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メンバー情報

ID1440
名前左近将監
コメント気力・体力・金力の続く限り、精進します。

●ご当地定番お土産銘菓ベスト10
1位 御栗タルト(愛媛)
2位 パティシエのりんごスティック(青森)
3位 南部せんべい(岩手)
4位 吉原殿中(茨城)
5位 雷鳥の里(長野)
6位 川通り餅(広島)
7位 かるかん(鹿児島)
8位 荒城の月(但馬屋)(大分)
9位 エトピリカのたまご(北海道)
10位 ちんすこう(沖縄)
番外 げたんは(鹿児島)
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
松本城
2009年11月21日
城の近所にある旧開智学校まで歩いては5分ぐらいです。
上田城
2009年11月22日
城内にある上田市立博物館には、仙石秀久所用の甲冑があります。
赤穂城
2009年12月26日
赤穂駅内の土産物屋には、四十七士に扮したキティちゃんをあしらったクリアファイルがありました。
姫路城
2009年12月27日
西の丸からのアングルは、よくポスターなどに使われているようですが、案外、人が少なかったです。
明石城
2009年12月27日
大手門側から見て、反対側の堀から見る石垣もなかなかです。
高知城
2010年1月9日
高知城を写した写真でよく見るアングルですが、撮影ポイントは修復作業中のため立ち入り禁止でした。
宇和島城
2010年1月10日
宇和島城から歩いて5分ぐらいの市立伊達博物館も見応えがあります。
大洲城
2010年1月10日
復興天守はもちろん、それに連結した櫓も漆喰が塗り直されてまぶしく、期待していた以上に美しかったです。
松山城
2010年1月11日
「登り石垣」を見るには、県庁裏側の登城口から入りますが、なかなかの急坂です。
湯築城
2010年1月11日
公園内中央部の丘上に展望台がありますが、低いせいか、見晴らしはいまいちです。
人吉城
2010年2月6日
全国的にも珍しい「武者返し石垣」を見に熊本駅から特急列車に
揺られること1時間半、球磨川の急流を車窓に眺めながらの旅は
風情がありますが、件の石垣は「全国的に珍しいのだ」と自分に
言い聞かせながらの鑑賞となりました(他意はありません)。まあ、
何といいますか、城を楽しむというよりも、「城のある風景」
を味わう城でしょうか、ということでまとめてみました。
熊本城
2010年2月7日
本邦城郭の横綱、熊本城。剛毅にして優美、その威容に圧倒されま
す。特に二の丸広場から遠望する三役揃い踏みの姿は「来るなら、
来い」とでも言わんばかりの凄みを利かせています。むろん、堀端
から眺める宇土櫓の迫力は、石垣萌えなら失神必至の雄々しさです。
箕輪城
2010年2月20日
武田信玄の度重なる侵攻を撃退し、上杉の孤塁を守った名将・長野業正の
居城として戦国好きにはおなじみの城です。かの信玄も手こずった深い堀
は、さもありなんと思わせる深さと鋭さです。がしかし、現状、城跡は野
放し状態なので、見所の堀も鬱蒼と茂る木立が邪魔して、その凄さが伝わ
らない恨みが残ります。ゆくゆくは史跡公園として整備していく計画(関
係者の夢?)のようですが、実現が待たれます。とはいえ、ここは上杉、
武田、北条が角逐した激戦地であり、廃城感たっぷりの今の風情は、それ
はそれで“夢の跡”の趣があるといえば、ありますが…。
鉢形城
2010年2月20日
至る所に三つ鱗(北条氏の家紋)が現れる鉢形城。現在は史跡公園として
整備され、訪城時は二の曲輪の芝生で親子連れがボール遊びをしていまし
た。戦国時代にこうだったかというと、そんなはずはないでしょうが、芝
が敷き詰められた城跡は城郭とは別種の美しさがありました。異論もある
でしょうが、価値ある文化財に乏しい「史跡」を後世に伝えるためには、
歴史性に配慮しつつも、地域社会に活用の場を提供するしか道はないのか
なと感じました。ちなみに、県指定名勝の玉淀は、鉢形城の入り口にあた
る正喜橋から歩いて10分ほどの距離です。鉢形城の後堅固ぶりと同時に
荒川の渓谷美が楽しめます。
水戸城
2010年3月13日
みなさんの報告によれば、見所少なしとの由。ならば…、ということで人混み覚悟で最盛期の偕楽園に観梅がてら、“ついで”に登城してきました。偕楽園は、さすが天下に聞こえた梅の名所、満開ということもあり善男善女でごった返しておりましたが、水戸城はいたって平穏でした。で、水戸城ですが、要するに弘道館です。重要文化財の建築物は、水戸学の拠点にふさわしい質実な威容を今に伝えております。その弘道館から10分ほど歩いたところに、水戸城唯一の建築遺構たる薬医門があり、その手前に、現在はJR水郡線が走る深い空堀があります。まあ、鑑賞ポイントはざっとこんなところですが(他にもないわけではないですが)、いずれにしても、もともと天守閣はおろか石垣もなかった城なわけで、とても御三家の居城とは思えぬ簡素な造築ぶりに、いささか驚きました。
掛川城
2010年3月20日
城域はこぢんまりとまとまっていて、天守は、なるほど高知城を小ぶりにした雰囲気です。特に破風がつましく、6万石の大名たるおのれの分を知った造築です。これが国持ち大名の居城たる高知城になると、これ見よがしに勢威を誇示するようになりますが、掛川時代の山内一豊は身の丈に合った天守を心がけたかのようです。天守台の石垣は、そこだけ古色蒼然としていて異質な雰囲気を湛えているのですが、スタッフの方の話では遺物を使用して積み上げたとのことです。積み上げ方が、往時よりも上手なように感じます。天守内の案内放送では、しきりに「二の丸御殿は二条城などとともに現存4御殿の一つ」といった内容のフレーズが流れていましたが、こと御殿に関しては、こちらも現存御殿の一つですが、高知城のそれよりも風格があったように思います。
岡崎城
2010年3月20日
正直なところ、かなり「がっかりな城」でした…。がっかりポイントを羅列すると、

○天守前の木が邪魔(風情はありますが)
○天守最上階の展望回廊が目障り(眺望は最高ですが)
○水堀の噴水が興醒め(水質維持に役立っているのかもしれませんが)
○“植物園”と化している空堀が哀れ(管理するとなると大変そうですが)
○水堀に掛かる朱塗りの橋が陳腐(歓迎の意気込みは伝わりますが)

といったところです。途中から、ここは憩いの市民公園なのだと気分を換えて散策しました。まあ、史跡としては残念な岡崎城ですが、公園としてはなかなか居心地のいい場所で、ケチをつけつつも、園内には売店や飲食店などもあったりするので、なんやかや3時間ほどそぞろ歩きしました。岡崎には徳川家ゆかりの寺社なども多いようなので、機会があれば、そちらメインで再訪してみたいと思います。
長篠城
2010年3月21日
長篠城と言えば、鳥居強右衛門の英雄譚が有名ですが、鳥居が夜陰に乗じて降りていった崖下、宇連川と豊川の渡合(合流点)が間近に見えるその崖下まで、城跡南端の野牛郭から降りていけます。慎重を期せば大丈夫ですが、一応、断崖なので身の危険を感じる場所ではあります。途中までは道(のようなもの)があり、途切れた先は道なき道を進む格好になりますが、案外、簡単に川面まで行けます(木々が繁茂する時季だと難しいかも)。流れの速い宇連川に豊川が渦を巻きながら飲み込まれていく景観は、なかなかスリリングでした。特にこの日は前夜の大雨のせいか水勢が強く、よりいっそう迫力があったように思います。そして、この川を鳥居強右衛門が泳いでいったのだと想像すると、胸に迫るものがありました。
駿府城
2010年3月22日
早い話、公園ということで、さほど期待感もなく訪れたのですが、意外に楽しめました。中堀の石垣の上が一部、遊歩道になっており、公園ならではの遺構の扱いに、どこか釈然としない思いを抱きつつも、なかなか体験できることではないので、まあ、それはそれでと割り切って歩きました。駿府城で特筆すべきは、やはり隣接する県庁別館・展望ロビーからの眺めでしょうか。あそこまで高所から俯瞰できるビューポイントを持つ城など、多くはないでしょう。ここから眼下に目をやると、ところどころに残る遺構を手がかりに、外堀、中堀、内堀と三重の堀をめぐらした輪郭式の縄張りが手にとるようにわかります。目の前に立体の城郭図が現れた感じで、“なるほど、こうなっているのか”と思わず膝を打ちます。ここは、他にはない特異な観賞体験が味わえる城でした。
和歌山城
2010年4月10日
御三家・紀州徳川家の居城、和歌山城。南海鎮台とでも呼びたい堅牢ぶりが印象に残ります。見所として第一に挙げたいのは、地元産の緑がかった石をふんだんに使った石垣です。荒々しく積み上げられた石の造形に、(彼の入城前に築造されたものでありながら)「南龍公」と呼ばれた初代"暴れん坊"藩主・徳川頼宣の気風を彷彿とさせる、豪放な雰囲気を感じます。とりわけ、西の丸庭園の長塀と本丸の石垣が対峙する風景は独特な情緒をたたえており、そこだけ何か異空間のような感覚にとらわれました。また、ここは石垣に「転用石」を数多く用いていることでも知られています。天守郭に多く見られるとのことで(案内板などはありません)、乾櫓の石垣隅部に一番有名(?)なもの(宝篋印塔の台座)がありますが、まあ、見つけたからと言って、「だから何だ」的なものではありますが…。
丸岡城
2010年4月24日
安土桃山時代の築城とも言われる丸岡城。この城で思い出すのは、子ども時分に観た映画『戦国自衛隊』です。天守を舞台にした迫力のシーンが未だ脳裏に焼き付いています。この映画は、自衛隊が演習中、戦国時代にタイムスリップし、○○を××して△△、そして□□するという、まあ、そんなストーリーですが、劇中、古式ゆかしい天守の周りをヘリコプターがビュンビュン旋回するは、天守内ではアクション映画並のチャンバラが展開するはで、それがまた、丸岡城の無骨な面構えにマッチして、魂を鷲づかみにされた思いを抱いたものです。…と、記憶の中では、確かそんな感じだったのですが、今、映画を見返してみると、やはり重要文化財、ヘリはおっかなびっくり、わらわらと天守に近づくだけで、“迫力の”とは形容し難いまったくもって腰砕けな映像がそこにはありました。それはそうでしょうねえ、万が一、傷つけようものなら、プロデューサーは切腹ものですからねえ。ちなみに、このシーン、「YouTube」にアップされています。
金沢城
2010年4月25日
●百万石パワー その1「菱櫓」
かたちが菱形であることに由来する名称ですが、外見を一瞥しただけでは、そのようなかたをしていることは瞭然とはしていません。にもかかわらず、菱形に造築するには高度な技術が必要とのことで、もちろん視野角が大きくなるなど軍事上の効能は期待できるのですが、単なる「これ見よがし」のようで、百万石の余裕を感じます。

●百万石パワー その2「大手門の石垣」
石がデカいです。これだけ大量の巨石を集められる力、やはり並ではありません。現代人ですら驚くわけですから、安土桃山時代だの江戸時代だのの人からすれば、腰を抜かすほどの威力を持っただろうことは想像に難くありません

●百万石パワー その3「申酉櫓下石垣」
金沢城というと、どうしても建築物に目が行ってしまいますが、石垣も見逃せません(城内にある案内チラシに見所が書かれており、非常に参考になります)。なかでも、この申酉櫓下から眺める石垣群は圧倒的で、折れ重なったように見える様は、友禅染のそれとはまた違う、異形の美しさがあります。
小谷城
2010年5月2日
●小谷城の合戦三景 その1「大嶽」
小谷城の反対面の峰の最高部に大嶽砦がありました。浅井家救援に来着していた朝倉勢が守備するここを、暴風雨の中、不意を突いて信長が急襲し、奪取します。慌てて逃げる敵を追撃し、一乗谷もろとも壊滅させることになるわけですが、朝倉百年の栄華の、あっけない終わりの始まりはここが起点でした。

●小谷城の合戦三景 その2「京極丸」
朝倉を滅ぼした後、信長軍は小谷城下を制圧。小谷城への攻撃は、豊臣(木下)秀吉勢が斜面をよじ登り、京極丸を落とすところから始まりますが、縁に立って(この場所は未整備ですが)斜面を眺めると、具足を着けて槍を持って、よくもまあ、こんなところから…、という感慨に捕らわれます。戦後、秀吉は浅井領を与えられ、大名に出世します。

●小谷城の合戦三景 その3「赤尾屋敷」
本丸を逃れた浅井長政は、直下のここで自刃を遂げ、浅井家の歴史が終焉するわけですが、彼のDNAは娘たちを通じて、豊臣秀吉へ、旧主の京極家へ、徳川将軍家へ、さらには天皇家へと伝わります。家名は残らなかったものの、ある意味、長政は勝ち組なのかもしれません。
安土城
2010年5月3日
天下人の居城、安土城。とはいえ、秀吉や家康のような天下普請で築城したわけではないので、版図に応じた城をイメージしていたのですが、さすが上様、予想を超えたスケールでした。石畳の大手道を始め、安土山の至る所に石垣があり、その様は城跡というより遺跡、何か神殿の跡のような雰囲気に満ちていました。というか、安土城天主は、ある意味、神殿そのものだったわけで、他の城にはない厳粛な霊気が漂っていたようにも感じました。ところで、安土駅の駅前に安土城郭資料館なるものがあるのですが、単なる観光案内所かと思ったら、200円の入館料を取られたのにはびっくりしました。下の写真にある安土城の精巧な模型などもあり、まあ、損した気分はしませんでしたが、そういえば、信長も礼銭を取って家臣たちに安土城を見物させていたので、先例に倣ったといったところでしょうか。で、あるか。是非に及ばず。
金山城
2010年5月15日
「戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はない」という城郭史の定説を覆したとされる金山城。復元された石畳や石塁(石垣土塁)を満載した城跡は、関東はおろか、ここは日本なのかという思いに駆られるほど、特異な景観を呈しています。しかしながら、あまりにも端正な復元ぶりなので「やり過ぎではないか」との印象が拭えないのも事実です。地元の太田市によれば、復元は“推定”を含むものの、専門家の調査を元に公的機関の許可を得て実現されており、決して想像の産物ではないとの弁明です。まあ、関東といっても、このあたりは関東平野の周縁部分なので、そもそも「(石の産出に恵まれない)関東=本格的な石垣はない」という図式が当てはまる土地でもないわけで、復元されたごときの造築物が戦国時代にあったとしても、不思議ではないのかもしれません。
足利氏館
2010年5月15日
史跡としての価値を認めるのにやぶさかではありませんが、ここは寺以外の何ものでもありません。寺側も、「名城」などと呼ばれて困惑しているのではないでしょうか。二引の紋が足利氏との縁を感じさせはしますが、この場所にそれ以上の興味深いエピソードがあるわけでもないので、隣接する金山城の“おまけ”として足を伸ばす以外にここを訪れる理由を探すのは大変です(と言ってしまっては、まあ、言い過ぎですが)。ただ、寺の近くには足利学校跡があり、往時の建物が復元されていたりしますので、セットで参拝する分には悪くはないですが、ここら一帯が観光エリアとして整備されていることもあり、週末は意外と人出があるようです。
弘前城
2010年6月6日
●「重要文化財と滑り台」のミスマッチ
本丸周辺の有料区域を除く城域が公園とされ、市民に利活用されている弘前城。重要文化財の櫓の直下に、ちんまりと遊具が置かれていたりします。別にここじゃなくてもなあ、と部外者は思うわけですが、まあ、弘前市なりの事情があるのでしょう。願わくば、津軽っ子よ、心身ともに健やかに育っておくれ。

●「重要文化財と赤い橋」のミスマッチ
天守手前の橋は藩政時代から朱塗りとのことで、往時の再現ではあるのですが、微妙に安っぽい感じが残念です。それ以上に残念なのは、堀端の桜が天守を隠蔽し、鑑賞の阻害物と化している点です。ソメイヨシノなんて江戸時代にはなかったし、別にここになくてもなあ、と部外者は思うわけですが、まあ、弘前市なりの(以下略)。

●「重要文化財と土塁」のミスマッチ
江戸時代の築城でありながら石垣は本丸にしか存在せず、そこかしこに築かれた土塁の景観は、近世の城郭としては特異な印象を残します。少ない石垣の中に、「鬼門崩し」と称される興味深い造築物が現存しています。ダイナミックな鬼門除けですが、崩れたように石を積む、という離れ技を演じています。
犬山城
2010年7月16日
古式ゆかしい望楼型の天守は、人々の素朴な「天守閣」のイメージに沿うものでもあるのか、模擬天守をデザインする際の模範にもなっているようで、“犬山流”とでも呼びうるフォロワーたちを生み出しています。そんな由緒正しい天守の片隅に、へばりつくようにして付櫓が連結しています、何だか、城主だった成瀬氏の「(尾張藩)付家老」というポジションを象徴しているかのようで(失礼御免)、可笑しいやら切ないやらですが、残念ながら、遺構は天守以外はほとんどありません。がしかし、天守だけでも眼福にあずかること請け合いです。ところで、天守最上階に赤い絨毯が敷かれていたりするのですが、これは江戸時代にオランダ商館からプレゼントされたものだそうです(今あるのは、さすがにその現物ではないとは思いますが)。
岐阜城
2010年7月16日
岐阜城は、要するに“観光天守”なので特に期待はしておらず、今回の岐阜行の最大の目的を「黄金の信長」像の見物に置いていたのですが、登城前に信長居館跡の発掘調査の現場を見学できたのは幸運でした。ボランティアのみなさん(たぶん)が、蒸し暑い中、しゃがみこんで丹念に土を払う作業を黙々と行っていました。郷土を愛する人たち(おそらく)の、こうした地道な努力によって私たちは往時の姿を知ることができるわけで、その熱意にひたすら敬服します。そんなフレンドリーな思いを抱きつつの登城だったので、信長居館をイメージしてデザインしたとされる(たぶん)観光天守も、何がなし味わいのあるものに感じられました。
名古屋城
2010年7月17日
あんこ型と言おうか天むす型と言おうか、幅広な天守の結構は圧倒的な重厚感を持っており、さすが“城で持つ”と謳われただけの威風堂々たる佇まいです。御三家筆頭の居城にふさわしい風格が漂っていました。どのアングルから見ても絵になる天守です。それにしても、今回、特に感じたのは加藤清正の人気の高さです。確かに、地元出身でも、織田信長=岐阜・安土、豊臣秀吉=大阪、前田利家=金沢、福島正則=誰?、なので、他の都市との強い結びつきがないがゆえの結果でもあるのでしょうね。そういえば、少し前、こちら東京では、「清正井(きよまさのいど)」と呼ばれる場所が「パワースポット」として人気化しましたが、清正の手になる天守石垣をつらつら眺めていると、清正には何か不思議な霊力があるような気がしてきて、そのあたりにも人気の秘密があるのかなと感じました。
山形城
2010年8月11日
数十年がかりの遠大なプランで復元整備が進む山形城。訪れた日も、炎暑の中、本丸土塁上で重機が稼働していました。往時の姿が甦る日が来ることを、山形市民の皆さんとともに願うばかりです。とはいうものの、戦国好きにとって山形城といえば、何と言っても最上義光像です。全国的な知名度はありませんが、名門の出身らしく、文雅の才にも秀でた武将として、戦国ファンにはつとに有名です。この人の後半生は苦難に満ちていました。愛娘を権力者に強奪され、揚げ句、処刑されたり(豊臣秀次事件)、上杉の大軍を一手に引き受けざるを得なくなったり(慶長出羽合戦)、没後、血で血を洗う家督争いが起こったり(最上騒動)と、運命にもてあそばれたかのようです。が、こうしたもの悲しいエピソードがあったればこその、立派な銅像とも言えるので、虎将・最上義光、死して名を残したといったところでしょうか。
二本松城
2010年8月12日
奥州探題・畠山氏によって築かれ、その後、時を経て、名築城家・丹羽長秀の孫にあたる丹羽光重の手によって本格的な近世城郭へと生まれ変わった二本松城。近世の城づくりに活躍した石工集団・穴太衆によって積まれた本丸石垣は、戦禍や風化による崩落が進んだため土の中に埋蔵し、その外側に、新たに穴太衆の末裔たちによって現在見る石垣を積み直したとのことです。幾分、洗練されたかたちで往時の姿を現代に甦らせています。本丸直下には、丘陵頂部を覆うように蒲生氏時代の石垣が一部、現存していますが、これらの石垣群から想像すると、往時はかなり堅固な様子であったことがわかります。そんな興味深い二本松城ですが、今回、折からの台風の影響で強雨に降られ、駆け足での見学を余儀なくされたのが残念です。いつか再訪のチャンスが来る日を二本松。
白河小峰城
2010年8月13日
築城者の丹羽長重は関ヶ原の負け組でありながら、最終的には10万石の大名に栄進するという幸運を生きた武将ですが、それはほかならぬ優れた築城術のしからしめるところでした。「対伊達」の拠点として、幕府の期待に応える仕事をしましたが、彼の父、丹羽長秀は「信長の城」の築城奉行として実務を指図し、あの安土城も長秀あったればこその名人でした。この信長―長秀ラインは、のちの江戸城や日光東照宮の造営に指導者として携わる人材を多く輩出していたりするのですが、その意味では、「直系」たる長重の手になる白河小峰城は、こうした城郭史の本流の中に位置づけられうる城といっていいかもしれません。その資格を十分に備えた名城です。一般観光客から城郭マニアまで、あらゆるレベルの好奇心を満足させてくれる希有な城です。ただ、残念なのは、整備が進んだ城域南面に比して、北面が放置されたままの状況であることです。致し方ないところもあるかとは思いますが、これからの復興事業に期待します。
萩城
2010年9月18日
●三址の眺め その1「雁木」
本丸にある長大な雁木(石段)は全国的にも希有な遺構だと思いますが、至るところ雁木あり、の風情で、これほど数多くの雁木を備えた城は珍しいのかもしれません。築城者の毛利輝元は強迫観念にでも取り憑かれていたのか、この偏愛ぶりはいささか面妖な感じです。

●三址の眺め その2「残念石」
詰丸へは急峻な坂路を登っていくので、そこそこ膝が笑います。しかも、踏破の暁には絶景を堪能できる、などというご褒美もないので、マニア以外はパスするのが賢明ですが、ここでは矢穴(石垣用の石を割り採るための鑿穴)のあいた残念石(放置された石)を拝めます。珍奇な遺物が無造作に置かれている様は、妙にマニア心をくすぐります。

●三址の眺め その3「日本海のパノラマ」
洞春寺跡、妙玖寺跡を抜け、さらに藪の奥へと進むと、日本海に向かって開けた場所に出ます。ここから眺める風景はなかなか見事です。左手には美しい砂防林の浜辺が、中央には明媚な群島の島影が、そして右手には雄大な奇岩の景勝が遠望できます。360度の、とまではいきませんが、240度(?)ぐらいの一大パノラマを楽しめます。
津和野城
2010年9月19日
みなさんの報告によれば、竹田城を彷彿させるとの由。かの城は未訪問ですが、なるほど、平坦な山頂部に石垣が屹立する様子は、「天空」的な雰囲気に満ちています。地上に目をやれば、山陰の小京都と称せられる津和野の町並みが見晴るかせ、茶色で統一された甍の波は、鯉が泳ぐ堀割よりも美しく感じられました。運がよければ蒸気機関車の雄姿が遠望できます。面白いことに、津和野城は天守台が本丸(三十間台)よりも低い位置にあります。そんな津和野城を描いた絵図を見ると、5万石程度の小大名には過分とも思える堂々たる結構ですが、案内リーフレットには、幕府による「対毛利」の意図があったようだとの説明があり、この地に、かつて毛利と敵対した坂崎直盛(宇喜多詮家)が置かれたことも、その一端なのかという気がします。坂崎と言えば、千姫(強奪)事件の主役、というか悪役で、一件に関する振る舞いを含めて、とかく評判のよろしくない人物ですが、鯉の養殖を奨励したのが彼だそうで、地元ではそこそこ好意を持たれているのが意外でした。
久保田城
2010年10月31日
多くの関東国人衆が零落する中で、北条と伊達を敵に回しながらも大大名として近世に名を留めた、鎌倉以来の名門・佐竹氏。ここ久保田城にある佐竹史料館には、戦国好きなら武者震い必至の、初代秋田藩主・佐竹義宣と彼の父、「鬼義重」こと佐竹義重の甲冑が展示してあります(常設ではないかもしれませんが)。熊毛をふんだんに使った、世に「毛虫の兜」などと呼ばれているものです。“後ろへは引かぬ”という気魄を毛虫に託したわけですが、久保田城は、そんな板東武者の無骨な魂を宿した城です。石垣を一切、用いない土塁の城郭は、一見、「自然公園」の趣ですが、縄張りを丹念に見て回ると、よく練られた意図を具現化した、複雑かつ鉄壁の防御施設であることがわかります(ま、基本、土塊なんで複雑にしないとものの役に立たないわけですが)。惜しむらくは、山形では最上義光が郷土の英雄として扱われているのに比して、佐竹の扱いが軽いことです。もう少しフィーチャーしてもらえると戦国好きには久保田城の付加価値が増すのですが、元秋田市長でもあった現知事が一門の末裔の方なので、当面、それも難しいのかもしれません。
高岡城
2010年11月20日
高岡城は、初代加賀藩主・前田利長の隠居城として造築。縄張りは高山右近の手によるものとされ、馬出的な曲輪群を以て本丸を囲うようにデザインされています。曲輪間には余すところなく水堀が張り巡らされており、現在は、高岡古城公園として、地元の高岡市が「水濠公園」と称するのも頷ける、水と緑にあふれた憩いの場となっています。訪れた日は紅葉シーズンたけなわでもあり、水面に色を落とす樹々の美しさに感嘆することしきり。秋の風情を満喫しました。そんな高岡城ですが、明治初期には開発計画(開墾目的の払い下げ計画)があり、先見の明ある人たちの熱意によって公園として残すことに成功したとの由。とかく公園化されたと聞くと、遺構破壊が行われたに違いないなどとネガティブに見てしまいがちですが、城址が公園として残っていることさえ、多くの人の努力と偶然の産物である場合もあるわけで、“残っていること”それ自体の尊さを噛みしめながら、今あるものを愛でる、という姿勢で城に対するのが正しいのかなと思いました。ないものねだりを戒めねばならぬと少々反省。
七尾城
2010年11月21日
小春日和の一日、名門・能登畠山氏の七尾城へ。一番の見所は、写真でおなじみの桜馬場斜面の石垣で、鬱蒼とした木立の中に佇む様は古代文明の遺跡の趣です。この日は九時頃に訪れたのですが、樹々の間から朝陽が射し込んできて、神秘的な雰囲気に満ちていました。高さはないものの、階段状に連ねた石垣群は堅城の貫禄に溢れています。実際、2万の上杉謙信軍に攻められたものの、領国民と共に籠城し、容易に越後勢の手に落ちることなく抵抗を続けました。しかし、城内で疫病が発生したり、謙信派と信長派による家臣団の対立などもあり、最終的には開城し、能登畠山氏は滅亡。この城の役目も終わりました。七尾城は、そんな合戦の舞台として戦国史に名を残していますが、謙信がこの時に詠んだとされる漢詩が伝わっており、後世の偽作の疑いが色濃いものの、彼の感慨はかくやと思わせるものがあります。その詩の中で、本丸から眺めたであろう「能州の景」に感嘆しているのですが、無粋な現代人は、自然美よりも能登島に架かる能登島大橋の湾曲美に魅せられました。
津山城
2010年12月18日
城の表と裏(大手―搦手という呼び名が通例ですが、ここではこのように呼んでいます)を、複数の枡形門で重層的に固めた津山城。表側からは、葛折りに5つの城門を通らなければ本丸に辿り着けません。さらに、一二三段と呼ばれる「面」を加えて、これ以上なく堅固にしてあります。もはや爆弾でも用いない限り、ここを突破するのは不可能でしょう。裏側には、3つの枡形門を三位一体でひとつの城門として機能させているかのような枡形空間があります。いやはや連結式城門とでも呼びたい鉄壁の備えです。とにかく虎口の機構は複雑なのですが、縄張りからは「城門で守る」といった体のシンプルな発想が読み取れ、全般的に技巧は凝らされていません。築城当初は幕府による「対豊臣」拠点の意図も秘めていたらしいとのことで、往時、櫓の数は広島城、姫路城に次いで三番目に多い60基を備えていたと言われ、城域のそこかしこに櫓跡の標識が建てられていたりしますが、迎撃施設がこれだけあれば、小難しく縄張りを考える必要はなかったのかもしれません。要塞という形容がふさわしい城です。
鳥取城
2010年12月19日
「飢え殺し」で知られる鳥取城。羽柴秀吉による凄絶な籠城戦の舞台として、戦国好きにはおなじみの城です。周辺の米を買い占めた上で合戦を仕掛けるという巧妙な戦術によって瞬く間に追い詰められ、ついには人肉を食らうという餓鬼道に陥った鳥取城。惨劇は、これを見た城将の吉川経家の自刃を以て終幕となるわけですが、本丸(山上の丸)からは、日本海や砂丘、湖山池などが織りなす風光明媚な景色が遠望でき、そんな血腥い出来事が存在したことが嘘のような空気感です。訪れた日は、冬晴れの下、群生する山茶花が見事に咲いていました。殺戮と略奪と飢餓の世に散った人々に合掌。ともあれ、そんな黒歴史を持つ鳥取城ですが、2005年より30年がかりの復元整備計画が実行されており、この日は天球丸が整備工事中で立入禁止になっていました。御三階櫓の復元も計画されており、これは犬山城天守に匹敵する高さを持つ建造物だけに、完成すれば、この城のイメージが一変するかもしれません。仁風閣とのツーショットにもなるわけで、想像するだけで血が奔騰します。願わくば、それがしの寿命のあるうちに。
佐賀城
2011年1月8日
天守のない平城の場合、市街地化の波から逃れられず、遺構は「思い出」程度にしか残っていないことが多いように思われますが、残念ながら、ここ佐賀城も例外ではありません。かつては36万石という大大名の居城であったわけですが、復元された本丸御殿を除けば、今はその面影はありません。無料で開放された本丸御殿は、佐賀城本丸歴史館として、おもに幕末から明治期の「偉大なる佐賀」といった視線で展示物が構成されています。鍋島だの龍造寺だの九州三国志だのといった言葉に反応する戦国好きにとっては軽い失望を禁じ得ない内容ではありますが、ユニークなことに、ここは地域のコミュニティセンターの役割も担ってるようです。訪れた日は館内の大広間で邦楽の練習会があったようで、和装のご婦人方が大勢、参集していました。また、展示物には子ども向けに学習用の仕掛けが施されており、琴の音の響く中、チビっ子たちが元気にアトラクションに興じていました。復元した歴史的な建築物を未来の文化財として大切に保護しつつも、広く地域に便益を供しうる場としても活用する、というやり方は、地元にとっても観光客にとっても理想的な姿かなと思います。
吉野ヶ里
2011年1月8日
今から20年ほど前に発見された吉野ヶ里遺跡。発見当時は連日、大々的に報道されていたことを懐かしく思い出します。邪馬台国の可能性も取り沙汰され、地勢が『「魏志」倭人伝』の記述に似ている、などといった識者のコメントが拍車をかけるかたちで、一日に数万人が見学に訪れるという狂騒的な事態になったように記憶しています。ここは10年前に一度、訪れていますが、その時は歴史公園としてオープン間もない頃で、確か「南内郭」のみの展示でしたが、とりあえず「弥生気分」だけは味わえました。今回、豪快にスケールアップした吉野ヶ里を再訪して、弥生時代を満喫しました。満喫と言うのも変ですが、姫路城に江戸時代が存在するのと同じ意味で、ここには弥生時代があり、ちょっとしたタイムスリップ感覚を楽しんできました。東口(正門?)から遺跡エリアに入場すると、逆茂木と環濠に出迎えられますが、これを見ると城の語源は「柵」ということの意味がよくわかります。環濠集落は、いわば太古の城郭都市です。
大野城
2011年1月9日
大宰府を見下ろす四王寺山の頂部から少し下ったあたりの山腹を、土塁と石垣で囲んだ大野城。今日、私たちが目にするのは、総延長約8kmという途方もない防塁の遺構です。国家事業と言おうか天下普請と言おうか、決して地方権力にはできない規模の壮大な構築物です。思えば、ほんの少し前まで古墳がつくられていた時代だけに、ある意味、驚くには値しないのかもしれません。例えば、表面を石で覆い尽くした五色塚古墳などを見ると(もちろん復元ですが)、この程度の石垣は造作もないことのようにも感じますが、現物を見ると素朴に驚嘆します。大野城の600年後に、元からの襲来に備えて構築した元寇防塁よりも、技術的には高度に見えます。それにしても、かくも大掛かりな防衛施設をつくるほど、唐を恐れていたとは。このことにも素直に驚きますが、万単位の敵軍を前提にすれば大野城程度の規模は必然だったのかもしれません。ちなみに、二度目の元寇の際(弘安の役)、元軍は14万人での来寇と言われています。21世紀の自衛隊の総兵力は24万人です。そんなことを考えると、まあ、“大野城な気持ち”はわからないでもないですかね。
福岡城
2011年1月10日
福岡藩52万石の居城、福岡城。縄張りは軍師として名高い黒田官兵衛(あるいは嫡男で初代藩主・長政とも、はたまた親子合作とも)。古い絵図を見ると、城は南北を底辺に、東を頂点にした二等辺三角形をしており、かなり曲者な仕上がりになっています。道路網が未発達の昔は、軍勢が行軍できる街道などは限られており、おのずと敵の侵攻ルートは絞られてくるのだろうと思いますが、福岡城の場合、北側の博多湾からの侵入を基軸に設計されているようで、そのため城の北面に東西に伸びる長大な水堀を築いています。石垣も北側が強固な設えになっています。その上で、東側には城下町、西側には大堀(大濠)を配置しており、どちらかに回り込もうとする意欲を萎えさせています。反対の南面は、連結天守などの大型砲撃施設を集中させており、迂闊に近寄れば敵は弾幕の餌食です。よしんば本丸への侵入を許したとしても、南西部に独立性の高い南ノ丸が配置されており、万が一、本丸が落ちた時は、文字通りここが「最後の砦」として機能します。通常、本丸が敵に占拠されたら落城なわけですが、最悪の事態を想定して手を打っておく、という軍師ならではの発想が読み取れる気がします。
篠山城
2011年2月19日
●篠山城の極私的七不思議
一、馬出。北条流を彷彿とさせる見事な馬出があります。藤堂高虎の手になる城で、ここまで明瞭な馬出を持つ城はないと思われますが、なぜ? 一、大書院。築城時の城主は徳川庶流ですが、それにしてもたかが5万石程度の大名には立派過ぎる御殿です。なぜ? 一、鬼門除け。北東の方角は鬼門として石垣の隅を欠いたりしますが、ここは北東部の角を落としたようなデザインになっています。四角い縄張りを至上とする高虎の流儀から外れるわけですが、なぜ? 一、犬走り。主に石垣を補強する目的で設置するわけですが、象も走れるほど幅の広い犬走りです。なぜ? 一、天守。一説によると、堅固すぎるとの理由で天守はつくられなかったそうですが、天下普請の城が堅固であって何が悪いのか。なぜ? 一、天守台。ことによったら日本一、低い天守台かもしれません。しかも、端から天守などつくる気はなかったと思えるほど、仕事が雑です。なぜ? 一、縄張り。ここは大坂城への「付け城」なわけで、それなりに堅固にできていますが、上記のとおり、妙に穴だらけです。なぜ?(万が一、敵に奪われたとしても、すぐに奪い返すための裏技巧でしょうか)
二条城
2011年2月20日
天下普請で築城された二条城。国宝の二の丸御殿を始め、さすが徳川の権威を示す目的でつくられた城だけに、全体的に丁寧な仕事がなされた印象を受けます。特に唐門越しに見る二の丸御殿は印象的で、単なる「城景」を超えた京都を代表する景色だと思います。その唐門は、桃山文化という成り上がり権力者(豊臣秀吉)の豪奢(バブリー)で荘重(ハッタリ)な香りを今に伝えています。周知のとおり二条城では、徳川家康の将軍宣下と徳川慶喜の大政奉還が行われ、まさに徳川幕府の始まりと終わりの舞台になったわけですが、二条城はこうした時代を画するセレモニーが挙行されるのにふさわしい場所と言えましょう。またここには「門の博物館」と呼びたいほど、比較的多様な門が残っています。唐門を始め、櫓門(東大手門、北大手門、本丸櫓門)、高麗門(鳴子門)、埋門(西門、二つの中仕切門)、長屋門(桃山門)、塀重門(二の丸御殿前庭入口)といった具合で、城門を意識しながら散策するのも一興かと思います。
高遠城
2011年4月16日
春爛漫の一日、桜の名所として名高い高遠城へ。満開のタイミングは微妙に外しましたが、場所によっては今を盛りの花景色で、存分に春を堪能できました。満開になれば、見慣れたソメイヨシノよりも桃色がかった(「鴇色」と言いたいところですが、死語ですね)タカトオコヒガンザクラが雲霞の如く城址を覆い、その様子たるや、さぞかし見事なことでしょう。地元では、この花の色は、織田軍を相手に凄絶な玉砕戦で討ち死にした武田信玄の五男、仁科盛信の「血」に由来するとの言い伝えがあります。長篠での大敗以後、離反者が相次ぎ、立ち枯れていく武田軍団の中で唯一、風林火山の気概を示し、武田勝頼への義を貫いた武将への哀悼と思慕の念を感じます。城内では、名君の誉れ高い「保科正之を大河ドラマに」の署名活動が行われており、訪城記念に名を連ねてきました。彼は徳川秀忠の隠し子であったわけですが、異母兄・家光の寵を受け、幕閣として重んじられます。これに恩義を感じた正之は将軍家への忠勤を家訓として残しました。その精神は正之の末裔で、幕末・佐幕派の柱石・松平容保へと受け継がれていきます。高遠の地には、忠臣の気風とでも呼べるものがあるようです。
丸亀城
2011年4月23日
現存としては最小規模の天守が、高石垣の縁にちんまりと鎮座する丸亀城。天守を戴く高石垣群は圧巻の一語に尽きます。重厚かつ堅牢、まさに要塞ですが、凶暴なまでに魁偉な石垣と小さく愛らしい天守のペアは、なかなか絶妙です(美女と野獣か、妖精とモスラか)。この丸亀城を、今日見る勇壮な姿に築造したのは山崎家治という大名です。世間的には「誰?」という影の薄い存在でしょうが、島原の乱(島原・天草一揆)後に天草に入封し、善政を敷いて地域再建に成功した手腕を買われての起用でした。というのも、当時、瀬戸内地域には多数の隠れキリシタンが伏在している可能性が指摘されていたからです。宗教蜂起という悪夢の再来を封じるための拠点として丸亀城は築城されたわけですが、5万石程度の大名には立派すぎる城を見れば、島原の乱が幕府に与えた衝撃の大きさがわかります。そんな誕生秘話を持つ丸亀城ですが、魅力的な天守、度肝を抜く石垣に加え、本丸から遠望する優美な讃岐富士もまた、この城の魅力のひとつです。何ともまあ、贅沢な城ですね。
高松城
2011年4月24日
豊臣秀吉の天下統一後、讃岐を拝領した生駒親正によって築城された高松城。日本三大水城の一つとされています。縄張りは戦国三大軍師(勝手に命名)の一人、黒田官兵衛と言われていますが、ある意味、海からの攻撃に備えれば、それが防御のすべてなのでシンプルです。内堀に囲まれた本丸は木橋を落とせば完全に独立する構造になっており、このあたり福岡城に通じる発想が見える気がします。一方、細川忠興が縄張りしたという説もあるようで、占地が忠興の築城した小倉城に似ていたり、天守は小倉城を模して築造されたとも言われているので、このあたりの連想から来る説かもしれません。城内には二つの櫓が現存しており、日本三大櫓(またまた勝手に命名)の一つ、月見櫓が素晴らしい。櫓とは言いながら、天守の風格を備えていて、これに連結する水手御門と渡櫓との三位一体で、局所的ながら江戸時代の風情を色濃く漂わせています。城内に散在する松の古木と、洗練された野面積みとでも呼びたい古式の石垣が、この城にゆかしい風趣を添えています。
春日山城
2011年4月29日
言わずと知れた軍神・上杉謙信の城、春日山城。堅城との評判なので「軽登山」覚悟で大手道を歩いてみましたが、勾配が緩やかなので登頂は意外に楽勝です(感じ方は個人差=体力差によるとは思いますが)。そして、意外に普通の山城です。春日山城と言えばココ!的な造作上の鑑賞ポイントがないせいか、何かが現れるのを期待して歩いているうちに、なんとなく見終わってしまった感じです。確かに全体として見れば凄いのだろうなとは思うものの、唖然とするしかない土木技も見られず、どことなし消化不良のまま城を後にしました。思えば、武田流とか北条流とかと称せられるような、上杉流の築城術といった話を聞いたことがないわけで、難攻不落の堅城というイメージは、どうも謙信その人のイメージに由来するもののような気がします。訪れた日は、「上越おもてなし武将隊」のお披露目式が行われていました。まあ、「これからに期待しよう」的なパフォーマンスでしたが、観光にかける上越市の意気込みが感じられました。
松代城
2011年4月30日
戦国好きには海津城の名で知られる松代城。北信地域の支配拠点かつ上杉謙信に睨みをきかす役割を負った城として、武田信玄によって築城されました。両軍が真っ向からぶつかった第四次川中島の戦いの際には、信玄軍はこの城から出陣し、越後勢と死闘を演じました。ここから車(バス)で10分ほどのところに信玄が本陣を置いたとされる場所があり、現在、「八幡原史跡公園」として整備されています。国道と林檎畑と民家の向こうには謙信が陣を張った妻女山があり、「鞭声粛々夜河を渡る」で有名な一戦が、まさにこの地で繰り広げられたわけで、戦国好きなら武者震い必至のメモリアルな場所です。公園には「三太刀七太刀」と称される信玄と謙信の一騎打ちの銅像などがあり、いやがうえにも戦国気分を煽られますが、むろん大将同士のチャンバラなどフィクションなわけで、江戸時代から彼らが軍記物や講談、錦絵などの世界でヒーローとして描かれてきた歴史を物語っています。野暮を承知で言えば、銅像などがあると、かえって興醒め。不識庵も機山も草葉の陰で苦笑いしてるな、きっと。
小諸城
2011年5月1日
漫画『センゴク』の主人公として一躍、その名を知られるようになった…、などということはない仙石秀久によって近世城郭として改修された小諸城。城域が城下町より低地にある「穴城」として知られていますが、小諸駅から歩いて城に向かうと、その名の由縁を身を以て体験することができます。通常、本丸に向かって登ることはあれ、降ることはないわけですが、山城の真逆を行くこうしたリスクを負ってまでこの場所に占地するメリットは、浅間山の柔らかい噴火堆積土が削られてできた、谷がちの地形を利用できるからです。往時、城内には12の谷があったそうですが、小諸城は南九州で見られる一城別郭式を想起させる、独立性の高い曲輪群から構成されています。そんな中で見落としてしまいがちなのは、二の丸などの曲輪群と本丸をつなぐ黒門橋の下の堀切です。削りやすい地質とは言え、なかなか見事な出来映えです(案内板がないのが諸行無常です。ご先祖様の労苦を讃える気持ちが欲しいところです)。当初、戦国バカの手になる城ということで、ざっくり回ろうと思っていましたが、いい意味で期待を裏切るユニークな城でした。見直したぞ、ゴンベエ。
小田原城
2011年5月14日
今日に見る小田原城は江戸時代に修造されました。江戸城の西の守りを担う城だけに、「土塁のみ」といった関東にありがちな質素な城とは一線を画す堂々たる佇まいです。小田原市による積極的な復元事業とも相まって、城内には「江戸時代感」が濃厚に漂っています。しかしながら、戦国好きにとって小田原城といえば、やはり関東に覇を唱えた北条氏の居城としての姿です。当時の主郭部は市街地化され消滅してしまいましたが、「総構」と呼ばれる造成物が、一部、残存しています。なかでも、小峯御鐘ノ台と呼ばれる場所に残る大堀切が圧巻です。往時、このような造成物が延々と9kmにも渡って城下を取り巻いていたわけで、さすが関東の雄たるにふさわしい遺構です。この小田原城を眼下に収める場所に石垣山城があります(車で10分ほど)。小田原合戦時に、豊臣秀吉がわずか80日間で築城したと言われていますが、これが何ともまあ、空前のスケールの陣城で驚きを禁じ得ません。北条の総構が児戯に思える天下人の「御遺構」なわけで、これを見てしまうと、北条もせいぜい「関東王」レベルと知れてしまいます。戦国土木王決定戦は、秀吉に軍配を上げざるを得ませんね。
山中城
2011年5月15日
東海道を擁し、箱根を押さえる戦国・北条氏の西の拠点、山中城。訪城前は、障子堀と富士山が売りの「景勝地」ぐらいの認識でいましたが、いやはや想像以上の力作でした。普通、山城は、山を削って土を盛って城を整える、といった具合の作法で造成していくわけですが、この城は何と言うのか、まるで一刀彫りのように、台地から曲輪を削り出して、というより抉り出して造成したかのごとく、堀は深く、土塁は高く、法面は鋭く仕上げています。エグイほどに抉っているので、(主城部は)各曲輪が独立した様式の城に似た景観を呈しています。「関東の虎口」を守る馬出のような役割を果たすに十分な堅固な設えですが、この城の高い要害性は自然地形を有効的に活用したからではなく、人の手によってひたすら抉り出していったことの結果と言えるでしょう。しかし、彼らが心血を注いでつくりあげた山中城も、豊臣秀吉が送った圧倒的な軍勢の猛攻の前にわずが数時間で落城。関東制覇の一歩手前まで版図を広げた北条の野望も、100日足らずで乱世の露と消えました。北条五代百年の歴史とは一体、何だったのかと思わずにいられません。
根室半島チャシ跡群
2011年6月4日
「自然を満喫しよう」的な気分で本土最東端の街・根室へ。オンネモトチャシへは納沙布岬から歩いて20分ほどです(まあ、そんな人は少数でしょうが)。漁港が見えたら、「お供え餅」に例えられるチャシ跡はすぐにわかります。実物は写真で見るよりも意外に城っぽい造成ぶりですが、普通の山城に見られるような防御の意識がどれだけあったのかは疑問です。この日は生憎の曇天で風も強く、崖下をキタキツネが走るわ、何やら猛禽が飛び立つわといった有様で、荒涼たる風景の中、最果て感を噛みしめながらの見学となりました。翌日は、湿原で名高い春国岱を散策。春国岱はオホーツク海と風蓮湖を分かつ長大な砂州で、ここは野鳥の楽園として知られています。日本野鳥の会会員としては、いつかは訪れたいと思っていた場所だけに、感慨もひとしおです。見ようによっては単なる泥地ですが、北海道的としか表現し得ない原野の自然を感じられます。一瞬ですが、タンチョウも目撃できたので、個人的にはたいへん充実した旅となりました。今回、バスの時間の制約もあって、本土最東端ギリギリの場所(灯台のあるところ)まで行けなかったことが心残りです。
郡山城
2011年7月15日
戦国の謀略王・毛利元就の居城として名高い郡山城。この地に降り立つと、よくもまあ、こんな草深いところから(失礼!)、中国地方を制覇したものだと感嘆せずにはいられません。大内、尼子という大勢力に挟まれながら、第三極として力を蓄えつつ、やがて両者を併呑してしまったわけですから、その知略と胆力は戦国随一と言ってもいいでしょう。元就の名を高からしめた厳島合戦では、罠としての城を築き、そこに敵をおびき寄せて奇襲攻撃で撃滅するという離れ業を演じました。大将としての能力は信玄や謙信に勝るとも劣らない元就ですが、三本の矢がどうしたこうしたの話で知られるとおり「説教好きの老人」といったイメージが災いして、彼らほど人気がないのが贔屓筋としては残念です。今回、そんな思いを抱きつつの散策でしたが、郡山城は山頂部の本丸から放射状に伸びた6つの尾根と6つの支尾根に曲輪が築かれていて、このような求心的な構造はファミリーの結束を厳命した元就らしいと言えます。
広島城
2011年7月16日
「中国王」の本拠地として毛利輝元によって築城され、福島正則を挟んで、その後、安芸藩・浅野家十二代の居城としての歴史を刻んだ広島城。福島正則の治世は短い間でしたが、「福島の城渡し」の逸話を残しています。よく知られるように、正則は洪水被害を受けた石垣の無断改修を咎められ、武家諸法度違犯の廉で改易されるわけですが、この際、幕府からの城の明け渡し要求に対し、抵抗することなく粛々と城を明け渡しました。これが福島の城渡しと呼ばれ、その後、改易大名の模範例となりました。家臣たちは一時、臨戦態勢で臨みましが、戦国の気風が残る当時は、天晴れなりとして、重臣の一人を除いて、全員、他家に再仕官したと言います。元家臣の末裔としては、ゴネて一矢報いるぐらいのことを仕出かしてもよかったのではないかと思うものの、この出来事が幕藩体制の基礎固めの一助となり、ひいては泰平の世をもたらした一助にもなったのだと思えば、是非に及ばずというところでしょうか。今も本丸の北東部には、正則が幕府への服従の証として自ら壊したと伝わる石垣遺構がありますが、彼の晩年は、自業自得なのでしょうが、悲しくも喜劇的です。
岩国城
2011年7月17日
毛利本隊の関ヶ原参戦を阻んで、徳川家康の天下取りに貢献した「毛利の両川」の一人、吉川広家によって築城された岩国城。今回、観光名所をぶらり散歩するといった風情で訪れましたが、意外に見応えのある遺構があり、思ったよりも興味深い城でした。場違いな遊具の置かれた曲輪の端に「北の丸周辺遊歩道」という散策路への入口があります。これがまた、遊歩道というほのぼのとした語感とは裏腹なスリリングな道で、人によっては足が竦む箇所があったりするのですが、この遊歩道を歩くと木の間隠れに古式ゆかしい石垣が見えます。この「石景」が見る者に独特の印象を残すと同時に、関ヶ原の仕置きで大減封された毛利の城だけに、戦国の緊張感が伝わってきます。それにしても、よくぞ、こんなところにかくも立派な城を築いたものだと感心しますが、一国一城令によって、落成後、わずか7年で破却の憂き目を見ました。諸行無常の極みですが、困難に遭遇したであろう築城の経験が、後に錦帯橋の造築に資するところがあったのだと思えば、吉川広家も草葉の陰で喜んでいるのではないでしょうか。
徳島城
2011年8月12日
かねてより「阿波おどり」に興味があったので、人混みを覚悟の上で開催期間中に徳島行を敢行。さすが本場、本気で練習している人たちの演舞は素晴らしく、県外で行われるそれとは似て非なる魅惑の世界を堪能しました(まあ、彼らはセミプロなので、比較するのはフェアではないかもしれませんが)。この阿波おどりは、徳島城を築城した藩祖・蜂須賀家政に由来すると言われています。城内には「よしこの(エラヤッチャの歌です)」の一節を刻んだ石碑があり、♪阿波の殿様 蜂須賀さまが 今に残せし 阿波踊り、と歌われています。蜂須賀と言えば、家政の父・小六は『太閤記』などでは野盗集団の頭目として描かれおり、それが災いして今日に至るまで粗野な家風とでも言った印象を残していますが、むろんこれはフィクションなわけで、小六も家政も槍働きよりも知略で才覚を現した武将でした。実際、家政は乱世の終焉を見越し、防御よりも統治の利便を重視して徳島城を築城したと言われており、この城は要所を締めつつも「過剰防衛」を排した無駄のないつくりになっていて、先を見通す眼力のほどを窺い知ることができます。
大阪城
2011年8月13日
最強の城・大阪城。1931年に建造された模擬天守は、徳川時代の天守台の上に豊臣様式で外観は徳川調という中途半端なものながら、すでに80年の歴史を閲しており、「三代目」としての風格を漂わせています。「現存最新」が松山城の再建天守で落成が1854年だから、両者の間には80年の時間が流れていますが、この間、わが国の建築技術は木造から鉄筋コンクリートへと進歩しました。この技術進歩は、大阪城天守から東京スカイツリーまでの80年間に起こったそれよりも、ある意味、飛躍的だったと言えるでしょう。改めて明治という時代の変化の激しさを感じます。今回、そんな大阪城を俯瞰の位置から望見すべく、南外堀に面して建つ「KKRホテル大阪」に投宿。公共の宿なので料金はリーズナブルながら、さすが「大阪城に恋するホテル」を称するだけあって存分に堪能することができます。下から見上げると軽くメタボな感じの天守も、部屋から眺めればすらりと美しく見えます。眼下に目をやれば、大阪城が最強の証である、連続する横矢折れを伴った「雁行」石垣の全容を視野に収めることができます。えげつないほど鉄壁です。
川越城
2011年9月24日
江戸城の北の守りを担う川越城。戦国好きには、相模の獅子・北条氏康の名を高からしめた「河越夜戦」の舞台として知られています。全国区ではないものの、「小江戸」と称される川越は、首都圏では身近な観光地としてメジャーな場所です。かつてはサツマイモの産地として知られ、「栗よりうまい十三里」などと囃して江戸っ子の人気をさらったと伝えられており、市内にはサツマイモを使った菓子などを提供する店が軒を連ねています。そんな川越城を築城したのは、太田道灌という室町期の武将です。一般には江戸城の築城者として知られています。これもまた全国区ではないものの、関東では、というか東京では、その名を知らない人がいないぐらいの有名人です。なにしろ「東京の礎を築いた人」なので。旧都庁舎の前には銅像がありましたが、「東京の礎を築いた人」と言えば、どう考えても徳川家康でしょう。蘇我氏の事跡を消すために聖徳太子が創造されたように、何か政治的な意図があるのか、やたら道灌が宣揚されています。確かに、道灌は江戸時代から、すでに伝説化されていましたので、その遺風が今日まで残っているだけなのかもしれませんが。
武田氏館
2011年10月8日
戦国好きには躑躅ヶ崎館として知られる武田氏館。戦国仕様の居館で、ところどころ、それっぽい遺構があります。西曲輪の北側には両袖枡形と呼ばれる虎口の跡がありますが、ここを抜けると正面に山々が見えてきます。比較的綺麗なかたちをした山が要害山で、ここに要害山城がありました。武田氏館はこの城と一体で、有事の際には要害山城にて敵を迎え撃つ構想でした。この城は武田信玄の誕生地として知られており、山頂には石碑があります。登城路は迷路のようで、今は迷うことはありませんが、往時、敵を誤誘導する罠がそこかしこに仕掛けられていたことでしょう。信玄の時代には、ここに籠城するといった事態とは無縁でしたが、息子・勝頼の代には織田信長に圧迫され、やむなく甲府を放棄。近隣の地に新府城を築いて、侵攻に備えました。縄張は、かの真田昌幸で、丸馬出、三日月堀、両袖枡形といった武田流のアイテムがが今も良好な状態で残っています。しかし、結局は築城半ばでここも捨て、最後は家臣に裏切られ、天目山の露と消えました。新府城の本丸には武田勝頼と武田の忠臣たちの墓標が並び、戦国の世を駆け抜けた最強軍団の記憶を静かに伝えています。
甲府城
2011年10月9日
江戸城の西の守りを担う甲府城。浅野長政によって「対徳川」の攻撃拠点として完成され、関ヶ原後は「対豊臣」の防衛拠点に役割を替えるというユニークな歴史を持っています。甲府と言えば武田信玄のイメージが強いせいか、信玄の城と思っている人が多いそうですが、そう思われてしかるべき見事な城塞です。特に城域の東側に残る長大な石垣列は、往時の威容を感じさせるに足る迫力です。黒みを帯びた石が、なんとも厳つい。また、小さな門の復元があちこちで進んでいて、至る所で「江戸時代感」を醸しています。天守や櫓などの主要建造物がぽつんと存在するよりも、小粒でも石垣と門と塀などが一体で存在するほうが過去を感じられたりするので、その意味で甲府城は興味深い時間体験ができる場所です(「オススメ散歩コース」などの仕掛けが欲しいところです)。現在、鉄門の復元工事中ですが、これが完成すると段状の石垣とワンセットの構図に収まり、姫路城以外ではお目にかかれない希有な景色になることでしょう。甲府城は「復元するのは建造物ではなく歴史的な時間だ」というスタンスで整備事業が進められているかのようで、何かが出来る度に訪れたくなる城です。
岡城
2011年10月29日
「荒城の月」の舞台と言われる岡城。訪れた日は、この城を見学するのにふさわしい「荒天」に恵まれ、小止みなく降る雨の中、「跡寥感」に満ちた「城緒」を満喫しました。谷間からは霧も立ち籠めてきて、少しく幻想的な雰囲気も漂う中、やはり岡城はこうでないといけない、と天に感謝しつつ城を後にしました、と思うことにしました…。半分は冗談ですが、この城に限っては「諸行霧城」の見学も案外、悪くはないです。岡城は荒廃が売り(?)の割には整備が行き届いており、かつ山城といっても近世の城郭が山の上にあるだけなので、全体的に歩きやすく、傘を差して写真を撮りながらの見学も、さほど難儀しませんでした。通常、泰平の世の訪れとともに、何かと不便な山上から麓の御殿などに執務や生活の場が移されるわけですが、岡藩はかたくなに山の上に止まりました。藩士の皆さんは日々の勤務のために、文字通り「登」城していたわけで、誠にご苦労様な話ですが、常用ゆえにきちんとメンテナンスされ続けたおかげで、希有な山城の威容を今日まで伝えることができたのだと思えば、流した汗は無駄ではなかったでしょう。
大分府内城
2011年10月30日
そこそこ以上の都市にある平城は市街地化されてしまうのが常で、ここ大分府内城にも残されたものは多くありません。それもあってか、足利氏館という名の寺院を除けば、滞在時間の最短を記録してしまいました。いや、見所がないわけではないのですが、なぜか全体的につまらない。このやるせない思いは、忌憚なく言えば、地元の皆さんの「城愛」が欠如しているところから来るのだと思われます。皆さんの愛は、すべて大分の英雄・大友宗麟に注がれてしまって、宗麟とは関係のない府内城は郷土愛の対象にならないかのようです。現在、市内にあった大友氏の居館跡が発掘調査されていますが、今はただの空き地にしか見えない現場には、府内城ではお目にかかれない立派な案内板が二枚も(!)あります。ゆくゆくは大友氏を顕彰する公園として整備する計画のようですが、大分駅前には宗麟の立派な銅像があり、さらに「大友氏遺跡体験学習館」なる施設もつくられるなど、大分にはとどまるところを知らない宗麟愛が満ちあふれています。江戸時代、この地を200年間治めた大給松平家には一分のリスペクトも感じられないのと好対照です。
盛岡城
2011年11月5日
廃城後、「岩手公園」として再スタートしてから、すでに一世紀余の歴史を閲している近代の盛岡城。百周年を期に「盛岡城跡公園」と改称したそうですが、一件をめぐって何やらすったもんだがあった様子。改称によって盛岡城の存在をあまねく認知せしめたい市と、慣れ親しんだ呼称に愛着のある市民との間に軋轢もあるようです。盛岡城には、隣県の秋田市にある久保田城こと千秋公園と似た匂いを感じます。市民公園としての歴史が長いせいか、時の経過の中で、とんがった部分が丸くなってしまったかのようです。東北随一の立派でユニークな石垣群が存在しながら、今ひとつ、こちらの「城感」が揺さぶられないもどかしさがありましたが、まあ、紅葉狩りついでの見学なら悪くはないといったところです。しかしながら、何か一つぐらい城郭であったことを想起させる建築物があれば、盛岡城が光輝くのにとの思いは否めません。国指定の史跡なので勝手な造作は御法度ですが、この石垣を生かすための英断が望まれます。かつて盛岡を治めた南部にとっては仇敵の津軽・弘前城に勝るのは石垣だけなわけで、一矢報いるのも一興ではないでしょうか(部外者ゆえの戯れ言ですが)。
根城
2011年11月6日
中世武士の館を再現した根城。想像復元ながら、主殿などの建築物が林立する景観は、なるほど鎌倉・室町期の領主の居館とは、このようであったかのかと納得させるに足る迫力です。ところで、訪城前は漠然と「中世の城」と思っていた根城ですが、現地で廃城になったのが1627年であったことを知り、愕然。湯築城以来の衝撃です。廃城が江戸時代ということは、この城で戦国時代を乗り切ったということですが、よくもこのような(戦国時代的な仕掛や工夫のない)原始的な城で、との思いを禁じ得ません。奥州北部における南部の力は強大だったので、このような前時代的な城で十分であったことも理由でしょうが、やはり東北地方の戦国時代は穏やかであったことの証なのかなと思います。小競り合いはあったにしても、奥羽の領主たちは姻戚関係を通じてそれなりに平和共存していたわけで、伊達政宗が皆殺しの戦国の論理を持ち込むまでは、敵を根絶やしにするといった苛烈な争いとは無縁であったのかなと想像します。訪れた日は生憎の曇天でしたが、晴れた日には広大な城内いっぱいに敷き詰められた芝生が、さぞや心地よいことでしょう。
高取城
2011年11月27日
奈良盆地の南端に築かれた高取城。今に残る大規模な石垣群は山上に築かれた近世城郭の址ですが、復元CGを見ると、往古の壮観たるや目眩がするほどです。高取城は山上に連なる白壁を冠雪に例えて、「巽高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城」と謳われたわけですが、現地を訪ねてみれば、これが素朴な実感であったことがわかります。一日だけ江戸時代に行くことが許されるなら、雪を戴いたかのような高取山の景色を眺めてみたいものです。そんな高取城を今日に見る姿に修造したのは、太閤秀吉の異父弟・豊臣秀長です。大和・紀伊・和泉の三か国の太守にふさわしい城ですが、秀長は居城として大和郡山城を、南方の守りとして和歌山城を築いており、その中間点に当たる高取城と併せて三位一体の防御態勢で兄のいる大阪を守る構想だったのでしょう。完全にやり過ぎですが、そこまでさせたのは深い兄弟愛なのだと思うと泣けます。眺望の期待できない高取城の中で、唯一のビューポイントが国見櫓跡ですが、感動的な大和三山の風景とともに、ここからは天気がよければ大阪の高層ビル群がほの見えるそうです。
佐倉城
2011年12月11日
徳川秀忠・家光の時代に、幕政の重職を担っていた土井利勝によって築かれた佐倉城。関東スタンダードな土の城ゆえ、興味深い何かがあるわけでもなさそうなので、隣町にある本佐倉城を見学しがてら的なノリで訪問しましたが、意外にしっかりした造りでした。さすがに幕府重鎮の居城だっただけに手抜かりはないようで、石垣に代わる強化の工夫が様々に凝らされています。この城の目玉でもある角馬出と二つの出枡形(出丸)、深い空堀に長い土塁など、「そうきたか」と思わせる、ある種、通好みの城かなと思います。特に空堀は特長的です。幅は広くはないものの、鋭角的に深く掘り下げてあり、印象としては長大な穴のようです(手入れされていないのが残念無念です)。城内には、来歴不明の移築門以外に建築遺構は存在しませんが、本丸には土の天守台があります。二段重ねの土塁なのですが、なぜこのような構造を採用したのか、説明が欲しいところです(案内板はおろか、標識もなかった気がします)。あちらこちら見ているうちに、福岡城を思い出しました。地勢が似ているようにも思うのですが、だとすれば、おのずと縄張は似てくるのかもしれません。
首里城
2011年12月17日
世界遺産「琉球王国のグスク」を訪ねる旅に出かけました。那覇空港から北上していく展開で、首里城→中城城→勝連城→座喜味城→今帰仁城の順に回る一泊二日の旅程。移動手段はレンタカーです。
空港でレンタカーを借り、一路、琉球王府・首里城へ。シーズンオフとはいえ、さすが日本を代表するリゾート地、この季節でも、結構、県外からの観光客が来ていました。首里城の地下駐車場へ車を入れ、表に出たところにある総合案内所でスタンプ。2000円札でおなじみ(?)の守礼門をくぐって主郭部に向かいます。有名な赤い正殿は、東大寺の大仏殿を彷彿とさせる堂々たる佇まい。伝統衣装を着たスタッフが雰囲気を盛り上げます。写真にこだわる向きは「京の内」という場所に行ってみてください(無料区域)。下の写真の左端の構図になります。主郭部のはずれには「西(いり)のアザナ」と呼ばれる展望台があり(無料区域)、ここからは那覇市街と東シナ海が一望できます。現在、壮大な復元計画が進行中のようで、工事中の場所が目立って興醒めな面もありますが、完成が待ち遠しくなる城です。
中城城
2011年12月17日
世界遺産「琉球王国のグスク」を訪ねる旅に出かけました。那覇空港から北上していく展開で、首里城→中城城→勝連城→座喜味城→今帰仁城の順に回る一泊二日の旅程。移動手段はレンタカーです。
世界遺産に登録されたグスクは、残念ながら太平洋戦争で大きな被害を受けたため、現在の姿は修復・復元されたものがほとんどのようですが、ここ中城城は、石垣だけとはいえ、往時の姿を比較的良好に留めているようです。他のグスクよりも綺麗すぎない分、古城(廃城?)の趣が強く感じられます。中城城では、積み方の異なる3種類の石垣を見ることができます。ごつごつした石灰岩の切石が用いられており、荒々しい姿が印象的です。見た目は異なりますが、徳島城や和歌山城の石垣を見た時と似た印象を持ちました。中城城は、護佐丸や阿麻和利といった武将にゆかりのある城とのことですが、本土で言う信玄と謙信のようなライバル関係なのでしょうか。グスクを回っていると、よく目にする名前です。初日はここで終了し、翌朝、勝連城へ。百名城に選ばれてもおかしくない城です。今回、訪れたグスクの中では、一番強烈な印象を残してくれました。
今帰仁城
2011年12月18日
世界遺産「琉球王国のグスク」を訪ねる旅に出かけました。那覇空港から北上していく展開で、首里城→中城城→勝連城→座喜味城→今帰仁城の順に回る一泊二日の旅程。移動手段はレンタカーです。
勝連城を後にして座喜味城へ。小ぶりながら、アーチ型の門が美しい城です。綺麗に敷き詰められた芝生と相まって、見る者にヨーロッパの城館といった印象を与えます。旅の最後は今帰仁城。本土では見られないドレープ状の石垣が優美です。これは直線を短くして死角を消す横矢の仕掛けなわけですが、俯瞰の位置から眺めると、波打っている様がよく見て取れます。見学中、地元の一団が本丸にある拝所(といっても、小さな祠があるのみです)で儀式を行う現場を目撃しました。大仰なものではなく、ごく日常的な祭事のようでしたが、拝所は遺構ではなく生活の一部であり続けている事実に感銘を受けました。沖縄の人たちのスピリチュアルなメンタリティに触れた思いがします。グスクはパワースポットだ、との結論を得て旅を終了。名護へ向かい、そこでレンタカーを乗り捨て、バスで空港へ。沖縄も日が落ちると、それなりに冷えます。ご用心あれ。
八王子城
2011年12月25日
八王子市の名称の起源となった八王子城。こうした例は、著名な城では、ほかに七尾城があるぐらいでしょうか。北条滅亡後、関東に入部した徳川方によって、領民や旧臣の宣撫のための措置として、この名が付けられたのだと思いますが、この事実から、地域と北条家との強い結びつきが感じられます。北条は小田原合戦に臨むに際して、領民に「お国の論理」で外敵への抵抗を呼びかけました。「北条家の危機」ではなく、「みんなの危機」として秀吉軍に備えたわけですが、大坂の陣や会津戦争などに農民などが大挙して参加した事実はないことからもわかるとおり、ことの善し悪しは別にして、他の大名に比べて領民との一体感が強いのが北条の特長です(わずか100年で関東を制圧できた理由の一つでしょう)。実際、城主の北条氏照以下の主力部隊が小田原に移動後も、領民たちで結成された部隊は果敢に秀吉軍と戦い、少なからぬ打撃を与えたと言われています。今日、「天守閣跡」と呼ばれる場所に、誰がつくったのか、崩落した石垣の破片を用いたオブジェがあり、築城半ばの八王子城に天守があったとは思えませんが、これが氏照の天守だと思うと泣けてきます。合掌。
岡山城
2012年1月7日
往時、天守の瓦に金箔が貼られたことから金烏城との異名を持つ岡山城。天守は安土城を模したとも大坂城に倣ったとも言われています。縄張は水で守るという発想で考えられているようで、西側に細い水堀を6本並べ、東側は旭川を大きく蛇行させて天然の巨大な堀としています。大きく湾曲する流れと天守の景観は勇壮です。その天守は本丸側から見ればのっぺりした印象ですが、反対側から見ると織豊時代の豪壮な雰囲気を感じることができます。1階部分のみ歪な多角形になっているという、少々不思議な感じの天守ですが、この天守を建てたのは、備前宰相・宇喜多秀家です。梟雄・宇喜多直家の子に生まれ、天下人・豊臣秀吉に愛され、副大将を勤めて関ヶ原を戦い、そして流刑人として50年という長すぎる余生を八丈島で過ごした人ですが、彼の人生は数奇な一生というほかないものでした。ただ、今日に伝わっている様々なエピソードが事実とするなら、秀家は、結構ユニークな人物だったようで、島暮らしも、それなりに楽しんでいたのかもしれません。独特なかたちの天守も、そんなキャラの発現と思えば、案外、納得できます。
鬼ノ城
2012年1月8日
史書に記載のない謎の城・鬼ノ城。古墳と比較すると、造営のハードルはそれほど高くはなかったのかもしれませんが、今回、ぐるっと一周してみて受けた印象は、やはり凄い、というのが素直なところです。それにしても、これだけの規模の造営物の来歴が不明とは驚きですが、言われているように唐・新羅連合軍の侵攻に備えた古代山城なのでしょう(宗教施設との説もあるようですが、そう言われると、まあ、そんなふうに感じられなくもない現地の空気感でしたが)。とはいえ、訪れる前は、ずいぶん瀬戸内海から離れた場所にあるなと思っていて、あれで防衛拠点の役割を果たせるのかと疑っていましたが、ビジターセンター内の解説で納得。古代の岡山県周辺は現在とはだいぶ様子が異なっていたようで、今も地名の残る児島は文字通り島で、岡山市の周辺は吉備穴海と呼ばれる中海、古代山陽道は吉備路だったわけで、そうであれば、この場所が選ばれるのも自然です。そんな古代ロマンに思いを馳せながらの散策も乙なものですが、そんなことを抜きしても、個人的には気持ちのいいハイキングコースでした(岩場でゴツゴツして歩きにくいところもありますが)。
備中松山城
2012年1月9日
現存天守の一つ、備中松山城。現存天守が現存し得たのは、様々な偶然と篤志家の努力のたまものですが、ここ備中松山城は、よく知られているように、あまりに高所にあるがゆえに解体を免れました。いわば解体する価値もないと誰かが評価したことの結果なわけですが、かかる成り行きで、往時の姿を今日に伝えることができている事態は、歴史の皮肉といってよいでしょう。そんな備中松山城を今日に見られる近世城郭として改修したのは、水谷勝宗という大名です。17世紀の終わり頃とのことですが、すでに天下泰平の世、今さら天守でもない時代によくぞ成し遂げたものだと感心します。領民はもとより、家臣たちからの反発もあったのではないかと想像しますが、執念のようなものが彼を突き動かしたのでしょうか。しかも、このような天険の地に、です。大手門跡から仰ぎ見る、そそり立つ岩壁と野面積みの石垣。異様な威容に圧倒されます。左側に見える土塀は重要文化財の建築遺構です。とかく天守に気持ちが行きがちですが、「現存土塀」など奇蹟に近いので、江戸時代からここにある、という事実を噛みしめながら鑑賞するのが現代人の正しい振る舞いではないでしょうか。
福山城
2012年1月9日
城地に山陽線を通したため、駅から徒歩0分という好立地(?)にある福山城。新幹線の上りホームから、同じ目線で重要文化財の伏見櫓を眺めることができます。この櫓は伏見城から移築されたため、その名で呼ばれるわけですが、熊本城の宇土櫓、名古屋城の清洲櫓と並ぶ私的日本三大櫓(?)の一つに数えられます。伏見城は徳川家康・秀忠が頻繁に利用しており、一時期、幕府の西日本本社(?)のような役割を担っていただけに、その一角に収まっていた伏見櫓も実に堂々たる体躯をしています。加えて、何とも不敵な面構え。同じ目線で眺めると、殴られそうな迫力です。伏見櫓の足下には同じく重要文化財の筋鉄御門が鎮座し、松の並木と相まって江戸時代を感じさせる空間をかたちづくっています。しかしながら、この筋鉄御門を潜って本丸に足を踏み入れると、あたりには公園臭(?)がそこはかとなく漂い、初めて天守を眺める時に感じる高揚感も束の間、一気に気分が萎えていきます。まあ、ご当地にはご当地の事情があるのだろうとは思いますが、観光客としては、部分的にではあれ、文化財にふさわしい史跡空間として整備されることを望みます。
千早城
2012年2月5日
金剛山に抱かれた千早城。金剛山は樹氷で知られるとおり、平地とは別世界であることは知っていましたが、迂闊にも千早城がその支脈にあるとは思わず、銀世界の中の登城となりました。当日は樹氷目当ての登山客でごった返していましたが(バスに乗れない人が続出)、フル装備の彼らの冷たい視線を浴びつつ、ジーンズにスニーカーという出で立ちで登山道ルートから千早城へ向かいました。途中、積雪で難所化したところがあったものの、無事、城址に到着。ここ千早城は、楠木正成による奇策を用いた戦いの舞台として知られており、戦国好きには特別な感慨を喚ばずにはいない場所です。数十倍の鎌倉幕府軍を相手に奮戦、わずか1000人足らずで撃退したと言われています。奇策の中でも、敵を欺かんと藁人形に甲冑を着けさせたエピソードは有名です。城址には、その故事に由来するオブジェがあります。地元の子どもたちがつくったのでしょうか。手作り感のある「城址碑」も素敵です。退城は冠雪した石段を使いましたが、自分的にはこちらのルートで正解でした。さほど面白い城ではありませんが、霊妙な雰囲気を味わえる場所です。まあ、歴史を知っていれば、ですが。
鹿児島城
2012年2月18日
維新の故郷・鹿児島。維新といっても明治初頭の改革のことではなく、戦国好きにとっての維新とは、維新斎こと島津義弘を指す言葉になります。「鬼島津」と呼ばれて恐れられた島津義弘は、「島津の退き口」と称される関ヶ原の敵中突破の退却戦がつとに有名です。歴史上の人物としては、そこそこ知られているとは思うのですが、彼の故郷は維新に冷たい。鹿児島市内のそこかしこに、幕末に活躍した人たちを顕彰するものがあるようですが、小松帯刀なんぞの銅像があって義弘のそれが存在しないことが残念です。現在の鹿児島市は戦国島津の記憶が微塵も感じられない状況にありますが、スタンプの置いてある黎明館の展示は意外に興味深い内容でした。「西郷万歳」的な陳列物に埋め尽くされているのだろうなと想像していましたが、案に相違して、外城制(薩摩藩の領国支配のシステム)を紹介するミニチュア模型や、群郭式と呼ばれる特異な城郭のジオラマといった、マニアのハートを鷲掴みする資料もあって、結構、楽しめました。それにしても、ここは鹿児島だ、と思うからなのか、何を見ても雄大に感じます。
飫肥城
2012年2月19日
江戸時代、飫肥の地を領した伊東氏。古来より、日向の地に根を張ってきた一族です。戦国後期の当主・義祐の代には日向一国を平定し最盛期を迎えるものの、わずか10年後、島津氏によって滅亡させられます。義祐は「九州の今川義元」などと言われ文弱とされている人物ですが、「九州の桶狭間」と称される木崎原の戦いで、寡勢の島津義弘に翻弄されて有力家臣を一挙に失い、これが伊東氏没落の契機となりました。義祐の子が初代飫肥藩主・祐兵ですが、縁故を頼りに豊臣秀吉の家臣となり、一兵卒から大名の地位に返り咲きました(権力者にとっては、島津対策の面で利用価値があったからに過ぎないのかもしれませんが)。「鎌倉以来の」と言われる家柄の助けもあったとは思いますが、祐兵はそれなりに裸一貫からのし上がり、伊東版レコンキスタを果たしたわけですが、このあたり、なかなかドラマチックです。今回、そんな戦国の栄枯盛衰に思いを馳せながらの飫肥城散策となりました。それにしても特産品の飫肥杉が実に美しい。美林を眺めながらのドライブは格別です。
新発田城
2012年4月8日
周知のとおり、自衛隊駐屯地に占領された新発田城。「現新発田城」の敷地は狭く、国有地を間借りしているかのようです(廃城後、軍事施設として転用されなければ完全に湮滅していたのかもしれませんが)。ざっと見て回るだけなら20分で済みそうですが、しかしながら、狭いエリアに現存の隅櫓と本丸表門、復元の隅櫓と御三階櫓が居並ぶ景観は、なかなかの迫力です。一般観光客でも「城に来た感」を感じると思われ、ましてや百名城の巡礼者ならば「ほう、やるじゃないか」と思うこと請け合いです。訪問前は、さほど期待していませんでしたが、いい意味で裏切られました。迫力ある建築物を支える石垣は、6万石の小大名の居城には過ぎたる出来映えに感じましたが、17世紀末に大地震で崩壊した野面の石垣を打ち込み接で積み直したものとのこと。慶長の築城時にはコスト的に難しかった土木技術も、100年後にはリーズナブルになっていたのでしょうか。「いい仕事している」感があります。新発田城から歩いて20分のところに、藩の下屋敷庭園だった清水園があります。石高相応のこぢんまりした庭園ですが、ただっ広い「三名園」より趣があって、個人的には好ましく思います。
会津若松城
2012年4月29日
GWに桜の満開が重なる絶好の時季に会津若松城を訪問。城内にはブルーシートを広げて宴会するグループも多く、春たけなわの風情が濃厚に漂っていました。さりながら戦国好きにとって会津若松城と言えば、やはり戊辰戦争なわけで、花見より城見、奥羽を睥睨する巨大城郭を堪能しました。新政府軍の侵入を許さなかった鉄壁の縄張は、蒲生氏郷による基礎の上に、松山城の築城者として知られる加藤嘉明の嫡男・加藤明成が二つの出丸を増築した構えになっています。加藤明成は不和になって出奔した家老を捜し出し、追討したために改易されたという、暴君の典型のような男ですが、その性根、よほど攻撃的なのか、追手門のある北出丸には「みなごろし丸」の異名があり、ここに踏み込んだら最後、全方位からの狙撃は必至です。結局、新政府軍は追手を突破できなかったわけですが、兵器で勝る彼らは若松城を見下ろす小高い山(小田山城と言い、歩いて30分ほど)にアームストロング砲を設置し、砲弾の雨を降らせました。現在、満身創痍の若松城の写真が残されていますが、燃え落ちることなく近代兵器に耐えた姿は、まさに会津士魂。「人は城」ならぬ「城は人」です。