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メンバー情報

ID10820
名前YMD50-1
コメント続百名城を中心にできるだけ公共交通機関を利用しながら城めぐりを続けたいと思います。
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
菅谷館
2018年4月8日
2018年4月6日から続百名城のスタンプラリーが始まった。真っ先に向かったのは、近場の菅谷館。何度も訪れたことのある場所だが、そもそも城跡と意識したことはなかった。埼玉県立嵐山史跡博物館に立ち寄り、続百名城スタンプ帳に真新しいスタンプを押す。土塁と堀だけが残る城跡なので、スタンプのデザインもなかなか苦労したようだ。二の郭、本郭へ向かうと生い茂っていた樹木がかなり伐採され、見通しが良くなっている。空堀が思ったより深い上、本郭を囲む土塁も傾斜が急で高く盛り土された大規模なものだ。広場の草も刈り取られていて、続百名城に選定されたことを機に、館内のおおがかりな整備も始まったようだ。本郭を始め、二の郭、三の郭、西の郭などは空堀と高い土塁に囲まれており、関東に残る典型的な中世城郭らしい。復元された建築物は三の郭と西郭を結ぶ橋だけであるが、この館にはどんな建物があったのだろうか?
杉山城
2018年5月4日
杉山城を訪れたこの日は休日であるが、嵐山町役場玄関は開いていて、スタンプはわかりやすい位置にあった。ただ、杉山城の場所はわかりにくい。町立玉の岡中学校の駐車場では居合わせた先生からは、杉山城への近道を教えてもらった。
 杉山城は土の城である。続百名城に選ばれてから、土塁や空堀に生い茂っていた草木が刈り取られたようだ。土塁が階段状に何段にも積み重なったような構造の城である。さらに虎口や空堀も加わるため、小さいけれどなかなか複雑な縄張りのようだ。大手口跡から、本郭を目指して登った。途中の土塁を超えると空堀や横に伸びる道もあり、急な崖に続いたりする。さらに、それぞれの郭は小さいものの隣の郭に移動するには、空堀があったり、虎口があったり、径が曲がっていたりして、建築物が加わると迷路のようになるかもしれない。
杉山城は様々な仕掛けが施された、典型的な土の山城のようだ。
土浦城
2018年5月20日
土浦駅から土浦城のある亀城公園までは徒歩10分程度の距離である。日曜の昼近くであるが、駅前にも公園への通りにも人通りは少ない。
亀城公園に近づくと堀が現れ、木々に囲まれた櫓(東櫓)が見えてきた。土浦城は堀に囲まれた平城で、本丸と二の丸を中心に公園となっている。堀に沿って歩くと櫓門の前に出た。江戸時代からの建物で太鼓櫓門と呼ばれるらしい。門をくぐると本丸であるが、東西二つの櫓と北の小さな門(霞門)の建物以外に、城跡らしさは残されていない。本丸跡は純然たる公園となっており、親子連れが遊んでいる。続100名城のスタンプは東櫓の内部に設置されており、係員が一人いるだけだった。東西の櫓は復元された建物らしい。本丸跡から櫓門を通って二の丸跡の庭園を巡ると土浦市立博物館の前に出た。
土浦城は小さいながらも、堀と櫓門が残り、東西櫓・土塀が復元された城らしい外観を持つ公園になっていた。
福知山城
2018年8月27日
8時40分福知山駅前のホテルに荷物を預け福知山城へ出発。天気もよく城のふもとの公園からは、朝日に輝く天守が鮮やかだ。太鼓橋を渡って、城への坂道を上る。転用石の矢印のある石垣を見ながら本丸広場にたどり着く。明智光秀が築いた福知山城は石垣に特徴がある。野面積みの石垣にはところどころ四角柱の石材が転用されており、文字や模様らしきものも見える。見かけ上は隙間の多いグサグサの石垣に見えるが、しっかりしているようだ。復元天守は板張り壁と白壁が基調の質素な作りになっている。小高い丘の上に立つので、天守最上階(4階)からは4方がよく見渡せる。
 福知山ではこの城を中心とした街づくりを明智光秀により行われたとビデオ説明があった。城の立地状況を見渡すと、守りのかなめというだけでなく治政の中心地におこうとした意図が感じられる。完成3年後に、本能寺の変に至ったのは歴史の皮肉だろうか?
出石城・有子山城
2018年8月27日
出石の皿そばで腹ごしらえをした後、出石城巡りに出発。最初は有子山城として山頂に城が築かれていたが、江戸時代になり山裾に出石城が築かれ、城下町が発展したようだ。小ぶりな城だが、階段状に整然と石垣が築かれ、堀にかかる小さな登城橋・登城門は、いい雰囲気を作っている。東西の隅櫓もこの城にふさわしい端正な建物である。東隅櫓の北側の石垣や神社近くの地面では発掘調査の最中だった。猛暑の中、廓内には樹木も多く木陰を吹き渡る風も気持ちよかった。
  出石城は、堀、登城橋、登城門、石垣、庭園、東西の隅櫓といった、城郭の構成要素が階段状にコンパクトに並んだ、小ぶりだがいい城である。
 城を見た後は、家老屋敷に入った。屋敷内の2階部分には誰もいないし、戸を開け放ってあるため風通しもよかった。畳の上に寝転び休息をとることができとても助かった。ここで観た、大名行列のビデオも面白かった
大和郡山城
2018年10月12日
近鉄郡山駅から10分足らずで大和郡山城の堀端に到着。堀に沿って城門へ向かった。追手門と追手向櫓・追手東隅櫓が復元されている。大和郡山城の写真としてはこの櫓が有名。しかし、城内に入ってみると、天守台と石垣が目に飛び込んできた。豊臣秀長が天守台を築いたとのことであり、築城当時の状態をほぼそのまま保ってきたようである。2017年3月の天守台修理の際には樹木を切り払い、石垣も積みなおしたところ、多くの転用石が出てきたそうだ。天守台の石垣の基礎部部分には細長い石材が見られ、奈良各地の寺院から持ってきた五輪塔やお地蔵さんなどが使われているようだ。
 天守台の展望台に登ると、予想以上に高くて堀や櫓が眼下に見える。見晴らしがよく、奈良方面は若草山まで見渡せる。この城に来るまでは、追手門付近の櫓に代表される城だと思っていたが、立派な天守台と石垣のほうがこの城を代表するのでは?と思えてきた。
岸和田城
2018年12月9日
岸和田駅で乗り換えた電車からは岸和田城天守閣はよく見える。次の蛸地蔵駅で下車。地図を頼りに、細い路地を城方面に向かう。人通りもなく、閑静なというか寂しい住宅街である。岸和田高校に突き当たり、左を見ると堀と天守閣が飛び込んできた。岸和田城は堀の上に石垣と天守閣のセットが浮かんだようなかわいらしいお城である。石垣の上の天守閣は3階3層のバランスの取れたちょうどよい大きさに思える。堀の水際まで階段で降りられる。水面に近いため、石垣や天守を見上げるようなアングルになる。岸和田城は本来、幾重にも堀に囲まれた大きな城だったらしいが、現在は本丸と二の丸を囲む堀と石垣だけが残ったようだ。
  城門から本丸に入ると、八陣の庭と呼ばれる庭園になっている。八陣の庭は諸葛孔明の編み出した陣形らしいが、天守の3階から眺めると幾何的模様の珍しい庭である。岩石と白砂(白砂利)で構成された白と黒の空間である。
津城
2018年12月9日
難波からの近鉄特急を伊勢中川駅で、名古屋行電車に乗り換え、津新町駅に着いた。
ここからは徒歩で津城跡へ向かった。市役所近くで堀と石垣が見えてきた。城跡らしいが、石垣はあまり高くないし、フラットな場所である。堀際を歩くとあっという間に天守台の石垣あたりまできてしまった。石垣は多く残っているものの、建物がないため本当に「お城公園」という名前にふさわしい城跡である。
 公園内を歩いていたおじさんから、この城について簡単に説明してもらう。三重隅櫓は写真で見ると天守閣のような印象だったが、実物はこぢんまりとした櫓だ。北側の石垣は藤堂高虎が築いた石垣とあって、他の石垣より高いものの、彼が手掛けた今治城、篠山城、伊賀上野城などの石垣と比べるとそんなに高くないし、中途半端な印象でもある。公園であったおじさんの話では、高虎は倹約家だったらしいので、材料となる岩石が少なかったためかもしれない。
郡上八幡城
2019年4月19日
長良川鉄道の「ゆっくりながめて清流列車」に乗り、郡上八幡駅に到着した。駅前には路線バスや観光タクシーも待っていたが、徒歩で城を目指した。すぐに到着できると思っていたが、吉田川沿いに20分ぐらい歩き、やっと城のふもとまで到着した。
平日なのに郡上八幡町は観光客でいっぱいである。小高い山の上に城の天守閣がそびえている。ちょうど桜の満開の時期と重なり、石垣と天守閣、若葉がとても綺麗だ。曇天なのは残念だが、5年前に来た時には、白壁がマイマイガのさなぎの抜け殻でいっぱいだったが、きれいに取り払われている。木造天守は小ぶりであるが、日本の城という感じだ。今回は遠足の小中学生たちも天守内に来ており、動くたびに階上の床がギシギシ鳴る。以前来た時には一人だったため、あまり意識しなかったが、大路の人が動き回ると雰囲気が違う。最上階には気持ち良い風が吹き抜け、八幡の街並み見渡せた。
大垣城
2019年4月21日
大垣駅から駅前大通りを南に6,7分歩き、右手を見ると数十メートル先に城門が見えた。大垣城は平城のため、街並みに隠れてしまっている。小さな商店街の奥に、突然城門があるという感じだ。大垣は水の都と言われているので、昔は濠に囲まれた城だったのだろう。しかし、濠がほとんど残っていないのは残念だ。4層4階の天守も、第二次世界大戦の空襲で焼失してしまい、現在の復興天守はコンクリート造りである。高さ数メートルの小山の上にちょっとした石垣を築き、そこに天守を置いた感じで地味な印象の城である。
 天守閣の内部は関ヶ原の合戦を中心とした展示がメインである。大垣城は歴史上、重要な戦いの基地になっている。羽柴秀吉が賤ケ岳の戦いへ向けて急ぐ基地となり、関ヶ原の戦いでは西軍部隊の基地になり、石田三成も居たそうだ。
公園の西側広場からは、松が少し邪魔をしているが天守の眺めはなかなか立派である。
名胡桃城
2019年5月3日
後閑駅ではタクシーを呼び、名胡桃城跡に向かった。料金は2260円。続百名城に指定され、名胡桃城のノボリが立ち並んでいる。案内所のビデオでは、真田氏と北条氏が利根川を挟んで領地争いを演じ、北条氏が名胡桃城を奪ったことに端を発し、豊臣秀吉の関東進軍を招き、北条氏滅亡に至ったことが説明されている。
 城跡の整備具合は2017年11月に来た時とほぼ同じであるが、訪れる人の数が全然違う。馬出、三廓、二廓、本廓、ささ廓、袖廓と直線状に廓が並び、それぞれが空堀と土塁で囲まれる構造になっている。建物跡も明示されているが残るのは土塁と堀だけである。山の頂上部分がきれいに整地された城だ。城跡からは利根川の両岸、さらには沼田までが一望でき、眺めは最高である。
突端の袖廓で高崎のダルマ弁当を食べた。城跡に立ち、利根川を挟む「一帯を眺めながら、戦国時代に思いをはせる、絶好の地である。
沼田城
2019年5月3日
沼田城は沼田駅から15分程度となっているが、沼田駅から市街地へは河岸段丘を3,40メートル登ることになる。駅から見上げても城の在処は判然としない。駅前からの坂道を登る途中に沼田城へ向かう階段を発見。ショートカットと判断。階段と坂道を上がりきったところにも城への案内がないため、およその方向に見当をつけて進む。大きく誤っていたわけではないが、城へのショートカットとはならず、大回りになり40分近くかかってしまった。
 沼田城は江戸時代に取り壊されたため、残っているのは西櫓台の石垣の一部と石段程度である。これも地中に埋まっていたものを掘り出し発見したものらしい。公園は広くて花壇も綺麗に整備されているもの、城跡らしさには乏しい。観光案内所にも沼田城にまつわるパンフレットなどは乏しく、往時の沼田城のジオラマ模型が展示してあるに過ぎなかった。城跡からの眺望を楽しみながら、往時を思った。
村上城
2019年5月17日
村上駅から駅前通りを村上城跡へ向けて出発。快晴の天気で、日差しが強く暑い。30分程歩いて「おしゃぎり会館」に着いた。100名城のスタンプを押し、案内図やパンフレットを手に入れた。ここから城山(臥牛山)の登城口までは数分の距離である。七曲り道が城への大手道である。ゆったりとした階段道であり、木々が日陰を作り登りやすい。まさしく登城するという雰囲気になった。
 七曲り道を登りきると、石垣が見えてくる。ここから尾根伝いに山頂に向けて石垣が二重、三重に築かれ、本丸石垣へと続く。山頂地域にこれだけ規模の大きい石垣が築かれているとは予想しなかったので驚きである。建物はないが、本丸跡に立つと村上城下町は勿論、日本海まで一望できる。北方に目を転じると、田園地帯が大きな谷の奥へと続いている。五月晴れのもと、コンビニで買ってきたおおにぎりを食べながら、素晴らしい景観を楽しんだ。
高田城
2019年5月18日
高田駅の観光案内所で高田城への道を聞き、市内地図をもらう。日本一の豪雪地帯らしく、雁木のある通りも見処らしい。
 高田城までは徒歩20分ぐらいの道のりだ。城の堀からは妙高方面の山々が見え、残雪を戴いている。内堀沿いに高田城の三重櫓へ向かった。4年前に来たときは、櫓の周囲にはアジサイがきれいに咲いていたのが印象に残っている。木造で復元された三重櫓に登ると、城内には案外樹木の多いことに気づく。高田城は本丸と本丸を囲む堀も残っているが、本丸跡のかなりの部分が上越教育大学のキャンパスで自由に立ち入ることができない。
歴史博物館はなかなか面白かった。上越市の3つの城、上杉謙信の春日山城、直江津の福島城、江戸時代に築かれた高田城の説明があった。雪関連の話題として、高田はスキー発祥の地らしい。昭和20年の豪雪では、高田の連隊は出征中のため、他から軍隊が除雪の応援に来たらしい。
新宮城
2019年6月1日
新宮駅観光案内所で市街地図をもらい、阿須賀神社―新宮城―熊野速玉大社を徒歩で巡るルートを確認。阿須賀神社境内に新宮市立歴史民俗資料館があり、受付のおじさんが話好きで、どこから来たか、城巡りのスタンプが目的かなど聞かれながら、アンケート記入。
新宮城跡は資料館から5分ほどの距離で、紀勢線のトンネルがある小山の上にある。新宮城には予想以上に石垣が残っていた。建物は残っていないが、庭園らしい石組みや木々も多い。ボランティアガイドの人から、この城跡では旅館が営業していたため、石垣にも変更が加えられたことなど説明してもらった。本丸、出丸跡からは熊野川や熊野速玉大社などが一望でき、反対側は太平洋だ。ただ水の手口に通じる道が通行禁止だったのは残念。
 確かに新宮城は石垣が魅力的で、予想していたよりも大きな城だった。石垣に変更が加えられた点は残念だが、壊されなかったことを評価すべきかな?
中津城
2019年6月30日
中津駅の観光案内所で尋ねると、中津城と福沢諭吉記念館が見所と教えられた。ウオーキングマップをもらい、中津城に向かって歩くうちに、市内にはいたるところに郷土に関係する有名人や名所の説明があることに気がついた。観光文化に力を入れた街のようだ。
 中津城本丸南側の石垣と濠は修復されている。黒田時代の石垣部分と細川時代の石垣部分の相違を丁寧に再現してある。ここから東側の堀に出ると、五層天守閣と櫓がある。天守は石垣の上に張り出しているため、濠に倒れそうでちょっとバランスが悪い。天守の北側の石垣も黒田時代と細川時代の相違がはっきりしている。さらに、中津川堤防に登ると中津城は川の側に建てられた城ということがよくわかる。海も近いし、河川敷公園側にも石垣が続いている。黒田如水は川と海に近い地に城を築き、街づくりを重視したようだ。現代の中津は歴史文化に力を注ぐ城下町になっている。
臼杵城
2019年6月30日
臼杵駅の観光案内所で市内マップを手に入れ、まずスタンプのある臼杵観光交流プラザへのルートを尋ねた。案内所の外国人ボランティアの説明では、駅から交流プラザまで10分程度で到着できそうだ。 
崖を見上げながら交流プラザに到着。ここから見ると、岩山の崖の上に櫓が建ち、鳥居を通って登城する構造のようだ。古橋口からの登城路は岩を削り取って作られた狭い径で鐙坂と呼ばれるらしい。白壁の塀も曲がりくねっており、畳櫓、大門櫓へ続く堅固な作りになっている。大門櫓から中へ入ると二の丸の平坦地になっており、ところどころに石垣が残っていた。広いグラウンドもあるのには驚いた。さらに、空堀を隔てて本丸跡へと続いていた。
臼杵城は、本来、丹生島と呼ばれた島に大友宗麟によって築かれたそうだ。周囲は崖に囲まれ、登り口も少なく、なおかつ上部は平たんになっているという、城郭そのものの島をよく見つけたと思う。
富山城
2019年9月21日
富山駅構内は工事の真最中だった。市内の路面電車と岩瀬浜行きのライトレールの南北の直通運転が可能となるようだ。市内地図を見ると富山城址公園は駅から徒歩圏内である。
 城址公園の千歳御門と石垣は城らしさを見せてくれるが、門をくぐると芝生の公園である。天守閣が見えるが、本来の天守の位置にあるとは思えない。天守のような建物は富山市郷土博物館である。内部のディスプレイでは、富山城の歴史がわかりやすく紹介されていて、富山の地は領土争奪の場となったようだ。博物館を出ると、鉄門枡形部分の石垣には鏡石が数個あり、このあたりは本来の石垣のようだ。堀を渡ると、堀端からの眺めはなかなか素晴らしい。堀には石垣が続くが新しすぎるような気がする。堀に囲まれた部分は本来、土塁が主であったらしい。この地に城があったのは事実だが、城の復元が実態とかなり離れているようで、違和感が残ってしまった。
鶴ヶ岡城
2019年10月22日
鶴岡駅から15分ほど歩くと鶴岡公園に着いた。この公園は大部分が神社の境内になっていて、城跡らしきものはなかなか見つからない。社務所でスタンプを押し、藤沢周平記念館に入る。展示パネルでは彼の著作中の一文に合わせ、庄内地方の自然や風物の映像が流れる。彼の小説に登場する海坂藩は鶴岡の地を、五間川は市内を流れる内川をモデルとしている。しかし、今の鶴岡の街中に海坂藩らしい風物は残っていないようだ。
 藤沢記念館を出た後は堀を巡る。城を取り巻く堀は二重になっており、北西隅には櫓跡が残っている。公園の西側一帯は堀と土塁が残り、城跡らしい。
 致道博物館に入り、庄内藩当主の酒井氏から寄贈された建物、庭園や警察署庁舎、郡役所などの建物、庄内地方の漁船・漁具などのコレクションを見て回った。
 鶴岡公園自体は堀と土塁以外に城らしさはないが、藤沢周平記念館、致道博物館などの関連施設がとてもよかった。
秋田城
2019年10月23日
秋田駅からバスに乗ると25分程で、秋田城跡歴史資料館のバス停に到着。坂道を西に登れば資料館はすぐだ。秋田城には奈良平安時代の政庁が置かれたため、役人が使った漆紙文書など展示された出土品はとても面白い。
 秋田城跡は道路を挟んで反対側のなだらかな丘陵地帯にある。政庁の門と築地塀が復元され、建物のあった部分は保護シートで覆われている。政庁から東に向けて幅12メートルぐらいの大通りが東門に向けて伸び、通りの両側には排水路もある。復元された東門と築地塀は古代の姿を想像させてくれる。
 東門の外も古代の水洗トイレや井戸の建物の他、住居跡などの遺跡公園になっている。水洗トイレでは甕から柄杓で水をすくい壺の中へ流してみた。沈殿槽から発見された食物の種子や寄生虫の卵から、利用者は都人や日本海対岸の渤海国からやってきた客人たちだと推定されるらしい。広大な史跡公園は古代に思いを馳せられるいい場所だ。
白石城
2020年1月25日
白石駅観光案内所で市内観光地図をもらい、白石城を目指した。市役所の駐車場の脇を通ると、水路にきれいな水が流れる住宅地となり、丘の上に天守閣が見えてきた。大手門跡の坂を登り、歴史探訪ミュージアムに入ると、簡単な紹介ビデオがあり、城内の本丸御殿のヴァーチャル映像を見ることができたが、歴史的な説明があるとよかった。
 大手二門を経て、本丸に入ると天守は西北隅の石垣の上に建てられている。3層の櫓で、入口への石段が屋根で覆われているのが特徴的だ。内部に入ると、1995年に木造復元された天守は、天井や梁、太い柱、板の間が程よい色合いになっている。各階への階段が途中で方向が変わり、かなり急なところもある。復元にあたっては、全国各地の木材や瓦などを使ったらしい。白石城は明治維新ですべて解体され、公園や運動場として使われてきたとのことで、城らしさが残るのは本丸部分のみのようだ。
吉田城
2020年6月29日
吉田城鉄櫓が月曜休館のため、スタンプは豊橋市役所東棟13階に置かれていた。展望フロアとなっていて、眼下には公園が拡がり鉄櫓は木々の間に見える。
 東棟出口を出ると、広大な豊橋公園内となり、その一画が吉田城址である。本丸に通じる土橋から眺めると、本丸は深い空堀と土塁に囲まれている。土塁本丸側には低い石垣が築かれ、石垣の一部は修理・整備中だった。外側は石垣、内側は土塁というよくあるパターンと逆である。名古屋城の石垣作りで余った石が吉田城で使われたらしい。池田輝政が城の縄張りを定めたが、彼は姫路に移り、その後は領主が次々と入れ替わったようだ。本丸内部の石垣は、守りよりも見栄えが目的のように思える。ただ、復元された鉄櫓を支える石垣だけは別格で、池田氏が築いたらしい。鉄櫓脇の北門からは急な石段を下りると豊川べりに出た。豊川も城への交通路となっていたのだろうか?
浜松城
2020年6月29日
浜松駅からバスに乗車し、市役所前で下車。浜松城天守閣へのゆるい上り坂を上ると、右側の広大な区画は発掘調査中だった。
 復元された天守門をくぐり天守曲輪に入ると、浜松城天守閣がそびえている。この曲輪は地形に沿った曲線状の石垣に囲まれているのが珍しいようだ。天守閣は浜松市民の寄付金より復元されたらしいが、石垣の大きさに比べ天守閣がかなり小さめである。集められた資金が少し不足したのかもしれない。
 三層三階の天守閣に登ると、展望フロアからの見晴らしはよい。浜松城公園は緑豊かな広い公園であるが、城らしさが残るのは天守曲輪の一帯に限られているようだ。。 
木造建築の天守門は忠実に復元され、むき出しの木組みがよく見え、石落としの仕掛けも作られている。天守曲輪の周囲を歩くと、野面積みの石垣は粗っぽいが、堅固な造りのようだ。しかし、空堀などの城遺構はどこにあるかはわからなかった。
忍城
2020年7月21日
梅雨明け前の曇天下に、忍城へ向かった。2014年正月早々、映画「のぼうの城」を見た後に舞台となったこの城と水城公園を訪れ、その後の百名城巡りを始めるきっかけとなった。埼玉県内で天守閣や櫓を見られるとは思っていなかったので、忍城の櫓を見たときは驚きだった。(写真は2014年1月)
今回は秩父鉄道を利用。行田市駅から忍城への道案内に従って歩くこと7,8分、市役所周辺の木立の向かうに御三階櫓が見えてきた。木造の門をくぐり、本丸内に入るが、内部はそんなに広くない。小さな庭園の他は行田市郷土博物館がかなりの面積を占めている。御三階櫓はコンクリート作りの建物で、博物館本体とは通路でつながっている。
 新型コロナ対策のため、博物館内部の展示品には手に触れるのは禁止。不便だが、展示は充実していると思う。行田は足袋の産地で、曙、小錦、貴乃花、舞の海など相撲力士が使った足袋の足型展示はおもしろかった。ただ、土塁遺構は見逃した。
要害山城
2020年9月11日
甲府駅北口を出てあたりを見渡すと、駅前広場には小さな洋館が建っている。藤村記念館である。受付の女性の話では、昭和の中頃まで小学校として使用されていたらしい。「藤村」といえば、島崎藤村を思い浮かべるが、山梨県では第5代県令が「藤村紫朗」という人物で、彼が奨励した西洋式建築を「藤村式建築」というそうだ。
 ここには、要害山城のスタンプが置かれているため、立ち寄った。城のパンフレットは受付の女性から受け取った。武田館の模型はあるが、要害山城の模型は見当たらない。要害山城へはここから車が便利だとのことだが炎天下のこの日はパスした。
小牧山城
2020年10月7日
名鉄小牧駅でバスに乗り間違えたと勘違いし、結局タクシーで小牧山城へ向かうことになった。
小牧市役所の向かい側は小牧山城の大きな土塁になっている。小牧長久手の戦いで徳川方の陣地として築かれたようだ。土塁の上部から大手道の階段がまっすぐに伸びている。径は広くないが、大手道の直線具合が安土城に似た感じだ。山の頂には天守に似せた歴史館が建てられているが、その周囲の斜面には巨石がごろごろしている。転落石の標識がついたものも多い。発掘調査によると、主郭を取り巻くように2段、3段に石垣が積まれていたらしい。石垣の裏側を埋めていた裏込石も多量に見つかり、整然と積まれている。織田信長による、石垣を伴う築城が小牧山城で始まったようだ。石垣が崩れ、転落石が多いのは築城技術がまだ完成していなかったためだろうか。
主郭には発掘調査の写真が随所にあり、理解を助けるよい工夫だと思った。
新府城
2020年10月21日
韮崎駅からタクシーに乗車、韮崎民俗資料館に立ち寄り、受付で新府城地図をもとに詳しい説明を受けた後でスタンプを押した。タクシーに戻り、新府城址に向かった。
 地図をもとに、新府城の大手枡形虎口を目指した。きれいに雑草が刈り取られ、南方の空には富士山が空に浮かんで見える。土塁の上に立つと、丸馬出と三日月堀の様子がよくわかる。他の主要遺構もきれいに整備されているかと期待したが、草木が伸び放題だった。
帯曲輪に戻り、北側の東出構、西出構へ向かう。出構からは、堀らしき低地の向こう側は桃畑で、甲斐の山々が良く見える。帯曲輪を伝い、城の西北にある乾門枡形虎口に到着。釜無川を望む断崖の上のようだが、木々に遮られ見通しはよくない。
乾門跡付近の土塁や土橋跡、大きな井戸跡を見ながら坂道を登り本丸に到着。本丸北部では発掘調査が行われ、ここからの眺望は素晴らしく、気持ちの良いハイキングにもなった。
龍岡城
2020年10月22日
小海線臼田駅から龍岡城へのアクセスは徒歩で22分とスマホの案内画面に表示された。稲刈り最中の田んぼ道を20分近く歩くと、高さ2メートル程度の石垣が現れてきた。龍岡城五稜郭である。
石垣と土塁の途切れた入口からは小学校の校庭・校舎が見える。こからは、水をたたえた堀となっているが、堀の幅は6,7メートルで防御に役立つとは思えない規模だ。2番目の角を廻ると大手門跡に着いた。小学校の校庭には、御台所として使われた大きな木造の建物が残る。堀に沿って歩くと石垣と土塁は往時の姿をとどめているようだ。堀はエメラルドグリーンの水をたたえ、3番目の角の堀付近では大きなコイが泳いでいる。堀際の歩ける部分は雑草が刈り取られていたが、途中からは行き止まりである。
龍岡城は函館五稜郭と同じように星形の土塁と石垣で囲まれた城郭である。こんな山中に何故、洋式城郭が築かれたのか疑問が残るが、貴重な史跡である。
滝山城
2020年11月1日
八王子駅からバスで滝山城に向かった。滝山城址下バス停で下車。道路脇の案内図に従って坂道を上る。城山はそんなに高くないものの、谷筋が複雑に入り組んでいる。そこに空堀を掘って、土塁や馬出を築いたうえに、曲輪への入口ごとに枡形が作られている。北条氏の城郭の特徴を十分に備え、遺構が良く残っているとのことだ。二の丸に向かうと、深い空堀を隔てて南馬出、さらに大馬出と東馬出があり、堅固に守られている。二の丸を通り中の丸に入るとハイキングに来た多くの人たちが弁当を食べている。広場の北側の一角からは、多摩川の眺望が開けている。中の丸から本丸への径を進むと、両者を結ぶ木橋の下に来る。この木橋は滝山城址にある唯一の城郭らしい建築物だ。
 城山は谷が深くまで切れ込み、思いのほかに複雑な地形だった。ここに、堀や土塁、枡形、馬出を組み合わせた堅固な防御が築かれていた。何故、北条氏は廃城としたのだろう。
小机城
2020年11月1日
小机駅に近い、城郷小机地区センターでスタンプを押し、受付の女性から小机城のパンフレットを受け取り、城への道順を教えてもらった。
 小机城址への小径を上っていくと、次第に孟宗竹がうっそうと茂る竹林となる。土塁の上の径からは深い空堀が見渡せる。ここを過ぎると簡単な門の復元された本丸広場に着いた。小机城には二の丸もあり、どちらが本丸の役を果たしていたのかは定かでないようだ。本丸=西郭、二の丸=東郭とも呼ばれている。西郭は孟宗竹に取り囲まれており、径の両側におびただしい数の小さな竹筒が植えられている。この竹筒の数が尋常でないので不思議に思っていたが、後で竹灯籠祭りのための準備だとわかった。東郭へ向かう径は空堀の底を通り、櫓跡、土塁、井楼跡を経て東郭広場に出た。城跡自体はそんなに大きくないが、孟宗竹がうっそうと生えているため他の城跡では見られない光景に出会った。
本佐倉城
2021年2月9日
大佐倉駅の改札を出て見回すと、本佐倉城スタンプはスタンプコーナーの金属容器にしっかり収められていた。パンフレット類はないので、佐倉駅前の観光協会でもらってきてよかった。線路際を5分ほど歩くと水田が広がり、右手前方に小高い山が目に入った。ここが本佐倉城址のようだ。
東山虎口では、曲がりくねった細い小径の周囲を高さ5,6メートルの土塁が囲んでいる。小山の上には物見台があったらしく、ビューポイントにもなっている。昔は、京成線の近くまで印旛沼の波打ち際が来ていたそうだが、現在は埋め立てられ水田となっている。
東山虎口を超えると東山馬場となり、ここには千葉氏の紋が描かれた矢盾が二、三十枚規則正しく並べられていた。舗装された小径を登るにつれ、?の郭、倉址など比較的平坦な地が続く。小高い山であるが、登るにつれ平坦部も拡がり、多くの人数が詰めることができる城だったようだ。
石垣山城
2021年3月11日
 早川駅で下車、一夜城歴史公園に向かう道路に入ると、かなり急な坂道に変わった。歩道のない舗装路が続き、車の通行量もかなりある。案内板には、一夜城公園までは1.7Km, 標高は250mらしい。徒歩で行くとかなりハードな行程になると予想していた。が、現実はさらに厳しいものとなった。だが、登るにつれて拡がる小田原市街と相模灘の絶景が救いになった。
 一夜城歴史公園入口に着くと大きな石垣(南曲輪の石垣)が目に飛び込んできた。野面積みであるが、大きな石の間に小さな石が埋められ、表面はずいぶん滑らかであることに驚く。二の丸(馬屋曲輪)の曲線の多い石垣、雨水を貯めるための井戸曲輪の石垣などを見ると即席の城とは思えない。
 本丸の展望台からは、小田原城天守閣を望むことができた。小田原城を囲んだ当時、小田原城に立て籠もる北条方の動きは手に取るように分かったことだろう。石垣山城は名護屋城に似た雰囲気を感じた城だった。
備中高松城
2021年3月25日
 岡山駅9時2分発の吉備線列車は20分ほどで備中高松駅に到着した。踏切を超えて備中高松城を目指す。小雨の中住宅街の小道を5分ほど歩くと、小川にかけられた木の橋がある。案内板を読むと、備中高松城の外堀の役目を果たす小川が掘削され、かけられた橋のようだ。
すぐに公園の駐車場が現れた。備中高梁城址らしい。田園地帯の中の公園で、城跡という雰囲気には乏しい。盛り土部分でも2,3メートルの高さしかないので、本当に城があったのか疑問に思える。案内板によると、三の丸、二の丸、本丸と続きそれぞれの区画はハス池で区切られ、遊歩道で結ばれている。秀吉に水攻めされた頃は、沼地・湿地に囲まれていたようだが、城域はそんなに広くない。
10時少し前に、資料館にいくと蔵の戸が開いておりスタンプを押した。有名な城であるだけに、秀吉軍に囲まれた当時の面影が失われていて、少し期待はずれだった。
新高山城
2021年3月27日
 三原駅のコインロッカーに荷物を預け、本郷駅に戻った。新高山城自体は駅から離れた山城だが、スタンプは駅に近い本郷生涯学習センターに置かれている。駅から線路沿いに5分ほど歩くと、立派な建物がある。1階ロビーのよく見える場所に、続百名城のコーナーが設置され、新高山城や毛利・小早川氏関係のパンフレットが並べられていた。
三原城、新高山城ともに小早川隆景により築かれたようだ。新高山城は沼田川をはさみ対岸の高山城とともに防御システムを形成しているのだろう。住宅街から畑の小径を通り、川岸に向かった。山陽本線を走る貨物列車とともに新高山城址を撮るが、堤防を走る道路が工事中のため堤防には上がれない。住宅街を歩き回り、何とか対岸に渡る橋のたもとに出ることができたが、ここからは城跡らしきものは何も見えなかった。
三原城
2021年3月27日
三原駅のコンコースには「城の天守台はこちら」と案内されている。北口から出ると目の前は堀と天守台である。天守台に登ると三方は堀に囲まれているが、南側は二階ホームの下に潜り込んでいる。天守台跡はかなり高く、駅のホームとほぼ同じ高さにあり、周囲の堀はずいぶん下のほうに見える。
 駅の一部には石垣が残り(かくれ城跡)、まるで線路を支えているようだ。堀を廻りながら天守台の石垣を眺めると、勾配に特徴があることとに気が付いた。水面に近くなるほど、かなり勾配が緩くなっている。優美であるが、力学的には崩れやすいのではないかと思えてしまうので、難しい積み方なのだろう。
小早川隆景が築いた三原城は、瀬戸内海へも通じており、船入櫓の石垣も残されていた。遺構の所在を見ると大きな城だったようだ。だが、鉄道建設に当たり、駅と線路を城の中心部を通すという大胆な敷設にはとにかく驚いた。
福井城
2021年9月28日
福井城は駅西口からほんの2,3分の距離にある。広大な濠と高石垣に囲まれた本丸跡を福井県庁、議事堂と県警本部の建物が占めている。午前8時半、県庁に向かう人々が城内へ入っていく現代版の登城風景が見られた。
福井城の高石垣は方形の笏谷石が整然と布積技法で築かれていて見事だ。濠の周囲を東側から回り、北側の橋から城内に入った。この日は人気の少ない県庁受付でスタンプを押し、城を離れた。
翌日、福井城の西側の濠に向かった。復元された御廊下橋の向こうには櫓門(山里口御門)も復元されている。ここから城内に入ると左手が天守台の石垣である。巨大な天守台で、登るとさらに福の井と天守を支えた石垣がある。昭和23年の福井地震のため石垣の一部は大きく傾いている。
御門へ向かうと、高石垣の上が散策路として開放されていることに気づき、早速登ってみた。濠の向こうからから眺めるのとはまた違った視点で高石垣と堀が見られたのがうれしい。
越前大野城
2021年9月28日
10時15 分越前大野駅前の通りを城に向けて歩き始めた。15分ほど歩くと結ステーションに着き、亀山にそびえる越前大野城天守が見えてきた。
 城の登り口はふもとの神社脇のようだ。「登城口は神社の左より20分」と書かれている。一方、神社右側にも小径がある。こちらは「百間坂」と呼ばれ、昔の登城路だったようだ。時間の制約があるので、階段の続く百間坂を選択した。急な登りが続くが7,8分登ると天守近くで舗装路に合流した。
越前大野城は野面積みの石垣の上に天守が復元されている。5年前の春に来た時には、反対側から天守まで登ってきたが、当時の記憶に残る場所までやってきた。300円の入館料を払って天守に入り、ビデオで越前大野の歴史を学んだ。ここは金森長近が築城し、城下町を碁盤の目状に整備したとのこと。彼の名前は飛騨高山や郡上八幡でも聞いたことがある。天守からは大野盆地一帯を見渡すことができ、満足して舗装路を下城した。
佐柿国吉城
2021年9月29日
美浜駅の観光案内所で国吉城歴史資料館への道順を尋ねると丁寧に教えてもらえた。国道と平行に旧街道(若桜街道)を進めばよい。ただ、約3キロの道のりだ。11時15分、美浜駅を出発。教えてもらった道は佐柿方面に向けてまっすぐに伸びている。
案内に従って進むこと30分以上、若狭国吉城の旗が道路脇に並ぶ。歴史資料館に11時50分到着。資料館のビデオで国吉城の歴史を学習。戦国時代、朝倉氏に攻めこまれたが、守り通したとのことだ。本丸は山上部分にあり、ふもとには城主居館があったそうで、石垣も発掘されたようだ。
 階段状に並ぶ、城主居館跡、礎石建物群へ向かい、敦賀駅で買った駅弁の鯛すしを食べることにした。木陰にある切り株にすわっての食事だが、誰もいないので気楽だ。山上本丸への坂道が続いているが、帰路のこともあり体力的には無理と判断。12時50分美浜駅への帰途についたが、往復6キロの歩きは疲れた。
原城
2022年3月19日
原城前バス停で降りると、ビニールハウスと水田の向こうに小高い丘が広がる。世界文化遺産の原城址である。1637年から1638年の冬に起こった島原・天草の乱で一揆軍が立て籠ったのがこの城である。
広い草原となっている二の丸跡を通り、本丸跡に向かった。本丸入口に残る建物の礎石や階段の石などをたどると大きな枡形になっていたようだ。総合案内所に立ち寄り、スタンプを押し、原城の案内マップを手に入れた。
一揆軍を鎮圧した後、幕府軍は原城の建物はもちろん石垣に至るまで徹底的に破壊したらしい。発掘調査をすると破却された石などが大量に出土したそうだ。現在の原城は破壊された当時から少し復元されたのだろうか?
本丸跡は広場になっていて、海側に櫓台跡もある。ここは海にせり出した台地で海側は3,40メートルの断崖となっている。海の向こうには天草の山々が見え、景色は最高のポイントである。
二の丸跡から海岸まで降りると、島原半島ジオパークの案内板がある。9万年前の阿蘇山巨大噴火に伴う火砕流が堆積したのが、原城跡の小高い丘とのことだ。
美濃金山城
2022年8月5日
可児観光交流館の玄関脇でスタンプを押し、戦国山城ミュージアムに入った。館員に本丸近くまで車で行けると教えられ、ルートマップをもらう。兼山小学校を過ぎると、すれ違いの難しい坂道が続くが、スペースのある地点で車1台に出会ったのみで助かった。出丸駐車場まで10分程度の登りだった。
出丸から本丸まで整備された山道が続く。二の丸西面の石垣、大手枡形の虎口、天守台隅の石垣を見て、本丸枡形虎口を経て本丸に至った。高さ2,3メートルの石垣が築かれているのには驚いた。本丸跡はかなり広く、建物の礎石は草に隠されているようだ。
美濃金山城は関ケ原の戦い後に廃城となり、破城の跡が残るものの、石垣や虎口の保存状態はよい。本丸跡からは眼下に木曽川、東海環状道路、可児市・美濃加茂市の市街地、愛知岐阜の県境の山々と絶好の眺望が拡がる。この城は東美濃地方で唯一の織豊系城郭らしいが、なじみ深い兼山の地にこんな山城があるとは思いもよらなかった。
高島城
2022年8月8日
諏訪市役所駐車場に車を停め高島公園に向かった。樹木が生い茂る庭園なので、炎天下の散策に木陰が気持ちよい。中央の池からは木々の向こうに高島城天守が望まれる。高島公園の東側・北側は堀と石垣で囲まれているが、園内に城郭らしさがうかがえるのは、天守閣・冠木門・隅櫓のある北側の一角のみで、少し物足りない。冠木橋を通り園外に出た。北西隅に三層天守閣が建ち、緑色の水をたたえる堀、石垣と絶好のアングルだが、逆光だった。
天守閣に入場。スタンプは1階に置かれ、ビデオでは諏訪大社の御柱祭の様子が放映されていた。1階は郷土資料館、2階以上が高島城資料室である。明治の廃藩置県に伴い天守閣は解体されたが、諏訪の住民の要望により1,970年に天守閣、冠木門、隅櫓が再建されたそうだ。3階の展望台からは、諏訪湖も眺められるが、思ったより離れている。築城当時は「諏訪の浮城」と呼ばれたらしいが現状はちょっと違う。
芥川山城
2022年10月19日
勝竜寺城を1時間ほど見て回った後、長岡京駅から高槻駅に向かった。芥川山城に登るのは断念し、高槻駅の観光案内所で高槻城公園へのルートを教えてもらった。中央センター街を5分ほど歩くと阪急高槻市駅。ここから城北通りを南へ10分で「しろあと歴史館」に着いた。ここには芥川山城のスタンプが設置されているだけでなく、芥川山城や高槻城の展示がある
。芥川山城は三好長慶が居城とした山城だが、曲輪や堀切・土塁・石垣も備えていたようだ。パンフレットによるとこの史跡は「芥川城跡」として国史跡に指定されるそうだ。
唐津城
2023年1月31日
唐津駅観光案内所で唐津城までのルートを教えてもらった。千代田橋のたもとまで15分ほど歩くと、海に面した小山の上に唐津城天守閣が見えてきた。橋を渡り東城内に入ると、城の一画を早稲田中学校・高等学校が占めている。
登城口からは石段がまっすぐに中段広場に向かっている。石段を登りきると天然記念物の大きなフジの木が迎えてくれた。今は葉を落としているが、春になれば芽吹き、きれいなフジ棚となるのだろう。中段広場から眺めると三方が海に囲まれ、西南側だけが唐津の城下町、東側の砂州には虹の松原が拡がる
唐津城の5層の天守は模擬天守だが、それでも天守を支える高石垣は立派だ。大手門をくぐると、上段広場。天守閣の内部は唐津の歴史、唐津焼、児童の「からつ」絵画コンクールの入賞作品が展示されている。穏やかな天気のおかげで最上階からの眺望をゆっくり楽しむことができた。
帰りは城の周囲の遊歩道、石垣の散歩道を歩いて駅に向かった。
小倉城
2023年2月21日
ホテルをチェックアウトする前に小倉城へ向かった。紫川にかかる橋を渡り、NHK北九州放送局の南側に回るとそこには小倉城の堀・石垣が現れる。朝日を浴びた小倉城天守は美しい。石垣が高いうえに、天守自体も全国の城のうち第6位の高さというから堂々たるものだ。近い位置から堀、石垣、天守の3パーツを見上げるアングルの写真を撮ることができた。
 城の回りを巡ると、北側の半分は堀と石垣に囲まれている。整然と築かれた野面積みの石垣は堀と一体になり、城跡らしい雰囲気が漂う。一方、南側半分には松本清張記念館、北九州市役所が建てられ、石垣の一部が残るのみである。
西門から城内に入り、本丸への階段を上がると、昔の陸軍師団司令部の正門門柱が残っている。案内板によると、小倉赴任時の森鴎外もここを通ったらしい。本丸広場にはライトアップのためカラフルな唐傘が並んでいるが、観光目的とはいえ、少し演出過剰にも思えた。
大多喜城
2023年3月10日
外房線大原駅で特急「わかしお号」から降り、いすみ鉄道の改札に向った。沿線は桜や菜の花の見ごろのようだ。やってきたディーゼル車は黄色い車体のいすみ350形のワンマンカーだ。乗客で一杯になったが、乗務員からもらった沿線ガイドマップは情報満載で面白い。列車はのどかな田園地帯をゆっくり進み。30分ほどで大多喜駅に着いた。
 駅前の観光本陣でスタンプを押し、大多喜城へのアクセスを尋ねると、大多喜高校の校庭を通るルートが近道らしい。校庭を通り抜け、本丸へ向かう山径を登りきると、目の前に天守閣が現れた。ただ、石垣の回りには工事中のロープが張られ、天守に入ることはできない。大多喜城本丸に天守が築かれていたかどうか、定まっていないようだ。フェンス越しに大多喜の街を眺めていると、本多忠勝が掘ったという「大井戸」が見えると案内にある。見下ろすと、校庭にはフェンスに囲まれた井戸がある。再び高校に戻ると、玄関の脇には薬医門が復元されている。大多喜城の遺構はこれら二点のみのようで、少し物足りない。
 今回はいすみ鉄道の頑張りが印象的な旅行だった。
興国寺城
2023年6月16日
興国寺城は愛鷹山の尾根先端に位置する城である。東海道線原駅で下車、タクシーで興国寺城に向かった。雑草がきれいに刈り取られた草地は二の丸、本丸跡であり、発掘調査中のようだ。草地は、東西北の三方を大きな土塁で囲まれている。北側の巨大な土塁を背に神社が建てられ、案内板とともにパンフレットやスタンプ入りのプラスチックケースが置かれている。土塁の背後からは、時折「シュルシュル」という新幹線車両の走行音が聞こえてくる。
  神社の横手から巨大土塁に登る。伝天守台の表示板のある小さな平地からは、土塁に囲まれた本丸と二ノ丸、南に続く市街地、駿河湾と伊豆半島の山々と一帯を見渡すことができる。土塁の北側は深さ20メートルぐらいの強大な空堀であり、底まで降りる径が続いている。
 ここは、強大な土塁と空堀が残る「土の城」で、城跡はコンパクトにまとまっている。1時間程見て回り、原駅まで30分歩いて帰った。
諏訪原城
2023年6月17日
 東海道線金谷駅で下車、観光案内所で諏訪原城へのルートを確認、東海道の金谷坂石畳を歩く。丸石が並べられた急坂で、予想外に歩きにくい。登りきると茶畑の拡がる台地である。
 道路脇に諏訪原城入口の看板を発見、民家の脇の小径を森の中へ進んだ。しばらく行くと諏訪神社、さらに進むと「丸馬出」に出た。半円形の平地、きれいに掘られた空堀が崩れないでよく残ったものと感心する。二の曲輪北馬出門を出て、平地の先端に建つと、眼下には大井川の流れ、対岸の山々、素晴らしい眺望である。    
 この後、諏訪原城ビジターセンターを探し、案内図を手に城内を順々に巡った。この城は高天神城攻略のため、武田氏によって築かれたものの、城として機能したのは20年足らずのようだ。それでも、二ノ丸曲輪の随所にある馬出、外堀、内堀、どこも手入れが行き届き、よく保存されている。本曲輪の北側先端からの大井川と島田市街の眺望は素晴らしい。「土の城」の魅力を十分に堪能できた。
高天神城
2023年6月17日
掛川駅ビジターセンターで高天神城のスタンプをゲットしたものの、現地まで行くことはあきらめた。写真は掛川城天守から眺めた、高天神城方向の眺望。
苗木城
2023年7月4日
中津川ICから国道257号線を進み、城山大橋を渡るときには、木曽川の谷が予想外に深いことに驚いた。苗木遠山史料館でスタンプを押し、さらに上の駐車場まで進んだ。山道を登るとすぐに、ビューポイントの案内がある。小高い丘からは林の向こうに、岩の塔のような苗木城本丸跡が現れる。
 石畳を進むと三の丸の広場である。ここの片側は大矢倉であり、石垣の一部に巨石が組み込まれている。反対側は岩山の本丸で、頂上に登る道がジグザグ状に続く。三の丸は鞍部に位置し、崖下からも石垣で守られているようだ。
 本丸頂上に向かう坂道は勾配も緩やかで、門跡も多い。岩山が城の縄張りに巧みに利用され、ところどころに石垣が築かれている。馬洗岩あたりからは石段となり、井桁に組まれた展望台に上ると、一気に視界が広がった。
 苗木城では岩山に築かれた本丸跡、自然の巨石を組み込んだ石垣などの城自体の魅力だけでなく、本丸展望台からの木曽川や恵那山の眺望、素晴らしい景観を味わえた。
鮫ケ尾城
2023年7月26日
北新井駅でタクシーを呼び、「斐太歴史の里まで」と伝えると、連れていかれた先が「斐太歴史民俗資料館」。運転手が行先を間違えるとは予想外で、行先を「鮫ヶ尾城跡」と伝えればよかった。
 総合案内所のスタッフから、尾根伝いに東登城道を本丸跡に向かって登り、帰りは北登城道を降るルートを勧められた。スキー用ストックを杖代わりに借りて出発。
 木々が生い茂り、強い日射しは避けられるものの、風通しはよくない。登城道は緩やかだが、最高気温34度のこの日、暑さのため汗が噴き出す。そこへ小さな虫が寄ってきて、顔や首の回りにまとわりつくのが不快だ。汗だくの登城が続き、本丸跡まで登ることだけが目標となってしまった。木立の間に東屋が見え階段を登りきると、一気に視界が開けてきた。心地よい風も吹き抜け、眼下には水田地帯が広がる。東屋で休みながらこの眺望を味わうと、30分の登城の甲斐があった。
 帰りは案内所のスタッフにタクシーを呼んでいただき、車が公園入口まで来て助かった。
米沢城
2023年9月21日
山形新幹線「つばさ129号」は米沢駅に到着。新幹線と在来線の共通改札口が1か所だけというのは意外だ。タクシーで上杉神社に向かった。米沢城址は6年前に来たことがあり、堀と土塁に囲まれた神社という印象が強い。
上杉神社の参道脇の「毘」と「龍」の軍旗が、上杉謙信ゆかりの城跡であることを教えてくれる。まず、境内の観光案内所でスタンプを押し、帰りの米沢駅行きバスの時間や停留所を教えてもらった。城跡めぐりの時間は30分程度しかない。
確かに外側から見ると、ここは堀と土塁に囲まれた城跡である。櫓跡もかなり残されているようだ。しかし、城の建物は破却され、社殿や石碑に置き換わっている。うっそうと木々が茂るため、内側に入ると、参拝者も多く、宗教色が濃くなってくる。堀を半周し、上杉謙信を祀る御堂跡や櫓跡を見て回った。
13時バス停(と思う方向)に向かったが、方角を間違え、結局はタクシーになってしまった。
飯盛城
2024年3月19日
四条畷駅から、車の通行量が多いもの歩道のない道を四条畷歴史民俗資料館に向かった。
10分ほど歩くと、住宅街の一画に、天下人 三芳長慶居城 国史跡 「飯盛城跡」と書かれたのぼりが見える。ここが資料館で、続百名城のスタンプは入口に置かれていた。館員の話では、資料館から飯盛城跡まで登ると1時間ほどかかるらしい。ここを居城とした三好長慶は織田信長に先立つ天下人として、地元では有名な人物のようだ。
 館員に説明してもらいながら館内を回ると、縄文時代から古墳時代までのもの出土品が多い。馬を津れて大陸からやってきた渡来人が、この地で馬を放牧・飼育てていたようだ。当時は、近くまで海岸が迫り、山と海に挟まれたこのあたりは交通の要衝であったそうだ。