しい歴史教育をしない限り、永久に真の理解はできないでしょう。
写真左はまっすぐに伸びる開放的な大手口。写真右は玄界灘を望む天守台跡地。
二条城
2014年9月20日
通算34城目。
圧巻の現存二の丸御殿は、いつ来ても歴史のオーラをびんびん発してます。
家康の将軍宣下祝賀の儀、家康がその成長ぶりに危機感を強めた秀頼との対面、慶喜の大政奉還宣言・・・。みんなここで起こったことなんですね。
天下普請の城に特徴的な直線的な縄張りは、築城の狙いが江戸幕府の圧倒的な力を世の中に見せつけるだったことを表しているようです。
天守が現存していたら古都京都の景観もまたずいぶん違ったものになったでしょうね。
写真左は二の丸御殿玄関、写真右は現存の東南隅櫓。
備中松山城
2014年10月9日
通算35城目。
現存12天守のうち最高所に建つ備中松山城に登城。
遠く室町時代から幕末まで、この地にはたくさんの城が建てられ、多くの城主が住まいましたが、最も印象深いのはあの大石内蔵助が短い期間、城代を務めていたことです。
元禄年間、ここの藩主であった安藤家が取り潰しになり、幕府の命を受けた赤穂藩浅野家の家老大石内蔵助が城受け取りにやってきたのでした。主君の家が取り潰され、城を明け渡さなければならなかった安藤家の家臣たちの無念を、大石はひしひしと感じながら城受け取りの仕事を淡々とこなしたことでしょう。まさかその数年後、殿中刃傷事件で今度は自分が城を明け渡す側になろうとは、知る由もなく。
因縁の城です。
写真左はおなじみの天守。右は城門としては非常に珍しい引き戸の扉を持つ本丸東御門。
赤穂城
2014年10月9日
通算36城目。
大石内蔵助つながりで、備中松山城から播州赤穂城へまわりました。
元禄十四年、江戸の変事を伝える早水藤左衛門、萱野三平を乗せた早駕籠が駆け込んだという大石内蔵助邸の長屋門などが現存しており、忠臣蔵の世界にどっぷりと浸ることができます。
それにしても浅野内匠頭は公式行事中にいきなり凶器を使っての狼藉、さらに大石以下四十七名は徒党を組んで、傷害事件の被害者であるはずの老人を夜分に襲撃して殺害に及ぶ。まったくテロリスト主従ですね。(^_^;)
写真左は昭和30年に復元された大手門、右は大石内蔵助邸長屋門です。
明石城
2014年10月9日
通算37城目。
歴代譜代および親藩の大名が城主となり、西国道に睨みをきかせる幕府にとっては重要な拠点でしたが、明治維新に際してはそれがかえって災いし、明石藩は廃藩置県にともなって「姫路県」に編入され、城もあえなく廃城になってしまいました。
そのときの措置が、今日まで明石市、姫路市の町の規模に影響を与えていると思います。明石にとっては避けられない運命だったとはいえ、残念なことです。
現在は阪神・淡路大震災のときに受けたダメージを修復した坤櫓、巽櫓の2つの櫓がきれいな姿を見せています。
写真は、右が巽櫓、左が坤櫓です。真ん中に見えるのは期間限定で夜間にライトアップされる「天守風」のイルミネーションのようです。なんだかなぁ〜。
姫路城
2014年10月10日
通算38城目。
子供のころから幾度となく訪れた姫路城ですが、今日はあらためて百名城スタンプをいただくために登城。
天守屋根瓦修復の工事素屋根が撤去されて以来初めてです。素屋根を取り払ってみると白鷺城ならぬ「白すぎ城」などと揶揄されて逆に話題になりましたが、なるほど今回修復されなかった小天守と比べると屋根の白さは際立っていますね。
ただこの白さも今だけ。漆喰は1年も経てば変色が始まり、何年かすればまたもとの色に戻るようです。白すぎる天守を今のうちに楽しみたいと思います。
現在は本丸の大部分はまだ工事のために立ち入り禁止なので、今日のところはさらっと外回りを眺めて退散。来年3月以降天守が修復完了したらまたゆっくりと来ます。
写真左は「たしかに白すぎ城」、右は「クレーンとのツーショットもあとわずか」
竹田城
2014年10月10日
通算39城目。今や大人気の観光地と化した竹田城に登城。
高倉健主演の映画「あなたへ」のロケ地になったことと、地元観光協会のプロモーション「天空の城」「日本のマチュピチュ」のキャッチコピーが効果ありすぎて、連日ものすごい数の観光客が押し寄せています。
山城の常として登城は体力勝負。車で行ける一番上の駐車場からでもさらに徒歩で急な上り坂をたっぷり20分は歩かなければいけません。
秀吉が生野銀山確保のために直接指示をして築かせた城で、かつ関ヶ原の年には早くも廃城になっているので、江戸時代の手は一切入っていない、すなわち戦国時代最後の穴太衆による石垣づくりの技術がつぶさに見て取れる貴重なお城です。
「石の声を聞いて、石が積まれたがっているその場所に石を置く」という、往時の名匠の技をじっくり見て、感じることができました。近年の石垣補修工事も、わざわざ滋賀県から穴太衆の末裔の石工さんを招いて行なっているそうです。
写真左は有名な写真スポット、右は映画「あなたへ」で田中裕子さんが童謡の野外コンサートを行なったロケ場所です。
鳥取城
2014年10月10日
通算40城目。
羽柴秀吉の「飢(かつ)え殺し」の舞台、鳥取城に登城。
秀吉陣営の事前の周到な準備によって、籠城側の兵糧は城を包囲された時点で1か月分ほどしか蓄えがなかったのに、なんとそれから4か月も持ちこたえた、とのこと。草木や蛙、とかげの類いはもとより、餓え死にした味方兵の人肉まで食べて餓えをしのいだ、と言います。
でも、結局最後は城主吉川経家の切腹によって開城することになったわけで、「そんならもっと早く切腹せえよ!」という感じですが、その時点では毛利の援軍が到着することを信じていたんですね。リーダーの判断ミスが大きな犠牲を生む典型的な例ですね。
高石垣が見事です。
写真左は昭和50年の台風で大破し復元された西坂下御門、右は石垣のはらみを防ぐために作られた巻き石垣という珍しい石垣。2012年に復元されたものです。
松江城
2014年10月11日
通算41城目。
現存12天守のうちのひとつ、松江城に登城。
ここは慶長年間の後期、関ヶ原と大坂の陣の間の時期に建てられた城で、天守はがっつり戦闘様式。関ヶ原で東軍に与した堀尾吉晴が浜松城からここに移封されて築いたのですが、何しろ関ヶ原後長門の国に押し込めた毛利家に対する最前線ですから、まだまだ気を抜くことのできない状況だったでしょう。
ただ、城下の縄張りを見る限りはずいぶんゆったりとした造りで、もし攻められたら本当にこれで守りきれるのかな? とちょっと不思議に思いますが。
写真左はおなじみの天守、右は復元された太鼓櫓。
津山城
2014年10月11日
通算42城目は美作津山城です。
信長の小姓3兄弟の弟で森家六男だった忠政が、本能寺の変で兄たちが一挙に死んでしまったために想定外に家督を継ぐことになり、その後秀吉、家康の世をうまく渡って人生の最後に築いた一大城郭です。
さほど広くもない城域に、往時は櫓37、門28が林立していたと言います。さぞ壮観だったでしょう。森忠政が九州に密偵を送ってまで似せて築きたかった、という小倉城を模した五層の層塔型天守も現存していたら歴史的な価値は大きかったでしょうね。
約10年前に復元された備中櫓は、櫓でありながら屋内は御殿様式を残す珍しい建物で、当時の史料に基づいた真面目な復元の仕事は好感が持てます。
写真左は備中櫓、右は巨大な天守台です。
首里城
2014年11月4日
通算43城目。首里城登城。
10年以上前に一度来たことはあるのですが、久しぶりに来てみると正殿内部などはずいぶん修復が進んで見やすい展示になっていました。
正殿に向かって左、沖縄サミットの晩餐会会場にもなったという北殿は内部にミュジアムショップがあり、城の復元建物としてはコンクリート造り、外観のみ木造というさほど注目するようなものでもないのですが、内部に、正殿前で行なわれた中国皇帝の名において琉球王を任命する「柵封式典」のジオラマが展示されていました。なるほど、琉球は当時、中国の属国のひとつでしかなった、それを受け入れることでしか琉球の生き残る道はなかったのだな、ということがひしひしと伝わってきます。
守礼門からごく近い場所にある琉球王一族の墓所、玉陵(たまうどぅん)への参拝もお勧めです。
写真左は首里城正門側の第二の門で琉球風櫓門の「瑞泉門」です。門の傍らに「龍樋(りゅうひ)」や「冊封七碑(さっぽうしちひ)」など見どころいっぱいです。
写真右は通用門であった「久慶門」です。現在は有料地域から出口専用の門として使われています。
中城城
2014年11月5日
通算44城目。中城城に登城。
琉球史上の有名人(だけど一般の日本人にはあまり知られていない)護佐丸の居城です。
戦闘指揮能力のみならず、築城術にも長けた護佐丸は、さしずめ「琉球の藤堂高虎」でしょうか。
勝連城主である阿麻和利の琉球王への讒言によって謀反の濡れ衣を着せられ滅亡させられますが、直後に讒言した阿麻和利も琉球王によって攻め滅ぼされます。
最近の研究では、護佐丸も阿麻和利も力をつけ過ぎたために、警戒した琉球王が理由をつけて滅ぼしたのではないか、という見方も出てきているようです。。
15世紀中ごろ、日本本土ではまだ室町時代、応仁の乱が勃発するより前の話です。
現存石垣が、琉球の城独特の美しい孤を描いています。
今帰仁城
2014年11月5日
通算45城目。今帰仁城登城。
こちらは琉球が北・中・南部に三分裂していた14〜15世紀に、北山王の拠点となっていたお城です。
中・南部のお城と大きく違うところは、石垣に使われている石材がもろい琉球石灰岩ではなく、もっと固い古生岩であること。石の耐久性は増すものの、加工はよりむずかしいものと思います。日本本土がまだ南北朝だった時代に、これだけの高石垣を築造するだけの財力と技術を持った領主が、この琉球という小さな島で割拠していたことにあらためて驚かされます。
なお、100名城スタンプは入場券券売所でもある「今帰仁村グスク交流センター」の窓口で押すことができますが、わたしは最初間違って隣接する「今帰仁村歴史文化センター」(名前が紛らわしい)に入って受付で尋ねると、窓口の女性は関係ない(おそらく今帰仁城独自の)スタンプを教えてくれました。うっかり押すところだった。もう一度確認したところ、事務所のほかの男性に尋ねてやっと隣りの「グスク交流センター」にあることがわかりました。
100名城、ここでは案外知名度がないですね。(^^;)
千早城
2014年11月13日
通算46城目。
朝一番で、近鉄河内長野経由南海バスで行ってきました。
たまたまこの冬一番の冷え込みにあたったため、さほど厚着していかなかったわたしは震え上がってしまいました。11月以降春先までの登城には、防寒具の用意が必要かと思います。
皆さんご指摘のように登城ルートは2か所ありますが、やはりこのサイトでの皆さんのご忠告にしたがって登りは「まつまさ」横の裏参道から、下りは金剛登山口バス停の少し先に降りてくる階段の表参道を選びました。
写真左が裏参道の千早城と金剛山の分岐点のところ、右が表参道を降りきったバス道からの眺めです。

「太平記」に描かれている、ここ千早城での楠木正成の大活躍はいくらなんでもオーバーな表現が多くて史実としては眉唾物ですが、少なくともこんな小さな山城に数十日もの間鎌倉幕府軍を足止めさせたことが、幕府転覆への引き金になったことは間違いなく、歴史の転換を演出した場所であることに間違いはないでしょう。
会津若松城
2015年1月22日
通算47城目。
積雪60cmほどの中、鶴ヶ城に登城しました。
せっかくの赤瓦も真っ白、城内でも通行禁止のところが多く、ほとんどスタンプをもらいに行っただけのような印象でした。
ただ、天守内で展示物の案内をしてくださる若い女性のスタッフの方は会津に対する愛情がほとばしるような説明で、歴史についての造詣も深く、とても感心しました。
また夏場に出直したいです。
やはり北のお城は冬場に行くものじゃないですね。
飫肥城
2015年1月27日
通算48城目。
伊東氏とお隣りの島津氏が80年以上にもわたって獲ったり獲られたりして、最後は秀吉による九州平定で伊東氏が安堵を受けて幕末まで守り抜いたお城です。
立派な杉の木と苔むした地面が美しい本丸跡(写真左)はマイナスイオンいっぱいで、実にすがすがしいです。
歴史資料館(写真右)の展示も充実しています。伊東氏の家紋はもともと九曜だったのですが、肥後熊本に加藤氏のあとに入封した細川氏が同じ九曜だったことから、伊東氏は大身の細川氏に遠慮して、なんと外側の小さい丸をひとつ増やして「十曜」にしたそうです。こんなところにも、五万石という小藩ながら280年もの長きにわたる安定を築いた知恵があるのかも知れません。
鹿児島城
2015年1月27日
通算49城目。
「薩摩は城を以て城と為さず、人を以て城と為す」の島津家の遺訓の通り、この本城と呼ばれる鶴丸城単独で見るとさほどの堅城、というほどの構えは見て取れません。しかし、薩摩藩内に110以上の「外城(とじょう)」と呼ばれる支城のネットワークが張り巡らされ、国全体で防御体制を固めていたのでしょう。
付設の県立歴史資料館「黎明館」(写真左)はものすごく立派で展示内容もたいへん充実していますが、とにかく「日本の近・現代の発展にいかに薩摩出身者が貢献したか」という「郷土偉人自慢」が激しいです。(^^;) 会津出身者などはご覧にならないほうが・・・。
長州とともに維新を推進した立役者なのに西南戦争で敗れた、という歴史的なトラウマが過剰なまでの郷土愛として今日まで受け継がれているのかなぁ、と思えて、それはそれで興味深かったです。
写真右は、本丸石垣の鬼門角にある切欠き石垣です。
人吉城
2015年1月28日
通算50城目。
鎌倉時代に遠江の相良(今の牧之原)からこの地に移り住んで以来、数々の危機も乗り越えて幕末までここで家を守り抜いた相良氏の居城です。北の肥後熊本と南の薩摩の2大強国に挟まれたこの地で生き長らえたことだけでも驚異です。
人吉城と言えばコレ、とお城ファンには有名な石垣最上段の「はね出し」ですが、石垣を登ってきた敵を跳ね返すための防御設備ではなく、防火のための工夫だったとか。知らなかった!
歴史館の地下に遺構が残る「穴蔵井戸」はその用途、意義がまったく解明されておらず、謎がいっぱいです。近年では「キリスト教の洗礼、沐浴のための施設だったのでは?」という珍説も飛び出しているとのこと。実に興味深いですね。
小さいながら見どころいっぱいのお城でした。
写真左ははね出し石垣、写真右が穴蔵井戸です。
熊本城
2015年1月28日
通算51城目。
熊本城は見どころ満載で半日ではとても回りきれません。少なくともここだけで丸一日はほしいですね。今回は時間の都合で熊本市役所展望ロビーからの景観を楽しむことができなかったので、次回は是非行きたいと思います。
復元された本丸御殿は見事ですね。中でも「王昭君の間」は必見の価値ありです。
ちょうど天守前にいたイケメンの加藤清正公からご挨拶いただきました。
熊本城に一万円以上の寄付をして「一口城主」になると、登城するたびに清正公をはじめおもてなし武将隊の面々が「殿(または姫)、ようこそお帰りくださいました。」と迎えてくれるそうですよ。
広島城
2015年3月17日
通算52城目。
天守の建物自体は昭和の再建であり、真面目な再建ではあるもののさほど歴史的な価値はないのですが、天守内部の展示には驚きました。
日本のお城一般の知識から広島城に特化した情報、さらに民俗学博物館のような常設展示、また特別展なども勉強になり、実に楽しめました。
建物自体が価値を持つ現存天守は別として、全国に点在するいわゆる「なんちゃって」天守の展示は、この広島城を見習ってほしいですね。
郡山城
2015年3月18日
通算53城目。
後日アップします。
福山城
2015年3月19日
通算54城目
後日アップします。
鬼ノ城
2015年3月19日
通算55城目。
後日アップします。
岡山城
2015年3月20日
通算56城目。
後日アップします。
島原城
2015年4月20日
通算57城目。
後日アップします。
岡城
2015年4月21日
通算58城目。
後日アップします。
大分府内城
2015年4月22日
通算59城目。
後日アップします。