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メンバー情報

ID10277
名前おやぐま。
コメント2013年からチャレンジするも、なかなか進まず。 。。
登城マップ訪問城マップ

登城記録

登城日順 城番号順
広島城
2013年4月30日
家内の実家に帰省中、たまたま1人で寄った広島城でガイドブックを購入してしまった。。。今に至るまでの7年近く、実父を亡くし、会社を変わり、家族が1人増え、愛するチームの優勝回数は2つ増えて3回に。けれども、続100名城まで設定されながら、押せたスタンプは合わせて74のみ。果たして、いつ200個押せるのか。。。

再建天守の重厚なイメージもさることながら、城の見取り図からも大大名らしい壮大な構えがうかがえる。とはいえ、城域が完成したのが関ヶ原の前年。その後、毛利氏改易、福島氏改易と混乱が相次ぎ、城下町まで完備された時期は、浅野氏の代らしい。広島市内の複数の川からなる三角州の上への築城とあって、埋立干拓の規模やその工法の詳細については、今だに諸説あるようだ。
八王子城
2013年5月5日
ゴールデンウィーク終盤、翌日の2013リーグ戦10節(AWAYアルディージャ戦、1ー2敗戦、、、)観戦の為に、家内と長女を義実家に預け、横浜に帰宅。1人では手持ち無沙汰とあって、車で多摩〜埼玉エリアの100名城登城へ。下道16号かつ昼過ぎて出発の為、八王子城到着時に既に14時を回ってしまった。落城時の悲話が伝わる滝や、再現された曳き橋を見ながら、割とすんなり登城出来てしまった。おそらくは城内全域を廻らなければ、後北条氏の支城時代の堅固さは実感出来ないのかもしれないと、今2020年なら考えるところだが、登城時はそこまで思い至らず。堅城といっても1日で落城か、と罰当たりな感想を持ってしまっていた。。。

とはいえ、今、見取り図を眺めていても広大な城域をカバーするには相応の人員が必須で有り、本拠地小田原城に兵力抽出せねばならなかった時点で、八王子城で稼げる日数はそう長いものではなかったのではなかろうか。
川越城
2013年5月5日
八王子城から連続して車で訪問。川越としては2001年頃以来2度目の訪問。河越夜戦のような荒々しさと、多くの老中を輩出した土地(小江戸川越)柄との、イメージギャップがあったが、現状の川越城は完全に後者そのもの。古城の見取り図を眺めても、現在の瀟洒な雰囲気からは想像し辛かった。

当時、100名城スタンプcompleteされた方の台帳が掲示されており、羨ましく思ったが、2020年現在はどうだろうか。広島城、八王子城、川越城の3つを押印したのみで、いったん熱が冷めてしまいこの後3年以上の休眠期間に入る事になる。。。
今帰仁城
2016年8月26日
2013年ゴールデンウィークの3城(広島城、八王子城、川越城)以来、久々のトライ。転職に伴う有給休暇を利用し、家族3人沖縄旅行でのスタンプ押印を狙う。レンタカー利用し那覇から北上。日本本土の石垣とは異質な、湾曲した石造りに圧倒された。断崖の上にそびえ立たせる形状での湾曲石垣は建設時もさることながら、メンテナンスの手間暇は大変なものだったろうと気が遠くなる思い。琉球と聞くと、優雅で穏やかな印象を(勝手に)持ってしまうが、その時代なりの苛斂誅求というのが付いて回るのは仕方の無い事なのだろうか。
中城城
2016年8月28日
3泊4日家族旅行での2城め。2日前に登城した今帰仁城とは、築城開始時期で200年ほど隔たりがあるそうだが、どちらも惚れ惚れするような造形だった。事実、この中城城では廃城後400年を経て来航した幕末のペリーが、その技術力に驚いたそうだ。その400年の間も、琉球政府の行政庁としては生きていたとはいえ、、、。琉球侵攻や、世界大戦、天災等々あった中、よくもここまで。
首里城
2016年8月29日
前日の中城城に続く、6城めのスタンプ押印。かつて卒業旅行として1999年夏に訪れているが、閉館時間過ぎており、外観のみを眺めて引き返した記憶がある。雅な朱色の正殿のイメージが強かったが、城域各所の石垣は精緻であり、かつ堅固な印象。権力の象徴としての造形美は勿論、比較的なだらかな周辺地形や目立つほどの濠が見当たらないとはいえ、万一の際の白兵戦ならば、一定の防御施設としても機能するのではないか。

2016年に来訪時はまだ整備中であり、それ故、象徴的な朱色もまだまだ鮮やかなまま。綺麗なままの記憶として焼き付いている。まさか整備完了した2019年その年のうちに、焼失してしまうとは。。。
千早城
2016年9月3日
今月より新会社での勤務となり、まずは大阪での3週間缶詰め研修。土日を活用して、先月末の有給休暇消化旅行(沖縄3城)に続き、近畿圏の登城を計画。まずは、大阪府下の2城を狙った。

9時前に御堂筋線から乗り換えつつ、富田林駅から河内長野、そこからバスに乗り換えて昼前には金剛登山口に到着。辺り一帯に、いわゆる楠木七城が点在していたようだが、南北朝時代の通信手段で、各砦の連携が取れたのだろうか?フル装備の鎌倉武士が急峻な地形を駆けめぐれるとは思えず、ガッチリとした包囲網を敷いた以外は、山中での不期遭遇戦が散発した程度だったのではないかと思われる。攻城戦としてはなかなか太平記のような血湧き肉躍る戦闘は想像し辛い。とはいえ、道に不慣れな鎌倉方を地の利を得た楠木方が翻弄するにはもってこいの城構えであったろうと思われた。

帰路はバスのタイミングが合わず、2時間ほどかけて河内長野駅まで徒歩。次の大阪城へ向かう。再訪する機会があれば、金剛山一帯の散策も試みたい。
大阪城
2016年9月3日
千早城から移動、人生3回目(1998年秋?2005年夏?)の大阪城訪問。とりあえず、蛸石を見るとへばり付きたくなってしまう。以前と比べて、外国人観光客の方が増えている印象。大阪城に限った事ではないが、インバウンドという単語を実感する。加えて、今年のNHK大河ドラマ真田丸の影響は大きく、日本人の来客もなかなか。とはいえ地下遺構を除けば、現存の縄張りは全て徳川治世ものであり、豊臣時代のそれをイメージし辛いのは少し寂しい。時間が余り周辺を歩き回ってみたが、周辺から城構えに向かってゆるやかながらも登っていく地形から、上町台地に築かれた要害という解説に納得がいった。
二条城
2016年9月4日
前日の千早城、大阪城に続き、登城。6〜7回回目くらいの京都だが、京都駅〜国際会館か鴨川沿いの訪問が多く、このエリアは初訪問。御殿のような様式を想像していたが、外堀内堀も備えておりこれで天守閣でも建っていれば、これほど城らしい城も無いのでは、とさえ感じた。

教科書等々で眺めていた二の丸御殿天井はじめ、各種建築は壮麗の一言。大政奉還の舞台となったetc、雰囲気は抜群であった。
和歌山城
2016年9月22日
大阪での3週間研修中に少しでもスタンプを集めるべく、先々週の千早城、大阪城、二条城に続き、和歌山城、高取城を目指した。 まずは、大阪市内から和歌山市駅まで1時間半、プラス徒歩10分ほどで到着。天守曲輪や、御橋廊下、岡口門など、各種資料に掲載されている遺構は復元具合も含めて、流石の迫力であった。展示物の豊富さや、和歌山出身の偉人紹介など、見応え読み応え有り。

仕方のない事であるが、三の丸や総構えまでも含めた和歌山城を見てみたかった。御三家や大諸侯の居城の存迫力とは、本丸周辺の壮麗さに加えその容積量から醸し出される物理的迫力あってこそなのではないだろうか。もちろん、全国どこの旧城下町も、時には本丸まで街並みと溶け込んでおり、見果てぬ夢なのだが。
高取城
2016年9月22日
和歌山市駅から移動、壺阪駅まで2時間ばかり。そこからバス移動も考えたが、ひたすら歩いて登城してみる事に。結果、駅からの往復に城内見学含めて4時間近く費やす事になった。勿論、後悔など一切無く、旧ニの門から松の門といった下屋敷の風情。どこからかっぱらって来たのか猿石、山城なのに水掘と見どころ満載の登場路。本丸周辺の石垣遺構は言うに及ばず。どこもかしこも写真を撮るだけでは勿体無くて、必死に記憶に留めようと頑張った。とはいえCGによる再現図で、「巽高取 雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」その往時の威容もうかがい知る事も可能。大満足であった。

以下、反省。下調べ甘く、ここまでの登山ルートとは思わず。断続的な雨が降り続き、夕闇も迫り、カエルを追いかけるヘビに遭遇するような状況であったに関わらず、半袖Tシャツにサンダル履き、肩掛けカバンと舐めきったスタイルで登城してしまった。これ以降、登城の際の下調べは入念に行なっている。
平戸城
2016年12月4日
前日に、福岡の自宅からの家族ドライブでハウステンボスを目指していたつもりが、たまたま立ち寄った波佐見温泉、湯治楼に宿泊。呼子のイカ等々求めての帰路に、こちらに立ち寄った。

再建築されたも遺構が多いが、ユニークな伝承を持つ狸櫓はオリジナル。解説版によると、狸が城主の夢枕に立ったのは、もうじき幕末明治の天保年間だそうで、そうなると狸の約束した永代守護というのも、まだまだ長期観察の必要がありそう。また、山鹿素行考案と伝わる折れ壁の解説版があったが、実効性あるのかなあ?という印象。労多くして、、、というか。この感想は、2019年末に訪問した赤穂城でも変わらなかった。軍学者の存在意義が、卜占の類だけだったとまでは思わないが。。。

館内の松浦党の解説ボードは分かり易かった。魏志倭人伝の末盧国に比定される平戸松浦だが、現地に立ってみると、実感が湧いてくる。明治天皇ゆかりの土地でもあるようで、散策ルートとしては満足。
鹿児島城
2016年12月30日
実家に帰省した際に登城。地元民としては、鹿児島城とは耳覚えが無く、鶴丸城の呼称がしっくりくる。身びいき無しに、鹿児島は観光地として国内屈指(地元民も認めるPR下手ではあるが)と思うが、鶴丸城に限っては、石垣に残る西南戦争時の銃撃痕を除けば、およそ血湧き肉踊らざる城跡である。但し、隣接する黎明館に常設してある、志布志城模型は圧巻。黎明館、可能であれば磯庭園&尚古集成館までセットでの見学がおすすめ。天守閣はおろか、多層の櫓や高石垣も皆無。関ヶ原以降の、薩摩藩としての幕府への恭順姿勢、と小さい頃から教わってきたが、果たして真相は??幕末に限らず、薩摩藩はマアマア舐め腐った態度を江戸に示しており、そんなしおらしい姿勢をとるのかという疑問が湧く。硬軟織り交ぜての外交姿勢の可能性もあるが、単純に資金難がその理由ではないだろうか。また、自軍の野戦における絶対の自信からくる籠城戦の軽視(岡城、角牟礼城、熊本城などシッペ返しの例は多そうだが)。そして、郷士制度の採用なども有り、領民への示威の必要性も余裕も生まれなかった事などが、鶴丸城に繋がったのではないか。
名護屋城
2017年1月8日
波佐見温泉への家族旅行の往路に立ち寄る。小学生の頃、始めて名護屋城の解説を読んだ時に、名古屋城のパクリのような、何より外征のための臨時建築だろうとの印象が染み付いてしまい、余り期待せずに来訪してしまった。

勘違いもいいところ、豊臣秀吉を、戦国大名を、穴太衆を舐めてました。徳川治世下でだいぶ崩されたとはいえ、圧倒的な規模は健在。今回は本丸周辺のみの散策となってしまったが、大名の陣屋跡まで是非、踏破してみたい。隣接するセンターが休館しておられ、残念。併せての再訪を。
吉野ヶ里
2017年1月9日
波佐見温泉への家族ドライブの帰路に訪問。多くの?九州出身者の例に漏れず、小学生の時分に、親にドライブがてらの見学で連れて来てもらった記憶がある。土埃の立つまだ生々しい発掘現場であったその記憶からするとここまで整備復元されていた事に、正直驚いた。恥ずかしながら、散々、社会科テストで読み書きしてきたはずの竪穴式住居の意味、実態を初めて知る。2016年からの福岡住まいとして狗奴韓国〜に始まる魏志倭人伝の記載から、邪馬台国九州説を信じている。主に距離感の問題としてだが、九州北部のいずれかではなかろうか。陸行水行の記述の謎は確かにあるけれども、この吉野ヶ里遺跡付近においても、有明海海岸線や筑後川水路が現在とは異なる事を考慮すると、考察を寄せて行けるのではないかと考える。もちろん、吉野ヶ里遺跡イコール邪馬台国とは言い切れない。吉野ヶ里遺跡の敷地内だけでも、縄文〜古墳時代まで数百年の歴史があり、まだまだ夢は尽きそうにない。15時前の到着、幼稚園児連れとあってやや時間に押されての散策になってしまった。各種体験コースや、ガイドさんのレクチャーなど、再訪の際には、ゆっくりと遺跡巡りをしてみたい。
佐賀城
2017年1月14日
前日の佐賀出張からの帰宅前に、早朝訪問。平城らしい平城というか、何だか全体に低いぞ??それもそのはずで、非常時には周辺水路を決壊させ城内主要部を残して水没させる「沈み城」という防御機構を持っていたとか。個人的には、この手の伝説はマユツバと思っている(復旧時の事を考慮しない?領民や戦闘員家族からの恨み辛み凄くない?本当に稼働するのか検証実験はやったの?etc)が、往時は幾重にも濠が巡らされていたとの解説文あり。また「沈み城」の名称由来としては、周囲から城内を見られにくいように樹木の植え込みを重視していたとの解説もあった。こちらの由来の方が、個人的にはしっくりくる。けれども、それが主因ではないだろうが(そもそも松や楠は燃えやすいのだろうか?)、何度も火災に見舞われたよう城だそうで、現存する遺構は少ない。隣接する歴史館は見どころ多く、特に有名な鍋島閑叟時代の資料展示は興味深い。余談だが、全く興味無さそうな海外観光客が多数、来館されていた。福岡空港で捌き切れない海外便を、佐賀空港に回した影響なのだろうか。帰宅後、大野城、福岡城を目指す。
福岡城
2017年1月14日
自宅近くの100名城(佐賀、大野、福岡)狙い、3城め。とにかく広壮な印象。広島城はじめ海岸近くに造築された多くの城と同様に、福岡城も当時と現在とで海岸線が全く異なっており、城の全貌を想像するのは困難に思われる。それでも、石垣遺構から察するに、熊本城にも比肩し得る戦闘力を備えていたのではないか。黒田長政を開祖として福岡藩は、徳川300年の治世で1度も国替えが無かったとの事。52万石の所領といい、関ヶ原での功績がそれだけ高く評価されていたという事か。隣接する鴻臚館跡も、歴史好きには必見の展示内容。博多は、大陸に向けての海の玄関口であったと実感出来る。

小雨の上がった冬場の15時過ぎとあって、肌寒さの記憶が強い。自宅から徒歩20分にも関わらず、2020年現在で再訪しておらず。転勤族の危うい身の上としては、近いうちに必ず。
大野城
2017年1月14日
佐賀城から移動、この後の福岡城まで含めた自宅最寄りの3城スタンプ狙い、2城め。小雨混じりの空模様とあって、百間石垣も足場が悪く、ビクビクしながらの登城となった。割とくまなく散策したが、2017年訪問時は、まだまだ理解が浅く、太宰府防衛の主軸としての凄みを感じ取れなかった。続100名城(水城、基肄城、鞠智城、鬼ノ城)もある程度まで進んだ現在、金田城を訪問した後くらいのタイミングで再訪してみたい。
徳島城
2017年1月20日
1泊2日出張に併せて、100名城スタンプラリー四国初上陸。当時の建築物は石垣以外、ほぼ残っていないようで、少し残念。ただ、石垣遺構は迫力のあるものだった。時間の関係で焦ってしまい、うっかり平城部分のみの見学に終わってしまった事に後日気付いた。山城部分も散策出来れば、また印象も変わっていたのかも。隣接する博物館は、城主であった蜂須賀家の資料が中心。この城の完成を祝い、城主が振舞い酒を施した事から阿波踊りが始まった、との伝承があるそうだ。物足りなさを払拭すべく、翌日、眉山観光と併せて阿波踊り会館、徳島ラーメンの王王軒にも訪問。トータルでは、十分満足出来た。
丸亀城
2017年2月18日
4泊5日の家族旅行(1泊目ファミリーロッジ旅籠屋宮島SA、2泊目ホテルNo1高松、3泊目ホテルタウン錦川、4泊目ホテル中川)で、1月前の徳島城に続けて、四国のスタンプ全押しを狙う。瀬戸大橋、倉敷〜坂出を渡り、まず1城めとして訪問。今思い出すに、ここの石垣の凄さを深く感じ取らないまま、次の高松城に向かった自分が、非常に残念。当時撮った写真や、様々な記事を見直してみて、この三重四重の高石垣を、スゴいな〜くらいでアッサリ見過ごしてしまったとは。。。現存としては最小ながらも立派な天守閣は内部立ち入り可能で、ギシギシ鳴る階段に壊しゃしないかと気が気でなかった思い出がある。
高松城
2017年2月18日
4泊5日四国家族旅行、2城め。海城というだけあって、濠中に鯛が泳いでいる。。。後で知ったが、養殖しているようだ。ザッと城内散策し、月見櫓と水門を写真に収め撤収。この後、家内が行きたがっていた北浜アリーへの訪問を控え、少し忙しなかったが家族旅行の隙間とあっては致し方無し。北浜アリーは、良い意味で意識高さもありつつの、どこか懐かしい感じ。楽しめました。
高知城
2017年2月19日
4泊5日四国家族旅行、3城め。2008、2009年と2度訪問した事があるが、これだけ保存量のボリュームがある城だと、全く飽きない。少し地味ながら石垣を降水から守る為の、雨樋が印象的であった。子供のトイレ探しで右往左往した思い出も。。。散策後は、朝市の通りからひろめ市場まで。海鮮好きとしては、ここも外せないところ。
宇和島城
2017年2月20日
4泊5日四国家族旅行、4城め。香川、高知と巡って来ての愛媛県。父方の実家が新居浜であった為、今治城、松山城と並んで小学生以来のべ3〜4回づつは訪問しているような。前回2009年に伯父伯母両親との旅行で訪れた際には、司馬遼太郎の街道を行くにも登場された方とも、偶々お会いする事が出来た。その伯父伯母も今は亡く、懐かしさもあるが、今は家族旅行中の身。。。有名な??傾斜はキツイが短い距離の登城ルート、傾斜は緩やかだが長めの距離のそれ。前者を迷わず選択して全力で登城、スタンプ押印し撤収。直前に訪れた四万十川と併せ、子供がもう少し大きくなったら再訪したい。
大洲城
2017年2月20日
4泊5日四国家族旅行も、丸亀、高松、高知、宇和島と来て、ここで5城め。霧雨が降る中の登城であったが、それ故に白亜の再建天守群がとても映えていた。大洲は「伊予の小京都」と呼ばれているそうだ。この手の呼称は大抵、名前負けしてしまうように感じるが、十分納得のいく風情景観であった。
湯築城
2017年2月21日
4泊5日四国家族旅行も最終日。湯築、松山、今治の順で訪問。まずは、家族が朝風呂に出かけるのと同時に、1人で散歩がてら訪問。宿泊したホテル中川から徒歩10分程度。母方の親戚が、再建作業に従事した事もあって、初訪問ながら何か親しみが。上空からの鳥瞰写真でもわかるとうり、小規模ながら綺麗に丸型に構築された縄張り。隣接する資料館での河野氏の学習VTRも見応えあり。元寇の時に奮戦した河野道有の時代よりは新しい築城年代になるようだ。自宅近くに元寇防塁がある事もあり「河野の後築地」の故郷を訪れた感慨有り。
松山城
2017年2月21日
四国ツアー最終日、2城め。湯築城から愛車デミオで移動し、家族3人ロープウェイで登城。松山城としては、1980年代に実父の帰省時に2度ほど、2008年に家内と1度、2009年に当時の会社で愛媛転勤した同僚を訪ねて1度、少なくとも5回目の訪問となる。今更言うまでもない、国内有数の名城だが、改めて解説版等読むと、大戦中の空襲や戦後に失火でもかなりのオリジナル建築を焼失してしまっているそうだ。それでも、戦後数度にわたり粘り強く再建作業が行われ、現在も威容を保っているらしい。また、幼い頃に訪問した当時から売店その他サービスも充実していた記憶があり。こうした文化財産を身近に感じられるよう保持して下さっている地元の方々や、関係各所の方々に感謝。続100名城まで完遂した後、またじっくり再訪したい。
今治城
2017年2月21日
ここで四国100名城コンプリート!先月に会社出張を利用しての徳島。今回のツアーで、丸亀、高松、高知、宇和島、大洲、湯築、松山ときて、こちらの今治。ここも松山城と同じく父に連れられての祖父宅への帰省に伴い1980年代に2度ほど。その後も2018年前後に家内と1度、伯父伯母両親と2019年に1度訪問している。という事もあり今回は、家族は車で待機、自分1人でそそくさと散策。小学生の時分に父と訪問した際、まだ真新しい再建された櫓をみた記憶がある。恐らくは、1985年再建の東隅櫓だったのか。その頃から当たり前に眺めていた天守閣、再建だろうとは思っていたが、存否が議論を呼んでいたとは初めて知った。今現在のご当地、福岡城でも天守閣存否議論がある。古文書等、保存されているケースが多いイメージで有り、歴史探訪し易いように感じる日本史だが、謎もまだまだ多いようだ。
岩国城
2017年3月5日
前日の2017年Jリーグ2節HOMEエスパルス戦(0-1敗戦。前節HOMEアルビレックス戦の1-1、次節AWAYサガン戦の0-1敗戦と開幕3戦に駆けつけ勝ち無し。初勝利は6節までお預け、ギリギリ残留という厳しいシーズンであった)観戦の為、帰広。家族3人、愛車デミオで下道2号線を東へ。岩国城としては初だが、麓の錦帯橋は1988年前後に、家族旅行で来ている。その頃、流行っていた??帝都大戦というトンデモ映画に、錦帯橋の石人形が出ていたような。魔人加藤が、小学生にはトラウマ級怖さでした。。。

今回の来訪では、天守閣内の展示物に大満足。槍鉄砲に、銘刀の数々。個人的には奉納品として打たれた大太刀に釘付けに。錦帯橋関連として、各地有名どころの橋梁の解説も◎。
島原城
2017年5月1日
母と登城。
角牟礼城
2018年10月13日
100名城も道半ば、どころか三分の一にも満たないこの角牟礼城でようやく29城め。続100名城にも足を踏み入れてしまった。子供が大好き、大分ハーモニーランドを目指し前乗りの宿であるゲストハウス狩宿への途中に立ち寄る。安土城と似通った特徴を持つ穴太衆が手掛けた近世城郭の野面積み〜との記載を見かけるが、島津の九州統一戦の際に押し返した時代には、その石垣は未造築だったようだ。同じ大分岡城はもちろん、後に石垣山城を見て、山上に巨大石垣を積み上げようという強い意志に引くほどの凄みを感じたが、この角牟礼城もなかなかの情熱の賜物であると感じた。
知覧城
2018年10月21日
実家帰省に便乗し、長女と2人スタンプ押印へ。鹿児島人にも関わらず標識を見落としてすっかり迷ってしまい子連れでもあって、外郭を1週したのみ。郭内のシラス台地の自然物を最大限活かした巧妙な縄張り云々を味わうのは、翌年末の志布志城まで待たねばならなくなってしまった。著名な知覧特攻平和会館は、今回はパス。幼少時はじめ10回は訪れているが、様々な感情感想を経て今となっては狼狽える感情しか持てず、まだ小さい我が子に説明できる理屈を私が備え切れていない為。矛盾するようだが、多くの人に訪れて欲しい場所です。そして、だから戦争はダメだだけではなく、国を守る尊い行為だっただけでもなく色々と感じて欲しい場所であります。
志苔館
2018年12月2日
2018Jリーグ最終節(AWAYコンサドーレ戦)に合わせた、北海道ツアー。旅程を立てる前の勇んだ気分では、チャシ跡までは無理としても、残りの4城は一気に攻略!と勢い込んでいた。11/30(金)スワンキーホテル@札幌、12/1(土)AーGATEホテル@函館、12/2(日)ホテルニューバジェット@札幌と3連泊旅程にも関わらず冷静にタイムスケジュール組んでみると今回は2城が良いところ。あくまで12/1(土)14時キックオフ@札幌ドームでの試合観戦がメインであり、致し方無し。。。北海道は広い。

ホテルで無料レンタルサービスを利用し、40分ほどかけて到着。前日の0ー2から2ー2に追いついたとはいえ9戦勝ち無し(2分7敗)の大失速で優勝を逃した後とあってどこか索漠とした気分での登城。見晴らしの良い丘の上に、空堀を掘り、柵を立てて行政庁に最低限の防御機構を持たせたと思われる。アイヌと和人との抗争で何度か陥されているようだが、堀はそこそこ深く急斜面でもあり、白兵戦で柵内に踊り込むには、相当、剽悍な兵士でなければ難しそう。そのままレンタサイクルで五稜郭へ。
五稜郭
2018年12月2日
志苔館から30分ほどかけて自転車で到着。1997夏以来の2度目の函館&五稜郭。前回は、個人的な新撰組ブームのさなかであり、土方歳三の足跡巡りがメインであったが、今回は流石にじっくりと城内散策。隣接する五稜郭タワーからの鳥瞰写真のとうり、綺麗な星型。但し、冬場とあって枯れ草や土が目立つやや殺風景な印象。記憶にない建物は、2010年に再建された函館奉行所であった。

未成のままであった事が知られているが、殺傷力の増した榴弾や防塁越しに曲射できる臼砲の発明により当時既に時代遅れだったとの記述も有り。幕府はお抱え外国人に騙された?それとも担当者が読み込んだ要塞に関する文献が古新聞であったのか?

いずれにせよ、丁度150年前の戊辰戦争最終局面の舞台であり、維新側も旧幕側も、よくぞここまで、、、の思いが強かったのではなかろうか。
水城
2018年12月19日
直前に訪れた基肄城と対になって博多湾からの外寇を迎え撃つ大野城、その前衛を固めるのが、この水城であり、最前線には同じく続100名城の対馬の金田城。後方で兵站を支えるのが、鞠智城といったフォーメーション。しかし、日本書紀などの記載を信じるならば、百済のピンチを救わんと行軍万里というか玄界灘を人力で渡りきり押しかけていくその勇ましさと、白村江での戦術の拙さと、反転するや西日本一帯に莫大な労力を注ぎ込んで朝鮮式山城を築いていったやや病的な恐怖心が、同一集団の中に併存しているのがやや不思議である。結果、大陸国家も半島国家もその後、大々的に渡海してきたのは文永の役弘安の役まで無かった。一所懸命築き上げたこれら山城群だが、いざ敵軍侵攻となると、防人メインの時代では何処かしかで防衛ラインの破綻を喫したと思われる。万里の長城胡を防がず、を地で行く事になったのでは。。。とはいえ、古代日本の一大国家プロジェクトが、間近で見学出来る事は有難い。この水城も続100名城にありがちな、経済成長期に致し方無かったとは思うものの、交通インフラで城跡を裁断されているのが残念。
基肄城
2018年12月19日
仕事の合間を縫って、平日午後に近場の2城(基肄城、水城)を狙った。九州道で基山SAは、比較的良く知られたサービスエリアと思われるが、続100名城を開始するまで、「きざん」と読んでしまっていた。その基山、に築かれたのが基肄城である。スタンプ設置場所である基山町民会館で頂いた、まんが『基肄城のヒミツ』が子供向けなのだろうけれども、個人的にはポイント押さえてくれていて理解りやすかった。感謝。既に100名城として2017年1月に訪問済み、大野城と対になって、防衛ラインを構築していたようだ。2020年現在に至るまで、西日本(東日本も??)各地の城跡は、ここ数年度重なった集中豪雨により、大小のダメージを受けているが、ここも来訪時には水門跡そのほか限定的に通行止め有り。
浜田城
2018年12月24日
家内と子供を義実家に預け、1人帰宅がてら中国エリア塗り潰し企画。浜田城、津和野城、萩城、大内氏館を目指す。前泊した、浜田ニューキャッスルホテルから朝イチ車で10分足らず。小雨混じりの天候ながら、しっかりとした石垣が印象的であった。かつては城下町はもちろん本丸から見下ろせる港を行き交う海運に対しても威容を示していたと思われる。灯台代わりというか、城の高楼を目指して入港してくる船舶というのに、物凄くロマンを感じてしまう。長州征伐の折に、城兵自ら城を焼却して退散した、と記載あり。死ぬまで戦い抜くのだ!!とは思わないが、100年兵を養うのは〜の考えからすると、とても勿体ない気もする。
大内氏館・高嶺城
2018年12月24日
中国地方クリスマスイブ弾丸ツアー最後の4城め。萩城から、1863年の山口移鎮ルートを辿り、大内氏館へ。時間に追われ、詰めの城である高嶺城の登城のみとなってしまった。高嶺城は大内氏の時代では未完成状態かつ、戦わずして遺棄されたようだ。石垣の残存状態も悪く、余計に復元された大内氏館を訪問すべきだったかもしれない。再訪を心掛けたい。
小倉城
2018年12月24日
弾丸ツアー、最後の締め。案外早く帰福できた為、小倉城にも立ち寄る。とはいえ、17時前に到着となった為、まずはスタンプ押印し周辺を散策。小倉としては、2009年に松本清張記念館と併せて訪問して以来。ここも幕末に長州に攻められた小倉藩が、戦わずして焼却してしまっている。今回のツアー5城のうち、浜田城、高嶺城、小倉城と3城までが同じコースを選択。。。何かと批評を呼ぶ再建天守閣については、デザイナーの方の「破風がなければ天守らしくない、ぜひ破風を付けてもらいたい、あれがなければ観光客に訴える力がない、と強硬に責められるので、仕方がなくくっつけたが、、、」との回想に悲哀が伝わる。とはいえ、戦後高度成長時代における、これも1つのストーリーのような気もする。
萩城
2018年12月24日
浜田、津和野ときての弾丸ツアー3城め。萩には、中学生時の修学旅行で1992年と、家内とのドライブ旅行で2008年に来て以来3度めの訪問。恭順に徹していた時期の毛利家が築いただけあってこじんまりとした平城の印象。ただし、復元CGで再現された資料によると、背後にそびえる指月山の詰の丸まで考慮すれば、一定の機構は備えているのかもしれない。また上空写真を見ると、おおよそ3方向を海で囲まれており、陸路からの敵への守備は備え易かったかもしれない。大政奉還から4年も前の1863年に長州藩は藩庁を山口に移してしまい、萩城としての役割は終焉を迎えたようだ。
津和野城
2018年12月24日
クリスマスイブ1人弾丸ツアー2城め。浜田城から車で下道1時間半ほど。10時前には到着し、ロープウェイ脇でスタンプ押印。時間に余裕があったので、ロープウェイはパスして坂登りで登城。小雨混じりで地盤が悪かったが、案外ハイキング服装の方々も多く歩いておられた。霧で度々視界が遮られる天候が幸いし、切り開かれ平らにならされた山頂部に残る石垣群や、見下ろした麓の風景がマチュピチュ的??に思えて、幻想的なイメージ。
久留米城
2019年2月13日
出張で久留米に行く用事あり、1時間前乗りして訪問。とにかく石垣が立派な印象。近隣学校の遠足にも使用されそうな立地、落ち着いた佇まいであるが、高石垣にフェンス等無く、子供が落っこちやしないかと勝手に心配になる程。本格的に城塞として整備したのは、有馬豊氏らしい。関ヶ原で、南宮山の毛利隊、長宗我部隊に対する、東軍側抑え諸隊の中でも、一際小さな戦力のコマで描かれる人物だが、事実その頃は3万石ほど。久留米入封の際に、21万石の国持ち大名に。後日知った事だが、島原の乱にも70歳オーバーで出陣、原城まで出張ったらしい。断片的な知識が紡がれていったり、思いがけない新情報も知り得たり、このスタンプラリーに参加してから、なかなか楽しいものがある。
中津城
2019年3月30日
春休みで義実家帰省中である家族を幸いに。。。2019シーズンJリーグ第5節AWAYトリニータ戦(1ー0勝利。開幕から2ドロー後の3連勝と!!!結局6位に落ち着いてしまったシーズンの中で、最も夢いっぱいの時期であった)と併せ、大分近隣の残スタンプを回収する1泊2日で巡るツアー(中津城、大分府内城、延岡城、佐伯城、臼杵城、岡城)を企画。

朝8時過ぎに自宅を出発、下道で3時間弱かけてかけて、中津へ到着。この城も観光用として割り切った再建天守を備えているが、付随する資料館の内容が濃く、観ていて飽きない施設であった。2014大河ドラマもあり、黒田如水関連の資料展示は非常に明快で理解しやすい。九州移封直後の、土豪への仕置きは苛烈にも思われ、やや意外な印象を受けた。中津城の完成前に関ヶ原が勃発、戦後の福岡への移封で、中津城は細川家支配下へとスイッチ。この黒田家からの細川家という、武家能力値でいえば最高レベルのリレーによる築城となれば、3大水城(高松城、今治城、中津城)と謳われる城になるのも当然か。
大分府内城
2019年3月30日
大分近隣、残スタンプ回収ツアー2城め。中津城から下道2時間、14時過ぎに到着。ナイトイルミネーション用の鉄パイプ剥き出しの天守閣が、真っ昼間に眺めると、正直ナントモな雰囲気ではあった。しかし府内の名称が示すように、その昔から跡地内に県庁・市役所を抱える今に至るまで、此処が大分の中心部である事に理由はあるのだろう。堅牢さも城の魅力であるが、行政の為の利便性を備えた平地に石垣や櫓が現存している事もまた、魅力であると感じた。気が付けば15時過ぎ、19時キックオフに備えるべく、残りの4城は明日に回し、スタジアムへ移動。
延岡城
2019年3月31日
前泊した延岡第一ホテルを朝8時に出発し、10分前後で到着。季節とあって、今回のツアーはどの城の周辺も、見事な桜の景色であった。いわゆる千人殺しの石垣は圧巻。私の故郷にあった鹿児島の五石橋にも、要石1つ外せば一瞬で破却可能な構造との伝承があったが、そんな事をすれば要石外し役も即死であり、普通は誰もやりたがらないはず。。。だいたい、攻城戦の最中に悠長に要石を外させてくれるものかどうか。。。

そんな伝承はともかく、だいぶ石垣の隙間に草が生い茂っており、少し心配。末永く、その威容を保って欲しい。
佐伯城
2019年3月31日
ツアー4城め。ここも桜に関するイベントを実施中であり、城にプラスしての見応えがあった。山中至る所に、石垣遺構が残るようだが、当時の建築が残る貴重な三の丸櫓門の近辺に、近所の児童らがお祭りで楽しそうに待ち合わせしたり、買い食いして群れなしていたのが印象的であった。
臼杵城
2019年3月31日
前日からの、中津、大分府内、延岡、佐伯と来て、ツアー5城め。小学校時に、父に連れられ石仏を見学に来て以来、30数年ぶりの訪問。もともとは丹生島という干潮時のみ陸地に繋がる島に築城し、周辺を干拓整備して整えた城下であったようだ。明治以降、その海も埋め立てられ外観は大きく変貌してしまい、何よりコンクリート塗り塗りの崖地が残念の極みだが、残存する2つの櫓と季節がらの桜の風景がマッチして、お祭りの気分も加点され、プラマイで大きくプラス、大満足であった。城の遺構としても標準以上だが、桜の季節の登城がおススメと思われる。
岡城
2019年3月31日
中津、大分府内、延岡、佐伯、臼杵と来て、ツアー最後の6城め。1987年前後に、父と訪問して以来であるから、30数年ぶりなのだが、「荒城の月」そのものな記憶と相まって、登城口のカマボコ型屋根がついた石垣や、三の丸高石垣、本丸の縄張りなどなど覚えている箇所も多かった。1つ記憶が不確かなのは、城近くの「荒城の月」メロディ舗装。当時聞いたような、聞かなかったような。。。九州統一を目指した島津軍撃退のエピソードを持つが、その頃はこれら石垣群は、まだ未成だったはず。それにしても、7万石でこの城を築き上げた中川氏。その治世というか、税率が知りたくなる不安の湧き上がってしまう、それにしても見事なお城である。
唐津城
2019年4月28日
家族4人ドライブ旅行がてら、家内が大好き波佐見焼の窯元へ行き1泊。宿泊先のブリスヴィラ波佐見から、一路唐津へ。登城用のエレベーターが備えられているけれども、それほど急階段ではなく、季節がら見事な藤棚を目で楽しみながら本丸へ。海城としての縄張りの巧緻や、遠望した際の威容はともかく、ここも再建天守が史実的にはやや残念な評価を得ているようだ。私の実母が若かりし頃、福岡から級友とバスで再建されたばかりのピカピカの天守を見学に来た事があるそうで、確認したところ昭和41〜2年の頃に模様。そのピカピカさは、今も維持されているように思われる。史実に忠実も嬉しいがその時代その時代のニーズにあった存在意義があるようにも感じられた。
郡山城
2019年5月1日
5/3(金)2019年Jリーグ第10節HOMEマリノス戦(幻の同点ゴールで0ー1敗戦。。。その後の連敗含め5連敗となってしまった。2019シーズンは浮き沈みの激しいシーズンであった、、、)の為に、帰広。こちら、新高山、三原の3城スタンプを狙う。実は郡山城としては、スタンプラリー初発の広島城訪問直後に訪れていた。が、休館時刻であった為、スタンプ押印出来ず。結局6年越しの再訪となってしまった。城域は広大過ぎて全体像が掴み辛い。隣接資料館での模型で、ようやく把握出来た。慣れもあるとは思うが、測量技術等まだまだ定まらなかったであろう築城当時に、縄張り担当者もどこまで立体的に防御機構を把握していたのであろうか。郡山城のように全山山ぐるみといった広域な具合となると、防御側人員が充足していなければ各個撃破されてしまい、結局はコア部分しか守り切れないような気もする。このあたりの実情を、研究家専門家の方々のセミナー参加し、学習してみたい。
新高山城
2019年5月2日
広島市内の義実家を早朝出発、下道2号線を東へ。2007〜2009広島勤務時に、何度も接待ゴルフで通った三原市本郷へに到着。対岸に既存していた高山城から、名将小早川隆景への代替わりを機に新高山城へと移転。竹原小早川家と沼田小早川家統合を目指した、お家乗っ取り謀略の一環であり家臣団心機一転の必要性も分かるが、目と鼻の先ながら険しいトコロから険しいトコロへ渡河して引っ越しは、コスト的に如何かと感じてしまう。余談だが、3年間広島住まいしておきながら、沼田小早川の沼田は、安佐南区の沼田と思い込んでいた。小早川家の始祖、源平合戦における重要キャストの1人である土肥実平が広島岡山エリアの守護に就任、その次代からは小早川姓を名乗ったのだと、関連資料より。
三原城
2019年5月2日
新高山城から小早川隆景の行跡を辿るように、ここ三原城へ。駅近物件もここに極まれりな、まさかの本丸エリア横断の山陽新幹線。新高山城の山腹を貫いている路線といい、致し方無い部分もあるが、やはり寂しい気持ちになる。天守台はじめ、石垣遺構は見応え抜群。小早川隆景が、名将と言われる理由はもちろん理解出来るが、秀吉中国大返しでの追撃中止や、小早川秀秋の引き受け等、考え過ぎ気を回し過ぎでの苦労が多いような気もしてならない。とはいえ、存命ならば関ヶ原の際の右往左往な毛利輝元は見ずに済んだような。そんな妄想しつつの散策1時間弱で撤収。
志布志城
2019年10月13日
南九州の残りスタンプ回収1泊2日ツアー(志布志、飫肥、佐土原、人吉、八代、熊本、鞠智)の1城め。早朝5時に自宅を出発、8時過ぎに到着。宅地の裏山が城跡になっており、民家の合間を縫うようにして登城。アップダウンは軽い登山くらいはあるので身軽な軽装で。集中豪雨によるシラス台地の脆さを知る地元民としては、同じ続100名城の知覧城といい、何故この地形が長年保たれているのかが理解しにくいものがある。近隣の4つの城の総称として志布志城と呼ぶそうだが、散策した内城だけでも6つ廓があり、守備側の相互連携は難しそう。反面、よほど城内に精通した指揮官が複数いた上で戦意旺盛な守備兵が相手となると、攻城側も律儀に1ポイントづつ各個撃破していくしかない。スタンプ設置場所である、志布志埋蔵文化財センターに展示されている模型は、鶴丸城(100名城の鹿児島城)となりの黎明館展示のものとサイズは違えど同じく、血湧き肉躍る出来栄え。小規模なセンターながら、その他の展示物も、志布志の港が交易の重要ポイントであった事が伺える好資料館であった。
飫肥城
2019年10月13日
志布志城から車で2時間かからず。本日2城め。父親と1987年前後と、2009年前後の2回訪れている。飫肥は小藩ながら偉人が多く、西南戦争で西郷側に加わった(巻き込まれた?)諸隊の中でも高名な小倉処平や、日本史のポーツマス条約締結や不平等条約改正で習った小村寿太郎らを輩出している。3回目となる今回は、スタンプ押印と城内散策のみに注力。飫肥杉が林立する本丸跡は、朝の連ドラロケ地(2004年度後期わかば)であったのも納得の、静粛な佇まい。反面、城単体としての戦闘力が把握し辛いが、伊東氏と殴り合いをしていた時期の島津氏では、ここまでの兵站維持(鹿児島・宮崎県境は、なかなかに急峻な山また山)も含め、なかなか手を出し辛かったのではなかろうか。
佐土原城
2019年10月13日
志布志、飫肥と来て、2時間足らずで到着。本日の3城め。登城路の一部がここ数年の豪雨続きで崩れており残念。ただ、登城路の両側切り立った崖上部からの攻撃を意図した造りは、存分に味わえる。島津家久という某漫画での神降りイメージが強過ぎてしまっている猛将が治めていたにも関わらず、薩摩関連では、佐土原氏族は弱いというような記載が散見される気がする。義久、義弘贔屓の関係者に貶められているだけなのか、それとも??これまた別の漫画の影響で、首置いてけ的な島津豊久だらけの展示物だったらどうしようと考えていたが、落ち着いた城跡&展示内容でひと安心。身内にもファンが大勢いるので普段は言い辛いが、オールスター勢揃い的な漫画はやや苦手。。。
人吉城
2019年10月13日
本日の4城め。佐土原を13時半に出て、宮崎熊本間を東西に下道横断。2時間ほどで到着。事前の印象として。球磨川とその水を引いた濠の佇まい、残された石垣の小綺麗さから、如何にも西郷軍の巻き添え食って焼き払われそうなイメージを持ってしまっていた。が、焼失したのは幕末期であったことを知る。西郷さん、すみません。脱線してしまうが、個人的には郷土の偉人といわれる西郷ファミリーはじめ、土佐長州も含めどうも維新志士が好きになれない。かといって佐幕かと言うとそうでもない。みんな盗んだバイクで走り回ってそうで、小市民感覚では理解し難い気がしてしまうのだ。

関連資料で城主であった相良氏は、さっくりと島津氏に併呑されたイメージを持っていたが、案外に戦国末期まで持ち堪えていた事、秀吉に交渉し大名として復活した事、関ヶ原でも上手く西軍から東軍へ立ち回り領土を維持した事を知る。
八代城
2019年10月13日
志布志、飫肥、佐土原、人吉と来て本日5城め、最後の駆け込みで16時半到着。本丸内と堀周りを1周。お城のイメージどうりのお城。1国1城と習ったはずだが、の疑問が解決。数少ない例外だったとは。徳川治世で同じ九州エリアの外様大名でも、永く治世を許された福岡の黒田家と比べ熊本の加藤家は早々に。。。後釜の細川家はそのまま200年続いたのとも対照的。直前の人吉飫肥と同様、八代氏族も西南戦争に巻き込まれた印象あったがむすろ政府側に組みした氏族も多かったとか。ここでも各種資料が、大変勉強になった。そのまま、熊本城下へ移動、明日の2城(熊本、鞠智)に備えて宿泊。
熊本城
2019年10月20日
前泊した第二サンライズホテルを出て、駐車場の開く8時から登城。熊本地震からの復興も進み、天守閣周辺が部分公開となり、なかなかの人出であった。1986年頃、母型の親戚宅にお邪魔した時以来。その時の、故郷の鶴丸城と比べてひたすら石垣がデカイ、という記憶がある。今思えば、人生でいわゆるお城らしいお城を見たのは、この熊本城が最初ではなかろうか。これだけの規模の城郭が維持されてきて、予期せぬ天災に遭ってもまた再建しつつあるという事実が、凄い事。完治の際には、必ず再訪したい。
鞠智城
2019年10月20日
志布志、飫肥、佐土原、人吉、八代、熊本と来て、ツアー最後の7城め。天気の良さもあり、非常に珍しい八角形の再建櫓が見栄えも抜群。隣接する資料館も、朝鮮式山城について分かりやすくまとめられていた。再現VTRに出演されておられたお父さんとお子さんが、妙に微笑ましく印象的であった。反面、古代政権により配置された防人の苦労が偲ばれる。。。
原城
2019年11月3日
自宅を早朝4時出発、福岡市内から三瀬トンネルを抜けての下道経費節減ルート。7時前には到着。海沿いの道を車で走ると残り1キロあたりから、この地形は城跡だな、と分かる。なだらかな丘陵が海に向かって広がり海側は断崖。広大なスペースに、三の丸⇒二の丸⇒本丸と標高が少しづつ上がっていく。登城路はその真ん中を進んでいく。太平の世に慣れた幕府側が攻城に手間取った等々の記述を見慣れていたが、それならば旧西軍の牢人衆は戦慣れすれどもブランク10数年しかも少数、高齢。初陣ながら現役兵メインの包囲側苦戦要因は他にもあるような。原城がシンプルな縄張りながら広大なスペースを持ち非戦闘員含めたとはいえ3万人を収容し得る要塞であった事(二の丸〜本丸の堀切の中にも、非戦闘員の居住スペースがあったとの解説版があり、ギリギリの収容?)。進軍ルートもシンプルな縄張りと相まって1本道に近いものがあり、防御側兵員の補充も迅速に行えたのでは。そうなると、正攻法で行くにも隙を見て搦手を攻めるも、防御側の目と手は常時充足している状態となる。結局、武器/兵糧が尽きるまでは、防御線を突破出来なかった・・・というのが真相ではなかろうか。
米子城
2019年11月16日
長女が大好きゲゲゲの鬼太郎。家内と2人2008年に来た事のある鬼太郎ロード観光へドライブ旅行。前泊したデスティニーイン境港から1人で早朝訪問した。本丸跡に設置されているスタンプは24時間OKな為、7時出発し20分ほどで到着。城山の麓に造成されている野球場の駐車場に停め、トータル30分ほどで本丸/天守台を1周。天守台石垣は、綺麗に保存されており、小雨交じりの天気と早朝の朝日と相まって写真映えが素晴らしい。スタンプのインク具合を間違えてしまい、判別不明な押印具合になってしまったが・・・。宿のオーナーさんが、“子供の頃の遠足でも、石垣の間近まで行けて、今でもそう。他の城跡では、そうはいかないのでは?”と仰っていたがそのとうりであった。特に、ここ数年間の西日本各地の豪雨の影響の為、登城ルートさえ制限されている城もある中では、贅沢な現況なのかもしれない。
松江城
2019年11月17日
前日の鬼太郎ロード観光からの帰路(宍道湖〜出雲大社)途中での立ち寄り。市街地を見下ろす平山城だが、標高差はそれほどでもない。観光客多く、ガイドさんが登城路途中の石垣にあるハート形の石を指し示しておられた。2009年に、母とドライブ旅行で訪れており再訪となる。国宝5城(他は犬山城、松本城、彦根城、姫路城)としては初スタンプとなる。内濠に舟を浮かべての遊覧観光や、城内での火縄銃デモ射撃を行ったりしていたが、車内に家族3人待たせていて帰路も急ぐ為(結局は、山陰道〜浜田道or山陽道で迷った挙句、事故渋滞に巻き込まれ、遅い時間の帰宅になってしまった・・・)、城内散策はトータル30分で退散。
小机城
2019年11月29日
Jリーグ観戦(AWAYベルマーレ戦)にかこつけて、1泊2日で南関東6城の押印を目指す。新横浜のフジビューホテルに前泊し、朝6時に移動開始。3年前まで近所に住んでいた(岸根町)ので土地勘は有り。毎日のように仕事で通っていた、第三京浜に立ち割られている現状だが、当時は丘陵にしか見えなかった。が、最近の城通いの成果?により、近付くにつれこの地形は昔は砦が造られていただろうな、と思えた。コンパクトながら空堀の深さと幅は、各種記事にあるとうり。以前読んでいた、歴史群像・小机城記事によると、少ない現役兵で以って長期籠城を目指す意図を持った構造である、と。ただ、状況が異なるとはいえ八王子城や滝山城でさえ、強勢の攻囲軍には厳しかった事を考えると、もしもの際にはたして、どれくらいの期間を稼げただろうか。城内斜面に群生した孟宗竹を保護する旨、立看板があり、後北条氏時代には伝来していないのでは?との疑問と併せ、地盤劣化になりそうで少し不思議に感じた。スタンプは近隣の城郷小机地区センターにて平日9〜21時まで押印可。7時過ぎには登城完了した為、この後、滝山城→江戸城→品川台場と回って戻り、夕方の押印となった。
滝山城
2019年11月29日
1泊2日で南関東6城ツアー2つ目。7時過ぎに小机城最寄りの小机駅から横浜線で八王子→都営バスに乗り継いで到着。平日の9時前とあって、人もまばら。土塁空堀で囲った後北条氏らしいイメージ。但し、城域は広く、砦の規模ではなく歴とした「城」であると感じられた。虎口の解説や、良好な現存状況から、その機能性が良く理解出来た。本丸への曳き橋といい、見どころ豊富。個人的には、多摩川の渡し(当時は、水運の要所であったらしく、滝山城の立地要件になっていたそうだ)を遠望できる中の丸からの見晴らしが、往時を偲べた感有り。思い出深い。この後、江戸城へ。
江戸城
2019年11月29日
滝山城を11時前に出発、都営バスや京王線を乗り継いで、昼前には東京駅。平日とはいえ週末金曜日、流石に観光客や皇居参賀の方々多く、警官の交通整理もあり、なかなか進まず。二重橋かいわいをじっくり見たのみとなった。改めて地図やパンフレットを広げて見るに、往時の山手線内外の総構えは、間違いなく行政庁兼要塞としては国内最強。箱根の嶮はともかくとして、各地と連携の上江戸城に本気で籠られれば、薩摩長州側もどうなっただろうか。
品川台場
2019年11月29日
南関東1泊2日6城ツアー初日のラスト。江戸城から徒歩移動&モノレールでお台場へ。天気が良かった事もあり、青空と海浜のコントラスト、風の音まで素晴らしく感じられ、何枚も写真を撮ってしまった。往時とは、海岸線も異なりイメージし辛いが、海防の最終ラインを手探りながら必死に築いたと感じられた。重機のない時代の、干拓埋立事業は気が遠くなる思い。

かれこれ17年半、横浜住まいであったにも関わらず、お台場は(おそらく)5回目くらいの訪問。少し勿体ない事をした気分。天気が良いならば、家族旅行の際にも再訪したい。バスで品川駅、そこからJRに乗り継いで、新横浜に戻り、早朝に登城を先に済ませておいた小机城スタンプを押印。新横浜フジビューホテルで2泊目、明日の小田原2城に備える。
小田原城
2019年11月30日
今回の旅程(J1リーグ33節AWAYベルマーレ戦0-1・・・)5/6城め。朝6時に新横浜フジビューホテルを出発、新横浜〜町田〜小田原の経路。今まで数回、訪れた際には、“裏口”から天守閣へ直接行っていたようで、今回は大手門からの正規ルートから登城。以前は小規模な動物園(ゾウ?ライオン?)があった気がするが、今はニホンザルの飼育ゲージがあるのみ。前日からの小机城~滝山城といった北条氏の城跡を見て来てみると、復元天守や銅門、各石垣といった今に残る近世的な城構えには違和感アリ。それもそのはずで、ほぼ徳川治世時代の城郭だそうだ。平山城とあるが、現状の地形では平城に近い印象を受けた。全長9キロにわたる総構えを巡るツアーもあるそうで、いつの日か。。。
石垣山城
2019年11月30日
今回の旅程、最後の6城め。直前の小田原城から、巡回バスうめまる号で20分前後。かなりの坂道であり、徒歩ならば最寄りJR早川駅から40分以上の道のり。築城の際の石垣の運搬を想像するだけで、当時の人件費・秀吉の権勢・穴太衆の技術力etc、気が遠くなる思いがする。バス降り口から早々に、かなりの規模の石垣がそびえ立つ。関東での度重なる地震や、江戸城補修材としてだいぶ崩されたそうだが、城内各所にまだまだ現存している。今回訪れてみるまで、突然現れた一夜城に驚いた北条方が、小田原評定の末に降伏云々といった記述に、あまりにあっけないのでは?という違和感を持っていた。が、包囲3ケ月の末に続々と支城を落とされ、石垣山城が現出する直前には落とされた八王子城から首級や捕虜が小田原城前線に送られ晒されたといった状況を考慮すると・・・。関東初の総石垣の城という記述も度々目にしていたが、前日からの小机城~滝山城〜小田原城といった土塁&堀切を見慣れた後に現地に立ってみると、包囲3か月の末に、初見となる近世城郭を仰ぎ見る事になれば(且つ、一斉に包囲射撃等を加えたらしい。)“心が折られた”のも仕方が無いと実感出来た。
鬼ノ城
2019年12月27日
福山城から移動(15時過ぎ〜16時)。設置資料にのべ数十万人の労働力動員と推定の記載あり。城巡りのつど感じる時代ごとの人件費の安さよ。ヤマト朝廷の時代は、戦国よりも労働力搾取が多そうな。。山頂部全周に渡る石垣や土塁(高さ40メートル超!)、その内周に敷き詰められた幅1メートル半以上の敷石、尾根突端の防備を固める為の折れ曲がり石垣(攻囲側や、支配地域への示威が本命の目的か??)など、凄まじい労働力の結晶。同じくビジターセンター展示資料にあった、昭和30年代の河川堤防の、造成作業写真。大人数で一列に並び、土を踏み押し固めていく作業写真。その作業工程と類似している可能性があるようだ。いずれにせよ、非常に固く強い構造との事。登城しながら、何故ここに築城したのか?という疑問が生じる。頂上から一望出来る、瀬戸内海対岸の屋島城や眼下に見下ろす総社平野との立地関係もさることながら、標高400メートルとはいえ、急峻な地形に加え、山肌は岩が多く、削り出しての石垣や敷石への転用が容易な点etc。解説版を読みながら夢中で散策していた為、気がつけば日没。暗くなりゆく山中は不気味。焦りながら、撤収となった。
福山城
2019年12月27日
池田市の義理姉宅に遊びに行っている嫁子供を迎えに行く7城巡りツアー第1弾。1040福岡出発〜1430到着いわゆる駅近物件で、現代に到るまでの交通要所を押さえた立地と思われる。新幹線が城域裁断真っ二つの三原城や、真下をトンネル掘られた新高山城といい、山陽道界隈はJR絡みが多い。。。
隣接する神社や、公園施設の石垣は、当時のものなのだろうか?石垣の高さや、堀の残存(筑後川が近いという条件はあるが)には劣るが、全般に久留米城に似た雰囲気に思われた。次の鬼ノ城(スタンプ設置のビジターセンター)が、1630リミットなので、そそくさ移動となってしまった。
赤穂城
2019年12月28日
赤穂市内のホテルニュー浦島に前泊し、朝1で訪問。
折れを多用し直線部分を短くした縄張りが特徴、との事前知識があったせいか、比較的小規模な城を、技巧に凝って仕上げた趣に感じられた。
赤穂浪士に影響を及ぼした山鹿素行というか江戸期軍学者への疑念?のせいで、その技巧の実用性がどうしても疑わしく思えてしまう。山鹿素行は千石とりとして赤穂藩に召し抱えられていたのは10年間だけで、その後に幕府から謹慎を命じられ、かつての縁もあってか赤穂藩預かりになっていたそうだ。自分個人の軍学者への疑念は、司馬遼太郎の小説の影響から、かとも思い、公平な判断が難しいが。。。

三角州に造られた海城というだけあり、城下町の水路も整備されていた遺構もあり、縄張り以外の見どころも多そう。忠臣蔵も実像は謎だらけと思われるが、大石良雄宅が一部現存しているのに対して、大野九郎兵衛宅は完全に消失・畑になっていたのが印象的だった。
姫路城
2019年12月28日
池田の義理姉宅まで、嫁子供を迎えに行く今回のツアー、4/7城め。

三ノ丸広場からの眺めは圧巻。天守閣と小天守群が集中して保持されているのは、(もともとの築城思想の相違??)地震被災前の熊本城も凌ぐとも思われる。近隣町並みの中にも一部石垣が現存しており、今はもう残らない総構えとしての威圧感は、江戸城にも似た雰囲気。

そのぶん入館料も1000円と最高級。今回はパス。。。
明石城
2019年12月28日
ここも駅近物件。下道のみで、赤穂城〜姫路城〜明石城〜池田市に15時くらいまでには到着mustという、スケジュールに追われていたせいもあり、何より駅前駐車場からの眺めが、外観の威容のみ感じられる立派な石垣が、悪い意味で徳島城(もちろん徳島城の魅力もある)と似た雰囲気を感じた。

が、予備知識無しで訪問したおかげで、高石垣で連結した2つの櫓の威容に驚き、じっくり見入る事に。帰宅後に、阪神淡路の震災で被災しリカバリーされた事、もともと建築されなかった天守閣に用意された天守台は熊本城をも凌ぐ規模である事、諸々を知る。。。
備中高松城
2019年12月29日
10時に岡山を出て、家族四人で下道30分足らずで到着。周辺地形からも、本丸周辺を囲むように現存する蓮池(訪問当日は冬季のため泥地状態)からも、低湿地帯に築城←水攻め、とイメージしやすい。

廃城になったかと思っていたが、江戸期も代官所(旗本が治めていた?)があったようだ。
岡山城
2019年12月29日
朝9時からスタンプ押印可、そして大阪帰りの家族と前泊したリブマックス岡山のチェックアウトが10時、である為、8時過ぎに片道徒歩15分。街並に石垣が残っているが、戦災による焼け跡の為、赤黒く変色。。。当然、再建された天守閣ながら、もともとの『烏城』のイメージどうりの再現。近づいてみると、プラスチック感が感じられるも、むしろ不思議とマッチしていて、綺麗な印象。

宇喜多直家時代〜関が原前後と、築城年代は幅があるも、当初から石垣規模はかなりのものだったようだ。直前に訪れていた、土塁空堀メインの後北条氏の城との差異がより大きく感じられた。土塁空堀が、防御に劣るとも思わないが、壮麗な外見からの権力誇示となると。。。いずれにせよ、穴太衆の組織規模、人員構成、動員力、人件費etc謎だらけ。
月山富田城
2020年3月9日
昨年末の備中高松城いらい久々のトライ。今回は、転職に伴う有給休暇を活かし、中四国の残スタンプ16城を3泊4日での塗り潰し登城ツアー。@月山富田城A備中松山城B津山城C鳥取城D若桜鬼ヶ城E出石城/有子山城F竹田城G黒井城H篠山城I洲本城J引田城K勝瑞城L一宮城M岡豊城N河後森城O能島城を目指す。朝3時半に福岡の自宅を発つも、濃霧と眠気に妨げられ到着は10時過ぎに。時間に追われての言い訳から、“1番標高の高い”駐車場からの登城路をチョイス。本日は上記の@ABへ同じアプローチとなったが、やはり城は城下町平野部からのアプローチでないと真価を問えない気がする。後悔要再訪。七曲がりや大土塁といった遺構は圧巻。今までは“3方を断崖に囲まれた自然の要害”といった各種城塞の記載を見ても、搦手からの夜間少数精鋭の侵入に耐えられるのか?との疑念が尽きなかったが、それは認識不足と実感。月山の搦手は極少数の立哨で事足りる断崖でした。一方で、尼子氏→吉川氏→堀尾氏と時代も変遷するなか、その他各遺構も含めいつの時代の物なのか判断し辛かった。いずれにせよ、万人の籠城兵力を抱え込める大城塁なのは間違いない。
備中松山城
2020年3月9日
16城ツアー、2城め。平日訪問の強み(土日は、中途からマイクロバスor徒歩の2択となる模様)を活かし、最上部駐車場まで自家用車で。そこから徒歩のアプローチ。直前トライの月山富田城に続き、時短は叶ったがやはり後悔。かつての大和高取城のように、最寄り駅からの徒歩で城下町の雰囲気を感じながらの登城こそ、往時を偲べる気がする。自然の岩盤と連結した石垣や、現存12天守のオーラは語り尽くされているとうり、難癖の付けようがない満足度。純然たる疑問点が1つ。直前登城した月山富田城とも共通のものだが、万人の籠城兵力を抱え込める大城塁なのは間違いないが、適正な守備用員は何人なのだろう?というもの。ここ備中松山城も最盛期は全山要塞化されていたらしいが、1000人前後での守勢が適切なような気がする。これほどの名城でも尚、連絡手段が限られ各守備隊が各個撃破されてしまうリスクが強いのではないか、と考えてしまうのだ。70数城巡りながらも今一つ、まだまだ籠城戦のイメージが持てていない。備中松山城の場合、足軽詰所も本丸近くの高所に設けられており、コンパクトな兵力での籠城を意識していたのでは、と考えつつ下山。
津山城
2020年3月9日
月山富田城、備中松山城ときて、16城ツアーの3城め。サッと見学して、次の鳥取城へとも考えていたが、足がズンと止まりました。再建された備中櫓にて再生されていたDVDにて「津山城は、姫路城や熊本城にも劣らない」との解説があり、そうかもしれないと納得。ひたすら虎口だらけの郭内は、殺傷力&建築破壊力まで備える榴弾が開発されていない当時なら難攻不落だったのでは。さらには郭内面積も広く人員収容に優れ、本丸内にまでも常用井戸を備えており、かなりの継戦能力ではなかろうか。ここで、今日1日での思いつき疑問点が1つ。各城の適正守備要員は何人なのか?備中松山城は、案外1000人規模、但し備蓄が充分で城内熟知した指揮官が複数存在すれば、戦略的な存在となり得そう。月山富田城と津山城は、1万数千人の籠城兵も活かし得そう。但し、1万人の籠城兵というのは、長期的には有り得ないような気もする。勝勢なら自然に野戦軍となるだろうし、万人を籠城に追い込むような破格の攻勢を誇る敵を前にするならば、万人とはいえ守兵側が士気瓦解して自然消滅していきそうだ。考えるに、あまりに広大な守備城塁はそのコストにそぐわない気もする。。。
鳥取城
2020年3月10日
前泊のドロップイン鳥取から、朝1で登城。鳥取城といえば、吉川経家。漫画センゴクでの描写には痺れました。。。とはいえ、鳥取城歴代城主により残された遺構も混在しており、いわゆる飢え殺しの際のものは、どれほど現存しているのか?そういった意味ではスタンプ設置場所で頂いたパンフレットを事前に入手していれば必ず訪問したのに、と激しく後悔したのが「太閤ヶ平たいこうがなる」。秀吉の産み出した大土木事業の1つであり、単なる監視哨としての付城ではなく、ターゲットとなる城に向けて強力な圧を醸成する、文字どおりの陣城だったはず。鳥取城背後にそびえていた事に気づかず、今回は未訪となってしまった。次の若桜鬼ヶ城へ。。。
若桜鬼ケ城
2020年3月10日
前日の、月山富田城、備中松山城、津山城、今朝1の鳥取城に続き今回の16城ツアー、5城め。あいにくの雨のせいで、水に浸された苔に、溜まった落ち葉と湿りきった泥土という悪条件のなか登城。100パー自己満で購入したW
ESCOジョブマスターがようやく実用品として役にたった。。。今回のツアーはたまたま山城が多いが、もちろん眺望が素晴らしい。だけでなく、見るからに要所要衝を押さえた築城ポイントばかりだと実感出来た。事実ここ若桜鬼ヶ城も、パンフレット曰く、但馬と播磨の境に睨みを効かせていたそうな。また、山頂部石垣は圧巻だったが、一国一城令で破却された遺構だとか。用語としては「破城」が正しいようだ。破城なんて、厨二病罹患者が繰り出す技のようだ、、、。
出石城・有子山城
2020年3月10日
小京都と称されるだけあり、上品な佇まいの街並みに完璧に溶け込んだ隅櫓二基がインパクト大。ただ、回り込んで後ろから見ると、その櫓がナニかハリボテのような。。。昭和期の模擬建築らしい。なるほど。。。とはいえ昭和43年ともなると、それはそれで遺産とも思えてくる。いずれにせよ、景観も意識し街作りと共にしっかり考えた為政者が建てた城なのだと思えた。また後刻に気が付いたのだが、居住も兼ねた出石城に、詰めの城として追加された有子山城という役割分担だと思い込んでいたが、築城時期からは逆なようで、まず有子山城があり、その後行政庁として出石城が追加されていったようだ。
竹田城
2020年3月10日
出石城/有子山城からの竹田城。九州出身者としては、竹田城といえば岡城の別称であるイメージ。であるが、今や全国的には天空の城の称号と共に竹田城といえば此処。まあ岡城には荒城の月のいわれもあるから、、、と思いつつ作詞の土井晩翠は仙台城をモチーフにしていたな、と思い出した。「天空の城」を目前に、「荒城の月」をセッセと検索、、、結果、土井晩翠は仙台城に加え九戸城や富山城、七尾城からもインスピレーション受けていた可能性あり。かたや滝廉太郎も岡城だけでなく富山城にもオマージュしていた可能性。。。もはや「荒城の月」は、両雄に影響与えた富山城が相応しいような気も。。。岡城好きとしては、やや落ち込みつつ中腹駐車場から登城。コロナウイルス騒動に加え強めの雨のせいか、主郭見学時は貸し切り状態。城主、赤松広秀の負けっぷりが良いせいか!?遺構そのものも傷んでおらず。贅沢な時間を過ごせた。頂いたパンフレットを見るに、秀吉の但馬攻略は10年越しの成果。明智光秀の丹波攻略も然り、包囲網下にありながらジワジワと近畿圏をとりこんでいった織田信長とその旗下は、やはり強者だったのだろう。思いを馳せつつ本日の締め黒井城へ。
黒井城
2020年3月10日
本日の5城め。昨日の3城と併せると、16城狙いの今回のツアーとしては、ちょうど半分となる。夕暮れ迫るなか、16時半に到着。まずはスタンプ押印。城そのものは、山頂部を平らにカット削平地とされているので遠望の段階ですぐに分かる。今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の宣伝もあり、あちらこちらに丹波の赤鬼さんと明智光秀の幟が立てられていた。ゲームの影響もあってか、最近注目を浴びる赤井直正だが、黒井城からの眺望は流石に良好。まさにここから丹波いっこくを睥睨していたのだろうと。
福知山城
2020年3月11日
今回企画していた16城塗り潰しツアーの予定には無かったが、昨日登城の竹田城や黒井城から案外近いぞ、と、今さら気付き。黒井城近くのフジヤホテルをチェックアウトし朝イチでの登城を狙った。9時開館に合わせ8時過ぎから周辺散策を、と考えていたが様子がおかしい。コロナウイルス騒動がここにも及び本日から福知山城や周辺施設が臨時休館となってしまっていた。「麒麟がくる」で盛り上げていきたい時期であろうに、気の毒。福知山駅北口の観光協会でスタンプ押印、せめてもの貢献にとお土産を購入。城郭そのものは、時代考証をしっかりと行ったうえでの再建天守と、光秀時代からの転用石の解説版や展示等々しっかり備わっていて、満足。城内にむけて架かる近代的な大きなカーブを持つアーチも、むしろ景観にフィットしていた。これが徳川家臣団ゆかりの城ならば、イメージを損ねてしまうような。。。織田信長のダイバーシティに富む、むしろ富み過ぎた家臣団の中でも、そのマルチな才能は最右翼と思われる明智光秀。主君殺しのマイナスイメージは大きいとはいえ、時代背景も加味した再評価が進行しているので、個人としても素人なりに今年1年楽しんで考察してみたい。
篠山城
2020年3月11日
本日のノルマ、福知山城→篠山城→洲本城→引田城→勝瑞城→一宮城。その次鋒として登城。印象としては要塞そのもの。図面でみても現存遺構を眺めても、直線多用の高石垣&濠を幾重にも備えている。築城は、関ヶ原と大坂の陣のあいだ1609年との記載。既に1603年に幕府を開いているので、武家の棟梁として堂々と“天下普請”を命じているわけで、こんな要塞を西国との間に築かれては豊臣家も身動きが取れない。この時期の徳川幕府と豊臣側の関係性は、本当のところどうだったのか。恭順姿勢を少し強めに見せつつ、大大名として生きる術があったようにも?淀殿のプライドが豊臣家を滅ぼした的講釈が今だに語られる時もあるが、淀殿が講談デフォルメされた愚かな女性だったのなら、もっと早くケリがついていたと考える。いずれにせよ、こんなものを幕府に造らせられている以上、もう大名クラスはピクリとも出来なかったはず。しかも城内解説版によると、いったん建築された他の施設にも破却された可能性があるとか。豊臣滅亡後は用済みとの判断によるものなのか。いずれにせよ徳川家による諸大名への絶大なハラスメントの結晶と思える。
洲本城
2020年3月11日
本日の3城め、今ツアーの11城めとして登城。瀬戸内海に架かる3基のうち、尾道⇔今治、倉敷⇔坂出は何度か渡ったけれど、明石海峡大橋は初。という訳で淡路島も初。渦潮がこれほどとは、正直怯みました。帆走や人力操舵では、あれをどう制御すれば良いのやら。。。今ツアーラストの能島城も楽しみになった次第。
遺構としては、著名処ではあるがやはり、登石垣がユニークに感じられた。また武者走りと武者溜まりの遺構もしっかり残されており、往時の戦闘力が偲ばれる。予備兵力の待機とその速やかな展開が図れないなら、どれだけの門や濠、石垣でもその価値が半減してしまうだろう。
模擬天守は賛否両論あるようで。たしかに台座の下にタヌキの置物が似合いそうな雰囲気ではあった。反面、歴史好きというか時代考証的なものを重視し過ぎるのも良くないようにも思われる。ある一定数の、地元の方々や観光客のシンボル足り得るなら、それで良い気もする。ただ、資料を読み直すと昭和天皇即位に合わせ建築したようで、それならばもう少しだけでも頑張って欲しかったかも笑。
引田城
2020年3月11日
一昨日の3に、昨日の5、本日の6に、明日の3。年のせいで何度も何度も数え直さないと忘れてしまう。。。そんな6のうちの4城めとして登城。直前の洲本城や、かつて訪れた浜田城や志布志城と同様に、支配下である港から仰ぎ見られるシンボリックな往時であったのでは。
遺構の保全状態や、城郭としての元々の堅牢さはともかくとして。城内各所で待ち受ける今年の干支からのメッセージが素晴らしい。40代には堪える旅程のさなか、元気回復しました。こういった催事は地元の方々のお力添えあってこそであり、であれば財布が許す限り、綺麗にお金を落とさせて頂くべきと再認識した。
勝瑞城
2020年3月11日
酷評の数々を読んだうえで、なお正直ビックリはしました。整備未だの空き地にプレハブの資料館、コロナ騒動で暇をもて余す地元サッカー少年がロングキックの真っ最中な跡地。それでも、海1つ隔てた近畿圏に権力と権威があった時代において、阿波という国の存在感がいかほどであったかと考えるに。。。現代人には想像し辛いが、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」では、主人公明智光秀の前半生において、足利将軍とその側近連枝、三好家や松永久秀がキーマンであるはずで、視聴後は、近畿圏と徳島県の距離感が少し違って感じられるのではないかと、期待しています。そして、その感覚を持った後にはなりますが。我らサラリーマンの一定数が未だに酩酊させられ得る司馬史観から描かれた、或いは、漫画センゴクに描かれた。そのどちらが実態に沿っているのか、十河存保そごうまさやすの検証も含めて、今後の発掘整備に期待大と考えています。
一宮城
2020年3月11日
本日の6城め。日もある程度長くなってきたこの時期でもあり、(一応)24時間アクセスフリーを活かして、17時過ぎの到着。とはいえ、あの竹田城でさえ(瞬間的には)貸切状態になってしまう程の、今回のコロナ災厄&雨模様&平日、という条件下。こちらも人の気配すらない時間帯でもあり、山中で中年男が頓死→→→翌朝地元の方に迷惑をかけてはと、家族と友人に一報入れてからの登城としました。急峻な山城で息が上がる、という程ではなく、城域各所の解説板(曲輪、竪堀、湧水etc)も参考にしつつ学習出来る。ただ竪堀をはじめとして、解説板無くしてはイメージし辛い現状でもあり、資料を事前に読み込んで城域全体のイメージを持ったうえでの登城であればより理解しやすかったと反省。洲本城→引田城→勝瑞城→一宮城と、仙石秀久、十河存保、長曽我部元親らによる押し合い圧し合いの舞台を垣間見れた気になれた。今ツアーも、明日がラスト。岡豊城→河後森城→能島城を目指す。
岡豊城
2020年3月12日
3泊4日の今ツアー最終日、まずはここから。前泊したホテルタウン錦川をチェックアウトして、高知市内から車で20分ほど。残念ながらここでもコロナウイルスが先回りしており、楽しみにしていた記念館は臨時休館。「遠流の地、高知」という非常に興味深い展示もあったようだが、、、「鎮西」と言えば聞こえは良くとも、それは鎮西八郎為朝といったいわば伝説の豪傑英雄(今なら社会不適合者)の成したものであり、九州出身者としては、古来の政権者から九州/四国がどう見られていたのか、気になるとこであり見てみたい企画展であった。
ここ岡豊城は、城としてはシンプルに感じられた。平野部を見下ろす丘陵に築き、堀切と曲輪で防御力を高めていく。個人的に気になったのは、築城のポイント。睨下に見られる豊かな高知平野を抱えるように築城した長曽我部家らが慧眼なのか?
前日登城した引田城や一宮城と比較して、格段に豊かな城下を抱えるように感じられた岡豊城。それは、もともとの平野部が豊穣だったからなのか、それとも領主の治世が適正で豊かになっていったからなのか?四国を巡ってみて、疑問に感じた事項であり、改めて勉強してみたい。
河後森城
2020年3月12日
中国四国(プラス京都の1城)17城を塗りつぶす最終日、2城め(岡豊城→河後森城→能島城)。下道でノロノロ3時間ほどようやく到着。案内板が分かりやすく、それを整備維持されている地元の方々に感謝。岡山の鬼ノ城でも解説版に記載してあったが、石垣防御が確立されていない時代に土塁の機能をどこまで高めていくか、、、1000年に近い時代格差(防人の時代から戦国の時代まで!)はあれど、先人の工夫に頭が下がる。。。
関ヶ原前後には天守閣があり、宇和島城に改築されたとの伝承もあるとのこと。こちらの真偽は、はたして。。。
いずれにせよ、戦国時代の西日本の大規模山城の1定型として頭に入れておきたい名城でした。
能島城
2020年3月13日
月山富田城→備中松山城→津山城→鳥取城→若桜鬼ヶ城→出石城/有子山城→竹田城→黒井城→福知山城→篠山城→洲本城→引田城→勝瑞城→一宮城→岡豊城→河後森城→ここ能島城でラスト。前日来すべての関連施設が臨時休館となるなか、ここ村上水軍博物館は開館しており、有難かった。このコロナウイルス騒動も、インフルエンザや細菌感染にも一定の殺傷力があることを考えるに、少し警戒しすぎのように感じられ、、、。
今まで、村上水軍はじめ日本の水軍というものの存在感が掴み辛く、厳島の戦いや、毛利vs織田の戦い、小田原城攻防はあれども、少しローカルな存在に感じていた。が、先日の明石海峡や、ここ能島城エリアにおける潮流の激しさを実際に眺めていると帆走や人力操舵の時代での水軍の存在感は確かに大きかったのだろうと、実感出来た。
今回の17城ツアーは、ここで終了。福岡市内帰宅までで総走行距離2200km弱であった。
小谷城
2020年3月26日
転職に伴う有給休暇消化ラストウィーク。@小谷城A鎌刃城B彦根城C安土城D観音寺城E八幡山城F大和郡山城G宇陀松山城H赤木城I新宮城J岸和田城K飯盛城L芥川山城を、2泊3日で目指す。麓から登城してこそ、城の真価を味わえるはず、というのが持論であるにも関わらず、上記スケジュールの都合上、また何より小谷城のあまりの規模の為、自家用車で番所跡まで駆け上がってしまった。。。そもそも下調べするまで、琵琶湖畔の城はなだらかな立地と思い込んでおり、まさか山城の揃い踏みとは。。。また、姉川古戦場とかなり近い距離であったのも意外だった。織田側とすれば、姉川の戦いから一気呵成の小谷城攻城(後の朝倉氏一乗谷攻略時のような)を狙いたかったろうが、敗残兵を上手く収容し、素早く籠城体制を整えた浅井氏が踏みとどまったのだろう。3代50年にわたり、コツコツ造作を加え兵站を整え小谷城の防御力を高めていたからこそ、織田信長の正面切っての猛攻に3年間耐え抜いたのだろうと、実感出来る城構えであった。
鎌刃城
2020年3月26日
小谷城から移動。最初に目につくのが、旧中山道の標識。脇を通過する高速道路同様に往時も、交通の要衝だったのだろう。数ある近江の城跡の中で名城選定されるのには、やはり理由があるのだと納得。まずは喫茶源右衛門さんでマップを入手。料金100円とは思えない、かなり懇切な記載内容が心強い。42ガードから、林道へと自家用車で乗り入れ。が、落ち葉と泥土の為、かなりの悪路。脱輪したらと冷や汗をかきつつ、車を留めて駆け足で登城。季節がらか、噂の山ビルにも遭遇せず。各種サイトでの情報量も限られ、郭内整備と併せ、まだまだこれから盛り上がっていく城郭と思われる。城主である堀氏(勉強不足で、初見の氏族であった。堀久太郎らとの血縁関係は無さそう?)の動向が、織田信長と浅井長政の戦いの転換点の1つとなったようだ。その堀氏にしても、同時期に浅井から織田へと降った「十一段崩し」の磯野員昌にしても、その後の織田家中における扱いの悪さを考えるに、戦国部将の転職も大変だったろうな、と思いつつ下山。ツアー3城め、彦根城へ向かう。
彦根城
2020年3月26日
滋賀県のターゲット6城のうち、唯一の平山城。そもそも琵琶湖畔の城郭について、完全なる勘違いをしてしまっていた。豊かな穀倉地帯イメージと共に、その城砦も平野部に築かれていたんだろうと思い込んでいたが、とんでもない。近江エリア平野部の目立った丘陵は、元亀/天正の頃には全て砦ないし城郭化されていたのではないかと思えてしまうほどの、名城銀座っぷりであった。ここ彦根城も、唯一の平山城と言いつつ城構えが広大で、かなりの登城カロリーを要求される。ミニミニミニ江戸城だろうくらいに甘くみていたのだが。コロナ騒動により、全ての建築物は立入禁止。しかしながら、天守閣や天秤矢倉は、外観だけでも十分楽しめるだけの存在感。洲本城で見聞済みの「登り石垣」や、河後森城の解説版で学習した土塁の進化形である多聞矢倉、その戦闘力を最大限に活かす為の「雁木」など井伊直政(四天王、16神将、三傑、赤備えetc)が手掛けた事はある。それにしても入場料徴収時における付属施設観覧券の抱き合わせ販売や、最寄り駐車場の1000円などなど、ややコスト高な、流石は近江商人とも思ったがスタッフの方々の対応はとても丁寧なので、納得は出来るが。
安土城
2020年3月26日
資料館で、観音寺城とセットでのスタンプ押印。併せて展示ジオラマも見学させて頂くに、ほんとに隣接しているといっても過言ではない両城である。山そのものの広大さも地形の険しさも、観音寺城が勝るようにも思えるが、織田信長の存在感を前にしては、これは無意味な比較か。それにしても「本能寺」の際にアッサリ落城、その後も失火?により中枢部分を消失してしまっている史実が残念。豪華絢爛、華美過大で、城本来の機構含めて腺病質な匂いを感じてしまっていたが、再建されつつある城内メインルートを見学するに、意外なほどに骨太なオーラが漂っていた。琵琶湖の水域をはじめとして、当時とは周辺地形も異なるのもあるが、織田信長プラス安土城、この往時の存在感たるや凄いインパクトであったろう。下城後は、すぐに観音寺城へ。
観音寺城
2020年3月26日
1日6城ターゲットとなると、5城めあたりで15時過ぎとなり、つまりは焦りだします笑。そんな中の当城。麓からの登城をモットーと掲げながら、そのプライドの欠片も無く、有料道路を使い中腹の駐車場まで。そこからでも、山寺的階段でかなり体力を削られた。それにしても、これだけの石垣/堀切を準備しながら六角氏、ナゼ戦わずして逃げる!?前哨戦での織田軍の「火を吹くような」攻めっぷりに怖じ気づいたとあるが、全山挙げての城域なら、安土城を上回るほどの規模であるのに。六角氏としての体力が、長年の三好氏や浅井氏との小競り合いでだいぶ磨耗していたタイミングでの織田信長上洛戦だったのだろうか。いずれにせよ、この戦いで信長支配下の東海道は開通、時代は戦国から安土桃山へ。。。
八幡山城
2020年3月26日
2泊3日の滋賀・奈良・和歌山・大阪の残スタンプを回収するツアー、初日のラストとして登城。登りは時短優先でロープウェイ、復路は徒歩。琵琶湖周辺を一望出来る箇所に、これだけの規模の城塁を築いたにも関わらず、わずか10年で廃城とは勿体なく感じた。殺生関白のレッテルを貼られてしまった秀次に対する、負のイメージが強すぎたのはあるのだろうあが。加えて、ガイドブック資料によると、安土城を模したものの(移築された遺構もあったようだ。そうなると安土城は、全焼したわけではなかったという事??)八幡山の険しさがやや強過ぎ、山頂部と麓が分断されがちであったとの見方もあるようだ。もちろん理由があり、築城時はまだ秀吉が家康との決戦前の時期であり、まずは八幡山の防御力を優先しての築城でもあったようだ。秀吉後継者の居城にしては、治世に支障あるような険しさ、、、と登城時に感じたが、後から各種ガイドブックを読んで、納得出来た次第。
大和郡山城
2020年3月27日
前泊した生駒山の「おかげ廊」から朝イチ直行。往時を偲ばせる内堀/外堀や、それに付随しての石垣も迫力充分に思えたのだが、解説版によると、大和国では良質な石材が得難いため小ぶりな石や転用石の使用が目立つのだそうだ。福知山城で覚えた「転用石」だが、旧来の権威否定を狙う目的以外にも、シンプルな理由として城郭ニーズの爆発による「建築資材不足」が大きいように思われる。今の住まいの近く福岡城をはじめとして、各地の城跡で実在が議論を呼び続ける天守閣は、ここ大和郡山城では実在が確認出来たようだ(喜)。登城ルートはコンクリート塗り塗りながらも、今に偉容を保つ天守台には、その入口の1つとして埋門があったようだが、明治以降、文字どおりに埋められてしまった模様。残念ではある。しかし、コンクリート塗り塗りにせよ、明治御一新による旧弊打破/破却にせよ、その時代その時代ごとの事情があっての事。痩せ我慢かもしれないが、議論呼びがちな戦後の模擬天守閣も含めて、100年200年のちには、それもまた遺跡候補ではないだろうか、と。もちろん、捏造されない記録とその保管維持が、前提条件となるだろうけれど。
宇陀松山城
2020年3月27日
2泊3日で滋賀/奈良/和歌山/大阪の塗り潰しを狙うツアー2日目、のべ8城目となる。土地を個人所有されている方の協力あってこその城域整備であったようだが、せっかくの車両乗り入れ路面が昨年の豪雨災害により、再整備中となってしまっていた。コロナ騒動の為、千年舎も閉鎖されており、買い物&登城レクチャー頂いた道の駅からの登城となる。郭内は、既存の土塁機構を時代と共に石垣造りへとグレードアップ?させていったのだろうか、と想像をかきたてられる遺構が数々。見応えアリ。一方で、続100名城訪問後に度々感じる事だが、「県庁所在地」ではなくて且つ、「既に他の観光名所が確立されているエリア」での城跡整備は、諸々の事情もあって難しかろうな、と考えてしまう。城構えの全容が分かりやすく、テキストとして有難い、という意味で翌日の赤木城と共に勉強になった。
伊賀上野城
2020年3月27日
100名城.続100名城あわせての、記念すべき100登城め。もともとは今ツアー2日めは、大和郡山城→宇陀松山城→新宮城と進めていく腹積もりであったが、生憎の悪天候で、楽しみにしていた(4回目の訪問!)十津川渓谷や那智の滝も、楽しみ辛いと判断。まだ未訪であった北陸.東海エリアに足を踏み入れる事となった。それにしても、築城名手の藤堂高虎が手掛けたと伝わる10数城の中でも、ここは高石垣をはじめとして屈指の出来映えではなかろうか。。。高虎といえば、歴史好き(だいたいは、真田幸村大好き&家康嫌い)の多くから、家康ポチとして軽く見られがちだ。しかし転職経験10回近くの経歴からは、現代サラリーマンである我々にも共感を得やすい人物な気もする。一方で、明日訪問予定の赤木城には、一揆を厳罰に処した高虎への怨嗟の声が伝わっているようだ。そのあたりも、資料ガイドブックを眺めつつ、楽しんでいきたい。
多気北畠氏城館
2020年3月27日
小谷城→鎌刃城→彦根城→安土城→観音寺城→八幡山城→大和郡山城→宇陀松山城→伊賀上野城ときて、ツアー10城め。北畠氏というと、南北朝時代の北畠顕家のイメージが強く、戦国の頃には落魄していたのかと思い込んでいた。全くの認識不足で、上洛後の織田信長と殴り合うだけの戦闘力は有していたそうだ。敵せずしての和睦条件として、後の織田信雄を無理繰り後継者として送り込まれ、乗っ取られた。。。倫理常識は、その時代ごとに変遷するものにせよ、信長のやり口は、そりゃあ恨み買うよな、裏切られるよな、と思えてならない。。。山頂の霧山城が詰めの城で、麓の館周辺には、最盛期には万を越える人口を抱えていたそうだ。吉野や京都からの距離感が、丁度良い要衝であったという事か。
津城
2020年3月27日
ここの郭内に立つ藤堂高虎像は甲冑姿、今治城に立つそれは平服姿と対照的なのが興味深い。同日に訪れた伊賀上野城ほどの高石垣ではないものの、今に残る石垣群は存在感抜群。前日の彦根城の井伊家と同じく、こちらも徳川治世250年を同一藩が治め続けていたようだ。徳川幕府開闢のMVP級の両家だが、その終焉の際には、いずれも振るわなかった。それでも井伊直弼が、佐幕側として存在感を示したのに対し、藤堂家は・・・。その点、少し寂しい気がしてしまう。尾張名古屋は城で持つ、とはよく耳にする節だが、正しくは(?)、「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」だそうだ。伊勢参りというものは、娯楽が多角化した現代からは想像もつかない盛況っぷりだったのだろう。
松阪城
2020年3月27日
本日6城め、ツアーとしては12城め。流石に、登城の際の印象・記憶がごちゃ混ぜになってくるので、メモ走り書きをしながらの移動・登城である。中でもこの松阪城は16時過ぎに到着でスタンプ押印もギリギリの忙しない訪問となってしまい、駆け足で城内を1周しただけとなってしまった。とはいえ蒲生氏郷が基礎を築いた石垣は健在で印象深かった。ただ、住宅地や病院に囲まれ、外周部石垣は一般道路に面しているような立地で、よくもあれだけ保全されているものだと感じたのだが・・・。後になって、昭和〜平成をまたいで16年間かけて石垣修繕活動があったのだとか。地元の方々の各種コストのおかげで、あれだけの景観を保てている事に感謝しつつ、時間に追われお礼のお金を殆ど落とせなかった後悔もあり。再訪の際には、松阪牛は無理でもなんらか楽しみたいものだ。
田丸城
2020年3月27日
当初予定になかった三重県エリアを急遽加えた今回のツアー2日目最終地。ここのスタンプ押印は、教育委員会窓口さんの協力のおかげで平日ならば19時までOKというのが、今回の強行軍決行理由でもある。アンケートに答えるだけでステッカーを頂けたり、田丸城に限っても城内整備(解説版・植樹)など、地元と観光客を盛り上げようと関係者の方々の尽力が目立ち、訪問させて頂く身としては頭が下がる思い。南北朝時代の足利vs北畠の激闘や、織田信長&信雄による北畠氏乗っ取りの総仕上げが行われた、凄惨な過去をもちつつ、最後は紀州御三家の領地となり、その統治の余裕が今の落ち着いた佇まいに繋がっているような。加えて、維新以降各地での城郭取り壊しの危機に際して、篤志家が私費を投じて保全に努めるケースがあるが、ここ田丸城では朝日新聞創業者である村山龍平が奔走されたようだ。近年、とかく議論を呼ぶ朝日新聞であるが、その創業者はしっかりとした貢献をなされていたようだ。その「新聞王」の資料館が、コロナの為。臨時休館であったのは本当に残念。郷土の偉人と、現代の関係者の方々に支えられ、本当に愛されている城郭だなあと、感じ入った次第。
赤木城
2020年3月28日
2泊3日の今ツアー、本来ならば滋賀県6城→奈良県2城→和歌山県1城→大阪府3城と割合余裕のあるプランであった。が、ここ赤木城の立地(三重県6城の中では、やや離れ小島である点)から、プラスしてターゲットとした。が、伊賀上野城も大和郡山城のついでに、だとか欲が出てきて結果、三重県6城すべて旅程に組み込む事になってしまった。結果、新宮城訪問のために前泊したホテル光洋から、少し東に戻って三重県最後のここ赤木城へ、朝イチ訪問となった。山あいの集落に、忽然と現れる石垣積みの威容と、比較的コンパクトながらも凝った縄張りで、往時は周辺を圧していたのであろう。それにしても、交通の要衝でも無いこの山中に、ここまでの城砦が必要だったのか疑問が湧く。北山一揆というものが、余程厄介だったのだろうか。「行たら戻らぬ赤木のお城、身の捨て処は田平子じゃ」藤堂高虎に対して残されたこの恨み節の真相はどういったものなのか。伊勢〜大和エリアに対する、織田信長〜羽柴秀吉の統治アプローチを、是非調べてみたくなった。
新宮城
2020年3月28日
赤木城から前泊地の新宮に戻る形で訪問。観光客向け駐車場を見つけ飛びついたものの、城との最短ルートは住宅地に飲み込まれている。結果、海沿いの小道から水の手曲輪を見つけて、やや裏口的方角からの登城となった。海沿いの小高い丘に総石垣の城、郭内からは熊野灘が一望という、統治シンボルとしてお城らしいお城といえそう。最初に足を踏み入れた、水の手から、交易品が荷出しされていたようだ。輸出物のメインは木炭だったそうで、「紀州備長炭」というのは、最近のものでは無かったのだ、と1つ利口に。
岸和田城
2020年3月28日
滋賀→奈良→三重→和歌山と巡ってきた今ツアーも、最終の大阪へ。紀伊方面への備えとして、信長〜秀吉〜家康と権力者は変遷しつつも歴代の城主を戴き続けた城塞だが、なにしろ土地勘が無く、あまりその点の実感が出来なかったのが残念。築城時期はもちろん異なれども、本丸内の八陣図は趣があって良かった。城内各所の案内スタッフの方が、どなたも親切だったのが印象的。
飯盛城
2020年3月28日
登城しようとして気付く。一昨日に宿泊した、生駒山の「おかげ廊」の近場ではないかと・・・。登城順番を間違えた・・・。先の岸和田城でも痛感したが、関西圏に馴染みが薄く土地勘が乏しいのが、歯がゆいところ・とはいえ、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の影響をモロに受けたている自分としては、松永久秀・三好長慶・三好三人衆の区別が今更ついている時期でもあり、正に旬のお城である。大東市と四条畷市にまたがるこのエリアは。南北朝時代からの要衝であったようだ。時間に追われる今回のツアーでもあり、ここも車メインでの登城となっってしまった。南北朝時代の古戦場から三好長慶の史跡まで、ゆっくり時間をとって踏破してみたいエリアである。
芥川山城
2020年3月28日
飯盛城に続けて三好長慶ゆかりの城。16世紀半ば、ここが権力の中心地であったとか。この山城に詣でなければならぬ支配下面々は、大変だったろう。個人的に今まさに旬、三好長慶・松永久秀の展示物に期待大であったが、コロナ災厄により、しろあと歴史館は臨時休館スタンプのみ。非常に残念。近年の研究成果によると三好&松永の実像は旧来の人物評とはだいぶ異なるようだ。「天下」という単語も、当時は畿内5か国がその対象であり、全盛期の三好長慶はまさに「天下人」であったろう。足利将軍家や主君といわれる細川晴元に対する振る舞いで、謀反人のレッテルが貼られているが、その実態はいかなるものであったか。現代企業でも社長交代劇や、課長から部長への反旗など珍しくもなんともない。倫理感も異なる時代、三好も松永もなかなかに人を惹きつける大人物であったのではないだろうか。@小谷A鎌刃B彦根C安土D観音寺E八幡山F大和郡山G宇陀松山H伊賀上野I多気北畠氏城館J津K松阪L田丸M赤木N新宮O岸和田P飯盛Q芥川山、200城スタンプも今ツアーで半ばを超えた。今年は、あと2回(愛知→岐阜、福井→石川→富山)ツアーを組めるよう、諸々頑張ろう。